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上高津貝塚ふるさと歴史の広場 第26回企画展 記念シンポジウム「霞ケ浦の前期古墳と地域社会の成り立ち」 講演1 滝沢 誠 氏(筑波大学教授)「王塚古墳・后塚古墳と霞ケ浦周辺の前期古墳」

皆さんこんにちはえ今ご紹介いただきまし た筑波大学の滝沢でございます えっと本日はですね このシンポジウムのテーマでございます 霞ヶ浦の前期興奮と地域社会の成り立ちと いうえことのまず最初の講演といたしまし て え私がですね今ご紹介いただいたようにえ 近年調査しました土浦市の大塚古墳と木塚 古墳の調査の成果についてえまずお話をさ せていただいてまそれとですねえ周辺にも 似たような前期いわゆる前期古墳と言わ れるものがあるもんですからあそれらを 含めてえ今回の調査成果も含めてどのよう なことが考えられるのかあという点につい てまあこの後ご講演いただく先生がのお話 にもつなげる意味で少し問題定期も含めて お話をさせていただきたいと思いますえ ちょっと危機の操作との関係で座ってお話 をさせていただきますご容赦 くださいえそれでえ今あの画面に移って おりますがお手元にはあの今日の資料が 配られておりますちょっと小さいで小さい 字で書いておりますので見にくい点も あろうかと思いますがあそれとですね画面 の方をご覧いただきながら聞いて いただければと思いますで今あの画面に 写っておりますのが少し上空から取った 大塚古墳と木塚古墳のある大地であります えこれだと古墳がどこにあるのか分かり にくいですがままた似たような写真が 後ほど出てまいりますけども大塚古墳が この辺りえそれから木塚古墳がこの辺りに ございますえ手前がちょっとデザイン的に こう波のような形になってますけども こちら側が霞ヶの側ということになります それで具体的に地図の上で見るとどのよう な場所にあるかということでまずこの大塚 古墳と木塚古墳に一億ですね確認しておき たいと思いますえちょっと見にくい地図か とは思いますがえこの画面のですね右下の 方に少し水色になった部分がございまして えここが霞ヶ浦のいわゆる土浦入りという 風に言っているま霞ヶ浦が北星方向にえ2 つの大きな入江を持ってますけどもその うちの南側の入江土中 の1番奥まった場所ということになります え現在の土浦市街地がこの地図の真ん中の 下ありの部分ですね土浦駅があったり土浦 城があったりしますでそこにまつばさの 方向からずっと流れ込んできた桜川という 川が流れてえ霞ヶ浦の土浦入りに加工を 開いてるわけですけどもその霞ヶ浦の土浦 入りの北側の 大地のど蹴りの部分にですねえ今からお

話しする大塚古墳と木塚古墳があ2期 大きな古墳が並ぶように作られていると いうことですちょうどこの位置になります ここですねそれからま後でまたあの少し出 てくるんですがえここから 少し北星方向に離れたやはり同じような第 1のヘにですねまこの辺りはチラシのひと 言っているですけどもそこにもひな天神山 古墳というえこれは70mを超えるような 前方公園墳でしてえこちらも今日お話し するですね大塚古墳と木塚古墳と同様に 前期の古墳であろうという風に考えられる 古墳 ですでさてこの大塚古墳と北塚古墳です けどもえさらに近づいてみますとこんな風 にですね先ほど最初に出てきた写真はえ こちらの方向から少し上空から撮った写真 ですけどもえ真上から見ますとこんな様子 ですえ大塚がこの辺り木塚がここなんです がえこれをまちょっと地図で見ますと こんな感じで えあるわけですで今あの右側の方にですね それぞれの測量図が示してありますけども えこれはしばらく前に作られた測量図で ございましてえ上側の大塚古墳は1975 年にら土原の歴史をまとめた本にですね 掲載された測量図でこれがあの従来の測量 図でございましたえそれから下の方が木塚 古墳でこちらは1985年に茨城大学の 高架研究室が作成された図でえありますで それぞれですね大塚古墳はあ土浦市市の 段階では噴気の長さが約83mの前方公演 墳であろうとそれから木塚古墳については え分球長が約65mの前方高方墳であろう ということでま大塚の方はあシタルですね え高い方のえ分球の方がこう丸くなってる 前方公園墳えそれに対して木塚はしる噴気 の方が四角い形をしている前方後方分で あるという認識があこうした測量調査に よって得られてきたというわけなんですで えただですねまあの実はこの古墳2期の 古墳土浦市内では大変重要な古墳でござい まして特に大塚古墳は土浦市内で最大の 古墳でございますで土浦市をさらにもう ちょっと広げてですね霞ヶ浦の沿岸地域に 広げてみてもその中でも屈しの規模を持つ 前方公園墳でございますもちろんですねえ そういう風に言いますと え現在の石岡市にですねえ船塚山古墳と いうこれは東日本ではは2番目の規模を 持つ噴気の長さが180mを超えるような 大きな前方公園があるわけですけどもま あれはですね古墳時代の中期と言ってる5 世紀に作られた古墳でございましてえその 前の段階の古墳時代前期ま3世紀から4世

にかけてになりますけどもえその段階では この大塚古墳は霞沿岸では屈伸の希望を 持つ前方公園墳であるということでござい ますでところがですねこの2つは今興奮 時代前期前期と言ってきたわけですけども まそれはおそらくこの分球の形からその ように推測されてきたわけですけどもえ 実際のところ実は白調査が行われたことは これまでにありませんでしたでしかもです ねまこうした古墳にはよく当時古墳の上で えま埋葬に伴ってえいろんなギレが行わ れるわけですでその時にドキを使ったりし てまその話はまた午後にあのシ先生の方 からお話がありますけどもそうした時がま やがて破片になって古墳の上でええま破片 が拾えたりすることがあるんですねでそう したま表面採集によってえ得られた時の形 がま分かる場合がありますそうすると さらに詳しい年代が分かることがあるん ですけどもえこれまで大塚古墳と木塚古墳 ではそうした最終意物も得られていなかっ たということでま古墳時代前期の古墳で あるということはおよそ分かっていたん ですけどもさらにその中で具体的にどんな 時期に作られたのかとあるいはこの大塚 古墳と木塚古墳はどういう順番で作られた のかというようなことも詳しくは分かって いなかったわけですでそこで先ほどご紹介 いただきましたようにえ近年ですねえ土浦 市と筑波大学の合同調査という形でこの2 期の古墳の調査を4年間かけてえ白調査を やらせていただきましたでその成果を まとめたですね発掘調査の報告書というの が本日受付の方でもあの販売されており ましたけども今画面のえ左側の方に写っ てるものですねえこうした報告書をあの 次いえ今年の3月にえ作らせていただいた ところですでその間ですねえ私どもの筑波 大学の方では今ちょっと画面の下の方に 書いてありますけどもえ筑波大学の社会 貢献プロジェクトっていうのが1つあり ましてえそれと私どものあの事業の一環で 広学実習ってのがありましてまそういうの も兼ねてですねこの 2つの古墳を4年かけて調査するという 機会を得ることができましたえ今画面の 右側のものは今日ちょっと部数が全部足り てなかったとは思うんですがえそうした あの社会貢献プロジェクトという中で私 どもの方であの調査の途中にですねえ市民 の皆さんに分かりやすく成果を伝えようと いうことで作ったパンフレットの一部で ございますでさてその調査の中身をですね 少し詳しくこの後ご紹介をしたいと思い ますでそこでまず古墳の調査から見ていき

たいと思いますえ大塚古墳の調査は 2020年から2021年の2年2加年 かけてえ行いましたえこの後紹介する木塚 古墳の方がこれより前にやってるんです けどもちょっと順番としてまず大塚古墳の 方からご紹介したいと思いますで今あの2 つの古墳の実は新しい測量図をこの発掘 調査のさらに前に実はあ私どもの研究室と それからま津市の協力を得て作成をいたし ましたでまその時点で色々考えられること もあったのですがやはり白調査をやんない と詳しいことは分からないということでえ 所々の白調査をさせていただきましたえ 今日お手元の資料にその辺のあの詳しい 情報は書いてあるんですがあ2年間かけ ましてえ合計でですね6箇所いわゆる トレンチと呼ばれる白くつを設けましてえ 主にですねえ古墳の正確な形を復元する ための情報を得ることそれから古墳の 詳しい規模を知るための情報を得ること そしてもう1つはえこの丸井方のですね 公園部の辺にいわゆる埋葬施設え遺体を 納めた施設があるということが想定される わけですけどもまそれがどのような位置に 存在するかということを確認するための 発掘調査をいたしました埋葬施設の中は 発掘するにはそれなりのまあ体制が必要な のでそこまではあのやっておりませんけど も埋葬施設に関してはその位置を確認する ための調査をしておりますで今からその 辺りをですね順次見ていただきたいと思い ますえまず最初にですね今画面のえ右側の とこに大塚古墳の新測量図を示してあり ますでその上の方に赤く示してあるところ が今画面の真ん中に写真が映っている第1 トレンチという発掘になりますえ右側の 測量図のところにはちょっと上の方に 小ちゃくですねカメラのマークみたいのが 付いてるんですけどこれは今映ってる写真 はこの方向から撮ってる写真ですよという 意味でございますでえまこの写真はですね 噴気の外側から噴気側え薄らとですねこの 分球の形が竹林の中に見えてますけども えーここはですねえいわゆる前方公園墳の 公園部のま我々のせあの専門的な言葉で 言うと後端側後ろの端っこそれを見つけえ 正確に見つけるために白調査を行いました でそうしたところここではですね今画面の 写真に写ってますように非常に深いこう堀 のような溝の跡とまこれも幅もそれえそれ なりの幅がございまして え深え幅がですね8m深さが1mぐらいの 溝の跡えそれに続いてさらにえそこから 斜面になって上に上がっていく本来の古墳 の元の噴気の面というものを確認すること

ができましたえそれをですね図したものが 左側の図ということになりますでここでは つまりまこうした古墳の周りを巡っている であろう溝の後周行と言いますそれからま それと連続してしまってるんですけども 左側の図で言いますとこの斜面がぐっと 降りてきてまおそらくこの辺りが古墳の 本来の裾の端っこということが確認された ということでございますでこの後出てくる 画面もですね基本的にはこういう裾を 見つける端っこを見つけるような作業で ございましてこれを1つ1つ見つけて部分 部分で見つけて繋げていくことによって 正確な規模を推定したりえ形を正確に推定 したりすることができるようになるという ことでござい ますえこれ第2トレンチと言ってる場所で 公園部の東側の部分になりますでやはり ここでもですねま色々ちょっと構成のあの に掘られたりですねこの辺りどうもえ道が あったようで突き固められたりしたような 面がございましたけどここでもえ奥に噴気 が見えてますけどこの辺りで噴気の端分担 を確認することができてい ますえそれからですねこちらは丸い部分と ま四角い部分と言いますかあ長方形の部分 が接続するくれ部と言ってる部分ですけど もえそちらでえま第4トレンチをちょっと 2つに分けまして4A4Bという風に呼ん でますけども並行する2つのトレンチを白 調さしてこのくびれた部分丸と四角が切合 する部分を見つけようということで発掘を しましたたがまここはちょっとですね難解 な部分でありまして噴気の想は明確にえ ここだっていうことがなかなか言いきれ ない部分があったんですがまおそらくです ねえ左側がこちらが4aトレンチでこっち が4Bトレンチなんですけどま今画面の4 aトレンチの真ん中ありに噴気の裾らしき 傾斜の変換が見られるんですけどまここな のかもしくはもしこっち側で言うともう ちょっと上の方位置で傾斜の変換があるの でまどちらかだろうということは推測して ますでなおです ねこのえっと4Bトレンチではですね今 ここにちょっとちっちゃな写真が1つある んですがこの辺りはではですねあの平安 時代の時が出てましてえこれはですね古墳 とは直接は関係がなくてえ古墳が作られた 後にえどうもこの辺りでこれ平安時代のお 墓のようですねでですのでえそうしたもの がやはりまた後の時代に作られてる実は この後ご紹介する木塚古墳でもえさらに これよりどうも後の中世ぐらいの墓の穴 じゃないかというものも見つかってますし

実はここはですねあの北塚古墳の方には 中世の五輪島っていうまえまお墓の一種 ですけどもク刀も見つかってますで 麓えこの古墳があるですねえ第1のええ 少しこの古墳より下がったところには 八王子さんというお寺が現在もございまし て実はこの古墳の辺りは今でもごく最近の お墓も立てれて立てられているような墓地 になっておりますですからまえずっと連続 してるかどうか分かりませんけども少なく ともこの大塚古墳木塚古墳ができてからあ とこの一体はですねどうもこの地区の1つ のま母お墓を作る場所ということでずっと 使われてきた場所だということもま歴史的 には面白いところかなという風には思い ますでさてクレブはこんな状況だったん ですがえもえ少しあのこの後の話で非常に 重要だと私が思っているのがこの部分で ございましてえダゴトレンチと言っている 前方部のえ東側のとこですで実は前方部の 西側はもうかなりこう崖が崩れてしまって えこちら側が第1のヘリでえ霞柄の方向と いうことになりますけどもこちらはもう ちょっとかなり急な崖で崩れてしまってい て調査ができないということで反対側の 東側にトレン地を入れて前方部がどういう 幅を持ってるかということを調査しました ところがここが非常にま調査の途中では 非常に難しい調査ではあったんですが非常 に面白いことが分かりましたえ写真の方が ですねちょっと暗くて見にくいんでござい ますけどもえ左側の図の方で言いますとま このちょっと下の方のちっちゃい図が非常 に重要なんですけどもえ濃く書いてある ところここがどうも元の自然地形で古墳 作る時にまこちら側は今でこそ崩れて しまってますけどおそらくなだらかな第1 のヘリに続いてたんだろうと思います ところがどうもこちら側はですね古墳作る 当時から我々発掘してみるとちょうどこの 一番奥にわずかに顔を出してんですけど 急激にですねこの黄色い土が基盤になっ てる関東ローム層なんですけどそれがこの 辺りで急にガクンと立ち上がってるんです でおそらくこれはですね当時からもうこの 古墳作る時点でここがかなり崖で崩れてて えかなりこう傾斜のきつい崖だったよう ですでここに無理やり前方公演分の前方部 を作るということで我々の調査の所見では 下に1回盛土をして斜面を整えてそして その上にさらに盛土をして噴気を作って ここが噴気の裾じゃないかという風に捉え られるような書見が得られていますで実は ここがですね後でお話をすることとすごい すごく関係をしておりましてなんでこんな

無理やりにここに古墳を作ってるんだろう かということそれからまあの先ほどご紹介 した第4トレンチでまう正確にはうまく 捉えられませんでしたけどこの辺りに噴気 の裾があると考えると実はこちらがの球の 裾の位置とこちら側の噴気の裾の位置が だいぶこの中軸線を挟んで違って るっていうことも1つ重要なポイントなん ですそれからまあの非常にあの関心が高い と思いますがこの古墳の埋葬施設というの がどうだったのかということで公園部の 1番辺船長部というところにこう十字方向 を基本にした発掘区トレンチをもを受け まして白調査を行いましたでま深くは完全 には掘ってませんのであくまでも埋葬施設 の位置を確認するための調査ですでそうし ましたところ今あ画面の右下のところに図 がございますけどもえこの下の方に前方部 方向と書いてあるところがありますこちら がですからえちょっとこれ公演部の図しか 出してませんけどこっち側まこの部分と この部分は方向は今一致してますでそして 掘っていったところですね今このグレーで 囲ったような範囲が真ん中が黒い土がたま より黒っぽい土が溜まってましてへこんで たんですね要するにへこんでたでその へこみがですねちょうど前方公園分のま 我々主軸と言ってる中心のラインに沿う ような形でこうへこみがずっとあるとで 大体その大きさまおよそですけども分かり ましたで実はこの古墳についてはこうした 調査をやる前にいわゆる地中レーダー探査 っていうのもやっておりましてその時にえ この下には石で作ったような構造物はない ということは分かっておりましたので おそらくこれはですねこの古墳の埋葬説が あま一般的によくある例としてはえ木の質 穴を掘って木の質を収めてえその周りを 粘土などを使って固めてえ最終的に土で 埋めたようないわゆる粘度角という風に 呼ばれるような内相施設の可能性が1番 高いのかなとでえ木の棺ですからやがてえ 口果てて腐ってですね真ん中空洞ですから ボカンと落ちるわけですね天井部分がそう すると上の土が引きずられてそこがへこむ とでそこに後から土が溜まってそこだけ 黒くなってるというおそらくそういうこと だろうということで現え今回確認できたの はあくまでもま陥没光と言ってますけども その範囲ではございますがこれによって ですね埋葬施設がどういう方向にどういう 範囲にに存在していたかということが およそ分かりましたまほぼですね公園部の 中心部分に古墳の軸に沿うように作られ てるということであろうということを確認

することができまし たでこうしたあ調査の中で各トレンチから えドキを中心にえ異物が出動しております ま今もう画面にはあの破片ばっかりですね えそれなりに形になってるものは少ないん でありますけども例えばあこの赤で囲った 下の方はえ小型丸底8と言ってる本当に ちっちゃなえ時なん手のひらの上による ような時なんですけどもえこれは古墳の上 で行われるですねギレで使われるような時 でえ午後にですね塩谷先生の方から詳しい お話があると思うんですがあそうしたもの がですね比較的いい形で出動しております でこれはもう先ほど見ていただいた第3 トレンチていう公園部の上のですね当時の 盛土の表面に乗るような形でえ出動して おりますのでま当時そこで行われたギレに 関わるものであろうという風に思われます それから真ん中に赤で囲ったものはですね これは第2トレンチっていう先ほど紹介し た公園部の東側の進のとのトレンチで 見つかった鉄の矢尻鉄属なんですねでこれ ま今写真がありますけどもこの写真だとな んだかよくわからないと思うんですが 真ん中のこの図に表現されてるようなこう いう葉っぱみたいな形をしたああの矢尻な んです矢の先端につつける部分ですねで鉄 でできてますでところがですねえこれは形 から見る限り間違いなく古墳時代前期の 後半のものでいいんですけどもえ我々その 先ほど紹介した第3トレンチを掘った範囲 ではいわゆる洞窟の後ってのは見当たら なかったんですですのでこの接続がどこ から来てるのかっていうことがちょっと 問題なんですけどもしかすると私たちが 掘った範囲にないところでちょっと洞窟が 行われていてその穴があの埋葬施設に達し ていてそこから掘り出されたものがあ噴気 の裾にこう流れ込んできている可能性が1 つ考えられるかなと思っていますま少なく ともこうした手続は集落から出るような ものでは基本的にないのでおそらく古墳の 服装品としていいだろうとでま普通に 考えればあこの古墳の服装品である可能の 一部があこう出てきている可能性が高いと いう風に見ている異物が1つ出ており ますはいでそうそこでですねちょっと時間 がだいぶ長くなっちゃってるんで急ぎます が大塚古墳を今の調査成果に基づいて復元 しますと大体こんな形に復元できましてま 2つ案がありますA案とB案とでそれは ですね先ほどご紹介したこのダイオ トレンチのクレブの位置をどこで抑えるか でよって違ってきちゃうんです けどただですね今この色でちょっと示した

ところなんですけどえこの幅が違ってき ますそのことはここに書いてあります噴気 の長さは83mという風に正確に抑える ことができましたがえー噴気の不言につい ては2つの案が考えるとただいずれの案で も前方部の側面ですねこういうところ反対 側ここは霞がに面した方今色がついてる方 のが明らかに幅が広くて先ほどご紹介した ちょっと無理な作り方をしてると言った ダゴトレンチのある方の東側の方は幅が 極端に狭いですねこういう非対象になっ てるということが非常に重要な書見として 得られたわけ ですえ次に木塚古墳の発調査ですけどもえ こちらは2018年から2020年に行い まし たでやはり同じようにですねま第1 トレンチここですね白してここでもやはり 大きな溝の跡が見つかっておりましてえ 噴気の端っこはですねえかなりこう周りが 削られてですねえここはあの噴気が残っ てるのは残ってるんですけどどうも傾斜が かなりきつくなってしまっていましてえー かなり噴気が崩れてしまってるようですで 実際に掘ってみるとこの辺りにわずかに 段差みたいのが出てきましておそらくそこ が元の裾だろうという風に考えている ところ ですそれからですねえ第5トレンチとこれ はこの古墳は一応前方後方分という風に 考えてきたんですがま人によっては前方 公演分じゃないかという意見も依然として あったもんですからそのことを確認する ためにこのすみっこのところですね コーナーのところを発掘しましたでそうし ましたところはやはり噴気の一部の端っこ がですねまこんな形で出てきておりまして ま図の方でますと今 あの茶色にですね示したようなところに 噴気の端っこが見つかっておりますので この位置関係先ほど見つかった第1 トレンチの裾とこことの位置関係から考え てえっと前方公演墳のように丸だともっと 内側で裾が出てこないといけないんですね ですのでこれは間違いなく前方広報分で いいだろうという風な結論が得られており ますえそのことを確実に言うためのもう1 つの証拠としてはこのくれの部分の調査で 調査した第3トレンチの書見があります こちらもですねえちょうどくびれた部分を うまく見つけることができまして今黄色い 線で示したような形で噴気の端っこが出て きましてえ図でししますとこのえ茶色で 示したような傾斜がそれぞれ傾斜とそのえ 裾の部分が確認されており

ますでここはですねえ第7トレンチと言い ましてえ後方部のま主に西側北星側に 当たる部分ですけどもここはすごく面白く てですねまちょっとクロート裸の話には なってしまうんですが噴気の元の面がこう いう黄色いラインで見つかっております それより上は後から溜まった土で黄色い ラインより下が古墳を作った時の面という ことなんですけどもちょうどですね今ここ に9兵と書きましたこれは古墳を作った 当時の表面の土黒い土なんですねここに 綺麗に見えておりますえ本当は真っ暗に すればもっとよく見えるんですけどもで これがですねここのところをちょっと拡大 した写真を用意すれば良かったんですけど 斜めにですねスパンて切れてますつまり これはこの黒い土は当時の地方面ですから ここより下はいわゆる地山と呼んでる自然 層ですそれに対してこの黒い土より上がが 盛土土を持ってるということになりますで 後方部は真ん中ありから上が盛土で下の方 は自然の地形を削って作ってるんですけど もどうもこの急表土の高さを前方部の方に 持ってきますと前方部の1番高いところと この急表土 の上面の高さがほぼ一致してますので前方 部の方は削ってるだけ土はほとんど持って ないんじゃないかということも分かりまし たまこういう球の構造なんかについても こうした調査の中で明らかにしていったと いうことなんですえそしてえ船長部の部分 の調査ですけど同じようにですね先ほどの 大塚部分と同じようにま十字方向と言い ますかこうL字を逆さえっと背中合わせに するような形でですね発掘をしたところ こちらも埋葬施設の確認ということでやっ たんですがえ粘土がこうつぶつぶが混ざっ たような土がですね今画面の左側で囲え グレーで示したような範囲で見つかりまし たでヘリもかなりはっきりはしてたんです けどこれがま先ほどのような陥没という よりはもしかするとその埋葬施設を収めた この大きな穴のですねに直接埋められてる 土の表面の可能性もあるかとは思いますで いずれにしましてもどうもですねえこう いう長方形で噴気の軸に対してどうもこう 斜め方向を向いてるんですねこれが1つの 大きな特徴でしてまこのこともですね ちょっと色々学問的には考えなくちゃいけ ない部分があるんですけどもまとりあえず ここではですねこういう調査の所見が得 られたということだけご紹介をしておき たいと思い ますでこっからはですね時がやはり色々出 てましてまあ噴気の裾からも時は出てるん

ですけどもえそれはですねこの写真の左側 にあるような時なんですけど右側ににある 時はあ左側の図の中にもありますけどこの 高きですとかあそれから機と呼ばれる器を 乗せる台とかですね壺の底の部分とかま そうしたものがあ後方部の1番鉄片船長部 から出てますのでこれらもですね先ほどの 大塚古墳と同じようにえ船長部で行われた ギレに伴う時であろうという風に考えられ ますでえそうした調査書にづいて塚古墳を 復元するとまこんな形になりますよと噴気 の長さはま我々の調査のデータを総合する と さてえこっからちょっと時間限られた中で えお話を進めたいと思いますがで今お話を してきた大塚古墳と木塚古墳の調査成果 からまどんなことが考えられるかという ことでございますけどもえお手元の資料で は4番目からの話になりますがでまずです ねこの大塚古墳と木塚古墳がどのような 順番で作られたかえごく近くに作られてる 2つのそれなりに大きな古墳でございます でま先ほど見ていただいた今回の調査で 出動した時期の細かなえ年代ええ時期の 特徴から考えられる年代で言いますともし かするとて言いますか木塚高本からしてる 土金の中にどうも新しそうな予想が見 られるということが1つ言えるんですが ただなかなかこの両者の前後関係を明確に こう言い切ることができ ぐらい実はこの2つの古墳から指導してる 異物の年代がかなり近い時期であるという ことが今回の調査で分かりましたただ当然 ながらこの2つをですね同時平行で え一緒に作ったっていうことはちょっと 考えにくいですのでどっちかが先に作られ ていてどっちかが後なんだろうと高古学的 にはま大きなこう時期を区分した時の1つ の時期に収まってくる前期の後半とかま ありは前期の公用と言ってもいい代前期の 1番最後の段階にきっとこの2つの古墳は 作られてるんだという風に思われるんです けどもまその中でもおそらくこの前後は 当然あるだろうという風に考えた時にさて えどっちが先に作られたんだろうかという ことでえここからはちょっと私なりの考え 方をご紹介させていただきたいと思います でそこでえ1つポイントになりそうなのが 先ほどちょっと注意した方がいいという話 をさせていただいたこの非対象になってる 大塚古墳の前方部の問題でありますでえ 先ほど言いましたように特にこの東側の 前方部の側面はですねかなり無理をしてえ この作っているとで元々この大塚古墳は この第1がですね少しこう扇型にあるよう

な第1のえ南側の方にこう台地がこう狭く 張り出したところがありましてその上に 窮屈に作られているわけなんですねでなん でそんなとこにやり作ってしかもですね あの元々おそらく作った当時からすごい崖 になってたとこに前方部を置かざるを得 なかったのかということに私は非常に重要 な意味があるという風に思っておりますで まこれはちょっとあの想像もかなり入っ てるんですがえま結論から言いますと おそらく先に木塚古墳が作られてここに 存在していてで集落はこっち側に ちっちゃな集落が2つほど同じような時期 の集落の存在が確認されていますでえま おそらくまこれがこの古墳を作った中心的 な集落かどうかと言われるとそうじゃない んだろうとは思いますがこちらから人の アプローチがあるとすると当然この古墳を 作る時にえ何らかの作業スペースとかそう いうものがこの辺りに必要なんだろうと 思うんですねで大塚古墳をこんなあの狭い 大地の先端にですね無理に押し込めなくて この辺りに作ることもうまできなくは なかったはずなんですけどそれを ができなかった理由はおそらく木塚古墳が すでにあってでさらに大塚古墳を作るため の作業スペースを確保するという観点から 言うと大塚古墳をこっちの方に押し込め ざるを得なかったんじゃないかという風に 考えておりますでそのことはあのそういっ た理由が1つあるんですがこのでつまり ここに書いた戦地による制約をよぎなくさ れた事情ってのはそういうことだろうと いう風に思うんですがそれと同時にこの後 すぐにお話ししますがこの古墳は あえて実はこっち側の東側の無理あの狭く なってしまった側面を元の設計に沿って 作る必要をそれほどま作った側があの感じ てなかったと言いますかそちら側じゃなく てこちら側の霞霞ヶ浦側の側面が元の設計 の古墳通りにしっかり作れてればいいんだ という考えも一方であったのではないかと いう風に思っておりますまそのことが実は このの話と深く関係しており ますでえそこでですねちょっと4番目の話 に移っていきますがでま周辺の前期古墳と いうのを少し拾い出してみますとえその中 でえ古墳の形を分類してみますとまこれは ですね今回大塚古墳や奇跡塚古墳は白調査 をしましたのである程度の正確な形や規模 ってのが分かってきましたけどまだまだ この霞周辺の前期古墳のえ調査というのは あ測量図はまあまああるんですけども白 調査によって正確な形が捉えられてるもの てのは限られておりますまその中でま現状

で分かる測量図からの判断ということに なりますけども大きく分けるとこの周辺の 前期の前方公演墳は大きく4つぐらいの形 に分けられるだろうという風に考えてい ますでその細かい話はですねえ今日はまし ませんけどもえここで1類2類としてる やつですねま1類って言ってるのは今画面 の右側にあるこれがちょっと霞からから 少し離れてますけど現在の地市にあってえ 茨城県南部ではあ前期の古墳としては1番 大きい地市の芦山古墳でま推定で140m を超える前方公園ですけど もこれのようにですね前方部が少しこう 開き気味でえ伸びてそれほど前方が長く ないタイプのやつがこの1類と言ってる やつでそれを追ってきますと大体こんな 範囲に分布してるだろうとこの緑色の範囲 ですねそれから2類と言ってんのはえここ にあの明治大学がかつで調査した一生家市 のさ塚古墳っという古墳がありまして こちらはですねこの前方公園墳同じ前方 公園墳なんですけどくれのところが ちょっと太くて幅が広くてですね前方部が 短くてちょっとずんぐりした格好の前方こ んですそれがつば市の見桜塚古墳という 古墳もそういう形に復元することができ ましてまこれはあんまり面的な分布の仕方 をしておりませんでそれに対してですね 大塚古墳は非常に大きな特徴は前方部が 非常に細長いですこれがま最大の特徴なん ですけどでそうした目で見ますとまそれを 3類という風にしてて若干それより前方部 が短いんですけどやはり前方部の幅が非常 に狭くてま長いタイプのものを4類とし てるんですけどその分布を落としてみると ほぼ霞ヶ浦の沿岸に分布してるということ が分かりますでおそらくこれが何ま今後の 調査によっては今私が画面で示してるよう な古墳もですねあちょっと形が違ったとか そういう話になる可能性は十分ありますの でまその点を踏まえてお聞きいただければ と思うんですがま現状で判断するとこんな ような分布の仕方があ認められるんじゃ ないかという風に考えておりますで特に ですねこうした古墳は当時の有力者がそこ にほめられているという風に考えられます のででこれらの古墳はいずれもですね大枠 で言えば古墳自体前期の後半4世紀の後半 に作られたそれぞれの地域の有力者の墓だ と考えられますがまそれがですねえこの かつての霞ヶ浦えこれは現在よりもさらに 広い水域が広がっていたわけなんですけど もその沿岸でええそれぞれの有力者たちが 同じような設計を持った古墳をそれぞれ 作ってるということに1つ重要な意味が

あっておそらくそうした人え有力者たちが 相互に何らかのえ結びつきを持っていたん だということを示すものであろうという風 に考えておりますでそれは当然ながらその 現在の霞アに続くこの地域のですね水域を 1つの基盤にした交通によって結びついた えびついていたのであろうということが 考えられるわけ ですでその細長い前方部が一体じゃあどこ から来てるのかということなんですけども え以前ですね私この白調査の前に大塚府の 測量調査をしてえその成果を報告ま文書に したことがあるんですけどもえその時には ですねえこうした細長い前方部を持ってる 前方公演墳としては代表的なものとしては 奈良県にありますこれも200mを超え てる前方公園墳ですけども桜井チウ山古墳 というこれ人によっては大和県の初期大和 県の大きの墓応募の1つだという風に考え てる古墳ですけどもえそれがですね非常に 細長い前方部を持ってるということはよく 知られているところでございますでさらに それとほぼ同じ地区にですねそれに続く 時期にメス山古墳っていうえこちら200 ま桜井チまちょっと200m切るぐらい ですけどメ山古墳は200をUに超えて いる前方公園こちらもですね前方部が非常 に細長いということが分かっておりまして え細かな特徴まこのちょっと書きました けどえ公園部がこうだんだんに作られて いるこの斜面の長さの比率の変化からなど からですね桜チャウス山からメス山に噴気 の形としては変化していったんだろうと いうことも指摘されているところですで そうした目で見た時にえそと同じような 古墳がああるかどうかっていうことについ てはあの別な方が研究されてる例もあるん ですけどもそうした中でも取り上げられ てるものの1つとして静岡県の岩田市に あります寺田に調子塚古墳ってのがあり ますこちら108mの前方公園墳なんです けどやはり前方部が非常に細長いですで これを測量された方もこれは桜一麻山 タイプの前方公園墳だという風にあの見解 を示されていますただこちらの古墳はです ねあの明治の時期に服装品の一部が出動し ているんですけどもそれらの遺物の形式を 見ますとどう見ても前期のま終わり頃の 前方公演分なんですで桜井茶山とか目山 古墳っていうのはどちらかというと前期の 前半に入ってくる前方公演墳ですのでそれ よりもかなり年代が遅れることになります ま数十年遅れると思いますですので え私は以前は即事調査の段階では大塚古墳 もこの桜井アウス山やメスリ山のような

タイプのですね噴気形態の給付を引くもの だろうとと考えてどちらかというと桜井 チウ山とか目山に近い時期なのではないか という風に考えてたんですけど今回の調査 の成果でえ出てきた時を見ますとやはり 大塚古墳は前期でも終わりの方の年代と 考えた方が良さそうなんですただ一方で今 ご紹介した静岡県の寺谷長静古墳のように 前期の終わり頃にもこうしたタイプの噴気 の形態がま残存してると言いますか残って いってるのでまそうしたことをどう考える かということは今後ちょっと追求していか なければいけない問題かなという風に思っ ているところですでまその辺はですね まだまだ検討の余地があるんですがま 少なくとも先ほど見ていただいたように こうした前方部の細長い前方公園墳に 類するものが霞の沿岸に分布してるという ことを非常に重要な問題として捉えてる わけ ですでこれはちょっと余計な話かもしれ ないんですがえ前方部が細長いって言って パッとちょっとその興奮時代を研究してる 人間としてすぐに思いつくのは宮崎もう だいぶ場所が離れますが宮崎にサイト原 古墳軍っと有名な古墳軍がありますでそこ ではえ古墳時代前期から中期にかけて 大きな古墳がたくさん作られますけどもえ 特に古墳時代前期にはいわゆる鏡型と言っ ているちょうど江戸時代にから使われてる ようなこの絵のついた鏡のような形をし てるので絵鏡型と言いますけどこの前方 公園が非常に特徴的に認められまして宮崎 大学にいらした柳沢さんはこのえ鏡型累計 という風におっしゃってましてこれが南 九州に広く前期後半に分布しているという 風に言っておりますでただこれは宮崎の 方々はあの地域独自の形態だという見解を 示してる方が多いんですけどもまこれも ですねどこから来てるかという問題はまだ 未解決の問題でございますただ細かい点を 見ると似てるものもあることあるんです けどえ概ねですねサイトバルのやつを見る とあの先ほど言いませんでしたけど大塚は 前方部の1番てっぺんがすっと並行して こうなんていうかなここの部分があのすっ とこう直線的に伸びてんですけどサイトバ のやつはちょっと前方部のこの先端の部分 が少し広がっていてあの幅があるんですよ ねその部分がちょっと違うかなという風に は思ってますけどまその辺りを含めてです ね実はこういうものも比較材料にしながら 考えていくべき問題なのかなということも 最近考えているところですでさてちょっと 時間が迫ってきましたので最後の話に移り

たいと思いますでえ最後のところで え5の02以降の話なんですがでこの図は 先ほども見ていただきましたがえカえ大塚 古墳と塚古墳のこう配置ですねでこれを 霞ヶ浦の方向から見たらどんな風に見えて いただろうかということをちょっと確認し ておきたいと思い ますでちょっとこんな絵を作ってみ見たん ですが えまどこまでえ水際が来てたかってのは ちょっと復元なかなか難しいんですけど おそらく今よりは今あのハの田房になっ てるレコの田房になってるところのあたり はま元の水域だったという風に思われます のでえそこからあの方向に船に乗ったま今 土ま君が見てるわけですけども大塚はこの 第一のヘリに側面を向けて作られてますの でこのように作られた当時は見えた可能性 が高いですところが北塚は第1のヘリに 対して直行する方向に作られてますのでえ こちらから見ますと1つの山にしか見え ないとつまりえここに書きましたが大塚は 側面間によってま風景と言っても前方公園 分か前方後方分化は上から見ないとわかん ないわけですけどま少なくとも前方部が くっついてる大きな山とちっちゃな山が くっついたお墓だなということは分かる そして規模も分かるところが北塚は なかなかこちらからだと1つのまその メインの分球の大きさは分かるけどもじゃ どんな長さのものなのかとかそもそも前方 部がくっついてんのかどうかっていうこと がはっきりとはわかんないという作られ方 になっているということなんです ねでそこでですねえちょっと最近ですね私 の方でこの霞み沿岸 の前期古墳の立をえ今画面の右上にある ようにAからFみたいな感じで分類をして みましたま細かいところは省きますけども Aと言ってんのが北塚古墳みたいに第1の ヘリに直行して作られてるBが第1のヘリ に並行して作られてるタイプあとまいくつ かあるんですがFと言ってんのは第1のヘ よりちょっと奥まったとこにあるのでえ第 1の上にあってもなかなか下からは見えな いっていうやつですねでそうしますとそれ で見てくとこの霞村沿岸の古墳時代前期の 前方光炎分と前方前方高方墳にはA類やF 類が基本的に認められますま数は少ないん ですけどところが前方公園墳はB類っと 言ってるこの手のやつが非常に多いです つまり霞からの沿岸にえ沿ってですね側面 を向けるように作られてるということなん ですねでまあくまでもこの範囲の中での話 ではありますけどもそれをまとめています

とま水域まま低地側から見たとにそこから よりその分球を確認しやすいという意味で の視認性ですけどもに乏しい前方工法分と 視認性に優れた前方公園分という退避が できるのではないかという風に考えており ますでそのことが実は水上交通の問題と 深く関わってるんじゃないかという風にも 考えておりましてこれは別な事例なんです けどこれも日は最近私の方で調査をさせて いただいた伊豆半島の付け根付近に作られ た瓢た山古墳というやはり前期の後半の 前方公演分ですで調査の結果ですね今画面 の左側にあります古墳の複元図のこの ちょうど色をつけた部分が1段余計にです ね噴気が作られてるんですつまりえ中軸線 を挟んで画面の左側の方が噴気が大きく 作られ ですね1段下に大きく作られてますで実は こっち側西側なんですけどこの今地図に ありますようにちょっと斜めから見た不図 のような地図ですけど実は古墳ここにあり ましてこっちに駿河湾こっちに相模湾が ありましてちょっとこの地図と方向が違い ますけどここを抜けてくルートがあります 今でも熱海とこの古墳がある神波町って いうとところを結ぶですね熱間道路って いう道路が通っておりますで歴史的には ですねえ三島が伊豆の国府があった場所 ですけどそこから日金道っていう道が ずっと熱海の方に抜けていってえこちら側 の人たちにとってはこの辺に根川っていう ところがあるんですけど根川通りって言っ てるこれ街道筋なんですでここが一番伊豆 半島では1番狭いとろって言いますか抜け ていくルートなんですでそこの西側の ちょうど入口付近峠に入ってく入口付近の 谷筋に面してこの古墳が作られてまして その谷筋側の側面がよりま大きく作られ てるということが実はあ調査によって 分かっており ますでこれとあこれこれちょっとこの話は 飛ばしますがでこれと似たようなことが実 は私どもが調査した今ご紹介した瓢太山 古墳よりも前にさらに調査されてる神奈川 県の逗と早山のちょうど島町境にござい ます長江桜山1号分2号分という新たに 見つかった前方公園分でも同様のことが 言えますですこれについては調査をされた 方もそういった指摘をされてるわけです けどちょうど三浦半島のこの付根付近で ちょうど谷がですねまミ半島は伊豆半島 よりも狭い半島です小さな半島ですけども そこを抜けてく谷のちょうど西側の入口 付近のとこにのおの上に大きな古墳が2つ 作られてましてえそのうち詳しい調査が

行われている1号分の方はですねやはり 西側この球の速のこの西側にだけえ明確な 段築段が認められまして反対側は明確な弾 がないというのが調査された方の初見で ありますつまりこの場合も谷筋側だけ しっかり古墳を作ま噴気の面を整えていて え反対側の面はそれをましていないという ことなんですねでこうしたものも踏まえて 考えこれも同じような時期に作られている 前方公園ですでこうしたものの比較の中で 大塚古墳のあり方などを考えると先ほどご 紹介した非対象の問題が1つ大きく浮上し てくるわけなんですねでそれは大塚の場合 はまおそらく木塚が先にあってそういうえ 船長を取らざるを得なくてえ前方部が非 対症になってしまったという側面もあるん ですけどもうんですのでえ今ご紹介した2 つの興奮はどちらかというと片側をより 大きくプラスして作ってるんですけどえ 大塚の場合はま片側を 正常な形に作って片側はちょっと縮めて 作らざるを得なかったという意味でま非 対象のちょっと中身が違うことは違うん ですけどもましかしながら大塚についても この非象を許容しうる背景があったんだと いう風に思ってますそれは大塚の場合もう 霞柄側はちゃんと作れる作れてればいいと いう一種の考えが背景にあったんだろうと いうことも1つ指摘できるかと思っており ますで こうした古墳がですね今ご紹介した瓢太山 古墳にしてもえ長江桜山古墳にしても半島 の付け根付近に古墳時代前期後半に作られ ているとでこれはまちょっと私の妄想の ような図なんですけども え東日本の太平洋癌特にええ霞メガをに 近いところには大きな4つのま内海と言い ますか内湾がありあったわけです霞霞ヶ浦 もですねこの後の話出てくると思いますが かなり大きなラワであるということが言わ れているわけですけどそうしますと4つの こう海がこう連続していたっていうことに なりますでこれをえもちろん船で行くため には特に伊豆半島なんか先端をぐるっと 回っていかないといけませんでそれは もちろん物資輸送には有利でありますただ もちろんナパしたりとかいろんなリスクも はむわけですけどもで一方でリクロはある 程度こうま天候が悪ければなかなか難しい ですですけどこう歩くスピードで大体の あの工程をこう測ることができますでそう いう意味においてこう峠のあるようなま 半島の木部とかですねそういうところを 超えてくルートっていうのはま実はま物を 運ぶにはそんなに適してないですけど人が

移動するあるいは人が情報を持ってえ移動 していくという意味においては非常に重要 なルートであろうという風に思うんです けどそうしたところがこの時期になって 重視てくるということが1つ重要な意味が あるのではないかなという風に思っており ますでこの辺はですねまだまだ詰めなけれ ばいけない議論があるわけなんですけど え今回調査をした大塚古墳なんかもそうし た大きな流れの中でその霞柄の水上交通の 1つの要所の場所にえその水上交通を意識 するように側面を向けて作られた前方公演 墳なのではないかという風に考えている ところでございます でちょっとえもう時間がえ来ちゃいました のでえもう1つだけついでの話をさせて いただいて終わりにしたいと思いますで こうした問題はですね えま今日午後にお話しいただく古代の話に ちょっと結びつける話を最後にしておき たいんですがえこれはもう全く今回の話と は時期がずれてるですね同じ古墳時代です けど幸運時代後期あるいは7世紀の週末期 えにかけての馬の道具バグを湿度している 古墳のかなり広い範囲の分布図ですでこれ はいろんな人の成果を私の方で全体に まとめさせていただいたものですけど ちょっと見にくいんですけどえ左側の図が え赤い丸が5世紀で白い丸がえ6世紀の 前半ですだからま5世紀と6世紀の前半 までのバグの分布でままばらですパラパラ パラまそれなりにあありますけどところが 6世紀の後半えそれが赤い丸でえ7世紀が 白い丸それがこの右側の図なんですがこの 時期になるとこんなにたくさんバグを出 する古墳が出てくるんですねでもちろん その実用的でないえバグが服装されてる ものもありますけどそのほとんどは実用的 なバグを指導してる古墳でありますでこれ はもうだいぶ前にあの松尾正彦さんという 研究者の方が指摘されていることなんです けど千葉の辺りですとこの木の付近からの 方向にかけてこう斜めに分布してるんだと いうことを指摘されましてこれは後の 東海道のルートに沿うような形でバグが 分布しているのであってえそれはこのバグ の分布ってのは何らかの馬を利用した交通 路の存在と無関係ではないだろうという ことを指摘されているわけですでそうした 目で見ますとですねま私なんかがちょっと 面白いなと思うのは例えば先ほど紹介した 古墳時代前期の兵太山古墳が作られたこの の辺り白い丸がかなり集中してますけども これは7世紀代のバグの四分ですで神奈川 県の方見ますと神奈川は6世紀の前半まで

は比較的広い範囲にバグが分布してるん ですけど7世紀になると急にですね現在の 小田原付近とかその辺りの箱根によった方 にバグの分布が集中するようになりますま これをそういう目で見ていいかどうかと いうことはあのご批判もあろうかとは思い ますが私なんかはこれを見るとえこの時期 に峠を超えるための馬の利用っていうもの がかなりやはり出てきてその両サイドに馬 をこう使うような集団があそれなりにいた んじゃないかということを推測させる事実 ではないかという風に思っておりましてま そういう目で見ると長野の柵とえ群馬の 西側の辺りとかそういとちょっと地図から 外れてますけどえ群馬と新潟の境の辺りの 美の方なんかにもかなり新しい時期のバグ 質と古墳が集中してる場所があるという ことにも気がつくわけですでそうしますと まただですね今回のこの舞台になっており ます霞村の集権は実は逆にですねバグシト コフが非常に気迫なんですですのでえこう したバグ馬を利用した高通路ってのがま6 世紀から7世紀にかけては徐々に整って いくんですけどおそらくこの霞の周辺は その後もですねしばらくずっとやっぱり 水上交通ってのはかなり期間的なあの交通 路としては機能してたんじゃないかという 風に思いますがでやがてですねこの後え 今日の午後の堀部さんのお話に出てくると 思うんですがえ立上金になりましてえ いわゆる こう東海道とかですね東山道という感動 ですね国家が作る道が整備されていきます でこれは基本的に全てリクロ基本的に リクロですま海を渡なくちゃいけなかっ たり川を渡なくちゃいけないところあるん ですけども基本的にリクロですでこれは 近年ですねあの大江俊秀さんといういう 研究者が指摘しているようにも立業国家に とってはこれは感動はもちろんいろんな ものを運んだりえするための道でもあるん ですけど同時にやはり情報をいち早く中央 と地方の間でやり取りするためには船は いつ出行できるかわかんない天候によって はナパしてどっかいなくなっちゃうかも しんないところリクロは時間はある程度 かかるかもしれないけど正確に何日でどこ まで行けるっていうことがある程度読める という意味においてえ情報や人の移動に とっては非常に有利であるということでえ 立場国家が整備した感動については いわゆるそのま情報の移動っていうものも 1つ重要な国家支配にとっての重要な意味 を持ってたんじゃないかということをご 指摘されてるわけですでそういう目線で

見るとこういったその全段階のバグの分布 から見えてくるリロの問題とかさらに遡っ て先ほどご紹介した大塚古墳も含めた古墳 時代前期後半4世紀後半にもそういう目が 出てきてるということも気になるところだ ということを私の方では最後のまとめとし てお話をしておきたいと思いますえ ちょっと時間が超過してしまいましたが私 の方ではあ用意した話は以上となります どうもご清聴ありがとうございまし た

本動画は、11月23日(木)にクラフトシビックホール土浦にて開催された、上高津貝塚ふるさと歴史の広場の第26回企画展「霞ケ浦に臨む王ー古墳時代前期の地域社会ー」記念シンポジウム「霞ケ浦の前期古墳と地域社会の成り立ち」の様子です。

講演1  滝沢 誠 氏(筑波大学教授) ←本動画
「王塚古墳・后塚古墳と霞ケ浦周辺の前期古墳」

講演2 山下 優介 氏(国立歴史民俗博物館助教)
「土器からみる古墳出現前後の霞ケ浦」

講演3 塩谷 修 氏(元川村学園女子大学教授)
「葬送儀礼から読みとく王塚・后塚古墳の被葬者像」

講演4 山田 琴子 氏(埼玉県平和資料館)
「古墳時代前期の東日本地域の玉作について」

講演5 堀部 猛 氏(川村学園女子大学教授)
「古代の霞ケ浦と大津郷」

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