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森美術館トークセッション・シリーズ「知らない世界とつながってみる」トークセッション1|Connecting with Unfamiliar Worlds: Talk Session 1



森美術館トークセッション・シリーズ「知らない世界とつながってみる」トークセッション1|Connecting with Unfamiliar Worlds: Talk Session 1

えそれではトークセッション1番目になり ますえタイトルにはえ見えないものを提示 する試みについてというえタイトルをえご 出演の八海先生よりいただきましたえ八海 先生それではえプレゼンテーションの方 よろしくお願いいたしますあ皆様 こんばんはえご紹介いただきました立大学 文学部の8会と申しますえま今日はま えっともう片岡館長と西原総長のお話を 伺って満足して自分が話すことを忘れかけ たところでこの時間が参りました えまこのワールドクラスルーム店え皆様 すでにご覧になったでしょうかえ大変 面白いえ展示内容でええま先ほど館長が あのお話しえくださったようにえま様々な 国地域のえ現代美術作家の方々の作品えま 多様な表現中にえ今の世界が見えてくるえ そんなあの展覧会になっていますまだご覧 なってない方は是非あの見ていただきたい なとえ思っていますえさてえ今日はですね 私タイトルを見えないものを提示する試み についてという風にいたしましたでま見え ないと言いますとこれは資格に関するもの というイメージがあると思うんですけども えもちろんあの目で見ることだけでなくて え人間の語感ですよねえま互換に関わる ものとしてえま私たちが普段気がつかない えある自分の環境にあってもあのま気が つかずにえ通りすぎてしまっているような 事柄についてえま芸術はえ私たちに気が つくあのチャンス機会をえま与えるものだ とまそういったえニュアンスでこの タイトルをえつけましたえさてえ今日は ですねま国語えまた文学というセクション に関して えのま回となっておりますでえまこの機会 に改めてで国語っていうのは何だろうなと いうことをあの考えましたでま考えると いうかまずですね自書的な意味からそれを あの え読み直してみようと思ったわけですで それをするためにはやはりあのその意義と してはえもちろん自書的なあの意味から こぼれ落ちるものがあるだろうとそれは どんなことだろうかということを考えたい わけですですねでえま重ったえ辞書という ことでま3つほどえ国語に関してえあげ ますえまずえ小学科の日本国語大事点です ねこの青線版からなんですがえま2と3は 発っておりますがえ1と4というえ講義に 関してえまこのように書かれていますある 一国における共通後または公用語その国民 の主流をなす民族が歴史的用いてきた言語 で方面も方言も含めていうえで4学校強化 の1つ日本のえ言語を及び言語文化を

取り扱うとえまこのような説明が小学科の え国語大事点にありますえまえその主流の とかまそういう言い方がねここではされて いるわけなんですよねえ次え大地輪賛成度 えどんな風に表現しているかえ国家を形成 する員が自国語として使用し共通後公用語 となっている言語まこのようにまず第1の 語義が書いてあるそれからえま2と3は はりますが4国語化に同じという表現がさ れていますで国語家ということでま科目と してどのように表現されてるか見ますとえ ま学校教育の強化の1つ国語としての日本 語の表現理解などの能力を伸ばしえ言語 文化の知識を豊かにすることを目的とする 教化まこのように書かれてますねでえま 1900年明治33年の小学校例え思考 規則でえまこのように国語家と名付けた ことにえよるという風にま大事輪手はされ ていますえ次えまあ公事園えから見ますし えするとま国語の合議としてはまず1その 国において公的なものとされている言語 その国の公用語自国の言語 え2日本語の別所3看護外来語に対して 本来の日本語和語大和言葉まこのような 表現がされているえ4国語家の略で国語家 のとこを見ますと学校の強化の1つとえ 国語に関する理解表現態度などの学習を 目的とする教化聞き話読み確能力をやしま このように書かれていますえ今えいつほど え辞書を見ましてえま大体航空語の語義が どのように説明されてるか見たんですね そうするとやえやはりえその最大公約数的 なとこを見ますとえまその一国における 共通語公用語というとことか大臣では国家 を形成する船員がという風な言葉があっ たりとかえま公事園ではもうちょっと簡単 にその国において公的なものという風な 言い方ををされているわけですねでえま ちょっと元のとこ戻りますがえ国語とは 国語の定義はあるわけなんですがえ結局 何かを定義づけた時に私たちは必ずその 隙間にこぼれ落ちるものというものがあ あることにま気がつく うべきだという風に考えるわけですねま どうしても辞書を引きますとその語義に 満足してえ私たちはこうえ素通りするもの があ出てくる時があると思うんですがえ 大切なことはやはり1つの定義に触れた時 にえ定義と定義の間をすり抜けていくもの がきっとあるんだというまそこだと思うん ですよねま特に国語という言葉そのものに 関してえこのこぼれ落ちるものがえ存在 するっていうとこには えま心を向けたいという風にえまず思い ますあまとは言っても別に辞書を批判し

てるわけではございませんもちろん辞書を 作っているえ人たちのあのまお仕事の大切 さえというものを思いますしえそれにま 辞書も好きですよ別に辞書が嫌いなわけで はなくですね辞書も読んでるととても 面白いなと思うんですけどま国語という1 つの単語に関して言いますとこのように ですねちょっとやはりあの落ちていくもの があるのはあの見ての通りだということな んですよでえここでえ今回のワールド クラスルーム店の国語文学セクションに 関してまえいくつもの興味深いえ作品が 展示されてますけどえそのうちの1つま 作者スーザンヒラーさんという方でえ ロストアフというタイトルの作品え ちょっと今画面出してるものはあの写真 ですので えこれは実際には緑の線が動いてないと あまり意味がないんですよねちょっとどう いうものかっていうことをあの少しお見せ するためにこの部分だけあの提示してい ますえスーザンヒラロストアファウンド 2016年でこれはどういうものかという とえオシロスコープというあの地からあの に捉えにくいえま音などを資格的に表すえ そういう機械危機がありましてそれを通し てえ表現されたえま少数言語あるいは消滅 した言語えの記録なんですよねえそれを この作者スザ平は えま人類学をあの研究学ぶ中でえ様々な 研究機関にアクセスしてえ入手してえま 消滅の危機にある言語あるいは消滅して しまったえま話者がいなくなってしまった あるいはその危機にある言語というものの ま音声記録をあのこのような資格化した 表現としてえ作品としてえ示したという ことなんですね例として出したのは えまリボニアという言語で出したんです けどえラトビアとエストニアにまたがっ てるま地域のあの言語ですよね古い言語な んだけどももう話す人があのいない状況だ ということですねま他にえっとえ ブルターニュ語とかベルベル語とかですね あとカタルーニャ語とかまいろんなあの 言語の音声がこのようなそれぞれ波上の 緑色のですねあの波の形で表現されると いう形ででえまこの字幕の部分は英語と 日本語で表示されていてまそのえ元のあの 少数言語そのものはえまこの会場でこの 言語をあの知っている人っていうのはあの あのほとんどまいないか全くいないような 言語だと思いますのでねなかなかその元の 言語においてどういう風なものかっていう ことはあのま他言語に翻訳されたという 方法を通さなければあの分からないという

ことになるわけですよねでこの一例として あげたこのリボニアに関してはえここにえ 下に2業で英語で書いてありますけども somedonotevenknow thattheGrandparen spokerebと書いてありましてえま 見ての通りねおじいさんおばあさんたちも リボニア話してたってことをまみなし知ら ないえ今は知らないんだという ことですよねまそれがこう音声のあの再現 再生として再現としてあの流されるという 形のえ作品になっているまこれロスト アファという作品ですねでふと思ったこと がありますまそれはふと思ったことという かちょっと日本語の詩に関してあの考えた ことがありましてえそれはまそのロスタ アンドファウンドは緑のこの線で少数言語 を表してましたけどもま死がそのように 空間をあの意識した時にどういうものが出 てくるかっていう例として日本語の中で 考えましてえ1つえヒラトレン基地という ま日本未来派運動というま文学運動で知ら れたえ作者がいるんですけどもま亡くなっ たのは大正11年えま29でなくなって ますけどけどもえ平ドレ騎士のえ提唱した 空間立体子という作品がありましてえ ちょっと出してみますね1の1つえまこれ をですねま市長と呼んだり飛ぶとりと読ん だりされてるタイトルなんですけどもま平 ドレン基地はえこれご覧の皆さんご覧の 通りですね1話1話1話って後半にあの 漢字のレイアウトがあのしてありますけど もえまこのようなところでえ1つ自分の 表現の工夫をえしたということなんですね えちょっと読んでみますねえ鳥が飛ぶ心も 姿も黒ずんだえ黒鳥痩を衰えて飛ぶよまじ に入り乱れ直成の縁の上波にあうずにのる まうよまうよ水車の羽1話の後1話1話1 話1話1話本店速 旋回小の古性の先は渦に かかるま私た多分これを現代のま目で見れ ばえこういう文字のあの上げ下げをした レイアウトっていうのはあのそう珍しい 印象はないかもしれませんよね えうんしかしえま当時としては非常にま 当時というのはこのが発表されたのは 1921年大正10年なんですけれもあの まこれは非常に斬新な印象を受けてに与え たようなんですねま今を見るとえそこまで 斬新という感じはしないかもしれません けどねはいえまこういったあのま空間立体 使というものを平ドレ基地は主張しました で日本未来派運動っていうのはあのま美術 にも大いに関係がありますけどもその イタリアであのトマゾマリネッティ詩人の

トマズマリネッティという人があの提唱し たで中心になって活動したそのえ未来派 っていう動きがありましたけどもまその 内容については色々あの現代あの振り返れ ば大いに問題がというかねいろんな疑問点 があるようなものを含んでますけどもま それが日本に入ってきて えま例えば森大外が日本未来派運動をえ 木取り通信という雑誌にえ一部翻訳紹介し たりしたのがあの1番あの紹介の先駆けに なってものなんですねでま平トレ基地はえ まちょっと話が広がりますけど川路流行と いう詩人がいましてその人は工合自由士の え最初のうまくかけた作品として評価され た吐ためという死の作者なんですがえ川路 流行という人はえま美術評論も手掛けてい てま平ドレン基地はカ流行のある意味弟子 のような立場になっていたんですよまそれ もあってえそういったあの西洋の新しい 芸術市長に触れる機会もえあったと考え られえま平戸園基地にま日本語でもえ ちょっとレイアウトの上でえこれまでない ようなものを試みてみようというま考えを あの与えたということが推測されます ちょっと次のページを出しますけどもえ それでまあ今 のしのようにですねま鳥の飛んでいる様え 悲傷のその動いてる胴体をですね活字の 配列えレイアウトの工夫で表しているそれ でえっと19202年ま同年なんですけど 対象10年えまこれでヒド吉は知られてる んですけどえ日比谷公園でえリーフレット を配布したんですよねえそれは日本未来派 宣言運動で書かれているまチラシみたいな ものでそれをま日比谷公園を行く人々に こう配ったということしたであのまあまり 話を広げることはしませんけど先ほど触れ たそのマリネッティもえやはりそういう えまリーフレットを配布するえあるいは その宣言をあの書くということをま何度も 行っていてまそういったものの真似てです ね日本でも日本語でもあ行ったということ が考えられているんですがま日本未来派宣 運動というリーフレットをあの配布で 先ほどももうすでに述べましたけどもえ 翌年にはもう29で9でなななっているで 生前は刺繍を観光する機会はなかったん ですよねえ没後にえま先ほどちらっと触れ たそのえ師匠にあたる川路流行及びま一緒 にえ死の活動などをしていたあ詩人たちが えま平ドレン基の死首をま作ろうという ことでヒラドレン基地死首というものがえ 観光され ますはい えまこのようなま文字のレイアウトでまま

非常に今見ると単純ですけどね1話1話 っていう風にこう鳥が待っているようなま 感じでえレイアウトしてえまある意味資格 的にも文字の配列によってイメージを 与えると要するに読んだ内容書かれた内容 テーマっていうことだけじゃなくてえそこ にある文字そのものにのえあり方ええ配列 というものにもえ意味合いを持たせている というわけですねはい次行きますえでその ような観点から考えた時にえまえもう1人 触れておきたい詩人がいますえ2正一と いう詩人ですえ1925年生まれ亡くなっ たのが1977年で2はえまトポエトリー 具体子と言われるえジャンルのえ作者の 1人としてま認識されていますま細かく 言うとそれは具体しとは少し違うんだと いう分析のされ方をする場合もありますけ もまその一角にあのいる詩人と考えて良い のではないかと思います ええっとね作品集としてはこんな本があり ましてえ2008年えこれは市の出版社で ある視聴者からえされましたニセバークス 19え52年から77年というタイトルが ついててまこれちょっと見ますと あの表紙のですねの段ボールのあの段 ボールの中にですねこの実はメクルトCD が入っててえそのCDっていうのは ちょっと今日は触れませんけど音声士って いうあの声で音でこう表現するっていう方 の作品を収録してるもなんですねえしかし 今日触れたいのはえ資格士目で見る方の 作品なんです音声士と資格士まこの双方の 領域からニク誠一は作品を作っているえ人 なんですねでえでこの作者がどんなことを 言ってるかえ例えばこんな言葉があります え空間え時間空間における死のオブジェと しての存在を追求あるがままの言葉の機能 によるイメージの連鎖反応いわばもとして の言葉それ自身のムーブメントで私的思考 のえ資格聴覚化を図るまこのようなことを え自分のノートまメモですねこのような 言葉をあのえ刺繍の中にあるメモに残して いますゼロ音という集がありましてえ63 年え小心者というとこから出されたもの ですでえま消士という風に呼ばれますがえ イコール四角えどんなものかえ以下22国 の考えではですね漢字漢字というものをえ 極限のユニットとするま最小単位とすると いう考え方なんですよま漢字を使うんです ねえーちょっと見てみます とちょっとえ4つほど例を出しますね1つ はこれは闇っていう作品なんです ねえ闇っていう感じは思い浮かべて ください門の中に音音が入ってるですから 門ゲイトと音サウンドこれがくっついて

ダークネスになるという闇になるという そういう作品なんですよえちょっと4つ ほど続けてみますね次がこれは嘘ですライ えマウス口とえまえきですねボイルそして えそれが合わさってライ嘘になるっていん ですねえ様々なサイズの文字がレイアウト されているでこれはよく知られてる作品で 雨ですねえ見ての通りですま見ての通り すぎて単純と言えば単純なんだけど点が ずっと打たれていてであの1番下の真ん中 のところに雨1文字が置かれてますからま 見る仮になんか雨粒が降ってくるような 作品ですよねねま見ての通りすぎるものか もしれませんしかしこれは結構海外で受け たそうですねえそれから例えばこんなのも あります反戦という作品なんですけどまあ 反線という言葉の反ですね反を見ていくと え最後のとこまたになってますアンとなっ ていて えーまある意味えそういった皮肉もこ込め られているのかもしれませんねまたそうし て戦いは起こるそれに対して反安置という ものが示されていく えーでま漢字を極限のユニット最小単位の ようなものとみなしてえ表現していくと いうことを2国はえ主張した考えたま自分 のやり方として提唱したということなん ですよでえま死として考えた場合にそれは え行としての配列を意識するしかし えこういった表現になっていきますとこれ はページなのかそれともえ面なのか画面な のか え一体これはページと考えているのかそれ とも画面なのかまその両義的なところに2 2正置の作品はえ存在しているということ になるわけなんですねですから見ることと 読むことえその両方があのまある意味 アンビバレントに置かれているでニク自身 の言葉で言いますとこういった資格士 え消KA士にはえ瞬間領解というものが あるんだとでこの あのこういったえ需要の仕方あるいは作品 の受け止め方っていうものを2国は目指し たこういった表現を目指したということな んですねね えで先ほど示しましたこのワークスという 作品集の中にはえいくつかの論考が含まれ ておりますえでその中の1つえ形の正規 からというタイトルこれはえ詩人でありえ 現代美術の研究者でもある評化でもあるえ 立花明田さんのえま論考のタイトルなん ですがまその異説をえ引用しましたえま こんなことが書かれています新国は非だ 強的な詩人であり資格史を美術との教会 領域や根性領域とみなすような曖昧な態度

を厳しく排除しノンバーバルな死写真や オブジェによる死の可能性をまこから否定 していたがそのことによってもなお彼の 作品はアンビバレントなものであらざるを 得ない実のところ彼の資格士の空間の多く はは画面として受け取ることが可能なので ある自立したフィールドとしての死の ページが避がく美術の領域に制している ことを私たちは認めざるを得ないえまこの ように論じられている箇所がありました うんえーまページなのか画面なのかえま 空間を使ったこの資格肢えのあり方という ものしかしどちらなんだろうっていうこと を別に限定するためにあのこのような作品 を考えるというよりはまその両義性両義的 であるということにこそ意味があるま 私たちがそこで不安定な状態に置かれる わけですからそのことをむしろ私たちは この表現にえ求めていいんじゃないかと 思うんですよねどちらかに割り切 るっていうためにやってるわけじゃなくて あのどちらにもまたがってるってことが もたらす私たちもたらすその不安定さこそ がえこういった表現に触れるえ深い意味な のかもしれませんまそんなことを考えさせ ますえまここで1つまた思い浮かぶのが ですねま海外の詩人ですがえ台湾の現代の 詩人えチェンリーさんという人がいます 1954年台湾の東部カレンという町の 生まれでですね今もカレンにえ住んでえ 執筆をしてる人なんですねえ若い頃はえ 地元の中学校で英語の先生をしながらえ死 を書き続けてきた人でもありますえでえ ここに示してるあの本のカバーですがえ 2010年え視聴者から観光されたえ チェンリーのえ役死首なんですが日本語版 容に中身はあのいくつかの首から返さされ ているものなんですね上田哲さんというま え当時台湾にえ彼に住んでえあ彼の自裁 大学というところの先生をされていてま 台湾文学を研究されていた人なんですがま チェンリーさんと同じ年のあの研究者だっ たんですがま残念ながらこの本が出た2年 後にですねま病気であの亡くなってしまっ てあのなんですよねえなんですけどもま あの成功込めてした仕事の1つがこのカレ 島の変であったということなんですでま このカバーを見ますと台湾の島の形の中に えこの文字が入ってますねえでこれはえ実 はチェリーさんの作品からあのアレンジし て作られたもので え戦争公共局というタイトルの紙があり ますま私これあの写真はえちょっと大型の ポストカードを写真に撮ったものなんで ちょっと背景にこの柄が入ってますがえ

本来的にはあの刺繍の白いページに文字が 入れされてるものなんですけどねえー実は 兵士の兵の え下のところを見ますと左だけが線がある ものと右だけがこう点があるものとあり ますがえこれはそれぞれ別の字ですねえま 中国語であの卓球のことをピンパンチと 言いますけどもこの左だけがのはピンで右 だけがのはパンでそれぞれがあの兵士の兵 は瓶という音で えーこの作品の中で え途中から兵士の兵が片方だけの点になっ ていくんですねバラバラに配列されるでえ そのピンとバンという音はえ物が衝突する 音でもあるこの文字自体がですよその語義 自体が物が衝突する音を表してもいるだ から兵がずっと並んでってえその物が衝突 すると及びえこの戦いによってえま負傷し て足を怪我するなくすした人っていう イメージもえこの文字の中に込められて いるというんですよえですからこれもある 種の資格士としてえ作られた作品えま戦争 を風死するというえ意味合いが込められて いるえ死なんですねえ資格士の一種として 発表されたものなんですまは四角費ばかり を作ってるわけではないんですがえ作品の 中にいくつかえこういう漢字の字形をえ 駆使したえ死っていうのがあるんですねま その一例として戦争公共局がありますえ さてまここまでえちょっとこの資格的な ものをです ねま このスーザヒラーの言語を見える形に波上 の え緑の光に表してるっていうところとも 少し関連させてえ目で見る資格的な字形 漢字を生かしたものの表現っていうものに も考えてみましたがここでですねこういっ た資格士 え継承子というものあるいはえ音声をその 目に見えるえ波上に表すといったものとは 少し違う表現について考えたいと思います それがま今日これから えどんなお話が伺えるか楽しみなえ今回の え展覧会の出店えサッカーでいらっしゃる え宮木太さんえの作品の考え方ともえ関係 あることなんですナラティブということ ですねつまり物語る物語ま今結構ナラティ ブっていう言葉あちこちで聞きますよね 例えばもう医療とか心理学とかビジネスの 場なでもかなりあのこの言い方は導入され 言い方というかこの考え方と言えばいいん ですかね導入されてると思います元々は そのえ1960年代のその構造主義あり から起こってきたなえナラトロジー物語論

の考え方から出てきてるわけですけどま今 発展的にというか応用的にと言えばいいの かいろんなジャンルで使われてるえ意義 っていうのはなんかちょっとあの変わって きてる部分もあるなとは思うんですけども ま元々の意味で考えると物語る物語という ことですねまストーリーとはえ違う ニュアンスが込められているえ物語ると いう意味合いでえまフランスで起こった その構造主義の考え方から例えば非常に よく知られてるロランバイマフェ ができているというえまそれを持ってして 作者の死という言い方をで表現されこれは 非常によく知られてるえバルトの考え方 ですよねまその後え物語論としてはま様々 な あの分析考え方がえ続いていったわけです けどもま例えばえジェラールジュネと書物 としては物語りのデスクールという本がえ 日本語でもあの読まれてきていますしま 日本語の物語の中では最もあの影響を与え てのはジネットという風にされています けどもえ内容形式というえまバルト以前の 物語に対する考え方えに対してえま ナレーション物語行為え語りそのものを 導入していくとまバルト以降そのような 視点が入ってくるわけですよね物語行為と いう視点が入ってくるでジネットはそこに 焦点化というえま概念を持ち込んでえ さらにそれを発展的にえ論じていますねえ それから例えばえまあのそうですねえっと えウェインブース えまアメリカの理論家ウェインブースがえ 論じたえ内法された作者という考え方が ありますねえ作者を知りとけてもやはり 作品を読んだ時にそこには作者らしい作者 の影みたいなものがどうしても感じられる それを内法された作者とま作品の内側 テキストの中からあの論じる視点になり ますけどもえ内法された作者っていう見方 でえま作者をえバルトのうに完全に知り とけてえ考えるというよりはあのもう1度 作者を呼び込むような視点でえ物語の 考え直したというまそういう意見もあるえ ということなんですよでなんかこれは非常 にあの今文学を考える上ではかなり基礎的 な文学理論の1つにもはやなっているもの だと思いますあのなのであのまちょっと えまかなり前の考え以前の考え方をあの再 認識するとよりはかなりこれが平準化して もうあのり細かく振り返られることなくえ 使用されて 来ているものという風に捉えてもいい ぐらいえまこの辺りのナラティブに関する 捉え方分析の仕方っていうのはあのま

あちこちで分化表に見られるもの ですさてでなぜナラティブに触れたかって いうのはちょっと時間が押してきました 早く喋りますね宮太さんえ宮太さんです こちら時間がかかりすぎてますやと宮さん の話に行きますが今回のワールド クラスルーム店国語文学セクションえ作品 を出展されている宮太さんで今回代表作の 1つに数えられますえまアメリカンボイ フレンドのシリーズの1つとして発表され たオーシャンビューリゾートえ2013年 えこちらが展示解除にありますね20分 ぐらいでしょうか全部であの分数としては えもうご覧になった方まだのの方 いらっしゃると思いますがもうあの非常に 宮城さんのまま特徴と言ってよろしいん でしょうかあの宮城さんの作品に対する 考え方え感じ方っていうのがあのこの1つ の作品によく出ているあの代表作だと思い ますでまちょっと非常に先月なんですけど この過剰書けでえいくつかそのえ要点的に あの言葉としてえ書いていますがえ一体 どんなことがこの先にされてるのか風景 固定ショットの移り変わりまご覧ま作品を ご覧になった方が早いということになり ますがま固定ショットまそれがずっと変 あの写っていくって感じなんですねまあの 非常にその風景がですね風景が語るって 言ってもいいのかなちょっとあのうまく 言えませんけど風景が語っていくしかも その細かくあの変化させるんではなくて ある程度の連続的な事件時間を持続的に こう固定した形でえ え扱っているのでまそれによって受け手側 に換気されるものがあるですよねでえもう 1つこの先の1つ特徴としては作者自身の ボイスオーバーナレーションがえ映像に 重ねられているということまこの辺りも後 で伺いたいと思いますそれから僕とYと いう友人沖縄の戦後Yのソフトえ米軍編え 映像の視点というのはこれはこの作品の中 で誰の視点であろうかえで僕という風に 語られるけれどもそれはえま作者自身 物語りの登場人物という風にまあえて書い てみましたがえまどのようにこの語り手 12章語り手は受け取られるんでしょうか え宮城太さんはえ映像作品を通る一方で 小説を書かれてていますえこれはこちら カバーはえ2019年え川出消防小説集 ディスタントえこの中には3つの小説が 納められていますえその暗闇を見るえと いうえその中の1辺ですねタイトル暗闇 見るという小説があるんですけどもえこの ように書かれている箇所がありますえ数 ヶ月後に控えていた古典で初めて映像作品

を発表することにしていたカメラを デジタルに変えてから写真よりも映像を 取ることが増えていたこともありこれまで は躊躇していた物語性の高い長編の映像 作品を取ろうと決めた様々な風景を 映し出す映像に語りが載せられ場所の記憶 と個人の記憶そして閲覧者の記憶が 結びついていくそんな作品にしたかった ナラティブを美術に持ち込んではいけない いつかそう私に行ったニューヨークの評価 の顔が完全に浮かび頭を振ってそれを かき消して車窓の外の風景を眺め 作品の映像素材として島の風景を取るため 数年ぶりに規制する物語の導入部分は すでに頭の中にできていた え リスタンダードの評価がいったとまこの 作品の語り手はえま作者と重ねてえ良いの かなという風に受け取れる部分が多いん ですけどもまいずれにしましてもねあの ナラティブえ美術に持ち込んでいけないえ とするとそれはなぜどういう観点からえ 宮城さんは持ち込んではいけないとはお 考えにならないからあえてえそれを 持ち込む手法としてえ選んでいるという ことになりますよねえそうするとえ一体え その違いはどういうことなのかなんで ナラティブは美術に入れてはいけないって いう評価の意見があるんだろうかそして あえてそれを超えていこうえあるいは ナラティブをえ入れていいんだえむしろ 積極的に導入したいんだというのはどう いった観点からの発想ということになるん だろうかこれを宮城さんに聞いてみようと いうところ で私の話はえ終わりにさせていただきます ありがとうございまし たありがとうございますえそれでは ディスカッションのパートに入っていき たいと思いますモデレーターをあの森 ビーズ館アシスタントキュレーターの矢 学ぶが務めますではやさんよろしくお願い しますはいよろしくお願いしますえっと今 紹介がありましたようにえっと私あの森 美術館でアシスタントキュレーターを務め ているえ学ぶと申しますえっとこれから えっと8時までの予定なのでえしばらく3 人で話した後え最後10分ほどはえっと 会場の皆さんから質疑音は乗りたいと思い ますので是非聞きたいことがあれば8回 先生と宮城さんに色々質問をしてみて くださいで8先生のそのえあそうですね 八海先生そのプレゼンテーションすごく あの下に飛んでいて飛んでいてえっとさ 文字や言葉というものを使っているえっと

芸術であるそのま資格士まコンクリート ポエトリーというものがそのナラティブと いうものをまなんて言うんですかなま含ん でいないものになっているその言葉という あの文字を使ってるにも関わらずそれとま 宮城さんのえご自身のま記憶を経験を交え ながらフィクションを持ち込んでえっと ナラティブを語るというその退避という ものをえまある意味えちょっと提言させる ためにえっとプレゼンテーションをして いただきましたで確かにそのナラティブっ て資格芸術の歴史を見てみると結構曖昧な ポジションには常に置かれていたかもしれ なくてでま西洋海外の歴史を見てみたら 例えば歴史画とか宗教画とか新話を描いた 場面っていうのはま1つの切り取られた 場面なんですけどそこから何か物語ろうと しているあのということもありますし宗教 側に関してはあの元々ま文字を読めない人 がその絵を見ることでその宗教の1番面を 知ることができるということもありますで まあの宮城さんは映像作家なのでま映画の 歴史で言うとあのま未来のことを話されて ましたが20年30年代のパリでは純粋 映画という前衛のえっと映画運動があり彼 らはあのま映画っていうのは像映像を持っ て人を驚かせるあのなので物語っていうの は2の次なんだとえ物語というのは文学と かえあの演劇に語らせてけばいいえっと 映像っていうものはあの資格を通じて人々 にいろんな感覚を起こさせるということで えっとそういったあの全運動本当にシール リアリズムとかダダイズムの有名な アーティストが色々参加していたという ことでそのまナラティブっていうのが資格 芸術の中ですごく本当に曖昧などういった ポジションについているんだろうかって いうのがあの 先生の今のプレゼンテーション来て僕も もう一度考えさせることができましたで えっと最後のスライドでえっと宮城さんに 聞いてみようということだったのですが えっとまナラティブを美術に持ち込んでは いけないという経験あのまこれはもしかし たらニューヨーク2001年に行かれて そこから資格芸術まアーティストと活動 することをえっと志されてだと思うのです がもしかあのあのまそのナラティブを 持ち込んではいけないと言われたその時の 経験と同時にそもそもなぜアーティスト 資格芸術という分野をえでまキャリアを 築こうと思ったのかっていうそういった ところからもお話しいただければなと思い ますはいありがとうござい プレゼンテーションありがとうございまし

たちょっとこの書いた言葉について は本当に言われたことなのか今となっては 確かなことは言えないんですけどなんかで も風情してあったなっていう感覚はずっと あってますごい端的簡単に乱暴のい方する と多分個人がりはいけないみたいなことだ と思うんですけどまやっぱり美術としての 設であったり歴史があってそこへの引用 なりがあってそういう言説の上に 成り立つ物質なり何かしらの美術としての 作品があってそこにロマンティックな個人 語りが乗っかってくるとある意味ちょっと 京都が失われるじゃないかみたいななんか 捉え方があったような感覚がありまして で自分としてはでもどうしてももちろん その美術予参照したアーティスト ステートメントを書いたりとかまやるべき ことはしてるんですけどどうしても文章を 書いてると文章というか作品についての 文章とか作品を作る上での何かしらのま スケッチみたいなものを文章で書いている と自分的なものというか物語がどうしても 入り込んでくるんですけどじゃあそれを どうやって見せたらいいんだろうって ずっと考えていてま当時最初の頃は やっぱりその美術史的な流れの中で収まる ような見た目のオブジェみたいなま例えば 何ですかねちょっと時代は後の作品なん ですけど例えば灰皿に吸殻がポンって置い てあるだけの作品だったりとかま何かしら の物語利用性を感じするけどそれ自体が 何か語りかけてる物1つの大きな物語を 語っているわけではないていう作品みたい なものをなんか断片化していってその作品 を1つの空間にインスタレーションとして 立ち上げるみたいなことをずっとやったん ですけどでもそうするとなかなか伝わら ないなっていうところもあってやっぱり 沖縄出身だったので沖縄のことをアメリカ で伝える時にどうしたらいいんだろうって いう葛藤がずっとあってそういう活動して いるとま聞けば答えるもちろん答えられる けどその作品からなかなか その地理的政治的な沖縄のあり方みたいな ものが伝わってこなくってじゃあどうし たらいいんだろうってなった時 にその美術における歴史だったりの引用の 仕方みたいなのはずっとまと手法として 使ってきたのでその手法だけ残して 思い切って物語を作ってみようで思って 作ったのがまオシャンビューリゾートで あれもまあ 物語の表面には出てこないんですけどま 食い足だったりとかエズききの時代のこと と

か映画の 歴史過去の映画マッダグラッサークとか ファスビンダーとかそこら辺の作家への 参照もなんとなくしていたりっていうので バックグラウンドを積み重ねていってその 上であの映像になっていったという感じ ですか ねはいありがとうございますあああえっと そのジオシャンビュリゾートの中では語り が変化するっていうのがありますよ ね語り手が変わるっていうのがありますよ ねなんか映像と語りがちょっとずつずれ たりとかあとその柳さんあ宮城さん自身が その英語でそのナレーションを入れていく とかまその英語もそのアメリカに滞在ささ れていた時よりも少しずつ自分の中から こうある意味こう薄れていくようなあの 変わっていくようなところもそのまま見せ たいという風な思いでナレーションをえ 入れられてるっていうのを読んだことが あるんですけどもその映像とナレーション の関係みたいなことはいかがですかそう ですねなんかそれもアメリカにやった時に 見たいくつかの映像作品だったり写真作品 からの影響が割と強いかなと思ってい てなんというか文脈的というか表現として は全然繋がらないんですけどえロバート スミッソンが作ったスライドショの作品で 名前がホテルなんとかっていうえっと メキシコがどっかの古いホテルの写真を ひたすらひたすらというか色々撮ってそれ がスライドショになっていてそこに彼の語 が乗っているって作品があって確かそれも 土地の歴史とかそういうことを語ってたと 思うんですけどなぜかそれが強く印象に 残っていたりとかまイメージというか背景 の語りとしては当時すごくボストン派の 写真家ナンゴールデンとかマークモ リスロンとか彼らが作り出して写真で 作り出していたア種の物語あのエイズ危機 の時代があってまなんという かあるシ そのエズ機器の前の時代の写真とかだと 何かしらのすごく物語性がそこで生まれて いるような気がしていてそのやっとこう いう写真が撮れるようになったのかもしれ ないけど絵機になってちょっとまたなんと いうかそのイメージの作り方みたいなもの が暴力的に変えられた変えさせられた みたいなところがあるのかなって思ってい てえごめんなさいどういうことでしょうか 何ですかねなんかすごくちょっと映像の 素人としてよく分かってないとこがあるか なと思っていて自分はねそうですなんか 暴力的に変えられたってどういうこと

でしょう かやっぱり その江豆時代になってま政府だったりその 社会の視線が全くガリと変わって かつ当事者たちの身体にもやっぱり大きな 変化とかもあってその70年代とかに 例えば彼らが撮っていたようなあそれとか 80年代前半に撮っていたすごくなんて 言うんでしょうねパーティーがあってその 残りがみたいなのが取られているっていう 瞬間がすごい好きでなんかそう いうロマンティックかつあの今までは表に 出てこなかった関係性みたいなもの をなんですかねメイプルソーブみたいな やり方ではなくもっと密な方法で伝えて いく書法を彼らは最の段階では取ってたの かなっていうところがあってま その親密さとか写真でその親密さ今まで表 に出たかった親密な関係性を表現するって いうところは者ミリとか のなんか繋がっている部分かなというのは ありますか ね実際にその資格と言葉を使われています けど資格で説明しようとしていることだっ たりでもここは言葉でいいやというなんか そういった違いのバランスっていうものは どこかで取ろうとはしているんですか 例えばオーシンビューだとフェンスの存在 っていうものがやっぱり大きいんですが はっきりと出てくるかなっていうことも 映像の中でそういう風に言葉として人々に 想像させたいものとでも資格的に見せたい ものの違いっていうものは何か映像を作っ てる間で考えたりはしますかそうですね ま何を映し出すかみたいなところは割と 意識的にやっていた気がしていて例えば 沖縄におけるま基地の中の男性と沖縄人の 男性の関係性みたいな歴史を調べていく中 でま当事者を探し出して彼らの語を 取り入れるっていうことも可能だし基地の フェンスを取ることも可能だと思うんです けどまそこにやっぱり何かしらの暴力性が 出てきてしまうってなった時に自分的には それはしたくないなってなってそこの保管 するものとしてある種そこに繋がっていく ような 物語を風景 に重ね てその風景の中にあったかもしれない関係 と風景そこにあったかもしれない風景を 言葉とま割と映像も写真的だなって自分的 では思ってるんですけどま固定書となので そのイメージの連続 とある意味こう移り変わっういでいくよう な言葉の連続でできないかと思ったのがま

この作品に関しては作ったきっかけという か同期がまずあったと思い ます今のあの矢さんの質問とえ宮木さんの 回答にまちょ少し関連することになると 思うんですけどもその宮城太さんの作品 っていうのは今現在の時点で考えますとま 例えば映像作品が先にあるとでほぼ同じ タイトルかえ英語のタイトルを日本語訳し たタイトルに持ってきてで小説を言葉で 書くとでその両者の作品の間にはえ ちょっと違いがあえて仕組まれている つまり映像作品書い作ってた内容とは部分 的に違うもの小説作品であってでも2つの 世界は重なり合ってる重なってないとこと を重なってるとこがあるようなもの例えば そのジオーシャンビューリゾートじゃない けどもハウメニナイツっていう作品があっ てそれをおあの行くよっていうタイトルま 漢字2文字で行くよっていうタイトルにし た小説にしてちょっとち登場人物は少し 変えてシチュエーションも変えてていう風 にされてますよねそういう風にしてあの 作品がこう映像と言葉とであ るっていうのがあの決して両者が保管的な 関係にあるわけではないということだと 思うんですよねそれぞれがこうなんか自立 的なものとしてあってしかしバラバラでは ないでもここが非常にあの宮城さんの手法 としては独自なものではないかなと思うん ですけどもえその辺に関してご自身の感触 というのはどんな感じですかねそうですね 最初に1番最初の小説まアメリカの風景 から暗めを見るとかもそうだと思うんです けど書いてた時 はま映像作品があってその世界の物語を 小説にしてみるって感覚だったと思ってた んですけど書き続けているとなんかどうも 違うようだと気がつき始めてもしかしたら この2つの世界は同一の世界じゃなくて ちょっとずれてるんじゃないかなって今 思ってい てある種まパラレルワールドとかそうでも ないんです けど例えば同じ登場人物が出てくるけど 違う行動をしていたり彼らが見ている風景 も全然違ってくるし まそのの言葉と写真あ映像なので彼らを 取り巻く風景とかももちろん違ってきます し その映像でどこまで早期できるかみたいな 部分を取っ払った時にどう彼らの物語を 作っていくかだったり関係性とか風景を 作っていくか と考える と

なんというかその同じ世界にいさせる必要 性はないんじゃないかって いう考えに最近はなってなのでヨとか はなんというか映像作品とは一部繋がって はいるんですけども割と全く別物というか 参照元はどっちも近いんですけど物語とし ては かなり最終的には違ったものになっていて 多分 君あの映像の登場人物と小説の登場 人物は同じ世界を共有してないのではない かと今は思っていえそれはすごく面白い ですねあの似て非なるものっていうか 重なってるように見えるけどやっぱり ちょっと人物も構成も違ってで え違うものだという認識でいらっしゃると いうことですねえちょっとジオシャン ビューリゾートに戻るんですけどもその 基地のフェンスを挟んでえのこの男性同士 のやり取りとかあとま宮城さんの作品の中 にはよすよくレースのカーテンが出てくる と思うんですよねでそういったものを用い ての教会境目の表現というものについてえ これまでも言及されたことがあると思うん ですけどえ今それをまどのように捉え てらっしゃいます かそうです やっぱり結構教会のあり方みたいなのも 割と自分の中でも捉え方に変化があってま 最初はフェンスだったり海だったりという 声あるし超えられない教会があってでもま そこを返してどうにか交流しようとする えっとソフト米軍兵みたいな関係性があっ て かつ現代にこの語が戻った時にレス カーテンていうすごい柔らかい教会を境に して僕とY が語り合っているっていうその柔らかな 教会のあり方というのも作ってるうちに 見えてきて その何ですかね教会フェンス教会という もの が絶対的なに強固なものだと最初は やっぱり基のフェンスっていうのがまず 大きなものとしてあったしすごい小さい 小さい島まで育ってるので海がもう途方も なくて怖すぎる教会としてまずあったって いうのもあるのでそのある種の固定観念が あっ てでま作り始めた時はそれはそれを割と 強く意識していたので舞台設定も海辺の ホテルにしたりとかま関係性もフェンスを 返した関係性とか にとかえにしてたんですけどま映像作品を 作ったり作品を仕上げていく中

で僕とyの関係性にもやっぱり境界線と いうのはあってかYはおそらく えっとヘテロセクシュアルで僕はかつて ワイに恋をしていてっていうもうそこも 割と強固な境界線として存在しうると思う んですけど同時に なんという かその強固さが会話によって揺らいでいく みたい な物語を書いてるうちにそういう感覚が あってで最終的にはその最後にレーズ カーテンを返したことのすごく親密な関係 性みたいなのに繋がっていったのかなと 思い ますありがとうございますはいじゃああの その物質感とかというものでお聞きしたい のかま今まであの今さんの映像作品小説に ついて話していますがそれ以外にも例えば 刺繍であったり糸を使った作品っていうの もありましてで糸を例えばえ使ってま文字 をえこえなんて言うんですか文字をえっと 壁にこう書いていくようにえ作品化すると いうものもあってそのそこら辺そのものに 対する感触と かなぜ糸とか刺繍なのかっていうまそう いった柔らかい回線というものに関係し てるのかもしれないんですがちょっとその まえ映像と小説とちょっと離れるかもしれ ないんですがそういう手もお話しいただけ ますかそうですねなんか個人的にその刺繍 意図刺繍の方の刺繍なんですけどの作品 作ってる感覚ってま自分個人的には日記は 書かないんですけどある種の日記的な行為 というか反復性のすごく高い行為という かこう反復してずっと描くのか縫うのかし ていって何かしらが出てきてでまそれを 消したりとかあるいはほいたりでき るっていうところにすごい惹かれてるのか なと思っていて割と初期からも その何かを消す何かを元に戻すとか何かを 一度作ってそれを崩していくみたいな ところにすごく興味があってそれは必ず しもネガティブなことじゃなくで何かそこ から見えてくるものがあるはずという ところから始まってたんですけどなんかま それもアメリカとかで見せる とブッディ的な何かなのかみたいな言われ 方をしてしまったりもするんですけどなん かそれよりももっとパーソナルなかつなん ですかねその結局物語を書くとか文章を 書く声にも繋がってくると思うんです けどこう連続的に何かを紡いでいって結果 的にそれが他者とつがる可能性になると いう か昔作った作品で毛糸で基地のフェンスを

作るっていうのやったことがあってでその 一部を切り取って毛糸に戻して手袋を編 むっていう作品を作ってまそれは米兵に 当てた手袋っていう設定で作ったりした なんかこの例えばは日記なり何かしらの 文章手紙なりをこう親密な関係性の中で 共有して関係性を継続させていくっていう 多分それ こそ過去の幕屋の人たちだったりあるいは もしかしたらそのもっと昔は女性たちが こう交の手段として行ってきた文章の やり取りみたいなものにも繋がっていくの かなと個人的には思っていて僕はちょっと 今のはえっと西原早朝が プレゼンテーションの中で話していた えっとベンヤミンの箇所だったと思うん ですが物語っていうのが諸々の経験を交換 する力があるという風に話していたのと僕 はすごくつながる気がしてであとはま構造 主義のところでそのテキストっていう問題 でそのテテキストっていうものがただ個別 に存在するだけではなくいろんなもの テキストと一緒にあの存在していてま 例えばその作者の死っていうもの考えが出 てきたりっていうその編み物とそそのテキ ストっていうかかり合いもなんか僕は すごいあの宮城さんの作品を見ていて 面白いなとは思っていましたねそうです さっきのあの長のプレゼンテーションで出 てきた手仕事的っていうあのキーワードは すごく繋がるかなと思います僕ちょっと そういう意味でま僕こういった物語性って いうのをアートの中現代ビスの中で考えた 時にやっぱりアイデンティティっていうの はすごく重要なんじゃないかなと思ってい て 特になんか70年代まエズの頃の問題も そうなんですがやっぱりまあの片岡さんの プレゼの中でもあったようにその地域が 広がっていく中で本当にま西洋だけでは 以外の歴史とか経験っていうものをどうに か組み上げていかないといけなかったりま ニューヨークでもま様々な人種民族 ジェンダーそういった価値観がたくさん ある中でやっぱり表彰切り取った表彰だけ では限界があって物語を語ることによって またえっとまあの西早朝のあの プレゼンテーションを借りるであればま 経験をもも色んな経験をえ交換する力って いうのが生まれてくるんじゃないかなと 思っていますなのでその沖出身の アーティストの立場からでこれはもしかし たらあの八海さんが先に最初に話していた その国語っていうものが日本の日本語であ るっていうことその沖縄の歴史っていう

ものを考えて上でその沖縄から何かを語る となった時のそのどういった考えとかその 場面設定でもいいし気にかけていることが あるのかなっていうのはないのであれば それはそれでいいんですけれど もなんか先ほどの直接的に繋がるかわかん ないんですけどプレゼンテーションで色々 国語の意味を見せていたいたんですけど その中に方言が含まれていてやっぱり すごいハトして僕自身はもう沖縄の方言 喋れないし喋らないで親世代とかになると 学校で喋っちゃいけないって言われてでも 定義としてはそれも国語であるっていうま 分かりやすい矛盾が起きていてある種沖縄 の生まれた人間として本来の沖縄の国語と しても語ることはできないというところが まずあってでオシャンビューリゾート さっきちらっと質問がもしかしたらあった かもしれないんですけど英語で語っていて それもまその沖縄っていうすごい政治的な に色ま緊迫した場所でそれでもアメリカに 憧れていたま自分っていうのがい てでま実際にアメリカに行ってでま距離を 取ったことで沖縄のことも見えてきたこと もありますしまこれまで見えてこなかった アメリカの文化だったりまそれこそクリア 理論とかクリアリーディングみたいなもの との出会いがあってでそういうま向こうの 文化向こうの言語をまある程度体得して 戻ってきたけれど数年経ってこうボイス オーバーを語り自分でやろう英語でやろ うってなった時にま片言に戻ってい るっていう結構衝撃的な体験があってそれ はあのロナを下手今もまた同じような体験 をしてるんですけど何と言うんですかね 言語を忘れていくってつまり多分かつてい た土地の文化を忘れていくことでもあるの かなっていうことだと思うのであえてそこ は頑張らずにその時のそのただしいままで 語ってみようというなのでま前提として 沖縄の言葉がないっていうのと自分の中に で日本語から離れようとして英語に行って でもそれもまた忘れようとしているみたい な移り変わりが背景としてあるのかなとは 思いまし たその辺りの視点というのは何だっけもう いなくなった人たちでしたっけタイトルい なくなってしまった人たちのこといなく なってしまった人たちのことっていうんで ウィルタでしたっけウィルタじゃなくて えっとそっかあれでそうですね見るあの 小数民族のあの人が作った資料官があった んですよねジャカドフニっていうあのもう 亡くなった作家のあの津島裕子さんが書か れた作品に書かれていたですけどもまそう

いったあのやはり少数言語というかえま 消えゆく ものに対する視点っというのがあの今伺え たかなと思いますよねま沖縄の言葉そう ですよねねとなんか子供の頃はやっぱり はいなんか自分の中で多分アメリカへの 憧れとかも大いに関係してると思うんです けど沖縄の方言とかなりを喋りたくないっ ていう気持ちの方が強くて自分から積極的 に話そうともしなかった部分もあってま それももしかしたら構造的な何かしらが あったのかもしれないんですけどそれもま 育ってきた中で例えばおじちゃんおばあ ちゃんが言ってることはらないけど積極的 に意味を聞くこともなかった しま同級性だったりが割と沖縄の今口って 言うんですかねとかで話してるのも ちょっと自分は距離を置いてた記憶がある かなと思い ますでこれはちょあの僕お2人に聞きたい ことでえっとま8回先生にはえっとあのま このトクイベント前にでは聞いたんですが その言葉のあり方っていうものがこの社会 の変化と共にこう変わっていくのかって いうのが僕はすごく興味がありえっとま 例えばコロナを経過したことでその言葉の 性質というかまあとは人々が言葉ににに 対する感覚っていうものが変わってきて いるのかとかまもちろん日本ではま震災の ことがあったりええ宮城さんはまえ 2001年に行かれているので911が その年にあったニューヨークに住まれた りっていうのでまあの実際それが影響され てるか分からないですがただあの本の中で はコロナにあって沖縄になかなか帰ること ができなかったことでいろんなまたそう いった感覚の違いが生まれたという話して いるのでで先生はもちろん若い学生たちと いつも授業したり彼らの下実際授業の中で 作ったりっていうの中でその言葉のあり方 っていうものとその社会のその変化って いうものがどういう風にな見せし合ってる のかなっていうのはお2人の感覚的にあれ ばちょっと聞いてみたい ですまその沖縄が遠く感じ るっていうのは何ですかねまあ頻繁に割と 変住んでいないとはいえ帰っていて 何かしらやっぱりいること で感じるものって確かにあるますごくもし かしたら空気感っていうものすごく曖昧な 言い方しかできないかもしれないんです けどそれが確かにあって言葉で誰かと喋っ ていても言葉ではま直接的に言わない けど何か感じる もの政治性みたいなものが

まあなんとなく見えていたような気がして いたものが23年行けなかったってなった 時に何でしょうか ね見えづらくなってきてかつそのニュース とかを見ようとする と沖縄に関するまノイズがものすごくて なかなかそのニュースを見る気にもなら なくなってき てどんどん沖縄が整いていく沖縄に まつわる語みたいなものから遠いていく ような感覚があってなんか離れていること の 限界みたいなものを強く感じた数年だった のかなって思い ますはいありがとうございますなんか私は やっぱり普段大学生の方々とま制する機会 が多いですけどやはりコロナは結構影響が あったなという感じはしますよねやはり あのなるべく 待っていなきゃいけない喋っちゃいけない し集まっちゃいけないっていうでまオン ラインでのやり取りの方が盛にな るっていう数年を過ごしたあのま若い世代 の人たちにとってま言葉で表現するま高頭 特に高頭で表現するとかま対面で表現 するってのどういう感じなのかっていうの があのやはりちょっとまだぎこちなさが 残っているような感じがあったりまその こととは少し離れますけど大体言葉は数年 起きぐらいにこう変化が見えますね3年 起きぐらいになぜかちょっとずつこう出し ていくって感じが見えますねであとは やはり今LINEなどのやり取りが多いの でやっぱり断片的な言葉が飛び越えがちだ なっていうのはあります一方で今非常に 単価ブームという風にま先ほど総長も田原 町さんのあの文章例出されてましたけども あのすごく単価ま俳句もなんだけど特に 単価が今若い世代ま大学生の人たちにも とてもあの盛な感じがありましてですね あの結構いい作品を作るんですよね大学生 がねすごいなっていう感じのものま単価も 俳句もなんだけどだからそういうシカに 関する表現っっていうものは あのまむしろ濃密になっていると言っても いいぐらいかな盛になっているとも言える かもしれませんねはいなのであまり人 スナーにこう悪い方に行ってるとか薄まっ てるとかいうことは できなていう印象は持ってい ます残り時間がもうあっという間にあと 10分ほどなんです が宮城さんから8海先生何か質問があっ たりします [笑い]

か あ結構あのここにも八海さんの本を持って きていただいて結構読んでいただいている のでなんか質問する機会を1回ぐらい設け ないと なんか個人的にもまおしブリルともそうだ と思うんですけど 翻訳のことを考えることが多くてで補助機 を読ん で何ですか ね その家だったり庭の風景が現代の自分にも ありありと割と想像できるっていう新鮮さ があっ てそれっていろんな意味の翻訳がもしかし たらあるのかなって思って言ってた昔の 言葉から現代の言葉っていう翻訳もあると 思いますその昔の言葉で浮かび上がってい た風景その風景を翻訳するみたいな意識も あるのかなとなんとなく読んで思ったん ですけどはいありがとうございますあの今 加の長面の法定機これはですね高文社の 古典新学文庫のことですでま家だったり庭 だったりとしただったけど800年前の カモの長明の家とかにはっていう話なん ですけどそうですね風景が浮かぶって いうよりはどうですかねやっぱり言葉の むしろ共通性みたいなところが日本語の 古典作品に関してはあの発見や驚きがある ところかなと思いますよね確かにそうです ねまあ当時の住まとか季節官とかあとまの 郊外ですからあの法常機の部隊っていうの はそのやはり山の自然の感じとかはあのま 現代非常に気候変動が激しいのでま徐々に 移り変わっていると思うんですけどえとは いえねやはりあの繋がるところがあると 思うんでまそういうものが全部は見えない ですよねでもあの垣間見えながら進んで いくみたいなとこあってそこはおそらくえ 宮城さんが映像と小説言葉による小説との 間で感じられてるとことも繋がるのかなと 思いながら今伺ってまし たありがとうござい ますではえっと 皆皆様の中でえっとお2人に質問などあれ ば是非教習くださいあどうも有意なお話 ありがとうございます八海先生にあの現代 アートについてこう死の捜索で干渉する 可能性ということについてっとお伺いし たいと思いますなんか死の現代アを指令 干渉することの可能性についてなんか先生 のお考えをいただければと思います現代 アートえ死で干渉ですか死にするはい死に すること死にする行為によってなんかまた 新たな感死にしてください今日帰ったら

今日の感想死に書いてみてくださいうんで もなんでしょうねやっぱり見るだけじゃ なくて自分自身でそれぞれが何かをそっ から作り出してみるとあのそっから見れて くるものがさらにあるでしょうしねだから まさにさっき22正位の例っていうのは そのま22正位自身はそのノンバーバルな 表現はしではないとか言っているけども やはり あのアートと現代アート的なま資格的な 表現っていうのとあのま言語表現としての 死っていうのは通じ合うところもあります のでね だからま区分けすることは重要でありつつ その区分けを取っ払うこともまたえ大事な 行為でそこがやっぱり立ち止まらずにいつ も揺れ動いてるところでこそ思考していき たい考えていきたいっていうそういう領域 なんじゃないでしょうかねありがとう ございますえっとすいませんあの貴重な あのお話を伺えてあのすごいいい回にあの 来れたなと思っているんですがこう話の中 でこうなかなか 見見えることと見えないことていうのが たくさんこう重要なキーワードとして出て きたかなと思っていてそれこそあの宮城 さんの作品は映像作品ですからこうある種 こう何かを見ていくという行為の中での 発見っっていうものもあるでしょうし あるいはこうあの先ほどの鴨の長目の法常 機の翻訳の中でこう垣間みな垣間見え ながらあの見えることっていうのがある ような気もしていてあの1つこうちょっと こう対談のをあのなぞったてこう僕が解釈 していっているだけな気もするんですが こうあのそこのこう見えること見えない こっていうところのこう重要性みたいな ものがあるのかなって思ったんですけど その資格の重要性というか見ることの重要 性っていうのが1つあるのかなって思った んですがあの宮城さんと八川先生とにこう ちょっと伺ってみたいなという風に思った んですけれどいかがでしょう か何ですかね個人的な政策だったりの多分 立位としては 何かを不かし化しようという力にどま言葉 としては強いんですけど何かをふかし化 しようとするものに対してどう笑っていく かみたいな感覚はあってまそれですごく 有効だったのが引用っていうことでま過去 のま簡単に言えば古典だったりいわゆる野 の物語を描いてない物語だったりを分の 作品の中に取り込んで自分の物語として 描くことで見えてなかったものを見えて くるまいわゆる悔的な手法のま

すごく重だった手法だとは思うんですけど そういう考え方が強いような気がします目 の前にある風景があって見えているけど そこに見えてないものだったり見えなくさ せられてしまった関係をどうくかという ところなのかなと思いましたありがとう ございますなんとなくこう基地の壁みたい なもののその教会のあり方ともちょっと あの繋がるのかななんて思いました ありがとうござい ます最初にあの西原学長からお話いただい た話がすごく興味深くてやっぱり サイエンスは神様が作ったすごく美しい 世界があるとでそこにいかに近づくかと いうものがあるんだと思うんですですねで そういう中にその世界っていうのは ナレーションはいらないはずなんです よその一方で芸術っていうのはその個人の 思い俗の思いとかいろんなものがありその 表現の中においてナレーションっていうの 出てくるしまばそこ後のゆり動きながら ですね芸術っていうのが育ってきたんじゃ ないかなって感じも持ってたんですねで 現代とっていうのはそのいろんな思いを いろんな形で使いたい時にナレーションは 当たり前のようなツールになってきてたと でそのことに何の違和感はないんですが 今日こうやってなんでナレてィビルスに 持ち込んていけないのかっていうう定でが あってハッとしたんです ねそとまたなんかそのナレーションって 言葉じゃなくって見て伝わるそういうもの がやっぱり大事なんだってことをひょっと して理されたのかなと思ったりしてで ちょっと聞いてたんですけどももしもなん かそういう感じがあればちょっとお話し いただければ嬉しいなと思い ますありがとうございます あの今伺っててまたあのなんだろうまた こう逆転させるようであれなんですけども え宮城さんの表現っていうのはしかし ながらこう映像で撮ったものを今度また 再び再びというかあえて言葉でまわざわざ て言うと語弊があるんですけど映像で撮っ たもの言葉に置き換えてて小説作品され たりしてるんですよねだから見 るっていうことを先に作品化してるけど それはあえて言葉で11後でまたこうもう 1度書くっていう行為にをされて るっていうまその辺りと今の質問っていう のは繋がるかと思いますがいかがでしょう かそう ですさっきも控室でちらっとお話したん ですけどその小説にするってなった時に 1番課題となったのが映像に映らないもの

をどう言葉にしていくかっていうところ で最近すごく意識してるのが風景を見た時 に風景を映像に取ってあるいは写真に撮っ てそうする時ってま全部が1つの情報とし てあってかつ意図しない情報も入ってきて いて一方の文章の方は自分で見たもの あるいはそこにあったかもしれないものを 言葉で立ち上げるってなった時 になんか自分の中の今の課題とし てその目の前にあるものを映像写真に頼ら ずに言葉で立ち上げていくのはまだまだ できていないなと反省するところが反省と いうか思うところがすごくあって そのま両者を近づけるとかではまないと 思うんですけど言葉の世界でいかに風景を 作り上げていくかっていうところに興味が あるというかあのということはもう小説を 書き始められてるわけだからもう小説の 言葉の表現だけで良くなって映像が薄れて いくということはないんです かえっと作品のアウトプットとしてとそれ はないような気はしていてなんかちょっと 繋がるようでもしかしたら繋がらないかも しれないですけど今年から僕美大であの 講師というかまただ生徒と話すだけなん ですけどということをしてて湯が油かの 生徒とで今の彼らの課題がちょうど風気 映画なんですよねでまその僕じゃないん ですけど先生から出された課題が写真とか じゃなくてその場にいてその場で書いて くださいますごい基本的なことなんです けど結構最近残って写真から書いてる子が ほとんどみたいでまで彼の写真を見ている とあ写真じゃない絵を見ているとそこ にま時間の蓄積だったりういが確かにあっ てなんか写真と映像を撮ってきた身として はそれすごい面白いなとも絵を書いたこと がないのでもしかしたらすごい基本的な ことかもしれないんですけどその 移り変わりが1枚の絵の中に見えてきて で聞いてみるとそれを意識している学生も いればま意識のいにあそういえばそうかも しれないという学生もいてその表彰美術の 中でもその何ですか ね言語的に立ち上げられる何かがもしかし たら 別の方それこそまた刺繍とかにも繋がって いかもしれないんですけどなんかちょっと 今まで自分が油というものを書いてきたが ないがゆえに見た新しい身体性というか この反復性みたいなのを見た気がして すごい新鮮な気持ちで今いるところです ねあの宮さんの作品では特にあの アメリカンボイフレンドのあの部作などで あの音楽って要素がえまのようにま感じて

えっといるんですけれどもあのその点 なんか宮城さんにとって音楽っていうのは どういうものなのかなとというのはえま あの特に19世紀までの音楽というのは あの構造があって始まりがあり終わりが あるとそうするとなんかもう語りにしても 映像にしてもま1つこう秩序というか枠が こうまある意味えっと音楽の方からこう力 づくで与えられてしまうとでそれをま何か そう作品を作る時にその音楽の秩序感とえ 富さんの語りというんですかあの作品の その時間の流れとなんかこう意識してるの かあるいはなんかいや添え物なのかあの その辺りあお考えを聞かせていただければ と思いますはいうんまオシャンビュー リゾートに関して言うとベト弁の音楽を 使ってるんですけれど も僕自身 がクラシックを勉強してきたとかそういう わけではないのでそのなんて言うんですか ね構造とかというところで言う とそこはあんまり作品とは繋がってこなく てむしろなんというかその音楽がたった 歴史まいわゆる第2次対戦中にベト弁の 音楽がいろんな国でいろんな思惑の元で 使われていたっていう背景があったりとか あとは まあどっち側の音楽 ま今回の今回のっていうかシャンビ リゾートには出てこないんですけどすごく 参照した音楽というか映画とも言えるん ですがえっとリリマルレーンっていう えそれこれもパスビンダーが映画にしたり してるんですけどまナチスドイツ側の歌手 で歌っている歌手の人がリレマレンていう 歌を歌うと戦争が一時的に止んでその音楽 に耳を傾けるみたい 施術を元にしたらしい映画があってま実在 するミュージシャンの歌だったりするん ですけどそういうなんという かいわゆる教会線のある場所で流れる音楽 が何かを起こす可能性みたいなところに 強く惹かれていてそのやっぱり米東弁の 原型地重層とかも調べると慰安的な目的で 放送がされたりとかしてたらしくてその 大工とか大子をいさまし使うっていうそう いうなんとなくベトベト戦争っって聞くと そっちをずっとイメージしたんしてたん ですけどそうではないベト弁の音楽の可能 性みたいなの がなんか音楽を聞いたりそういう音楽の 戦争中の使われ方のこととかを色々見て いるうちになんかその可能性みたいなのを この物語に重ねてみたいなと思って使いい ました

どうもありがとうございましたあのナラ ティブっていう言葉にもう一度こだわり たいなと思いましてえまあのナラティブ論 で考えるとどうしてもあのいわゆる リオタールのポストモナリのお話に ちょっと思いついてしまうんですけども いわゆる大きな物語が終焉して小さな物語 になっていくみたいなまいわゆるその科学 っていうのがそれこそ進学者が科学者だっ た時代を考ええるとそれはまさにそこが 大きな物語だったとした時にえそのその後 のポストモダニズムにおいてはまそれこそ ポストコロニアとかその尾さんが先ほど 最初に説明したようないろんなアジアの 色々小さな物語たちが1つの物語あの終焉 になっていくという時になった時に やっぱり そのまさにそこはノンナラティブなん だろうなとえとなった時にそこに書いて あるナラティブはがえかつてはナラティブ が美術だったのがむしろナラティブ者を 美術にした途端にもう今はの美術では なくなるんじゃないかというようなこと すら思うとこのナラティブを美術に 持ち込んではいけないっていうのが逆に 正解に見えてきたんですけども えあの今日の話は全てそこをひっくり返し た宮さんのこれまでのに基づいてると思う んですけどどうですかもう1度その ナラティブに関する宮城さんのお考え を難しい 質問なんかでもやっぱり自分がま ナラティブというかいわゆるメロ ドラマティックな語りみたいなのを 取り入れてき てそこから離れたいという意識もなくはな いっていうところはあっ てどれだけその語りたい多分また活動初期 の問いに戻ってしまうと思うんですけど どれだけ抽象的なま語りなのかにして今と 同じようジビリゾートと同じような感覚を 見た人に与えることは果たしてできるのか とか いうところももちろんありはするんです けどなんか今のところはま小説も書いて いるというところもあってもうちょっと 物語を頑張ってみたいというところがある かなと思い ますありがとうございましたはい ありがとうございますよろしいでしょうか では以上を持ちましてえ1日目のトーク セッションえを終わらせていただきます今 一度あのご出演いただいた8回みさ宮城太 さんそれから西原レタ早朝に白勝をお願い いたし

[拍手] ます OG

森美術館開館20周年記念展
「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」ラーニング・プログラム
トークセッション・シリーズ「知らない世界とつながってみる」

森美術館が立教大学と共同企画し、2023年6月に開催したトークセッション「知らない世界とつながってみる」では、立教大学教授陣のほか、キュレーター、アーティストなどが出演し、文学、社会、哲学、数学、科学など各分野で今まさに議論されていること、分野相互のつながり、現代アートとのつながり、「世界」の多様性と普遍性などについて語りました。

トークセッション1「見えないものを提示する試みについて」
出演:蜂飼 耳(詩人、立教大学文学部文学科 教授)、ミヤギフトシ(本展出展アーティスト)
モデレーター:矢作 学(森美術館アシスタント・キュレーター)
司会:白木栄世(森美術館アソシエイト・ラーニング・キュレーター)
配信時間:1時間32分
言語:日本語
字幕:なし
開催日:2023年6月16日(金)
公開日:2024年1月10日(水)
撮影・編集:渡辺真太郎、藤田恵実、石川愛梨
ウェブサイト:https://www.mori.art.museum/jp/learning/6511/

森美術館開館20周年記念展
「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」
2023年4月19日(水)~ 2023年9月24日(日)
ウェブサイトはこちら:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/

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Mori Art Museum 20th Anniversary Exhibition ”World Classroom: Contemporary Art through School Subjects” Exhibition-Related Learning Program
Talk Session Series “Connecting with Unfamiliar Worlds”

Talk Session Series “Connecting with Unfamiliar Worlds” is a program organized by the Mori Art Museum in conjunction with Rikkyo University. At this program, Rikkyo University teaching staff, curators and artists discussed the topical issues in fields including literature, social studies, philosophy, mathematics, and science, the links between these fields and with contemporary art, and the diverse and simultaneously universal qualities of different realms.

Talk Session I “On attempts to show the unseeable”
Appearing: Hachikai Mimi (Poet; Professor, Department of Letters, College of Arts, Rikkyo Univeristy), Miyagi Futoshi (Exhibition-Featured Artist)
Moderator: Yahagi Manabu (Assistant Curator, Mori Art Museum)
Host: Eise Shiraki (Associate Curator of Learning, Mori Art Museum)
Duration: 1 hr. 32 min.
Language: Japanese
Subtitles: N/A
Date: June 16, 2023
Released on: January 10, 2024
Filming and Editing by: Watanabe Shintaro, Fujita Megumi, Ishikawa Airi
Website: https://www.mori.art.museum/en/learning/6511/

Mori Art Museum 20th Anniversary Exhibition ”WORLD CLASSROOM: Contemporary Art through School Subjects”
Wednesday, April 19, 2023 – Sunday, September 24, 2023
Website: https://www.mori.art.museum/en/exhibitions/classroom/

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