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教訓伝承の担い手 能登地震後の思い 「生かされていなかった」葛藤も「継続が近道」 #知り続ける (24/03/09 08:30)



教訓伝承の担い手 能登地震後の思い 「生かされていなかった」葛藤も「継続が近道」 #知り続ける (24/03/09 08:30)

震災13年未来につぐです被災地はこれ まで各地で教訓を伝える活動が続けられて きました野半島地震という大災害が起きた 後も伝承の担い手たちは未来の防災に つがることを信じて活動に向き合い続けて い ますあんなに大きな揺れが来て3mのはず なよねっていうことを話しながら避難をし ていった記憶があります停電なの 来大学卒業後から4年間ガを務めてい ますこの日は全国の観光地域づり法人に 務める人た に中学生一緒に手をついでこのように歩い て避難をしていきまし た近に立石中学校の2年生だった川崎 さん学校で行われていた防災学習や訓練の 成果で地震後すぐに避難を始めましたここ で私自身も初めて津波を見ました街が どんどんこうなくなっていくというか壊れ ていく光景があまりにも衝撃的すぎてです ね理解が追いついていかなかったんですよ ねと文字通り頭が真っ白でし た あの日パニック状態になりながらも坂道を 登った川崎 さん学校にいた570人の子供たちは みんな高台に避難できましたもうやっと ここまで着い てほっとできたというかすぐに行動に移せ たっていうのはやっぱり日頃の訓練の おかげだったりとか教育の授業のおかげだ な直後 からこの避難 行川崎さんはこの施設唯一の体験者として 3万人以上の人に壮絶なあの日を伝え続け てきましたに関してうと ずっと当時をこう振り返りながらお話して いくのも意外とこう体力を消費するという か予定はずっと先まで埋まっててっていう のがあるとあちょっと大変だなと思う一方 でお話聞けてよかったですっていうような ご感想いただけると前向きな気持ちには こう変換することは都度できてるかなと 思い ますそんな川崎さんには胸を痛めている 出来事がありました元日のの半島自身 です死者の人数がこう更新されていく犠牲 者がどんどん増えていくっていうのが結構 苦しくて毎日毎日いろんな方々に情報発信 していたのにそれがなかなか生かされて なかったっていうのこう突きつけられてる ような気がし て時には葛藤も伴う語り部の 活動そうした活動の担い手が全国から集う シンポジウムが先月宮城県南三陸町で開か

れ川崎さんも参加しまし たここでも半島自身が話題に登り ます学び何を伝えていくのか今現在も現在 進行系で問われています行政とか学者が いくらえ言っても研究をしてもなかなか 変わらないことが親戚の話でえ地震保険に 入るっていうコドに出できるということ 伝え方1つっていうかマインドの部分でえ なんかもっと私たちはできることあるん じゃない か この から日々感じていることを率直に語り合い まし たなんでその話してる途中にこう寝ちゃう 人がいるんだろうとかななんかそうはい つまんなそうだなっていう人をこう見かけ た時にやっぱりこう興味を持てる授業が できてなかったりと か淡路島に生まれ阪神淡路大震災当時後2 か月だっ たんつ語である父親の響で自も語りとなり まし た語活動ライブ配信で行い始めたんですが はいあのいかに興味関心がない人に興味 関心を持ってもらうことが難しい か悩みを共有する一方伝承や防災をみんな で前向きに捉えることが大切という意見が 多く出されまし たるい未にするための話をしてるから本来 は楽しく明るい 話同じ活動に取り組む若者同士の交流は 互いの励みになっていまし たでれるのはすごい嬉しいありがたい機だ なと思はいこちらこそでございます本当 に今てちょっと若い子少ないのではい 嬉しいです分 もりだったりとかあるいはその大事なこと をこう再認識することができたと思うので 改めて自信持ってお話し続けたいなという 風に思いまし た震の年からあしなかったんですねてい たに崎さの姿があ祈りのパークという本当 に小さい子からお年寄りまでの本当泣き声 叫び声悲鳴っていうのがこうすごく聞こえ てきてましたし学校の中にいた生徒たちは はこのように助かることはできました学校 での防災教育ってすごい良かったよね役に 立ったよねっていうことも言い返ることが できるかと思い ます熱意のこもったその言葉は全国から 訪れた人の心に響いていました今日は自分 親としてあの今後ちょっとこの今回のお話 を子供たちにも共有できたらなていう風に 思いますかね彼女みたいな存在がいること

で私たち もその長崎に戻った時にこういうことんだ よっていうのを伝えていけるのですごく ありがたいなと思いまし た元日のノ半島自身を巡っては川崎さんが 注目する出来事がありました鈴の三崎地区 では日頃から訓練を行っていた成果で住民 が迅速に津波から避難できたのです教訓を 生かしてやっぱり助かったっていう人たち もいるんだっていうのがすごく私にとって はこう希望というかま今回助かったような 人たちがまたどこかで生まれてくれること をだけをこう信じて何より継続していく ことが1番の近道だと思いますので私たち も頑張りますので是非ここに来ていただい てそういったところもこう感じ取って いただけたらなという風に思い ます勝活動を始めて4年葛藤をえることは ありながら もん地にあの日の教訓を語り続けていき ます

東日本大震災から13年。被災地ではこれまで各地で教訓を伝える活動が続けられてきた。
能登半島地震という大災害が起きた後も、伝承の担い手たちは未来の防災につながることを信じて活動に向き合い続けている。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「あんなに大きな揺れが来て(津波が)3mなはずはないと話しながら避難した記憶があります」

岩手県釜石市の伝承施設・いのちをつなぐ未来館の職員・川崎杏樹さん(27)は、大学卒業後から4年間ガイドを務めている。
この日は全国の「観光地域づくり法人」に勤める人たちに、“あの日の出来事”について伝えていた。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「小中学生一緒に手をつないで、このように歩いて避難した」

震災当時、海の近くに建つ釜石東中学校の2年生だった川崎さんは、学校で行われていた防災学習や訓練の成果で、地震後すぐに避難を始めた。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「ここ(高台)で、私自身も初めて津波を見ました。町がどんどんなくなり壊れていく光景があまりにも衝撃的すぎて、理解が追い付いていかなかった。文字通り頭が真っ白だった」

あの日パニック状態になりながらも坂道を登った川崎さん。
学校にいた570人の子どもたちはみんな高台に避難できた。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「やっとここまで着いてホッとしたというか、すぐ行動に移せたのは日頃の訓練や防災教育のおかげ」

直後から全国的に注目されたこの避難行動。
川崎さんはこの施設唯一の体験者として3万人以上の人に壮絶なあの日を伝え続けてきた。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「ずっと当時を振り返りながらお話しするのも意外と体力を消費するというか、予定はずっと先まで埋まっていて、ちょっと大変だなと思う一方で、『お話聞けて良かった』って感想をいただくと前向きな気持ちには変換できていると思う」

そんな川崎さんには胸を痛めている出来事があった。元日の能登半島地震だ。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「死者の人数が更新されていく、犠牲者がどんどん増えていくのが苦しくて、毎日毎日色々な方に情報を発信していたのに、なかなか生かされてなかったっていうのを突き付けられているような気がして」

時には葛藤も伴う語り部の活動。
そうした活動の担い手が全国から集うシンポジウムが、2月25日に宮城県南三陸町で開かれ、川崎さんも参加した。ここでも能登半島地震が話題に上る。

宮城・南三陸町の語り部 後藤一磨さん
「何を学び何を伝えていくのか、今も現在進行形で問われています」

大川伝承の会(宮城・石巻市) 佐藤敏郎さん
「行政や学者がいくら言ってもなかなか変わらないことが、親戚の話がきっかけで地震保険に入るという行動に出られる。伝え方一つ、マインドの部分でもっと私たちはできる部分があるのではないか」

この日、川崎さんは次世代の伝承を考える分科会に登壇し、日々感じていることを率直に語り合った。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「何で話している途中に寝ちゃう人がいるのかなとか、つまらなそうだなという人を見かけたときに興味を持てる授業ができていなかったりとか」

淡路島に生まれ阪神・淡路大震災当時生後2カ月だった米山未来さん(29)は、語り部である父親の影響で自身も語り部となった。

阪神・淡路大震災の語り部 米山未来さん
「語り部活動をライブ配信で行い始めたが、いかに興味・関心がない人に持ってもらうことが難しいか」

悩みを共有する一方、伝承や防災をみんなで前向きに捉えることが大切という意見が多く出された。

福島・浪江町出身(宮城で活動) 清水葉月さん(30)
「未来に対してすごくポジティブな明るい未来にするための話をしているから、本来は楽しく明るい話」

同じ活動に取り組む若者同士の交流は互いの励みになっていた。

阪神・淡路大震災の語り部 米山未来さん
「こういう会でつながれるのはすごくうれしいし、ありがたい」

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「岩手はちょっと若い子が少ないのでうれしいです。自分自身も新たな気付きや発見、大事なことを再認識することができたと思う。改めて自信持ってお話し続けたいと思った」

その2日後、釜石にはガイドに当たる川崎さんの姿があった。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「小さい子からお年寄りまでの泣き声・叫び声・悲鳴が聞こえていた。学校の中の子どもたちは助かることができました。学校での防災教育ってすごくよかった、役に立ったと言えると思います」

熱意のこもったその言葉は全国から訪れた人の心に響いていた。

広島から来た人
「自分も親として今回の話を子どもたちに共有できたらと思う」

長崎から来た人
「彼女みたいな存在がいることで、私たちも長崎に戻ったときに、こういうことを学んだよって伝えていけるのですごくありがたい」

元日の能登半島地震をめぐっては、川崎さんが注目する出来事があった。

珠洲市三崎地区 出村正廣区長
「『津波って言われたら集会場』って合言葉があったもんで」

珠洲市の三崎地区では日頃から訓練を行っていた成果で住民が迅速に津波から避難できたのだ。

いのちをつなぐ未来館 川崎杏樹さん
「教訓を生かして助かった人たちもいるのが、すごく私にとっては希望というか、今回助かったような人たちが、またどこかで生まれてくれることを信じて、何より継続が近道だと思いますので、私たちも頑張りますのでぜひここに来て、そういうところを感じ取っていただけたら」

伝承活動を始めて4年。
葛藤を抱えることはありながらも、川崎さんはこれからも地道に“あの日の教訓”を語り続けていく。

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