
2020年前後、「売らない店」というワードを多く耳にした。店側は販売用の在庫を持たず、客も商品を持って帰る必要がない。そんな時代を象徴するようなスマートな買い方・売り方を体現したこの業態は一世を風靡したものの、日本に根付くには至らなかった。代名詞だった米国発の「ベータ(b8ta)」も25年9月に日本から撤退し、ブームの終焉とともに多くの「売らない店」は姿を消している。
もはや業態として“オワコン”化しつつある中、存在価値を着実に高めているのが、大丸松坂屋百貨店が大丸東京店で運営する「明日見世(あすみせ)」だ。21年10月に4階でスタートした同売り場は、24年9月に9階へ移設し、面積を約4倍の140坪(約460平方メートル)に広げてスケールアップ。出品プランを拡充し、再出品と新規出品の両輪でブランド数を積み上げてきた。累計の出品ブランドは378に上り、出品料収入は移設前の24年8月と比べて5倍に伸びるなど、ブームが陰る中でも支持を広げてきた。
この10月21日には、AIを活用した出品ブランド向けの新サービス「明日見世インサイト」をスタートした。新サービス発表会に宗森耕二・大丸松坂屋百貨店社長が自ら登壇したことにも、この売り場への期待の高さが表れた。ブーム終焉の中、明日見世の存在意義はどんなところにあるのか。
百貨店が目指す「価値共創の原点」

宗森耕二・大丸松坂屋百貨店社長
発表会の冒頭、宗森社長は手応えをこう語った。
「『売らない店』として始めた明日見世だが、現在5年が経過し、事業として安定的に成長し続けている」。
その上で、明日見世を「価値共創の原点」と位置付け、次のように続けた。
「価値共創には登場人物が常に3人いる。私たち、お客さま、そしてお取引先さま。この三者が一緒に価値を作り上げていくことこそ、価値共創リテーラーの原点だと考えている。お取引先さまと価値共創をしていくには、お客さまの意見や反応をお伝えし、商品開発をサポートすることが必要だ」。
つまり価値共創とは、ブランドと顧客の間に百貨店が立って橋渡し役となり、「欲しいものを、欲しいタイミングで届ける」という“三方よし”の状態を作ることだ。しかし、従来の百貨店ではそれをやりきれてはいなかったという。宗森社長が振り返るのは、売り場をつくる側にいた自身の経験だ。
「私は実は、ここ東京店の地下食品売り場のマネジャーとして、売り場作りを担った人間だ。ただバイヤーやマネジャーといった仕事をしていても、実際のお客さまの声を聞く機会は少ない。『この売り場でこういう商品がすごく売れていて、こういうお客さまが、こういう意図で買っているのだろう』と推測するしかなかった」。
だが、「明日見世」の売り場では百貨店、ブランド、顧客のコミュニケーションを活発なものとし、“三方よし”を理想的な形で実現できている。これこそが売り場の好調要因なのだという。
ノルマは「売上」ではなく「顧客の声」
中央の平台に並ぶ出品商品
出品ブランドのスキンケア
出品ブランドのスキンケア
明日見世では、ファッション、ビューティ、雑貨といった新進のD2Cブランドなどの見本を並べ、大丸松坂屋の従業員が「アンバサダー」として接客する。客は気に入った商品をブランドのECサイトで購入する仕組みを基本(在庫限りでその場での購入も可能)とし、百貨店がブランドから出品料を受け取る。
起点となるのが、売り場に立つ「アンバサダー」である。彼・彼女らは社員を含む大丸松坂屋の従業員で、売上ノルマは与えられておらず、客からのフィードバック獲得をKPIとしている。言い換えれば、モノを売ることではなく、客の声を聞くことがミッションであり、顧客とブランドの橋渡し役となっている。
商品を自ら試し、客の“本音”を引き出す
アンバサダーは百貨店ならではの接客スキルを生かすだけでなく、商品を自宅に持ち帰って実際に試すことで、対話に厚みを出す。単なる機能面にとどまらず、「使うシーン」や「どのように心が動くか」までを咀嚼した上で、あくまで顧客目線に立って魅力を伝える。「売る」ことを目的としていないからこそ、客のライフスタイルを踏まえたフラットな目線で意見を交わし、「こうだったらいいのに」という本音を引き出すことができる。また、こうした一連の丁寧なコミュニケーションは、百貨店上層階の9階にある約460平方メートルというゆったりとした売り場だからこそ実現できている面もあるだろう。こうした本音をフィードバックとして得られることが、ブランド側にメリットとして伝わっている。
EC発ブランドと百貨店をつなぐ“入り口”
大丸東京店9階の「明日見世」
Vol.10のテーマは「コネクト トゥ ホームタウン」。各地の雑貨や工芸品が並ぶ
ECやSNSを介したデジタルコミュニケーションが当たり前になった現在においても、顧客の“本音”を聞くことは難しい。成長の踊り場を迎えた小規模ブランドにとって、新規客との接点や意見をベースにした戦略の再設計は不可欠だ。そうした課題を抱えるEC専業ブランドが、明日見世に相談・出品するケースも増えている。一方、百貨店側は、従来取引のなかった新規ブランドとの接点を作れるというメリットがある。優良な顧客基盤を持ち、ユーザーとじっくり向き合える「百貨店というプラットフォーム」の価値を理解してもらうきっかけになっている。
「通常の百貨店商売では接することがない新しいお取引先さま、つまり『百貨店に常設店舗を持つことは難しいが、百貨店のお客さまに商品を見てもらい、どんな反応や買い方をするのか情報を得たい』と考えている方々にとっても、大きなコストや時間をかけずに参加できる明日見世のシステムは、非常に有用なものになっている」(宗森社長)。
AI分析で進化する「“売る”を解明する場」
「明日見世インサイト」のダッシュボード(画面・数値・内容はイメージ)
店頭のAIカメラ。年代・性別・滞在時間などを分析する
和田房恵・明日見世プロジェクトマネジャー
出品料売上は9階移設前の5倍に
明日見世は今回、顧客の本音を聞くという売り場の強みをAIによってさらに進化させ、「“売る”を解明する場」というキャッチコピーを掲げた。新サービス「明日見世インサイト」は、アンバサダーが接客で聞き取った定性的な声と、AIカメラが捉えた来店客の性別・年齢・滞在時間などの定量データを、独自のプロンプトを用いてAIで掛け合わせ分析し、ダッシュボードにまとめて出品者に提供するサービスだ。
これにより出品者が得られるメリットは大きく2つある。
1つ目は、データのさらなる有用化だ。AIによる分析で、集めた声を実践で使える形に落とし込み、情報の密度と頻度をともに引き上げる。最新のAIカメラによって売り場での来客行動も踏まえて分析するため、「どんな客が足を止め、何に迷ったか」といった課題がより立体的に浮かび上がってくる。
ダッシュボードには、①現在地(ブランドが今どこにいるか)、②相性の良い顧客(どの顧客層を伸ばすか)、③改善ポイント・ハードル(何が顧客を止めているか、突破口は何か)、④評価要因(なぜ選ばれ、なぜ見送られるか)といった分析項目が並び、「総括」として評価・課題・対策を明快に示す。
和田房恵・明日見世プロジェクトマネジャー(PM)は「ブランド側は必ずしもデータ分析に強い担当者ばかりではなく、フィードバックがあっても十分に役立てられないケースも多かった」と明かす。明日見世インサイトの導入によって、売上につながる情報が定量・定性の両面から「専門知識がなくても活用できるデータ」となり、ブランドはより効果的にPDCAを回せるようになる。従来は3カ月に2回、PDFで届けていたレポートも、週単位で振り返れるダッシュボード形式に変えた。
AIが情報を整理し、アンバサダーは対話に集中
2つ目のメリットは、アンバサダーのコミュニケーションの進化だ。フィードバックレポート作成のための情報整理をAIがある程度代替してくれるため、アンバサダーは客との対話にさらに集中できるようになる。また、AI分析を前提として接客内容そのものも磨いていく。「声かけや質問の仕方を見直し、商品に対するプラス面だけでなくマイナスの意見も含めた『本音』を引き出す接客へとブラッシュアップしていく」(和田PM)。
AIは、明日見世で実現しつつある「客・百貨店・ブランド」の“三方よし”の循環に、さらに弾みをつけそうだ。宗森社長は、「明日見世」で実践しているビジネスモデルを、今後の百貨店全体の売り場のあり方を再構築していく上での試金石とする考えだ。
「デジタル社会の今、“文字”としてお客さまの声をいただくことはできる。しかし、私たちが人を介することで、お客さまのリアルな声を『真の価値ある情報』へと変えていく。それができるのが『明日見世インサイト』だと認識している。これまで百貨店で培ってきたお客さまやお取引先さまとの関係性の“究極の形”を作っていく。そのチャレンジが明日見世インサイトだ」(宗森社長)。
<エディターズビュー>
“売らない店”はそのほとんどが淘汰されたが、明日見世の事例からは「売らない」という形態そのものが重要だったわけではないと考えさせられる。「買わなくてもいい」という心理的ハードルの低さや、「手ぶらで帰れる」といったメリットも、ごく表面的なものにすぎなかった。本質は、“売らない”からこそ、“対話”を通じて顧客とブランドを橋渡しできる場を作ること。そのために、最大の武器である人の力を生かす。「明日見世」は、今後の百貨店が目指すべき売り場作りの一つのあり方を示唆している。