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【朗読】山本周五郎『日本婦道記 おもかげ』-厳しさと愛情の狭間で問う叔母と甥の絆-



【朗読】山本周五郎『日本婦道記 おもかげ』-厳しさと愛情の狭間で問う叔母と甥の絆-

日本不動機 おかげ山本 小五郎2年あまり病んでいた母がついに世 を去ったのは弁之助が7歳の年の夏のこと であっ た幼なかった彼の目にさえ美しいリとした 人で早くから自分の式を知って大善とその 時を待っているというところがあった 長い描画の間も苦痛を訴えたり思い沈ん だりするようなことはなくいつも明るい 眉月で真とどこかを見守っているという風 だっ た弁之助は学術から帰ってくると病魔へ 行って祖をさらうのが日課だったが母は その間人の上にきちんと座り身動きもし ないで聞くのが常だっ たそれは亡くなる5日ほど前まで続いたの で ある次第にやれては行くがざしはいつまで も冴えて美しくいつも見張っているような 大きな瞳も住みとるほど静かな光を称えて い た臨時の時にはまるで白のような顔に庭の 子の深い緑が映って何かしら尊い画像をで も見るような感じだっ たよく拝んでおくのです よ別れの水を取る時に叔母のユリがそば からこう言っ たこのお顔を忘れないようによくよく拝ん でおくのですよようございます ね目をつればすぐ見えるようになるまで よく見ておくようにくいほど行く度もそう 言っ た葬の式の住んだ夜ユリは弁之助を母の牌 の前に座らせ透明と校をあげてから静かに 行っ た弁之助さんよくお聞き なさいお母様はお亡くなりになるまで あなたのことを何よりもじていらっしゃい ました お亡くなりなすった今もそしてこれから先 もお心だけはここから離れないであなたが お丈夫に育つよう世の中のためお国のため に役立つ立派な人になるよういつもおそば について守っていてください ます私はお母様からあなたのことをお頼ま れもししまし たふつかな私には呼びもつかない役目です ができる限りはお世話をして差し上げる つもり ですけれども何より大切なのはあなた子 自身です よおば様がどんなに勤めてもあなたがリと なさらなければ何にもなりませ んこれまでよりは一層お心を引きしめて人 に優れた侍になるようしっかり勉強を いたしましょう ね口ぶりは静かだったけれどきちんと単座 した姿勢やまなざしにはこれまで見たこと のないきっとしたものがあった弁之助は びっくりしてまるで見知らぬ人の前へ出た ような気持ちになりはいと答えながら知ら ず目を伏せてしまっ たその頃父の旗の民部は勝山班の青めで家 には5人の歌詞と下僕が2人それに家など もいてかなり賑やかだったが父は役目が 忙しいため家に落ち着いていることは 少なく弁之助のことはほとんどば1人の手 に任されてあった ユリはその時18歳だっ た体つきも丸くふっくりしていたし明るく て単純で思いやりの深い優しい気象で どっちかというと彼には甘いおであり彼が 厳しく叱られる時などは哀れがって泣き 出すという風だっ たごく小さい頃から影になり日になって かばっくれたしけの子はしそにという意味 で常には禁じられている歌詞なども叔母に ねればサドに1度は出してもらえ たことに母がやみついてから一層不便が 増した様子で随分わがままなことも許され てきたので あるけれど母の牌の前でそういう話があっ てから叔母の態度はにわかに変わり始め たその時の叔母のきっとした目の色は日が 立っても和む様子が ない前のように甘えかかる隙は少しも見せ ないし許されたわがままもだんだんと禁じ られる食事の時も嫌いなおさはよけてくれ たのにまるでわざとそうするほどしばしば 全へ乗る 箸をつけずに置くと好き嫌いは武士の恥 ですと言って食べるまでは立たせなかっ た一体どうしたのだろう弁之助には叔母の 様子の変わったのが不思議でならなかった どこかお加減が悪いのでそれであんなに不 機嫌なのではないかしら子供の頭でそんな ようにも考えてみた そしてもう少し経ったら前のように優しい おばになってくれるだろう としかしそれは結局叶えられない望みだっ たので ある中州の9月中頃父の民部はご主君日神 信のお供をして江戸へ立っ た青めから用人に抜擢されたのでおそらく そのま江戸になるだろうということだっ た出する前夜父は弁之助を呼んでこう言っ た江戸へ参って落ち着いたらお前も 呼び寄せるがまず23年はその人間もない だろうと 思う父がルスの間は上の申し付けをよく 聞いて怠りなく勉強しなければいけない そして来年になったら憲法の稽古も始める ようきっとわがままを慎んでおばに世話を 焼かせるなと諭し た母が亡くなって間のない時だし今また父 が遠く江戸へ去ると聞いて弁之助は胸が いっぱいになるほど悲しかったがでも父上 がおすになれば今度こそおば様はきっと 優しくなってくださるだろうそう思い ながら込み上げてくる涙をじっと我慢して い た父は彼に秘蔵の担当を与えそのある朝 早く5人の歌詞と下僕の1人を連れて立っ ていっ た父の出を見送ってからすぐのことだった 学へ行くをしいると今日からは製造を釣れ ずにお1人で塾へいらっしゃるのですよと 思いがけないことを叔母に言われ た弁之助はびっくりして叔母を見上げ たどうしてです かそれはわがお父上のお供をしていった から ですユリはそう説明し たこれからは定蔵1人で屋敷のことを色々 しなければなりませんしあなたはもう7歳 におなりだから友を釣れなくともお通い なされるはず ですではそれでは軽いものこのように見 られる でしょうなぜです見られてもいい でしょう身分の高さ低さで人間の値打ちが 決まりはしませんそんなことを言うは 思い上がりというものです よまるで取りつく島のない調子だっ た弁之助は逃げるように屋敷を出たが兵を 曲がったところでそっと涙を押しっ た勝山班は小笠原流の礼式を持って世に 知られている通り式左方のやかましい ところで家たちの身分や もよそよりは厳しくしるべき武士の子は男 でも友を釣れるのがその時代の習わしだっ たしって1人で学術へ通うのは子供心にも 片の狭い 思い出しまたまの辻に悪い犬がいて 生き返りに決まって吠えられる赤毛の 頭抜けて大きい犬で弁の知っている中にも 袴を噛みがられたものがいく人かい た1つにはそれが恐ろしくもあったので あくる日そのことを訴えてみ たすると叔母は手をあげて彼の腰の辺りを さし ながらあなたがそこにさしていらっしゃる のは何ですかと決めつけるように言っ た犬が怖いなどという臆病もなら武士を やめてアドにでもなっておしまい なさいそして弁之助が情けなくなって我 知らず主旨の爪を噛もうとすると叔母は その手を取って強く打っ た悪い癖だからやめなければいけないと 申し上げた でしょう1度言われたことはよく覚えて いるもの です彼は突き上げてくる涙を懸命に抑え ながらその時初めておば様はもう先のよう に優しくなってくれないことを悟っ た冬になると城下町の3方に見える山々は げにネズミ色の雲をかりそれが動かなく なると頂上たる峠にいくつともなく白い ものが積もりだしてやがても雪の季節が やって くるその年の初めての雪は霊の少ないほど 激しい吹雪だっ た前の夜から振り出したのが明け方には2 尺余りも積もりなおも荒々しい風とともに 乾いた粉雪がひと振りしきってい た朝食を済ませて通学の支度にかかるとま もなく助は急に腹が痛むと言い出し たどこがお痛みです かユリはそばへ寄って手を当てたここです かそれともこの辺です かもう少し上 ですここです かそう言いながらじっと弁之助の顔色を 見つめていたがふと厳しい調子になっ て弁之助さんあなた雪が降るので塾へ行く のがお嫌になったのですねと言っ た弁之助はかぶりを振ってそうでないと 答えようとしたしかしユリはそれより早く こちらへいらっしゃいと言い彼の手を つかんでぐんぐん玄関の方へ引きずって いっ たおば 様弁之助はそうでで手を振りなそうとし たユリは非常な力でそれを抑えつけ裸の まま玄関から門へさらに門から道へと出て いっ た天も地もまるで雪煙に閉ざされたように 見え た上から降ってくるものと吹きつける風に 地上から舞いたつもとが入り混じり渦を なしてもみ合いながらさっと片方へなびく かと見ると巻き返して中へ上がり大きく 揺れながらどっと崩れ かかるそれを真光に受けると眼光を塞がれ て息もつけない感じだったユリはそうさせ まいとする弁之助をずるずると半ば 引きずりながら走るような足取りで下原論 というところまで行き平等院という大地の 墓地へと入っていっ た弁之助はわけのわからぬままに青くなっ たどうされるのだろう叔母の様子には心を ぞっとさせるようなものがあるし連れ込ま れたところが墓地だというだけでも子供の 頭には襲われるような恐怖が生じ たユはそのまま彼を母の然へ連れて行き雪 の上へ激しく引き替え たそれから膝と膝を突き合わせるようにし て自分も座ると唇を見えるほどふわせ ながら言い出し たよくお聞きなさい弁之助 さん私は亡くなったお母様にお頼まれ申し て呼ばずながら今日までお世話をしてき まし たけれどあなたはお母様のお望みなさる ような武らしい武士になることはできない よう です食い物の好き好みは治らず犬を上がっ たりこれ式の雪に学問を怠けようとし たりそれも腹が痛いなどと嘘まで おっしゃっ てこんなあり様では立派な人になれない ばかりでなくやがてお父上の女をけがす ようにもなりかねませ とユリは鋭い調子で言いながら断固とした 身振りで会見を取り出した私にはこれ以上 のお世話はできませんそしてこのようなお にしてしまったのは私も悪いのですから 亡くなった方へのお詫びにここであなたを 指して自害します弁之助さんお母様のお墓 へご挨拶をなさいお手を合わせて 堪忍してくださいお許しくださいおば 様彼は引きつけるような目でユリを見上げ 全身をわなわなと振るわせながら叫んだ 弁之助が悪うございましたこれからは気を つけます食べ嫌いもいたしません塾へも ちゃんと通います臆病も直します決して爪 も噛みませんおば様許しください今度だけ お許しくださいおば 様あなたはそんなに死ぬのが怖いのです か いいえ髪のように青白くなった顔をあげて 彼は強くかぶりを横に振ったいいえ死ぬの が怖いのではありませんただ父上の女を 汚すとおっしゃられたのがそれが の顔を両手で覆ってわっと泣き出した 弁之助の姿をユリはぎゅっと歯を食いしっ たまま冷やかに見守ってい た弁之助はその夜自分の新書へ入って明り を消すと闇の空間を見つめながらつぶやく ような声 で お母様と呼んでみたするとあの時以来忘れ ていた母のおかが絵のようにまざまざと闇 の中に浮き上がっ たそれはよく覚えようとしてあんなに つくづくと見た林中の顔ではなくいつも 明るい眉をしてしとどこかを眺めていると いう風な優しい美しい日のおかげだっ た彼はもう一度お母様と呼ん だ美しい母の顔は彼の方を見て頷くように 思え た住みとるような大きな帽子は笑ってい た彼はきつく唇を噛みしめながらむせび あげ たやっぱりお母様が一番自分を可愛がって くだすった誰だってお母様がしてくださる ように親切にしてくれるものは ないそしてお母様は今でも自分のそばに ついていて くださる弁之助が世の中のためお国のため に役立つ立派な武士になるようにとそばに ついて守ってくださるん だ彼はそう思いながらさくような声で そっとこう言っ たお母様 弁之助はきっと人に負けない立派な人間に なり ますお母様がお望みなさるような武らしい 武士になり ますそうしたらお母様は褒めてください ます ね誰のためでもない母のためにきっと人に 優れた武士になって みせる幼い彼はここを込めておかの人に そう呼びかけるのだっ た雪の墓地で会見を突きつけられた時の 恐ろしさと夜の暗がりでまざまざと母の おかげを見たこととが強弱な彼の心を 激しく古いたたせ た自分でも生まれ変わったような気持ち だっ たそばにはいつも母の魂がついていて くれる それが常に心の軸になってい た叔母はその後も厳しかった何かあると すぐにあなたは世間のおとは違うのですよ と いうあなたにはお母様がないのですからね 人と同じことをしていたのでは母親がない からとすぐに言われ ます武士の子がそんな口を聞かれるのは恥 ですから ね弁之助は 大人しくはいと 答えるしかしもう決して甘えるような目で はおを見ようとしないまつにも引きてんだ 口元にも子供には稀な意の現れといった 感じが見えこれまでのようにたやすく 話しかけることもなくなっていった 春が来て雪が消えると学術からの帰りに彼 はよく平等院へ回って母の墓を訪れ た時刻に遅れるとおばにしられるのでいつ もほんのわずかしかいられなかったが墓標 の前にかがんで合唱しながら口の中で色々 母に話しかけたり途中できた木の枝を刺し たりしていると悲しいほど楽しく心嬉しい 感じだっ た道に草が燃え花が咲き始めると彼は色の 変わったすみれを 寝ごこちながら そして来年の春になってそのすみれの軍が いっぱい先出したらどんなに美しい だろうそう空想して胸を踊らせていたがま もなく尾の手でそれはみんな抜きしてられ てしまっ たお墓の周りには仕の他に草花などを 植えるものではありませんこんなことを するとに笑われます よそして塾の帰りなどに寄り道をすると 言って厳しく叱られ た彼が父に当てて早く江戸へ呼んでくれる ようにと度々手紙を出すようになったのは その頃からのことであっ たその年の秋にはユリは結婚することに なってい た相手は反の重役の長男でやはり重役の 三宅五郎左衛門という人がナドだっ たそれは3年前からの約束だったが兄嫁の 描画とそれに続いた家庭の事情とで のびのびになっていたので あるそして今年の秋こそというその記述が 近づいてくるとユリは今度もまた延期を すると言い出した 弁之助には詳しいことは何も分からなかっ たが秋の始めにナドの三宅五郎左衛門が しばしば訪れ叔母と長い時間話して帰るの を見 た夜になって寝る時明りを消してから じっと闇を見つめてお母様とさやきかけ母 のおかげを呼びいかしながらその日ことを 話しまた望ましいことを頼んだり約束し たり するそれは何より楽しく欠かしたことの ない習慣になっていたがその自分はよくお が1日も早く嫁に行くようにと祈ったもの であっ たそうすれば父が自分を江戸へ引き取って くれるだろうと思った からしかし 冬になってもその年が開けてもおは嫁には 行かなかったしなどの訪ねてくることも なくなっ た弁之助はやがてそんな頼みの空なことを 知り自分の勉強にせを出し始め た彼は8歳の春から班の道場へも通い出し たが9歳になると塾での成績がめきめきと 上がり始めいつからか催という評判さえ 立つようになっ た叔母もそれを聞いたのであろうある時 いつもの厳しい調子でそんな虚名に惑わさ れてはなりませんよと注意されたあなたは もうすぐ江戸へいらっしゃるのですから 田舎で催などと言われるものも江戸へ行け ば吐いて捨てるほどいるのでですからね つまらぬ虚名に思い上がるようだと後悔し ます よそれはその通りだと思ったが虚名という 言葉が彼には悔しかっ た吐て捨てるほどいるという表現も 聞き逃せなかっ たそれなら主催ということを虚名でなくし て みせよう吐いて捨てられる仲間から抜で やろうそろそろ意地の出る年頃になってい た彼はそう考えて場が厳しくすればする だけその先を越すような気持ちになり学問 にも武芸にも社に励んでいっ た後から振り返ると我ながらよくあれが 続いたと 思うまるでゆずを張ったように緊張した あけくれであった わずかに新書へ入って明りを消して母の おかげを闇の中に描きながらお母様と 呼びかける時だけがそのわずかな時間だけ が何者にも変えがたい慰めでもあり心の柱 ともなってくれたのであるこうして11歳 になった年の秋の始めに彼の町に待った時 がきた江戸の父から出するようにという 知らせがあったのだどんなに大きな喜び だっ たろう叔母の顔が青ざめて目には涙をため あれこれと好きなものを料理してくれたり 思いがけない至りを見せてくれたりしたが 彼にはまで目にも入らなかっ たそして母の墓とはれる悲しさの他に何の 未練もなく迎えに来た歌詞と下僕を咳 立てるようにして立っていっ た田舎で仲裁と言われるものも江戸へ行け ばそう言われた尾の言葉が頭に刻みつけ られていたので出するとすぐから勉強に かじりつい た主の上屋敷は上池の橋にありちょっと 出れば見物する場所も少なくなかっ た父も少し歩いてみるように言ったが江戸 のものに負けたくない田舎者と笑われたく ないという考えから何事も置いて帰り見 なかっ たそんなに詰めてしても身につかぬだろう 父の民部は時々こう言った学問というもの はただ覚えるだけではには立たないものだ もう少しゆりを持ってよく神味わうように するがよい頭を休めることも勉強のうちだ からけれども弁之助にはもう習慣になって いるので詰めてすることも努力ではなかっ たし休息の欲望などは全く感じなかっ たにみっちりやられたと な父はそう言って笑うこともあっ た彼は黙って脇の方を見てい た父は何にもご存じないのだ自分がこの ように励み出したのは母のおかに支えられ たからであるばにしつけられたのではなく かっておの手から逃げたのだ厳しすぎる おばから逃げて母の記憶を呼び起こして から自分の本当の勉強が始まったの だこの事実をお知りになったら父はどう 考えなさる だろう一層申し上げてみようか彼はそう 思ったがやはり黙って脇の方を見てい たおばからはおりおり音信があった諸山の 太子堂へ紅葉を見に行ったとかくずに下り あが見えたとか鶴ヶ峰にもう雪が積もり 出したとか古京の山川と季節の移り変わり を記したものが多かっ た江戸は繁華でこそあるがどこもかしこも 家屋敷ばかりで目を楽しませる風景の変化 もなくふれば抜かり照れば誇りだつ道や 往来の人々のましのりはめく声など全てが 潤いのない荒々しい感じだったから訪れの 文字に記された故郷の風物は言いよもなく 懐かしかっ たけれどもどういう気持ちで叔母がそれら の手紙を描いたかということは考えても見 なかったしおに対して懐かしいと思うよう なこともなく手紙はながら1度も返事は 出さずにしまっ たユの言ったことは胡蝶ではなかった彼は 12歳の春にご主君日神の午前に召されて 大学の抗議をし たその席には多くの家臣も列して非常な 好評だっ たそれは判定における彼の才能と位置を 決めるものだったが ある年の3月翔平坂学問所へ入行すると 同時に修とはどういうものかということを 知りまたその数の少ないことを知って心 から驚い た お母様本当に世間は広いものです ね出してからもマオの決まりになっている おかげとの対話に彼は口ぶりでよくそう さい た勝山班で角を抜くくらいは大したことで はありませんでしたよけれど弁之助は負け はしません今にきっと翔平学でも人の上に 出て見せますお約束します よ母のおかげはあの頃と同じように明るい 眉をして住みとった美しい帽子で微笑み かけてくれ た彼はその微笑みの幻に慰められ気付け られるように思って下向きに勉強し たこうして弁之助は15歳になっ たそしてその春の学問吟味には軍を抜く 成績を認められ行校門行動で交渉すること を許された行校門の講義は学生の他一般の 諸子町人らにも兆候させるものでここで 交渉するようになれば学問所の学生として は1人前なのである家中の人々は席を設け て祝ってくれたそしてそのことが国元へも 伝わったのであろうしばらくして叔母のユ から祝いの手紙が届い たお祝いも申し上げそというごく簡単な ものだったが早速平等院へ参りご然にて めでたき彩あらまし申し継ぎ参らせそろ 云々という一説が激しく胸をさし た弁之助は手紙を持ったまま目をつり深く 震えるようにため息をつい た平等院の墓地がありありと見えるよう だっ た塾からの帰りに回り道をしてひっそりと 墓標の前へ鏡に行った日のこと雪が溶けて 土の柔いだ分離すみれを抜いていっては植 あめた ことそしてやがてそれをみんな場に抜き してられた時の悲しかったことなど切ない ほど鮮やかに思い出された が故障に上がったのはその年の夏のことで あっ た故障と言っても学問所のなりわいがある ので他のものように日日御殿へ詰めるので はなく定日に思考してご主君に継承の抗議 をするだけの役だったしかし無論これは 将来の出頭を約束するものなので家中の 人望はますます なるばかりだっ たその年が開けると間もなく3近の糸まで ひの神が帰国する時弁之助も友を申しつけ られて故郷へ帰ることになっ たそのことが決まった日の酔いであった父 の民部は夕食の後で彼を今へ呼び改まった 口ぶりで話があると言っ たお前ははどうやらおを恨んでいる様子だ な思いがけない時に思いがけない言葉で彼 にはちょっと返事ができなかっ た恨んでいるほどでなくとも嫌っている ことは確かであろうそうではない かそれはどういうわけでしょう か隠すことはない父にはよく分かっていた 民部はじっと彼の目を見つめながら言っ たお前は一仕切りに江戸へ呼んでくれと 手紙をよした叔母のしつけの厳しさに耐え かねていることは察しがついたけれど そしてお前が不憫でなくはなかったが父は 1度も返事をやらなかったなぜやらなかっ たか武1人人前に育てるということは生 優しい問題ではないただ人間として1人前 にするだけなら別だが武士は脳こ渉の上に 立つものとされ生まれながらに1つの特権 を与え られるそれはこの国とご主君を守護しいざ という時神命を捧げて働くからだしかし このように世が太平で神命を捧げて働く 機会のない時代にはその特権は決して 望ましいものでは ないよほど連結の心を固くし小心の魂を 養わぬとそれはよ謝り人を どす従って武らしい武士を育てるには しつけるものもしつけられるものも 生々なことでは難しいのだ言ってみれば それは1つの戦いだ怠けたい心自分にとわ れる心安きにつきたい心を常に抑制し絶え ず鞭打って鍛えあげなければならぬ幼い お前には苦しいことが多かったろうそれは よく分かっていたがそれではおは苦しく なかったと思う か民部はそこでちょっと言葉を切った 弁之助の胸にその言葉がどう入っていくか を見るようにそれからさらに静かな口ぶり でこう続け た幼いお前をそのように厳しくしつける ことはしつけられるものより何倍か苦しく 辛いものだ無を雨の方が甘いことは3歳の 我にも 分かる分かっていながら鞭を手にしなけれ ばならないものの立場を考えてみるがよい その上におは自分の幸福を捨ててしまった の だいつか目を伏せ神戸を垂れていた弁之助 はそこでびっくりしたように父を見上げ たお前はだろうがあの頃にはまたとない両 が決まっていた身分から言っても人物から 言ってもまたとない縁だった先も熱心だっ たしばも望んでいた結婚していたら おそらく人に羨まれるような幸福に恵まれ たこと だろうけれどもユはそれを断っ たに立ったものが随分口説いたようだ しかし結婚も大切ではあるが自分には現在 母をなくした追いがある亡くなった人にも 頼むと言われたし言われなくともこの追い を捨てて嫁に行く気持ちは自分にはない そう言って聞かないのだ父からも色々申し てやったが結局は破断にしてしまっ たそして今でもあれはお前が成人するまで は旗野にとどまると言って いる弁之助 お前も16歳になった少しは人の心の裏表 も分かる年頃だ今度勝山へ帰ったらおに礼 を言わなければなるまい ぞ弁之助は神戸を垂れ両手で膝を固く つかんだまま返事もできずにい たあの雪の日の恐怖の瞬間が今こそ違った 角度から改めて思い出さ れる武らしい武士にししつけることは1つ の戦いだという言葉は今こそ彼にあった ことの真実を示してくれたの だそうだ自分が苦しかったより何倍も上は 辛い苦しさをしんでいたのだ幼い自分には 分からなかったがあの厳しいしつけの影に はやっぱり甘く優しい尾の涙が隠されてい たの だ彼には10年ぶりで本当の尾を見るよう な気持ちがし溢れてくる涙を抑えることが できなかっ そして出してくる時には思いも及ばなかっ た再会の喜びを胸に描きながらひの神の友 をして勝山へ帰っ た彼が期待したほど再会は楽しいものでは なかった成長した彼を迎えておの目は一時 涙に濡れたが祖にも顔つきにももきっとし たものが消えず少し痩せたかと見える体は 鎧でも着ているような感じだっ たもっと打ち解けた昔の優しいおに触れ たい甘えるとまでは行かなくとも姿勢の ない心と心を触れ合わせたいそう思った彼 は夕食の後で改めて叔母の今を訪れた けれど愛たして座るとこちらの方が自然と 固くなりどうしても砕けた口が聞けなかっ た少しお痩せになりました ねそう言うとおはちょっと肩をすぼめる ようにしわずかに口元へ微傷を浮かべ た長いこと随分私がご苦労をおかけしまし たから本当にありがとうございまし たまだそれをおっしゃるのははようござい ましょうおばは打ち返すようにこう言っ たあなたはようやく16におなりなすった これまではどうやら順調にご成長なさい ましたが大切なのはこれから先のご修行 です私に礼をおっしゃるのはあなたが立派 に成人してご結婚もなすってお家の後目を お継ぎなさる時のこと ですそれまでは私のことなどお考えなさる 必要はございませ んそんな心の暇があったらそれだけ勉強を なさいそう言ってばはきっと姿勢をたすの だっ た茶をちそうになって言いよもなく 物寂しい気持ちで彼は尾の今から出てき たその夜は早く新書へ入っ た足かけ6年ぶりで寝る部屋である壁も襖 も懐かしかった天井も投も目にいるもの 全てが幼い日の記憶を呼び覚まして くれる彼は古い友達にでもあったように 部屋のうを眺めてい たそれからヤグの中にのびのびと身をよえ 囁くように静かな声でお母様と呼びかけ た弁之助が帰ってまりましたよ随分お久し ぶりです ねその時所の外の廊下にユが身を潜めて彼 のさきをいた膝を固く息を殺してしばらく の間弁之助の独り言を聞きししていたが やがて静かに立ち上がり足音をしんで底を 去っ たそれから仏へ入って行き仏壇を開いて 透明を上げこを炊いた鎧を着たような 身構えはもうなく情もやかに緩んでそうの 目には温かな涙さえ浮かんでい たユリは静かに座り合唱しながらじっと 仏壇を見上げていたが間もなく両手で面を 覆いながら声を潜めて泣き出した肩が震え おえの音がくと漏れたまるで喜びを訴える かのようにややしばらくむせびあげていた がやがてまた静かに仏壇を見上げながら しみいるような声でさやきかけ た跳上様お聞き遊ばしましてお母様と呼ぶ あの弁之助様の声 を私弁之助様には随分おつくいたしました 厳しすぎました あれほどにせずとも良かったとは自分でも 承知しておりまし たでも姉様私にはあれより他に方法が なかったの です子供を立派に育てあげるもあげぬも母 の力と申し ます亡くなったあなたを忘れさえしなけれ ばあなたのお美しいおかげを忘れさえし なければ母親の記憶さえちゃんとしていれ ば弁之助様はきっと立派にご成長 なさるどうしても姉様を忘れさせてはなら ない私はそう信じまし たそしてそのためにはユは厳しすぎなけれ ばなりませんでし たあの子の心をしっかりあなたに つなぎとめるために ユリは溢れてくる涙を押しなった唇の辺り にあるか泣きかの微傷が浮かん だあの雪の日のせかの夜からお母様と 呼びかける声をお聞きでござい ましょうお十になった今でも弁之助様は あのようにあなたをお呼びしてい ますおそらくもう上様をお忘れなさること はございます まい お母様と呼ぶあの優しい 声ユリは憎いばになった甲がございました

『聴く山本周五郎』チャンネルへようこそ🌙

【作品紹介URL】

【本チャンネルについて】
『聴く山本周五郎』チャンネルへようこそ。このチャンネルでは、日本を代表する文学者、山本周五郎の不朽の作品を、心を込めて朗読します。時代を超えて愛され続ける彼の物語は、現代にもなお響き渡ります。

私たちの朗読を通じて、山本周五郎が描く時代の風景、人々の心情、そして日本の美しさを、耳で感じ、心で味わってください。彼の作品には、人間の温かみ、悲しみ、喜び、そして生きる力が詰まっています。

山本周五郎の作品に触れたことがない方も、長年のファンもぜひこのチャンネルで山本周五郎の名作を楽しんでください。

【山本周五郎の紹介】
山本周五郎は、1903年6月22日に山梨県大月市初狩町下初狩に生まれ、1967年2月14日に横浜市で逝去した日本の小説家で、本名は清水三十六(しみず さとむ)。彼の作品は、江戸時代を背景とした時代小説や歴史小説で、武士の哀感や市井の人々の生活を描いたものが多く、特に『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』などの作品は高く評価されています。

周五郎は、清水逸太郎ととく(旧姓・坂本)の長男として生まれました。家業は繭、馬喰などの商売で、家族は武田の遺臣である清水大隅守政秀の後裔と自認していました。幼少期、明治40年の大水害で多くの親族を失い、家族は東京に移住しました。横浜市の西前小学校を卒業後、東京木挽町の山本周五郎商店(質屋)に徒弟として入り、この時期に文学への関心を深めました。

1923年の関東大震災で商店が被災し、一時は関西に移り、地方新聞記者や雑誌記者を経験。1926年、「文藝春秋」に掲載された「須磨寺附近」で文壇デビューを果たしました。以後、途切れることなく多くの作品を発表し続け、日本の文学界における独自の地位を確立しました。

生涯にわたり、彼は「賞」と名の付くものはすべて辞退し、1943年には『日本婦道記』で直木賞を受賞するもこれを辞退しています。彼は文学において「大衆」も「少数」もなく、「純」も「不純」もない、ただ良い文学と悪い文学のみが存在するという信念を持っていました。

私生活では、1930年に土生きよいと結婚し、1945年には妻を病気で亡くします。その後、吉村きんと再婚し、横浜に転居しました。晩年は、横浜市の旅館「間門園」の別棟で作品を執筆し、1967年に肝炎と心臓衰弱でこの世を去りました。

山本周五郎の作品は、人間の深層を探求し、日本の歴史や文化に根差した独自の視点から描かれています。その文学的功績は死後も高く評価され、『山本周五郎全集』や『全集未収録作品集』が刊行され、1988年には新潮社により彼の名を冠した「山本周五郎賞」が創設されました。彼の作品は、今日でも多くの読者に愛され、日本文学の重要な一角を占めています。

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