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尾道の「顔」-町としてのイメージ形成- 公開研究会



尾道の「顔」-町としてのイメージ形成- 公開研究会

皆さん
こんにちは時間になりましたのでえ始めて
行きたいと思いますと小道の顔研究会の
小道の町の顔公開研究会え今から
え始めていきます本日はこの会にお越し
くださりありがとうございます今日は実は
ですねえっと皆様どどうやってこの会を
あの知っていただけたかと思うんです
けれどもポスターこのを大学の方から
えっと美術学科の学生さんにデザインをお
願いして作ってもらったんですけれども
あの結構自分でも可愛くできたかなと思っ
ておりますのでまたあのお手にとってご覧
いただければと思いますえ会に先立ちまし
て今日はあの公開研究会ということで
えっとメンバーを紹介したいと思いますえ
小道知立大学のえ教員をしております3人
で行ってきた研究会なのですがえまず
えっと1人目え経済情報学部経済情報学科
の森本先生
ですえそしてお2人目え芸術文化学部日本
文学科の吉田さ先生ですお願いしますえ
それから私え今司会を務めております
けれども芸術文化学部日本文学科の藤本子
と申しますよろしくお願いいたします
あの結構あのたくさん人数来ていただいて
非常に嬉しくまたあのドキドキするんです
けれども本来あの公開研究会ということで
大学でえま
あの案を出しながらアイデアを出しながら
色々進めてきたものをあのここで行わせて
いただこうと思ってえこの企画をしました
で研究会が終わったらですねえ町に
飛び出して歩歩きたくなるようなそして
野道の街をもう一度眺めたくなるようなえ
お話ができればと思っております今日皆
さんのお手元に資料がえと大体4種類ほど
参ったかと思うんですけれどもまずあの
研究会の趣旨を色々と書いておりますお道
の町の顔公開研究会と書いてある資料を
ご覧いただければと思いますこちらに
先ほどお話えご紹介しましたメンバーも
示しており
ますまあの資料を見ていただいたりえっと
こうやって話しているものを聞いて
いただいても分かるように進めていこうと
思いますがまずこの研究会町の顔という風
に名乗っているけれどどんな研究会なん
だろうということでえご説明しますとまず
この研究はですねえっとお道の町の
イメージというのがどんな風に形成されて
きたのかということを明らかにしていき
たいなということを目的にしています
先ほどあのお見せしたポスターチラシでも
いろんな顔があるなとえ例えば坂の町で
あったりま猫の街これはもうごく最近の
ことかとは思いますけれどもいろんな呼ば
れ方をしておりますでこういった色々な
呼ばれ方がするというのは観光的な側面で
あったり歴史的な側面であったりという
影響がま大きく考えられるわけですけれど
もえその他には地形であったりそして交通
のどういうえ場所であるかというような
ことも呼び方には関わってきてい
ますでこの研究ではま江戸時代金星のです
ねえお道というところの名所の作られ方え
創出に始まり近代の観光案内などのえお話
もえ入れていけたらなと思って組んでおり
ますというわけで先ほど紹介したメンバー
はあの全員歴史に関わる研究を行っており
ますえまたそういうお話も中で出せたらと
思っており
ますさあえ早速ですけれどもえ今日の流れ
をご説明いたしますとちょっと順番が色々
になってしまうんですけれどもまずあの私
の方で今趣旨説明をいたしましてえさらに
えメンバーのえ続いてですねえ言語のお話
言語資料で見つける小道の顔という
タイトルでえ藤本の方から話をしその後
小道と酒というタイトルでえ吉田先生の方
から話をしてえそしてメディア化される道
といういうタイトルで森本先生にお話をえ
していただくという順番で進めてまいり
ます後ほど議論をできる時間も取りたいな
と思っているんですけれども今日は何分
あの90分という時間で進めようと思って
おりますのでまたえこの回の先にでもえお
話を続けていけたらなと思っております今
ご覧いただいている公開研究会の資料の
後ろにもう1枚えちょっとカラフルであの
色のあるえポスターを示しているんです
けれどもこちらはですねまこの研究会を
立ち上げた時にどう
いうイメージを持って研究に取り組むかと
いうことで作ったものになります道に
いろんな側面があるなということをえ皆
さんと一緒に考えていけるようなそういう
イメージで作ったものですまこれをご覧に
なってあそういえばこのイメージあるな
いやこれは今なかったけれども実はあった
のかなというようなことにあの思いをはせ
ていただきながら今日の話を聞いて
いただければと思い
ますさあえそれではですねそろそろえ1つ
目の話に入っていこうと思いますけれども
え1つ目は言語資料で見つけるお道の顔と
いう風にえ資料を用意しております藤本の
えものをご覧
くださいはいえでは早速進めていきます
まず1の初めにというところをご覧
いただきますとま町を歩きますとこれは
あの小道の町に絞ってえお見せしており
ますが私はあの駅からえまお道市立大学に
向かうわけですけれどもま駅を出てすぐに
ですねあのこういった1つ目の写真にある
ようなえものを見ることができるんですね
これ今も見られますえ小道駅JR小道駅の
セブンイレブンのえ中で撮影しました
けれどもウェルカムトゥ小道とで寺の町坂
の町サイクリングの町のようにこの町のえ
ま枠をこんな風に用意されているわけです
ねでそれ以外ににもえ街を歩きますと色々
なところで例えば小道という言葉だけも
あの追いかけることができますえ2つ目の
写真はちょっと皆さん懐かしいでしょうか
今あの何周年という風になってありますが
駅舎を建て替える前のJR小道駅
ですえ真ん中にお道駅と漢字であってです
ねその周辺に小道ステーションという風に
示されています
それからもっと街を歩いていきますとえ
例えばということで指名しましたけれども
お道ラーメンであったりまだからお道と
いう単語が街の中にたくさんあるんですね
えそしてその次の写真少しえ見にくい見え
にくいかもしれませんけれどもこれも
ローマ字でお道とあってその下は実はえま
江戸時代からありますこの船のえ写真が
載っているわけですねでえ最後右側に示し
ましたのこの今今日え入ってきてくださっ
た小道商業会議所の建物のえところになり
ます全てこういう風にお道という単語が
載っているものを今えお見せしました
けれども言語学あの私は専門が言葉の研究
になるんですけれども言語学の学問の中に
実は1番下の黒丸に示しましたように言語
景観というものも研究の対象にえあります
で言語警官っていうのは何かなと言います
と店の看板や案内版それからパンフレット
パンフレット今日私もあのこの商業会議書
を使わせていただくと下にたくさん
パンフレットがございますけれどもああ
いったパンフレットもえ街の様々な表示を
えしておりまして公共空間でこう皆さんが
目にすることのできる書き言葉というのは
言葉の研究の対象に入ってき
ますでそういった言葉で彩られていく街の
顔というものがござい
ますまこの街の顔を言葉で彩っていくと
いうのは一体いつ頃からできたことなのか
ということでやっぱりこういう街の顔を
言葉で彩っていくというのはどうしても
観光と切っても切り離せない関係にあり
ますで観光っていうのはいつ頃からなのか
と言いますともちろんこうえもっと古く
平安時代からもあのま旅行という風には
呼ばないですけれども旅ということでお寺
に参ったりとかいうようなことはあるん
ですがもう観光ブームという風になって
くるのはこれお示ししたのは近世紀江戸
時代の資料になってきます
ますえここで上げているのは1つ目はです
ねえちょうどこの右側に上がっているのが
えま崩し時の状態になっているんです
けれども左手に示したのは東海道名所の木
というような名所案内というのがたくさん
出版されてい
ます示したのはあのこの東海道名所の木の
スタートの部分ですのでまえちょっとどう
してこういう名所の木っていうのを作ろう
としているのかなということが書かれてい
ます赤い四角い枠で囲んだところの最初を
読みますとま人の心も言葉つきも国により
とにより己れおれの生まれつきという風に
ありましてまやっぱり言葉のこともそう
ですしえそれから防戦引きましたところを
見ていたと知らぬ道には案内者ありとで旅
屋の期ところにはえ店屋の持ち団子という
風にたくさんおいしいものが並んでおり
ますあの観光案内ということでどういった
名物があるかというのがつらつら並べられ
ているようなものたくさん出版されてい
ます最新の教科書でいきますとえこの2
ページ目の下半分に示しましたのはえ今
高校生が使っている国語の古典探求と
ちょっと古典の難しい方の資料になるん
ですけれどもこの教科書にもですね東海道
往来というようなものが載っていたりし
ますま今の古典のえ高校の教育ですとま
こういった教科書にえこの名所案内のよう
なものが載ってですねさ皆さんの地ではと
いうような話もえ進められたりします
けれどこの東海道往来でもいろんな地域え
ま思い浮かべることができるような資料と
いうのが上がっており
ますさあこれは少しえ遠くから今観光の
ことに迫っておりますが一気に私たちに
近づきましょう3ページ目にえ進んで
いただきますとさこれは現代の観光案内に
なり
ます3ページ目本当でしたらあの皆さんと
観光ブックをですね一緒に眺められたら
よかったんですけれどもまもうあの
コンパクトに文字資料だけ持ってきました
え2冊用意したんですけれどもかこ1番の
方がこれルルブというあの皆様もえ旅行に
行かれる際に1冊ぐらいえ買われること
あるかなと思うんですがルルブからでかこ
2番の方失礼しましたこれ書いてないん
ですけれどマップルというあの2冊え旅行
雑誌から撮ってきまし
たかこ1番や2番をご覧になっていかが
でしょうこれお道の町の紹介なんです
けれど意外とですね自分の街の観光案内と
いうのをじっくり読み返す機会というのは
なかなかないかもしれませんがこんな風に
紹介されています
これご覧になりますとえ例えば海の町で
あったりそれから坂道というようなことま
あの瀬戸内海であるということやえそう
いった地形も入ってきますしあとはま名物
と言っていいんでしょうかこれはあの私は
よく観光でいらしてる方が猫と聞いたのに
猫がいないという風にあの言っ
てらっしゃるのを聞きますけれどもま猫の
街というようなこう言葉でですね道をそう
いう風に作っていくというのが1や2で
見ることができ
ますそれ以外に最近の観光のブームと言い
ますか流れとして
えちょっと線を引いたような単語に
ノスタルジーとかレトロこれあの観光と
いう学問分野の中ではレトロツーリズムと
いう風に言われたりしてえこの
ノスタルジーレトロという言葉でえ観光の
名所をまた算出していくという流れがここ
えそうですね10年ぐらいのうちにえ非常
にいろんな街でこのノスタルジーレトロと
いうことがえ押し出されています道もその
1つになっており
ますさあ言語面できますとということで
これはあの私以前
えっと1度お話しした機会があるんです
けれども3ページの1番下かこ3番で示し
たのですが先ほど言語警官と街の中を歩き
ますとお道という単語が色々見えるんだ
けれど3番のABCであげましたけれど
例えば漢字で小道というのを見たりえ
そしてひらがなやカカで小道という文字を
見たりそれからCにあげましたように
ローマ字でお道という文字を見たりします
とまいろんなイメージを呼び起こすわけ
ですけれどもちょっとこれは単純化しまし
たがま北前船や商人金星のイメージを刺激
されたりそして昭和の映画ね映画資料感も
ありますし映画のイメージま昭和以外でも
そうですね対象昭和といったそれこそ
先ほど言ったレトロえノスタルジーを換気
してくるものそれから最後えローマ寺の
好道というの
は私が調べたこの
2019年と今ここでは示しています
けれどもこの時にはまだそれほどローマ人
のお道がたくさんあるというわけでもなく
てですね
えまそれは意外だなと思ったんですけれど
もまあの今日の資料の1番最後の方に曲げ
ていますがえサイクリングとかそれから
水風が止まりますのでえそういった関係で
え海外やまもう少しえ多言語的な視点が
入ってきてローマ字お道というのも
ちょっとここ何年かまた増えてきているか
もしれませんえ皆さんがこう街を歩き
ながら写真を撮っていただいたり確認して
いただいたらどんな道が見えてくる
でしょう
かさあえそれではそのどんな道がという
ことでもうちょっと資料を見ていき
ましょう4ページ目に進み
ます4ページ目のかこ4番で示しましたの
は実はその言語という学問分野は心理学と
もつながりがありますがその心理学の中で
例えば先ほどノスタルジーレトロで
懐かしいよねと街を歩いていて懐かしいな
という風にこう旅にいらした方が
おっしゃっている時に2つの懐かしさが
あるんですねこれあの皆さんが例えば自分
の小学校時代を懐かしいなっていうのは
もちろん懐かしいです自分が体験してきた
ことですからでもそれ以外に知らない町に
初めて行ったのにああこの町なんか
懐かしいなというのはいやその街はまだ
1度も来たことがないのに懐かしいと
思えるこれあの心理学で研究がございまし
てこう集団的な懐かしさというのが個人的
な懐かしさと集団の懐かしさというのがま
2つあるよというような研究もあってお道
の町でこう懐かしさを感じている旅の人の
多くは集団的な集合的な懐かしさという
もので街を楽しんでいる方も多く
いらっしゃると思い
ますさあそんな風に懐かしさもえ味わえる
お道ですけれども言語資料でお道というの
をちょっと探してみましょうということで
私たちあの言語の研究者が道の街を言語
資料から探す時実は色々探す道具建てが
ございますで今日あの最後私の話の中では
皆様にも見ていただけるえどういう道具が
あるかなということをご紹介したいと思い
ますこれあの実際にお帰りになった後えお
道を探すことができるものになります3つ
ほど行きたいと思い
ますまず1つ目ですけれども青空文庫これ
はもしかしたら皆さんの中でご存知の方も
いらっしゃるかもしれませんどうでしょう
あのインターネット上にですねたくさん
昭和機あ現代のものも一部入っているん
ですけれども今最近は著作権厳しいです
けれども著作権というものからこう外れて
いった資料これオッケーですよというもの
をえ検索して本を読むことができるんです
ねでこの対象昭和の辺りの文学作品を多く
含みます青空文庫ともう青空文庫て入れて
いただくと出てきますここでお道を検索
すると私実際してみましたえ右側に今写真
で貼り付けているのは青空文庫でお道を
検索しようといざというシーンをえ載せ
ましたけれど
もここで検索しますとお道というのが一体
どういうものとよく出てくるかというとま
ちょっとこれはあの一部を取り出しました
が実は対象昭和の好道はですね記者という
ような単語とよく一緒に現れます
このイメージは皆様の中にはありました
でしょうかえ例えば1つ取り上げますとえ
下に上げました線を引いた倉田百像これは
あの小原市の出身なんですけれども劇作家
としてえ名をはせておりますこの倉田の
作品の中にお道というのはたくさん出てき
ますえ倉田の祖母が小道の出身だったと
いうことでえ小道出て来るんですけれども
5番のようなものだとえお道に非常に憧れ
を持ってですね祖母のお話の中に出てきた
んだと小さい頃の話を示していますえお道
の千光寺にはと3行目から読みますとえま
ダイヤモンドの大きな玉が岩尾の上にあっ
たとでその光で海が明るく輝くので玉の裏
と言ったのだという風に逸が示されてい
たりこれは祖母が根物語で話したという
ことですでかこ6番も倉田の作品からです
けれども作品と言いながらこれは倉田百三
自身がえ体験した青年少年青年時代のもの
になりますが小原からですねえ小道にこう
出てくるというように描かれるんです
けれど
もかこ6番の3行目あたりま道にやってき
てまくる前あたりからですが私はどうも
自分が山出しで光なきもののような気が
するのであったで私はだんだん憂鬱になっ
ていった勉強が手につかなくなり出したお
道へと私は思ったえ南の海のほりの好道と
でそれから商業がこう賑わっていて華やか

港町美しい島々と山の上のテラテラという
風にま文学作品1つ目を通しましてもみと
いうのがその当時どんな風に描かれている
か非常に華やかでま商業的な町そしてお道
に行けば記者が繋がっているのであると
いうことがもう非常に何度も繰り返し
繰り返し出てき
ますま他にも違った立場から道を示した
ものとしてその下にあげましたのはえ広島
県出身の美学者の中井正一のえ資料の中に
ですねお道というのが出てきますまお道で
もえ中井自身がえこういうま今みたいな
口座になるでしょうか40人ぐらいの口座
を開いてねというような話を何度もこう
示したりそれからこの方は図書館のえこと
にも力を入れていましたので図書館の話
などもこの青空文庫の中で読むことができ
ますま三原からちょうどお道に来たんだよ
と記者に乗ってきたんですよといういう
ようなことも示されてい
ますさあ他の資料からもお道を探してみ
ましょう5ページ目に参り
ます先ほどまでは文学作品まあの作品とし
て作られたものの中にお道がどんな風に出
てくるかえ明治対象昭和の辺りにかけてと
いうことで見ましたけれども同じくえ同
時代でですね今度は新聞資料の中で道を
探すことができますこれもえ皆様がえお家
に帰ってですねあの調べることのできる
資料になりますこれも特に何の申請もなく
え神戸大学が新聞記事文庫という風にして
明治大正昭和えあたりのですねあの資料を
新聞記事を検索できるようになっており
ますで私もえ皆様にお示ししようと思って
今回この資料この文庫の中でお道というの
を入れて引っ張ってきますとですねえこれ
指矢印に示しましたように新聞資料から
見える好道というのはやはり先ほども言っ
た鉄道と一緒に現れたりそれから港そして
銀行のことが非常にたくさん出てきます
経済のトピックと一緒に現れるのがお道で
あるということが確認でき
ます8番ご覧いただきますと1行目から2
行目にかけてお道市という大都市とか好道
市の大都市という風にこう大都市であると
いう風に示されるんですねもこうやって見
ますとあこの道をどういう町としてこう
提示されているのかというのが今と全く
一緒の感覚かというとわあ大きい街という
描き方がされており
ますただですね少しえ違う点も入ってき
まして8番の次に22番かこ22という風
に中に示しておりますこうかこ8の中の
真ん中辺りを見ていただきますとま小道市
というのは非常に今栄えているのだけれど
もこ限界が見えてきているぞとこの土地の
え中で産業というのが今今最大限発展して
いる前時原体するものであろうと思うと
いう風にま予測予感めいたものというもの
も2223の辺りで出てきており
ますこれがま昭和の初めあたりから出て
くる文言なんです
ねまそうは言っても道というのが非常に
経済的なえ基盤を持った町であるという
ことはえ色々な新聞の中でもっと確認でき
ます華やかな町としても描かれております
6ページ目も少しえその辺り道の今度はえ
同じ新聞記事文庫から検索した中で見出し
を抜粋してきました大阪朝日新聞でお道と
いうものが見出しに出てくるものには
どんなものがあるかということで示して
おり
ますまお道の考案としての価値とかえそれ
からそうですねま物化がどうかとかえあと
は列車そして商業高校ありますのでえその
情報などがいろんな記事のタイトルとして
は出てきておりますこれはもう本当に一部
ですのでえ皆さんの方でご覧いただくと
もっと色々な視点を持てるんじゃないかと
いうえお言葉を頂戴しそうですがまたご覧
になって
くださいさそれから1番最後示しましたの
はえ言語学データということでちょっと
これはあの1つ申請の段階がいるものなん
ですけれどもえなんとかの街というのがま
今回実際この研究を始めまして非常に気に
なったのは先ほど現代のこ案内の本などを
見ても猫の町坂の町え海の町といろんな
呼ばれ方をするこの好道なんとかの街と
いうのは一体どんな形で出てくるのかなと
いうことを簡単に調べた結果を示しまし
たまちなみにこのまるまるの町というので
どんな風に
え言語資料で出てくるかと言いますとこれ
あの国立国語研究所というところが規模に
こうインターネット今あの盛に使われて
検索ができるんですけれどもまその場合
ですとスペインの町とか広島の町とか長崎
の町のように国や地名が何々の町の前に
来ることが1番多くなるんですがその次に
は海の町山の町といったような地形が一緒
になって現れることが多いですで近年の
そのデータを見てもですね猫の街とか映画
の街という風に確認できる言語資料という
のはまその資料の中ではそれほど多くは
なくやっぱりこういうことが言われ出した
のは非常に最近のことであろう
とそしてえもしかするとこれはもう一時的
なものでどんどんとこう流動していくもの
であるかもしれませんかなりその可能性は
高いだろうと思いますがまそ外から見た時
のお道の呼ばれ方中からどういう風に発信
していくかというのはちょっと作戦を立て
て何かしてもいいのかなという気もいたし
まし
た最後1番下4のまとめですけれどもま
この街をどんな風に言葉で表すかえそれ
から現れたかというのを見ていきますと
私たちがこう毎日出かける時に服をどれ着
ていこうかなと選ぶのと同じようにですね
えお道もどんな見せ方をしようかなと色々
言語でえ彩っていきますのでそういった
小道の街の顔というのが言葉の面からも
探っていくことができるだろうという風に
考えておりますだて私の方はえこんな風に
言語資料1つ見ていきましても道の街の顔
があちこちいろんな形で出てくるそして
自分たちでも作っていけるということがえ
今回の研究を通して分かった点になります
続けてえお2人目の発表ではえ小道の隠れ
た顔とえいうことで小道と酒でえ吉田先生
にえお渡ししたいと思い
ますえ皆さん
こんにちは小道私立大学芸術文化学部
日本文学科の吉田さと申しますえ私は日本
金星文学つまり江戸時代の文学を専門に
研究しておりますそして本日はえお道と酒
金星徘徊資料手がかりにと題しましてえお
道の街が持つ一側面についてご紹介したい
と思いますえ使用するレジメはえ縦書きの
ものになり
ますえそれではレジュメの1ページ目のえ
1番金星配会とお道をご覧くださいえまず
本題に入る前にえ金星の徘徊資料において
お道はどのように読まれてきたのかをえ
簡単にではありますが確認しておきますえ
かこ1の資料は金星前期の廃人である松江
知よが編んだ今姿という徘徊書でしてその
中にしよがお道と前書きして読んだものが
ありますえ戸行の山の好道や
立馬この大会はえ山の尾という言葉と小道
という言葉をかけながらえ雪の積もった
小道の山を読み込んだものですまたかこ2
の資料ではビゴ好道海辺万brought
と前書きして道の海辺に望んでさきの国の
人であるジョフが八宗に逆月長瀬美の月と
読んでいますさらにかこ3の資料では
道の人々にもてなされて幸成果と共に一に
旅上を慰むと
あり1日の船を語る内とえ船旅に関する
余情が読まれていますこのように金星の
徘徊において道は山と海に挟まれたその
警官にちんだ配が読まれていたことが
わかりますがこれは現代の私たちが思いお
のイメージとも通じるものだと思い
ますしかし金星の徘徊資料を見ていくと今
確認したようなお道の顔とはまた違った別
のお道の顔を伝えてくれるものもあります
それがこれからお話しするお道酒に関する
ものですちなみに今会場にお越しの方にお
尋ねしますがお道にお酒のイメージがある
という方は手をあげていただいても
よろしいでしょう
かはいありがとうございますえやはりお道
とお酒というのはあ現代においてあまり
イメージのつながりはないかと思いますえ
ですが今からお話しするえ内容機会として
おの道の埋もれてしまった顔隠れた魅力と
いうのをえ少しでもお伝えできればと思い
ますそれではあ2金星徘徊資料に見るお道
酒をご覧
くださいかこ1の資料は松江知が編んだ
配所エノコ州でしてえ画像はいわゆる
崩し字で書かれているものでその左側に
本寺として現代の私たちにも読めるように
したものを用意しました本寺を見ると
長々しも眠りこそすれという七からなる
マクに対して山取りのお道を食べ
という575からなる9が尽きられた一生
という人物が読んだ配であることがわかり
ますそしてここにお道酒という言葉が確認
できますではこの1章が読んだ配下をより
詳しく考察していきましょうえ会場の中に
はすでにお気づきの方もいらっしゃるかも
しれませんがあ実はこの配には元ネタに
なったわがありますレジメの2ページ目を
ご覧ください
元ネタになった若は周囲若州の恋の部に
収録される柿ののひまが読んだ次の若です
足引きの山鳥の斧のしおの長々しを1人
かねえとてもリズムの良い歌ですがあこの
若の意味は山取りの垂れ下がった尾のよう
にこの長い長い秋のよ私は1人で寝ること
になるのだろうかというものでししてえ恋
する相手のことを思いながら過ごす秋の
夜長の1人目を歌ったもの
ですこの赤に出てくる山取りのおや長々
しよ1人かもねといった言葉から一章が
人丸の若を踏まえて先の徘徊を読んだこと
は明らかですそしてこの若を踏まえると一
章の読んだ徘徊は次のように理解でき
ますまず悔いですが柿のの人が読んだ
足引きの山取りの王のおではないがお道先
を頂いて良い長々しも眠ってしまったよと
解釈できますまた表着として山取りのおと
お道酒をおという言葉を軸にかけながら
元ネタの恋を読んだがの世界すなわち
恋煩いによる寂しい1人目を酒を読んだは
俗の世界すなわち飲酒による響楽的な熟睡
へと転じた点に開会的な面白さがあくべ
あると評価でき
ますではこの徘徊で読み込まれたお道酒と
は単なる言葉遊びとして読まれたものでえ
実際には存在していなかったのでしょうか
えそれとも当時実際にお道先なるものが
存在していたのでしょうかその疑問を解く
手がかりも金の配資料にあり
ます2にかかりた資料は松江ちが編んだ会
所伏草でして牧の4では諸国の名物が載せ
られていますその中にビゴの国の項目も
ありそこでお道先が紹介されてい
ますまたかこ3にかかりた資料は金星中の
廃人である越ヶ谷五山が編んだ
配所後アナでして酒という項目の中にお
道先が含まれてい
ますこのように道崎は近世紀には確かに
存在しておりその名が知られていたことが
わかりますちなみに現在小道市の西隣には
三原市がありますが三原酒の名もかこ2や
かこ3をはめとした資料の中に確認できえ
レジュメ5ページ目には補足資料のかこ1
として三原崎を読み込んだ配下も掲げて
おりますのでえお時間がある時にご覧
くださいそれではレジュメ3ページ目に
移り
ますここまでは金星の徘徊資料を手がかり
にお道酒についてご紹介しましたがここ
からは3その他の資料に見るお道酒として
金星配資料以外のものを通してお道だの
実態に迫ってみますまずかこ1ですが金星
前期の秋の国の人である黒川同友が返さし
た知事原理国軍士を見ると三原崎を紹介し
た文章に続けて次のように書かれてい
ます小道酒小道は三軍に属す見原を去る
こと遠からず先を醸すは見原と愛同じ
その酒の味巡行にして日式をフれども
損なわずゆえにイニシより大人これは中国
のことです朝鮮東金これはベトナムカチア
これはカンボジアのことルソンえこちらは
フィリピンのことですそして琉球往来の
和船必ずこのところにつなぎ持って先を
求め樽を満たし船中のように圧云々
この記述からは当時小道酒が中国や朝鮮
ベトナム他東南アジアの四国の船に提供さ
れていたことが伺いますただし1つ目の
米印に記しましたが青木茂市は新州道市に
おいて黒川同友の芸備国軍士にある小道崎
が南シ方面に輸出されたように受け取れる
一分はどうもつもに思えてならない優が
芸備国軍士2巻を返したのは江戸の初期
半分3年16632月でえまだ西回り航路
が始まっていない頃のことであると指摘し
てい
ます青木市が述べている西回り航路とは
現在の山形県の坂田から日本海側を通って
山口県の下関を経由し瀬戸内会を通って
大阪へと至るホームのことでえ分12年
すなわち
1672年に整備されましたよってその
西回り航路が整備される前において原理国
軍士に記されたような状況にあったと見る
のは不審であると青木氏は述べているの
ですえこの指摘には思考すべきところが
ありますえただし2つ目の米印で引用した
吉田はめ氏の指摘を考慮に入れると芸備
国軍士が書かれた頃にに道崎が中国や東南
アジアの船に積まれていったという話を
完全に否定することもできないのではない
かと私は考えています吉田は氏は江戸の酒
作るうる味わうの第6章貿易外交と酒の方
において長崎オランダ召喚の日記によると
酒の輸出開始は1650年頃らしい
1652年6月2日の記事に官が大阪に
注文し大阪から到着した船の積に同兵と
ともに酒200樽が含まれていると述べえ
また中略部では他にオランダ召喚付の
ドイツ人医師ケンペルが表した江戸産婦土
にの記事を紹介して天王寺の先は天王寺
諸白と呼ばれ有名だったが大阪崎が17
世紀の半ばから輸出されていたことは
間違いなく先はやはりトキシャムジワ
あたりだったらしいと指摘していますえ
つまり1650年頃には大阪の先が
オランダや東京シャムといった海外に向け
て提供されていたのです大阪とこの道とで
は都市の規模が全く違いえ大阪崎の輸出
状況を持ってこの道崎のそれを累進するに
はなお慎重な検討を要しますが芸備国軍士
の記述の妥当性を考える際に考になるかと
思い一言増えておきまし
たでは続きましてえかこ2の資料に移り
ますがあこちらは向か現象の放虫美容和明
本蔵という著作
です署名に含まれている本蔵とはえ今で
いう薬の学問のことで本書は広く飲食物に
関する事柄を記していますその中で酒の
項目において諸国の諸白や三原崎と並んで
お道崎も紹介されてい
ますこうした資料以外にお道の土地により
密着した資料も残っています例えば
レジュメ4ページ目のかこの3に掲げ
た亀山志向の小道思考はえ好道の地士でし
て文化13年1816年に成立した資料で
著者の亀山思考は道の町年寄にも務めた
ビゴの豪商ですこの資料によると当時の
小道には手家が11件あり内分は4件が
久保長4件が豊町3件が土道町にあった
ことがわかりますなおレジュメ5ページ目
の補足資料かこの2及びかこの3の防戦部
丸1もお道の作り酒屋の件数を上で参考と
なりますので適ご覧
くださいまたレジメ4ページ目のかこの4
に掲げた橋本年始には文正8年1825年
の記事においてえ防戦部のように全体お道
崎は古木名産に古座相老とありまして元々
お道崎は古くからの名産であったと記され
てい
ますただし米印で引用しましたが青木茂市
は新州小道市において防戦部のようにえお
道先は地元産業とは言いながら下半へ移出
する花形商品とまでは行かなかったので
あろうと指摘されてい
ますなおこの指摘に関しましてはレジュメ
5ページ目の補足資料かこの3の防戦部丸
2からも少なくとも金星後期においてはお
道だけのは小規模であったことが伺え
ますえ以上ああではありますが道先に
関する近世紀の資料を通時的に見ていき
ますと時代が下るに従ってお道酒の手状況
は小規模になっていったことが伺い
ますこうした歴史的な流れは現代における
お道先の状況にも反映されています4現代
のえお道酒のにりた資料には昭和39年
時点のいる広島の酒として172点の種名
が紹介されているのですがその中で当時の
道市のものは2点が紹介されるにとまって

ます一方でこうした全体としては加工傾向
の中にあってもかこの2に示しましたよう
に吉元守城さんや向酒店さんといった道
市内で古くから日本酒を取り扱っている
ところも現在わかながら残ってい
ます現在ではお道という土地からお先を
連想することはあまりないとは思いますが
かつてお道の顔としてお道酒というものが
知られていたことにえ思いを馳せながらお
道のお酒を飲んでみるのもまた趣きがあっ
て良いのではないでしょうか以上短い時間
ではございますがこれで発表を終わります
ご清聴ありがとうございます
それでは森本先生にお渡しし
ますはいそれでは時間になりましたので
再開をさせていただきます引き続き
よろしくお願いしますえそれではですねえ
私経済情報学部の森本と申しますえっと
日頃はですねあの道の経済の話ま江戸時代
の専門明治もちょっとかかるぐらいの専門
なのでえその辺りについて勉強している
ところでございますま住んでる方の方が
詳しいかもしれませんけれどももし間違っ
たこと言ったらご教授くださいはいえ私は
ですねそちらにお手元にお配りしており
ますようにメディア化されるお道金星から
近代に見るというタイトルでお話をさせて
いただきますで道の街のイメージ先ほど
藤本先生のお話にもありましたが私はま
いろんなな映像ま画像ですね画像資料を
使って次第にメディア化されていく過程を
金星近代の資料を中心に紹介をいたします
あ前に発表された藤本先生吉田先生のお話
を受けてなるべくそれとリンクできるよう
な形でお話をしてまいりたいと思いますで
今日画像使いますがちょっと前ちっちゃい
かもしれませんので皆さんにお配りした私
のプリントの3枚目から5枚目に今日使う
画像資料ま著作権はオケですよというもの
だけあのご提示してございますので見
にくかったらそちらの方をご確認
くださいよろしくお願いしますはいそれで
はですねまず1番目お道の歴史概略をま
金星近代にかけて中心にえ説明を説明と
いうか紹介をしておきたいと思いますま岩
と入れた1番目古代中世にはま所要な寺院
を中心に混流がなされビゴの国大田省の
倉敷地として小道が公認の港となったこの
1169年を期に小道の港町としての
ストーリーが始まりますでえ引き続きもう
すごい飛びますが2番目金星になりますと
これは広島班という班の管轄家になりまし
てえ小道町部業所が置かれますま当時町業
所が置かれたのは城下広島そして小道宮島
とその3つぐらいしかなかったのでま非常
に広島班が小道を重要な拠点として考えて
いたということがよくわかりますそして
主要な産業ま営業ですねあの向島の富浜
エデとかああいう遠慮が非常に盛になった
そしてえその他石先ほど吉田先生の資料に
ありましたが一式ですとかま営業労働者が
思考のために求めたまお酒ですとかそう
いったものを中心に様々な産業が発展を
いたしましたそしてえ北前部え回線が気候
することでさらなる成長遂でおりますで港
の影に隠れて忘れられがちですが実はま
西国街道の重要な駅としてもえ整備をされ
て発展をしますつまり人者情報文化の主要
な拠点として発展をすることによって
さらにですねえ港として豊かになって
まいりますさて時代を進めて3番近代です
ね近代になると本藤本先生のお話の中に出
てまりましたが明治24年ですかねえ日進
戦争の開始の前に下席までになんとか鉄道
しかないといけいけなかったのでそれに
合わせて山陽鉄道が不折されますあ街が
分断されることについてはかなりあの町の
中で賛否両論別れて激しい闘争があった
伺っておりますま各して鉄道が敷かれる
ことになりましたそしてさらに金融機関
ですね第66国立銀行というま今の広島
銀行の前進となる銀行がこちら道でお商人
の株式を中心に設立をされますま全国で
66番目に設立された国立銀行まただ国立
って言ってもナショナルバンクではなくて
商人とかそういう資産を持った人が立てた
銀行のことでございましたそれから住友
銀行の視点とかですねそういう重要なま別
道山が向かい側にありますからそちらの方
とあの資金的にも延長できるような形で
設置されておりますで観光業観光という
言葉がまできるわけですね観光業が具体的
に始まっていきさらには造船業が発達し
ますまこの辺りはビンゴクラスターと申し
ましてま造船でかなり力を入れている地域
ということもあってえ造船業も発達を
いたしましたで近代は海陸両面における
さらなる発展新たな産業による発展という
ことが言えるのではないでしょうかただ
ですね発展と申しましても一体どれぐらい
のじゃあ成長ぶりだったのかということが
なかなかその何かメルクマールがないと
分かりにくいですのでえ下に表をご用意
いたしましたちょっとりづらいので
ちょっと一緒に聞きながらご説明をいたし
ます聞きながら見ていただければと思い
ますで江戸時代の中期から明治時代初期の
ま機内瀬戸地域の人口の推移を示した表と
なりますで1番左側見てくださいこれ国名
を書いてますね川泉節A節Bそして私が
オレンジで囲んであるところビゴ秋これは
現在の島県ですそしてスこれは現在の山口
県東部となりますでこの表で私は何を言い
たいかと申しますと方6年1721年どれ
ぐらいの時代か皆さん大体想像つきますか
ね今八大将軍徳川義の頃です昔ね暴れん坊
将軍とかいうドラマがありましたけれども
あのちょうど真ん中ぐらいですねえは全で

人工調査を開始いたしましたでそこから
ですねえ例えば分かりにくいのでビゴお道
の入っているビゴというところだけ数値を
見てくださいえ今方6年のえ人数の指数を
これ初め100とした場合え次関西10年
1798年にはちょっと下がるんですけど
98.2%になるんですが続けて店舗5年
爆発ですね1834年には
112.4それからえっと明治5年明治の
初めには
[音楽]
が発展していたところですでそこは
もちろんそっちの方が人口的には多いん
ですがこのま比率ですね増加率だけを見る
と瀬戸の方がかなり多くなっているという
ことがお分かりいただけるかなと思います
さてえこういう形でですね地域経済が
やはり好道を含んだ地域経済瀬戸地全体の
経済が発展していたことも伺えるのでは
ないかと思い
ますはいちょっと早口ですがえそれでは
こういった歴史的特徴背景としてま今日の
私の本題に入りましょうまず近世後期の
好道がですねまどのようにじゃあメディア
化されていたのかを金星後期の気候文を
参考にしてお話をいたしますえ今日使うの
が丸1天明3年
1783年にビチの国生まれた文化人で
あった古川は故障券という方が書いた最優
雑器という気候文でございます先ほど辻本
先生のお話にま江戸時代の観光は気候文
から始まるんですよという風なことがあり
ましたがえそのことをまさに指しており
ますでただしですねこの度出た新小道趣旨
の方でも書いてあるんですが小道は通過
拠点つまりあの山陽度の通過拠点という
こともあって実は時代の道に滞在して
じっくり書かれたものについてはまそれ
ほど多いわけではございませんでその中で
もこの故障件はあしっかり書いている方
ですので今日お話ししたいと思いますはい
2枚目を開けて
くださいでたくさん実は古川故障券はま
当然小道だけではなく瀬戸九州にあの行く
え道中のことを書いてありおりますので
そこでよった珍しいものをで書いてますで
小道について書いている1部分を抜き出し
たものについて上にえ記しておりますが
まず大阪より赤間関下関ですねまでの間で
は第地の津であるということですま大阪
下関には及ばないんだけれどもその中では
いい港ですよということですねそれから人
47かいずれも良き寺なりとま寺を絶賛し
ておりますま西国時さ上土時さ先行時さ前
時さ大3時さえ少女治産浮身堂などを特に
もう称賛して書いているんですねそれから
先ほど藤本先生のえ中でも出てまいりまし
たが玉の裏の故障の由来が必ず書いており
ますま異国の人がその玉をまちょっと盗ん
でですね持っていってしまったていうこと
それが書かれていたりそれからみで天満宮
さんの由来これも必ず書かれておりますえ
ただしですね古川故障権という人がこれ
まで中世のそういうえ風景を描く人と全く
異なるところは批判をしているという
ところがありますますごい詳細がするん
ですが一方でその状態を見てえ批判も
ちくりとすると例えばまただし仏の道に
ついて今は民家の財宝を取りて事故の食分
と心得憎むべきものならずやとまあの
ちょっと民家のえ人々の財宝財産を取って
ですねで自分ところの宅として寺を大きく
しているんじゃないかとかそういう風な
こともね書かれておりますで向島というも
余計天田にて向島もたくさん魚を取る人
魚取りを制御としている人が多いんだと
いうそういったことも書いてます
あさてここでですね少しえ画像の方をご覧
いただきたいと思います皆さんのお手元の
4枚目にも同じ資料ございますのでもし
分かりにくかったらそちらをご覧ください
えっとこれは国立性公文書館東京にあり
ますえ国立公文書館のデジタルアーカイブ
ですあのホームページ見られますのでお家
に帰って見てくださいこれは別にあの誰で
も見てもいいですよということでしたので
えこのようなのがえ左右雑器ですところが
ですね故障券の書いたものというのは残さ
れておらずえ車本です全て社本なんですね
こういう形でちょっとこれ飛ばしますがえ
関西12年ですかね移すと書いてますこれ
を移すと書いてますで色々ま巡っていき
ますという中ではいこちらが小道のえ風景
ですねま山々があって前に武島があってま
消化が並んでというちょっとかなり山を
デフォルメした個性的な絵ですがこういう
形でえこの人は社本をしていますこういう
引きのめというかですねあの俯瞰で見る
風景というのがえっと時代には絵画で書か
れるようになりましてこの社本がそれを
伝えてくれていると思いますそれからま
ちょっとえ省略しますがこちらはもっと
違う人が書いた本ですがこちら見るともう
少し射術的な絵になっています同じところ
ですけどもねちょっと続きていきますねで
これなんかはちょっとこう南画フと言い
ますがあの水木がチックに書いてると
かこれは木々とかですね岩とか道とか
もっと射術的に書いていると
かでこれになるとかなり円形に書いている
とかも社本でもその書人によって文章は
一緒なんですが書人によってこれだけの道
が出てくるということになるのがま社本の
面白さではないかなと思い
ますはいそれでは続けてえレジュメの方に
戻っていただいてもう1人え道江戸時代に
お道を見た方ご紹介いたします文化人では
ないんですがま北前船商人であった山と
いう佐の国の証人が見た小道について丸2
のところで説明をいたしますえまずですね
ちょっとまあのさらっと読んでいき
ましょう天寧寺さんについて石山の中に
立ちたるゆえひしを
見事30十の応答ありとで先行寺さについ
ては座敷など見事にしてよきかかりなり
敷物も見事沖の方に小島宮渡り至りて絶景
なりとで岩の上にに混流接し寺ゆえ景色
一目を驚かし次のとこですね大江の石山と
いうともこの辺りの寺の経には鹿地と思わ
れるとま大美の有名な石山というお寺が
ありますあれも千光寺さんと同じく石の上
にできたお寺なんですけどもそこから
眺める景色よりもこちらから見た景色の方
が下女にいいということで絶賛をしている
わけですねで同じように玉裏のの由来溝で
天満宮の由来も故障言と同じように書いて
おり
ますさて
え北前船商人ですのでこれまでの文化人と
違うのはやはり町のこと商人のことについ
ての記録があります下見てくださいえ小道
の町についてどういう風に書いてあるか
過去大いにしてよしきとちなりま非常に家
が大きいと消化が大きくっていい土地だと
いう感想ですねで家数およそ4000件
ばかりこれあるよすこれちょっと調が入っ
てると思うんですが非常に多いということ
を絶賛してるわけですねえとりわけこの
時代に対当してきたハイヤのこれ橋本
吉兵衛という方のお屋敷を見て驚いており
ますま2階座敷なりおよそ畳670条も
引け申すべく愛見え至りてひきもなりま畳
1条のさがちょっとよく分かりませんが
それでも67条ばかり引けるぐらい
でっかい座敷があったんだということで
驚いているでえ橋本ケベさんご本人に対し
てはえ例えばタロッ2000国ばかりも
これあるよしま1万国いたらもう大名です
からねで酒と7の他金銀多く差し引き
いたすまこの人第66国立銀行を建てた時
の第1筆頭株主でしたえ元々やはりあの業
ですねそれを営んでいた人ですでお道1番
のものとか好道で1番大きな消化なんです
よで柏も2000件あまりこれあるよし
ハアの元締めをいしそろよしサエとモス
茶の湯屋敷久保町にこれありとこれ今も
ある将来権ことですねこういうことが書か
れており
ますまつまりま金星後期お道を訪れた人々
がまお道の警官ととかま経済的な特徴を
こういう風に記録すること要するに
メディア化することによって次第に道の
イメージが形成されていたのではないかな
と考えられるわけ
ですさてそれではえちょっと時間かりませ
んので時代を進めましょう3番に移ります
まこちらから私もはレジメ見ずにですね
こちらの画像を見ながらお話をしますので
皆さん適宜プリントの方をご覧ください
これ将来件ですね私が撮ってきたものです
がお茶の湯茶の湯をするために建てられた
お屋敷3円と申しまして商人の別荘値で
ございましたまサロンですね文化サロンと
でも言うべきもの
ですんあすいませんこちらですねえそれで
は明治時代に入るとどういう形でお道が
ビジュアル化されていくのかま特に今回は
商業情報がビジア化されていくというと
ところを中心にお話をしたいと思いますあ
こちら前にあの提示いたしましたのは石川
県加賀市北前骨の里資料館に保存されて
いる引札でございます道商人が科の国の
商人に対して出した引札ですねでまこれを
見ますとえ例えば手前北前船だと思います
それから向こうには黙々と煙を出した蒸気
線がありますま明治ジックですねで真ん中
の方には西洋型の反戦白い方を立てた反戦
が酸素ありますこれも明治チックですね
それから後ろの方には所せまと並べられた
罪にでその前で狭しなく働く人々で生前と
を立ち並ぶ白壁の倉庫というまこれが小道
ですそしてそれがバックの小道山座に守ら
れているという非常にこうあの絵画でも
ありまた商業情報も含んでいるこんなに私
が住んでいる土地は賑わっているんですよ
というのを言葉ではなくもう視点でという
か見ただけで分かるというこういうのが
引札の役割でした引札というのはあの
チラシですね自分のお家お店を宣伝する
チラシのことです
はいそれでは続けましてちょっと急ぎます
がこちらはあの同伴画で作られたビンゴの
先駆というビンゴ地域ま福山とか松永とか
好道の買い物ガイドブックが明治16年
1883年に作られます私のプリント5
ページに同じものがございますのでま
そちらをご覧いただいてよろしいでしょう
かでえ松から明治にかけてこ同伴画の技術
が大阪を中心にかなり広まっておりまして
これも大阪ですられたもの
ですでやっぱこういう美術会のあの新たな
媒体がこういう道をさらにビジュアル化
するそしてそれが洗礼となって全国に行き
渡るということがあったよう
ですちょっと見てみましょうえちょっと
遠いと見えないんですがこれあの久にある
カ法子さん今でも営業されてますねその
ままそのものという商品がございます
がそれからこれがあの住吉浜ですね住吉
神社さん今は道路に向かって
え入り口ありますが昔は海の方に入り口が
ありまし
たまこういう風なですねえこれがこちらの
お店も今ありますね野田天馬屋さんという
お薬屋さんですで看板のところをちょっと
ご覧いただくと
完成ごめんなさい環境ですね環境調合書と
ありますえっと時代までは薬はま誰でも
作れるものだったんですけども明治になっ
てから政府がまきちんとした調合で作り
ましょうというお薬のですね今日与えとで
小道はこの方のお家今でもありますねあの
市役所の近くにありますが野田天馬さんが
1番最初にその許可を与えられたお水と
いうことでえ有名ですこのようにきちんと
明治16年の段階ではえ乗せている乗られ
ているわけですねそれから私が面白いなと
思ったのはえこの鶏肉業のお店ですえ小道
新地江戸菊こと大江きさん江戸菊というお
店で大吉さんという方が経営されてるん
ですけども
あのまあ多分新地ですからま優勝ですね
そういったところで例えば小道に入ってき
た商人たちを接待する場所に使われてたん
じゃないかなと思いますもこう3階建ての
ま空風というか東洋風のエキゾチックな
建物がですね鬼はもきちんとついていて
そしてえちょっと端っこの方でですですね
あの鳥たちが話がにされててこれ多分閉め
られるんだと思います今からこう閉めてで
あのこれさっき閉めてきたやつですって
あの出されておいしくいただくというね
そういう情景が館の中では行われていたん
だろうと思いますとかねこういう形で
どんどん道の街が商業所を化していくわけ
でございます
はいでちょっと商業情報にプラスしてえ
これは皆さんのお手元にはございません
こちらは小道
商人から買った商品が北前船商人を通じて
売られていくというそういう仕切り場です
これあの残念ながらですね今回の地震で
和島市の角というちま開してしまいました
けれどもあのそここの北前船商人加さんと
いう方が好道に入ってきたお道の砂糖です
ねそれを買ってえ島正太郎さんという新潟
の少年に販売した文字なんですが小道白里
って書いてますただし小道には白里が生産
されているわけではないんですねですから
きっと舟が小道白里っていう名前で販売を
すること要するにブランディングすること
で商品自体に信用をつけているで日本海側
の人はそれを見て青道という地名がついて
たらま信用に至る商品だということで高値
で買ってくれるというもう商品自体が
メディアになるというそういう現象が明治
にはございましたまちょうど北前部で全盛
ですねこの後もダメになってしまうんです
けどもはいそしてえ最後のところです
がませ時間ちょっと食ってしまって申し訳
ございませんえ最後にその後のメディア化
の1つの事例として明治後期から対象期に
かけてのえはがきですね江はきによる
ビジュアル化というのがありますま日代
戦争後の戦勝記念を記念して江はがきは
日本全国に流通し始めることになりますが
郵便制度の発達と合って
え一気に広まっていきますまちょっとこれ
も徐々に紹介して私の最後のページですね
例えばこちらの絵書き明治抗議から対象6
年ぐらいにえ撮影された小道ステーション
です停車団ですねま今の小道駅ですがま
あの今はタシがずらりと並んでいるんです
がこれは人力者ですね人力者がずらりと
並んでいてとこのせまと並んでいるとでえ
次にこれが停車場前の通りこれ今でもあの
サフロよくいた地形がありますよねえ看板
には名主ですとか住友銀行とか野田天満屋
さんの看板がここにござい
ますそして近代を代表する風景といえば
先ほど辻本先生のお話にもあったようにま
蒸気機関車ですまこの鉄道が敷かれたこと
によって蒸気機関車が走っていますで海で
も船がどんどんえ入ってきてますダブルで
発展してますとそういうことをメッセージ
として伝えられているんだと思い
ますはいでええそれにプラスしてですね
こういう絵はきの中でこれ戦後ですね戦後
の絵はきになるんですけども観光の好道と
いう言葉がつけられたりと
かあこれごめんなさいその前ですねえ昭和
初期ぐらいなんですが堂々たる小道停車と
いう写真の中に小道ステーションのえま
慶王字がつけられる堂々たっていうそう
いう風に常識が出てくるわけですね
だこれもそうですねこれ戦後だと思います
が躍進する躍動する好道行という形で
はがきでメッセージを伝えてますごい港
ですよということをま全国に知らしめて
いるということが分かると思いますこれも
そうですね薬新のおちま上前で栄えるよう
になった戦後の風景だと思いますはいこれ
現在の道ですねはいすいませんちょっと私
の長くなって申し訳ございませんで
ちょっと駆け足してきたのでまたあのお
手元の資料お家に帰ってご覧いただければ
と思い
ますさてえそれでは最後のところご覧
くださいえまとめのようなところなんです
が道はなんとかの町というイメージはま
警官とか地域経済の変遷と共に形成されて
きたま歴史的なものだと思いますだから
小道はなんとかの街というなんとかに入る
言葉は自社道水道の風景商人文化観光産業
これがま金星近代に作られたイメージでは
ないかと思いますまその後に坂文学映画と
か猫とかサイクリング秋夜再生とかそう
いったものが多分生まれるんでしょうでえ
近世には存在していたけれどもその後お道
のイメージから亡くなってしまったものも
あるとそういうお話であったかと思います
のでえ少し私の方でちょっとまとめ方とし
てこれでいいのか分かりませんが2人の方
に私の話を受けてですねちょっとあのご
質問を振っておわりにしたいと思います
よろしいでしょう
かはいちょっと私のお話の中で金星近代と
いうえ時代をお話したんですがまず藤本
先生のお話では例えば青空文庫だったり
観光ガイドブックだったりま戦前のえ新聞
資料とか通じて言語媒体通じてお道を検索
されてましたが近現代の好道というえ印象
を受けましたでその近現代の好道というの
はま一体どういうイメージを持つ町として
捉えられていたと先生はお考えになります
かはいえっと近現代の資料でま言語学的な
ことを言いますと一緒に並べられる街の
サイズが今より大きいですですだから広島
こうおとかいう風にこう並び立つ街の
サイズを測るには何と何が並んでいる
かっていうことも結構言葉の面では
ポイントになってくるんですねこれあの
イメージしていただくとりんごバナナって
いう風に並べる時は同じような果物を
並べると思うんですけれどそのサイズが
こうお道と一緒に並ぶものがちょっと今
並んでいるものよりは大きいものと並んで
いくっていうのが1つ特徴としてありまし
たあとはやっぱりあの華やかでそして商業
が非常にこう全面に出ているっていうこと
がまあの今ももちろんここありますあの
商業会議所のように商業があるわけです
けれども現在のこう観光ガドなどではこう
見落とされているようなところが結構力を
持ってあのま内側から溢れ出てきていたん
だろうなということが分かりますはい
ありがとうござい
ますはいありがとうございましたそれでは
同じように吉田先生の方にもちょっとお
伺いしてもよろしいでしょうかはいであの
今江戸時代の話もしましたがまかつては道
の顔としてブランドであったお道酒ですが
まそれが今ではそのおかをわずかしか残さ
ないということでしたでそれはどうして今
に至るまでえ減少されてきたのかなという
ことをお聞きしたいと思いますがよろしく
お願いしますはいえま小道たがこう衰退し
ていったその理由背景ですけれどもまあの
複数のあの理由があると思われますえっと
まず大前提としまして江戸時代えのその手
状況というのは幕府によるあの統制規制が
かかっておりましてまあの例えば1750
年とか1800年ぐらいはあのたくさん
作っていいよという期だったんですけども
それ以外の時期というのは基本的にはあの
上限を定めて規制を設けるというまそう
いう姿勢があったのであのたくさん作り
すぎることはできないというのがまず大
前提としてありますそしてあと近代に入っ
ていきますとあの日本酒以外にもビールと
かえワインとか焼酎とかウイスキーとか
あのいろんなお酒が入ってきますのでま
そういったあの入ってくるてま本格的に
作られるというそういう状況になってき
ますのでまそうしたあの他のお酒との中で
の競合というのもの日本酒がこう押されて
いった要因の1つかなと思いますそして
あのま好道というところにあのより密着し
て考えてみるとえっと今回りしたレジュメ
の5ページ目の補足資料のところのえ特に
かこの3の資料これが結構面白い資料だな
と私は思っておりましてえ5ページ目3
ですがこの資料何かと言いますとえっと
関西4年
1792年の2月付けでえ出されたえっと
ま門上になりますでえま総論文で書いて
ありますので皆さんはあ6ページ目の右側
の方に現代誤訳載せておりますのでそちら
をあのご覧
くださいでえっとこの文字の内容を見て
いきますとあのま主のかや神門という人が
えっと他の軍からま酒これあのお酒を作る
ためにはあのそう許可が必要なので先覚と
いうのが必要ですでそれをあの他の部の
ところから買い取って新しくその酒作りに
あの新規参入しようとしているまそういう
状況があったのに対してえま既存のえ小道
の酒屋がそれはやめてくれというような
ことをあの待ちよりにあの訴えているそう
いう単眼症ですでえ防戦を2つ引いており
ますがそのうちのまず1つ目を見ると
えっとま強行年中ま1716から36年頃
にはすでにお道に20件その作り酒屋が
あっていてそれはあの多すぎますのであ多
すぎるのであのやめてくださいというよう
なあのこれ以上件数がついちゃうと私たち
困りますていうそういうあの一体をしてい
ますでまつまりこう保守的なあの内向きな
あの姿勢というのがあの1個あのみの衰退
のよになってるのかなと思いますそれから
あと防戦の丸2のところですがここはです
ねえっとま道のそのお先作る際に井水を
使っていてでそこの井水を使うことでま
多くの費用がかかってしまうというまそう
いう金銭的なあの問題というのもあの書か
れてありますえまお酒作りにおいては水と
まそれからあお米とか大事になってきます
けどもその水や米をどういうところから
仕入れて使って行くのかというそういった
問題もおそらく
好道という土地においてはあまりこうあの
うまくいかなかったそこら辺があの小道崎
がこう衰退していったま1つの要因かなと
いう風に考えています以上
ですはいありがとうございました

令和6年2月28日に、「尾道の「顔」-町としてのイメージ形成-」研究会による公開研究会を実施しました。
当日の様子を公開しますので、ぜひご覧ください。

0:00  オープニング
6:20  藤本真理子准教授による講義「言語資料で見つける「尾道」の顔」
31:15 吉田宰講師による講義「尾道と酒ー近世俳諧資料を手がかりにー」
47:05 森本幾子教授による講義「メディア化される「尾道」ー近世から近代に見るー」

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