【アイヌ兵と戦争】偏見と差別の中で戦地へ「過去を振り向かせなきゃ駄目だよ…アイヌのためだけじゃない」極限下に求めた“平等”への思いとは…
アイヌの伝統が色濃く残る日高のビラト町に 入ってる浜田清たさんです。 父親の浩さんはアヌ兵として太平洋戦争を戦いました。 これですね。 天田 ひ平成14年6月7日に亡くなってますね 。ひさんは農家の長男として豚谷で生まれ ました 。牧場で馬の世話をしながら勉強に励み ましたが、あヌ民族であることを理由とし た差別は日常左半事だったと言います 。結構いい点、100点だったかな取った らしいんですよ。そうするとその時の共感 からアヌであるお前が100点取れるわけ がないと言われない差別ですよね。 とんでもない差別を受けたと 。ある夜、ひさんは小学生だった清さんを 起こし、突然自分の大門を剃るよう指示し ました [音楽] 。にやらせりゃいいのにと思ったんです けど、小学校5年生の俺にやらせるんです よ。あれは辛かったですね。だから毛が 入ってるつまりイコールアイヌっていうの がすごく嫌だったんだろうなって小学校5 年生なりに思いまして私 。太平 洋戦争が始まった1941 [音楽] 年国家騒動員大のも当時20 歳だった浩さんも満州へ従軍しました。しかし [音楽] うちのタにはあいのがいるらしいと。あいうのは出てこいっつって。お前らその生肉食うのかって吊し上げですね。ま、じめですわ。完全にあっただろうなと思いますよ。 一方で差別体験とは異なる思いも 読み取れる異品がありました 。20歳で兵士として満州に渡った出身の アヌ民族浜田浩さん 。息子の清たさんが自宅に飾るあるものを 見せてくれました。 よいしょ。 ボ自分のこと好きなのかしらんですけど。 いやいや、これ作ったんですけど。 生前ひさんが作った自身の経歴です。舞台での歩みについてもこ細かに記しています。旧士に一生。 [音楽] 日常での厳しい差別と比べると極限状態に いる舞台の中の方がむしろ居心地が良く 仲間意識も強くなったと言います [音楽] 。欲流されたシベリアでは得意の馬の世話 で長官に気に入られ二兵から軍曹まで進し ました。 戦争自体これやっちゃいけないことだと 思いますけど、それは徐々思います。あの 、けど舞台に入って訓練とか仲間でこう やってるうち にあんま行っちゃいけないのかもしんない ですけど楽しい思い出がもあるということ は言ってました。はい。 アイヌの金大総師を研究する国立民族学博物館のマークウィンチェスター除は戦争に平等を求めて紛したアヌ民族も多数いたのではないかと指摘します。 [音楽] [音楽] 北海道の植民地下によって、え、きた、え 、不利の部分を自分たちが調されることに よってやっと平等な立ち位置に立てる 。しかし容姿を からかう物扱いや狩猟のスキルがあること を理由に銃弾が飛び交う戦場の最前線に 送り込まれるような不常理な配置もあった と言います 。手前上の平等って言っていいのか ちょっと分からないんですけれども、その 平等でやりながら別扱いをされるという ようなことが実際に その戦争っていう場においても あの起こるっていう 当時国は旧保護法によりヌの和人化を 進める政策を打ち出していました 。しかし戦争が始まると 一点少数民族の活躍 とし立てアヌ兵を英雄扱いする など都合よく繊維に使ったと言います 。こんばんははい失礼いたします はいどうぞ よろしくお願いいたします。お邪魔します。 はい。はい。 ビラト町で異骨の変換運動などにも取り組む木村文さんです。問題 旭川の舞台に入退した父親の一さんからは差別についての話はほとんど聞いたことがないと話します。 親父はさ、ま、運動神経が抜群だったよだからね。だから銃験実 あと相撲なんかも強かったみたいよ。 親父はね、ま、あんまり俺たちには話をしなかったけどもね。舞台の中では本当の意味で平等だったのか。それとも常に振る舞い息子に多くを語らなかったのか。今父親にその本心を聞くとはできません。 [音楽] しかしアヌの歴史とその延長上に戦争があったということを伝えるのが大事と話します。 [音楽] [音楽] 伊神より俺のが声でかいんじゃないかなとも言えが吠えてるよ。本当にこれもね、みんな勉強しよう。 若者たちは特にね 、あの政府が責任持ってね、やっぱり過去 を振り向かせんきゃだめだよ。これね 、あいのためじゃない。日本国のためだ。 子供たちのためだ 。日本政府により同政策が進められたアヌ 民族。 当時徴された人数も戦士数も正確な記録は残っていません。 ま、学校の事業ではなかなか教わることのできない、そして歴史の教科書には出てこない歴史をどうやって伝承していくのかっていう非常に難しいことではあるのかもしれませんが、板田さんはどうご覧になりました? いや、最近あの、ま、こういった犬民族、初め少数民族の、ま、芸術作品であったり、音楽踊りであったり、それからアニメ、あの、漫画とかでもね、すごくゴールデンカムイなんかで取り沙汰されて、あの、すごく身近なものになって ますけれども、あの、やっぱりこう素晴らしい文化だっていう認識されること自体は大事ですけど、やっぱりこういった悲しい歴史があるっていうことをしっかり学ぶっていうのはすごく大事だと思いますし、そこの部分がやっぱりまだまだ足りてないんじゃないかなっていう風に改めて思いました。 そうですね。はい。 愛民族は当時日本政府により同政策が進められていたので、当時徴された人数も戦士数も正確な記録は残っていません。 また戦争にどう関わったのかというところを記した資料も非常に少ないということです。 あ、鶴川さん資料が残っていないからこそこういうエピソードってのは貴重ですよね。 いや、そうですよね。やっぱりどの民族で あってもやっぱりこう2度と戦争を起こさ ないっていう共通認識は同じだと思うん ですけど、やはりこう国のためね、戦って いく中でやはりこうアイの方がそうで差別 とか最前線でね、こう不上位なことをね 強いられたりしてたらやっぱ本当いたまり な気持ちになりますしで今ね木村さんが 話してた通りやっぱ歴史を勉強しようね この言葉すごくなとね思いましたね。 まあ、今戦地で実際にこう体験した方の話を聞くってのはもうちょっと難しくなってきてるので、その方たちの体験を聞いた世代の皆さんの話って大変貴重なので、これをどうやってね、あの、今 まさに 今の時代を生きてる私たち、もう10 代からもおじいちゃんおばちゃん、今生きてる私たちがどうやってね、次の世代にこう記憶をつなげていくのかということが問われてるのかなと思います。
日本政府の同化政策によって和人とともに、太平洋戦争の戦地に送られたアイヌの人たちがいます。戦場でアイヌ兵たちは、どんな思いで過ごし、何を経験したのでしょうか。国の政策に翻弄された、その思いを取材しました。
◇《アイヌの人たちに向けられた偏見と差別…戦地でも》
アイヌの伝統が色濃く残る、北海道日高地方の平取町二風谷。濱田清孝さん(65)の父親・寛さんは、アイヌ兵として太平洋戦争を戦いました。いま寛さんは、二風谷の墓地で安らかに眠っています。
濱田清孝さん(65)
「平成14年6月7日に亡くなっていますね」
寛さんは、農家の長男として二風谷で生まれ、牧場で馬の世話をしながら勉強に励みました。ところが、アイヌ民族であることを理由とした差別は、日常茶飯事だったといいます。
濱田清孝さん(65)
「学校で結構いい点数、100点だったかを取ったらしいんですよ。そうすると教官から『アイヌであるお前が100点取れるわけがない』と…。いわれもない差別ですよね。とんでもない差別を受けた」
ある夜、寛さんは、当時まだ小学生だった清孝さんを起こし、突然、自分の体毛を剃るよう告げました。
濱田清孝さん(65)
「女房(母親)にやらせりゃいいのにと思ったんですけれど、小学校5年生の俺にやらせるんですよ。あれは辛かったですね。だから毛が生えている=アイヌっていうのが、すごく嫌だったんだろうなって…小学校5年生なりに思いました」
太平洋戦争が始まった1941年、昭和16年。国家総動員体制のもと、当時20歳だった寛さんも満州へ従軍しました。戦地に赴いた寛さんを待っていたのは、アイヌ民族に対する偏見と差別でした。
濱田清孝さん(65)
「上官が“うちの隊にはアイヌがいるらしい”と…。『アイヌは出てこい!』『お前らは生肉食うのか』と言って…吊るし上げですね。いじめですわ、完全に。(差別はほかにも?)あっただろうなと思いますよ」
◇《戦争という極限下でアイヌ兵の心に宿った思いは…》
そうした戦地での差別体験の一方で、心の内に芽生えた異なる思いが、寛さんの遺品から読
み取ることができます。
息子の清孝さんが、自宅に飾られた寛さんが遺した、あるものを見せてくれました。
濱田清孝さん(65)
「どれだけ自分のことが好きなのか分からないですけれど…(寛さん自身が)作ったんですよ」
生前、寛さんが作った自身の経歴です。部隊での歩みについても、詳細に記されています。そこには、日常での厳しい差別と比べ、極限状態にいる部隊での日々のほうが、むしろ居心地が良く、仲間意識も強くなったと、寛さんは記していました。
馬の世話も得意だった寛さんは、戦地で上官に気に入られるなどもあり、軍隊では、二等兵から軍曹まで昇進しました。
濱田清孝さん(65)
「戦争は、やっちゃいけないことだと重々思います。だれけど部隊に入って、訓練や仲間でやっているうちに、言っちゃいけないかもしれないですけれど“楽しい思い出はできた”ということは言っていました」
◇《戦争に求めた“平等”…そして戦意高揚に利用された民族》
アイヌの近現代思想史を研究する国立民族学博物館のマーク・ウィンチェスター助教は“戦争に平等”を求めて、奮闘したアイヌ民族も多数いたのではないかと指摘します。
国立民俗学博物館 マーク・ウィンチェスター助教
「北海道の植民地化によって被ってきた不利な部分を、自分たちが徴兵されることによって、やっと平等な日本国民、やっと平等な位置に立てると…」
とはいえ、容姿をからかう見世物扱いや、狩猟のスキルがあることを理由に、銃弾が飛び交う戦場の最前線に送り込まれるような、不条理な配置もあったと話します。
国立民俗学博物館 マーク・ウィンチェスター助教
「平等でありながら『建前上の平等』…と言っていいのか、ちょっとわからないが、別扱いをされるというようなことが、実際にその戦争の場においても起こる」
当時、国は旧土人保護法により、アイヌの和人化を進める政策を打ち出していました。しかし、戦争が始まると、政府の姿勢は一転して、少数民族の活躍と囃し立て、アイヌ兵を英雄扱いするなど、都合よく戦意高揚に使ったと言います。
◇《虐げられた歴史と、その延長上にある戦争を語り継ぐ意味―》
磯貝拓記者
「こんばんは、よろしくお願いします」
北海道の平取町で、遺骨の返還運動などにも取り組む、アイヌ民族の木村二三夫さん(76)です。旭川市の部隊に入隊した父親の一夫(いちお)さんからは、差別についての話は、ほとんど聞いたことがないと話します。
木村二三夫さん(76)
「親父は、運動神経が抜群だったよ。だから銃剣術、あと相撲なんかも、軍の中でも強かったみたい。親父は、あまり俺たちには戦争の話をしなかったけれどもね」
部隊の中では、本当の意味で「平等」だったのか?それとも気丈に振る舞い、息子に多くを語らなかったのか?いま、本当の思いを父親に尋ねることは叶いません。
ただ、虐げられてきたアイヌの歴史と、その延長上に、戦争があったということを伝えることは、大事だと話します。
木村二三夫さん(76)
「エゾオオカミより俺のほうが、声でかいんじゃないかなと思いながら吠えているよ。みんな勉強しよう、若者たちは特にね。政府が責任を持ってね、やっぱり過去を振り向かせなきゃ駄目だよ。日本のためだ。アイヌのためだけじゃない。日本国のためだ、子どもたちのためだ」
かつて日本政府により、同化政策が進められたアイヌ民族。当時、徴兵されたアイヌの人たちが、どれほどいたのか。そして戦地で命を落としたのか、その正確な記録は残っていません。
世永聖奈キャスター)
学校の授業ではなかなか教わる機会のない、教科書には出てこない歴史。どのように学び、伝承していくかというのは非常に難しいところです。
アイヌ民族は、日本政府による同化政策のため、徴兵された人数も、戦死者数も正確な記録は残っていません。また戦争にどう関わったのかなどについても、詳細に記された資料は、極めて少ないということです。
堀啓知キャスター)
私たちの取材に応じてくれた濱田清隆さん、そして木村二三夫さんは「歴史を学び、改めて差別のない社会になればいい」と話しています。特集でした。
2025年05月2日(金) 17時15分 更新
#北海道 #ニュース #HBC
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1 Comment
アイヌと北海道アイヌ協会から認定されれば、、
自動車免許・住宅資金・学費・修学資金・奨学金の補助が受けれる。
認定方法は戸籍謄本or協会との面談。
戸籍謄本以外で認定は実質誰でもなれる余地があると疑わざるえない。
というか、日本人に対する差別だよ。