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年忘れ!麗子総集編【キワモノなのか愛なのか!受け継がれるDNA】山田五郎オトナの教養講座公認切り抜き【岸田劉生/麗子像完全版】

あ来ましたねこちらリクエストも多かった ですね岸田流星の冷子僧はいうん正確には これれ微小へえ重要文化剤はい東京国立 博物館所蔵うんうん岸田流星が娘さんを 書いた絵だと思うんですけどそううんま その割にはちょっと不気味というかうん 怖いなってみんな怖いっていうよねうん なんでなのかなと思いましてねえなんかぱ でこういう感じだと必ず冷子僧って呼ばれ たりするぐらい有名な作品ですけどねこの 実の息をこんな不気味に書いてはい流星は 娘が可愛くなかったのかみたいなうんこと を思う人もいるかもしれないですけども はいもうとんでもないですようん大可い がりですよへえこね岸田流星っていう人は もうキマなんですよへえもう日記とかも ものすごい詳細につけててまた日記に全部 絵がついてたりするんだよねで手紙の類い も多いしさそれから色んな雑誌に発表した 文章とかも多いしさ大変なだから流星の 作品って制作の年だけじゃなくて完成した 日日まで全部分かるんだよねへえ ものすごい膨大な資料が残されているんだ ようんでさあの何年か前にこの流星の没後 90年記念の岸田流星店ってあったこれ続 分厚いでしょはい後ろの方ねほとんど年配 なんだよええこれあの昔あの名古屋私立 美術館にいてこの時点では京都私立美術館 にいた山田哲さんって人がいるんだけど その人ね確か卒論だか修論高が岸田流星 だった人で流星での思い入れが一角ならぬ 人で渾身の年方を作ってこんだけ年だから あすい38年しか生きてないんだよ岸田星 38年の人生の人の年譜でこんな分厚いの かよっていう ぐらいもうすごすぎちゃって逆に不便もう 1年がいつまでも終わらないねねまこう いうよね資料山ほどあるんですよで流星 自身が記録まであと文章もうまくて いっぱい文章残してる上にこのれい子さん ご本人もなかなか文章うまくてえこの父 岸田流星っていうの本を残しててでまあの でこさんもう画家になったんけどねでこの れい子さんのお嬢さん娘さんのナツ子さん この方も画家なんですけどこの方も文章 うまくてええ肖像がの不思議れい子と れい子ぞもうね資料多すぎちゃってどうに もなんなかったんですけども相当読み込ん だ今回もう腰腰を据えてでもうもう断言し ますこのね流星記者流星はねこのお嬢さん のれい子さんのことをねもうおよそ男親が 娘を可愛がる限りにおいてこれ以上可愛 がりよがないぐらい可愛がってる へえこれは同じ娘を持つ男親として断言 するねうんあの娘さんのいる男性の方だっ

たらねこれから先の話聞いてねあの皆さん 納得していただけると思いますよ はいこの子岸田大子さんは1914年の4 月10日に生まれたんですよもうこの日の 日記からして大変なんですよ流星もう 大喜びで生まれたつってでもう美しくなれ 美しくなれ丈夫に育てとかって書いてで 宣言元がそろそろ生まれる頃ですねみたい な手紙をくれてね宣言元が ドストエフスキーのしいたげられし人々を 今読んでますって書いてある読む欲しく なったねでちょっと高いとあの本が高い 時代だからねだけど令子が生まれた記念だ からねあのこれは買うっつってでね記念に しいたげられし人々もどうかとも思うんだ けども買ってそこにあの世の少し苦しい 捜索のうちからレコの誕生の記念にこれを 買うみたいに書いたりとかしてもう名前も 最初からレゴって決めてておもう大変です よ喜びはい おお生まれたこの生まれた年のまだ0歳 レコ0歳うんもうこの成長記録もすごい ですよもうパウルクレー 顔負けの細かい成長記録をつけているん ですね でこれが2歳になった頃かなこの頃リセを 新身消えのガカっちゅう感じでしょうん うんうんでこれでもうれい子の成長とと ずっとスケッチとか書きまくっていくわけ です よ生まれた瞬間からもうほら書いてます からおお はいまこれから始まってあの俗にその冷子 僧と呼ばれるのは実はなんと70枚以上 へえあるんですよへえどこまでを入れて いいのかわからないってあの岸田ナツ子 さんなんかもおっしゃってるんですけども そのぐらいたくさん書くことになるんです よ ねでちょうどこの令子が生まれた頃岸田 流星はフザ社あの高村孝太郎屋なんかと やってたフューザー車っていうのをが解散 しちゃってえ13年に解散したのかなで 1915年にえソド車草の土の車っていう うグループを結成するんだよねでそれに よって元々この人はゴッホとかセザンヌ みたいな感じの絵を書いてたんだけれども 急にあのデューラーとかファンエイクとか のこの北方画のリアリズムに目覚めて画風 が大きく変わっていくちょうどそのフザ者 の解散と想者の決の間の1914年に 生まれたのがこのレイ子だったんだよねだ からこの自分の新しいガフっていうのを 追求していく上でもこの霊光を書き続けて いったんですよでこの岸田誠猫子が2歳の

頃ちょうどこの頃なんですけれども結かと 診断されるんですよでどうもそれ誤審だっ たらしいんだけどもこの人キのともう1つ の特徴がやたら潔癖症なのやたら潔癖症で ビビりなのでもうこれはいかんて言でこの 当時代々木に住んでたんだけども郊外に 住まにはいかんてつってま当時郊外だった まず駒沢に移ってでそっから最終的に 1917年にあの神奈川の沼沼海岸やっぱ そ当時はさあの結核の両用とかいいってさ れてたから沼海岸の知り合いに別荘を借り てそこに住むようになるんですよね でちょうどその1917年から関東大震査 き1923年までの7年弱この小沼時代 っていうのが岸田流星のま短い画業の最盛 期って言われてるんだようんでその最盛期 にも描き続けたのがれこ僧うんなんだよ ねで沼間にこしてすぐの頃に抱えたのが こちらの 柵いっぱいあんだよいっぱいあるなかあの すりんご持てるってうんねこうこの頃がね いくつかなえっとこれ17年だかられこ まだ23歳の頃だよねまりんごが体に出し て大きくま普通の絵ですよねうん普通に 書いてで5歳になった時にようやくこう モデルができるようになるこれ我慢できる ようになるわけですよじっとしてられる ようになるわけですその時に書いたの がこれこれが初めての菜の冷子像うんれこ 5歳の像うんれこって書いてありますから ねうんでここやじ書いてね乳移すとか書い てあるこ岸流星のあのマが入ってるいかが ですか これだいぶ色 感じあこれ ねこれはねあのあれなんですよこの岸田 流星とこういう北方ルネサンス的な リアリズムに向かったソード者の仲間たち の間で流行ってたビチムっていう絵の具が あるんですようんでこれ アスファルト天然アスファルト天然 アスファルトを使ったま茶色い絵の具なん だよこれがなんか大ブームになったらしく であんまりこのも流の時代とかには あんまり使ってなかったのが昔の画家が どうもビチをよく使ってたらしいみたいな ことでそビチを使ってあのリーハに書いて いこうみたいなブームになったらしくて それの色なんだよこれへこの騒動者の仲間 たち河野みせやなんかもみんなこんな感じ でのんなってるねこれだからソド社長と 言っても いいあれなけどそれをリードしたのがなん だよ うんそこだけです

かまあなんかあんまり怖くないって怖く ないリアルですよはいあのリアルなんです よ実際これちょうど同じ年の写真がこれな んですよ おおでこの写真に多分お母さんうん吉田 流星の奥さんの岸田しがつけたであろ キャプションがお父様のお気に入りのポー ズってへえここう花持ってるだろここも 赤まんまの花持ってんだよこれなんかあの れい子と一緒にあの探しに行って積んでき て持たせてるんだよねへこれお父様 お気に入りのポーズなんでお父様は本当に このポーズお気に入りでこれ書いたのが5 歳の時だから18年かななんだけどその2 年前にもまだ小沢時代にもほらあこれ小屋 さんって言って小時代に近くに住んでた 文学青年のお医者さん ふほらまビチのチドしてるでしょういや これもお父さんお気に入りのポーズなん ですよじゃあこのお父さんお気に入りの ポーズのこの指これどっかで見たことない すかって話なんです [音楽] よですか はい おおねこデューラーをすごく研究してたん ですようでデューラーの回でやりました けどデューラーといえばやたらいろんな こと書くっていう特徴があるんですねえ色 合せない色でえ私自身を描くとかそんな ことを書いてるまそんなようなことを何年 でこうその父が映すみたいなこういうやっ たら文字を入れるっていうねこういう ところでなんかデューラーなんですようん で一方です ねま非常に実的に書かれてるとなんか変な とこないです かその実物と比べ てそこまでっていうのがあるんですけれど もま子供だからうん顔が大きいのはまそう ですわね子供だからでそれにしてもって いうのないですか顔に対して体と手小さ すぎませんかああ確かに明らかに小さいん ですよなんぼなんでもなんですようんうん でこれがどっから来てるのかっていう話な んですけども ねこれはですねこれなんじゃないかと思う んすようこまたやっぱり花持ってますけど ねこれファンエイクなんですよアファン エイクカーネションをも男ってやつなん ですけどもファンエイクの肖像っていうの もこの顔を大きく書いてこ体をは ちっちゃいんですよまるであの浮の大首 みたいなプロポーションなんですようんで この辺をやっぱり意識してるんだよねだ

からこういうデューラーとかファンエイク みたいな北の方のまフランドルハかま ドイツの ルネサンスアルプスよりも北の特有の射術 主義やたらディテールにこだわって質感 表現が見事なこういう絵書き方これに戻っ た時にあのリセは仲間から時代を逆行して るってみんなセザンヌとかねキュビスムと か新しいことやってるのにねなんで ルネサンスなんですかみたいなこと言われ たんだけどまず実のこの基本に戻らんとあ かんっていうことででその犯としたのが これデューラーやファンエイクだったわけ ですよでそこになんとかやされどよはね 日本人の洋画であるからしてね日本人独特 の美というものを表現していかねばならぬ ってま色々考え始めるわけです よでそれをこう色々実験模索していく上で このレイ子っていう子はまどちらかと言え ば和風美人なんですようんで和風美人でま 子供だからやっぱり顔でかいですようん 格好の題材だったんじゃないかと思うん ですよね うんでもうここからもうバリバリ書き始め えていくわけなんですよねえ1920年に なるとですね今度初めてのこの立ち姿を うん書きましたレコ流造ですねでもうこの 1920年の時点でこの重要文化剤のこの 作品はこれ1921年1921年だからレ 9歳の時の作品なんですけどもまその1年 前にですねすでに ここまで来てるんです よこの時点でもうこの方向性しっかり 決まっててうんでこの1年後にできたのが これですね今重要文化題になってるこの 作品というわけなんです よ でやっぱ基本これ射術的ではあるんですよ うん不気味だ不気味だ言うけどこういう顔 ではあるんですよちょうどこの絵が書かれ た頃の 子はこんな感じなんですよ うんちなみにこれあの一緒に住んでた岸田 流星の妹さんのテルコさんって人なんだ けどうんこの人が結構今風のサウス美人 であのリセもよく書いてるんだけど ね決して似てなくはないんですようん立で はあるんですけれどもやっぱもう非常に こう横にこうてうん顔がでかくなってでま 顔に対して体やてが小さいというねこう いうデフォルメを加えてるそしてもうこの 流星って質感の表現が天才的なんだよね うん本当にうまいんだよあの生物がなんか 見ても本当にうまいあのエイク波と言って もいいかもしれないけどもこれなんかもの

柄これが麺の夏のあれだなとか この片影太いケトで手編みしたやつだな みたいなその布字の違いセザンヌが死んで もかけなかったやつだよこの布字の違いの 質感表現とか抜群にうまいんだよねこの人 もうやっぱり仲間たちもみんなそれそこは 認めていたところなんだけれどもまこう いう形で自分の本人としての洋画の美って いうのを模索していくんですよでやっぱ これで1つ掴んだんですよあの方向性を でここにとまらなくてですねこれが 1921年でしょ次の22年がね霊光造の 大方策の年なんだよねいろんな冷子造は出 てきますねで2月にはもうこの住吉モって いうねこたこうやっぱこう方向性 は茶色なくなった よ3月 に2人れこってこれここれ相当移植作なん ですよ うん冷子がれい子の髪をいじってるみたい なでこっちのれい子はこのれこそのれ子だ けどこっちの連子はリアルなうん子だっ たりみたい でまたやっぱりこの服着物のあの書き分け とか抜群にうまいわけですよねまこの2月 3月来てそしてこの22年の5月に登場 するの がこれなんです よついにここまで来ちゃったんですよこれ も一応冷子微傷これも微傷してるんですよ うんこれはまモナリザを外意識したあれに なってますけどねもう微少どころか笑っ ちゃってるんですけどもこれを野道女野の 渡辺の女野道女とう書いたんですけども これはさすがにって感じじゃないですか そうですねちょっと怖いですねねでもこれ がここの作品がどういう風にできていきた かを見ることがやっぱりこの不気味 さの理由を知る鍵でもあると思うんです よというのは これすごくここ読みにくいんだけど両側に 字書いてあるんだよこっちにその野道女 っていうタイトルが書いてあってこっちも もうほぼこれ拡大しても読めないと思うん だけどもえっとねここの左に この学元気筆寒山図元気が書いた寒山図に 学んだとふ書いてあるんですよでこの元気 必寒山図って何よっていう話なんですけど も何に学んなんですかっていう話なんです けども元気必観山図これなんです よこれこれ眼っていうは中国のま南の 終わりから現代にかけてえ活躍した画家な んですよね偉いえい画家ですよ中国ので このガキま関山徳図を書いてる中のも間山 これも東白に東京国立博物館にあってえ

重要文化剤です よやつなんですけどもこれこれだと東洋の 美はこれだっつうわけですようんでこれ山 いういうのは神山徳は知ってる聞いたこと いろんな人が書いてるからあれなんだけど あの神山徳で当の時代にあの中国の天台産 にいたと言われる伝説の風教層もうあの 変わったお坊さんでもうあのホームレス みたいな感じでさあれしてあお寺のザパ 漁りに来るんだよでまたザパさんに来た なって言うと神山の方はきゃははてって 話題逃げるっていそう人がいつも神笑って 書かれてるんだけれどもねこれだと思った わけですで流星 はあのほら記録もだから日記にこの作品に ついて書いてるんですけどもガキの寒山の グロテスクの味からヒントを得た モティーフだモティーフだとこれの グロテスクさちゅうものからヒントを得た んだとで元気のこの絵の写真版ををえ脇に 置いて半分もして構図を取り冷子を書くと うんこれを見 ながらレコモにして書いたわけですよで これ結構時間かかって5月の16日に野道 女もうタイトルは決まったんだねその頃 野道女の顔がどうも少し力が弱いのでそれ を直したとで明日から4日ほどでこう学校 休ませて仕事をやろうと思ってこの調子で この 人しばしばねこ学校休ませてるんだよ モデルをするためにまちょっとそこもどう かと思うんだけどポイントはとにかくその 元気のこの味をレコで出すんだっていう ことをやってるんですよねはっきり はっきりやってるんですよこれでそいもう 徹底的にこう追求しててちなみにさっきの こう流星の絵日記の絵部分ってここなんだ よねうん豆で本当に天気も全部メモしてる んだよだからこの年の沼の天気流星の日記 で全部わかるっていうでそれをまた研究し てる人もいたりなんかしてふうんこれ まさにこれでこんなささって書いた絵でも わかるってとこがやっぱ流星ってうまいん だなっていうのは分かるけどねこれにあの 4日学校休ませるとか書いてるんだ けどこれを追求したんですよでこのガキ 追求はどんどん進んでもうこんなのまで ここまで寒山風令子ってもはや令子じゃ ねえよこれっていこれはあの炭で書いてる んだよねうん眼形をまねて妖怪みたいいや 妖怪みたいなだけどこのグロテスクさと いうのがこれが東洋の美男だとうんこの顔 は女屋なんかは元気に習うとうんでこの 色彩この特に赤をねえあれした色彩へね 赤黒ちゃみたいなってねごやっぽいという

人もいるかもしれないけれどもねこれはね 赤その他の色調の持つ遺的なグロテスクは 急激に負うところがあるって急激ってあの 当時審判劇ってのが出ててそれに対して昔 からある歌舞伎とかのことが急激なんで うんだいわあの歌舞伎とかの際式の感じあ あの感じもう悪趣一歩手前の感じでこの グロテスクの絵っていうのももう悪趣味 一歩手前じゃないうんそこのところに 西洋人ファンエイクとかデューラーには けけない世の射術世の冷子像があるのだて いうことなんですよ流の目指したのはそれ なんですよだ最初からその不気味で グロテスクなもん目てからそれは不気味で もしょうがないんですようんあえてなん ですよあえての不気味なんですよ これどんどんレコモデルに冷子僧を追求し ていくんですけども今これ重要文化剤に なってるじゃないだけど流星自身が1番 いいと思ってたのはこれなんだよね 1923年にれたより 不気味なんですよこれがえドジズっていう えタイトルをつけたんだけれどもこれ で世のレコは1つの頂点に足した言ってん だようんこれは世の肖像画の中でも最も 優れたものであろうと思言ってんだようん この世のできたことを感謝するだから本人 はこっちよりもこれでレコ像は1ピークに 足したとへえまその目指してたのがさの ガキの元気のグロテスクとか歌舞伎の国際 式とかそういう感じだからま確かに狙って たのこっちなんだろうなっていう気がする んだけどねだ1923年このえ道場図を 持ってえ流星本人は冷子僧の一頂点を極め たという風に思ってるわけですよでまえ 山内も人の娘として さこういう風に書かれることはどうですか ま娘だったらあんまり嬉しくないかなとは 思いますけどだよねはいあのレコ自身は嫌 じゃなかったのか問題っていうのが学校 休まさせられて までこんな書かれるのは嫌じゃなかったの か問題ってのがあるんですけどもどうも嫌 じゃなかったっぽいんだよこれはへでまず 第一にさあのそれ今だからそういう風に 思うかもしれないけどそんな3歳とか5歳 の頃ってわかんないだろう ああでもう花からそういうもんだと思っ てるわけじゃお父様の書絵っていうのは変 だ とでもそれがきっと芸術なんだろうとか それが西洋がなんだろうとか思ってるわけ だから特に嫌っていう感情もまだあまり ないんだよそれよりもその当時のレコの頭 の中であったのはモデルするはしんどいっ

ていうあこう星座とかずっとさせられてる からあのしんどいんだよでそれをねどうし てあの耐えられたかっていうののその1つ の理由がねあのこの当時リセがれい子と 一緒によく書いてた村娘お祭っていうのが いるんだよ沼の近くに住んでたレコとも 友達だった子なんだけどこの子を書いた生 の絵ってすごいんだよ金子国吉さんの絵 みたいなんだよこれほら同じ肩かけして 抱えてるよこのおまっちゃんと2人であの どっちが我慢できるかみたい な我慢競争とかをしながらあれしたとほれ でもやっぱり涙が出てきたこともあった けどねあのそれをあの父に知られないよう にあの我慢したものだみたいなで足が しびれちゃってんえ立てなくなっちゃうん だってほいでこう4つばになって歩いたり なんかするんだけどそれを本人はあの馬の 足になっ たてあの田さんの生まれたての小馬と一緒 だ よ馬の足になった馬の足になったっ言って はしゃいで喜んだりしながらまモデル をやって言ってるんだよねでやっぱりこの お父さんの役に立ててるっていうことが 嬉しいだよああやっぱり子供だからもう そういうね娘の1番可愛い頃だよ親の役に 立てて喜んでくれるみたいなちょっとお 使いしてさ褒めてやっただけでお喜びみた ちょろいもんだよもう1番可愛い頃だよで もう乳先の日記に抱えた鈴子っていうのは 本当に明るくて元気であのそう明でさ ちょっとおしでであといずも大好きでっっ ていう まそれて男親にとってもう理想的な可愛い 娘なんだよねだから流星といえば潔癖症と 感触持ちっていうのが有名なんだけど やっぱ感触を起こしたりするんだけども すぐにねあの霊光に対してはね感触を 起こしそうになると海に行って気持ちを 沈めてから来てあの悪いお父様海に捨てて きたからもういいお父様になったよとか つって来てくるでもうね本当にすごいよ れい子の歌作ったりふいい子のれい子 入れ子てなんかね賛美カ長なんだってこの 歌あと群家長の歌とかもあっんだって作っ たりとかねあとね漫画をよく書いてあげ てるんだようんそのレコのこういたずらを からかったり痛めたりする漫画やら書いて てこれお花の風船っていうやつでこれ簡単 に言うとちゃんと鼻水垂らしてのでお花 噛まなきゃダメだってお母さんが言うわけ なんだけどいつも鼻ちちしてるとれい子は で鼻ちちがでかくなってプルと取れたら これに色塗ったら手まりになるんじゃない

かと思って手まりにして晴れしてたら パーンとはぜてあの絵の具とお花が顔に べちゃりつきましたみたいなお花はよく 噛みましょうねみたいなうんそういう話な んだよでつさ面白いのがさバカちゃんシ リーズってのがあっ てあの昔あるところにバカがいました みたいなのではあるところにバカがおり ましたっていう話なんだけどこの物語は どういうあれかって言うとバカはね玄関の ところにあってお客様の手袋とお父様の ステッキを持ってねお客様の手袋頭に乗せ てねステッキを持っておもに遊びに行き ましたとそれでステッキと手袋どっかに 置いて帰ってきちゃいましたとお客様帰っ たとろとしたって袋がないとお父様も ステッキが抱いてて大騒ぎなってお父様に 怒られてビビア泣きましたとうんでその バカというのはね総州沼海岸松本総に住む 岸田れい子というものですそれが落ちなん だよへえでこのバカちゃんシリーズをよく 書いてるんだけど書いてる流星の方が親 バカだよって いう感じもうこんな感じの可愛がり方なん ですよこれはねあのでれい子がさ ちっちゃい頃自分のことやっぱりれって 言えないわけですよデコになるわけですよ だからもうせはでこちゃんでこちゃんって 呼んでもう猫可愛がりなんだよねでこれ 小沼時代の家族の感じがこんな感じなん ですようんあ もういかにもこういたずらそうなで幸せ 家族だよこれこれいい写真なんですようん これ誰が撮ったかていうと滋賀尚弥が撮っ てるんですよへえ滋賀尚弥もほら白樺派の 流星白樺派の特に武者の浩司さんのやつや なんかとすごく仲が良くて白樺のあの雑誌 に挿し絵も書いたりなんかしてたから滋賀 尚弥が沼に遊びに来た時に撮った写真なん だけれどもこの頃の流星一家のいい 感じがよくあられてるんだよねうんだこう いう感じの中でこのレコ僧は生まれたわけ です よこのま一応本人がの最高最高傑作と並べ て紹介してあげたですけどねこういうバカ ちゃんとか書きながらこういう絵が完成し ていったわけなんです よところがですよこの1923年のこの 作品これ 以後は次の たった1枚を残して突然冷子像が消えて しまうんですよ えこれ1923年の道場図これが岸田流星 はこの重要文化財のこの冷子美称成果 持てる以上に世の肖像画の中で最も優れた

ものであろうとまで言い切った作品 1923年作品なんだけどこれ以後急激に 令子が減っていくわけです よで1924年になる とこちらですねこれが最後の冷子僧道場 舞姿うんでこれ以後はこういう例えば遊木 とかこれみかですようみかの作品が何枚か あるんだけれども完成した冷子僧は 1924年のこれが最後なんですようんだ 1923年のこの作品とこの2つの作品の 間に何があったのかということなんです けれどもこれは想像がつきますよね 1923年に何がありましたか関東大そう なんですよああ関東大震災なんですよこれ がその1923年6月の岸だけ流星あの 若い頃と比べればだいぶ太ってこれから どんどん太ってくんね岸田流星レコ持 大きくなりました奥さんサウス美人の妹の テルコさんお手伝いさんとか諸生さんたち これがその沼の住んでた知り合いの別荘の 社屋なんですよねここで家族のデコ像が 描かれてででこもここでスクスク育った これが1923年6月1923年9 月3日ぐらいこれですよもうほぼ反回と 言われてますけどほぼ全開ですねうんうん これ流星これ令子もう奥さんもうボロボロ 妹さんももう妹さんこの時目怪我してるん でねうんうんこれあかんということでまず 最初名古屋の地人を頼って名古屋に逃げて そっから最終的にえ京都に住むことになる んですよそっから2年間の京都時代が 始まるのね岸田流星ので この道場前姿は京都で書かれた作品なん ですよだから京都行ってもま力のある作品 ですよねこの辺と比べて遜色のない作品を えま書いたんですけどその後はさっきも 言ったようにこんなみか星の図を何万か 残すのみでレコ像は消えてしまうんですよ うんまその理由はいくつかあると思うん ですけれども理由を解く限の1つはねこの 絵の中にあってこの絵についてまたまだ キマ流星は日記によく書いてるんですよ 元々これ普通に立ってるあれだったんだっ てだけどそのポーズが堅苦しかったので 行く分舞姿のようにすると書き直したんね でこうするとずっと浮き風の味が加わると まきで見てやる2枚折りの方の平部の女前 の形に似たものになるとどの形よりもいい 修ができようと随分心が踊るって書いてる んだようんでこのまつの見てやる2枚折り の方の病夫の名前の形って何かって言う とこれなんですようーんこれちょっと モノクロの図販しかなかったんですけども これが2つ折りの平部であの男女マズって いう男と女が待ってる屋なんですけどこれ

を意識してこれを書いたんですですよで そのことによってこの浮き風の味が加わる つってるのうんでここで言ってる浮きつう のはあのいわゆるハガの浮じゃなくって こういう肉筆浮なので実はこの岸田流星 って元々小美術が好きな人だったんだけど 京都行くといっぱいあるじゃんそういう店 がうんそいで小鼻術熱に火がついちゃうん だよそいで自分のことを絵が書いたいて ペンネームつけちゃって海にたなんだけど 絵が描いたいなんだよおお絵が解体解体で でこのまきで見てやるてまきっていうのが 小賞なんだよいいかもになるんだ よでこれもうそこのマキの店で見せられて 欲しくてしょうがなくって買ったんだよで ここから辺から始まってどんどんどんどん この浮なの岩ま風のやつをバコバコ買っ てくの結構な値段なんだようんほんでそれ をまどんどん買ってくためにさお金が必要 になってくるんだよでしかもそれやって術 漁りを始めるとさ京都の旦那州とかとも こう人脈ができてきて遊び人とかいるわけ だよですっかりお茶遊びに目覚めちゃっ てでもうもあの稽に入れ込んだりなんかし ちゃって打ち帰らなくなっちゃうんだよん で金も全然もうつかないようになってきて もうバコバコ絵画から結構荒れた絵も書い てる時期なんだよねだからその辺なんです よで実際このどうしてその初期のね肉筆浮 とかに引かれたかって言うとあの元々の 冷子像で目指していたグロテスク風味 あるいはその歌舞伎的な国際式の グロテスクと歌舞伎的な国際式みたいな もののま1つのその現れとしてこの初期浮 に見られるなんともこの利金な感じとか それからちょうどこの当時京都ガダンでは あの最近人気の海の賞をたとかみたいな 不気味な日本が大ブームの頃なんですよ うんそういう魅力を岸田セが うんデロとした感じというんで岩やカの 翔太のデロの魅力っていうのを令子で追求 したわけですよここでうんだここでまた1 つ扉が開いてあなたの冷子像がどんどん かかれていってもいいのにうん全然止まっ てしまったとうんま1つはそのざまになっ ちゃってあんまり打ち帰ってこなくなっ たってのもあるんだけどでも絵は書いてる んですようんあの捜索意欲はむしろそのお 金が必要だからむしろたくさん書いている わけでどうしてこの方面を追求していか なかったのかっていうとこなんですよね れい子さんの娘さんだから流星の孫の岸田 ナツ子さんがねこんなこと書いてるんです けども1番大きな原因は令子の健康にあっ たことを知る人はほとんどいないって書い

てあるんで京都に来てれは健康がすれなく なって学校にも通えなくなったとで学校の 先生がうちに来てあの勉強教えてもらって たぐらいでとてもモデルが勤まる状態では なかったみたいなことが書いてあるのねま 不登校になっちゃったわけですようんで これはちょっと俺の想像だからあのなんと も うん失礼に当たるかもしれないんだけど俺 が思うにだよ10歳の時に東京から大阪に 引っ越して苦労した俺がにだよ多分ね なじめなかったとかいじめとかあったと 思うんだようんあの悪意のないいじめね うん教科書読むだけで笑われたりあと東京 って自信あんねやろとかなんでもおしかけ はんねんなとかその類いのえこととかあっ たんじゃないかと思うんだよだってクゲマ 時あんなに元気なんだもんそれで2年後に 鎌倉戻るともう途端に学校復帰してんだ なんか京都の学校になじめなかった部分も あったんじゃないかと思うんですようん じゃあ鎌倉帰ったらねもうすぐ学校復帰し てえ鎌倉尋常小学校から鎌倉工場今の鎌倉 女学院ですよ 神女か条通ったるなレコの健康回復してで 鎌倉戻ってきたら流星のお茶屋遊びもま 収まるじゃないすかうんねそれでもなんで 書き始めなかったのかなっていうような ことを色々考える [音楽] と俺は1番の原因は健康も去ることながら この人が大人になってきた成長したんだよ 令子の成長に伴ってさの親子関係が変わっ たんだようんで俺がこう娘を持つ父親の間 では10歳の壁と言ってるんですけどうん 大体10歳ぐらいで娘って他人になってく んですよ要するに娘が父親を嫌がり始める んですようんでねその兆候をねこれも色々 見たらねもうやっぱ沼沼時代からねすでに あるんだよちょうどやっぱこの10歳に なった頃の1922年の日記にあったそう これなんだ けど2人で海水よ行って体洗わなきゃっ つってレコ風呂に入れたっていう日記なん だけどこの時にヨ入るのが嫌だぞで涙を こぼしていた が入れたら喜んで いるそう思ってんのは多分流星だけだよね もうお父さんとお風呂入るの嫌な年になっ てるんだよこの時点でうん大体10歳だよ ま今もっと早いようんこのとからお父さん 臭いとか言い出すんだよでましてさこの 京都時代はこう学校にも馴染めないみたい なこうメンタルもあるわけじゃないですか うんでしかもお父様にいたってはさもう

12歳ぐらいになってんですよ京都時代の 123歳自分とあんまり年も変わらぬ マイクをはべらせてさいい調子なわけじゃ ないですかお父様帰ってくるじゃ酒臭い わけじゃないですかうんどうですかそんな お父さんはいやちょっと近づきたくない ですねうんお父様不潔が出るでしょそれ出 ですねただでさえちょっとお父さんが嫌に なってくる年頃なのにそのお父さんがその 調子だからうんそれがあったんじゃないか と思うんですようんこの京都時代のリセと レコの写真があるんだけどうんポイントは もう体が触れてないんだよあんだけいそれ までベタベタしてた2人がこ確実に距離が あるんだよいい感じで太っちゃって さ年中酒臭くてなんだか知らないけど帰っ てこないお父さんもうこんなに大きくなっ てんだよねこもちょっと写真も嫌そうです もんねもう違うだろあの沼時代の頃と全然 違うでしょこれが俺1番の原因なんじゃ ないのかなっていう気がするんだよねま 当たり前のことなんでやっぱりいつまでも 子供が親の思い通りになるとは限らない わけですよましてその男親にとって娘って いうのはある程度のあれになってくると パパと一緒に下着洗わないでが出るわけ じゃないですかそれがあったでそうすると やっぱりこう父親の方もさどうせしていい のか分からなくなってくるんだよ娘と何を してもだってあんなになんだよみたいなお さんと一緒にお風呂入って喜んでたじゃ ないかみたいなそういうところが嫌みたい なこと言われるじゃんだ自生としてももう あんまりモデルになってくれても言えない し加えてらねこの頃になってくると大体 お父様どうして私をこんな風に書くんです かが出てくる よお父様のお役に立てて嬉しいだけの年 じくますよこれが私ですかみたいな本当の 私はこうですよだからねこれだからやっぱ 親子関係の問題だと思うんだよ小僧が書か れなくなってきたっていうこれはねこう 男親としてはねそれを思うと色々切ない ですよそれはしょうがねえなって思うよで またこういうこと言うと戦えるかもしれ ないけどだからもう余計家に帰りたく なくなるよってあるよ そりゃそんなことなんじゃないかなと思う んですよねうんまこうしてその父と娘の 蜜月が終わるとともに霊行造もの時代も 終わりを告げるんですけれどもうん流星は 38歳の若生亡くなるんだけど亡くなる 最後の年にもう1度だけ冷子を書いてるん ですよ へえは1929年だ亡くなった年その年の

お正月1月1日に猫子がだからえっと29 年だから万の15歳かの16歳になってる んだけど初めて日本神を言ったんだよお 正月にそれがすごく恥ずかしいっつって 本人はみんながどんだけ進めても表に出 なかったってうん言うんだけど初めて 日本神を言ったわけでその子を書いたん ですよ令子16歳の像で最初書いてこう だったんですようんでこれを書き終えて すぐもう1枚書いたんです よでこれすごく俺面白いなと思ったんです よというのはこっちにはちょっとこれ残っ てるんですようん思ってるでしょはいだ けど現実の子はもうこうなんですようんだ から久しぶりにレコ書いていつもの調子で こうなっちゃっただけど違うといかんと またお父様は私グロテスクにかくっ て言われるかもしらんつっていやちゃんと 書けるよっってう うんこれをこう並べるとねそんなのが見え てくるんですよこれはリセが思い直してあ こっちだいかん思って書き直したんじゃ ないかなと思うんだよねうんもうだから これ霊僧っていうのはなんだかんだ言うて これもう流星の理想の少女像なわけだよ 流星の美色にとっての理想の少女像なんだ けどこちらのか16歳のこちらの肖像は まだそれを引きずってたけどいや違うと この子はもう岸田子っていう1人の別人格 なんだとお父様の猫子じゃなくて1人の こう別人格なんだよっていうことを流星 ようやく認めたんじゃないかなという気が しますねでこの年の9月の終わりにあの 満州にえ旅行にまあの絵書いたり売ったり するために満州行ってで帰りに山口県の あのシリアのところに滞在してる時に急に 具合が悪くなって30発でなくなっちゃう わけだよだこれが最後の冷光造になって しまった わけなんですよまずっと一貫してこう冷子 僧は右向きなのかなと思ったんですけど リアルああそうだね初めて左向きを見まし たねいいところに気づいたねやっぱりだ からこれ冷子造じゃないんだようん いわゆる流星の冷子造にこれやったらなっ ちゃったから違うとこれは岸田令子の肖像 うん子という1人の女性の肖像だという ことがもしかしたらあったのかもよで同時 にこれ縦長のあれで書いてるからもしかし たらこうついにしようかとつら思っそんな ことも考えたのかもしれ ない切ないなってこもうね娘をうしだっ たらねみんな分かると思いますよでこの子 は実は小さい頃からやっぱり絵が好きだっ たんですよでまた岸田セがそれを大変喜ん

で世の絵画教育っていう絵画教育の本まで 書いてそこにやたら猫子の作品載せてるん だけれども親バカだ からこれ8歳の時に書いたこれは私の絵 ですすええこれあの例のあれだろおこれだ よねうん上手もう歳上手ですよでだけど 我が間違ってますって直され て歯でしょってそれで10歳の時には なんか姿勢堂で行われたね児童絵画 コンクールみたいなので優等賞をもらっ てるんですよでもう日記に喜んで書いてる んですよ流星死生堂で令子腕時計のご褒美 もらうのずってうんこの優等の商品に 腕時計もらったんだってでこの下に書いて ある日記読むとなんかくれるらしいよっ つってお父さんま腕時計だったつって嬉し そうに持ってきたつってえ可愛かった頃の レコの話で書いてんですけどこういう風に 絵がうまいんですようんなのでもうこの頃 には画家を心ざしてて17歳の時に国画 会見っていうところにもう出品してるん ですよ画家としてでま画家になりたいって いう流星ともそれ話をしたことがあるん だってで美術学校に行きたいみたいなこと あのあの女子ビジネス学校とかあったから ね話したんだけどいやそんな学校に行く よりもね良い先生についてね自分でやった 方がいいんだといくらでも紹介するぞ みたいなうんことを言われてま自分で ずっとやっててでその後前回紹介した写真 に滋賀尚弥が撮ってたことが分かるように 白の連中と仲良くたよねで武者の浩司さん のやつとすごい仲良くたんだ1番仲良かっ たんだよで武の工事たちがあの新しい木村 運動っていうのを農村ぐらし運動をやって たないでレコそれに参加したりしてそこで 知り合った人と結婚して和歌山行ったり するんだけどその間もずっと絵描き続け てるんだよねもうこれはだいぶ後になって からだけどもう自画像令子による冷子像 ですよ ほおもうちょうど40歳の頃のふ冷子像だ ねでそしてれこもまた自分の娘をへえ書く んですよ うんこれね花と少女これがだかられい子 さんの娘さん流星の孫の岸田ナツ子さん ちょっと冷子僧入ってねえ かって確かに思うでこの頃も岸田子さん 15歳ぐらいだからお母様ちょっとれこ 入ってませんかでこの子も画家になるん ですよこの子はお母さんにあのやっぱり画 になりたいつってあれして私が美術学 行かしてもらなかったけどあたは行けば いいわみたいなことであの芸大出てこの子 も画家になるっていううんだリセそれ知っ

たらもう喜んでたと思いますよ令子自身も 孫もねうんがになったつったらねもうそれ は泣いて喜んだと思いますよでこの岸田 れい子さんがその流星との思い出を書いた 1枚があるんです よそ写真を元に書いた1枚なんですけどね この写真を元に書いた作品なんですけど これ おおここにタイトルが書いてあるんだけど 1923年8月の思い出って書いてあるん だようんこの1923年8月関東大震災の 直前だようんだから流星が1番だと言わの レコが完成してあの滋賀が撮った写真 なんかでもいっか幸せでまレイ子はまだ お父さんの良いレイ子でモデルになって くれてお父様と一緒にいるのが楽しくて しょうがなかった時代の最後の時代ですよ うんもうこれすごい象徴的だなと思って うんそれで流星が笑ってるんですよこれ 写真でも笑ってんだけどうん写真以上に 笑ってるんですよねでこの8月のこの光 ですよだから連子これまだ11歳の頃です ねまこの後だから関東大震災があって京と 言って連子子供なに苦労するわけですよ うんだからこれがなんていうか何も考えず にお父さんお母さんに守られてスクスク 育ってられた幸せな子供時代の最後だった んだよ多分うんこの子にとってもうんもう 写真もめちゃくちゃあるんだよこの一家数 写真の中でこ選んだっていうのがお父様と 一緒に霊行造を作り続けたこの沼時代って いうのがこの子にとって1番 楽しい時代だったっていうことなんじゃ ないかなと思うんですよねこの絵すごい いいなと思ってうん写真を元に書いた絵と はいえねすごくいい絵なんですよこの父と 娘のなんていうのかな幸せなミ時代っての があるわけですよ娘が10歳ぐらいにまで の間11歳まで頑張ったんだからよく 頑張ったよれい子は親高校だよこれがこう なっちゃうんだからさこうなっちゃった 直後にお父さんなくなるからもっとお父様 に優しくしとけばよかったって後悔したか もしれないようんそういうこともあっての この思い出なのかもしれないうんだこの霊 小僧っていうのはね本当にこの父と娘の 幸せな時代その時代にまたこの流星の短い 画家人生のピークが当たってんだよねクの 間代っていうそれが重なって生まれたそう いうま幸せな傑作って言えるんじゃないか なっていう気がしますねだ不気味じゃない んですよこれはこういう幸せの中から 生まれた絵なんですよというお話でした いかがですか娘さんとして山内もお父さん に優しくしてやろうと思いませんかそう

ですねまでも同じ瞬間を幸せに感じて たっていうの すごく良かったなとうんうんそういう時代 もあっただろうそうですね10歳になる前 まであった気がしますねあっただろうはい お父さんに肩車してもらったりするのが 嬉しかった時代もうんあっただろううん いわゆるそれが産んだ絵なんだよこれは [音楽] ふ [音楽] Ha

00:00 前編【岸田劉生】実の娘を描いたのに…なんだか不気味で怖い?その理由とは【麗子像】https://youtu.be/5HHLzqPQ4lc?si=l77-xsBFVHTeF0SF

33:35 後編【描けなくなった麗子像】知ると泣ける😢父娘の切なすぎる真実!?岸田劉生の傑作・麗子像の悲しき終焉に…五郎涙声…【デロリ】https://youtu.be/xNwTcWEPRTg?si=evrsg2EtKYGdBGjt

🎈出演🎈   山田五郎
🎨企画・編集・イラスト🎨 東阪企画
🚀切り抜き・テロップ処理🚀 【公認】山田五郎, Goro YAMADA【切り抜き隊】
🖼画像引用🖼 ウィキメディア・コモンズ

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