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【主日礼拝LIVE配信】2024年5月5日@山手町教会動画配信サービス



【主日礼拝LIVE配信】2024年5月5日@山手町教会動画配信サービス

H [音楽] 辺の第100編の4節5節です感謝しつ そのもに 入り褒めたえつつその大に 入れ主に感謝しその皆を褒めまれ主は面 深くその慈しみは限りなくその誠はよろず よにぶからである あん皆さんおはようございますおはよう ございますえそれでは早速待機調をお呼び したいと思い ますはい少々お待ちください音が割れてる はい大の皆さんおはようございます おはようございます今日もよろしくお願い しますよろしくお願いしますはい えまたインターネット配信でご覧の皆さん おはようございます共に恵まれた礼拝捧げ ていきたいと思いますそれではこれのご 挨拶をしていきたいと思いますハレルヤ ハレルヤシャロームシャローム感謝いたし ますえ今日はゴールデンウィーク期間中の 日曜日ですけどもえゴールデンウクの ゴールデンま黄金ですけどもえこの意味は 貴重なとかそういう意味も含めてあります けども写真にとっての貴重なのはこの 日曜日の礼拝で神様を礼拝することです心 からの拝 え今日もしっかりと神様に心からの褒めを 捧げていきたいと思いますえそれでは早速 お立上がりいただきましてえ賛美を捧げて いきたいと思います最初の支援100元気 な賛美ですので共に目もらっていき [音楽] ましょう感謝し の残しつつ大庭にここ はせ 入れ主はいつ 縮み恵はとしえまでその真実はよよに 至る我らは主のこの主の神 そその 待は と [音楽] 死こそ 神 喜び の声 あげよう きれ主の前で 喜び もて [拍手] 使えよ感謝しつつ主の本に賛しつつ大庭に 心 合せに 入れ主 はみ 深い恵みはとしえまでその真実はよよに 怒る我らは主のも主の 民その まが の [音楽] 主こそ神 喜び の声 あげよう いたれ主の前 で 喜びもで 使 よ 死主こそ か喜びの 持って あげよう れ主の前 で 喜び もよ 令 しこ に みの 食べよ れ主の前 で 喜び持って伝えよ [音楽] [拍手] [音楽] 愛すその 声私をな [音楽] 覚める 命 を 与えるあなたの [音楽] 言葉みそが 近く引き寄せ られあなたの 声を [音楽] 聞く腕に 泣き悟らせ たあなたの 見の [音楽] 中 愛するその へ私を 慰める 命 を 与えるあなたの 巫は 味そは 近く聞きを せれあなたの 声を 聞く身に な悟らせた 前あなたの 身の中 [音楽] 味そが 近く引き寄せ られあなたの 声を 聞く見に 抱き悟らせた まあなたの 身の中 味そは [拍手] 近く聞きをせ られあなたの 声を 聞く身に 抱き悟らせ たあなたの 見の中 共に私たちの声を持って素晴しい神様を 褒めたいていきたいと思い ますハヤの神様素晴しいのをからい ます曜日 [音楽] ののを捧げることができましてありがとう ござい ますて [音楽] を通してせ様の働きを通して私たちは癒し 励まし えポト見でくださる上にありがとうござい ますできない神様葉の皆は通して私たちに 希望を与えてくださいますありがとう ございます神持とのこの礼拝をじます最後 まであなたのの中にあって喜びを神様楽し ことができますようにお願いいたします まず事にって私たちを照らしらして ください力を与えてください希望を与えて くださいにありがとうございます喜びを 感謝が神様をに働いてくださる こと感で恵まれることができますようにせ てきた人に力を与えてくださいハヤハヤ ハヤ ハレルヤ あ あめそれは賛美してき ましょう主の見 は私を 生かし私を [音楽] 導き私を [音楽] 照らす主の 御言葉は 力が ある私を [音楽] はげまし私をいた はず今主の 前 に心 開き [音楽] 待ち望む主 の [音楽] 御主の 御言葉 は私を生かし 私を [音楽] 導き私を 照らす主の 御言 は力がある を [音楽] はげまし私を 見す今主の 前 [音楽] に心 [音楽] 開き待ち望む 主 の 御言葉今主の 前 に心に あき街 の主の [音楽] 葉どうぞご着席 くださいえ続きまして聖書朗読の時を申し たいと思いますえ今朝の聖書朗読の保守は 佐木吉信兄弟ですえまたに福書章の20節 から26節ですよろしくお願いいたします マによ印章5章20節から26節を読み いたし ます私は言っておくあなた方の義が立法 学者やパリサイ人の義にまさっていなけれ ば決して天国に入ることはできない昔の 人々に殺すな殺すものは裁判を受けねば ならないと言われていたことはあなたがの 聞いているところであるしかし私はあなた がたに言う兄弟に対して怒るものは誰でも 裁判を受けねばならない兄弟に向かって 愚か者というものは議会に引き渡されるで あろうまた若者というものは地獄の日に 投げ込まれるであろうだから最大に備えも を捧げようとする場合兄弟が自分に対して 何か恨みを抱いていることをそこで 思い出したならその備えもを裁断の前に 残しておきまず言ってその兄弟とわ それから帰ってきて備えもを捧げることに しなさいあなたを訴えるものと一緒に道を 行く時にはその途中で早く仲直りをし なさいそうしないとその訴えるものは あなたを裁判官に渡し裁判官は下役に渡し そしてあなたは極に入れられるであろう よく言っておく最後の1コラントを支払っ てしまうまでは決してそこから出てくる ことはでき 以上 ですありがとうございましたえ続きまして 今日の礼拝の祝福またえこれから メッセージを語る僕先生の祝福のために 代表して大阪清子先生にお祈りをして いただきたいと思い ますハレルヤ愛する天皇お父様あなたの 尊い皆を心から褒めたえます神様5月の第 1週私たちは心を込めてあなたをお礼拝し たくこのところにおります私たちが本当に あなたによって救いを受け全ての罪を許し ていただいて神のことせられて今日神様 生かされていることを心からありがとう ございます私は蘇りであり命であると言わ れるイエス様に私たちは本当に結ばれて この地上の歩みを1日1日あなたに感謝を しながら歩むことができていること心から ありがとうございますゴールデンウィーク なので普段一緒でない方々も共に今日この ところでお礼拝を捧げることができている ことまた配信で共にお礼拝を捧げている 愛する兄弟姉妹たちにも心から感謝いたし ます主をどうぞ今日も御言葉を語る牧先生 を豊かに祝福してその準備なさった御言葉 を十分に語ることができるようにあなたの お助けを与えてください聞く私たちにも 精霊様どうぞ助けを与えてよく理解でき ますようにそして聞いた御言葉を行うこと ができるように導いてください尊イエス様 のお名前によってお祈りいたし ますえハレルヤ皆さんおはようございます おはようごいえそれではもう一度待機呼ん でみましょうかねえ待機伝動所の皆 さん出ますか はいえ待機の皆さんおはようございます おはようござい ますはいね本当に素晴らしいえ待機伝動諸 との総方向礼拝もえ続けられていることを 感謝をいたしますやっぱりピンチは チャンスなんていうね言葉ありますけれど もまコロナ禍をえピンチをチャンスに 生かしてこのようなことができていること を持って主を褒めたえたいと思いますえ 現在ですねええYouTubeライブでは 急地点でえ礼拝を捧げておる方々がおられ ますえ改めましてえ私は山手町協会の牧の 大阪ですよろしくお願いをいたします今日 もえ山手町協会のオンライン礼拝によう こそいらっしゃいましたえ さてこの方ですね今はねもう早くももう これは朝空の中の名作だっって噂されてい ますで私結構面白く見てるんですね私も あの結構見なところがあってあのあの 見出すと面白くなっちゃって続きが気に なるとか言ってえ見てるわけですけれども ま虎に翼っていうことですねなんかカピ士 の言葉で鬼にかぼうて言ったような意味が あるんだなんていうことをちらっと読み ましたがまヒロインのこうトラコと呼んで はいけないですねこれとこと読むそうです けれどもまこれであの演じているのは伊藤 ささんと読んだ行けなくて伊藤さりさんと 読むらしいですがまこの方があの声がね 独特の声ですよねハスキーなあの しゃがれ声でハスキーボイスで彼女が何か こう疑問に思うことがあるとはてって言う んですよねはてって言ってねでまこれは 結構人気になるなっていうねあのアマ ちゃんのジジジ以来かなみたいなこれあの 結構使えるいろんなとこで使えるので いろんな人が使うんじゃないかななんて思 いるわけですが あの私はあの彼女たちが時々 繰り広げる法とは何かっていうことの答え を非常に楽しみにしてるんですねで法とは なんぞやっていうのをま法律家たちがねえ 法律家の卵たちがま色々と言うわけです けれどもあるものは夜を助けるあそして 温める毛布のようなものだと言いある人は はまあの断層の礼人が1人いますけれども あのヨネさんはそれは権力に対抗する武器 なのだと言いで先週はですねよくわから ないですけれども法というのは綺麗な水を 称えた水源であって私たちが守らなければ ならないものだって言ったらえ松山憲一 ふする裁判官があのご夫人は判事にはなれ ないんだっけとかって言ったっていうね そんなことありましたがまいろんなのが出 てるわけですよで法律っていうのは何なの かって言って私も気になり出しましました あの物語の世界だけじゃなくて法とはって いうことが私もすごく気になっちゃってえ 調べてみたんですねそうすると北海道は釧 の方の某え法律事務所のウェブサイトに こういう文言を見つけました法律とは最低 限の道徳を定めたものそういうブログを 見つけたんですねあ言われてみてあそう そうそうこの言葉僕知ってるよと思ってね あの19世紀のドイツ人の偉い法律学者の 先生がえおっしゃった言葉らしいですが 法律とは最大限最低限の道徳を定めたもの だという風に言われるんだそうですでその ブログの中にこういう記事があったんです ねなるほどなと思いましたちょちょっと あの引用しますおそらく多くの方々は法律 が介入するような低次元のところでは生活 しておらず法律とは無縁の高いレベルの 常識や道徳のもに生活していると思われ ますとで私が一旦停止をしてお兄さん お兄さんはいこっち寄ってこっちよって つってやってるとその瞬間に私は低次元な 人間になったんだなということをあの 思わされましたね道路交通法違反でござい ますからあのその瞬間僕は低次元な人間に なってやっちゃいけないことをやってる 悪い人になるのかななんて勝手なこと思っ てたわけですが言えてみようですよ法律と は最低限の道徳を定めたものでつまり守っ たからどうだっていうことはないものだっ ていうことですね守るのが当たり前だから 違反した時にめられるわけですよね なるほどなと思ったわけですでま今朝の 箇所はあの先週からの続きになっていて今 私たちはあの山の上の教え参上の水君を 学んでいるわけですがあのパリサイ人に まさる義でなければていうことをイエス様 はおっしゃいましたよね20節出して いただけますかイエス様おっしゃいました 先週もやったとこですけれども私は言って おくあなた方の義が立法学者やパリサイ人 の義にまさっていなければ え決して天国に入ることはできないそう イエス様は言われたわけでありますだから この20節をま説明する形で実は21節 から5章の最後まではねあの展開してい くっていう風に思うとあの理解がしやすい んだと思いますねであなた方の義っていう のはじゃあ何かって言うとそれは主の下部 である主の弟子である兄弟姉妹ま直接的に はイエス様のお弟子さんたちえ現在におい てはイエス様の後を続いていく私たち教会 にいる者 たちでそれが大悲の構造になってるわけ ですねでパリサイ人にまさる私たちの義 っていうのは何なのかっていうことを今日 はえまず1つ目のま殺してはならないって いう法を巡るあの彼らの理解とイエス キリストの解釈の中からえ見ていきたいと 思いますえ私たちの主イエスキリストの 御言葉見えはえ私たち人間が定めた あるいはまあの実回の場合は神によって 定められたものとも言えますが神によって あるいは人によって定められた法とはどの ような関係があるのでしょうか2つの ポイントで学んでみたいと思いますお祈り をいたしましょうハレルヤ天のお父様心 から感謝をいたしますえゴールデン ウィーク中でもあるに関わらずえわざわざ 苫小牧に来てえ礼拝を捧げられている方が いらっしゃいます普段はオンラインの礼拝 を喜んでおられるえ姉妹が今日はライブで 参加していることを持って主を喜びます またライブ配信では10地点で今礼拝が なされております神はあなたは生きていて え私たちの山手町教会の礼拝を大いに広げ て用いてくださっていますからありがとう ございます神をどうか私たちと共に今日も いてくださいそして私たちの人生にあなた の光を輝かせてくださいそのために私たち がパリサイ人にまさるあなた方の義つまり イエスキリストにあるところの義について 学びまたそれを実践することができます ように聖霊様私たちにつきる励ましを与え てください感謝をいたします以下の時間を 見てに委ねます語るものに知恵を聞くもの に力をあなたが与えてくださいますように 感謝をし愛する主エスキリストを皆で祈り ます メンでさてです ね21節から読んでいきましょうえ昔の 人々に殺すものは殺すな殺すもは判を受け ねばならないと言われていたことは あなた方の聞いているところであるしかし 私はあなた方に言う兄弟に対して怒るもの は誰でも裁判を受けねばならない兄弟に 向かって愚か者というものは議会に 引き渡されるであろうまた若者というもの は地獄の日に投げ込まれるで あろうでもう1度21節見ていただきたい んですねえいきます の人々に殺すな殺すものは裁判を受けねば ならないと言われていたことはあなた方の 聞いているところであるこのですね何々は 何々についてはあなた方の聞いている ところですねと言って切り出すのは当時の ユダヤ人のま法律家たちが立法学者やま いわゆる法解釈をする人たちがいわゆる 論戦をする時にねま裁判で言えばと事が やり取りをするような時ですけれどもま そういう論戦をする時の定型文なんだそう です高校こういう風にあなた方は聞いて ますよね知ってますよねでもねて言って 言い返すっていうことですねで殺すなって いうのは大事なあの命令ですでそれはあの 旧約聖書の中にあるんですねま皆さんは あの実回を思い出すと思いますけれども モーセの回の第6回 はあなた方は殺してはならない殺しては ならない殺すなという風にまあのはっきり と命じられてるんですねでここで問題に なるのはですねまあの語訳聖書の訳語の 問題ちょっとあると思いますね裁判を受け ねばならないって書いてあるんですよで 裁判を受けねばならないっていうと私たち 現代人の頭の中では刑事裁判みたいなもの がパッと思い浮かぶじゃないですか裁判所 とかねで実は私はあのとある刑事裁判の 上場証人になって裁判所で裁判に出たこと があるんです よ恐ろしい緊張感ですよ ねで私はあの罪を犯した人を弁護する側 あの弁護側の証人です からこの人はもう1度やり直すことが必ず できますからこういう施設がキリスト教 関係でありますからみたいに言ったらあの 賢二が ね今まで何度もそれで失敗してるでしょう みたいなことを疲れてうってなっちゃった のを覚えてんですよもう本当に緊張する 場所ですで裁判を受けなければならないっ て言とそういうなんかものを感じちゃうん ですよねなんかフォーマルな裁判所に行か なきゃいけないでもここはですねそういう ことじゃないみたいなんですねま殺すって いうことはまもちろん犯罪としての殺人を 指すわけですよねだからあの過失によるも のっていうよりも恋によるものですよねで そして旧約聖書を見ると殺したもの恋に 殺したもののあのおさきは殺されることな んですよね死刑なんですよですからここの 意図っていうのは裁判所に行って弁護し たり検察にやられて怖い目に会うからっ ていことではなくてあなた方は人殺しをし てはなりませんなぜならあなた方は法に よってさかれて殺されなければならない から殺すものは殺されなければならない そのさきを受けることになるからでそう いった意味なんですねだから裁判所に行か なきゃいけないからっていうんじゃなくて さかれた結果は殺されるから殺しちゃだめ よってっていうことですねそういう意味 合いだと思うわけですよ で殺されじゃたまらないということで一般 の人は犯罪はそれで抑止されるんだと思い ますがで最近はですね現代社会では死刑に なっても構わないみたいな人が出てきてる んですよ ね何人殺してもいいそして死刑になっても 構わないみたいなねでそういう奴らをを 殺して俺も死刑になるそれが俺の願いだ みたいな人たちが出てきてまそういうのは あの弘之でしたっけねあの無敵の人とか 言ったわけですよね確かにそういう風に 破れかれになった人ってのは向かうところ 敵なしですよ何でもできちゃうからねまと いうような議論はあるんです死刑の死刑に なるから殺してはいけませんっていうのが 1つのこう犯罪抑止になるのかどうかって いうのはま議論の余地はあるようにも思い ますが他方でそんな風にね あの死ぬことも殺されることも恐れない みたいに言ってた人 が今の日本の死刑制度だとその日の朝に 告げられるわけでしょコンコンコンコンて 来て失望って言ってあついにその日が来 たってなったら今まで去勢を張ってた人が いきなりなんかへなへなになっちゃって もう刑務官に引きずられるようになって 最後を迎えるみたいなこともあるって聞き ますよだからやっぱりあの死っていうのは やっぱり人間に恐怖を与えてるわけですよ ね人間は生きるべく作られていますからだ からあなた方は殺してはならないなぜなら そのさきは死だから だ殺人の報酬は死なのだあなた死ななけれ ばいけないそういうことをしてあなたは いいだろうかいいわけがないあなたは殺し てはならない でまそういうシンプルなロジックがここに は使われているわけですよで皆さんねここ で考えてみたいんですよ法は最低限の道徳 である先生僕は人殺しをしませんでした いやすごいね君人殺しをしなかったんだ ハレルヤとか言ってね君は体操立派な人間 だ精霊の支配を受けて人殺しをしなかった んだハレルヤなんと素晴らしいだろう君は みたいなことを私が言い出したら大阪先生 はついに頭がおかしくなったって皆さん 思うんですよそれ人殺ししないのが 当たり前です から違いますかだから守っても法っていう のは当たり前のことをやってるだけなん です よだ殺さなかったから偉いとか何をした から偉いじゃないんですよそれはしないで いるのが当たり前なんですよ ところが私たちは弱いですから停止線を見 ても停止をしなくてはいお兄さん止めて ください止めてくださいて言って運転手 さんはさ止められてあ罰金を反則金を払 うっていうことはあるわけですがいいです か法は最低限の道徳を定めてんですよだ から人殺しをしなくたって別に偉いとか 偉くないとかじゃないわけですよしては いけないことなんですそしてそれはすると 大変なことになっちゃうんですだけけどだ からそれをしないから偉い立派だ 素晴らしいということでは当然にないわけ ですねでイエス様は言いました殺すな殺す ものは裁判を受けさきを受けなきゃいけ ないさきを受けなきゃいけないのがいいと 思いますね深海役とかの役の方が僕はいい と思いますえと言われていることはあなた がの聞いているところであると言った上で じゃあイエス様は何と言いましたでしょう か22 節しかし私はに言う兄弟に対して起こる ものは誰でも裁判を受けねばならない兄弟 に向かって愚か者というものは議会に 引き渡されるであろうまた若者というもの は地獄の日に投げ込まれるで あろういやあ大変ですよこれこれは大変 です よ兄弟に対して怒るでこれはあの主にある 兄弟ですよねキリストにあってとなった仲 に怒るえそれはどうなるんですかもう1回 22節 ね兄弟に対して生かるものは誰でも裁判を 受けなければならないこれはさきですよね さっきの裁判というよりもさきを受けなけ だけでね原文だと面白くて兄弟に対して 怒るものはの怒るっていうのが現在系分な んですよねだからま あの人間っていうのはね瞬の反応は 仕方ないとこありますよね例えばさっきも 車の話しましたけれども私が55kmで タラタラとフィアットを流してて赤い車で シュってやってたらはって入ってくるじゃ ないですかでそしたら何やってんだみたい に瞬間的になりますよねでまここで言っ てる怒るっていうのはもうちょっと継続的 なものだっていう風に学者たちは言うわけ ですよでその瞬間的なびっっくりすると共 に起こる吹き上がる怒りまであのダメて 言ったら人間生きられないですから ねだけどここで言われてるのは主にある 兄弟に対して怒り続けるってやつですよ そこが焦点なんですよ ね今アンガーマネージメントっていうの皆 さん流行ってますでしょカってなってうわ まから前から入ってきやがってこの車つっ てね今度オケでやるみたいにならないで そうなったら終わりだから ならないようにそのハンドルを握りながら 大阪先生6つ数えてくださいね6つ数える んですよ6つ数えてる間に怒りは縮まり ますからとかてやるんですよねアガ マネージメント うんだから人間っていうのはね怒り続け ちゃう生き物なんです よ6つ数えて怒りを納めましょうっていう アガーマネージメント僕すごくいいなと 思ってるんですよだけどそんなこと言われ なきゃ出来もしないのが人間なんですよだ から煽り運転とかあるわけじゃないですか 煽り運転とかっていうのは大抵の場合は 被害者だと思ってんですから煽ってる方 はとんでもない運転しやがってよし俺が 教えてやるみたいにしてやり出すわけ でしょだから彼らは何かこうリアクション してるわけですよだから俺を怒らせたなっ てやつですよで怒らせたところで止まりゃ いいものを6つ数えて止まればいいものを 人間は止まることができないわけですよ 多くの人は止まるどころか怒りのガソリン をもう自分のアクセルにあーみたいにして もうアクセル全開で怒っちゃうわけ でしょ怒りを収めるどころかもうね友先生 時々言いました先に言わなくなりました私 もちょっと成長したのかもしれません あなたまたやってるわよあなたまた牛に なってるわよ牛は4つの胃袋があります でしょ怒りを半数するわけですよ怒りの種 をぐっと入れてまた戻して紙戻し てとか言ってイライラしてでまた飲んで また戻して何回も半数して怒りをこう 燃やすわけですよ ねでねそれはさかれちゃうわけですよで 裁判を受けなきゃいけないこんなことで あの民事とか刑事の裁判があるわけじゃ ないからやっぱりさっき言った仲介者の 言葉は正しいんだと思いますねこのさきを 受ける裁判を受けるっていうのは誰の裁判 かって言うと当然人の裁判ではないわけ ですよ神様は私の怒りっぽくそして ねちっこく怒り続ける悪い性質をご存じで それをさかれるということになるわけです ねだから皆さんあの怒り続けるのはだめ ですよ瞬間の反応は私はあの人間ですから っていうので許せると思いますうん現在系 分子ですから分子現在ですからねだけど ネネと怒り続けたり怒りにこうもう ファイヤーみたいしてねもうアクセル全開 だみたいのはダメですよだめ ですでもう1つ注目したいのはですね イエス様ここで何度も兄弟っていうんです ね兄弟に対して怒る兄弟に向かって愚か者 という次はえバカもという兄弟をいわゆる なじるですねでこの兄弟っていう言葉を 連続して用いてるところが面白いなっと 思うわけですよつまりイエス様はこれは あの主の弟子たちっていうのも一義的に そうですけど将来の教会を見越して おっしゃってるって考えていいと思い ますイエスキリストを信じるコミュニティ で主にある兄弟姉妹になったものに ね怒りを燃やしてしかも怒りのガソリンの コックを全開にしてねあの先週あの ガリレア間の灯油のタンクのオイルがどこ から来てるんだっていうのをやりました けどコックを開けて灯油が流れてくる流れ てこないっていうのやりましたけれども もう灯油を開けてコク全開でねダラダラ やってそこに火をつけてみたいなことを やってたらダメなわけですよイエスの教え は教会内での怒ったり暴言を言ったり さらにネチネチと恨んだりそういったこと はやってはいけませんなぜならそれはさか れるから よく考えてみなさいイエス様は言ってるん ですそれはあなたの主にある兄弟ではない ですかあなたの主にある大事な姉妹じゃ ないです か私たちキリスト者は共に主にあるものと して主によってあわれ主によって許され主 によって救われた仲間なのですから そして精霊によって1つキリストの体にえ 組み入れられたお互いなのですからま瞬間 の怒りはね仕方ないとし ましょう挨拶してくれなかったちょっと 残念だな大阪先生忙しいの忙しいの分かる けど挨拶ぐらいしてくれなきゃなでそう いうのは分かりますよ瞬間的なことだから でもそこから転じてね大阪先生はいつも 挨拶をしない大阪先生はいつも挨拶をし ない大阪先生はいつも挨拶をしない私は 無視されているのではないかみたいに ぐるぐるってなってるのはどうですか皆 さん牛さんになってませんかそれ はそ牛さんになってんですよ私もとこ先生 に散々注意されましたけど反省しちゃって ますからねそれはよろしくないわけです よネチネチといつまでも許さないをる と人の裁判所は相手にしないんですよ そんなのは最低を定めてるので殺さなきゃ いいんですよ腹の中で何何度ナイフを 突き出せたって構わないんですよ人の法廷 は人の内心はさけませんから行為をさくん ですからしかし神はその目は私たちの心奥 の奥底までを見ておられるのでです からさかれてしまうわけですよ22節のB ばっかもというものは地獄ゲヘナの炎に 投げ込まれるで あのなんと恐ろしいことかと思うんですよ ねなんと恐ろしいことかと思うの ですだそういう私たちであればそういう ことをしないでじゃどういいのかっていう ので23節以降に進んでくわけですね23 節からいきましょうだから最大に備えもを 捧げようとする場合兄弟が自分に対して 何か恨みを抱いていることをそこで 思い出したならその備えもを裁断の前に 残しておきまず言ってその兄弟と和解し それから帰ってきて備えもを捧げることに しなさいえあなた方あなたを訴えるものと 一緒に道を行く時にはその途中で早く 仲直りをしなさいそうしないとその訴える ものはあなたを裁判官に渡し裁判官は下役 に渡しそしてあなたは極に入れられるで あろうよくあなたに言っておく最後の1 コドラントを支払ってしまうまでは決して そこから出てくることはできないでこれは 適用ですね23節以降だから兄弟感で争い があった時にはまず和解をしなきゃいけ ないんですよ あの人は私を恨んでるようだあの人は私の やったことを問題ししているん だだとすれば言ってちゃんと和解をする ことが大事なんです謝罪をすることが大事 なんです ねいやいやいやいや私は礼拝をするんです よ神様を大一にしてるんですよ神第一にし てるんですよだから礼拝を捧げてからと イエス様は一緒おっしゃいましたっ け違いますよねまず和解をして から礼拝の捧げ物をする途中でそれを横に 置いて兄弟と和をしなさいとそれからやん なさいでそしてもうかなり決定的になって ますよね24 節え25節ですねえあなたを訴えるものと 一緒にを行く時にはその途中で早く仲直り しなさいそうでないとっていうことですね で一緒に道がね多分その訴える側と訴え られる側が同じこう裁判所への一本道か なんかあったんでしょうかね一緒に歩いて てうみたいになっ たら法廷で会おうみたいに大抵はなるわけ じゃないですか法で会おうみたいな ねでそういうことをせずに 今謝ってしまいなさい仲直りをしなさい 和解をしなさいそうでないと大変なことに なってしまうからということですだから これは1つのあの2つの23節以下は適用 なんですよねだからクリスチャンはその 適用から考える と内政に努めなきゃいけないっていうこと です よ私いつも言ってますよねあるアメリカの 説教者が言った有名言葉ですよ人に指を1 本さしてみなさい3本はどこを向いている そうだ3本はあなたの方を向いているのだ ですから人のこと言う前に自分のことを ちゃんと内省しなさいそうでないと大変な ことになってしまうからっていのがイエス 様の意図ですよそしてそれがパリサ人に まさる義ですよパリサ人の義っていうのは 殺すなっつったら殺しませんそれは 当たり前のことをやってるだけですから 最低の道徳ですから別に何も褒められる ことじゃないだけどもし本当にあすみませ んでした足りないところがありましたと ちゃんと謝れたならばそれはもうその人は 賞賛されるんですよはない賛されるん ですキリストの許しを私たちは体験してい ますからイエス様に許されたっていうあの 体験があれば許す方向に家事を切ることが できるはず ですイエス様が私をこのように許してくれ たんだとすればああ牛になるのはやめよう 俺は人間だったんだ ね智子先生にそうやって言われた時に うるさい俺の気持ちが分かるかみたいに なっ てつまらない怒りをねしてますます猛牛の ごとくなるかあ僕は間違ってたよやっぱり 人間がいいよな牛はダメだよな俺の胃袋は 1つあったとか言って笑ってそこで止まっ たらなんと素晴らしいかって思うわけです よ私たちに必要なのは怒りの炎に記憶と いう名のガソリンを供給してやることじゃ ないんですよ怒ってる時にネガティブな 記憶が入るともう炎上ですからもう大炎上 ですからそういうことしちゃダメなんです そういうことしたら結局皆さんが良くない んですよイエス様はそれをおっしゃってる んですよねそうじゃなくて許されたものと して兄弟を許して自ら謝罪してで和解に 務めるそうすれば友を得たことになるそう すれば兄弟姉妹と共に生きることがある 人間は失敗しますようんうまくいかない日 だってあるでもやり直すことが できるで もガシ上端よろしく ね薪の上に寝て復讐を誓ったりあるいは熊 の肝を舐めてうわ苦みたいになってガシ正 担とはそういう事から来てるわけですよね 肝を舐めてうわ苦この苦を覚えてあの覚え 忘れるものかって言って復讐を果たすって いうやつでしょいやそういうことではいけ ないわけですよねでその根底にはネチネチ 考えて許さないという恐ろしい罪が潜んで いるわけですよそして愛する皆さん神は それを見ておられるんですよ人のさき どころではない主のさきの目を意識した時 に私たちは本当にすべきことが何なんだか は分かってくるはず ですでパウロはですね第1コリントの6章 においてま教会内の問題は教会内で解決し ましょうねっていうことを強く進めてるん です裁判所にわざわざ行ってやるっていう ようなことをせずに教会の中できちんと 解決しましょうなぜならば私たちは許され 愛されたものだからですよでそれはこのス 様の教えに見事にこうしてると思うん ですでもちろん教会の中でも色々まずい ことがあるの はあると思います残念ながらねでしかし 私たちは基本則として主に従うものであっ てイエスキリストに対する信仰週末に 対する希望そして御玉の愛によってこの世 の方をはかに超えるイエスキリストの義に 生きている我々だそうじゃないですかだ から地の主を世の光だってイエス様言って くださってるんです からだからそんな私たち があのねなんとかの法律相談書みたいな もう許せない訴えてやるって言って わざわざ世俗の方の世界に降りて事実認定 を立てにして裁判はこう言ってくれた裁判 所は私のことを認めてくれたとか言って 自分の正当性を小高に弁護するというのは 私はなんと残念なことかと思うわけです はいクリスチャンなんです からイエス様を信じているんですから イエス様に愛愛され許されているんだ からそういう世俗のものに降りていって肩 をつけましょう 私たちが目指す方向はそうではないと私は 考えるんです皆さんはいかがでしょう か立派な人っているんですよ皆 さん次出して ください有名な言葉ですよね時あかも5月 ですよ話せば分かるこれはあの犬か強し さんていうねえ戦前の代表する政治家の 1人ですけれども彼は事件で殺されて しまうわけなんですけれども犬海底に青年 症が血盛んな若者たちがダダダて入ってく わけじゃないですかでそういう時 に犬飼さんは痛めるんですよまあ待てまあ 待て君たち話そうじゃないか話せば分かる んだからって何度も言ったっていうんです よでその中であの有名なやり取りが出て くるわけですよね話せば 分かるちゃんと話し合じゃないかって言っ たら青年症候が何て言ったんでしたっ け問答無用さすが分かってらっしゃる方が いました問答無用打てって言って9発の 弾丸が発射されたんですよで3発当たった んですよね3発当たってその後どうなった かて言ったら3発当たって血だらけになっ てあのお手伝いさんとかにあの手当てをし てもらいながら犬か通しは 彼らを呼んでき たまえ今の若いもを呼べ話して聞かせる ことがあるんだ話せばわかるんだって言っ たっていうんですよそしてこうも言っ たっていうんですよね9発打って3発か これが今の私たちの軍隊の力 か軍隊の訓練はやんなきゃいけないなとか と言ったとかていう話も残ってますが皆 さんね でそしてそれで1時間ぐらい苦しんだ後で 急変して死なれたんですよね皆さん私の いつものパターンだったらこの犬か強しは イエスキリストを信じたクリスチャンなん ですって言いたいところなんですけどそう じゃないんですよそうじゃないんですよ彼 ノンクリスチャンなんですよ彼普通の人な んですよ普通の良識的日本人ですよていう か立派な人ですよ愛する皆さん私が何を 言いたいかもうお分かりでしょう普通の 立派な人だってイエスキリストの愛と許し を知らない人だっ てこういうことまでは来るんです よだとすればです よ追い切れない私の罪を私の罪の負債を 許してくださったイエスキリストを私たち は知っているの になぜすぐ許せないんでしょうかねなぜ すぐえてやるとか言うんでしょうねなぜ すぐ怒りのアクセルを踏んでガソリンを もうハオスーパーハオタ105だみたいな 感じ で怒りのガソエンジン に着火させようとするんでしょう ね世の裁判所に降りて裁判官は認めてくれ たとか言うんでしょうね 私は思うん です悲しいじゃないです かそんなの悲しいじゃないですかで残念 ながらパワハラだセクハだとかそういう ことがあるのでキリスト教会でも裁判に 訴えるってことが増えてるんですよねでも それ は私たちの信仰がどれほど弱っている かっていうことの勝作なんだと思います 私たちに本当に福音的な信仰があるなら ばそういうことはしないはず ですそのために も日々精霊の助けを求めていただきたいん です よ心を貧しくして神の助けを日々に得て そして見たが結ぶ身を結ばせていただこう じゃありませんか見の結ぶみは愛喜び慈愛 あ愛喜び慈愛喜び平和観葉慈愛善意忠実に は自性であってこれらを否定する立法は ないの です三玉の身を結ぶなら最高のものが できるんです最低の道徳になることは 決してありませ ん犬か 強し素晴らしいと思いますでも私は クリスチャンですだとすれば彼の行った ことは私たちへの挑戦です私たちはイエス キリストを信じてその許しを得ているの ですから若いに務め内省に励み そして良い人生を選びとろうじゃありませ んかお祈りをいたしましょうハレルヤ天の 父さは心から感謝をいたしますえ今日の日 はありがとうございます本当に今日 はイエスキリストの えパリサイ人にまさる義ということの1つ の側面をえさきということから見ましたし どうか私たちが良い方を選び取り本当に 最低限の道徳をやったから俺は偉いのだで はなく神の見たの愛によって生かされ自然 と三玉の身が結ば れる流れのほりにった木のように精霊の 豊かな流れの中に 満たされそして結実するクリスチャンと 私たちをしてくださいそのためにもどうか 私たちが聖霊様あなたの豊かな流れのそば にい続けることができますようにイエス様 あなたという武道の木に繋がり続けること ができますようそこのにとまり続けること ができますようにえ心から感謝をいたし ます今日の日はありがとうございます 愛する主イエスキリストを皆で祈りますあ 上手な で てえ感謝をいたしますえそれでは今日もえ 神様に対しての感謝の献金の時にしたいと 思いますえ研究は私たちクリスチャンがえ 神様に捧げる感謝の応答ですえ喜びを持っ てえ主に捧げていこうではありませんか 用意のない方はえそのままで結構でござい ますえ成果を歌いましょう成果のえ391 番神は汚れたる呼びのためえご一緒にえ 賛美をしつつ献金の時にいたし [音楽] ましょう 見分けられた びの た 本気のさえも ちくし る 苦し愛愛 [音楽] し我がを 記すと [音楽] はがし主は我が も なり彼の死によりて我は生きる [音楽] かる くし ぞ と 出し我がを すと は愛は満 たれる気をらせ 罪の 力より我を まる かがる 苦し が と [音楽] 出し 我がて すとは 満たれるのみた 栄えの を びと 渡り さう から きかなる き 愛愛 [音楽] 汚し 我が心から5番を は わしもの主を 知る ものいざ 戦え まら我らの主 [音楽] なる うし ぞ と 怪し我がを 欲いか なるいか なる 愛情愛情 [音楽] 汚し 我がを [音楽] きす [音楽] は献金感謝のお祈りをえ田中えり子姉妹に お願いし ます主の皆に感謝をいたし ますあなたの見え本当にありがとうござい ます私たちは兄弟姉妹として主に愛されて いるものです許されてるものです主が 私たちにお示しくださった愛の大きさ許し の大きさも再びあなたによって 深くあなたの教に導かれたことを ありがとうございますどうか許されたもの として兄弟姉妹を許し愛されたものとして 隣人を愛することができるように神様 精霊の力によって見たの身を本当に実らせ てくださって生活の中にその場面場面に おいて見た をあなた が生きて働く場所としてくださいますよう に助けて くださいハレルヤ今本当に言葉をいだいて 私たち主にあって示されたことがあるなら 神様互いに許し合うことができますように 助けて ください今日はこの礼拝におい て札幌東キリスト伝導所 から石川道姉妹を導いてくださって共に 礼拝を捧げることができてありがとう ございますあどうか本に姉妹の歩みの中に あなたが伴ってくださってあなたの明人と して歌てくださっている恵の上に ありがとうございますまた会の上 にあ神様倉田先生をはめ信徒の方々のうち に見の素晴らしい恵の注ぎを与えて くださって祝福してください今私たちこう して献金を捧げまし た心と思いとあなたにお捧げできたことを 感謝いたします配信によってまた礼拝を 捧げた方々また故あって今日は来ることが できなかった兄弟姉妹のうちにあなたの 特別な恵の注ぎを今週も与えてください 感謝をいたします主の皆によってお祈りを いたしますメンえそれではご切立のままえ 照映の383番父美女の三玉の歌いえ祝福 を持って礼拝を閉じます [音楽] OG [音楽] た へわ [音楽] A I K AAEN [音楽] 願わく は私たちの救い主し私たちを愛し許し 立上げてくださる愛する主イエスキリスト の恵み と1人号さえをしまずに私たちのために 賜ることによりご自身の愛を表して くださった父なる神様あなたのそのにして よき愛 とこの愛と許しを私たちに教え私たちを 導きあらゆる心理にまで私たちを導いて くださる精霊様親しい交わりとか今日ここ 本館 本道大気伝動賞またFacebook ライブYouTubeライブを通してこの 礼拝に預かった恩1人1人の上に今日も もとしえにまた豊かに豊かにありますよう にアーメンメン [音楽] どうぞご着席ください

おはようございます。本日の主日礼拝は10:30からです。私たちとともにオンライン上で神様に礼拝をささげたい方、大歓迎です。チャンネルは礼拝開始10分前から開き、開始5分前には会堂内の音響が流れ礼拝に向け、堂内の皆様とひとつ心になって備えることができます。心から主を賛美し、ともにいけるまことの神様に礼拝をおささげしましょう。

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2024年5月5日 主日礼拝説教要旨
説教題:『法を越える主のみ教え』
聖 書:マタイによる福音書5章20~26節

 早くも名作と噂される今期の朝ドラ「虎に翼」。ヒロインの寅子(伊藤沙莉演)がハスキーヴォイスで呟く「はて?」も人気だが、彼女たちの「法とは何か?」を巡るやり取りも興味深い。弱き者を助け、暖める毛布のようなもの、権力に対抗する武器、更にはきれいな水をたたえた水源など、色々なコメントが出てきたが、道内の法律事務所のwebサイトに「法律は最低限の道徳を定めたもの」というタイトルを見つけた。その中には「おそらく多くの方々は法律が介入するような低次元のところでは生活しておらず、法律とは無縁の高いレベルの常識や道徳のもとに生活していると思われます」とのコメントが。成る程と思わされた。
閑話休題。今朝の箇所から五章の最後までは二〇節において提起されたパリサイ人の義とそれに勝る「あなたがた」、即ち主の弟子たちの義の対比という図式に入れて読むと理解がしやすい。今朝はその第一として、犯罪に関する取扱いについて分かち合いたい。

Ⅰ.殺してはならない

イエスは当時のユダヤ人の論戦の定式に則り、「~はあなたがたの聞いているところである(21節)」と切り出す。「殺すな」は十戒の第六戒にもある、基本的な教えである。ここで問題になるのは「殺す者は裁判を受けねばならない」という口語訳の訳語だ。ある注解者はここでの「殺す」は犯罪としての殺人であり、旧約において、その裁きは死刑しかないと指摘している。そう考えれば、ここの意図は、「あなたは人殺しをしてはならない。なぜならあなたは法によって裁かれ、殺されねばならないからだ」と言ったものになるだろう。現代社会では「死刑になっても構わない」「奴らを殺して死刑になれば本望だ」と嘯く、いわゆる「無敵の人」の存在がクローズアップされ、そういう人に対しては「死刑」に犯罪を抑止する効果があるのだろうかという議論もなされているが、当時一般的であった解釈では、殺人したものは、その行いによって裁かれ、殺されてしまう。だから殺すべきではないのだ。というシンプルなロジックが伝えられている。またこれは決して「偉い、君は人殺しをしなかったからなあ」などと称賛されるべきものでは断じてない。先に述べた「法律は最低限の道徳を定めたもの」ということばの通りである。

Ⅱ.怒るな、暴言を吐くな、恨むな

 そうした当時の常識にイエスは挑戦するのだが、これが実に手厳しい。22節には「兄弟に対して怒る」ことに対する裁きが語られている。原文ではここの「怒る」には現在分詞が用いられているから、瞬間的な感情の高まりとしての怒りというよりも「怒り続けること」が主要な焦点になるとは思うが、人間と言うのはとかく六つ数えて怒りを収めるどころか、それを反芻し、恨みの力に変えることが実に多いもの。しかしその結果は「裁き」なのである。そして注解者たちはこの「裁き」がなされるのは人の裁判所ではなく、神の法廷であるとする。もう一つ注目したいのはイエスがここで「兄弟」ということばを連続して用いていることである。つまりこのイエスの教えは教会内での怒りや暴言、更にはうらみということについて記していると考えるべきだ。キリスト者はともに主にある兄弟姉妹なのだから、ともにキリストにあって、聖霊によって、キリストのからだなる教会に組み入れられたお互いに対して怒りを燃やし、暴言を吐き、ねちねちといつまでも赦さない姿勢をとるならば、神がその人を裁かれ、その結果は悲惨なものになる(22節)。だからこそキリスト者は内省につとめ、謝るべきはあやまって、和解しなければならないのである、なぜなら私たちキリストの兄弟は皆、キリストの赦しを体験したものだからである。そういうわけで私たちに必要なことは怒りの炎に記憶と言う名のガソリンを供給し、何時までも怒り続けることではなく、主にあって兄弟をゆるし、自らの罪は謝罪して和解につとめることなのである。

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 Ⅰコリント六章において、パウロは教会内の問題は教会内で解決することを強く勧めているが、その底層には今朝学んだイエスの教えがあると思う。私たちは主に従う者であり、イエスに対する信仰、終末に対する希望、そして御霊の愛によって、この世の法を越える愛の支配の中を生きている者たちだ。そんな私たちがわざわざ世俗の法の世界に降り、そこでの「事実認定」を盾に自らの正統性を弁護するというのはなんとも残念。「まあ待て。話せばわかる」と青年将校たちを必死に宥め、「問答無用」の声の中で銃撃されてなお「今の若いもんを呼べ、話して聞かせることがある」と言った犬養毅はノン・クリスチャンじゃないか。だとすればキリストの愛にふれた私たちがすぐに「訴えてやる」ではあまりに悲しい。友よ、日々聖霊の助けを求め、御霊の実を実らせていただこう。そこには法を越えた世界がある。
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