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【朗読まとめ 新書太閤記】その八「京都将軍編」  吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房



【朗読まとめ 新書太閤記】その八「京都将軍編」  吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

おいお
とら今日は夫の姿にも間日のくつろぎが
見える久しぶりのびのびとした家庭の主人
らしく妻の目にも眺められ
た伊勢人から凱旋して素股の巨匠へ着いた
のは日も前であったが気場早々少子の罰と
かハを聞くとか吉郎はなくにりかれていて
彼の体は妻のものでもなく老母のものでも
なかったもうよいほどにしておこうあまり
細かいことまでわしに聞きに来るな表の
妖夢はひえもんに軍事は竹中反米に家事は
射程の小十郎に問え吉郎も聞けば切りない
妖夢に空いたらしい今日は家臣たちへそう
言って一切を投げ合った姿である
1人自分の今にいた行儀の良い上手では
ない家臣からは殿と呼ばれているが彼自身
はいわゆる殿様になりすましていなかった
時々下の外へ日本の足を長々と伸ばして
ごろりと横に
なる手枕のまま何事か暗示ているらしく目
をつぶる寝るまでもないとまた腹ばいに
なってボカンとニモを見たりしてい
たそしてこの召喚に体を遊ばせてみると
すぐ体を持て余す自分に気づいて俺はなん
という無無しな人間だろうと自分で関心し
たりした身に比べるのももったいないが
信長様は掃除てたみまたご器用で
いらっしゃる小やつは上手電化もなさる
茶事も好きそういうこととなると俺には
はて何の脳があるかしらて考えてみると彼
はおよそ何も持たなかった是非ないことだ
信長様の育ちと俺の追いたちと今日まで
通ってきた実現が違っているいかに居の中
の極なは超えてきても俺ほどな道では
なかった
彼はまたぼんやりと過去の艱難を思い出し
ていた中村の他にある百生たちの顔が1つ
1つ頭に浮かんでくる松下花平はどうし
たろうなどとそのごを思うまた赤みた白め
の旅頃も1枚で歩いていたあの頃の自分が
目に見えてくるもったいない急に彼は
座り直して今日の恩を改めて考え
た音にくおうと思う天地の恩に答えねば
ならぬと知るがなお年と日差し越しに空を
見ていたするとふと彼の頭のうちにもいぺ
の雲みたいな年が浮かん
だ先頃伊勢人でつにその働きを見た明秀と
いうへの連想であるその人間のことは時々
思い出すのである深く感心しているからで
あった確かに決ししている小だの中では
あの新しい知識は分けても光っている今も
そう思うことに変わりはなかったけれど
光秀の頭脳には復してもその人間まで好き
にはなれなかった
主君の信長と光秀とは性格的にも近いもの
があるやに思われるが自分と彼とはいつ
までも親しくなれない人間のような気がし
たおお1人でそこへ妻のネネが見えたネネ
は木草にふけっている夫のそばへ恐る恐る
座ってそっと尋ね
たぞご試案でもしていらっしゃいましたか
ど吉郎は顔を解いていやぼんやりしていた
までのことよ時々ぼんやりするも薬かと
思うてなと笑っ
たあまりにお忙しいのではめにもお体が
感じられまするいや忙しいから健康なのだ
病気する人間もない私よりは五老婆様が稀
には奥へ渡らせて表の御から離れるが良い
とおかち遊ばしていらっしゃい
ますそうそう母上にも凱旋の日お顔を廃し
たのみでぶさ申し上げていたの侍の家とは
寂しいものよ母とこれさえ一歳のうち幾日
朝夕を共にすることがあろうぞなると
オルス中も時折りおっしゃって
いらっしゃいましたそうかとと吉郎もやや
寂しに
ここは難しいのそのうちにまたすぐ義父の
お召が参ろうこうしているのもつのまどれ
今日は1日母親のそばで遊ぼうか私からも
お願いいたしますとねねは夫の木を迎えて
にこやかに誘いながらそれと先頃ご教理の
中村からご親類のおえ様というお方が幼い
ものを連れてボ様を頼ってお越しなされて
おりまする中村のエとはいと様の友ができ
たらお目にかかって親しくお願いのことが
あるとか申されてもう45日ほど前から
ゴボ様の元に流してお待ちになっておられ
ますほて
おつ誰であろうか吉郎はしきりと告をかげ
ていたがままろ
と妻と共に母の住む奥の丸へと足を運んで
いっ
たねねは壺へ入ると老母に向かってお連れ
申し上げましたと答えたロボはこの数日
藤木郎の顔を見なかったのでねねを使いに
やって誘わせたのであった
おお見えましたか自分のそばに人音も設け
て待ちわびている風だった
吉郎は母と並ぶとお許しください具足を
解いてからまだ風呂にも1度か2度しか
入らぬ始末ですごもう万端4は言いつけ
ました今日は1日ねねや女どを交え母上の
そばで遊び暮らしましょう1日だけかの
ロボも浮いてタにねねよ宵はろの丸に止め
て返さのが良いぞと言った顔をあめながら
かしこまりました母様のおいりがないうち
は大お返し申すことではございませぬと
ねねも言う吉郎はわざと丁寧になんと言わ
れても思考をった罪は親には不幸女房には
無情申し訳もなし過去のごく謝り立てまる
とトシし
たロボも妻も次女もわした射程の小十郎も
笑い崩れ
た藤吉郎はそれからも軽口や冗談ばかり
行ってしまには同房がもうやめてたも
おかしておかしてお腹の川が愛なるがのと
涙をこぼすほど皆を笑わせていた
そのうちに藤吉郎はふと片隅の方にチコ
なんと座っている7つばかりの男の子と
そのそばにある貧しげなごけ風の女に気が
ついておやと目を止めた吉郎がおやっと目
を注ぐとこう連れた後家は顔をあめて俯い
た彼は大きな声でそれにいるのはのでは
ないかな母あれなる殿は中村の公子の山に
いたお子でしょうと祖母の老母へ向かって
訪ねた老母は頷いてよう覚えておいでたの
いかにも藪山の加藤男女殿へ片付いたおえ
じゃがなと言っ
たおおやはり藪山のおばでしたかなんで
そんなところに小さくなってのか果て遠慮
深い手をあげて招きながらこちらへこちら
へサを懐かしげに彼は呼ぶおえはいよいよ
身を小さくして俯いているばかりだった
ひびたごけ姿をじっとすめて年も四重を
超えた頃もう20年も見なかった人なので
ある藤吉郎にとっては
母の妹にあたる越さんであったその昔東吉
郎もひしと呼ばれていた頃は若いばの越
さんは美人であったその美しさはやれた中
にもどこかまだほかに残って
いるひしが高明寺の小僧にやられた時この
場はすぐ下の藪山の加藤男女と小中で
やがて夫婦になったがまもなくその夫の
男女は戦場で大怪我してフグになって
しまったひしの父八門とちょうど同じよう
な運命だっ
たおえさんは定説だったひしは適切な小の
美しい姿を今でも覚えて
いるけれどあの頃はひしにとっては決して
温かいおばさんではなかっ
た村で鼻つまみのワパもが寺小僧から出さ
れたり茶屋から放されたり評判の悪いこと
甚しかったので若いおばさんはそんなワパ
が身内にいるということを夫の男女へ
ひどく片狭く思ってひしが家へ顔を出すと
しおかりと犬か猫でも負うように夫に隠し
て帰れということばかり攻めていたもので
ある猫といえばひしが茶屋を出されて藪山
の屋敷へばを頼っていった日猫が飯を食べ
ているのを眺めてしみじみ羨ましく眺め
ながら自分の空腹には一晩の冷やしも与え
られないのを天地に囲ったことも
ある考えればそれから20年平房と長かっ
た気もするしわずか20年という気も
するいずれにせよ懐かしい人ではあった猫
の飯のことなどすぐ思い出されはしても
なんらのエコなどではないむしろ恩をしし
たい東吉郎はじっとその人を見ているうち
目に熱いものが溢れてきた母とは最も近い
肉身である妹である母は密かに不なこの妹
の身をも常々じていたろに未だかつて自分
に何も言ったことがない自分に対して着金
をしておいでになったものと
見える
ねねはいわしが幼い時たくさん可愛がって
いただいたおばだなぜあんな片隅にお構い
せずに置くかおをこちらへ打つ
せくたもおすめ申し上げましたが固くご
遠慮遊ばしていらっしゃいますあなた様
からもどうぞおすめをおば様こちらへおい
でなさいそこではご挨拶がなりかねる年
つきは変わろうとも縁に変わりはないご
窮屈な次義は無用さあさあこれおえは
ようやく少しばかり膝を進ませ
てお久ござりますと両手を使えそして
初めて東吉郎の表をしげしげと見上げ
たとき郎もつくづく見てもう45日ほど前
からご等流じゃとなはい早くおめにかかれ
ばよかった忙しさに知らなんだこんなお
恥ずかしいりでお尋ねして参るのも気が
怯えましたなれとなんの何のよう来て
くだされた変わられたのさすがにあなた様
こそ夢のようなお代わりよお喜び申し上げ
まするおにはおくになられたかなもう四重
を3つほど超えましたそれや若いこれから
じゃお連れ合いの加藤男女殿にはわしが
幼少の時すでに戦勝を受けて日常寝てお
ざったが
その後ご本告になったかな一時は言えて
立ち居もできるまでになりましたがつい
155年前この子が生まれてからほどなく
余病のためにいなくなりましたそうそう
そのような噂を耳にしたこともあったが
勝利のみの週にも疎遠に過ぎて申し訳ない
ではそれなるわは男女殿の忘れがみかはい
この子が片となりました良い子ではないか
ワパ者でございますいやあ面木ないぞわし
の昔を言われるようだいくつになるか問わ
れるとおやつはそばにポカンとしている
我が子の膝をついて殿様のお尋ねじゃお
答えしやれと教えたえ何雷の申し子みたい
に赤気で色の黒い男の子は魔の金だの腰元
たちの衣装だの畳の減りだのキトキとして
いたが母に膝をつかれて甘えるように母の
肩へ顔をすり寄せたほなとおつはねめる
真似して殿様へ両手を使えてお答え
申し上げるのじゃそなたの年はいくつとお
尋ね遊ばしていらっしゃる言うと郎の方を
見てニヤニヤ笑いながら7つだいと言った
7つかとと郎は笑ってしまった自分のワパ
時代を見るような気がしたのであるなお
なんという虎之助うん強そうななだの
虎之助は不にぴょいと立ちかけた岩の方に
何か見てすぐ飛び出そうとしたのである
これ
おつは抑えて実はこの子お手元の小物にだ
と召つっていただきたいと思いましてはば
中村から連れてまりました父の男女は侍
でしたからどうかこの子も行末は侍の橋に
としてやりたいと思いまするそれが泣き夫
にはせめてものたけにもなろうかとおつは
片手にワパを抱きながら畳へ涙をこぼして
いった東次郎は頷き頷き聞いていたが彼女
の言葉が切れるとやいたもわしの手元に
任せておけ当人の気量にあるが何か1人前
には仕立ててくれる虎之助これ来いと差し
まねいたほい待っていたように虎助は前へ
出て郎へおじをしたそして後ろの母親を
振り向いてからまた手を使えなした殿様の
前へ呼ばれたらこうするのですよと
あらかじめ教えられていたものだろうそれ
を見ているおえの目はいかにも愛しそうで
あるまた心配そうであるなかなか坊らしい
の吉郎は呟いてそばにいるねや房ととに
微笑んだ虎之助はいった前へかいはい侍に
なりたいか
ええ侍のご方向は明日に死に夕べに死に
四重命がけのご方向だぞできるかできます
そなたの父加藤男女どのも侍だった立派な
侍になって母を安心させてやれよ
虎助は黙って頷いたが座中の人々の目が皆
自分に注がれているのを気づくと急に
はにかんでもじもじしたおえは泣いていた
嬉しさが余って涙が止まらなかった藤吉郎
は左右を見回して誰か故障組の堀をもに
一松を連れてこいと申せと言いつけた
その間に
虎之助歌詞をやれと言ったネネが歌詞を
与えると虎之助はそれを見守っていたが
我慢できなくなったと見えて手を出して
ボリボリ食べ始め
た母親のおえはこれ虎の助顔をあめながら
後ろで武法を叱りかけたがネネや老母が
気遣うには及ばぬそっとしておいたがよい
と言ってくれたので遠くからただハハと
眺めてい
たそこへ堀を助が自分の後ろに13司祭の
故障を伴って東の円から座敷へ入りはか下
にかしこまっ
たお飯でございましたかモスが手をつくと
後ろの胡椒もそれを習って不器用に手を
使え
た虎助よりもずっと上だし稲も大きいが
その少年も見るからにまだ土臭い田舎での
芋子みたいな顔をしていた色の黒いところ
に放送の跡があって金壺真子の鼻でかと
いう不器量もであっ
た一松に良い友達が来た引き合わせて
使わすからこれへ出て虎之助と並ぶが良い
吉郎が言うと一松は歯にかんで目ばかり
ギョロギョロさせていた故障組のワパを
10人ばかり預かって有文覚となっている
堀尾モが小声で殿様の前へ進んであの子の
脇に座れば良いのだと一松に教える一松は
虎之助の脇へ来て座ったが横目で芋の子が
芋の子をじろじろ見ていた
おば号このワパをご存じじゃろがこれは2
つ寺の宿でおケアなどしていた東園の心材
門がこがれで一物というわっぱだがまあ
おつは遠くから見守ってさも驚いたように
ではその子が神在門様のおせれでござい
ましたか夫が亡くなった時手を引いて闇に
来られましたがはの子がまあいつの間に
去年から主催あってわしの手に引き取って
おるがこれがまた一通りなわっぱではない
ここではきつはにかんで死命にかしこまっ
ておるが同郎が笑うとねねもロボも皆笑い
出した2人の芋子同士は1個面白くもない
顔つきして横目と横目でお互いの鼻の格好
などを見合ってい
一松の親も以前は侍でシの福島の出であっ
た親の新門は美州二寺へ移住して桶を
なりわいとし結く常人が気楽と何の野望も
抱かず桶の底を叩いていたがこの一松は
幼少から激しい気象だったの
でどこか良い援はないものか者でも大所
働きでも武暴行でさえあればどこへでも
やるがとそのワパを持て余して日頃から
心がけてい
たすると市松が今年重視になったばかりの
正月蟹江川の支流でよその中原を切った
正月の酒に食べよって橋の多元に寝ていた
足軽の足を遊びに熱していた一松が謝って
踏みつけたのである軽は怒ってこの小僧め
と一松を捕まえてひどくけとばした一松は
頭を抱えて散々に持てそばれていたが
やがて切れたタコのように我が家へ
すっ飛んでくると父親がサクで使っている
刀の俺をナにしたのを持ってまた出ていっ
た正月なので仕事場には誰もいなかったし
近所のもも気づかなかった一松は顔色を
変えて橋の田へ戻ってきた足軽はもうい
なかったほぼ探し歩いていると村の居酒屋
からひょっこり出てきた市松は後ろから
かけていっ
てこの明目と足軽のスをなで殴りつけた
足軽はわっとチバを引いてよけていった邪
みろ一松は逃げ出しながらバカひょっ
とこういじなし冷やし食い出王台に
ののしった足軽は火のごとく怒ってこの
ガメがと追いかけたがスの痛みにもろくも
つまづいてまた倒れ
た一松は戻ってきて覚えたか思い知ったか
と足軽の頭へいくつもを振り下ろして塩
からのようにしてしまっ
た当然事件になった足軽の主人という武士
が桶の新門の家へ何何度となく団に来て小
を渡せという渡したら子は殺されるかも
しれないと思うので新門夫婦はや人を頼ん
でようやく出させるという条件で命だけは
こなきを得たけれど1松はボサになる
くらいなら死んじまうとわいわいなく
いかに脅してもすかしても聞かないので
あるすると身よりのうちで一層八塚村の
彦衛門様にお願いしてはと進めるものが
あったこの頃はとんと依頼も来ないが以前
は8へはよく仕事にも行ったことがある門
は一松を連れて訪ねていったところがあの
門も一族の多くもあか下股の方へ移って
いるというので思い切って素股城まで頼っ
ていっ
た東吉郎のジップ八門と彼とは親戚のエコ
もあったからである門はまた主君に告げて
この親子を引き合わせた
藤吉郎は引き受けて台所へおいて飯食わせ
ておけ走りなどさせてみて心聞いたる見所
があればモスの手にかけ故障役を見習わ
ますが良いと親を返したやがて桶屋の子は
先祖の救世を名乗って福島一松と呼ばれて

た一松と虎之助を並べておいて藤吉郎は
2人へ行った仲良くいたせよはいおいは
年上であるぞほい新山のおをよく面倒見て
やらねばいかぬほいでは下がれと言って
またおおも何分まだいけないがそちの組へ
預けておくよく仕込んで与えようと
言いつけた
元服前の小はそれを呼ぶのに女の子のよう
に名の頭字に王つけて一松をおいとか
虎之助を略しておとという風に呼ぶのは
その頃の習わしだっ
たおいとおは主君へ辞儀を済ますとモスの
後について下がっていっ
た虎助の母は後ろ姿を見送ってまたを称え
てい
た親のあじるようなものではざらぬすぐ
場内のものにもなれようおば子安心するが
良い藤吉郎はなおねねに向かっておいの母
へ場内の住まいを与え何かと平常も話し
相手になってやるが良いと言いたしたおと
の母はごは忘れませのと彼の恩情をふしん

こういう霊は彼女の場合のみではなかった
エコをたどって彼を頼ってくるものに彼は
一思同人だっ
た百戦を入れる大会のようにあたも入れ
青龍も入れ
た一月も立つとらは慣れるどころか生来の
面木を表して場内第1のワパ者と名をって
しま
木のぼり屋根のりはする組の小さい仲間を
泣かす悪さはする逃げることはまた
恐ろしく
すばしっこいおが現れてからおいは自分の
明星を奪われたようにとま彼を適しした
やいおらなんだいちょっと来いどこへさ
どこへでもいいからちょっと来いちのくせ
にお前はぞ人のいない奥庭へおいはおとを
引っ張っていったそして拳を固めておとら
の頭の上にそっと乗せ
たおとら
やいこの拳を見ろおとらは頭の上のおいの
拳を額越しに見上げながら見えないと言っ
た見えないとおいは拳の尖ったところで虎
の頭をグリグリ押したおとらは顔をしかめ
たどうだ見えなければこれで味が分かっ
たろ俺の拳はそっやってもこんなもんだ
ちびの心山のくせにあまりのさるとこの
お節に風をくれて具とくらわすそう欲しい
かおとはまた顔をしかめながらその顔を横
に振ったこれからわしの言うことを聞くか
聞くわしにさかないかんいや今日だけは
堪忍してやる今度生息な真似したら石垣の
下へ投げ飛ばすそうおいは祝って先に歩い
たおとらは彼の威嚇に少し恐れをなした
らしくしれ帰ってついていったが指の先に
丸めていた鼻くそウの襟元へポンとを弾い
て薬と口を抑えて笑ってい

大義信長に身を寄せた漂白の将軍系義明は
その後岐阜の城下西の棚の立証寺を宿所と
定められて一向はそこに起きふししていた
見坊で小心で色ばかり高く持ちたがり
ながらのの中に生き生き動きかけている
自流にはまだ覚めない足かけの苦心は少し
境遇が落ち着くとすぐ貴族集を表して
食い物がまずいとか夜のものがおすぎると
かかな狭き呪文のうちでは仮のご宿場とは
いえ久保様のご意見にも関わるなどと色々
な不自由や不足を並べ出して信長のそばへ
もっと個体具を改めていただきたい
差し当たって新将軍の親方などもどこか
継承の地を選んでご造影にかかってもらい
たいがと申し入れた信長はその要求を聞く
と彼らの根性を哀れんだ早速義明の家臣だ
を招いて告げ
た将軍家のお住まいが手であるから神官
造影にかかってほしいとのお望みだそうで
あるがそればただいまの宿所ではご夫も
多く将軍家のお住まいとしてもあまりに
外見が貧しござればさてさて
信長は下げようにそれに答えたケラはなん
とちなお考えでおられるのか将軍家がこの
信長に頼られたのは信長によって敬志の
関東美義松永の党を一層し湿地を奪回し
室町幕府の五家党たださんとするにあった
のではおざらぬかほう負傷ながらその退任
を一いたした以上は信長は特近日にもその
実現を考えておるなんで将軍家の親方など
立てておる間をもとうやそれともケラは
再び宮へ帰ってに立つお望みも捨ててこの
義父の継承の地に悠々感を増して生涯を
信長の触覚となって若い居でもしたいと
いうお心
か義明の君羅は一言もなく引き下がった
それからはあまり不平がましい要求もし
なかっ
た信長の体現は決して偽りでないことがま
もなく証明された
秋8月に入ると美野2カ国の各所へ出平の
霊が下った9月5日まで約3万の軍
intoは整え終わったそして7日には
もう岐阜から続々と出発していた京都へ
京都へと出発の前夜場内の大変の席で信長
少子を激励していった
果てしない国内の相談と群雄の閣HOは
果てしない民衆の途端である万民の苦しみ
は一点の大育の恩悩みであることはまた
言うまでもないサとまの公事これ作教をお
使いとして美身信長に密着を賜ったが今
また信長上らの催しを英文荒らせられて
密かに誘惑なるご林寺と金難の戦法とを
賜った我が小は父信秀の台より今日まで
部門の方向は1に金門のご守護にありと
その精神を鉄則としておるゆえにこの度の
上陸も大義の軍であって私の行動ではない
1日も早く栄誉を休んに立てまらねばなら
ぬ時は秋なじらの会場も超えておろう
信長が胸を胸としてるるな多なあに死ぬな
粉骨最新大君のいます都子まで押し
進めよう出陣の宣言に少子は皆有した中に
は信長の声も終わらぬうち勘極まって泣い
ている章もあっ
たこの相には兼て信長と公衆同盟を結んで
いる三川の徳川家康全松田元康も手勢
1000人を発して参加した三川殿のよし
た兵数はあまり少ない噂に疑わず三河殿は
ずるいと全軍のかれで多少避難の声があっ
た野川は笑って三河は今内事と経済を
整えるに体のないよりである兵を多くよせ
ば失費も多いそこで避難は浴びても費用を
惜しまれたものだろうがさりとて彼も尋常
な武将ではない定めしよした少子はつより
の聖平だろうとあえてとめなかった
果たして一戦の三河兵とその部将松平間郎
は美能3万の中に越してどこの戦いに返し
ても遅れは取らなかったいつも先方に立っ
て味方の道を開き
その潔よさは家康の名を一層重から閉め
た天気は毎日高成だった3万の平馬は秋晴
の下にくぐろと続いた先人が豪州の柏原に
ついても公人はまだたるいや赤坂を通って
いるほどその列は長かっ
た正規天を
覆う文字通りな大軍である平の宿を継ぎ
高宮にかかった頃前方から死者でござる
警子の死者でござると叫びながら馬を
飛ばしてきた3名の武将があった九は織田
殿にハエしたいと来いみよよしつくと松永
が久秀の書面を携えていた本人へ伝えると
信長は
引いてこいとそのまま死者にあったが書面
の内にある和木を食うという趣旨は敵の
関係と睨んでいずれ返事は信長が京都へ
登った説に至つ初中にては美義松永の両書
のお心も明らかにみできぬ故信長が京都の
尋問へお尋ねあらばいつにても青を伝え
おかれよと死者に言っておい
た欲望の11
日日の出を会いずに先方は越川を押し渡っ
ていたそして翌朝はもう観音寺の城とつり
場の2つへ攻めかけてい
た観音寺には江南の豪族佐々木上帝がいし
つり城にはその子の佐々木六角が
立てこもっていたからである
佐々木一族は美義や松永島と通じていて前
に新将軍義明がそこへ身を寄せた時義明を
図って殺そうとしたことさえある当然ここ
琵琶一方に豪州の連山を南に訳した街道の
用地で彼らはかつて永六の3年織田信長が
今川本の落の上をついて一挙にたのように
今度は信長をここに滅して見せると豪して
待っていたで佐々木六角は自分のつり場の
守備を吉田出雲の神に預け自分は父のいる
観音寺に合体してそこを本影として和日野
その他領土の合18か所に防御の人を遺憾
なく敷いてい
たからをながら信長は見事な敵の夫人かな
兵書に表してある通りだと笑ったそして
佐野森庭長秀の二につりに向えと霊を
暮らしその先方には三河の松田隊をつけて
さてその際にも
またこの旅の落は私の戦いとは異なる胸
発行の前夜特と申し聞けた通りである大義
の弓あたることを全軍心に止めて握る者は
殺すな駅な民家は焼くな後を限りに借入れ
前の他は踏みあらすなと言い渡し
た21
日記まだ琵琶の水も見えない朝桐の内から
であった霧をついて黒黒と3万のの平馬は
動き出していた庭サなどの体がつり場へ
攻めかかった合図を信のしで知ると本人を
和山へ移せとありへ下した和山も敵の用害
であるもちろん敵軍が充満しているそこへ
我が本人をうせという信長の命令は戦いと
か攻めろとか取れとかいう言葉も略して
無人の地を行く着替でいるのであった何
信長が地震で寄せたと和山の師匠山中山代
の神は暴露から呼ばわるもみに大声で
答えるなり砦に潜む味方の全体へこれぞ
天皇与えというもの観音寺つりの情は
少なくも1ヶ月はきっと支えるその間に
松永美義の軍勢やら湖北の味方が信長の
大路を立つだが信長が死を急いで地震我が
砦へかかってきたのはまさに絶好のおり
部門のを取り逃すな信長の首を打って
とれよと剣を叩いて演説したうわあ全軍は
それに答え
た信長にどれほど死亡の死が多くとも3万
の兵が捨て来ようと佐々木一族の鉄壁は
必ず1ヶ月以上はそこで食い止めるだろう
とそれは彼らの信念でもあったしまた森林
の強国の一致した観察であったのだが和山
一体の給料はそれから半日の間に重煙と
土煙とおたびの中に陥落してしまっ
たただ見るの人の中にこの号とばかり和山
を中心に地しているのはほとんど信長の兵
のみだった二山にも戦うともくも山中山代
の神の部下は先を争って付近の高知や山や
湖畔や発砲へ配送してしまっ
たうなうな長の声はもう山のにあった
いち早く立てた正規が昼近い太陽の下に
鮮やかに
見える地と泥にまみれた少子はおいに機械
へ集まったそして勝ちどきをあげて昼の表
KAを食っ
たつり方面から何度となく伝令が来た庭
佐間の先手となってかかった三河の松田勢
は血を浴びて優先しているとと
あるここ味方に有利な法が信長の手に
集まったまだ紐をちぬ間につくり落城の法
が入っ
た黄昏れに近づくと観音寺の城の方面に
黒炎が上がった木下吉郎その他の手勢が
もう白に迫ったと見えるいざ行け攻撃の霊

野も人を移しつくりその深の全軍も一斉に
観音寺へ押し
た酔い闇の迫る頃にはもう1番乗り2番
乗りの名乗りが敵の城壁を超えていた立ち
まち場内の一角から炎が上がるさえた秋の
夜は星と火のこに満ちていた八というも
愚かなほどだった寄せてはなだれ込む
まちまちに外貨が上がっていくそれは敵の
佐々木一族にはあまりにも無常な秋風の声
と聞こえたであろうわずか1日の間にこの
権が落ちるとは誰も良きしていなかった
和山の類つりのデジ18か所の溶岩もこの
急激な怒涛の前には何の防ぎにもなら
なかった
以来の名門佐々木六角や上帝入道を始め
一族やら女子供は哀れ闇につまづきながら
争って炎の城から石城の方へ落ちていっ
たお中度どは落ちゆくままに見逃しておけ
まだ明日の敵が先にある信長は彼らの生命
ばかりでなく彼らが出していったという
にも目もくれなかった道草は信長の好む
ところでなかった彼の心はもう中原にある
からで
ある観音寺の城は本丸で焼け止まった信長
は入場するとすぐ大いに平馬を休ませるが
よいと軍をらったけれど彼は休まなかった
具も夜を眠ってある日となるともう重心を
集めて兵であるまた領内への告を命じたり
それから吉明子岐阜よりお迎え申して名山
に大きするがよいとふわかちの神をにわか
にそこから立たせたりした昨日は人頭に
立って戦い今日は政務を取るに忙しい彼で
あっ
た柴田主森山門八や兵庫の神酒うの4章
臨時に豪州の武行大官などに任じてよよ実
はもう小水を渡って大津へ神軍する標線の
準備や初犯の命令に食事も忘れているほど
だっ
たところへ近事が木下殿は今朝から通りを
願い出ていますがと隙を見て告げた
そうそう
おった何事かすぐ
通せ信長は湯を食べていたが思い出して箸
を置くとすぐ表の所員へ出ていっ
た藤吉郎が控えていたが彼は横の方に
そして信長の座った正面には見たことの
ない武将が平服で手を使えていたそのそに
は123歳にになるかと思う少年を伴って
いる少年は信長が出てくると平服するのも
忘れて何か甲骨と信長の姿を見れてい
たご主君に申し上げますと藤吉郎から信長
へ伝えたこれに連れて参りました侍は
佐々木六角殿の木下でもかて有名の聞こえ
ていた城のアジがも片殿またそばに控えて
いるのは弱しつ殿でございますほうガモ殿
か信長は見直した片親子は郎から
引き合わせれるともう一度陰金に霊を
し直し
てと使えていた主君佐々の本に敵たる
あなたをすのは武士として侵この上もあり
ますがやい寄せの章の木の下どのより
コンコンと自性のゆくところを解かれ大義
のため将棋を捨てよとのおすめに屈し
ついにこれへ堂々いたしましたそれがしは
敗軍の一生また追いもない老ですが一
鶴千代はなんとか世の役にも立つものに
なれかしと常々多少訓育してきたものに
ござります
片には説服をお与えくださるとも恨みには
存じませぬただつちの将来だけを成分お
願いいたしたいありに恥をしんでまった
わけで
ござる片の言葉を信長は目をつって聞いて
いた破れた交渉の言葉には勝ちの中では
聞かれない人間の真実がこもっていた
じあるなと野は目を開きそして片の連れて
いる子をじっと見つめた方眼更新の尾道で
ある信長は思わず叫んだこれはキリジだ
そして藤吉郎の方へ良い子ではないかのう
吉郎そちは何と見ろこれは戦乱の香りが
するぞ我がけの向こにいたしても良いほど
な嘘とも思えない声であったこれこれつち
を自分のそばに差し招きそのつりを撫で
ながらなおいく度も言った行末信長の山女
を目合わそ良い見ができよ片で親元の措置
には依存ないか軍の章は男泣きして年と頭
を畳へ伏せていた吉郎も自分の計いが戦火
に甲をあげたばかりでなく思わぬ花を結ん
だので心から主君に霊を述べ
た後
に老徳川康に座を譲らせ関白秀吉にさえ
はかられ欧州の独眼政宗を地に封じ込めた
望有の不流武人さは実にこの子だったこの
鶴千代だったので
ある庶民は水政治は器と言えようそれに
示す聖堂さえ巧妙ならば水は器の中の平和
に住むことを
好む大江へ突入して観音寺やつりへ攻め
かがったのが12日そして25日にはもう
信長の軍は戦後の始末から両の告まで全て
をすまして一郎中原へと美の東岸から平仙
を揃えて大津へ出発してい
たたくさんな兵戦の準備から草や平馬の
積み込みも全てが庶民の協力だっ
た信長の部にももちろん復したがより以上
州のが一致して彼を支援したのはこの人
ならとなんとなく頼みがいある政治ぶりを
見たからであっ
た一時戦火に老廃してどうなるかと恐れ
ういた民進を掴んで信長は迅速に安藤せよ
という公約を与えたのみであっ
たこういう場合なので細かい成功などは
立てているもまた後からすぐ改変するよう
な目に渡る政策などは無用でもあった信長
の秘訣は迅速に明らかにそして庶民に安心
を与える以外にはなかった安心は信頼で
あった南国の民衆が心から欲しているのは
決して水も漏らさぬ政治を施す安家でも
ない政権の道をそのまま聖堂にしく健人で
もないそういう人では間に合わないので
ある乱世だ乱調子のよだこれをため滑るに
は多少自分たちに辛くても良い幻覚順列に
望まれてもいいその代わりにこの人ならと
信じられる人によって安心を求めたいので
ある大人以来者の年と落ち着いたことの
ない安心をこの土に乾き望んでいるのだっ
た死者は口癖によく言うこんな乱調しな
自性に施す政治などというものは実に
難しい誰が出てやっても今ほど聖堂の
難しい時はあるまいとけれどまたその反対
にどこかでこういう指者もあるいやそれは
安倍だ今ほど政治のりはあるまなぜならば
世が平和に生んでいる時ほど庶民は勝手な
熱や屈を並べたり些細なことをも誹謗し
たがるものだが近頃はそうでない民心は
艱難を覚悟し乱脈から統一に帰るのを望み
抜いている何人でも真実と昧と明らかな
指導を持って我に従えとすればそれが国家
の大道と以上こぞってその指の刺すところ
へついて行きたがっている多少の意誹謗は
あっても大義大道のためと虫を殺して九十
一致を望んでいるものをなんで今の時代を
難しい時世というの
か出る人物が出さえすれば明日に即実を
会うようなものではないか
[音楽]
とこれも
一理はありそうに聞こえる何しても信長の
行き方はそうした民情にぴったりしていた
時世に対して活眼を持ち意識してそうやっ
ているのかそれとも彼自身の生まれながら
の細分や性格のままやっていることが自性
に適合していのかとにかく万民の一端に
待望の人が出たという感じを彼は豪州の
新領土に植えつけて湖を船で渡っていっ
た上の風は秋を覚えさせた無数の標線の
行跡に水は美しく長い刃文を書いてい
た将軍系義明の船も25日森山から小水を
渡ってミデの下に着いた着した信長はここ

一はれまと松永の来をしていたが彼が人頭
に立つほどな抵抗もなかっ
たで義明を三井寺の極楽院に迎えてもはや
上らひしたも土曜でござると慰め
た28
日ぞとばかり信長はいよいよ上陸の軍を
進め大阪山を越えた淡口まで来ると笛に
太子が止まった信長のそばにあった藤吉郎
が前へ駆け出して行くのと先発の大後から
明智光秀が足を早めて戻ってきたのと同時
であった何事か直子ですう直子信長に
伝えると信長も驚いて慌てて駒から降りた
まの浩司中ゴコフと立ち入り作よたかの西
はやがてそれへ来て栄を伝えた信長は服し
て野人信長弓矢を取るの他脳もございませ
んただ父信秀の台より久しく金門の人を
うれいご親近の安かららぬようじており
ましたが今日地より落して門のに当たる
こと部門のほまれ一族の喜びこれにしく
ものはありませんとずしんで報した3万の
兵も信長と1つに祝として栄誉に答えまら
んと無言のうちに誓った第5山宇方面から
伏に至るまで半日のうちに美能の平馬を見
ないところはなくなっ
た野は東福に人士吉明は東山の清水寺へ
入っ

即日市中には富国が立った警備巡察の手配
は最も早かった昼の晩菅谷九門夜の晩木下
藤吉郎2人が市中純子の人にあたっ
た織田軍の1名の兵が居酒屋で酒を飲んだ
戦傷の兵は奢りやすいものであるトラフ
食べよってこれでいいだろうと半分にも
足らない小銭を放って出ていった亭主が
追いかけてこもりますとすがるのその兵が
ポカッと殴りつけて肩で風を切っていった
純子中のト郎がふ見つけたので飯しとれと
部下へ命じた
本人の東福寺へ突き出すと信長はよくした
と言って兵の具足を取り上げ東福寺門前の
大木に縛りつけたそしてその罪状を明記し
7日間さらした上で首を跳ねろと命じ
た東福士の門前は日々帯びたらしい往来
だった多くは京都の豪商やクたちであった
またシジの使い用土の品を運び込む商人何
してもざとだっ
たなんじゃろう皆一度はそこに足を止めた
そして考察と大木の根にいましめられて
いる人間とを見比べ
た小方の兵でもおは釈をなさらない手な
ことじゃ楽の庶民は信長の公平と法令の
春間に感じ合った兼ねて諸々の考察
に一戦を略奪しても首切ると書いてある
訪問が信長の軍自体から先に連行されて
いるのを見た一般の富国に掲げられた厳重
な法律にも誰1人不平はつぶやかなかっ
た一戦切り一戦切りじゃそんな言葉が当時
庶民の中に流行っ
た岐阜を発したのが9月7日それから
わずか21日目にはもうこうして信長の姿
は中限にあったのであっ
た7番
学少し客に会いたな信長は藤吉郎を帰り見
てびを見せた
東福寺の庭はいい戦績の奥は紅葉で真っ赤
だった吉郎を連れて一巡り商用してきて座
に帰ると
すぐどれ様の越ですがとか何がしがご機嫌
伺いにとて参りましたがと客の死を通じる
取り次ぎのものが待ち構えていて言う許せ
今日のみは信長もとと言うて取り継ぐな
門前位置をなすとはここ数日間の東福寺
本人の警官だっ
た酒を担わせ材を車に乗せ明期名物を捧げ
て上は月Discover運河の気心から
富豪や名のある町人たちまで一体何のため
にご機嫌伺のさがのとこんなに押しかけて
くるのだろうか信長は苦を
と共に思いを起こされるのは7年前東国の
田舎に死て密かに今日の形成を伺いに来た
頃のことであるあの頃は信長の首なら狙っ
ても取ろうという人間はあっても先から
財宝などを送ってくるものは天下になかっ
たそれとおかしいのは彼は依然として
変わらない彼であるのに東寺へ参考して
帰る人間といえば争って信長を褒めること
をあも自分の誇りみたいにしていること
だっ
た張ってきたがなるほど劇しにまさる人品
だ大した両人だわしも昨日おにかかってき
たが実に選ぶらないお方で窮地のごとく
もてなしてくらすった視界の相談もあの方
が出たからにはこれで収まるだろう一月前
までは首にも出なかった言葉をが信念化し
て褒めたえる言葉を探しあっ
た信長は1日増しに高まっていく自分への
聖望にむしろ驚いたほどであるそして民心
というものを様々な形で目に見ている心地
がした例えば彼は宿年の志しでもあったし
父信秀の教育も身にしみているので落雷に
入ると何よりも先に上帝の門に思考して
備中の伝送を仰ぎ同時に黄金100枚キ
200匹綿300パ米1500票の現状を
願い出て戻ってきたところ立ちまち信長は
金の志しが熱いこれこそは金の武将である
などとそれに対する過大な噂が聞こえ渡っ
たのでただ当然なことしかも早速にして
戻ったにすぎない信長は何か非常に背に
対して面目ない気がしたと思うと一方には
なおし烈な敵もあった太陽が地中に入った
ので古い地は氾濫したせかの村や山に隠れ
た松長の残党やその与党たちだったごく
近い地では山代の男に合青龍寺の城に岩
なり力の助高槻城にはイエサ郡の腰水には
白原右京富田の不問寺城には細川
かその池田の池田に神とか尼崎の荒木村と
か高知の美義下ど正眼入道とか遠くは大和
の茂山の多門城に名を板HOしている松永
男女久秀などまで敵地を見あれば彼が破し
た土地や楽地落外の面積よりははるかに
広い地域に渡ってい
たもちろんそれらの敵は好きさえあれば
教師をついて軍intoの織田を殲滅せん
と日日やや今日伺っているものだっ
た尼崎の荒木村という敵方の章が平服にて
しかもただ1目木下殿に会いたいとて尋ね
て参られましたが何かご存知のあることに
ございましょうかオフ今度は吉郎への取次
であった
は返事もせずに吉郎は信長の方へ手をつえ
たちょっと通りをいただけましょうか誰に
私を訪ねてきた荒木村にでござります敵の
シと措置はいつなつしていたか信長は美称
する近頃ですの間を見て私から伏せに前に
一度我が君にあえと進めておいたので
ござるまめだな人頭へ駒を乗り出すばかり
が戦いではありませんからしかし今日は誰
にも方格にはあわぬと申し出してある今日
はそちだけあって止まるものなら地内へ
止めておけ明日会ういそれなら返します彼
は怪しくも一のあじ若年ながらせの尼崎に
よってよく式をめ機内の老友に呼びかけ
担当のごとき男ですお味方にとって最も
恐るべき敵の1人でしょう負傷の目では
あの男を敵方に回しておいては将来の体型
にも不利と考えたので霊を取って今日の
来訪を訳しておいたのです五家の海運を見
てにわかに酒や財物を送って門前に
うようよと位置をなしてくる客とは物が
違いまするそちはひどく敵方の章を
褒めそやすの敵でも良い人物には人間とし
て尊敬を払いまする荒木ムは褒めて良い男
と信じますのでどせありがとう存じまする
これ通せとそのままを取り次ぎへ言うムは
やがて侍たちに囲まれて入ってきたその
物々しさを藤吉郎は逆に対して気の毒に
思ったかお下がりあってよろしいと主君の
神辺は自分が引き受けて保証するかのよう
な信念で言った静かに皆下がったしかし
隣室や信長の脇の武者学士にはもちろん息
をこらして満一に備えている武士がいる
ことは言うまでもない恐ろしいのはむしろ
単身ひくくで座っている荒木ムでなければ
ならなかっ
たけれどムシは平然と胸をそらしていた年
はわずか22歳だというが体育は小さく
要望はかいだ幼少の頃放送でも患ったか
まぶの片方がつまんだようないわゆる
めっぱになっていてしかも色は黒いしやぼ
の尖っているカタつきで見るからに人好き
のしない夫妻であっ
た藤吉郎があまり褒めたせいもあろうが
信長はこんな男かと今投げであった一応の
挨拶はしたが無口で不そな顔をいつまでも
イボガエルみたいにそこに据えているのが
信長は何かこしに触ってきた釈に触ると
いうような誰とでも対等になって働く青年
地味た感情はまだまだ多分にある信長なの

あるブシ墓は嫌いかいきなり言い出したの
で不敵物のムもそのめっぱの目をビクッと
あげてほ餅はよくくいますると答えた
ちこうよれ持を信じいたぞ脇差しを抜いて
信長はその先に自分の前にあったの一辺を
突き刺したそしてムの方へ突き出した頂戴
いたします村は静かに進んで顔へ刀の届く
ところで手を使え
たおそらくは両手を出すかと見ていると
どうぞこれと大きく口を開きながら信長の
顔を見
た浜がライバで黄色くて汚い口であるが
その顔は新色自虐としてわずかの愛嬌さえ
たえていた持のキれがムの口へ入ると信長
は脇差しを収め
てと高く笑ったムは口を動かしながら餅を
よく噛んでいたがようやく飲みしてから
にやりと声なく笑った
信長はすぐ好きになった小さな蔵王はいつ
もこう急転するのが彼の常だったときしろ
これはそちの褒めた通り面白い男よ奥で
もてなして使わせ信長も後で望もうと言っ
た吉郎は彼を奥へ連れた信長のいない
ところでどうだと尋ねた村は別にと変哲も
ない顔したがすぐ付け加えて底本の進めに
任せ使えても良いと答えた荒木村の離脱に
切下線の美義松永島の人形は同様を負え
なかった青龍寺の岩成一族も城を開いて
投稿し
た伊池田田川腰水高槻などの所場も次々に
織田の相当軍の威力に整理されていった
美義の残党は病人の足義秀を抱えて海路阿
へ逃げ落ち松永男女久秀もとうと屈して
信長の尋問にこを行
た例によって信長の政治的な方面も戦闘と
並行していたいや彼の戦政治はに戦争の先
を越してい
た討伐した土地の所は全て将軍義明に返し
た少しも私しなかった特に落ちぶれた義明
について他年設を曲げなかった求心たちへ
はその配分を重くしてやるように図ったが
軍のつにと義明も立っていうので大津草先
の少しばかりな飛びを信長は受け
た明は改めて将軍職に着いた宣は10月
半間にあった誠意大将軍を兼ねて参議に
任じられ様の神に除され
た信長にも何とぞ爵を下したりとござり
ます吉明は3大の上掃除したやがて信長に
も14位の下右表への神へ任命のサがあっ
たが信長は身に余る命とこじして受けない
義明は信長の気が知れなかった不足かと
恐れたり邪したりしたがそんな煙りもない
のであるよが困るあまりが泣きというので
信長は先のよりずっと低い105位の下丈
の中という美感を受け
た将軍宣の大園がやがて催されることに
なった同月24日と
決まるこれではその日12番の山岳を
演じることになっている足歴代の正義で
およそ文部の百は正体に盛れることはない
彼全な宿だっ
た山岳は7番にとめておかれてはいかがで
ござる信長が義明に忠告した義明はこれを
知らぬ無人の元と聞いたか12番でなけれ
ばならぬ12番のものであると主張した
これはそうであろうと心霊を立てなさい
平和はまだ楽落だけのこと各地の逆とは
一時影を潜めておるが滅され尽くしたので
はありません真の大平ぞという日が来たら
万民と共に7か7や100番の舞を演じ
抜くも良いでしょう吉明は黙って彼の元に
伏した大園が無事に終わると彼はまた信長
に進め
た副将軍か完了か2食のうちいずれかに
主任してくれまい
かせにお許しの
歩道京都敬語の兵だけを残してその月の
28日には信長はもう帰国の戸についてい
たまるで日帰りの狩から帰る人のような
身軽さにみの人々は呆れていた
建設の
音突然京都の街中で完成が起こった春も
開けたばかりの正月4日の真昼だった何の
心がいもない市民の耳に戦争だという声
のみが聞こえたどこでどんな風に戦争が
始まっているのか同体する市民の影ばかり
で無しらしいものも見えないのに大変だ
逃げろ
片付けろ町の野並はやりをさせて童を失っ
てい
た京都の市民ほど戦火をなめているものは
ない国家の治安攻防の怪人はそのまま京都
の土であった乱のある度京都は平成に
見舞われた今度も信長の大育が楽中へ入っ
た切は市民はもう悲痛な観念をしたもの
だっ
た木曾の産軍本の吉中が宮子入りをしおり
の破滅的な暴だの略奪だの腐女子のななど
を思い出して戦慄していたものだっ
たところが信長は吉中ではなかったので
ある市民は蘇ったそしてこのくを平和の
うちに送ったのも信長の得としこの正月
夫人が夜道を歩かれるのも織田軍のおかげ
と随求してい
たくれの半ばから末に先週から川の奥あり
で美の残党がまた騒いでいると噂はあった
が楽には市民を守ってくれる織田がいると
固く信頼して何の不安も抱かなかったが
実際はそう多くの兵は残されていなかった
のである楽中落街の警備にわずか2000
の兵がいきりだった敵の残党は偽装して
死中にもたくさん潜伏していた信長の本軍
が岐阜へ帰るとテウス今だ密は書の残党の
仲間へいち早く聞こえてい
たどを伺う敵は美義松永の党ばかりでは
ない美野を追われた斎藤達とその一族も
あるつい先頃滅ぼされた佐々木一族やその
他も
ある川から先週あたりに斎藤達が姿を見せ
始めた重心の長い覇がそばについている
これが美義松永の廃山軍と結んで今つけと
なったそれがクレのランだったが死中敬語
の一方に当たっていた東吉郎は固く
いましめて市民にも知らせなかっ
たしかし選挙は刻刻と味方に振りで敵は
1万4人にもなり年を超えて落へ近づいて
きたその防ぎに当たっている間に死中に
潜っていた残党と先行してきた敵の一部隊
が突然4日の昼本国寺の堀をぐるりと
取り巻いてうわあと無しへ合わせてそこの
土へかかり出したのであっ
た本国寺には将軍の吉明がいたからである
まだ落早々なので幕府の成長も将軍の託も
不審にかかっている間がないその館の
できるまでを新将軍は本国寺を仮の住まと
していたので
ある全将軍ヨシテルは松永男女のために不
打ちを受けてその居間の炎の下で切地にし
たまたもその賛美な殺戮が真中太陽の下に
演じられるかと本地のはすでに名もでき
ない混乱に落ちた急を聞いてすわっと
駆けつけてきた藤郎の一体と奇襲の敵軍と
の間に立ちまち市街線が始まったそれは
本国地と七条道場との通路の辻であった
市街線は昼頃から夕方に迫ってもなお続い
ていた
付近の民家の戸屋壁まで血に染まった血の
ついた家が焼かれていっ
たしかも勝敗はまだつかない警備軍の小田
兵は初めから少数だったが藤吉郎の式に
よってからくも持ちこたえていたのである
それだけにまた味方の苦戦は言うまでも
ないすると覚の頃勝ち誇って増えるばかり
だ残軍が一角から崩れ出したと思うとそれ
がこっぱみじんとなって粉砕され始めたの
も実に早かった引け引き上げだ非想な肺性
の声を包んで一瞬に逃げれていった後の
大地を見ると刀の折れつばかりの長のちれ
わらじ燃え残りの旗竿花ふんどしなどまで
散らばっていた木下殿はおいでか木下殿は
夕闇の中で呼ばわるものがあるそれは突然
本国寺横の工事や金の横合いから火星に出
た3400人の兵の中からであった
おう吉郎は汗の光る顔を振り向けて答えた
敵が逃げるとすぐ彼は民家の火を消せ敵は
はわんでもよい火の手を町へ広げるなと
さしずに教本していたのでその顔からも湯
が立っていたどなたの体でござるご女性に
駆けつけてくだされたのは近づいていくと
先頃はとクドの鎧に身をかめた一生が
ニヤニヤ笑いながら卒の中から出てきた
荒木ムであったよそもか変を聞いて尼崎
から駆けつけて参った消化にも手伝いたい
し将軍家の見舞いもしたいところだが
逃げ足ついた敵を追い込めばまだいくらで
も首が取れるおさしずを仰ぎたい片ない
頼むでは村はもう生前と太鼓を作って
部終えるだけ追い詰めろと人頭を一気
村はその先へ立って淀川から伏見方面まで
敵をかけ散らした川へ移るもの首を授ける
もの残党軍は導千人に近い味方のカを捨て
ていっ
た正月の6日大雪の日であった岐阜へ
早打ちがついた本寺の変や
軍の状態がじられたのである
大臣と信長は言った将軍の身を暗示られた
がより以上せっかく自分の据えた一祖が
中原から虚しくなることを恐れた猶予は
ならぬ移すなすぐ群馬の霊常のごとくその
日も縄文を駆け出したのは信長が先だった
続いて10期ほどまたしばらくして20機
30機と後を折った雪は行くほど深い思う
ままに続けないものが多かった信長は駒を
止め馬がりの者ども1度馬を降りよと言っ
て明々の暗きについている漂流やら軍用の
荷物の重量地震で改めて回り重すぎるのは
軽い方へ負担を分けさせ公平に直して急げ
とまた鞭打ったそんな大雪というのに翌日
はもうセタの大橋を渡り越え3日の道のり
を2日で都へついてしまった織田殿が上へ
お入りあったと聞こえ渡るだけでも楽は
明るくなった天生人も庶民も安心した
彼の鉄君は落海から機内へ渡って再び時の
うの威力を示したが野川自分が来たのは
そんな相続どもを相手にしようためでは
ないと言わんばかりにもう別な仕事に
取りかかってい
た二条の焼け跡に大寺が始まった堀を深く
し石を起こし東北一丁もげて将軍義明の
ために感を新築してやろうというのである
それも実に早いのであるミノ終わり5州を
始めとしご機内その他を合わせて14カ国
の人力と溶剤を挑発しての大建築ではあっ
たが4月6日と言ともう落成式を上げ
てここへお座りなさいと将軍家を移してい
たその時義明は彼の手を押しいだいて
あなたは自分にとって父にもまさるお方で
あると言った心の底から出た声であろう
春行遺憾の声援の席で彼は自ら調子を捧げ
てみのためにも祝おうと信長に尺をした
彼にそのように喜ばれて信長も愉快であっ
たと見えて一郎少女を前連れている故障へ
行った細川与一郎今年7歳細川藤高がこれ
であるはいとって症状を舞うと信長は小包
をうって自身ひしを打ったやんややんや
戦国の豪たちは絶なく合さした良一の姿も
あいらしや信長が包構への所作も良いかな
萬藤思わず手を
叩くこの代郎こそは後の細川3歳越中の神
たきであっ
たそれから2日わずか2日の後には信長は
さらにもっと厳粛な奉仕にかかっていた
権利の執着である4月8日にその食はめの
式はあげられた
が着京以来彼は夜の召喚に逆月も持た
なかっ
た宮殿の絵面などを皆自分で引いたそして
不審武行の島田八門麻山西条村井佐などを
行く度も呼び寄せて相談もしてい
た物に構わない彼であるが高居のご皇子は
全て古式によった大国は皆エをいかせ巣を
きせ溶剤は正常を守らせカソにも不浮上を
許さなかっ
た予算1万間公人2万京都の富豪たちにも
負荷を申しつけたそして彼は虎の毛皮のム
をち時には手に白人を下げて外門の甲を
見回っ
た彼の名簿があまり高いのである時一人が
女のかずきをかぶって彼のそ近くより
どんなお顔の人かと差しのいていった信長
は知らないようであったが黙って後ろから
歩み寄るとかずの上からその首を跳ね
おとしてしまった
優しい人かと思えば怖い物に構わない野人
かと思えばひどく厳粛でもある彼の命令は
聞きすぎられるくらい聞いた聖者なる彼の
歩みが向いてくると誰も皆ピリッとした
楽習の姿勢も同様に行われたまた彼の勢力
範囲の海道の席書は皆取り除いて通行を
自由にさせたさらにまた従来武家がかめ
とっていた金利の御両地へ海州霊を発して
頂にお返しし
たやがて近いうちには信長も岐阜へ帰国
するであろうという噂を聞いて将軍家は
慌てて信長へ希望し
た誰か1名武力あって平の守りにもたる
両人を京都守備の章としておかれたい後の
治安の心配である信長にもその点は彼以上
に考えている軍港を競いやすいばっかの
所書は早くも漏れ聞いて誰がお眼鏡に登る
かと人選の下表がもうまちまちであっ
たこれは10人である第1に金門の英軍で
あらねばならぬ将軍家の守備も務め市民の
平和も確保しまた一面には信長の人台とし
てクと久保との間や微妙な政治的の動きも
見ていてこれを信長の方へいながらにでも
分かるように重宝する期間ともならなけれ
ばなら
ないまず庭殿の辺りかないや柴田殿太郎俺
は五郎門だのに白の矢が立つと
思う五郎門長秀が第1に人気があった
ついでは柴田勝だったところが誰の予想も
当たらなかった皆あ然としたものだった
木下吉郎秀吉に命ぜられると聞こえたから
であるあんな属性さえつかない勝でよ京都
守備の住人とはれが主君のお眼による軍中
の人物とはそれぞれ多分な必死反感を含ん
だ声であっ
た不の獣心も大いにとその獣心仲間にも
千望反感が覆えなかったいかに人材のご用
とはいえ急行の真は立場がないと表に色を
表して言うものもある中で1人最もだが
主君のご観察にこれまでとて1度でも謝っ
た試しはない正知の論は慎むべきだサマ
のむ森だけは穏やかにそうなめていたと
いう何事にも今は確信の意思に燃えてひま
ない飲むななのでざわと思い通りにて
しまったが求心たちの不平愛義には事実
一時は東明もしたほどだったしかしそれを
すぐ歪めたり引いたりする彼ではない同郎
就任のご挨拶ないたしてまれと即日
言いつけた藤吉郎は早速義明の館へ出向い
て将軍家に越をこうと羊の上の中塚さの
太陽まで申し出
た5人名のよは受けたあったが将軍家に
するには洗礼格式があってお手軽には参ら
ぬおって出頭日の通知場が届いたら改めて
礼服着用の上お越しなさいと羊の言葉
にいのことを押せられる吉郎は日常の武装
のままだったが態度をたしていった帝国の
元一日とて守備なくては叶いませんしかも
戦乱の余人が病んだかに見えるのは楽だけ
のこと
信長の人として変にる者どもはまだ無の間
もこの足わらじすら脱いでは寝てもおら
れんのでござるそれがしが長州長など来て
ののしている間に一丁先頃のごき地変でも
勃発したらいかがなさる宮日はしばらくの
間人のあなた方の中でお守りあればよい羊
は彼のに驚いて明へ取りついだ将軍家は
破天荒な例外として藤吉郎に越を許した
藤吉郎は彼の逆月を受けてしかも祖母には
ならずまた信長の真として卑屈にもならず
室町家の真たちが見守っている中を
あっさりと帰ってきた

この作品は、当初読売新聞に1939年1月1日から1945年8月23日まで、掲載されました。以降の原稿は、「続太閤記」としていくつかの地方紙に掲載されました。前半の中断は、終戦が原因となったそうです。

 日本の天下を統一した豊臣秀吉の生涯を昭和の文豪が描く!

■用語集
然諾……ゼンダク・引き受けること。承諾。
紊乱……ブンラン・乱れること。乱すこと。
説破……セッパ・相手の説を言い負かすこと。論破。

蠢動……シュンドウ・虫などがうごめくこと。転じて、取るに足りない者が策動すること。
醜族……シュウゾク
憂暗……ユウアン・憂鬱、暗鬱
閑雲野鶴……カンウンヤカク・なんの束縛も受けず、悠々自適して、自然を楽しみながら暮らす境遇。
隠士……インシ・俗世を離れて静かな生活をしている人

畸形……キケイ・生物体において、多くは先天的に、一般とは異なる形態を示すもの。
腺病質……センビョウシツ・体格が貧弱でリンパ節などの腫脹(しゅちょう)を起こしやすい、小児の虚弱体質。
拝賀……ハイガ・目上の人に(新年などの)祝い事の喜びを申し上げること。
寵姫……チョウキ・君主や諸侯の特にお気に入りの女。 愛妾。
経綸……ケイリン・国家を治めととのえること。その策。
忌憚……キタン・いみはばかること。遠慮。
佞臣……ネイシン・佞奸(ねいかん)な臣下。主君にこびへつらう家来。
瀟洒……ショウシャ・すっきりとしゃれている様子。俗っぽさがなく、あかぬけしていること。
恬淡……テンタン・あっさりとしていて、名誉・利益などに執着(しゅうじゃく)しないさま。

潰乱……カイラン・敵に敗れ秩序を失って、まとまりがつかないこと。
雄図……ユウト・雄々しい企て。壮大な計画。
多恨……タコン・うらむ気持やかなしむ気持が多いこと。 また、そのさま。
出蘆……シュツロ・引退して世俗を離れていた人が、再び官職などに就くこと
白虹……ハッコウ・霧やぬか雨などのとき見られる白色の虹(にじ)。 武器、また兵乱の象とされた。 霧虹ともいう。
尾濃……ビノウ・尾張 東海道一五か国の一国。
桃李……トウリ・試験官が採用した門下生。自分がとりたてた人材。
嶮岨……ケンソ・けわしいこと。けわしい所。
霏々……ヒヒ・雨や雪などが、しきりに降るさま。
春眠……シュンミン・春の夜の快い眠り。春の眠り。
併呑……ヘイドン・あわせのむこと。他の勢力を自分の勢力下に入れること。
飛札……ヒサツ・急用の手紙。飛書。
馬匹……バヒツ・馬のこと。
渡渉……トショウ・川をわたること。
国富……コクフ・国の経済力。国全体の富(とみ)。
篤学……トクガク・学問に熱心なこと。
結髪……ケッパツ・元服すること。
馳駆……チク・駆使すること。馬を駆って走ること
峨々……ガガ・山や岩壁などが、高くけわしくそびえ立つさま。
督戦……トクセン・部下を激励・監視して戦わせること。
黙契……モツケイ・暗黙の間に成り立った、意志の一致または契約。

■登場人物
木下藤吉郎……のちの豊臣秀吉
弥右衛門……日吉の父
お奈加……日吉の母
おつみ……日吉の姉
筑阿弥……日吉の継父
於福……楊景福。日吉の友達
五郎太夫……お福の父。陶器職人
捨次郎……五郎太夫の下僕
利琴……お福の母
仁王……日吉の友達
加藤弾正……日吉の親戚となる
小竹……日吉の弟
渡辺天蔵……土匪の頭

蜂須賀小六……蜂須賀一族の長
松原内匠……小六の部下
仁田彦十……小六の部下。古弓売りに化ける
乙若……弥右衛門の友人で、織田家につかえる
斉藤秀龍……道三。美濃の戦国大名
難波内記……道三の家中
蜂須賀七内……小六の舎弟
斎藤義龍……道三の息子。父と美濃の覇権を争う
明智十兵衛光秀……光安の客分で、日吉をつかまえる。
明智光安入道……道三の配下
明智弥平治光春……光安の息子

織田信長……織田家の藩主
織田信広……信長の兄
織田信行……信長の弟
平手中務……信長の側近。親代わり
五郎左衛門……中務の子
前田犬千代……信長の家臣で、藤吉郎のライバル。
柴田権六勝家……信長の家臣
林美作……信長の家臣
がんまく……秀吉の同僚。信長のしのび

浅野又右衛門長勝……織田家の弓の衆
寧子……長勝の娘。藤吉郎の妻
こひ……寧子の母
おや屋……寧子の妹
権蔵……ごんぞ。藤吉郎の若党。
山淵右近……工事奉行
山淵左馬介……鳴海城を預かる武将。信長を裏切るつもり。

森三左衛門可成……斉藤家から織田家に仕えることになった、信長の重臣
森蘭丸……三左衛門の子息
さい……信長の侍女
池田勝三郎……清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。信長とは乳兄弟。
松平元康……今川の人質にして、若干21才の武将。後の徳川家康。

竹中半兵衛……斉藤家の旧臣
堀尾茂助……幼名小太郎。父の死とともに浪人するが、藤吉郎につかえる。

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