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安井かずみ – 過ぎゆく日々は 加瀬邦彦 クニ河内 ヒッピーサイケ 和ボサ



安井かずみ – 過ぎゆく日々は 加瀬邦彦 クニ河内 ヒッピーサイケ 和ボサ

[音楽] なぜ か わかる 少しずつか 人生 が誰 が何 をしているの か 見え ない けれど愛にはいつも光と影が 明るい 差しに 揺れる 揺れる好き な人 に抱かれて たら し 幸せなの に 悲しいこと は1つすぎ ても また [音楽] ひつ続け てくの くれば 優しい風が雪気 を [音楽] くれるとても とても 綺麗な 思い でもあるの に愛 がいつ か 憎しみに かわる ことな て誰のせなの 心にきいてあの人は帰らない もと 度帰らないのね 2度 と2度 と帰らないの ね2度 と2度 と帰らないの に2度 と2度と

Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.3.html

安井かずみ – 過ぎゆく日々は
LP : 安井かずみのえるぴい “Zu Zu”
Polydor MR-3129
1970年9月1日リリース。

作詞 : 安井かずみ
作曲 : 加瀬邦彦
編曲 : クニ河内

物悲しいボサバラードに少女っぽさを残した安井かずみの
アンニュイな歌声が上手くフィットしている。
彼女が書いたこの女性の心情風景には、とても男性が
触れてはいけない少女から女性へと変わっていく際の
切ない受動性が垣間見れる。それは仰々しく語れば
命を育む女性として受け入れなければいけない様々な
感情を母性が包み込んでいく緩やかな時間なのだろう。
決して音域が広くはない安井かずみだが、その素人っぽさが
この才女の等身大の声なのだとして聴き入ってみると、
当時31歳の安井かずみには良い意味で世間離れをした
浮遊感を内包している事が解る。
エンディングで突如現れるギターオブリガードに鳥肌がたった。

安井かずみ (やすい かずみ : 1939年1月12日 – 1994年3月17日)
日本の作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。
本名は漢字で一美。愛称はズズ(ZUZU)。初期のペンネームは みナみ カズみ。
日本基督教団のクリスチャンでもあった。神奈川県横浜市出身。
フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。フェリス時代の同級生に
藤村志保がいる。少女時代から絵画のほか、多数の習い事をしていた。
女流画家を目指していたが、在学中にみナみカズみのペンネームで
神田のシンコーミュージックでアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで
作詞家となる。フランス語の訳詞ができる語学力と独特の発想による
歌詞世界で知られる。加賀まりこらとともに常連組だった
飯倉片町の「キャンティ」は心の拠り所であり、いい女の生き方を
学ぶ場で、オーナー夫人の川添梶子から多大な影響を受けている。
1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で第7回日本レコード大賞
作詞賞を受賞。以降も伊東ゆかり「恋のしずく」、
小柳ルミ子の「わたしの城下町」、
沢田研二の「危険なふたり」「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」など
数多くのヒット曲を送り出し、多くの賞を受賞した。
作詞した作品の総数は約4000曲にものぼるとされている。
海外旅行がめずらしかった当時、フランスその他ヨーロッパ諸国などを
旅して交友を広げた。1967年、ローマにて新田ジョージと結婚するが、
1969年に離婚。パリで暮らした後、1971年に帰国した。1970年代、川口浩が
経営する文京区春日のプール付きマンション「川口アパートメント」に入居、
親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎、
金子国義や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。車好きも有名で、
高級外車を運転していた。また、小説家の森瑶子やジャーナリストの
大宅映子とも親交が厚かった。1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦
と再婚。代官山町の日本基督教団本多記念教会で挙式。銀座マキシムで披露宴。
優雅なライフスタイルで行動を共にした。1993年、日本基督教団鳥居坂教会で
夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受ける。夫の緩和治療の希望のままに、
1994年3月17日、肺癌のため55歳で死去。「金色のダンスシューズが
散らばって、私は人形のよう」が絶筆であった。安井の死を受け、沢田研二は
同年9~10月に、安井の作詞曲に特化した「ZUZU songs」と称した
コンサートツアーを行い、その死を悼んだ。

加瀬邦彦 (かせ くにひこ : 1941年3月6日 – 2015年4月20日)
日本の作曲家、音楽プロデューサー。
1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県
茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の
先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、
当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならず
プライベートでも親交を深めるようになる。
慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド
ザ・トップビーツを結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎、
かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。1963年には
事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、
寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズ
に加入した。1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが
前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは
演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが
出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった
加瀬はブルージーンズを脱退した。所属していたホリプロはそれでも、
加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも
申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズ
を結成、渡辺プロダクションに移籍する。
得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの
要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の
音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。
1994年に食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には
下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた。2012年4月21日、
ももいろクローバーZの横浜アリーナでのライブ公演『ももクロ春の一大事
2012 横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』の1日目に百田夏菜子 with
ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田の為のソロ曲として
作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。
2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した。74歳没。
呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された。
通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め
護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー、中村あゆみ、
モト冬樹、エド山口、江木俊夫らが参列した。
翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、
つのだ☆ひろなど関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった
加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した。
同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。

クニ河内 (クニ かわち : 1940年7月7日生れ)
日本のミュージシャン。本名は河内邦夫 (かわち くにお)。
実弟は作曲家のチト河内。代表曲に「透明人間」、
提供楽曲に「そっとおやすみ」などがある。
福岡県福岡市出身。1964年、24歳の年に弟のチト河内らとサンライズを結成。
1967年にザ・ハプニングス・フォーと改名し、同年「あなたが欲しい」で
デビューした。平行して作曲家としても活動し、布施明にヒット曲「そっとおやすみ」
を提供した。1970年にはアルバム『切狂言』を、クニ河内とかれのともだち名義
で発表した (ジョー山中、石間秀樹も参加)。
1972年の解散後は、作曲家・編曲家としてカルメンマキ、伊東きよ子ら
多くのミュージシャンに楽曲を提供した。1977年に、東京都目黒区に
音楽事務所 Kunimusic を設立。テレビ番組『ワンツー・どん』、
『うたって・ゴー』 (共にNHK教育) では、「クニおじさん」や
「クニさん」の呼び名で出演した。1980年以降は、THE ALFEE、中島みゆき、
所ジョージなどポニーキャニオンの歌手の編曲を多く担当した。
それと並行して先述の教育番組出演に加えて子供向けの歌の創作にも
力を入れており、NHKの『おかあさんといっしょ』に
「コケコッコ体操」・「魔法使いの子守唄」、
『みんなのうた』に「ドラキュラのうた」・「少年海賊団の唄」など、
日本テレビの『ロンパールーム』に「ものまねたいそう」
「とんでけ!あかいたましろいたま」、『新・ロンパールーム』に
「ロンパランポン」、フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』に
「ペンギン・ポン!」・「こまります」、そして『ピンポンパン』に
「ザ・しりとり」と、当時放送されたほとんどの幼児向け番組に
楽曲を提供した。Kunimusic は2000年代に北海道帯広市岩内町に移転させ、
クニ河内は帯広の自宅を拠点に音楽活動を続けている。Kunimusic には
木琴・マリンバ奏者で、クニ河内の妻である野田美佳も在籍している。

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