里人・徳山藩改易騒動「第 十二話」吉元公の襲封から浮石村義民騒動
[音楽] [音楽] 公営4年11月23日津山村のし土間夕の 噴火事上昇によると下月23日朝過午前 10時頃に富士山の周辺で大地震が派生 いたし申し た [音楽] 危ない続けて四時午前11時頃に2度目の 地震が派生し富士山なり響き帯び正しく山 崩れるかと存じろうところ空ら凄まじく 黒くもいで東西の様えば同時に化石グリを それること飛び正しくその石の大きさ あるいは茶はあるいは大天目歩道の化石 車軸のごとく振りモスと書かれてござっ [音楽] たこれまでに富士山の噴火は記録に残る だけで10回ほどござるが略年間と上眼 年間に大噴火の録が残り 申す今回放映4年の大噴火は3度目の大 噴火であり最も大規模なもので文化その ものによる死者こそ記録にござらぬがその 被害は極めて甚大でござっ たこの大分化で富士山はその山陽を買えも したがこれ以後令和の身に至るまで富士山 は噴火していないので ござる [音楽] 富士山が大噴火を起こしたこの日ご講義 より長立本のご 長男がモ領家のご家を相続するお許しが出 たので [音楽] ござる火曜な日にご講義料理医療相続をせ つかるとはなんとも幸先の足こと [音楽] よ 日の神様は徳山から江戸五参金の途中で 大阪倉屋敷にご流なされる予定でござった これに合わせて放映5年3月5日伊藤当該 伊東バ林兵の田が伏から船に乗って大阪へ 到着いたし申し た昨年の6月入りされるひの神様に目通り できな3人はご産婦途中の日の神様に 合わせて再び大阪倉屋敷にまかりこしたの で [音楽] ござる3月7日の八過ぎ午後の2時過ぎ頃 日の神様が徳山森家の大阪倉屋敷へご到着 伊場によるとご商人美並びに国の記述故何 も見もなきにて川ご住吉丸の見物もろうと 記されて [音楽] ござる3月9日になって伊藤当該とバの 兄弟が徳山森家の大阪倉屋敷に再びまかり
こしひの神様に越したのでござる伊東2倍 このは大義であったひの神で あるははあご尊顔を廃し超越死国に存じ ます徳山名称の仕上がりは見事措置の女も 満足じゃひの神改めて霊を申す ぞミあるお言葉超越四国に存じます徳山 名称の素晴らしは問式をはめとする優れ たる作品が言えと存じおります ははは大げさな当該どの世辞はぬでも良い ぞ世辞などとめそもございませぬかような 素晴らし分は早々に集めること叶いませぬ これはひの神様のご教が甘家中に及び しかしと存じたて祭ります礼員のみ様のご 問であられる名古屋様も待てまて名古屋さ が孫いう発心の羽の門となるのは法栄7年 のことじゃこのタイミングで間違いに 気づいたので訂正いたすぞ法栄5年の今頃 だと国新王様の第2王子である広宮様は 例言女皇様のご用紙にもなっておられぬわ えそんな11話でドヤ顔で言うてしまい ましたがな 許せ工事しんのちょんぼ じゃ夜が謝ることではないが [音楽] な放映5年3月25日の神様がごなされ もし [音楽] たご無事のご到着執着に存じますご家様へ の上司派遣は4月13日五郎十井上川の神 様との ことこの旅は要は不快者ご創家のご上し 取り持ちには参らぬゆえそのように 取り計らいこの旅は民部大様のご集による 初の奥に入りなれば小だけは参られるが よろしいかと家のりを認めるわけにはいか ぬヨがのこのことじれば民部の台風の相続 を認めたことにも なろうしかし そのよいもうもうす [音楽] な名古屋門殿様のによりまかりこしました おお名古屋や門参ったか措置の書の評判は 聞きを読んでおるぞこれからもけさを積ん で書の腕前を極めるが良い ぞはありがたき幸せこの名古屋えもなお 位相のけさに尽くし まするヨガ漏話ではそはかなりの悪であっ たらしい のはい恥ずかしながら今から20年ほど前 であったか神業を持ってしても読むこと あたわざるなりとかつら民部様に叱られ ましたそれからは江戸の須藤をまえ門殿の 門人となって超を学び始めたのでござい ますあっぱれであるこの後も諸のけさに 励むが良い
ぞはいお言葉を頂戴し強烈死国に存じ [音楽] ます5月24日ご創家のご家を継がれた ばかりの吉本孝がおとにて徳山森家の神 屋敷をご訪問なされ申し たわざわざ帰国の挨拶に来たのだが神殿は 5病気 か誠に申しございませんお風をお召しでご 創家様にお移しするといけませぬ ゆえ殿様は心所にてお休みでござい ますひの神殿においては先日の幕府合上司 来訪の檻にも病にて取持ちを席されたと 聞い たまさか我が宗法に思うところがあっての ことではあるまい な思うとなどと想もないことでございます 単にご病気の故なれば平にご容赦根がし 存じ ますああそうかいそれではひの神殿に幼女 をなされよと伝え申すが 良い誠に恐れえり立て祭り まする [音楽] 放映5年5月27日吉本孝が中方後初の奥 入りのため江戸をたれ申し たしかし日の神様はまたしてもご不快を 理由にお見送りを跡なされたので ござるやはりなひの神目が徹底して世を 侮る かそうけか中にも世の宗法に不満のものも あろうそのうちにがつんと家中の者どもに けじめをつけねばならぬ [音楽] な 長府モ家の初代ご党首モ秀元の落ち筋で ありご自身のご着なをモ五家の投手に 入れることが叶ってお喜びの綱本でござっ たがこの頃より隊長の不快を訴えられる ようになってござったそして法栄5年の 長府モ量では間伐による共作となったので ござる [音楽] 栄6年1709年1月10日将軍徳川綱 義高が橋が原因でご挙なされ申した今年 646代の将軍には綱義校の兄である府 徳川家のご党首津校の着徳川家の部が48 歳で就任なされ申し たついで2月7日落食して上皇員と合され た未来どの信子様が綱義校のご挙から1月 も立たないうちにお亡くなりになられ申し た去年59シは綱義公と同じく橋であると 言われるので ござる 将軍と未どがあついで救世したことで綱吉 校は信子様と伊豆の壺によって害され
のぶ子様はその後に自害なされたという何 ともな俗説が [音楽] ござる放映6年3月1日江戸御三金中の 長府森家3大投手であるモ元が60歳でご 挙なされ申し た生前綱本校はご自身が江戸でぼした場合 には長府森家の初代党首のモ秀元が埋葬さ れる泉岳寺に埋葬せず遺体を長府に送って 長府において埋葬するようお命じになった ので ござるこれは岳寺において義士と並走れる のをお嫌われになったためと言われるので ござるこれを気に長府モは泉岳寺を避ける ようになり最終的には絶縁にまで至るので ござる長府森家の4代目のご投手は萩そを お次ぎになったモ吉本校のご長男ま郎様後 の元とこが6歳でお次ぎになられ申し た6歳のご手に祭り事は行えず筆頭ガロの 杉の森元殿がご貢献補なされ申し [音楽] たついで3月8日徳山五条家の町屋で大下 が派生いたし申し [音楽] た徳山の町を焼いた大はの東町橋から西の 枝町まで燃え広がり千3爆予見の家が前哨 し無料寺や延久寺などが優勝いたし申し た江戸財府中の日の神様は良民の手厚い 救済を当職の名古屋現場殿に命ぜられたの でござるがこの年より向こう3加年間の 運上銀を免除となされ申し た月に入っても徳山付近で洪水が派生して 20件以上の家が東海入室する被害を出し 申し [音楽] た遡ること放映5年9月この年は間伐の ために長府モのご内では索でござっ た特に筆の杉森本殿の給料地である浮石村 の収穫は半作というあり様でござっ た防長犯百勝一期外観によると正月より 天辺地を打ち続き秋より橋流行して人民 溶接するもの少なからずとあり農民は幻想 懇願しもしたが許されなかったので [音楽] ござる [音楽] 浮石村の勝や藤井門の家は大内氏の家臣で あったが主家の滅亡をきに機能して苗字を 許された商家の家であった格門は公安寺に 農民を集めて意見を聞き申したが元素が 叶わねば勝一期も起こしかねない状況で ござっ た [音楽] 藤井革門は黒と図って前後作をこずること
にしひとまず農民は解散したがや黒の議論 でも妙案を得なかったので ござるそこで門は単長に出いて杉の森中を 訴えて しもしたがこれも聞き入れられなかったの で [音楽] [音楽] ござる追い詰められた格門は念を3つに 分けて収めようと考え申した年の1/3を 100勝に収めさせ 1は門の家と手業を営む門の妻の実家で ある橋本一助に援助してもらい2件で納め 残った1は正文を書いて来年まで待って もらうこの隠門の提案によって法栄5年の 索はなんとか乗り切ることができもし [音楽] た [音楽] しかし杉の森家用人の安の10べは広い田 を持つ百勝野を回って正文を書き換えさせ できるだけ多く情のせよとしいたので米を 隠す家もあったのでござる [音楽] [音楽] H 法栄6年は3大阪綱本が江戸で阻止幼い元 とうが長府家をご続なされ申した杉の森元 殿は洋君のご貢略として江戸にとまられ杉 の森家用人安のべが留守を預かっており 申し [音楽] た しかし法栄6年は幸いにも方策に恵まれ 申し た勝屋の藤井門の家は元々大内市の気で ござったが4人の黒は苗字を持たず角名を つけて呼ばれており申し た黒を務めるわび太郎衛門のわびは明司で はなく門名で ござるわびの太郎衛門の他に黒を務める ものは副の奥原の旧左衛門東の代衛門龍子 の太郎左衛門がおり申し た方策を喜んだのもつの間9月の末になる と安の十兵衛は手下を連れて浮石村を 見回り当家の財政は困窮しておる今年は 方策であるゆえ五郎様はノマの増額を出さ れたと称して2割の増税を申しつけたので ござる 去年猶予された13の尺を納めた上に今年 の年は2割増しとなるゆえ百勝の生活は 去年の共作となんら変わりなくなり浮石村 の村民は下行したので [音楽] ござる門は怖に赴き人の案に元祖のしまた
杉の森本殿の奥方や軍隊にも訴えたが無駄 でござったそしてついに副将や奥原の旧 左衛門と黒の太郎左衛門は長府モ家の老神 屋敷に駆け込みへそすることを決意書上を 携えて恐怖に赴き細川内殿の屋敷と桂ぬ殿 の屋敷に駆け込んだので ござる両家の屋敷にて上を差し出したので ござるが命に関わるハトであるとさされ 訴訟を受け取りになられなかったので ござるこの一件を知った要人の案のは驚き 浮石村に対する警戒を厳しく死し [音楽] た年が開けて法栄7年正月案のは年を納め ない百小夜を回り片創作まで行って米を 取り上げたのでござるこのひどい仕を見た 小夜と黒5人はご講義に直訴する他に解決 策はないと決し別々に村を出て江戸浅草 観音の雷門で落ち合うことと決めもし [音楽] た しかし3月になって徳川家の武行の将軍 就任で全国へ人権士が派遣されることと なりご講義の人権士がこの7月にも長の国 へ訪れることが分かり申したそこで江戸行 を中止し準権士を待つことにしたので ござる7月6日幕府準士精子黒川与平福祉 岩関地財門同じく福祉の森川6左門の3人 が萩に入ったとの知らせを聞いた昭や副生 や黒の5人は7月10日に権士が浮石村を 通過する際に訴しようと決めたので [音楽] ござる 10日の未5人は家族と水坂好きで別れを 済ませ書上を竹竿につけて目地が豊田渡せ のどばの下から差し出すと決めもし [音楽] た奥原の球左門は兄の前作が病弱であった ためで16歳で副生やを継いでおり申した その弟が不便であると月町橋まで見送りに 来た前作に対して宮門は自性の区を託した ので ござる民思う待橋を後に見て見を捨て我は 西に行く なりこの時代身分の低いものが己れの分を わきまえず直訴に及ぶことはごハットとさ れ本人は資材新類エジラも罪に問われる 重罪でござっ [音楽] た7月10日幕府拳士の一行は前日の宿泊 地である西一を出発して浮石村を通過し 木村にて昼食を取り宇井村堀の内で宿泊 するという日程でござっ た 10日昼前権士の一向がどばを通過しもし たが蘇生を差し出す役目の格門が暑さと
極度の緊張で率し直訴は失敗黒川兵岩関 左衛門森川六左衛門の3人は何事もなく雪 石を通過宇井村へ入って堀の内で宿泊した ので ござる海役のわび太郎門は残念がって次の 時期その役を引き受けたのでござる5人は 宇井村へ夜を徹して先回りし神ヶ原峠で夜 を明かすと上ヶ原にあった茶店で休憩する だろうと当たりをつけてここをじそ結構の 地と定めその前に広がるタバコ畑の大きく しった歯の中に身を隠して剣士一向を待っ たので [音楽] ござる 一夜が開けて7月11日朝宇井村堀の内の 脇本陣を立った準士の一向は亀が腹に 差しかかったところで5人が予想した通り この茶店で休憩し申し [音楽] たしばらくして籠掛布が交代して出発する 様子が見え岩石地衛門が籠に乗ろうとした ところにタバコ畑から飛び出したわびの 太郎左衛門がお願いでございますると書上 を差し出し申し た岩瀬がそれを受け取ったのを見て残りの 4人が畑から飛び出してきてありがとう ございますると土座して頭を下げたので ござる突然の直訴に驚いたか長府猛りの口 封じを懸念したのか精子の黒川与兵は書上 を受け取らぬようせに告げもし [音楽] たしかし誠実な人柄だと言われた福士の 言わせはこれは死も覚悟した民の声で ござるお取り上げにならねば指導にも人の 道にも外れましょうといい5人には書上の 趣きはこの岩関衛門宇が確かに預かった しかしじそは誤発とゆえそのほの身柄は 長府のモリへ引き渡さねばならぬぞ良いな と申し下し捉えられた5人は行列の最後に 引き立てられたので [音楽] ござる長のではのつい殿が人権士の宿泊書 であった赤間関の本人さに駆けつけて不 始末を詫び申したご上司の返答ではこの旅 はご党首が御幼少の見切りのことでもあり こさにことを構えよとは思わぬゆえご講義 様より誤沙汰いただくつもりはござら ぬしかし福祉の岩関地財モドこの度の一件 是非とも元文の趣旨を聞き届け公平な処分 をされたいとかつら殿のへ注文をつけられ 申し た公平なさきを要求された桂殿のは主体を 調べた上できっと公平な置きつかまります と述べられ申し たしかし実質的な筆頭がろう杉の森氏に
関わることだけにこの一件の戦技は何こ いすので ござるその日のの番各モラ5人は東丸かご で赤間の関の番所から長府金山町の老へ 送られ申したのでござるがこの直訴で とばっちりを食らったのが直訴が行われた 現場神ヶ原一体を管轄する証や大神正五郎 でござった正五郎は長府森家から事件を 抑止できなかったことをとめられ田から 家屋敷まで全ての財産を没収されたので ござる [音楽] 藤井革門田5人の戦技に当たったのは町業 の井上よ勝と高彦地下の2人でござっ た2人は杉野森派の人物と見られ長家の 家中は石村のの百勝に同上する空気が大半 を占めるようになってきており申し [音楽] た7月19日町武行井上記録が杉の森家に 不利な証言をさせまいと格門らの尋問中に 拷問を行い浮石村の百勝を脅して事実を ねじ曲げようとしていると疑念を抱いた半 杉の森派の神や五衛門が武行所へ押し掛け て希し た [音楽] この時神やご門は花から武行の井上を切る つもりであったらしく書き置きを置いて家 を出たのでござるがそのかきおきを見た父 の一兵たださも槍を持って火星し武行の井 の上とたを切り捨てたので ござる2人が神の親子に打たれ騒動を 聞きつけたものが集まって業所内が 騒がしくなると合財門は母大寺の少年寺に 走り神明の墓前で克服自決父の一兵たださ も自宅に戻って切publicしてはて もしたこの事件の後に新たに武行に就任し たのはシドちえ門勝正殿でござったが何か の事情がござったのかさらに上田6米直方 殿に変わられたので ござる上田6米殿は5人をのに思いおさを 先に伸ばして本社を期待して待たれたが ごかから年内の仕置きを命ぜられ年も 押し詰まるたくれの12月10日ついに 処分を言い渡されることと愛なり申し たエソは思いはとゆえじそに及んだ5人は 打首極 問かえ門の子佐次郎豊吉の子安は角島へ 遠投 その他村役百姓どもは格別慈悲を持ってお 構い なし杉野森家要人安の10名は良民部の役 に当たりながら花式不行場のため説服申し つく角島へ流された藤次郎は島で術を学び 大心を務めるまでになり申したが後に半の
刑事によって安と共に斜面となって浮石村 に帰ったので ござる
この動画は、やがて「万役山事件」を切っ掛けに改易となる、徳山藩のお話をベースに「奈古屋里人」を主役にした、全くのフィクションです。
1707年(寶永4年)
4月5日
毛利吉廣公が、江戸へ到着する。
4月6日上使の老中・大久保加賀守が桜田の上屋敷へ来邸する。
毛利元次公は、不快のため上使取り持ちに参加せず。
4月19日
毛利元次が、江戸を発つ。
徳山藩3代藩主・毛利元次から依頼を受けて、伊藤東涯が校訂加点本を刊行する。
5月10日
毛利吉廣公が、徳山毛利家の江戸上屋敷を訪問する。
元次公は外出中にて面会せず。同日、返礼の使者を派遣す。
6月13日
伊藤源蔵(東涯)、伊東重蔵(梅宇)、林九兵衛義端らが、大阪立売堀にある徳山毛利家の屋敷へ罷り越し、梅宇が在郷のまま五人扶持を受ける許しが出た事に対する御礼言上のために留守居役・中嶋兵右衛門(馬廻・80石)と面会。
長沼玄珍 號・常庵 (徳山藩馬廻格医師・15人扶持)が取持 。
●6月ころ
伊藤東涯とうがい(原蔵)と、伊藤蘭嵎らんぐう(才蔵)に京都で師事 し、この年6月に五人扶持を給する。
●この秋ころ
【小石君様御月見諸控】
佐世主殿役中藩主・毛利吉広夫人(小石君)が、将軍・徳川綱吉夫人を月見に招待した時の記録。
10月3日
毛利吉廣が発病す。
10月4日
13時から14時頃に、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度)を震源域とする、「宝永の大地震」が発生す。
10月13日(1707年11月6日)
毛利吉廣が卒す。
10月15日
徳山藩から毛利吉広の病気見舞に使者・片岡番五郎が、陸道中10日限りとして15日に派遣されたが、23日には着府という快挙を果たした例があり「八日二時之時廻シ之由、東国路之内ニて遅々手形之前九時余有之、川水之故也、指引候へは七日五時ニ着、前代未聞早使也」と付記される。
11月23日
『宝永富士山大噴火』が発生。
11月23日
毛利綱元の長男・吉元が毛利惣領家の萩本藩の藩主を継ぐ。
12月6日
毛利吉廣が、大照院に葬られる。
12月10日
唐樋札場(からひふだば)に祭壇を設けて行われた毛利吉廣の告別式で、群参した弔客8人が死傷する。
12月23日
毛利吉元が侍従に任じられ、民部大輔となる。
(享保9年8月9日、転じて長門守となる)
1708年(宝永5年)
3月5日
伊藤東涯、伊東梅宇、伊東重蔵、中江快庵、岡田又玄、林九兵衛父子、伏見より船に乗って大坂に到る。
3月6日
伊東東涯らが、大坂八軒屋に着く。
道守町ニテ和泉屋弥右衛門と申方へ着申候。【伊藤氏家乗】
3月7日
日の八つ過ぎに、江戸へ参勤途中の毛利飛騨守元次公が、徳山藩大坂屋敷へ御到着。御精進日并(ならび)に國之忌日ゆえ、何も謁見も無きにて、河御座船「住吉丸」の見物申し候様に御申し付け見申し候。【伊藤氏家乗】
3月8日
御精進日并國の忌日故、何も謁見も無きにて、河御座船見物申し候様にお申し付け、見申し候。【伊藤氏家乗】
3月9日
伊藤東涯、伊藤梅宇の兄弟が、徳山毛利家大坂屋敷に罷り越し、毛利飛騨守元次公に謁見
3月25日
毛利元次が、江戸に到着する。
4月13日
下向時の上使が派遣される。(井上河内守正岑)
毛利元次は、上使の取り持ちに参加せず。
5月24日
毛利吉元が、徳山毛利家の上屋敷を訪問。(暇乞)
毛利元次は、病気を理由に面会せず。
5月27日
毛利吉元が江戸を発つ。(在江戸重複期間:3/25~5/27)
元次見送らず。
6月10日
無方流・本多無方軒(本多勘左衛門正清)が、68歳で没する。
新陰流、無方流、一刀流、無念流の四派があったが、新陰流は早くに廃され、無念流は新参であったので、無方流と一刀流が一般に広まった。
6月27日
吉元初入国。
7月13日
岩国錦見川原に於いて1385人に人別米一升銭拾文施与
●7月
諸士馳走米半額返付令状頒つ。
8月20日
吉川氏、新宮丸造船。(12月18日進水式)
9月14日
吉元、萩発駕、国内初巡視。
●秋ころ
宝永5年の長府藩では、旱魃による凶作となる。
10月某日
寄組・椙杜(すぎもり)帯刀広周(ひろちか)が没する。享年64
12月
毛利元次が自序した『塩鉄論』を刊行。伊藤東涯跋
1709年(宝永6年)
1月10日
綱吉が麻疹により死去。享年64
六代将軍は甥(兄・綱重の子)の、甲府・徳川綱豊(後・家宣)
1月18日
財政難につき今明両年諸士に半知の馳走を命じ、今年庶民より石別銀二匁五歩を徴す。
2月7日
綱吉の御台所・浄光院が、逝去。享年59
2月某日
山田正之助、山城在勤中、徒党を催し村内の騒動を企てたるにより、切腹を命ぜらる。
2月21日
毛利吉元初参府。
3月1日
長府藩3代藩主・毛利綱元が、60歳で死去。
吉元の長男・元朝(宗元)6歳が長府藩を襲封する。
○筆頭家老・椙杜元世(後に元岑)40歳(3100石)
○吉元の長男・元朝(宗元)この時6歳
正徳3年(1713年)10月23日宗家に戻って、実父・吉元の嫡子・宗元(徳川吉宗偏諱)となる。
【享保6年(1721年)4月19日早世19歳】襲封前に没す。
○吉元の次男・元陳(幼名・左門)この時3歳
【正徳3年(1713年)7月14日早世8歳】
3月8日
徳山町大火。東は東町橋、西は江田町まで住宅1300余軒全焼、無量寺、円究寺など類焼す。この年より3カ年間、運上銀を免除す。
6月29日
徳山付近洪水。倒壊・流失二十余軒。
●9月
浮石村で豊作。
●11月
徳川家宣任将軍。
12月18日
萩藩、諸士養子に関し訓令し目付の吟味を遂げしむ。
12月24日
長府藩、囲木(御帳木)の制を創む。
●この年
萩・吉田町に御救米蔵を造立し、非常救米を貯蔵せしむ。
毛利元次が『徳山雑吟』を刊行。洛陽中島義方序
1710年(宝永7年)
●正月
安野十兵衛が、長府藩・浮石村で年貢の取り立てを行う。
●2月中旬
浮石村の庄屋・畔頭頭が、氏神・亀尾山八幡宮の床下階段裏に密かに集まって密議。
●3月
浮石村の庄屋・畔頭頭が、幕府の巡見使が7月上旬に来藩する事を知る。
4月21日
将軍家宣、賜延壽國時腰刀、並馬。
5月26日
毛利吉元帰国。(吉元初就封)
7月6日
新将軍就任の為、巡見使が石州津和野より萩入りする。
正使・黒川与兵衛正増(2000石)、副使・岩瀬吉左衛門氏昌(2700石)、副使・森川六左衛門長定(700石)
7月7日
幕府巡見士が、萩を発ち、三隅市に宿泊。
7月8日
幕府巡見士が、正明市にて昼食、俵山に宿泊。
7月9日
幕府巡見士が、西市宿泊(本陣・中野家)
7月10日
幕府巡見士が、西市から浮石村を通過し、貴飯にて昼食、内日堀之内宿泊。
10日 未明
浮石村の庄屋・畔頭頭は家族と水杯で別れを済ませ、訴状を竹竿に付けて杢路子川の豊田渡瀬の土橋の下から差し出そうと、橋の下に潜んで待つ。
まだ18歳の奥原九左衛門が不憫で、月待橋まで見送りに来た兄・善作に残した辞世の句『民思う月待橋を後に見て、身を捨て吾は西に行くなり』
10日 昼前
巡見使の一行が土橋を通過したが、訴状を差し出す役目の角右衛門は、暑さと極度の緊張で卒倒し、直訴は失敗。
幕府巡見士は、浮石を通過し、内日村へ入って堀之内で宿泊。
10日 夜
浮石村の庄屋・畔頭頭は巡見使の一行の先回りをして、内日村【うついむら】まで夜を徹して急ぎ、亀ヶ原の峠で夜を明かした。
7月11日
巡見使の一行は、内日村・亀ヶ原の茶店で休憩。
浮石村の畔頭頭・蕨野太郎左衛門が訴状を差し出す。
7月19日
町奉行・井上嘉六可勝と、田上彦兵衛親由が、反椙杜派の神谷合左衛門忠勝の父子に殺害される。
12月10日
長府藩町奉行・上田六兵衛直方が判決を下す。
12月22日
浮石村の庄屋・畔頭頭が、長府松小田の刑場にて処刑。
浮石村の庄屋・畔頭頭ら5人の遺骸は、舜青寺の裏山に人目を避けて、村民らによって手厚く葬られた。
後年、長府藩主より、忌祭を許されて供米を下しおかれる様になる。
角島へ流された、藤井左二郎は島で医術を学び、代診を勤めるまでに成っていたが、藩の慶事により、弥助と共に赦免となって村に帰った。
参考書籍:
萩市史編纂委員会 編 , 萩市史 年表 , 萩市 , 1989年3月
萩市 , 萩市史 第1巻 , 萩市 , 1983年6月
徳山市史編纂委員会 編 , 徳山市史 史料 上 , 徳山市 , 1964年
下関市市史編修委員会 編 , 下関市史 市史年表 , 下関市 , 1987年3月
兼崎茂樹 , 我家我藩の歴史 , 兼崎茂樹 , 大正4年
松原醒堂 , 享保秘聞徳山藩再興史 , 現代社 , 昭和11年
山口県教育会 編 , 二州の礎 , 山口県教育会 , 昭和15年
早稲田大学国文学会 編 , 国文学研究86 , 早稲田大学国文学会 , 1985年6月
豊田町史編纂委員会 編 , 豊田町史 , 豊田町 , 1979年3月
吉村藤舟 著 , 浮石義民伝:外 郷土物語・第5輯 , 防長史料出版社 , 1975年
山口県文書館 編 , 山口県文書館研究紀要(24) , 山口県文書館 , 1997年3月
吉田真夫 , 山口県地方史研究・第121号【1】 , 山口県地方史学会 , 2019年6月
吉田真夫 , 山口県地方史研究・第125号【2】 , 山口県地方史学会 , 2021年6月
小川國治 , 山口県地方史研究・第76号【5】 , 山口県地方史学会 , 1996年10月
三坂圭治 , 徳山市史 上 【6】, 徳山市 , 1956年
小山真人 , 地震ジャーナル(44)【7】 , 地震予知総合研究振興会 , 2007年12月20日
【1】徳山藩断絶時における藩士の動向について , pp. 1-15.
【2】徳山藩断絶要因解明の一試論 , pp. 17-29.
【5】徳山藩改易と富海・牟礼両村の下草山紛争 , pp. 8-17.
【6】第四篇 近世の德山 , pp. 163-231.
【7】 1707年富士山宝永噴火 , pp. 8-15.
書籍:著者, 書名[, シリーズ名], 出版社[, 出版地], 発行年[, ページ]
Speech Synthesis :
HTS Voice “NIT ATR503 M001” Copyright (c) 2003-2012 Nagoya Insitute of Technology
HTS Voice “Mei(Normal)” Copyright (c) 2009-2013 Nagoya Institute of Technology
Music :
YouTube Audio Library
フリーBGM DOVA-SYNDROME/DOVA-SYNDROME/dova-s.jp/ドーヴァシンドローム etc.
#奈古屋里人 #徳山藩 #万役山事件