#6カンニング竹山・神田愛花 100年ラヂオ商会 ゲスト:工藤公康さん
タンリング竹山です。 カ田花です。この番組は創業 100 周年を迎えた田村政作提供のも毎回多彩なゲストを招きし、これまでの人生の中で忘れられない出来事についてお話を伺っていこうという番組です。田村政作書に 100 年の歴史があるように人に歴史あり、物に歴史あり、それぞれドラマがあります。さらにゲストの方に関わりが深いテーマを取り上げてその歴史にも迫ってまいります。 さあ、竹山さん、今回のゲストは竹山さんの地元に非常に縁のある方ですね。 いや、本そうですね。緊張しますね。 緊張されますか? 福岡に縁のある、とても縁のある方ですね。 あ、そうなんですよね。 ちょっと意外とこうやってラジオなんかうのはちょっとあんまりないんでいつもとある場所で 意外あってこう挨拶するような感じなんで。 あ、じゃお隣に座られたこともない。 えっとね、実は飛行機の中で偶然あります。そうなんです。 1 度だけあるんですよ。はい。 というわけで今回はゲストに元プロ野球選手の工藤君さんがお越しくださっております。 ありがとうございます。え、もう我らがね、ソフトバンクホークスもう選手としても監督としても優勝もに導いてくれた監督でもありますんで、たくさん聞きたいことはございますよ。 はい。そうですね。ということで CM の後は本日のゲスト工藤君さんの人生の歴史、そして工藤さんに関わりが深いテーマの歴史にも迫ってまいります。お楽しみに。 田村静書プレゼンツン竹山神田愛花 100 年ラジオ紹介こからはゲストの登場です。工藤君さんです。よろしくお願いいたします。 はい、よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 お隣に座ったんですね。 いや、偶然ね、飛行機乗ってちょうど僕も福岡に仕事の時で監督も、ま、当時さん監督だったんですけど、監督も多分福岡に戻られる時に偶然横だったんですよ。 あ、覚えてらっしゃいますか? はい、覚えてます。 おお。 はい。 どんな感じだったんですか? どんな感じですか?普通なんて普通ですよ。 僕はね、1 個だけ覚えてんのは監督はね、ずあ、監督、監督って言いますけど、く藤さんはずっとその自分のパットを見てらっしゃったんですよ。 iPad はい。で、戻って試合だからゲームだからそれのなんかを見てんだろうと思ってちらっとだけパッと見たら漫画読んでたんす。 いや、リラックスした。漫画 見られちゃったんですね。 そうなんですね。です。 はい。はい。 では工藤君さんのプロフィール簡単ですがご紹介させていただきます。工藤さんは 1963年愛知県生まれの現在 62歳でいらっしゃいます。高校卒業後、 プロ野球西ブライオンズに入団し、エース ピッチャーとして活躍。その後いくつかの 球団を渡り歩き、現役中に14°のリーグ 優勝、11度の日本一に輝き優勝受け追い 人と呼ばれるようになりました。現役引退 後は福岡ソフトバンクホークスの監督に 就任7年間で5度チームを日本一に導き ました。現在は野球解説のみならず講演会 など様々な分野でご活躍されて いらっしゃいます。 というわけですごいですね。輝かしいですね。本当に。 はい。そうなんですよね。本当に改めましてよろしくお願いいたします。はい。よろしくお願いします。 はい。 で、早速ですけども人に歴史ありということで藤さんのこれまでの人生に迫っていきたいと思います。 はい。たいですね。たくさんね、 もうものすごく遡るんですが、まず小学生の頃からお聞きしたいと思います。 く藤さん、小学生の頃野球始められたと。 はい。 はい。 そうです。 最初はあまり野球が好きではなかったと聞いてるんですけど。 あ、野球が嫌いでした。 へえ。はい。親から無理やりみたいな感じだったんですか? 強制だったです。 強制で? どういうことですか?強制。 え、うちの千が草野八球のキャッチャーやってたんですよ。 はい。はい。 はい。なのでその練習のためにあの、ま、えっと、うちの兄含めて僕らがキャッチボールの相手 はい。はい。はい。 キャッチングの相手は です。から始まって 始まったんです。 ピッチャーをさせられたってことです。さ せられたっていうとこです。 これ野球やり始めてからそリトルリーグとか色やられたと思うんですけどずっとピッチャーなんですか? はい。 あ、ピッチャーとガイアライトとかファーストとかっていうのもやってますけど、 [音楽] 僕小学校の時1回野球やめてるんですよ。 やめてんですか? やめて体操部にいたんですよ。 え、いや、嫌いな先輩がいたんで、 先輩がやだった。 はい。 はい。ていうのもあって、別に野球好きでやってるわけじゃないので、 え、かと言って授業が終わって家に帰るとうちの父に、お前なんでお前野球部入ったんじゃないのかと怒られるのではい。 違う部に、え、あんまり動かない部って言うと体操部があったので、 体操部で、え、鉄望にぶら下がったりマット運動をしたりうん。 ていうのをやってました。 逆に考えると後で考えるとその体操部に入ったっていうのが意外と良かったってことになるんじゃないですか。 そうなんですよ ね。体、体がほら動きとかさ、体操ってすごいじゃない?やっぱり野球とは違う。こうなんていう柔軟性というか、 そういうのを学ぶからはい。 だから柔軟性とかバランス感覚とかっていうのが、ま、体操の中にはあったりするので 逆にそれが良かった。 のかなとは思うんですけど。はい。 はい。 で、ま、小学校6 年になって、その先輩がいなくなって、ま、帰ってこいって言われたんですよ。 タブしたんですけど、 帰ってこいって言われて、で、帰って 6年の時に野球やって、 で、中学校入って時にはハンドボールやってました。 ハンドボール、 ハンドボール。 あ、野球部じゃないんですか? はい。 それは いや、その先輩がそのまま中学校に行たんでたんだ。あ、 ああ、そうか。 ハンドボール行くんですか? え、中学3 年は全部ハンドボールなんですか? いや、中学校の1 年の夏までがハンドなんですよ。 はい。 はい。 はい。なんでかって言うと、当時の学校がまだ親設校で 3年か4年ぐらい目のだったんですね。 はい。はい。 で、その部活の先生がいなかったんですよ。 はい。はい。はい。 だから部の先生とハンドの先生が一緒だったんですよ。ほぼの先生が。 はい。 はい。で、僕は野球小学校の時やってたっていうのを聞いて はい。 で、え、職員室に呼ばれて、ま、もう 1 人いたんですけど、逆にその子は野球部だけどハドをやりたいとは 言って先生とこに来てたんすよ。 あ、お前工藤ちょうど良かったと。 あ、こいつあのハドやりたいって言うたらお前は明日から野球やれと言われて もうトレード経験しても中学校の時 1対1 のトレードっていう僕ハンドやりたいですって言ったのにダめだ。 [音楽] へえ。 おちゃん、お前そんなんだったらレギュラーもあのハドやるんだったら使わねえぞみたいに ええみたい。 それ先生が見抜いてたんじゃなくてですか?その実力みたいな 見抜いてたわけじゃないと思いますね。まあ、小学校の時まあまあ良かっただろうとは言われたんですけど はい。結果ま、野球やれって言われたんでやるようになりましたけど。 じゃ、中学生で野球やってやっぱがすごいからほんで高校で愛代名デに要は引っ張られるってことですか? うん。 で、えっと、才能がすごいとかそういうの全然なんて言うんですかね。えっと、なんか昔の人達ってなんか野球やってるとモテとか うん。うん。 あるじゃないですか。全くなかったですね。 新切子っていうのもあったのかもしれないんですけど、 そういうのもなくて、ただ単に 3年の、えっと、春にですね、 はい。 えっと、ジムの方が、あの、いわゆる事務員の方が変わられたんですよ。新しい方が来られて、うん。 その方が、えっと、大学社会人という野球をやられて、 当時の監督さんとかコーチの人が、ま、先輩後輩だったりとかっていう中で、 ま、僕が投げてる姿を見て はい。 お、ま、く、ま、ま、板も投げるねと はい。 はい。どっか高校決まってるのって言われたんですよ。 はい。 いや、僕はあの最初ね、あの知らない人に声かけられてもあの答えないようにみたいなのもあったんで 誰この人みたいな感じだったんですけど、 ま、毎日のように野球を見に来ててで、毎日のように話しかけられたんで、ま、事情を、ま、とりあえずは説明したんですよ。 はい。はい。はい。 そしたらその、ま、高校っていうのは特い制度があるとはい はい。 そういお金かかんないよみたいな。はい。あ、そうなんですかて最初は聞いて知らんか。 はい。はい。 はい。 で、でも何回も言われてるので、その高校が欲しいと監督さんが 欲しいと言ってくれてるところがあるんだけどて言われて お父さんに聞いてみてくれって言われてでうちの父はお金かかんないんだったら行っていいぞって言われて で最終的にメデに決まったんです。 へえ。すごいすごい人生ですね。それは え、それではピッチャーとして行くんですか?ガ野もまだ まピッチャーとして行ってます。 それなんか自分はピッチャーが向いてるて思った時期があったんですか? いや、ピッチャーが向いてるとこではなくてピッチングをやってるところ評価されて来てほしいっていうところがあって練習にも行ったんですよにも。 そうなんですね。 はい。 でも愛大名電って言うともうやっぱ 1 番不動産からってこうそっからね何人かいも出てますけど なんかそういう印象が僕はずっとあります。 そうだ野球強いっていうのは工藤さんの印象がある。 の印象がすごくあります。 あ、なるほど。 へえ。 で、野球は好きにはなっていくわけですか? 好きにはなってないですね、 まだ。 はい。 ええ。 はい。 ま、だってね、野球って昔は、ま、根性だったりとかだったりとか、ま、僕は学校からあの量まで 13km ぐらいあるんですけどはい。あの、 5月の誕生日を迎えた後ぐらいに お前あの学校からグランドボで毎日走れと はい。言われて走ってたりとか 土曜日はえっと授業が午前中なので午後から試合があるんでお前朝走れとか はいお はい授業前に走れとか はい で先輩にはね色 まね可愛がりじゃないですけどね指導をね色受けたりとか ていうのがまそこのまになると 3000 と輝くスターだったので星年だった 量ですか はい量で先輩もう夜になったらくどって 人気だったんだ それそれはなん人気 人気はない方がいいですね。 プロになって所沢にいる時もあの夜の六本でスターだったってのは我々の先輩に聞いたことあります。藤さんがですか。あ、そうなんですね。 それはあのあれですね。えっと本当のことですね。 コメディアンの先輩に一緒に遊んでたんでみんなのやつて聞いたことあります?い え。それ高校時代はじゃずっと野球はそんな好きじゃないんですか? 高校の時もそうですしプロに入っても厳しかったですからね。 なんでプロに行くんですか?もうだってそっからだってセーブライオン入のよ。 の黄金を そうですよね。 プロに最終的には入るんですけど、僕社会人に決まってたんですよ。 へえ。 そうなんですか。 はい。うちの父親が結局はそのお前なんかプロで通用するわけないだって言われて、 で、僕は本当はプロに行きたくて親から離れたかったんですけど、 もうプロの行きたい気持ちもあったんですね。もちろん あったんですよ。はい。ま、あの、甲子園も行って言って、あ、これでやっと収束できるわ。 はい。ま、プロなのか社会人なのかっていうところ。 大学はもう絶対高校の頃を思い出すので大学は行きたくなかったっていうんな噂を聞くとあ、やめとこうと絶対思ったんですけど。 うん。 だから社会人に決まってたんですけど、ドラフトされて、え、ま、いわゆる球団の偉い方が怒られて うちで話をしてたんですけど、 夜中の3時に叩き起こされて ていうか、蹴られて起こされて起きろと はこっち来いと 言われてで行ったらお前やっぱプロ行けと はあ 言われて はい。僕は3日間ぐらい家でしました。 ええ、 そうなんですか。 そうだよさんと球団さんかなんか話し合いついてたんすかね。じゃあ ね。 いや、なので、いや、社会人に決まって挨拶も行ったんすよ。 ほ、は で、ドラトされてうちの地中は 11球団。なぜ11 球団かわかんないんですけどはい。 はい。に手紙を書いたんです。11 球団ではい。はい。 はい。で、もう指名しないでくれと社会人に決まってるからってやったんですけど、西武が はい。あの、その当時は根モさんって言われましたけど、ま、よく聞くと岡さんが はい。まあ、6 位指名する人がいなかったんですよ。 ああ。 はい。 だったら、ま、来なくてもね、指名する人間がないんだったら、ま、とりあえず工藤を指示指示指名しといてくれと 6 位でですか?6 位です。 ああ、ドラフト。6 位指名なんですか?工く藤さんって まね、結果で言うとそういうことになるんですよ。 うん。 なので、で、それで、ま、球団の方と、ま、根モさんは、ま、工藤は来ませんよと、ま、社会人に決まってるしと、ま、情報はあるんですよね。 うん。 はい。 だったのに、ま、僕は最終的に根モさんとちの父親が話してコロっと 180度変わってプロに入っ え。それでプロになられるんだ。え、じゃ、まだ、じゃあまだ好きじゃないんですね、野球が。 そうですね。野球が好きになったら 40過ぎてからです。な んで40過ぎて好きになったんですか? いや、なんか自分で朝起きてからなんか何気なく自分のルーティンがあるんですけど、そのルーティーンが常にもう野球に向いてると。 うん。うん。 はい。ま、僕はやっぱりそのあんまりお金がない家庭の中で育ったので はい。はい。自分の心にあるのはたった 1個だったんですよ。 はい。 自分と同じ思いを子供にはさせないっていうはい。好きなものがあったら買ってあげたりとかやりたいことがあったら自分で選択して [音楽] はい。で、自分で決断して他にやりたいことがあってもこう例えば男だったら帰るなみたいな昔の昭和じゃないですか?変わっていいよと やりたいことが変わるんだったらね普通だからそれって はい。うん。 なので父親のことを気にするんではなくてはい。自分のやりたいことをやりなさいってやらしてあげたかった。 っていうのがあったので はい。プロでも頑張んなきゃね。お金稼がない子供に好きなこともさせてあげられないので はい。で、頑張っていったっていう感じです。 でもね、プロ入ってそっから西武の黄金を迎えるじゃないですか。ちょうど工く藤さんもそうだし渡辺さんとかもさんとかもみんないて、もうキラッキラ若者が強い若者たちが輝いてて 楽しそうにしてるなみたいな感じを思ってたんですけど。 あ、楽しいですよ。 そう、そういう感じですね。 みで でチーム強いし 強いんですけど楽しいんですけどじゃあみんなでわけあいあいやってるかって言うと全くそんなことはないです。 そうなんです。 全部別々です。 ここでみんな ここです。 へえ。 それライバルシですか?それは いや、ライバルシっていうよりもまあ なんプロ意識が強かったですね。 プロ意識。 はい。 だから試合の時になるとみんな笑うんですよ。 練習の時笑わないです。 はい。へえ。 じゃあもうここの選手のスキルがめちゃくちゃみんな高かったってことですね。あの当時のチームは ま、広岡さんに鍛えられて ああ、広岡のそれを受けたチームだから。 そうです。 は、そっからでも福岡行くじゃないですか。 はい。 その時ってどういう覚悟というか、どういう気持ちで福岡に行ったんですか? まあ、なかなかあの、事項を迎えないと言えない話もいっぱいあるんですけど。 はい。はい。はい。はい。はい。 はい。ま、1 つ言えるのは自分が出たくて出たわけではないんですよ。 はい。 出ざるを得ない事情になってしまったんで結果的には出ると いう話になったので、ま、僕は最終的には、ま、あのダイエには行きましたけど はいはいはい はい。ま、でも行ったエでびっくりしました。 うん。 何を、何をびっくりした? いや、セブしか知らないじゃないですか。セブしか知らない人間は他も同じように練習してるけど、 あ、結局こうなんか選手の能力っていうか、 ただ出ないだけだみたいな思ったんですけど。 で、やっぱり練習しないと強くならないよねみたいなのはうん。うん。 反対に行ってから分かりました。 そうなんですね。 ま、監督になるともう全てをこう犠牲という言い方あれですけど、もう全てがグっと監督業っていうのにもう向かないとダメなわけでしょ。 大変なんですか? ま、ま、ダメなんですけど、ま、迎の時から、ま、ほぼほぼ嫁と結婚してからもう野球だけでやってきてるので、 監督だけっていうのは全然気にはならなかったです。 [音楽] 皆さんなんか眠れないとか薬飲んでるとかね、全く飲んだこともないし。へえ。 寝れなかったことは1日もないです。 はあ。なるほど。 え、そしてですね。 うん。 工藤さんに関わりの深いテーマについても迫っていきたいと思うんですが、今回のテーマは変化球なんです。うん。うん。 現役時代に得意とされていたのがカーブ。変化球の歴史なんですけども、 1872 年にアメリカのプレ野球チームに所属していたキャンディカミングスという投手が史場初めてカープを投げた。そう。 そうなんです。で、これが、え、野球市場初の変化球とされているということなんですけども、工藤さんはその カーブとかその変化球へのその取り組みっていうのはどんな感じだったんですか? 取り組みどんな感じって言うと はい。小学校の時からカーブ投げれてたので僕らと時代は ああ。 はい。今はダメですよね。小学生はない。 ルールで投げちゃだめある。やっぱり体の成長とかも含めね。あと玉数制限っていうのも、ま、小学校中学校あったりするんですけど、僕らの時になかったのではい。 僕は小学校の時からカーブ投げてました。 投げてる。 はい。 うお。え、他の変化球とかも色々やられたんですか? いえ、試しましたけどダメでした。 あ、そうなんですか。 はい。まいちダメでしたね。ま、プロになってから別ですけど。 あ、プロで何種類も投げる人もたまにいるじゃないですか。ます。 それはやっぱ努力なんですか?それともあれ、もう投げれる人と投げれない人が合う合わないがあるんですか? いや、ま、ほとんど努力だと思います。 努力で投げれるようになってくる。 投げれるようになります。 ただ僕らのその先輩から、ま、あの、先輩と言うと東尾さんからですね。 はい。はい。 あの、いや自分の吸収っていうものは何か投げればいい。投げれるんだったら何でも投げれます。 はいはいはい はい。ナックルから はい。パームからうん。 はい。フォークボールだって握れて投げようと思えば何でも投げれるんですよ。 試合で使えるかどうかって行き玉かどうかってことですね。プロとしてる玉かどうかっていう。 そうです。その技術のレベルが高いかどうかっていうとこで判断されるのではい。 だから僕の場合は、ま、他にも投げれましたけどまっすぐとまとはで、ま、カット、スライダー進化 はい。この玉、5の5種類ですね。 うん。 それをね、く藤さん、この工藤さんの 5 種類ぐらいの玉を要はマウンド立ってゲーム作っていかなきゃいけないじゃないですか。 で、それをこの人に次何投げるじゃ、次何投げるってこう組み立てなきゃいけないじゃないですか。 はい。 それっていうのはいつも役球見てると思うんですけどはい。 こうせ選手がずっと学んでくんですか?どうやってそれをこうやっていってんのかなって思うんですけど。 キャッチャーの指示じゃないんですか? いや、でもそれもあるかもしれないけど、ピッチャーが組み立てるもあるし。 でもそれて無の脳みになると思うんですよ。 対戦は違うから1人1人 で空気感も違うし はい。 これってどうやってプロの人は決めて 覚えてって勝負してるのかと思うんですけどうん。 ま、ある程度ミーティングをするのでこのバッターが今調子がいいか悪いかっていうところだったり蓄積された あのその選手のイメージっていうのもあるじゃないですか。あ、特にインサイドが強いと特に高みが強いということですね。 はい。 ホームランを打つような人でやったりとかっていうのは意外と高めよりも低めが強い人が多かったりするんですよ。 はい。それをちゃんと分別するんですよ。 自分ででしょ。ちゃんとリ え、もう団の中で分別していたりとかするので。 じゃあこれに対してはこの人に対しては今調子が悪いんだったら好きなとこからちょっと曲げよう はていうはい。好きなとこから落とそう ていうミーティングをするんですよ。 そのミーティングをピッチャーは覚えてなきゃダメってことですよ。全部ね。 はい。 てことですよね。特に先発投はね。はい。え。 いや、だから俺めちゃくちゃ大変だと思うんですよ。ピッチャーの仕事って 頭が賢いですよね。 じゃないと無理だと思う。 無理ですよね。プレッシャーだってなんですけど、もっと賢くなきゃいけないのはキャッチャーですね。 あ、もっと知ってなきゃいけない。全て だってピッチャーが違ったらサインの出し方も違うし。 ああ、サインの出し方違。出 し方も違います。 球団で統一じゃないんですね。 違います。それだとすぐバレちゃうじゃないですか。 あ、もう確かにそうか。 はい。選手によって1人ずつ違うんすよ。 ええ。あ、そうなんですか。 違います。 あ、それじゃ全部入れてなきゃダメなんです。 はい。ファ、セカンドに行っても変わります。 はええ。 はあ。 覚えてられない。 プロだな。 本当ですね。 みんな覚えてなきゃいけないんで、たまになんかあのキャッチャーが変な取り方するじゃないですか。 はい。あ、間違えたなってすぐ分かるですよね。 あ、そういうことか。 そうですか。ちょっとまだまだちょっとお聞きしたいことがあるんですけども。く藤さん、今日は貴重なお話の数々。どうもありがとうございます。 はい。 プロという厳しい環境の中で選手そして監督としてこれまで戦い続けてきた藤さんに最後にこんな質問をさせてください。 はい。 人生100 周年を迎えたその時あなたは何をやりたいですか? はい。そうっすね。 100年ですか?100 年です。100歳。 はい。え、マウンドに立ちたいすね。 え、 へえ。 え、 へえ。 マウンドに立って投げてみたいです。 はい。どこで? はい。どこでですか? どこで? いや、野球場です。 野球場。 野球場ですけど日本のプロ野球だとか地元のあの草野球だとか色あるじゃないですか。 あ、チームに入るってことじゃなくってことですね。 そうですね。入るっていうことじゃなくてマウンドに立って自分が本当にこうなんだろう。 はい。最後にこうボールを投げてその 1級にしたいですね。 はい。へえ。 ああ。100 歳でどんな球が投げれるのかっても含め。 はい。ま、もう手からポトンと落ちちゃうのか。 はあ。 はい。5mぐらいは投げれるのとか。あ。 ええ、 できれば18m届かせるぐらいのはい。 はい。元気なおじいちゃんでたいなと思ってます。 お。 あ、じゃあお誕生日にやること決定ですね。 100歳のお誕生日。 いや、それはもうそうでしょう。もう子供たちてお孫さんたちもいるだろうし。そこね、暇でもいるかもしんないし。 みんなでおじいちゃんをこうやるってことですね。 はい。そうですね。ちょっと感動しちゃいますね。 そう。最後これだけ聞いていいですか?くさん。 はい。 まだ工藤さんの人生まだまだ長いじゃないですか。 はい。 ユニフォームをもう1 回切る可能性っていうのはありますか?ないですか? いや、あると思います。 ある。 はい。どこは別としてね。 どこどは別として。 はあ。 楽しみにしてます。 うわあ、楽しみ。それは さあ、田村製作 100 年ラジオ紹介。この後は田村政作所の歴史も掘り起こしてまいります。 人に歴史あり、物に歴史あり、会社に歴史あり、 2024年5月11日に創業100 周年を迎えた田村政作。その歴史は未来への挑戦の連続でした。 今につがる田村政作所の挑戦の奇跡を紹介 していきたいと思います。第6回となる 今回は時計の針を1962年に巻き戻して みましょう。 音の金メダル。 1962年、東京の人口が1000万人を 突破し、東京オリンピックの開催を2年後 に控えたこの年。田村政作署はワイヤレス マイクをはじめとする美弱無線危機事業に 進出します。それまで日本音響という会社 がワイヤレスマイクを制作していましたが その市場はまだ小さく納入先は放送局や 劇場などに限られていました。 当時トランスの分野以外で経営の多角化に よる業績の拡大を狙っていた田村政作諸と ワイヤレスマイクのさらなる核半を目指し ていた日本影音。そんな両者で協議した 結果50対50の出資で新会社田村電子 株式会社が設立されることとなります。 年9月に発足した田村電子株式会社は翌 1963年3月には周波数の安定が望ま れるワイヤレスマイクで周波数自動同調 方式の受信機を開発し特許を取得します。 またこの頃は真空間からトランジスタへの 過機で田村の製品もほとんどが真空間式 でしたがその年の10月には トランジスタカに成功。周波数自動同長 方式と相まって田村のワイヤレスマイクの 評価を晩弱なものとしました。 こうして迎えた1964年10月、 いよいよアジア初のオリンピック開催と なる東京オリンピックが開幕します。 15日間にわって熱線が繰り広げられまし たが、その模様を納めた公式記録映画東京 オリンピックの収録に使用されたのが田村 星製のワイヤレスマイクでした。 従来の記録映画ではマイクを引き回す コードが競技の障害になる可能性があり、 設置場所などが制限されていましたが、 その点ワイヤレスマイクは自由な設置が 可能なため、選手の間近で音声を拾うこと ができました。 国立競技場のフィールドを始め、いくつか の場所にワイヤレスマイクが設置され、 それによって陸上競技で選手のスパイクが 大地を蹴る音。ボタカのポールが倒れる カランカランという音など迫力と臨場感に 溢れる音声が録音され、オリンピックの 熱キをそのままパッケージすることに成功 したのです。 ədə署の確かな技術と挑戦し続ける姿勢 がんだまさに音の金メダルと言えるのでは ないでしょうか。 そして田村政作所の未来への挑戦は まだまだ続きます。次回をお楽しみに。 さあそろそろエンディングの時間です。 ゲストの工藤君さんと共にお送りして まいりました。今回の100年ラジオ紹介 竹山さんいかがでしたかいや本当にねしか 聞けなかった。 って聞いてみたいしねの技術とかそういの聞いてみたいしま 人生のことも聞きたかったですね。 ということで100 年ラジオ紹介今回のゲストは工藤君さんでした。工藤さんありがとうございました。 こちらこそありがとうござい ありがとうございました。 それではまた来週お耳にかかりましょう。さよなら。 さよなら。
7月スタートのこの番組は、
ゲストのこれまでの人生を振り返り、これまでの忘れられない出来事についてお話を伺う番組です。
6回目のゲストは、工藤公康さんです!
#100年ラヂオ商会 #カンニング竹山 #神田愛花 #工藤公康