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【遂に解明⁉】邪馬台国はココにあった⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所とは?【ゆっくり解説】



【遂に解明⁉】邪馬台国はココにあった⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所とは?【ゆっくり解説】

今回は、遂に解明⁉魏志倭人伝から読み解いた『邪馬台国』の本当の場所について紹介させて頂きます。

今回の動画は、青松光晴様の許可のもと動画を作成させて頂きました。
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■参考図書
『図でわかりやすく説き明かす日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国まで』(青松光晴著)
https://amzn.to/3HbwUJz
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このチャンネルは
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#ゆっくり解説 #歴史 #邪馬台国

28 Comments

  1. 金印は漢倭奴国王
    漢から倭の奴国の王宛のもの
    当然時代は漢・後漢時代のもの
    女王の認識は漢時代の奴国のものといえる
    倭人の認識は後漢時代のシショウからの朝貢から始まると思う
    半球の地球・中国大陸しかない大陸
    周りは海
    四方には東夷・南蛮・西戎・北〇の蛮族が住むとされた地域感
    そういう世界地図だ。
    東夷は韓の先の島々という認識だったと思う。
    魏志の東夷伝
    伝だから聞いた話といえる
    金印を与えるにあたり多少の事前知識は必要だろう。
    東夷伝は後漢時代の調べが流用されていると思う。

    倭国ではなく倭奴国
    女王国・奴国からも朝貢があったことは間違いない
    漢は倭が一国ではないと認識している。

    金印は公式なもの
    邪馬台国とはしていない
    邪馬台国は呼称・俗称

    そもそも倭人とか卑弥呼とか奴国とか
    象形文字の発祥の国は漢字に発音を優先されない
    見た目、聞く印象を簡潔に漢字に表現させる
    多少侮蔑的でもある意味彼ら的に素直な感覚なのだ。

    行ったものの話を聞き、それをまとめたものが東夷伝
    誰に行かせたか、誰が言ったか
    とにかく少数で、渡ったことのある漁師ないし朝鮮人
    通訳も含めてだろう。多分朝貢にきた倭人の帰途に数人がついてきたのだろう。

    ちなみに日本人は縄文時代からイルカ漁をする民、追い込み位できる操船力は持つ。
    渡来渡来とあちらから来るのを待つような印象が強いが
    昔から取りに行くのは日本側だと改めた方がいい。
    人も物日本人が運んだと思う。

    東夷がどういうものか知らない中国人
    ただ朝貢する前から韓とは行き来がある
    渡ったことのある者の印象認識が俗称を作る
    当時として一番盛んな国と行き来していたと思う。
    彼らが目にするのが邪馬台だろう。
    要するに出雲の神殿や各地にある出雲式神殿がその漢字名の由来である。
    ヤマトの発音ではない。

    奴国の奴はかみさんに頭が上がらない亭主
    故に女王の国という意味なのだ
    不弥国はシャーマンを置かない国
    狗奴国は奴国の属州か敵国か男シャーマンの国
    という見方ができると思う。
    伊都国は滞在したした場所といえ、少々良い漢字が選択された感がある。
    その他は聞いた話をもとにしたものだといえる。

    東夷を知るものは邪馬台国が国の中心と思う。倭国全体の国名みたいに使うだろう。
    そういう者を通訳みたいに雇えば、東夷伝のような形になってしまう。
    九州勢力と本州勢力が争っていた認識があるのかないのか・・・?
    ちなみに出雲は投馬国と推理する。
    これはスサノオの故事にちなんだ名である。

  2. 邪馬台国は無かったが正解だと思う
    史実と言う物は後年いくらでも改変できるからだ
    後世の人間が好きなように解釈し、己の好きなように細工できるのが歴史なのは
    今現在までそういう事をしてきてる事で立証済みだ
    原本が消失してる時点でいくらでも嘘を記述することが可能な訳で、信用に値する物はないんだよ

  3. 竹内宿禰睦泰に生前、言われたのですが、奴国という国名ですが、「ナコク」と読まず、「ヌノクニ」と読むのが正しいと思いませんか。八島士奴美神と書いて、ヤシマシヌミのカミと読むということは奴はヌと読むべきで、候補地に那の津があるからという先入観で「ナコク」と読むというのは心理的観念が招く誤解だと思いませんか。一般的に国名や人名を音読みで読まず、
    訓読みで読んでみれば、妥当そうな候補が浮かんでいきませんか。おかしいですか。

  4. 邪馬台国と魏との間で交流があったのは3世紀辺りで、それ以前の1世紀頃には漢字の輸入がなされた後漢時代であり、その後漢当時と思われる交流の証の金印で日本は奴国とされている。 3世紀頃というとちょうど大和王朝も台頭していた時期で、邪馬台国というのはもしかすると大和王朝のことかも? 邪馬台国というのは日本側の表音から魏側が当て字でつけた漢字名かもだし、日本側は倭国(自分たちの意味の「わ」に対し、中国側が倭という漢字をあてた)として充てられた漢字を「和」にあらため、偉大な和と書いて大和、漢字表音のタイワではなく、大和と書いて和名のヤマトと読むとするみたいにしたのかも。 こういう中国側の当て字や日本側の言葉遊びは今でもよくやっていること。

  5. カレー買ってご飯🍚歴史研究する。日本福岡金印なら筑紫出雲筑紫姫船乗って交易なら香春銅~鉄出雲鉄邪馬台国騎馬軍なら

  6. 博多と言われると違和感ないわ
    そりゃ、上陸するのも九州北部を選ぶし、近辺のことをやたら書くし、邪馬台国としても中国に使者を送りやすい立地条件

  7. 距離が今と昔じゃ違って変わるのは理解できるけど、お偉い先生方が南は間違いで東が本当とかいうのはご都合主義。
    昔の文書を解読するのに、方角を変えていけないのは絶対条件。 自分の結論に結び付けるためにやるから強引な解釈、証拠の捏造なんかが起きてしまう。
    自分の考えとは少し違うけど、たしかにすっきりする考察ですね。

  8. こんにちは☀️
    ↓のリンクは暗黒神話ってアニメでヤマトタケルとかスサノオとか卑弥呼を題材にした小学生には難しい様な内容で昔ゲームでも登場した小学生トラウマ系のボスが出る事で知られるやつです💡
    確かミナカタサマらしき化け物が序盤で出てきます。
    内容的にはとある子供がヤマトタケルの生まれ変わりらしくて謎の老人が色んな遺跡を巡って秘密の扉開いて散策したりとかで、卑弥呼が確か若返りの泉に入って餓鬼に成り果ててどっか消えるのとか出てた気がします💡
    https://youtu.be/M9MshhYYoPw

  9. 邪馬台国が奈良付近だとすると、首都周辺の記載があまりにもpoorになるので、私も九州説派です。魏志倭人伝が軍事資料的意味合いもあるならなおさら、首都近傍の情報は必須。北部九州についていろんな国を挙げて詳細に記されているということは、首都に近いから、ということで納得できます。…ちなみに、糸島市の前原はマエバルと読みます。

  10. 放射説採用し吉野ヶ里から水行10日185キロに邪馬台国薩摩川内につきます帰り30日228キロ日田不彌国につきます長里100里43.4キロ短里100里 7.6キロ久留米奴国経由筑後川を下ります 伊都国吉野ヶ里から黒潮利用して時計と反対回りで水行20日宮崎投手馬国につきます 種子島までは直線4000里304キロで大隅半島の南にあり薩摩大隅と合わせて7万戸可能南九州邪馬台国です楽浪郡コジェ島いちき串木野をむずぶと萬2千里912キロ斜め直線です緯度差は7.2度で約800キロこれはエラトステネスのアレキサンドリアとシエネの距離に相当し50倍で地球の1周になります

  11. 水行10日陸行1月の解釈は、倭人流の考え方だから位置の特定に使用すべきでないと考える。なのでこの結論は非常に良いと思います。そうすると、邪馬台国は福岡か大分しかないと思う。

  12. 私は、四国が有りそうだけどね😅
    遠賀川を上がって田川(ヒコ山)~豊前(宇佐八幡トヨ)
    ~伊予(八幡浜イヨ)~阿波が邪馬台国連合国と思うな
    水銀の山が有るしね。

  13. 王朝がひとつと考えるからおかしくなる 集合離散を繰り返して大和王朝ができたのです
    ですから卑弥呼が北九州か大和かって話しは意味がない

  14. 『後漢書・巻八十五・東夷列伝第七十五・韓』に「韓に三種有り。一に馬韓と曰ひ、二に辰韓と曰ひ、三に弁辰と曰ふ。馬韓は西に在り。五十四国を有し、その北は楽浪と、南は倭と接す。辰韓は東に在り。十有(と)二国、その北は濊貊と接す。弁辰は辰韓の南に在り。亦た十有(と)二国、その南は亦た倭と接す」とあります。
     貴兄の説だと「倭国」は「馬韓」「弁辰」と接していません。
     「接」という漢字の字義はご存知かと思いますが、いかがでしょうか?
     『漢書・地理志』に「倭国」の所在地が記述されています。「燕」の分野に「倭国」が存在すると、『漢書』の執筆者・班固は伝えていますが!

  15. 唐津からは、東南へ陸行して500里、と書かれている。つまり陸行(の結果として)東南500里の地点に至(到)る・・、だ。
    途中で逸れて海岸沿いに進み(海岸に循いて)、(結果として)北東へ至る、のはいかがなものか。
    東南は東南だからねえ!

  16. 西九州で鉄器が多く出ているのは、ここが戦場だった可能性が高いのでは?
    と思います。
    吉野ヶ里遺跡などの佐賀以西と熊本以南との三つ巴の戦いがいわゆる倭国大乱だと考えられます。
    広大な平野部の筑後川流域はちょうど三つの国がぶつかるにはちょうど良い場所です。
    マツラは松浦ではなく、宗像の神湊ですよ。

  17. 壱岐(一大国)からは、又渡る・・、と書かれている。
    方角は直前直近の「(対海国から)南渡る・・」を受けるので、一大国からも南渡る・・である。 よって神湊はナイナイ。

  18. 元本は、倭人伝を「魏朝の帯方郡事務所がまとめた韓・倭ガイド」のようなものと見ているのでは?
    だから、韓半島の民が、倭の民といかに交流を深めていたかを、狗邪韓国~邪馬台国との関係で力説しようとしているようだ。
    しかし実態は、2世紀の楽浪郡役所、3世紀の帯方郡役所が、韓半島・倭列島を攻略して支配下に治めていった手柄話を、
    それと気づかれないよう地誌風に脚色した史書だね。ちなみに倭国大乱の震源地は郡役所。伊都国・邪馬台国は其の先陣先鋒。

  19. 倭王の使いが洛陽や帯方郡へ出かけるときは、
    伊都国から(海の上を北西へ)500里歩いて末盧国へ行くのかな・・? ま、浦島太郎の伝説もあるにはあるが。

  20. 15:40 漢書を編纂した班固に見るように、行程記述にはルールがある。
    15:52 実際の道行き(主線行程)に沿いつつ、折々に傍らの国(傍線行程)を記載する。最後に四至(四方向の国々)を記載する。
    まさに仰せの通り、立派でよくできた解説だねえ。
    惜しむらくは、唐津からなんで北東へ行っちゃったの。そこは原文通りに、郡使は東南500里の佐賀平野へ進んだはず・・。

  21. 昨夜のNHK-TVによれば、吉野ヶ里の石棺蓋には、(×印で)夜空の星座が正しく刻まれていたそうだ。
    星座知識の豊富な古代人が、東南伊都国への方角を誤って北東へ向かったなど有るはずもない。
    番組は、其のことをやんわり指摘したのだろう。

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