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【2024 01 20】シンポジウム「特別史跡の古墳群を語る」

皆様お待たせいたしました本日はお足元の 悪い中ご参加いただきまして誠に ありがとうござい ますただいまよりシンポジウム特別史跡の 古墳群を語る岩瀬千塚咲たサイトバの価値 と魅力を始めさせていただきます私は本日 の司会を務めます上田地と申しますどうぞ よろしくお願いいたし ますありがとうございますえ本日は和歌山 県聴覚障害者情報センターの方々にシ通訳 をお願いしており ますまた本日はインターネットでライブ 配信を行っておりますライブ配信でご覧の 皆様もありがとうございますえ画面下の 概要欄からシンポジウムの資料をご覧 いただけますのでえ必要な方はそちらから アクセスをお願いいたしますえ本日午後5 時頃の終了を予定しておりますどうぞ最後 までお付き合いいただきますように よろしくお願いいたし ますそれでは開会にあたり主催者を代表し て和歌山県教育委員会教育長宮崎泉よりご 挨拶を申し上げ ます え皆さんおはようございますえあのえ 和歌山県の教育長をやっております宮崎と 申しますえこのえシンポジウム和歌山県 教育委員会が主催をさせていただいてます え本日はえご来場いただいた皆様をはめえ ライブ配信でえご視聴いただいている皆様 に対しまして本当に改めてえ熱礼を 申し上げたいと思いますありがとうござい ます えまずえ野半島地震におきまして被災され た方々にお見舞いを申し上げるととにえ 亡くなられた方々に愛東の意を表したいと 思います被災地の1日も早い復興をお祈り しており ますえさてえ和歌山市にある岩瀬千塚古墳 軍え温世紀から7世紀に和歌山平野と東部 ですね和歌山平野の東部の方に一致しまし て給料中になりますそこに立てられた約 900mのからなる古墳群をま岩瀬千塚 小群という風に言っておりますえ現在と いうかあの先日ま出たかあの500機余り のですね古墳を含むえ62ヘクタールが国 の特別史跡に指定されておりましてえ昭和 46年に木不の丘ということで解説を いたしました現在は博物館のえ新設建設 新刊建設をえ行う予定でありましてえま令 和10年ぐらいに完成する予定でござい ます特別指跡へのまた追加指定もえ進めて いるところであります え和歌山県内では県民のま学校教育とか 社会教育の場として えま県民のあのまえ意の場ですねとして ですねまあの割と致命度が高いんです けれどもえま県外におきましてはえ まだまだその価値に見合った認知度評価が え得られていないとま感じておりますえ このような状況の中でえ今回え岩瀬千塚 古墳軍とえ同様に国のえ宝であるえ特別 史跡の指定を受けている古墳軍っていうの が3つございますえ岩瀬千塚古墳軍とそれ から埼玉県の玉古墳軍それから宮崎県の サイトバル古墳軍えこの両者は非常に有名 でありますえそれと同等いやそれ以上だと いう風にま十分してるんですがえ和歌山の え岩塚古墳群をクローズアップして認知度 を高めていきたいなという風に思っている 次第でありますえ本日はえ来賓としまして 文化庁の山下新一郎様え文化財監査官で ありますにご臨席を賜っております えそれからえ文庁文化財第2下のえ大俊秀 主任調査官えシンポジウムのあの講演とし ましてえ大阪大学人文学区研究家の福永 深夜教授え明治大学の文学部の若狭徹教授 それから熊本大学文学部の杉授にえお願い をしておりますえこのも通じて岩瀬千塚 古墳軍をはめとする特別主席の古墳軍に ついての理解が深まりえこれらが日本の 古墳時代にどのよう に位置づけられたかっていうことを理解し ていただいてですねえより多くの方々に岩 先古軍のファンになっていただきたいなと いうことでお願いをいたしましてえ私の 開会の挨拶とさせていただきます本日は どうぞよろしくお願いいたします ありがとうございます 和歌山県教育委員会教育長宮崎泉でし た次に後来品を代表して文化庁文化財監査 官山下新一郎様よりご挨拶を頂戴いたし ます山下様は原職に疲れる以前に秘跡部門 主任文化財調査官として多数の席特別席に 携わった経験をお持ちですそれでは山下様 よろしくお願いいたし ます皆さん こんにちはご紹介いただきましたえ文化庁 文化財監査官の山下新一郎と申しますえ まずえご挨拶に先立ちましてえ今月1日に 発生しました野半島地震によって亡くなら れた方々に心からお悔みを申し上げますと ともに記載されました全ての方々にお 見舞いを申し上げます文化庁といたしまし ても地元自治体や関係機関と連携しつつ 文化財の被害の状況の早急な把握を行って いるところですが今後の復旧支援に対し まして全力で取り組んでまる主導であり ます さて本日はシンポジウム特別史跡の古墳群 を語るがえ本日多数のご来場の皆様 リモートの皆様のも盛大に開催されます こと誠におめでとうござい ます本シンポジウムはえ先ほど教育所様 からもお話ございましたように和歌山県の 岩瀬千頭湖墳軍埼玉県の埼玉古墳郡そして 宮崎県のサイトバル古墳群の3つの古墳群 を取り上げその価値と魅力を発信しようと するものと伺っており私も文化庁としまし ても大変喜んでいるところでござい ますまたこれら3つの古墳群は国の特別 主席に指定を受けております特別的とは 文化財保護法に基づき日本の歴史を理解 する上で欠かせないものとしてえ跡に指定 されたもののうち特に重要なものを我が国 文化の象徴として厳重に保護を行う仕組み でございます現在え指定席が 1888件そのうち特別指定の指摘は63 件でございます3つの古墳群は日本を代表 する古墳群であるだけではなく日本を代表 する遺跡としても変貴重な存在と考えて おり ます本日は学会でご活躍の古墳時代の研究 者の方々によります各古墳軍の歴史的及び 学術的な価値についてのご講演また私とも 文化庁の主任文化財調査官より特別てのご 説明えそしてその後のシンポジウムでえ さらなるご検討が行われると伺っており 大変楽しみにしており ます日本列島の古代国家の成におけます各 古墳群の具体的な姿の一端が本進歩により 明らかにされえ3つの古墳群をはめとし ます文化財への理解が深まりえその魅力が 増進していきますことを心よりえ願って おりますそもそも日本の各地域におきまし て育まれてきた様々な文化罪はえ地域や国 の歴史や文化を理解する上で欠かせない 存在です現代の人々が暮らしていく中で腰 方行末を考える際の手がかりとなり地域の 人々の心の家庭えとなるものですさらには 地域のシンボルとして人々が集い地域の 内外の観光資源ともなり得るま地域社会に とってはなくてはならない存在 ですこれらをしっかり守り育てそして活用 していくことが地域社会の持続的発展に つながるものと考えております本日の シンポジウムがこうした文化財が持つ力 すなわち文化力でございますが文化力に よってえ日本を元気にしていくそしてえ 社会総画会で文化財を継承していくことに 向けた良い機会となりますことを願って おります結びに本シンポジウムの準備に 当たられました和歌山県教育委員会の皆様 関係の皆様に改めて感謝を申し上げ簡単で ございますがご挨拶させていただきます例 は6年1月20日文化庁文化財監査官山下 新郎本日は開催誠におめでとうござい ます山下様ありがとうございまし たここで本シンポジウムの趣旨についてご 説明をさせていただき ます和歌山県教育長生涯学習局文海遺産科 長柿本和夫よりご説明をさせていただき ますそれでは柿本課長よろしくお願い いたし ます 皆さんこんにちはえ本日は多数のご来場ご 視聴ありがとうございますえ私からは本え 本シンポジウムの開催趣旨を簡単にご説明 させていただき ますえ日本ではえ47万え2071件の 移籍が把握されそのうち15万953件が 古墳と認識されていますこれらのえ遺跡の うち我が国の歴史の理解のために書くこと ができずかつその遺跡の規模意行出と異物 等において学術上の価値のある遺跡はえ 文化財保護法の規定により史跡に指定さ れることになり ますさらに史跡のうちえ術え学術上の価値 が特に高く我が国文化の象徴たるものは 特別指摘に指定されその保存と活用が図ら れていき ます現在主席は1888件特別私設は63 件指定されてい ますしかしこれらのうち特別指跡に指定さ れている古墳は9件古墳群に限りますと3 件と非常に少数になっており ますこの3件の特別指摘に指定されている 古墳群こそが本シンポジウムの対象と いたしました岩瀬千塚古墳群埼玉古墳群え サトバ古墳群 ですこの3件のえ特別席の古墳群は築造さ れた地域や時期古墳群に属する古墳の規模 文系やかつ各え各古墳の埋葬施設や外表 施設などそれぞれ特徴は異なり ますしかしいずれも特別史跡に指定され その価値に鑑みて各地域で保存と活用が 図られるとともに地域にとまらずえ日本 列島の歴史特に古墳時代を語る上で多大な 役割を果たしてきまし たシンポジウムではまず文化庁から特別席 の指定制度や古墳以外の特別え古墳以外の 特別指摘の状況を解説いただき ますそれを踏まえ古墳時代の研究をリード されている3名の研究者の方々から特別 指跡の古分群それぞれの学術上の価値を 紹介いただき特別指摘の古墳の魅力に皆様 と迫りたいと考えており ますえここでえ少しえ資料の補足をさせて いただきますえ画面に出ております スライドのえ日本地図上のえちょうど先端 古墳群の少し上の辺りにですねえ点線でえ 前方公園分の北元という風に記しており ますがえ正確にはえ風調が100mを 超える前方公園墳の北元を示しております のでごご了承を願い ます以上簡単ではございますがえ趣旨説明 とさせていただきますそれでは皆さん最後 までお楽しみ くださいありがとうございましたどうぞご 講談 くださいそれでは発表に移らせていただき ます特別史跡指定って何と題しまして文化 庁文化財第2課埋蔵文化財部門主任文化財 調査官大江俊秀様よりご発表いただきます ホミ様のプロフィールをご紹介させて いただき ますホミ様は奈良大学文学部文化財学科 卒業八市教育委員会文化財室奈良県立柏原 高古学研究所文化庁文化財部記念物化を経 て文化庁文化第2埋蔵文化財部門にて主任 文化財調査官を務めておられますご専門は 古代交通士に関する研究ですが古墳を含め た多数の遺跡の席指定に携わっておられ ますそれでは大美様よろしくお願いいたし ますはいえただいまご紹介いただきました 大美でございますよろしくお願いし [拍手] ます いやあ私ピンチなんですで言いますのが私 のタイトルがですね特別私設指定って何 っていうテーマなんですが今あのうちの 監査官言いましたよね特別席てこういう もんだって条文読んでその後あの和歌山の 柿本課長さんもですね特別席はこういう もんだっていう風に言っちゃったんですだ から今日私が喋りたい特別席って何かって いうのはもう終わった話なんですもう皆 さん分かりましたよね特別席っていうのは 指摘の中でもすごいもんですえそのうちの 1つがえあの岩瀬千塚であってですね今日 あの残りの古墳群2つもですね話があると いうことでで私何喋るんまいいやまこんな こと言ってても仕方がないのでちょっと だけ準備したのでお耳おしに少しだけお 話しさせていただきたいと思いますまず あの今回テーマになってるの特別席で ございますが特別席っていうのは皆 さんご存知でしたあんまりあのメジじゃ ないですよね下にあの今国法っていう風に 出ておりますが国法の方がなんとなくあの 文化財的にも格上でかっこいいなっていう 風に思われてる方多いと思いますちなみに ちょっとあのアンケート取りたいんですが 国法の方がやっぱりすごいなと思う方 ちょっと手あげていただき ますでしょうだと思いましてあのやっぱり ね国方の方がかっこいいんですよ特別席 よりで昔ですねあのうちの調査官でえ朝野 調査官っていうのがいるんですけどねあの 後ほど出てきますが大分の方に薄の積物 っていうのがあるんですこれあの国法と 特別席両法当たってるんですが え道路案内標識にはですね国宝薄積物それ 見た麻野調査官が指跡ですから担当がなん で特別席じゃないんだって言って怒ってた んですがま世間一般の理解っていうのは そういうもんでございますただこのですね 国方特別席っていうのは日本の概念で言う とこのがすごように思うんですが実は英語 にすると違うんですね 国宝ナショナルトレジャーまんまです国の 宝ナショナルトレジャーそれに対し て特別席 スペシャル ヒストリックスター屋で普通のランチが 800円だったらスペシャルだったら 900円から950しますそれだけあの格 が上なんですねで英語で言いますとやはり あの外国人に対してこれからですね日本の 文化を発信していく時にナショナル トレジャーとスペシャルスミックサイツが ですねどちらがインパクトがあるかって 言ったら特別席なんですえそういう意味で ですねあのこれから先国際化の時代の中で えこのスペシャルがつく特別席っていうの はえ世界全体で見るとナショナルトレジャ よりもずっと上ということですえその最 先体の今その情勢に皆さん今日触れること ができたとえいうことでございますで さらにこれだけではなく国法何件あるか 1137件でございますそれに対しまして 特別席63件しかありませんえそれだけ 希少ということですね先ほど出ちゃったん で本当あのこの数字出して欲しくなかった んですけども63件しかございませんえ これあの何もですね文化庁がサボってる わけじゃなく特別責のハードルっていうの はですねえ結構高いっていうことですで またあのえま国特別指跡というお話を いたしましたがこういう例もございます 例えばこれ姫路城ですねえ天使閣言わずと 知れた国語であって世界遺産でもござい ますでまたこれ先ほどお話いたしました 薄木の石仏ですねでえ姫路城は建物は国宝 昭和26年6月9日に指定されておりまし て栃が特別席え昭和31年11月26日の 指定でございますえつまりえ建物有形文化 財としてのえ特に重要なものが国交であっ て土地不動産として国行に相当するもの 特に重要なものがえ特別席ということに なるわけですでまた同時にですねう積物 これ物造はですね彫刻として国宝でござい ますで一方でえこの積物が作られた土地に 関しましてはえ特別席え昭和27年3月 29日にですねえ仏像が国交にされる以前 に特別的に指定されているとえいうことで ございますえつまりあの特別跡国交って いうのはえその価値の所在が土地そのもの にあるのかあるいはその有文化財建物とか え仏像とかそれにあるのかっていう価値の 素材の違いなんですでえなおかつですね スペシャルがつく分だけ特別席の方が世界 的には受けがいいとえいうことでござい ますはい続いてですねえこの特別席63件 しかないというようなお話をいたしました がえ実際どこにどれだけの特別的がある かっていうのを日本地図に落としてみまし たえ岩手県え3県ですねこれあの平関係の 移籍ですでまたあの茨城県とかですねま 群馬県とかもございますが近畿の方見て くださいえ奈良え10件ございますえ 和歌山1件えあの岩先付になるわけですが このようにですね数字が入ってる件よりも 数字のない件の方が圧倒的に多いという 状態です特別席を有していると 都道府県立47都道府県ですからえ15件 はですねえ特別席がないということになり ますこれだけでもですね特別席があ るっていうことがいかにすごいっていう ことがお分かりいただけるかなと思います はい今ずらっと出ておりますこれあの今の 日本の特別席の全てのリストでございます え五良閣から北は始まりましてえ南はです ね南端が今サイトバルコフグになりますね で場入っておりますがこれは2件に またがるということでえあの佐賀と福岡の 2件にまたがってるっていうのは1番最後 になっておりますがえこれしかないっと いうような状態でございますでえこの中 からですねどういったものが特別席になっ てるかっていうことを少し傾向を見て まいりましょうはいこれあの文化庁の遺跡 の分類でございますえシジの後えまたは 休憩台っていうのはこれだけえ続いて白跡 え古墳横穴園地え住居跡とえこういう割合 です比較的あのあのバランスよくですね 特別席になってるっていうことがお分かり いただけるかなとえそれと注目して いただきたいのはこの傾向でございます これはあの特別席にですねえ指定された 時期がえいつなのかというものを示した ものでございます見ていただいて分かり ますように昭和27年3月にですねえ27 件ほど特別席になってえその後昭和31年 までの間にですねえほとんどのあの特別席 がこれまでの間に定されてるっていうこと ですえその後ですねえ昭和308年以降 っっていうのは本当にあの数年に1度しか 特別席に指定されてないとえいうことです えここからですね実はこの指定の傾向から 特別席っていうものはどういうものかって いうのが少し見えてくるとえいうことで ございますえ現在の特別席の多くは昭和 31年までの間にえ指定されたもので ございまして言い換えれば古くから調査 研究が行われてきたえ学的でも重要な遺と えいうことが言えるかと思いますあの冒頭 ですねえ史跡っていうのはどういうもの かっていうよな説明が監査官からござい ましたえ記念物のうち重要なものを指跡 名称天然記念物またその中でも特に重要な ものを特別席っていうようなお話があり ましたがその遺跡が重要であるかどう かっていうのをどうやって判断するかと 言いましたら当然あの調査研究が必要なん ですえつまりえこの古い時期に特別になっ てるっていうことは非常にあの早い段階 からえあの立派な学者さんたちがですね 調査研究を進めてきたとえそういうことも ですねえ言えるということになるかと思い ますえ少し簡単にまとめてみましょうえ 特別席に指定されてる移籍えまさに日本を 代表する遺跡でございますえフフからその 価値が認識されていたとえいうことが言え ますえまたあの各時代に行われた政策とか え時代を象徴するする出来事を表す遺跡が え特別的になってるという結果もあります え各時代の文化芸術宗教等の特徴をよく 表してる遺跡がえ含まれておりますえ特に 注目すべきがえ早くから実的な研究が進め られてえその価値が広く認められていた 遺跡とえいうことにえなろうかと思い ますで岩塚とえ共にですね特別席に指定さ れた遺跡をちょっと見てきたいと思います これですねえこういう形になりますこれ あの岩瀬千塚が特別席第1号ですから日本 で最初に特別席になった遺跡のリストとえ いうことが言えると思いますあ言えると 思いますというかその通りなんですえ北は 五稜郭からえ南はサイトバ古墳宮まで種類 見ていきましょう右側要は埋蔵文化剤遺跡 の類いでございますえ土地に埋まってる ですね文化財の類いですねでえっと でさらにこれを時代ごとに見ていきますと 岩瀬千塚は古墳でございますがえ五良客が 金星え水戸にあります旧行動化が金星って いう形でえ大体1番古いのが縄文時代の ものがあるんですがえ古墳古代金星のもの が多いとえいうようなえ傾向がございます えつまり昭和27年段階でえ国の特別席に なるえ跡の中でも特に重要だっていう判断 をできるだけの料が整っていた遺跡という のがえこれらの遺跡ということになります ね見ていただきますと有名ところがあの ずらっと揃っておりますえ名古屋城も ございますし安城えさらにあの平常旧跡 藤原旧跡えそういったですね遺跡が たくさんある一方でえ例えばその日立 国分寺とか佐木国分寺ええひ国分寺という ですねあの商務天皇が全国に配置したま要 は似たような遺跡がえ全国にあるえ 国分寺のような遺跡でもですね特別跡に なっておりますこれはなぜ国分寺の中で 特別跡になってるものとなってないものが 分れてるかというとえこれら第1期に指定 されたえ佐国文事とかこういったですね 国分事がえこの当時非常に残りが良くて 調査研究が進められていて商務天皇による 仏教政策を語る上で書くことができなと いう風に評価されたえつまり遺跡のえ内容 もありますけれども当時にですねその時点 でどれだけ調査研究が進められてたかって いうところが特別席になるかならないかを 決定する1つの要素になってたとえいう ことになるかと思いますはい じゃあじゃいよいよ特別席としてのですね 岩瀬千塚古墳軍ということでえ少しまとめ てまいりたいと思いますはい岩瀬千塚国軍 はですねえ第1期の特別指跡の1つで ございますはいえ先ほど見ていただきまし たように第1期の特別席の指定といういう のはえ文献資料等からも勝ち付けがし やすいような移籍が対象とされてる傾向が ございますえその一方で高校学の成果から 指定された数少ないえ事例の1つでござい ますでこの広学からの成果からですね指定 されてるっていうのはこれ実は非常に重要 なポイントなんですねあの皆さんご存知の 方たくさんいらっしゃるかと思いますがえ 大臣世界大戦までのその日本の歴史館って いうのは広告主観というま天皇が中にあっ てま昔ありましたね天皇中心とする神の国 というな発言がありましたがえあの小食 日本初期ので訴れてるような神話の世界え それが日本の期限の国の成り立ちであって えそれからずっと天皇を中心にこの国が形 続けられてきたんだとえそういうような 歴史観があったんですえしかしそれがえ第 2次対戦の敗戦によってですねガラっと 変わるわけなんですね今までの歴史観って いうのはえちょっと違うぞという話になっ たんですでそのことはですね戦後の第1回 国会の疑似録を見ても出てくるんですねえ 今まで日本人が正しいと思ってた歴史官 っていうのを180°見直すえ広告資家が 間違ってるっていう風になった時にみんな あの悩んだわけなんですじゃあこれから 我々の国はどういう歴史を持った国である 我々の国の歴史で何なんだっていうことを ですね模索始める時期が昭和20年から 始まりますそれが第1回国会の時でもそう いう議論があるんですでそこであの1番 注目を浴びたのがえト遺跡の発掘査なん ですえ当時ト遺跡の発掘調査滑られてた わけなんですがえ高学の手法またあの建物 跡が出ますんで建物が出てるんで建築の 先生方で稲作の遺跡ですから農業の研究を してる皆様方えそういう様々な研究者がえ 実際土の中から出てくるものを持ってです ね科学的な手法によって分析してえその 遺跡の勝ち付けを行って野時代の日本人は どうやって生きてきたかっていうのをです ねえ初めて科学的な手法で解明しようとし たんですでその時にですねえ国会の中でも これから新しい神聖日本のですね歴史を 形作っていくにはこのような科学的な方法 高学による調査研究っていうのが極めて 大事なんだっていうようなそういう意識が 芽生えたわけですでこの岩瀬千塚をはめと するえ大の特別席の指定にされたですね 遺跡の多くっていうのはやはり戦前あたり からそういう調査研究白調査とか査研究が 進められてえ戦後ますますですねあの当時 の最先端の技術知識を持ってですね研究が 始められた遺跡でございますえそういった 意味では新しい日本戦後の新しい日本を 築き上げていく上でもえ極めて重要な遺 あの役割を果たしたえ遺跡ということも 言えるんじゃないかなと思いますえ第2次 対戦後広告試案からの脱却を図るためえ 科学的な手法による歴史件が試みられる中 え早くから調査が進められてきた岩瀬千塚 古墳の学術的な価値がえ高く評価されたと えいうことにえなろうかと思いましえそう した意味で岩瀬千塚古墳というのはえ戦後 学術研究の成果から新たな日本の歴史を 構築しようというえ時代の中でえ新しい 歴史を作り上げるためにですねえ特に重要 とされた遺跡と遺跡としての価値もあり ますがえ実際この指定されたっていう行為 え特別席に指定されたっていうこと自体が えまた日本の大きな歴史の中でもですねえ 非常にあの重要な役割を果たしてるとえ これあのサイトバル古墳軍もえ同じ時期に 指定されたサイトバル古墳軍も同じという ことになるかと思いますまこのような遺跡 がですねえ和歌山にまたあの関西にある といことはあの大変誇らしいことじゃない かなとという風にあの私は思うわけで ございますえ最後に付け加えとおきます あの特別席え27年に指定されたえという のは非常に重要っていう話いたしましたが えその昭和27年段階で調査をしなければ いけない様々な研究者が注目をしたって いうのはですね当然その移籍を調べるとえ 何か新しいことが分かるすごいことが 分かるんじゃないかっていうですねその 移籍そのものが持ってるポテンシャルにえ 昭和20年代から多くの研究者が気づいて たということですえそういった意味で特別 席になったんですがさらにその後もですね 研究っていうのは指定後もずっと続いてる んですね今和歌山県ではえ特別席との整備 も行っておりますがえ白調査も行いまして え新しいですねえ今の価値観今の研究の 視点で新たな価値観っていうのはどんどん 積み上がってるんですえそういった点では ですね昭和27年の特別席として指定され た後にですねさらにその時以上の価値を今 の岩瀬線図っていうのは持って るっていうことですで今日のお話の中では えそういった意味では大指定ということで 岩瀬千塚えサイトバ古っていうのはそう いうような歩みをえあの歩んできたわけで ございますがもう一方であの近年特別世に なりました先端古墳軍えこれにつきまして はですねえそれこそその近年の高額の 目覚ましい発展によってえ新たな価値が 掘り起こされえそれによってですね特別跡 の仲間にえ加わったとえそういう遺跡で ございますえこの3つの遺跡3つの古墳を ですねえ合わせてえ並べてそれぞれのです ね価値をえしっかりあの発信するという こういう機会っていうのはなかなか滅多に ないことでもありますので是非ですねえ この日本の歴史をえ形作ってきた遺跡たち 古墳軍たちについてえ今日1日えあのお話 を聞いていただいてですね皆様方も何か そこであこれ面白いなえ行ってみたいなと いう風にですね思っていただけたらいいん じゃないかなとえいう風にえそのような ことを期待しておりますえちょうど私の 予定してる時間ぴったりになりましたので え私の埋設は以上にしたいと思います今日 はあのえ是非あの皆さん最後まで楽しんで くださいありがとうございまし た大美様ありがとうございました今一度 大きな拍手でお送りくださいありがとう ございまし たえそれでは続いて基調公演 です古墳時代研究の進展と岩瀬千塚古墳軍 と題しまして大阪大学人文学研究家教授 福永深夜様よりご講演いただき ます様のプロフィールをご紹介させて いただき ます福永様は大阪大学大学院文学研究科 博士家庭白後期家庭中都大学大阪大学埋蔵 文化財調査室助手大阪大学文学部女教授を 経て大阪大学人文学研究会にて教授を務め ておられますご専門は大和政権成立家庭の 研究簿文化の比較研究です特に近畿を中心 とした古墳時代研究の第1任者で いらっしゃいますそれでは福永様よろしく お願いいたし ます福永でございます よえっと今日はたくさんお集まりいただき まして本当にありがとうございますあの皆 様の前でまたあの今日はあの インターネットでご視聴いただいてる方々 もいらっしゃいますがあの多くの方の前で ですねえっと私のま少し考えてることをご 披露させていただくっていうのは本当に あの嬉しいことでですねえ大変良い機会を いただいたという風に思いますで今日は あのお手元にも資料はえっと配布されて おりますけれど も何分あの文字も小さいということもある し少し会場もくらいということもござい ますのでえっと私自身初めての試みなん ですけれども今日はこのパワーポイントを 中心にえっとお話をさせていただこうと 思いますいつもはパワーポイントは最後に 10分ぐらい流すそういうスタイルのです ね講演をやってるわけですけれども今日は えっとインターネットでオンライン視聴の 方もいらっしゃいますのでえちょっとこれ だこれを使ってやってみようということに いたしますえっと今ここに映ってる写真は ですねこれは1週間ほど前にですね ちょっと鹿児島で所用がありましてえっと 大阪空港から飛行機に乗ってですね鹿児島 まで行ったわけですけれどもも大変な晴天 でですねえっとちょうどあの午後の光が ですねこう巡行でえっと大阪部屋にこう 差し込んでるところだったわけですで ちょうど大阪平屋の南ありまで行きますと 泉山脈そして泉山脈超えた向側に木川と そしてえっと今日お話しますですねこの 岩瀬塚古墳軍の岩瀬3階がね本当に手に 取るように見えてですねえもう感動これ だけで感動したわけでございますもしあの 皆様でえっとえこれは東京の方に行く飛行 機ではなかなかこういう景観見れないかも わからないですけれどもえっと西の方に 行かれる飛行機に乗られた時はあの必ず ですねえっと左のですね窓側を予約されて それでえ途中ですねこれご覧いただいて うん大阪部屋そしてえっと和歌山部屋 その間にですね泉山脈でキノカが流れてて 岩瀬の3階が見えるっていうねこれはあの 楽しんでいただければと思いますでこれを ですね少しあの今度はGoogleアース を使いましてえっと人工的にえ移したもの がこういうものになりますで岩瀬千塚古墳 群はご覧のようにですねあの木川の南岸の エリアにありますでえっと泉山脈がござい ますのでえ岩千塚古宮から直接大阪部屋が 見えるっていうことはないんですけれども えっと位置関係で言うとこういう位置関係 にございましてそれでえっと古墳時代って いうですねいわゆる大和政権の時代はあ この大阪部屋そして奈盆地を中心にえっと 横領がですねえ営まれるっていう機内の エリアになりますで古墳時代の前期の大量 はあこの大和盆地の奈良盆地の南の方に ですね大山と柳本古墳軍というのが登場し ましてえここにですねえ大和政権の前期の 横領が次々と作られておりますで古墳時代 の中期になりますととここにございます ようにですね大阪平野にその横領が出てき ましてでえっとモ古市古墳軍というこれ あのえっとえ4年ほど前にですねもう5年 ほど前になりますが世界遺産に登録され ましたけれどもそういう古墳群が登場し ますでええ古墳時代の後期になりますと そうした大阪平屋の南部の古墳軍からです ね横領が大阪平屋の北部ね淀川水計の現在 の大阪市大阪府の高槻市にございます今 白塚古墳というところはですねこれがあの 横領と6世紀の初め頃の横領という風に 考えられておりましてえここにですね横領 が映ってくるわけですねでその後えっと 大領はもう一度大和盆地に奈良盆地に帰っ ていくっという風にですねこの機内の平野 部をあるいは盆地部を横領がこう移動し ながらですねえ古墳時代の350年間 ぐらいにわたってえずっとこの地域で横領 が営まれてるとえ大和政権の中心地がです ねえこの地域にずっとま存在したという ことが言えるわけですねえその期間を通じ てえっと木川の下流行ではですねえ岩瀬 千塚古墳軍そして古墳時代の中頃にはあと お話しします えっと木川の北岸のエリアになります けれどもこの地域にですね有力な古墳が 次々と現れてくるという風になります えっとこの木川の流域のですね有力集団 これは文献の研究から木のうあるいは騎士 という風にですね呼ばれたりすることも ありますけれどもまそういう文献研究との 接点も含めてこの岩瀬先古墳軍に残され てる古墳にはですねまさにあの日本のこの 国がですね成り立つとしているその時期の 様々な情報があ宝庫のようにですね今も 残されているということでござい ますでこれはあの岩瀬山海と岩瀬千塚古墳 群ですけれども大体この岩瀬3海のですね 1番お筋ですねえっとえこの辺りがお筋に なると思うんですけどもこのお筋の辺りに え最も有力な古墳前方公園墳を含むですね 有力な古墳が存在しておりましてその筋の 南側あ北側の方が多いですね北側そして 南側にもですね点々と古墳群が広がってる ということになりますで現在の地図を重ね てみますと大体こういう風になりまして 先ほどの3階のですねえっとえこの図で いきますと左側の方にですねえ赤い線で くってあるエリアがありますけれどもこの エリアがあ先ほど大江主人からのお話が ありました特別史跡の指定のエリアになり ます約60数ヘクタールのですね非常に 広大なエリアが特別指跡になっております えただこの特別史跡以外のエリアもですね うんと見ていただいた分かるここにもです ね前方公園墳のようなマークがありますし この南の方にもですね前方公園府のよな マークがございますでこれはもちろんあの 遺跡としては岩瀬線塚古墳群というですね あの少し難しい法律的な言い方をすると 埋蔵文課の法造地になっているんです けれどもえっと特別史跡のエリアには入っ てないていうですねで今日の私のお話は そうした特別史跡のエリアに入ってない 部分も含めてえこの岩瀬山海に作られた 古墳群からどういうことが分かるのかって いうことをですねえその点をですねえ強調 してお話をしたいと思いますで先ほどの あの大江主任の話にもありましたけれども えっと岩千塚古墳軍が特別席に指定された のは昭和で言いますと27年ですねえ 1952年のことでございましたでそれ からも70年経ってるわけですよね当然 その70年の間には考古学の研究っていう のも随分進展しましたそうするとえっと今 から70年前の段階でも非常に意義のある 古墳群ってあるということは分かってたん ですけれどもさらにその後の70年のです ねえ高古学のま発展と言いますかですね 発達と言いますかあさらにそれをえっと 基盤にしましたこの古墳軍の研究の進展に よりましてえ岩千塚古墳軍にはねやっぱ 新たな価値が見出せるんじゃないか もちろんあの70年前に特別史跡に指定さ れた時の価値は保たれているんですけれど もさらにですね新たな歴史的な価値って いうものがここに加わってきてそういう 意味では岩先古墳軍のまどう言いますか 価値のレベルっていうのはですねこの70 年間にすごいあの高まってきてるっていう 風に思うんですねですからまそういうえ 興奮時代研究の進展を踏まえてえこれから この岩千塚古墳軍をですねどういう風にえ 保護そして活用していっていただいたら いいのかっていうことですね私もあのあし のこうえ願い期待を込めながら今日のお話 をするわけですけれどもえこれがですね 特別指跡に指定された頃のですねえ岩瀬 千塚古墳軍のうちのあのま指定された エリアののえちょうど北側のですねえっと ふ斜面にえ点々と営まれているですねあの 古墳の形になりますで1番右が右端にです ねえこれがえっと現在将軍塚という風に 呼ばれてる古墳になると思いますけれども えっと確かここは積出がえっと1つ公開さ れてたんじゃないかと思いますがえこう いうものがですね今から70年前にはこの 山の斜面にですねこういう風にね本当に あのあちこちに高まりとして認められて ですねあの古墳のことはあの英語で言うと マウンテッドトームという風にも言います けれどももう1つあの少し古めかしい言い 方ですねミラスという言い方があります けれどもねえな何々トムラスっていうね えっとせ岩瀬千塚ミラスグループという ことになるんですけれどもこのテュミラ スっていうのはこれはあのえっと私の ドイツ人の友人に聞きますと元々あの ラテン語の語言がある言葉でございまして このっていう意味があるんですねえそう いう意味がある言葉がこのテラスという ことでちょうどそのドイツ人の友人はです ねあの蚊に噛まれた時にですねえ痒い痒 いって言っにちょっとプクっと膨れますよ ねああいうあのイメージがこのラテン語の ラムラスっていうねえそういうところから えっとこの日本の古墳のですねこう ポコポコチュラという風に呼ばれるんだと そういう風にえ私の友人から聞きました まさにあのそういう景観をえっと今から 70年前の写真は非常によく示してるんだ という風に思われます現在は少し木が しげりましてですねやっぱり70年前と 比べると人々が山に入ることも少なくなっ たしあの山の木々をですねえ焚として利用 するということも少なくなってきたのでえ 少し現在とは警官変わってますけれども今 も山の中にこういうですねえミラスが たくさん残されいていうことが非常に 大きな特徴になってますしかも岩千塚古墳 軍の場合にはその数が非常に多いえっと 冒頭のあの教育長さんのお話です900機 ぐらいっていう風なこともおっしゃった けどおそらく今確認されてるこういうあの 高まりのある古墳ね高塚古墳と言います けれども高塚古墳の数で言うと日本で最も 多く群衆してるそういう群衆分になるん じゃないかという風に考えておりますで塚 古の歴史的当然特別指跡に指定される場合 には歴史的価値というものがですねそこに ないとなかなかその指定の要件にそわない わけですけれどもえこれまで岩瀬千塚古墳 群は1931年ですねえこのえ頃にですね 昭和の初め頃に史跡名称天然記念物保存法 っていうあの今の文化財保護法よりも1つ 前のですねえっと保護体系の法律の中でえ 史跡に指定されておりますですからから もう指跡指定されてですねえっと90年 あまり経ってるわけでございますけれども そしてえ1952年にですね新しい法体系 になってこれは戦後ですけれどもえっと この国の成り立ちをですねえっと具体的な 資料からですねえもちろんあの日本初期 乞食にも多少の情報はあるんですけれども そういうですね情報だけじゃなくてえ きちんとした実物の資料からこの国の 成り立ちを語る部分をですねえきちんとの 将来にあたって残していこうというですね そういう文化財保護法の枠組の中で新しい 文化財保護法の枠組の中でえ特別指跡に 指定されてそれから特別指跡のあの追加 指定っていうねえ少しずつ指跡のえ周辺の 調査をしていくとやはり重要な情報 あるいは重要な遺跡が見つかってきますの でえその部分を特別指跡の中に追加で 取り込んでいくとこういうことがですねえ 3回にわたってで行われましてえそして えっと面積が60数ヘクタールに今なっ てるというところでございます1952年 の特別指跡に最初に指定された当時ですね えこの時のこの指跡のま学術的価値と言い ますか歴史的価値っていうのは1つは大 規模な群衆墳であるとえ当時もですね日本 で最大規模の群衆墳であるということが 認められておりましたそれと埋葬施設が 対応であるということですねえ縦穴系の 埋葬施設横穴系の埋葬施設多様な埋葬施設 がよく残っているとそして何よりも注目さ れたのはこの中で最も多い横穴系の埋葬 施設いわゆるあの横穴石室というものです けれどもその中には石張石棚扉石等々を 持つですねこの地域独特の横穴石室の構造 を持つものがたくさん存在するとまこう いう風なですですね3つの点が主に評価さ れましてえ1952年に特別史跡に指定さ れることになるわけですねいわば群衆府の ですね教科書のような遺跡の構造が評価さ れましてこれを特別指跡に指定するという ことに至ったわけでござい ますでこれは1952年のですね特別指摘 の指定示の説明文ですでこの説明文はえ これに先立つえっと1931年のですねえ 史跡指定の時の説明文これあの文語帳で 書いてある書いてあったわけですけれども その文語帳で書いてあったえ1931年の 説明文を大体あのえっとま現代の言葉に ですねえ読み替えて大体そのまま映しとっ たっていうのがですね1952年のえっと 説明文になりますだからもう1931年の 段階でえここに書いてあるぐらいのことは 既に判明していたというそういうことに なりますねえっと外数がこの当時でですね 500機え5期以上を算するということ ですねで大小の塩分が随所に軍をなしと 書いてありますえ大なるものは分球が 30m高さ8mに及びえ少なるものはあ 分球が4m高さ2mだこの時は大償の塩分 ということなのでまだそういう意味では たくさん群衆してる古墳があるっていう ことは分かってたんだけれどもまだまだ 調査がですね十分ではなかったということ があって現在ではえっと天王塚のような ですね80mを超えるようなあるいは大日 山35号分のようにですね86mでしたか ねえこういうものも含めて前方公園墳って いうものがですねえかなり含まれてると いうことやあるいはあの岩千塚古墳宮の 最後の段階では四角な形のですね豊富と いう風に呼びますけれどもそういうものが 存在するということが現在では分かって おりますけれどもえっと1952年の特別 史跡のまこれは31年のですねあの指跡の 説明文をカンニングしたやつですけれども えこの時ではね大小の塩分画という風に ですねえなっております ねでえ縦穴式のものと横穴式のものがある とで横穴式のものには えっと先導というですねえそこのえ物質に 入る道とえ現出というですねえっとあ ちょっと待ってください ね原質というですねえその母子の部分え その2つの部分からなる通例の構造の他に 特殊なものとしてえ皇室前出及び先導部よ になるものがあるっていうですねまここで 皇室前室と書いてありますけれどもその 物質の母子からですねその通路の先導に 出るまでのところにですねちょっとした 空間をを伴っててですねええそこは原質 全道という風に呼ばれたりもすることが ありますけれどもちょっとそこに独特の 小さな空間を持ってるっていうのはですね そういう構造がえっと岩瀬千塚では特徴的 な横穴石室になりますしかもですねえ横穴 石室の中にですね石針というねえ石室の壁 をこう貫くようなですね大きな針のような えっと石材を渡していたり あるいは奥壁のところにですね奥のとこに ですねこう石で1枚石で作ったこう棚の ようなですね石棚を作ってるとかですねえ そういうものがあったりあるいはその 先ほどの現出のですね出口のところには ですね石扉っていう風なねあの板石でそこ を閉塞するようなそういう構造を持って たりするというねそういう非常に珍しい 積出の構造がここでは見られるということ でえっと群衆する数であるとかですね あるいは埋葬の縦穴横穴の基本的な構造の 違いであるとかその横穴の中でもですねえ 石室の構造が多種多様であるということが 評価されましてえこれが特別史跡のですね 大きなまあの根拠になったということに なるわけでござい ますただ先ほど申しましたようにそれから 70年経ってますねで特別主席の説明文は あの昭和6年のものをカンニングしたと 言いましたけどもその昭和6年から言うと ですねもう90年ぐらい経ってるわけで この間に調査研究っていうのは非常に進展 してきたということがござい ますそれは岩千塚古墳軍そのもののですね 発掘調査研究が進んできたということこれ はまず第1にあげなくてはいけないこと ですねあの和歌山県の方から移植されて 初期にはですねえ関西大学を中心とします 大学の研究グループがこの岩千塚古墳具の 解明に携わりえその後は地元のですね 和歌山県あるいは和歌山市がですねえこの 調査研究に携わっえその成果は県立の寄付 独の丘の資料官でねずっとこの間展示され て公表発信されてきておりますそういう風 なですねえ岩瀬千塚古墳軍自体の発掘調査 研究が進んできたこれ非常に大事な ポイントでございますつまり あの特別指跡に指定されてもうそのままの 形で凍結してですね一切触らずにえ今日 までえ保存されきたそういうものじゃない んですね史跡の内部のですね解明をする ためにちょっとずつ息の長い調査をそれ から70年間今今日までですね続けてきて いるそれによって多くの新しい成果が出て 新たな歴史的意義がそこに付けるように なってきてるということが現状でござい ますさらにこの先付古墳群だけじゃなくて その周辺地域ですねえっと平野部の和歌山 の平野部であるとかですねえ泉3脈を超え たちょっとあの大阪の仙南の地域であると かそういうですね周辺地域の発掘調査や 研究も同じように進んできたこれによって え山の上に作られてる岩千塚古墳軍の歴史 的な評価を考える場合に多くな情報が得 られているということになり ますさらにこの地域だけじゃなくてレト 各地でこの時代の白調査研究っていうのも ね随分進んできたわけですねで古墳だけ じゃなくてえその古墳時代の例えば集落で あるとかあるいはあの倉庫群であるとかえ また様々な古墳時代のいろんなあの異物 ですね異物の研究もがどういう風な形で 変わっていくかとかどういう形で物資が 流通しているかとかですねあるいはどの 地域にいつ頃どういう古墳があるいは古墳 軍が流星するかとかそういうですねえ古墳 及び古墳時代研究全体が非常に進んできた ということことがございます最後に重要な ポイントとしてえ韓国の南部でですねえ この20年間ぐらい発掘調査が非常に進展 しまして実は岩千塚の古墳を残した人たち とちょっと関係あるんじゃないかという風 な情報がですね次々と見つかるようになっ てきてるとえこういうことも非常に重要な ポイントだと思いますです からあ70年前にですね特別史跡に指定さ れてそこでも凍結してですねあのそれ以上 のものがもう分からなくなったっていうん じゃなくてですねそっから次々と新しいえ 情報資料が得られてきてるしかもそれはえ 国際的なですねえ共同研究が可能になる ような情報が得られてきてるということで 岩千塚古墳宮にも新たな価値がここで 付け加えてきてるということが言えるん じゃないかと思い ますで岩千塚古墳軍発掘調査をしてきます とですねえ従来は群衆墳というこれはあの 古墳時代の後半期のですねえたくさんあの 小さな古墳が集まったそういう形態が群衆 墳と言いますけどそういう古墳時代後半期 のことだけじゃなくてですね後から少しお 話ししますけれども古墳事代の前期から 含めてですね岩千塚古墳軍を調査研究して いけば古墳時代のま全体の歴史ですね古墳 時代の初めから終わりまでの歴史を たどれるんじゃないかと思われるような大 古墳軍であるということですねその中でも ま特にこれは初期のあの特別指跡の時から 注目されてきたことですけれども6世紀と いう時期のですねえっとま木のうとも呼ば れる有力地域集団の内部の構造であるとか あるいはそれと王建の構造ですね王家との 関わりですねそういう王建構造であるとか あるいは先ほど申し上げた韓国南部のです ねえ集団との関わりであるとかそういう 実態を今に伝えるようなですねえ情報の 方向 が幸い特別跡に指定されたということが ございましてですねそのままあ手てとは 言いませんけれどもそのままそっくりこの 山の中に残されているということが新たな 成果としてですね付け加えることができる んじゃないかという風に思うわけでござい ますさあ具体的な話に入っていきたいと 思いますけれどもえ興奮時代っていうのは ま私なんかはですねあの 奈盆地の南の方に現在桜市に橋墓古墳って いうですね長さが280mほどのですね 大きな前方興奮が突然登場しますけれども えこの登場を持ってですね古墳時代の 始まりという風に考えておりますで古墳 時代っていうのはその後え前方公園墳と いうですね鍵穴型をした形を中心に日本 列島でえま俗に16万期とか17万期とか ですねえ数が言われるぐらいですね おそらく20万ぐらいはそれ探せばいくん だと思いますけれどももう当時の社会 エネルギーを投入してですね人々がこって 有力者がですね古墳を作った時代これが 古墳時代という時代でございますおよそ ですね7世紀のま半ばぐらいまでですね 割と盛に古墳を作っておりますえその後は ですねえっと古墳作りが割と下火になるん ですけれどもなお貴族層はですね例の 高松塚古墳のようなですねそういう古墳を 少し作り続ける時代がございますがまあの 純粋な古墳時代という意味で言いますと 前方公園墳が登場する250年頃からです ねえ前方公演墳が作られなくなる7世紀の 前半頃までですね純粋な意味での古墳時代 ということが言えるかと思いますで古墳 時代あの先ほど私は橋や古墳の築造出現 から古墳時代と申しましたけれどもま ちょっとよく見た形の前方公演墳のですね よく見た形のちっちゃいものはですねその 直前から出始めてるのでえっと少し遡って 古墳時代の始めを考える人研究者なんかも おりますけれどもちょっと今日はあのその 話には詳しくは触れませんえっと初期の 大和政権の成立過程の話はですね私も先週 別なところで講演してきたばかりです けれどもそれだけやるとですねま1日 ぐらいかかるので今日はあのそれはあの 申し上げませんただその古墳時代のですね 350年あまりの間をですねえ少し時期を 区分して考えてみたらこの歴史的な流れを ですね非常に捉えやすいんじゃないかと いう風に私は見ておりましてえっと現在 あの国学研究者の間では古墳時代をま 先ほど申し上げたあの高松塚古墳のような 時代はとりあえず除いてですねそれ以外の ですね古墳時代を3つの時期に分けて捉え るっていうことが割と一般的にやられて おります古墳時代の前期中期後期ねあの 航空学者はそういう風にですね物事を分類 してえ区分するのが仕事ですからそういう 意味でえ古墳時代の350年余りをですね えこういう風に3つの時期に区分してえ 捉えようという風に考えるわけでござい ますただ問題は このえっとそれぞれの前期中期後期の区分 された時期をですねえ西暦のいつ頃に 当てるかっていうことはこれは少し研究者 官でですねえ意見の違いがございます とりわけ古墳時代の中期と後期の境目を ですねどこに置くのかっていうことはこれ はあの歴史的なあの状況の把握の違いとも 合まってですねえちょっと研究者官で少し 違いがあります私はですねえこういう風に 考えておりますということをまずご案内し ておきたいと思いますけれども興奮時代 前期っていうのは 20050年50年頃で50年代と考え てるちょっとこですね260あのよく私は ここに260とに入れててですねえこの 古墳時代と弥時代のこの境い目とちょっと ずれてるんで先生ちょっとなんかプリント ミスじゃないですすかてよく言われるん ですけどもここのずれは非常に重要なん ですね260年よりもちょっと前にですね えっと古墳時代が始まったとつまり橋 100古墳っていうのがですね登場したと 考えているわけですけれどもねまそうする とあの墳はあの秘密の墓ではないかとか ですねそういう話になってくるんだけれど もまちょっと今日はそれ置いときますそれ でえっと国時代の前期と中期の間はですね え西暦の4世紀の紅葉という時期ですねま 380年ぐらいじゃないかという風に考え ておりますけれどもで古墳時代の中期と 後期の境目は西暦の500年前後と考えて おりますでどうしてそういう風にですね私 は3つの時期をそのいう年代に区分するか というまどうして3つの時期をそういう風 に区分してるかというとですねえそこの 右側に書いてありますように横領が作ら れる場所がその3つの時期ごとに変わって いくわけです ねでえ古墳時代の前期には横領が奈盆地の 中に作られる中期にはうんと大阪平野の 南部に横領が移動するっていうかね大阪 平野の南部で横領が作られるで後期には 大阪部屋の北部淀川流行にですね横領が 作られてまその後また後に後期のえ後半に は帰ってくるわけですけれどもそういう風 にですね横領が作られる場所でえ古墳時代 の時区分をするのがぱ1番あの分かり やすいんじゃないかという風に考えてねえ こういう風に時機区分をしておりますです からま前期中期後期っていうのはですね 特にあの岩千塚に関わるところではえっと 後期というのがですね6世のえっと初め から始まるというそういう認識でえ岩千塚 のあの群衆がですね非常にあの発展して くる時期っていうのはこれこれ後期なん ですけれども6世紀の全用から始まる時期 に考えてるということをちょっとお断りし ておきたいと思いますまなんでこれ大事か というとですね6世紀の全容というのは ですね例のあの形態天皇形態大王が登場 する時期なんですねこの形態大王の登場と 岩千塚古墳軍の流星がなんかやっぱ関係 あるんじゃないかっていうね捉え方をして ますのでえっと古墳時代後期6世紀全から 始まるっていうことを少し頭の中に置い といていただければと思い ますで岩塚古墳軍特別指跡指定後70年 余りにわたってですね調査研究が進んでき ておりましてそれらの成果を踏まえた上で 私自身が岩瀬千塚古宮についてこ注目す べき3つの局面があるんじゃないかという 風に今回整理をいたしましたえ1つ目は 岩塚軍墳時代前期岩千塚古墳宮ってのは どうなってたのかっていうことですね特別 史跡の指定文ではですね群衆墳としての岩 先付交具が評価されてるこれは今に至る までですねそういう評価でえずっとあのえ 文化庁さんもですねえそういう評価で来て おられると思うんですけれど ももっと古い古本時代前期はじゃあどうな のかっていうことですねで私ちょっと古墳 時代前期の岩先付古墳軍もこれから評価し ていかなくてはならないんじゃないかと いうことを今日初めてですね間違ってるか も分からないけれども一応提案してみよう と思いますえ2つ目としてえこれは古墳 時代中期の話ですけれども岩千塚古墳から 前方公平が消えてしまうそういう時期が あるんですね古墳時代中期ですね え特に古墳時代中期にはこの岩瀬千塚古墳 軍を含めて木川のですね南岸のエリアの 古墳築造有力のものがですねあまり認め られないっていうですね非常にあの妙な 現象が認められる認められる分かるんです ねでこれについてどう考えるかっていう ことが2つ目ですねで3つ目はこれは特別 指跡ステージから非常に注目されてきたえ 古墳時代後期のですね古墳軍岩千塚古墳軍 の流星をどう見るかっていうことですが えっと特別史跡の指定分の時には丸い古墳 が500期以上とそういうえ説明文で ございましたけれども調査研究が進みまし てですね今やこの後期っっていう時期には ですねえ岩3会の中ではもう数機の前方 公演墳を含めるてえ古古墳群が流星すると こういうことが分かるようになってきて ますのでこの古墳軍のですねやえっと古墳 時代後期の流星を改めてどう評価するかと いうことが今日私が注目すべきです3つ目 の局面ポイントということになり ます1つ目のポイントですね岩瀬千塚古墳 軍の古墳時代前期はということですね公罪 前期っていうのはま3世紀の中頃から4 世紀の公用にかけてのことですけれども 大体あのえっと千塚古墳軍の解説地を読み ましても岩瀬千塚古墳軍っていうのは4 世紀末頃から始まってえ7世紀頃まで続く というそういう風なえっと記述ががほぼ どれを見てもですね出てくると思い ますで先ほどのですね年代のことを 申し上げたとこ4世紀末っていうのはです ねこれ見ますと4世紀末つっていうのは えっとこの辺りのことですよねこれ古墳 時代中期です ねですから岩千塚古墳軍4世紀末頃から 始まるということはえっとこの古墳群古墳 時代の中期後期の古墳群であるという評価 がま定着してるっという風に思われるん ですけれども ま果たしてそれでいいかどうかっていう ことでござい ますで岩瀬千塚古墳軍で最古の古墳という 風にまオフィシャルにですねえ最高の古墳 という風に取り上げられるものとしては えっと花山地区というね岩塚古墳宮の中で はえっとちょっとえっと北の方になるん ですけども花山地区というところにですね 花山8号分っていうのがございましてこれ はま古い時代にですねえっとえ残念ながら 発掘と言いますかちょっと荒っぽい発掘や えっと乱掘でですねもう傷んでる古墳なん ですけれどもえっとここの真ん中の写真に ございますように前方部からですね粘土賞 というのが発見されております粘土賞って いうのはこれはお管を乗せる台をですね 粘土で作ったものですねでこの粘土で作っ た台の上にお管を乗せてえさらにその上 からですね粘土でくめばあのレの奈良県の 富を丸山古墳で話題になったような粘度書 というですねそういう埋葬施設になるわけ ですけれどもまここはあの割とそれ ちょっと観客化した形で粘土のですねこの おかを乗せる関大の方は粘土で作ってある んですけれどもその上の方はですね粘土で 来るんであったかどうかっていうのは むしろそういう情報がないっていうことで 粘度賞という風に呼ばれておりますでこの 粘度省からは写真の右上にございますよう なあとケとですねうんとガラス玉とえ下っ た が出てますでこれは4世紀末頃という風に 評価するあのま根拠と言いますか手がかり は1つはあの粘土症っていう割とも乾燥化 したですねえ埋葬施設である縦穴系だ けれども粘度角よりもさらに乾燥化した 埋葬施設であるということやえっと右上の 服装品と思われるものの中にえ右の上に3 つほどですねえっとこだまがございますが このこだまがですね石という意で作られて おりましてえ滑石性のこだまっていうのは ま幸福時代の前期の古いところから出てこ ないですねもう興奮時代の前期の終わり頃 とかですねえ中期の古墳からですねよく出 てくるようなそういうたまるになります からそういうこともあってですねえっと4 世紀末頃という風にこの古墳が推定され てるんだと思いますでこれは前方部の埋葬 ですねえこちらの方にうんここここにあっ た埋葬ですね中心的な埋葬はこちらの方に にあるんですけどこれは古くに乱掘されて えもう情報がよくわからないね一説によれ ばなんか板材のようなもので作った埋葬 施設を粘土でくるくるんだようなそういう ですね粘土角のようなですね板材で作った 埋葬施設を粘土でくるんだような粘度角 だったんじゃないかっていうですねそう いう情報もあの少し伝えておりますけど もうあの写真ともありませんので分かり ませんでただあの古くからですね岩瀬千塚 古墳の中から三角部真住教という鏡が出動 してることが知られておりましてそれが ひょっとしたらえこのえっと花山8号墳 からの出ではないかっていう推定がござい ますこの右下にあるようですねえ電花山 出動三角部新住教というですねでこの辺り が今オフィシャルにえ公式に分かってる えっと岩瀬千塚古墳軍で最高段階の古墳で はないという風に言われるものですがま これ4世紀末という風に見ていいのかどう かっていうのはこれも1つのあの研究上の 問題になりますね4世紀末というと古墳 時代中期になりますからそれでいいのか どうかっていうことですねさあそれでです ね実は岩千塚古墳軍からはえっと三角部新 住教がえ今の先ほど写真見せたこれともう 1枚ですねえ岩千塚古墳の中から出た三角 部新住教というのが知られておりますも どこから出たか分からないですね えっと伝わっておりますで三角縁新住教と いう鏡はまこれもあの話し出せばあのもう きりがないわけですけれども えっと結論から言うとですね三角新珠教と いう鏡は えっとあの山大国という国が昔ありました けれどもその女王日美子がですね中国の義 の国に使いを送った時にえっと最初の使い を送ったのが暦20039年のことで ございましたねその最初に使いを送った時 にえ鏡をたくさんもらってくるわけですけ もその時にえっと作られた三角縁その時に もらってきた鏡が三角縁真住教の1番古い タイプじゃないかという風に私は考えて いるわけですねで三角口真住教はえっと この右側にございますようにえ古いタイプ のものからですね少しずつ模様が簡素に なっていくわけですねでさらにこのえ簡素 になったものをさらにですねあの多くの 研究者がさらにこの1番簡素になった三角 物新住教ま私はこれをえっと中国から もたされたものなんで白菜三角物新住教の 0段階という風にABBCDの税段階と いう風に言ってますけれどもそのデ段階を さらにですねその後に日本列島で無法して 作った無法性の防水三角物新珠教というの がですねさらににこの後に続くわけです ねえそれらを含めてえこの三角物新事教の 全部のがですねまほとんどがですねえっと 古墳時代前期の古墳から出てくるという ことになりますでそれぞれのですね三角部 新のこの年代を中国の鏡とですね退避させ ながら推定していくとA段階はこれは日子 が使い送って日本に帰ってくる頃の239 年から240年頃ですねでこのB段階って いうのがこれが240年代でC段階が 260年代でこのD段階っていうのが おそらく2780年頃になるだろうという 風に三角部真住教研究の上からはですね 推定できるわけですねでさらにこの税段階 のものをこれをえモデルにして日本で模し たものがえ4世紀にの初め頃から作られる とこういうことになりますねそうすると岩 塚で見つかってる今の2枚の三角部新住教 ってのはこの税段階のものになるわけでえ ございます日本にもらされたのが200ま 80年 頃この頃にですねえ当時のですね大和政権 が中国なの精神というですねあの北の下北 の王朝とこ交渉を行っておりましたので そういう精神のエリアからえ280年代頃 にですねちょうど精神のあの武というです ですねえ名君がおりましたけれどもその 精神の武定の時期に大和政権とこう交渉を 取りくんでですねえっと精神のエリアから もたらされたのがこの白菜例段階ではない かという風にこれは鏡の上の形式研究から も推定されるわけですねそうするとこれが もたされてその後あの日本製のですね劣等 性の三角部新珠教の法品ができてくるわけ ですけれども岩塚にはその無法品の三角物 新住教は今のところ見つかっておりません えっとこの泥段階がじゃあ岩千塚古墳 軍のえににこの三角住居を服装したその 非想者の元にですいつもたらされたかって いうことが問題になるわけですけれど もま280年頃にえ日本に入ってきた鏡で えさらにその後のですねえ日本で模した鏡 は今んところ岩瀬からは出てないという ことで言いますとやっぱり西暦の300年 頃にはです ね岩瀬千塚古墳軍にこの2枚のですねえ 三角縁新住教がもたらされてるんじゃない かと少なくともこのえっとキの地域にです ねもたらされてるんじゃないかという風に 思わざる得ないわけですねそうすると 先ほどのですね花山八号墳の時期が4世紀 末という風なですねえこういう見解がある と申しましたけれどももたらされた鏡が ですねそれから100年近くですね ずっとこうどっかに存在したっていうのは ちょっと考えにくいかなとに思いまして です ね1つの考え方としては花山8号分よ花山 8号分自体の年代が少し古いんじゃないか もう少し古いんじゃないかという考え方と ともに花山八号墳よりももっと古い古墳が 岩瀬千塚古墳宮の中にあるんじゃないかと そういうですね可能性を今日はあの少し 提案しておきたいと思いますもう1つです ねえっとこれはえっと古い時期にですね 岩瀬千塚古墳軍から出動したとつえられる 異物の中で割とあの古い要素を示すものを こに写真であげておりますえ今からも 100年以上前にですねこういうものが 出動してるといことですねえっと左側の ですね筒型動機というものはこれは最近で は朝鮮半島南部からたくさん出ております のであちらの製品ではないかという説も 随分有力になってきおりますが日本の古墳 からはですねこれは古墳時代前期の中頃の 古墳からま中期の古墳にかけて割とあの 幅広い時期に出てくるええっと同期になり ますこれはあの槍のようなですね長い絵を 持つあの武器のですねこの絵の端のお尻の ところに取り付ける 金具なんですねですからまそういうあの 武器の絵の端っこにつく飾り飾りの金具と いうことでいいと思いますけどもまこれは 割とあの日本でも前期の中頃の古墳からと 中期の古墳にかけて割と長い間ですねえ 出動するということなのでえちょっと時期 をえっと細かく絞り込むことはできない です ねはいでえっとその右側にあります石です けれどもこれはえっと一般的にはあの前期 興奮自体前期の後半のえっと服装費になり ますえ前期の待つ頃に残る例ももちろん ありますのでですねちょっとこれからは なんともえないですけどどちらかというと この上の方が少しタイプが古くてえ下の方 がですねえちょっとタイプが新しいものに なりますがまこれでもあまりえ詳しくは 決まらないですけれどもねそしてえ右上の これは族型石製品これはあの矢尻をですね 石の石の形で模almostしたものです でこれもですねえ最初は壁玉という青い石 で模するものがえ古墳時代の前期のですね ま半場よりもちょっと前ぐらいから出てき ましてえその後ですねえ幸時代の前期の 後半に続いていきますそれに対してここで あげられてるのはね滑石というねえ少し あの灰色っぽいあのちょっと質の悪い石で 無法したえ矢尻を模した石製品でしてこれ は本時代の前期の後半から出てくるような ものでござい ます で注目したいのはこの同族がありますけれ も同族のですねえっとこの同族のこの中後 に至るですねこの部分が割と膨らみを持っ てるですねこの部分が割と膨らみを持っ てるでこういう同族は甲本時代の前期の 1番古いところからはあまり出てこない ですね幸本時代の前期の半ばぐらいから ですね出てきてあの前期の終わり頃までは なかなか続かないっていうですね本体の 前期の半ばからちょっと後半ぐらいにかけ てですねえっと割とよく見られるここ 膨らみを持ってるんですねここがですね 割とこう膨らんでますでしょうかね こういうものがですね探していくと例えば こういうこれは滋賀県のあの瓢山でござい ますがえこういうところのですねえ膨らみ を持った同族とあと筒型動機ねこういう 組み合わせと割とよく似てるんじゃないか であ瓢山古墳は古墳時代ですねえっと半ば をちょっと過ぎたぐらい の大江で1番大きなですね滋賀県で1番 大きな前方公園になります時代のを ちょっと過ぎた頃です ねそうするとえっとま正式にあの歴年代で どう言ったらいいのかって難しいです けれども例えばま350年とかですねえ そういう時代の今時代の前期の半ば頃に ですねこのあ兵隊山古墳があるとすると それによく似たものがえっと岩千塚の中 からかつて出動してる とま3450年というところであれば 先ほどのですねこのおえ280年ぐらいに 日本に入ってきて300年頃にですねえ このキの地域にもたらされたんじゃない かっていうですねこの三角新住教 もまその頃の古墳があればですね350年 ぐらいまでの古墳があればですねえ割と うまく理解できるんじゃないかということ で岩瀬千塚古墳軍には前期の古墳おそらく こういうものを持つ古墳ですから前方公演 分だと思いますけれどもそういうのがまだ はっきりと見つかってないけれどもどっか に眠ってるんじゃないかっていうことを ですねあの少し提案しておきたいと思い ますそれを考える上でですねちょっと重要 な遺跡はこれはもう今からですねえ30年 35年ほど前にですねえ和歌山県のこれ 木川のですねえっと南岸のエリアちょうど ですね岩瀬千塚古墳軍のえっと山をですね え3階をえ西の方にちょっと降りた平地の とこにあるんですけれどもここでですね 秋月1号分というですね前方公園形をする ままあの高まりがあまり残ってなかったん ですね前方後方形集工房と言ってもそれは いいのかも分かりませんが元々こう高まり を持った前方平地に作られた前方公園墳な んですけどもねえこういうものがですね 見つかっておりましてこれ公園部でこれ 前方部ですけれどもこれが古墳時代の最も 古い段階のえっとものになりますえ噴気値 は26mぐらいしかないですけもこういう ものがですね岩千塚のすぐ麓にはもう興奮 時代の初めにえっと見つかってるわけです ねですからこういうあの前方後方あ前方 公園墳っていうのはえ奈良盆地の南の方で えっと創出されるえ有力者のお墓の形です けれどもそういうものがあまり時期を隔て ずにこのえっと木川領域しかも木の南岸の エリアにですねえ岩千塚のすぐ麓のとこに 到達してるっていういうことはやっぱり すでにですね幸本時代の前期の古い段階 から大和政権の中枢とこの機能カのですね 少なくとも南岸の勢力っていうのは関連を 持ってたんじゃないかということが伺える んですねますますそういうことから考える と岩千塚古墳の中にですね古墳時代前期の 初期大和政権の時代の前方公園墳がまた 眠ってるんじゃないかということをえ考え てみたくなるわけでござい ますでえっと左側にはですねえっと プリントにもあの載せておりますけれども 岡山県のですね木川狩行の古墳について 少しあの変年を載せたものですこれはあの え県でおりお作りになった図をちょっと私 がですね都合のいいようにあの改変して おりますけれどもどこを改変したかという とですねここへですね1つ前方後編を足し たんですねえあの県のこの変年図後ろの方 にあるに入っておりませんけれどもですね この頃にですですね花山地区かも分かり ませんけれどもなんか前方公があったん 違うかということでこれあくまでも福永の 図ですのでですねあの県の方の公式見解で はございませ んで えっとそれからですね興奮時代のえっと 前期から中期の初め頃にかけてですね えっと花山地区で前方公演府の築造が続き ますがえ古墳時代の中期の前半になります となぜかこの岩津千塚古墳軍からは前方 公園墳が消えていきましてですねま小さな 塩分とかね豊富とかはあるんですけれども じゃ前方公園墳どうなったかと言とですね この木川のえ北岸のエリアにですね有力な 古墳がま移動するっていうかね向こうの人 たちがですねこういう有力な前方コヒを 作るようになっていきますまよく知られ てるものは右上の釈迦のし古墳ねえ金の 真玉を出したということで有名ですけれど もえっと噴気庁が86mほどありましてね これ和歌山県の県内ではですねえっと岩瀬 の天王塚なんかと並んでですね最大規模の 古墳が古墳時代中期にですねえこのえっと 木川の北岸にできるということですねはい えそしてえっと木川の北岸に古本時代中期 の中場過ぎあ中期の半ば頃にですねこの うん釈迦残しができてで中期の後半になり ますとこれはもう日本的にも大変有名な ですね大谷古墳というのがえ長さが70m 弱の前方 ですけれども木の北岸にできるわけですね えっと大変珍しいですねバチですね馬の カブとバチとかですねあるいはこの帯金具 ですねこれはあの後からお話になります 若狭先生の先たのですね稲山古墳なんか からも出てくるようなタイプのこの縁に ですねこう刻みを持つようなタイプの帯金 なんかも出ておりまして5世紀の後半の ですね非常に有力なえ首長がこの木川の 北岸から出たということが分かるんですね とここの昨日川の北岸のエリアっていうの もですねそのずっと前方公園墳が次に続い ていくっていうなくてですね古府時代の 後期6世紀の初め頃になりますと古墳が ですねまた岩瀬千塚のこの3階の中に戻っ てきてですねえものすごく流静するわけ ですねそれがまこのちょっと緑でですね こう表したエリアになります最初え岩千塚 の中にあって岩千塚から下の方の木川北岸 に降りてまた岩千塚に戻ってくると前期 中期後期というねこの流れを少し覚えとい ていただきたいと思いますがえっとこれは 木川中華流行の古本時代中期の主要遺跡 ですけれども中期にはですね主要古墳主要 遺跡がほとんど木川北岸に出てくるんです ねその時には木川の南岸のですね岩千塚の 人たちはどうしてたのかっていうんですね ま少しこうえっと地域集団の中中でのです ね主導権を握る勢力の浮き沈みがここに あるんじゃないかという風に見ることも できますねでこの古墳時代中期にはですね うんと水色でですねえ丸を書いたもの四角 を書いたものとかですねこれはあの有力 古墳ですけれども黄色で丸を書いたものは ですねえっと古墳ではなくてえ有力なです ね経済的な活動を行ったえ遺跡なんですね 例えばあのあ後から出てきますねこれはい えその時にですねえっとこの古墳時代中期 っていう時期ですけれどもちょうどですね えっと泉3脈を超えた現在の大阪の仙南軍 の三崎町というエリアにですね巨大な前方 工品が出てくるんですねえと大変有名な ですねえ裁量古墳とかですねうず古墳これ はえっと炭のア未産剤古墳と呼ばれたりし ますけどもねもうえっとこっちが200m を超えるようなコねえこちらが180m ぐらいでしたか非常ににあの巨大なえっと 前方公園墳がね5世紀の興奮第中期にえ泉 三をえたこの炭のの地域に出てくるという ことでこれらも含めて考えると5世紀の興 代中期という時期はですね木川北岸 あるいはそのキノコ北岸と非常に近しい 勢力がですねえこのえっとキ半島の北の方 のですねえ力を握っていたんじゃないかと いうことが推定されるわけでございます ちょその時代のですねえっと木川北岸に あるちょっと経済的活動を行った遺跡と いうことを先ほど申しましたけどもえっと これ和歌山市の西正遺跡ですねもうもう ドキ青園でですねあのドキを使ったお塩を たくさん作るね本当に集中的に生産してる 遺跡ですよねえ右側はこれはえっとこれも 有名な遺跡ですけれどもえ和歌山市の鳴滝 遺跡というね大倉庫群ですねもう何をこの 中に入れてたのかっていうね大変興味の あるところですけどもねこういうですねえ 非常に顕著な遺跡が古本時代中期には木川 の北岸に出てくるということねこれが非常 に重要なま勢力の浮き沈みを示すですね 重要な証拠じゃないかと思い ますはいところが興奮な後期になりますと え前方公園墳も含めてですね有力な興奮 築造っていうのはこの岩瀬の山の中に再び 戻ってくるつまり木川のですねこう南岸に こう戻ってくるということになるわけです ねでとりわけ重要な古墳で調査されたもの としてえこの大谷山35号分ですねえっと 長さがえ86mあってですねえ作り出しの ところからも非常に射術的かつう躍度的な ですねえ継承ハ群が出ておりますねえ石室 はちゃんとですねこう石棚とかを えっと用いたです岩方のですね非常に 大きな石室がありますねえこういうものが ですねね幸時代後期6世紀の初めになり ますと岩瀬3海に帰ってくるわけですね えっと今の羽の様子っていうのはねえ当時 の えっと大王でありました形態の墓大阪の今 えっと高槻市の今白塚古墳にございますが ここにあるものと非常によく似た羽の 組み合わせになってるということが言え ますですねでこれも和歌山県の方がご研究 されておりますけれども大きな家形羽が大 日山3055分から出動してるんです けれどもあの今白塚古墳からも大きな羽が 出ててですね作り方がよく似てるっていう ですねあの屋根の部分この部分とこの部分 がうん2つのパーツになっておりまして さらにですねこの下の部分がもう1つの パーツになってるっていうことでこう3 分割にして大きな家形ハニアを作るという ねこれ今城塚古墳の家形ハニアの作り方 ですけれどもまそれと同じ作り方でえこの 大日山35号分のですですね家形ハを作っ てるということでこれおそらくあの公人 同士のですね情報交換があるような関係 じゃないとえこういうものは成り立たない と思いますので大日山35号分を作ったえ 関係者の間にはですね今城塚古墳を造影し た関係者との間でですね何かこう結びつき があったということはそれぞれの秘非想者 間にもですね結びつきがあった可能性が 非常に高いということになりますですね はいこれは大谷山202号分ですねえ岩瀬 大山のですね大谷山22号分ですけど最近 ですねここの石室が朝鮮半島の南部の地域 のですねえ南西部の地域の積出に似てるん じゃないかというそういうご指摘があり ますえっとこれがそうなんですけれども えっと宮崎大学にいらっしゃった柳沢和夫 先生が最近の論文で書いておられまして 大谷山22号分とえ朝鮮半島の韓国の南西 部ということになりますけれどもあの英山 光という川が流れておりましてその流域に あたる地域にですねあの複眼里35分と いうですね右側の石室を持つ古墳がござい ましてこことですねえ大谷山25号分の 平面形態がですねえもう本当にあの売り2 つだというわけですねえちょっとこのえ 現出に対して右側に少し寄った部分にこう 先導がつくとかですねあるいは原質の平面 形態もほぼ同形同大だということでねこれ は両者のですねえっと古墳を築造した人 たちの間にえ強い関係があったんじゃない かということでございますまそもそもこの 副元理3号歩の石室もこれはあの韓国の ですねえ石室のこう伝統的なタイプじゃ なくて1番下の部分にこういう腰石という 大きな石を使ってですね えこの先導と原質の間の境いもこう ちょっと飛び出してですねえこういう風 なう内側に少し張り出すようなねここれ和 の石室ですねそういうものの築造にですね この岩千塚の関係者が関わったんじゃない かっていう説が最近出されておりますねえ これは副が理35分のですねえこういう ものであります副元理35分は中にはね カカをこう中に埋葬で入れてるって非常に あの地域性の豊かなものでございますもう 1つはですねえっと同じ韓国の青南部の ですね前方公園墳っていうのが最近作られ てるというのが分かってきました6世紀の ですね形態代用の時期のものでございます がそのうちの1つの流通理古墳というもの ですねこれも柳沢和夫先生のご研究なん ですけれども流動理古墳っていうのは関子 の上の方は壊れてるんですけれどもえ残っ てる石の中にですねこの石棚に相当する石 があるんじゃないかていうことを指摘され ておりましてえこのこの上にさらに積出が 続いていってえ天井はもっと高いんじゃ ないかということをですね柳沢先生が推定 されててこれは石棚を持つですねこの岩瀬 型の石室がえっと韓国青南部の前方公演府 っていう和の古墳の中に作られてるんじゃ ないかっていうこういうご指摘でござい ますまただですねちょっと私も現地に調査 中に行ってみたんですがこれがですね石棚 とじゃないかという風にですね柳澤先生が 考えられるえっと石材なんですけどもねで 柳沢先生のえっとご見解によるとえっと ここの側壁がですね現在のこの石材よりも 高い位置にこう側壁が残ってるので えっとえこれがこれは石棚であってですね そもそもこの石棚の上にさらに壁を 作り出してえも上の方にですね天井石が 乗る構造ではないかということなんです けどもねうんあまり高くするとこう噴気 から外に出てしまいますのでこれは ちょっとこれが石棚でいいのかどうかって いうのはまだ検討の余地があると思います けれどもそういう研究が提示されてると いうことはですねえっと岩瀬千塚古墳軍と この朝鮮安東南部あ南西部ですねえ韓国の あの英山号領域の勢力との関係も考えなく てはいけなということになってきました えっとこういう末益も流動理子墳から出動 しておりますさあここから後はですねえ岩 線図を考える場合に少し参考になる事例を 私の調査をやってるフィールドから持って きましたけれどもこれは大阪とえっと兵庫 県の境を流れる稲川流域のものですけれど も同じようにですね稲川流域でも小知域 ごとに見ますと古代前期に有力な地域それ が古墳代中期には別の勢力が有力になって でまた興奮時代後期にはえ最初に有力だっ たところにですねこの有力古墳が返って くるという風な動きが認められます ねはいこれこれ古本時代中期に稲川行で 有力になってくるくる豊中市の古墳軍です ねで古墳自体後期にはまたえっと前期有力 だったま稲川のちょっと上流域の辺りに ですねえ有力の古墳が戻ってくるという そういう動きが認められるねえこれは京都 府の南部のエリアですけれども桂川の右岸 域ですけれどもやはりですねこ前期に えっとこれは有力な古本を作ってた現在の 向こ市というエリアですねこういう縦穴式 石室の有力なもの作 古墳時代の中期になるとその西側の長岡橋 のエリアに有力古墳が移動して古墳時代の 後期になるとまたこの向こ市のエリアに 戻ってくるとこういう動きが認められるん ですね実は今言った動きはえっとこの岩瀬 山そしてえ木川の狩行きの南岸と北岸の エリアのですね古墳宮の動きと非常によく 似てましてえっと岩瀬山山海に古第前期の 古墳軍前期の古墳があるという前提でお 話ししますとえ古墳時代前期から中期の 始めまではこの岩瀬山海古墳を残した勢力 がこの地域の主導権を握ってたえ時代中期 になりますとその主導権がえっと日の北岸 のエリアのですね有力者たちに渡って さらに後期になりますとまたえ岩瀬3海の ご分を残した勢力のとこに戻ってくると いうことでございますね同じような動きが ですね先ほどえっと稲川流行そして京都府 の南部で認められるという風に申し上げ ましたけれども実横領の動きとよく似てる んですね横領の動きも今時代前期は大和 盆地の奈良盆地の中中期になると今度は川 部屋に移動して後期になると今度はその川 部屋っていうか大阪部屋の北の方にですね 移動してえさらにその次はまだ大和に戻っ てくるというねこういう動きがなんとなく よく出ますよねこれねでこの動きが古墳 時代の大和政権の内部でのですねえ政治的 な変動つまり主導権のえ大和から川川から 切そして大和へという主導権の交代と何か 関連してるんじゃないかっていう仮説が ここから導き出せるんじゃないかという風 に考えているわけですねはい大和盆地の 最初の大大柳本古墳軍そしてモ古一古墳軍 にて今白塚古墳に行って最後はまた大和に 戻ってくるということです ねそうするとです ね最後に大和に戻ってくるあ最後にあの 稲川流行にあ稲川じゃなくて淀川流行に 行って大和に戻ってくるっていうこの6 世紀の動きがえこの岩山古墳宮のですね 同じ6世紀の流星と関わってるんじゃない かということがですね推定されるわけです ねそういうことが成り立つとしますとと えっと注目に再び登ってくるのが和歌山県 のですねえこれ橋本市のあにあります菅田 八幡神宮菅田八幡神社に伝えられるあの キビ念人物画像教というものでございます これが6世紀の初めのキビ年というのが 503年の鏡であるっていう説が最近有力 になっておりますがこの中に出てくるです ねえキビとかですね島とか応とかねこう いう人物の名前がえキネが503年大東が 形態そして島というのがくだの船王では ないかというですねそういう説がま有力な 説として最近登場してるわけです ねでこれはあのくだの無王領から出てきた えっと母子ですねお墓の中に入れてる母子 ですけれどもそこにですねくだ島王という 名前が出てきて先ほどのですねこのえっと 菅田八幡の鏡の島という人物と一致する つまこれは島王と大王というですねこれは 形態と推定されるわけですけれども非常に あのくだとの関係が深くなった6世紀の 国際関係を示してんじゃないかというです ねそういう情報が伺えるわけですね はい岩千塚の6世紀っていうのは大変重要 な意味を持ってるということは変わりない わけですがその意味がですね本時代をこう 通じてみた時にもですね非常にあの大きく 浮かび上がってくるようになってきたと いうことでございますでこれは冒頭にも 掲げました岩瀬線図の岩瀬3海の図です けれど も現在えっと特別席に指定されてるのは このエリアでして今日お話ししたのは花山 地区も含めてえっと割とこのエリア全体の ですね古墳具の動向をお話ししましたま そういうですね新しい調査研究の成果に 基づきますとまさらにですねこの特別史跡 をもうちょっとですね頑張ってえ広く確保 するということがですね今言ったような この地域に残された情報の方向をですね次 の世代に伝えるような大きなあの意味を 持つんじゃないかということを少しだけ あのえっと期待として申し上げまして えっと私のお話を終わらせていただきます どうもご成長ありがとうございまし た福永様どうもありがとうございました今 一度大きな拍手をお送りください ませありがとうごましたえそれではこれ よりおよそ10分間の休憩を取らせて いただきます休憩中にロビーの展示も是非 ご覧くださいえまた関連の書籍の販売も 行っておりますので是非お立ち寄り くださいえまた皆様のお手元の資料の中に アンケート用紙がございますお帰りの際に 解消させていただきますので是非ご記入 いただきますようよろしくお願いいたし ますえそれでは休憩とさせていただき ます お待たせいたしました発表2を始めさせて いただき ますさた古墳軍の魅力を語る劣等士を彩る 東国豪族たちと題しまして明治大学文学部 教授若狭徹様よりご発表いただき ます若狭様は明治大学文学部高古学先行 卒業群馬庁教育委員会文化財保護主持高崎 市教育委員会里博物館学芸院文化財保護 課長を経て明治大学文学部にて教授を務め ておられますご専門は古墳時代の社会構造 に関する研究です特に関藤を中心とした 古墳時代研究者としてご活躍されています えそれでは若狭様よろしくお願いいたし [拍手] ます え皆さん こんにちはえっとあの今ご紹介いただき ました若狭でございますよろしくお願い いたしますえっとあの今あのプロフィール にもありましたように私あの8年前まで ですね地方自治体におりまして町の教育 委員会とかですね市の教育委員会で文化財 行政を実際にやっておりましたあの和歌山 県の取り組みはともかくすごくてですねえ 遺跡整備それから博物家の展示とかですね あの大変勢力的にやられておりましてま このようなシンポジウムに展開してると 思いますえそのことに対してまずあの心 より経緯を表したいと思いますで私今日は ですねあの東日本からやってまいりまして えこちらにありますようにさた古墳群え これについてご紹介をさせていただきたい と思いますえっと副題としまして劣等市を 彩る投獄豪族たちということになっており ますがあの皆さん古墳の本場の関西の方 ですからね東っていうとちょっとイメージ が湧かないと思いますがあのまどうしても その東の辺境の地という風に考えがちです けどもま実はですねこの東日本の豪族もえ 大和方県の一員としてあの東西に活躍して いたということを今日ご紹介したいと思い ますえこれが埼玉古墳郡の航空写真ですね え関東部屋のど真ん中え埼玉県行田市に ございますえっと席指定はですね昭和17 年と早いんですけどもも特別奇跡になった のは2020年3年前ですえやっと仲間に 入れたという感じなんですがもう少し早く てもね良かったのかなと個人的に思って おりますけれどもえこの3つの仲間に入っ たわけでございますでっと5世紀の後半 から7世紀まで継続した興奮群でござい ましてえっと広はですね26ヘクタール ですえ岩瀬千塚でもちょっと狭い半分 ぐらいしかないんですけれどもまあの26 の広さを持ちましてさらにですね周りを あの県の公園部局がですねえ公園を 付け足して広く整備をしておりますえ古墳 はですね前方公園墳が8期えそして大型の 塩分が2期それと週末期の方墳が1つそれ と群衆墳というそういう構成になっており ますがえ8期の前方公園墳がまとまって るっていうのこれは国内でもねなかなか ないえ貴重な遺跡でございましてこのうち 3つが100mを超えるというそういう あの ええ大きな古分群でござい ますえ場所はですねえこちらですね関東の 真ん中あたりですえそしてえ岩千塚はこの 中央部そしてこの後ですね五藤談されます えサイトバル興奮群のまここえこんな感じ でま分布しているわけであり ますこれが平面図ですけれどもえこんな風 にですね古墳が配置されまし されておりますけれども最初に作られたの はこちらの稲山古墳ですえ北側1番北の方 にですね作られております5世紀後半え 続きまして6世紀のですねま初め頃に丸 墓山古墳が気づかれていきますえそれから ですね え続きまして6世紀前半に双子山古墳これ が1番大きいんですねえそして続きまして 将軍山 え6世後半になりますと鉄砲山古墳 で最後にですね7席になって鳥口山という 方墳が作られますま今メインのものだけご 紹介しましたが他にもですねやや小さい 前方公園墳が組み合わさってましてえ複数 系列のま王様のですねえ貿易になってると いうことが分かると思いますえこの北武蔵 ま埼玉県ま武蔵の国ですけども武蔵の複数 の豪族のお墓がですねここに集められて いるということがお分かりいただけるかと 思いますえそれからこの特徴を見て いただきますとですねえっと前方公園墳の 周りにですね珍しい四角二重の堀が巡って おりますのが特徴ですそしてこの古墳の ですね西側に必ずこの作り出しがつくん ですねこのえ二重の中堀の間の中手中包の こういうところにもですね作り出しがつき ますしそれからのこの側面にも作り出しが つきますこのことからこの古墳群の正面間 っていうのはこの西側ですね西側から見る ような形で作られてるということがお 分かりいただけるかと思いますでだんだん このえ北から南に興奮が移り変わるように 作られてるということがお分かり いただけるかと思い ますえ少しですねこうあの鳥の目になって え古墳を見てる北から見てる図ですえっと 1番最初の稲山墳はここちらに作られて次 に丸墓山古墳が作られ双子山古墳が作られ こういう後ろに下がってく感じですねで 古墳自身はですね少しえ高い尾行地場に 位置しておりますでえこのすぐですね西側 にこう川が流れてるというこういう位置 関係なんですけれど もえ関東の中での位置を見ますとですねえ ちょうどここになるんですね 埼玉古墳でこの関東にはですねあの古墳 時代にはですですねえま陸上交通もそう ですけども水上交通が非常に発達していた と考えられてましてえ機内の方の物資は ですねま船でま東京湾にえやってくるわけ ですねで東京湾のえ沿岸にはですねこの川 の加部分に大きな前方公園風が並び立てて ましてここに港があったことが分かります え外洋線がですねここにつくわけですねで ここから関東の内陸にどう行くかと言い ますと川の船を使うと河川を用いている ことが分かっていますで河川交通はですね 当時の異物の分布から見ますとここですね 荒川を遡ってこれがメインルートである ことが分かっていますで荒川を遡りまして ですねえこの埼玉県北部から常川に接続を しまして常川を遡っていきますそうします と関東部屋の一番奥にあるのがこの群馬県 地域上のと言ってるんですけどもここに ですねえ代古墳古墳群があるんですね 大きな古墳が分布してることが分かり ますここです ねここにはですね東日本で唯一のえ噴気庁 210mの巨大前方公園墳太田天治山交墳 などが作られているま一大勢力地興奮時代 における大和政権の中の1つのですねま核 になってる地域という風に考えられます ここにですね後であのお話しますが七越山 っていう古墳があるんですねこの古墳の ことちょっと覚えといて くださいで埼玉古墳群はこの荒川米川水運 のちょうど中間地点にですね位置してるん ですね えーこのですねえ位置関係からおそらく ですねこの先山古墳群っていうのはこの 水運の拠点ですよね中継地点内陸の上付の まで至る100kmの水運の中間地点を こう抑えるそういうところにですね進出し てきたということが分かりますえきっと ですねこの古墳のに港があったんでしょう え実はですね万葉州奈良時代にええ読まれ ました余れました万葉州の牧14これは ですねえ東国の歌を集めたあの館なんです がこの中にこういう歌があるんですねえ咲 たの津におる船の風を痛み綱は田ともこた な絶えそとえこれはですね咲たの川の港に え止まっている船の綱ですねこれがえ恐風 で切れてしまうえしかしですね私たちの愛 の言葉は耐えないで欲しいというまこう いう恋歌ですね総門家といういい歌なん ですよねこういうのが読まれてますえ おそらくですね万葉人にとってこの咲たの 津っていう港はま名称になってるんですね 歌に歌い込みびもですね口ずさむようなえ 名称になっていたという風に思われます このですねえ咲たの津がおそらくですね この先た古墳群と共にですねえ営まれって いたんだろうという風に思われるわけです ねまこういうところにあったんじゃないか なと思うんですその埼玉の津から見える ですねえ西側から東を望むと先山古墳軍が ですね堂々と見えるというこういうあの 景観を形成していたのだだろうという風に 思いますでちなみにですね私授業でこの歌 を学生に紹介してですねいい歌だろうと かって言いますと今の学生は重いと一言 ますねこんな風に言われても困ると重 すぎると言われてあああの古代人のこ歌は 通じないんだなと思って寂しくなります けどねまこういうですねいい歌が読まれ てるそういう場所にこの古墳群はあると いうことになりますえさてですねえこの 古墳群の魅力をいくつか紹介していきます けどもまずですねさた稲山古墳についてご 紹介しますえ最初に作られた船長120m の大きな前方公園墳ですねこれです5世紀 後半ですけれども5世紀後半においては ですね日本の中でも10番目以内に入る 大きな前方公園墳ですえで昭和40年代に ですね遺跡整備のために発掘を行いまして ご覧のようなですね歴Openが見つかっ たんですねこれは船型の木管の下にですね 石を敷いて固定してるものこういうものが 出ましたで未洞窟だったのでえ異物がです ねたくさん出たんですけれどもえまず代表 的なものはですねこちらのあの鏡ですが問 体新住居これは5世紀の大和県がえ地方の ですね有力豪族に配ったま維新罪という風 に考えられていますのでこの興奮のある字 が山方県と強い関係にあったことが分かり ますえそれから先ほどもですね福永先生の 方からありましたこの龍門の帯ですね朝鮮 半島で作られたものこういう外来の文物も またくさん保有をしていることが分かり ましたえそしてですねま何よりも有名なの がこちらのですね文鉄教科書にも載って いるあの文字が刻まれた鉄拳でございます でちなみにこのですね歴はあのこの古墳の 中軸線から外れた位置にありますでしかも 浅いんですよねですから本来この古墳を 作った最初の人物の埋葬施設はもっと深い ところの中心部にあると考えられており ましてこの歴に埋葬されたのはこの稲山 古墳のアジのですねま指定ですねえでは ないかとえま王様のくらいを継がなかった 子供ではないかなという風に考えられて いるところですえさてこの名文鉄拳ですね え115文字えっと日本で古墳時代でえ 文字が刻まれてるえ当権はですね8例ある んですけどもその中のま1番長い文字数を 誇るえ資料になりますで読み下しがですね 色々ありますが代表例を上げますとまこう いうものになってですねえの年ですねの7 月にね記されたんだとで大明のオとあり ますでこの大明のオのですねえ来歴をこれ 以下刻んでましてえ城所な 大彦命がですねえ大のであるとこの件をえ 発注した人物であるということになります 上人の帯人となり奉じしきりて今に至ると 大和県の武漢のまオさを務めていたという 風に書いていますで若た大きの寺四の宮に ある時え我天下をさじしこの100連の 離島を作らし我が法事の根源を記すなりと ありまして若たの大きめの時にですねえ そこに使えていたということでその自分の ですねま業績をえこの素晴らしい県にです ね刻んだんだよということが書かれており ますえこの中の若たる大きというのはです ねま有楽天皇と考えられております有楽 天皇は日本初期ではですね大発の若たるま まさにこの読み通りでございますえそして ですねこの部という字を取りましてえ和の 五王の最後の和王部であろうという風に 考えられているわけですねえ5世紀のえ 代々の和王5人はですねえ総の国に兆候し ていますそのことが相女に書かれてるわけ ですがえその5人の最後の代用王の1人が え最後の王がですねこの部になりますで この部はですね478年にま長い上表分を ですねえ層に送ったことが知られており おり ますでこの件の名文から分かることはあの 大王大味のま号が成立してるとま王の中の 王という称号がですねね確立していたと いうことやえそれから侵害の年っていうね 実年代が刻まれてるとでこの新概念という のは60年に1回回ってくるんですけども この若たるということとまあのつなげてえ 471年であるという風に考えられてい ますえそれからこの作東発注者ですねこれ は大明という人物である とえそれからですねこの大にはですね経 意識ですよね代々のこうを記録するという こういう意識があの生まれているで上層 大彦命給付をあの記録するっていう意識が 生まれてることが分かりますただしこれは ですねおえ親子まこという血族の直系では なくてその地域のえ王のくいを代々 引き継いできた人々のえ系統を表してるん だろうと考えられておりましてまたですね この段階では5世紀後半にはも野辺とか ソガとかそういう宇の名はまだできてい ないんだとということが分かりますえそれ からですねえ上等人の帯人という風な刻み がありますがえこれが大要に使えるですね 武漢上等人のまおさという意味ですけれど もこのことからえ人性というですねま初期 的な官僚性ですよねえ上等人とかですねえ それからあの転送人っていうなえま所言的 な官僚機構ができているようだということ と地方から中央にですねえ上がってえ大王 に使えるという常磐性が確立してるんだと いうような ことえそれから天下をさじ奉じ根源という ことで大和王健とその自らの関係をですね えま強調するようなこういうことがえ行わ れていたこういう様々なことがですね 分かりましてえこの115文字の発見に よって日本古代子古墳時代のえ5世紀士が ですねすごく深くですね理解できるように なったとまこれがですねまず1点の大きな 魅力でござい ますで気になるのはですねこの刀を作った あ剣を作った大明ってどんな人なのって いうことですけどもこれも諸説あるんです ね説の1はですね大明中央豪族説小は大和 県から武蔵に派遣された派遣将軍で武蔵で 死んで葬られたという説ですただこれは ですねやっぱ違うと思うんですよね古墳の 形が非常にローカル方形のあのえ堀を 巡らしたりしてローカルななんですよねえ ということからこれはちょっと難しい だろうと説に同じく大明中央号属説ですが これは大明っていうのは大和の人なんだと 大和の軍事種族で大王の元でですね譲渡人 の佐を務めていたで思そが 大彦命の大和の豪族の安倍氏ですね安倍の ヒフとかを出したあの無人を出す家計です 安倍市であの族であってえこの件はですね その後に安倍市になる尾という中合族から その配下にやってきたま埼玉の豪族にです ねあげたんだろうというこういう説ですね これが説にですこれは近年までかなり有力 だった説ですねでせさんはもっと素直に 考えようじゃないかと小は埼玉の人なんだ とえ東国の人なんだという説ですねは武蔵 の族長の指定で大に常若大よに上人のびと して奉仕し たまこの3節ですで私はこの3番目に立っ てますねえま今日は細かく話しませんけど もえこのことからえ東国東の豪族もですね 大和の中でえ大王を支える重要な位置を 占めていたんだということがですね分かる かと思うんです ねえこの稲山古墳の主はですね指定を大和 に常磐させることでなですね有の王と結び え荒川常川水の中継点に進出してきたと いう風に考えられますま交通拠点をえると いうことですよねま有楽天皇ってはすごく 先制的な代用で力があったんだということ で知られておりますねえそれと結んでいる そしてですね常川の奥のところにいる東国 の遊上野市ですね上野の大五族とのパワー バランスを形成してるんだとえ中継もする けれども時にはですねえその家のを抑え るっていうそういったあの力をえ期待され てるんではないかという風に思われますえ これがですねえ鉄拳を返して分かるまず1 つのま面白さということになります ねえそれから2番目ですねえ埼玉双子山 古墳についてご紹介しますえこの古墳は ですね分球所 132mmた興奮軍の中でも武蔵の国でも 1番大きい前方公園墳ですでこのは実は ですねあの最近まで5世紀節と6世紀前半 節と2つえ説があったんですが近年の調査 埼玉県が一生懸命調査をしましてそれに よって6世紀前半であることが確定を いたしましたえっと1つはですね5世紀の 終わり頃に降ったあ春奈さんていう北関東 の火山の火山売の上に作られてることが 分かりましただから6世紀に入るえそれ からですねレーダーをやったらば横穴式 石室ですねこれ和田大学のジク先生が レーダー探査したらここに横穴石室が ばっちりレーダーで出てきたんですね えそれとですねあの作り出しというここの 部分を掘ったらば末がいっぱい出てこの 水液の形式から見ても6世紀前半であると いうことが分かったんですえですのでえ6 世紀前半に確定したんですねまそうします とどうなるかと言いますと先ほどですねえ 福永先生からもご紹介がありました形態点 の6世紀前半の形態点の王道の時期に並行 してくるということが分かったんですね これは少しこれがすごく重要なん ですえこの形態機っていうのはですね社会 変動の正規ですねえこちらにですねあの え和の大型前方公園墳の変年図があります 先ほどもお話がありましたが5世紀はです ねここのもず古1子墳軍に巨大前方公園墳 が林立していたんですね ところが6世紀になりますとえこの巨大 前方公園府の増は終わって淀川北岸の ところに今城塚古墳が登場 するえ巨大古墳が終焉して前方公園分が 小さくなってきますねでえ全く違うところ にですね今代塚ができるでこれが携帯天皇 の墓だという風に考えられているわけです ねこれがえ今代塚古墳ですね1801m だいぶ小さくなっちゃったんですが6世紀 前半では最大の前方公園分ですねでその 形態の知性をま記念するようなあ全部で 200体のえ人物動物ハ群像が立ってると いうこういう古墳えま明らかにですねえ 政治変動があったことが分かりますが総連 と並行え二子山古墳は並行してくるという ことになり ますえ経済長ですねえっとその有楽天皇 非常に強いえ天皇だったんですがあの即位 するのにライバルをどんどん殺したことが 日本初期に書かれていますそうすると多い 継承者がですね先とみになってくるんです よねえそしてですねついに6世紀前半に 応答があの耐えてしまって大王の候補者が いなくなったので軍神が相談してですねえ 大人天皇五 星村5世の孫なんて私5世の前の祖先知ら ないんですよ皆さんもなかなかわかんない と思うんですねだから非常に遠いですね あの子孫である法人天皇の遠い子孫のえ 王土形態をですね星の国から迎えたとあり ますえっと大江で生まれてえでお父さんが 亡くなったのでお母さんの実家の古に行っ てたんですねそこから迎えたと書かれてい ますそしてですね人間天皇の娘の田の姫美 と引することによって統性を確保してえ 大王天皇として即位ができたという風に 書かれているわけですねえここに系図が ありますがこれが大人ですよねでここから 分れたえ1台2台3台4台5台これがま 形態ということになります遠いんですよね でこの人間天皇の娘の多をめとってですね 王あの大王位についた とでこの形態の政治基盤はですねその新地 であるあの大江それからあの大江から 流れるですねえ川淀川水それからあの北陸 の古市ですよねそれがまず基盤ですけれど もえ淀川水と日本海炎岸がまずはあのえ 1番の基盤ですそれともう1つはですね 東海地方の尾今の名古屋辺りですねそこの 豪族と結んだことが分かっていますでこの 形態の奥さんとしてもう1人ですね足らの 他にま他にもいっぱいいるんですけど有力 なあのえ奥さんとしては大氏のえ娘のです ね目の子姫これがいるんですねでこの メノコ姫メロのイのえ子供がですねえ次の 安間天皇天下天皇それから確かのえ子供が 金明天皇という風にえっと大王のくいを ついていきますだから子供がですねこの 大王になってるのでこの大荒れ氏の勢力 外積の勢力はね強かったということになり ますねこのよに形態というのはやっぱり それまでと違うあのバックボーンから出て きてますので地方豪族の支援を強く受け てるということが明らかかと思いますえで ですね形態の知性はですね非常に多難です え朝鮮半島における外交を行ったんですね 先ほどあの半島の前方公演の話ございまし たけどもしかし日本初期で見るとですね ここで外交の権益を失っていくっていう ことが書かれていますだから外交政策根明 してるんですねもう1つはですね形態の 万年にえ北部九州の豪族のえ尽しの気味祝 の大氾濫があったとえいうことでここで ですねこの大王家の危機がものすごい危機 があったとえこういうこれが形態長の特色 になり ますえこういう関係ですねあ失礼しました つまり形態のえこう勢力範囲ですね大あり と結んで腰それから淀川水計をバッボにし てるとえでですねえここのえこの岩山古墳 っていうのが作の君祝の博と考えられてる んですけどもここが氾濫を起こすんですね で今回問題にしてるのはこちらの北北関東 え武蔵と上野っていうこのブロックの話に なり ますこの6世紀前半は分小さくなっちゃう んですけどもこの時のえレトの中の大きさ 比べをするとですねまず1番目は今白塚 古墳181mです携帯点の農墓と考えられ ますで第2ランクとしては150mクラス があるんですねでこの150mクラスの1 つは名古屋にあるダンプ山古墳これが尾の 村坂携帯の奥さんの目の子姫のお父さんの 墓ではないかと考えられています外積です からねでっかい古墳を認められてる第3 ランクは130m級ですがここにですね 岩山古墳え祝の墓が入ってきます え先ほど来名前が出てるえ九州のですね 柳沢和夫先生などはいわい最初は形態の 支援勢力だったけども後に氾濫してると いう風に考えられてますねえですのでこれ だけ大きな興奮が認められてるとえで後で 氾濫してるここで問題になるの はえこちらのですねえ埼玉二谷古墳今お 話ししている古墳とすぐ近くにあり言ます 群馬県の7越山古墳 ですこのように見ますとですねこの形態機 の大型古墳っていうのは大和に大きなのが 少ないんですよねえそれまでの5世紀と 全然違うんですね大和にはあ今代塚があり ますけれども後の大きいのはですね東海 関東北部九州に偏ってるということが 分かりますこの方からも形態というのは 地方合族のですね支援を受けて成り立っ てるんだろうなということが分かるわけ ですねでその時にえ問題になってくるのが この埼玉二山古墳と七越山古墳という関東 の2つの古墳がどういう位置付けなのかと いうことです ねえまずですね第2ラク 146mmから見ていきます群馬県藤岡市 古代水野軍にある古墳で二重集合を巡らし た非常にあの美しい前公園写真で見ると こういうですね綺麗な古墳ですえでですね え今代appear古墳に並んでるような 多生を取たたくさんの帯を巡らす高さが 1mぐらいある大型エトハを持ってるのが 特徴ですでこの古墳の設計図をですね半分 に割りましてこっち7越し山なんですけど もえ今代塚古墳の設計図と半割で比べると まほぼ同じ形になるんですねだから同じ 設計図を共有してるとえ今代塚古墳の古墳 の設計図をもらってですね少し小さくして 作ってると推定できますえそれからですね えその形態の奥さんを出した尾張市の墓と 見られるダンプ山と7越山古墳を半分で 比べると1対1で同じ形になり ますえしかもですねレーダー探査によって 横奇跡室があることが分かってますこの球 の企画の類似からですねええ越山古墳もえ この形態大王とですね非常に関係があった んだろうと形態を支える投獄のえ有力勢力 だったんだという風にま推定をできるかと 思いますえしかもですねダンプ山と並んで 国内第2位の規模ですね終わりと共に形態 を支えた可能性を考えたいと思い ますえ形態機の維新剤ですねえ形態機に 作られて大和からられただと思われる維新 材は関東では特にこの群馬県地域に多い ですえねじ関東たちっていうですねこう いうあの和風たちがあるんですけどもここ にですねねじったあの輪っかをつつけるん ですねねじり関東たちこの文法を見ると 中心はまあの大和ですけれどもえ関東では この群馬に集中しますねだから携帯王に 重視されていたのは明らかですそれから ですね宗洋べがって言って馬のお尻にに つつける飾りなんですけどこの横にこう角 みたいな飾りが出てるこういうのがあるん ですねこれも中心は大和ですけどもこの 群馬県にですね集中するということで やはり形態との関係は非常に強い だろうそれから同じくですねこの群馬県 地域に6世紀以降に多く分布する高古資料 としては岩見形ハですねこの頃に現れる 新しいタイプの継承ハは大和から出てえ 関東に伝わりますそれからこの抜頭型人物 ハって言ってこの剣を抜こうとするですね あの大魔人みたいな無人ハこれが関東特に 群馬県ですごく流行るんですけどもこれの モデルが今白塚古墳の羽ですこの無人羽 ですね今白塚この影響を受けて成立します それから先ほどのねじり関東たちをモデル にした立方ハが関東でえ流行りますがその モデルもですねこれ今代塚古墳の立方羽と いうことでえ今代塚のハ様式をさっきの ですね岩千塚の大日山と同じように関東で もえ群馬県を中心に受け入れているという ことが分かり ますえでですねえではその形態を支えた 可能性があるですね日本の大型方公園墳の 2つえ七越山と埼玉双子山古墳これについ てもう少し深掘りをするとですねえこの 記事が目に止まります日本初期安間元年の 記事ですアカは形態をついだ息子ですアカ が死んだ直後に起こった事件ですね534 年ですねこれはどういう事件かと言うと 武蔵国造ですね武蔵のま国の長官の地位を 争う相談が起こりまし た笠原のあえ臣と同族の沖が争と笠原って のは埼玉興風軍の南の方の地名なんですね え笠原っていう宇の臣と沖が争うと臣です ね沖が争っ た沖はですね隣の国の神付の君小熊と結ん だと群馬の大合族ですねこれと結びました で大きっていうのはここに書いてあるん ですけども性格悪いよっていう風に書いて あるんですねこれは大和が書いた言葉です からね信じるかどうか分かりませんが性格 悪いんだって書かれてるんですでおはです ねあのえ助けをですね大和保県に求めるん ですねそうするとこの頂はあの え沖殺したつまりオが勝ったんですねえ そうするとですねオは喜んで武蔵の4との ヨの三宅を見上したと土地をま差し上げた ということですねこういう記事ですえ北 関東で相談が起こってえこの3人ですね沖 臣小っていう3人がですね登場するんです ねで問題はこの翌年です安間2 年え安2年にはですね日本中に三宅を いっぱい立ててるんですけどもその中の1 つに上付の国の水宮がありますこれ七越山 古墳があるところなんですねえそこに三宅 が立てられて大和方県の楔が打ち込まれ ちゃったということが分かりますこの記事 なんですけどねこれを先端古墳軍と 引きつけていきたいと思います がえまずですね私はですねあのちょっと労 症の手続きはあまり言いませんけども えっと殺された沖ですねねえこれは沖にぎ された人物としたいと思いますね沖と人は 本当にいたかどうか分かりません沖に なぞらえられた人物の墓は丸墓山古墳と 考えます丸墓山古墳っていうのはこの でっかい塩分なんですね直径105mの 日本で2番目に大きい塩分ですえこの古墳 1番え最初に作られたシである稲山古墳を 隠すように作られてるんですね近くにある から風をすごく強調するんだけども隠す ように作ってるんですねさっきの性格悪 いっていうのとちょっと通てしますよねえ であのでっかいんですそれて土量はもう ものすごいあの前方公園より大きい大量に 使ってますけどねなぜ前方公演付になれ なかったのかっていうのは大和王健と結べ なかったからですね前方公園は大和健との 連合の証ですからねえ大和と結べなかだ からでっかい遠にとまったんだとそうする と大和王に殺されたの条件と近づいてき ますそしてですね双子山古墳はこのオに名 られた人物の墓だろうとえ臣はですね王家 に認められてるわけですねでえ稲山を継承 する南側に堂々と気づかれしかも最大の 古墳として気づかれてこの古墳軍の継続を 決定するっていうそういう存在になります のでねこれがそのオのお墓でオになぞられ られた人のお墓と考えられたら考えたら どうだろうとで奈越山古墳はミの宮宅が 置かれたえミ軍に所在する え巨大前方公園の七越山古墳これ大熊のに なぞられた人物にの墓に否定したらどう だろうかということでえっと国内第2の 古墳として成り立ってますから形態のです ね支持勢力だっったとしかし形態が死んだ 後にですねええまその力をですね削いで いくということでえ弱体化されてくという まこういう関係でえ武蔵国造の乱の日本諸 の記事とえこの先たそして群馬の古墳の 関係が読めとける可能性があるという風に 考えますえ携帯のラの携帯前後の氾濫と 国家形成ですねえ携帯天皇万年に祝の乱が 起こりましたで祝の乱の後え祝の子供のク 子はですね春の宮っていう大陸との重要な 外交拠点を見上してい ますから形態没後に武蔵国造の乱が起こっ て え投獄最大の勢力であった七越山古墳の ところにみ明が置か れる東西の大勢力が弱体化をしていき ますで形態険というのは非常に脆弱だった わけですよねえそれをですね次の安間戦火 金明という3人の子供たちが改革をして いきます 国造性三宅性市政制度部民性っていうです ねこういったあのえ制度を整備していって 豪族連合体制であった大和王権を集権化し てくわけですね王権の力強くしてくんです ねこれ国家形成向けて動いてくだから豪族 連合っていう緩い組織の大和険をえ強い ものにしていくですねきっかけえとして ですねえこの祝のラや武蔵国造のラえを かませて考えたらどうだろうという風に 思うわけでござい ますさて時間もなくなってまいりましたが えっともう1つのポイントは将軍山古墳 です6世紀後半に作られた90mの前方 公園墳ですがこの古墳からはですねあの バチですね馬の兜ですねこれ日本で3つの 古墳しか出てなくて1つはあの先ほどご 紹介があった大谷古墳ですねあの和歌山県 それからえっと福岡県の船原古墳この3 箇所しか出てないトラ文物ですそれから 打高状鉄器って言ってこの馬の腰に つつけるですねこのえっと旗竿の絵ですね えこういうあの半島系異物も出ていますし えこのえ関東たちやこういう鈴もですね 全部朝鮮半島性のものですそれからこちら の同案はあの日本の同案で1番古い時期の ものでこれは中国の北町の可能性があ るって考えられてますねこういう多量の ですね朝鮮半島文物をこの古墳が出してる んですよ ねで私はですねこれこの想者は外交担当し てしてたと考えますえでえ中にはですね 大和から出ないようなものもあるんですよ ねですからえ大県の一員として朝鮮半島と の外交を担当しあちらで入手した文物を ですね持ち帰ってるっていうそういう外交 先たえ政権の外交担当者であったんでは ないかという風に考えますえ日本初期の中 にはですね隣の群馬県の神主の祖先が え神宮工合大人天皇人徳天皇の時にえ白に ですね将軍としていったとかですね将軍と していってくだら王と会見したとかですね えそれからくだの一流のあの学者を連れて きたとかそういう外交担当それから外生 担当記事があるんですねですので武蔵の 豪族がそういった活動をしていても全然 問題ないといういう風に考えますので外交 担当者として考えてい ますそれからこの埼玉古墳軍の王たちが 経営した巨大な羽釜があります大塚羽釜 ここからですねえ川を使って80km離れ た千葉県それから神奈川まであのこういう え立派な羽がね供給されてるんですよねえ こういう施行業を行った王としての側面も 考えられるかと思い ますはい古墳具の魅力をまとめると関東 平野中央にえ集中連立するですね多数の 古墳を巡る 楽しみ5世紀の社会システムを解明した 国法の名文鉄拳これがですね見られるわけ ですねあ今ちょっとねあの階層のため資料 官が休刊してましてえ4月からまた オープンいたしますけどもこの国方鉄拳が 見られるえ有楽天皇野生人に参加した東国 の豪族像が明らかに なる6世紀前半における有数規模の二谷 古墳を返してえ形態天皇を支援した東国の 豪族の姿がえ見えてくると北関東のドラを 返して日本国家形成に関わったですね豪族 たちの姿があ見えてくる朝鮮半島との外交 を担当し多数の外来文物をですね将来した ようなそのまアクティブな性格ですねえ 造形豊かな羽群像関東の羽生産を指導した 行業を主行業を進める王としての姿 えこのようにですね東国豪族の活動を 鮮やかに描き出すというのが本古墳君の 魅力ですえ投獄は決して辺境ではなくて 大和県の使用メンバーとして活動したと いうことがですねえ分かっていただければ と思いますはいちょっとばしましたがこれ で終わりますどうもありがとうございまし た若狭様どうもありがとうございました今 一度大きな拍手でお送り ください えそれでは続きましてサイトバル古墳軍 その歴史的及び現代的意義と題しまして 熊本大学文学部教授杉井た様よりご発表 いただきます杉井様は大阪大学文学研究家 市学先行後期家庭中都大学大阪大学文学部 助手熊本大学文学部女教授などを経て熊本 大学大学院人文社会科学研究部にて教授を 務めておられますご専門は古墳時代社会 政治構造の研究です特に九州を中心とした 古墳時代研究者としてご活躍されています それでは杉井様よろしくお願いいたし [拍手] ますどうもこんにちは皆さんえやってき ました今日朝ですねすごく雨降ってまして あの先ほどのえ福永先生の公園にあった ように私九州からあの関西に来る時には 飛行機のA席の方に必ず座るようにして それであの大阪平屋を見て写真を撮って くるんですけれども今日は全く見えません でしたあのちょっと残念だったんです けれども是非九州に来られる際また帰る際 には飛行のA席の方に座ればいいいんじゃ ないかなという風に思いますえっと私は ですねあの出身が大阪で今あの熊本で研究 をしておりますうんですのでえっと宮崎の サイトバルについてそれほど詳しくないん ですですので今回ですねあのサイトバール の高古博物館っていうところにえ前もって 行って何を喋ろうかっていうのをかなり 相談してきましたそれをちょっと最初に 紹介して内容に入っていきたいいう風に 思いますえっと今あの前にえ見えてるのは その時に撮った写真でちょうど11月に 行ったらこんな風景が見えますので是非 行っていただければという風に思いますが ではあの入っていきますこれがですねあの サイトバ広博物館でまず何を伝えたらいい んだろうかっていうことでえ考えたもの ですえっとあれちょっと待ってください ポインターはどうやって出すんでしょうか これあこうあはいはい こうこの まやどうあこれでいけるんですねあすい ませんでしたえっとまずですねあのこのえ ここに整理してるものが本日皆様にお伝え したいことになりますまず九州島ですね あのま九州とも言ったりしますけども私は ま九州島と言うんですけれども九州等最大 の古墳群であるということですえ現在 320機以上あるということですねで九州 島の古墳軍では前方公園墳の数が最多で あるこの辺の数はまた後で紹介いたします それから古墳時代の前期間え先ほどあのえ 古墳時代は前期中期後期という風に分割さ れるという風に紹介があったんですけれど もそれプラス週末期ですね7世紀台まで ですねそれを全時期通じて古墳が築造され ているそれから多様な母性がある前方公園 墳もあり塩分もあり方墳もありそういう マウンドを持つものだけではなくって マウンドを持たない地下式横アボこれは あの九州の南方にですねえ南部に特有の ものなんですけれども地面に穴を掘って 埋葬するというやつですねそれから え横アボもこえ構築をしているそれから 九州最大の前方公園墳が作られているメサ ホが古墳っていうですねえ船長が176M あそれから劣等最大のホタがい型古墳が あるこれが小塚古墳これもあの風調が 176Mそれからあのこれは強調してくれ と言われましたけども300機を超える 古墳が非常によく残っているですねで開発 がそれほどされていないので古墳郡周辺の 歴史的環境が非常によく残っているという 点それから え対象時代なんですけれども日本最初の 本格的組織的な古墳の学術調査がされたと いうことですねえこの辺をですねちょっと 紹介していくようなあのスライド構成に なっていますでえっと私の資料にですね まあ16ページからですけれども あの18ページ19ページに図をつけて ますのでその辺もえっと前にたくさん出て きますのでその辺もちょっと参照して いただきながらあの聞いていただければと いう風に思いますおっとまずですね場所 です あのまこれはあの先ほども出ています けれどもあれすいませんちょっと ポインターの使い方がうまくないですね これはこのまでしたけ え ちょっとえっと九州の南部 のの地域にあるということこれをまず確認 をしておいていただければと思いますま こうやってちょっと今回そのえ列島に点を 落とすと大体同じような距離だなていう風 に今回は感じまし たそれから九州島内での場所ですけれども え宮崎県っていうのは九州の南東部になり ますそれの えっとポインターがちょっとあ出てますね ええっとこの点がそうなんですけれども この延岡という地域からですね えともう少し南の木月部屋という地域まで この辺一体に非常に大きな前方公営墳が 作られるんですけれどもその大体中央に あるということをまず確認をしておいて いただければという風に思います えそれでこういう風にあの申したのは ちょっと理由があってですね九州の前方 公園墳の分潮ですね大きさをですね15位 までランク付けするとですねそのうちの 上位5位がこの範囲内に分布しているで9 位まで考えてもこのえあ15位まで考えて もそのうちの9期までがこの中に全部分布 しているってことですねつまり非常に 大きな前方公園分が九州島の南東部に集中 しているということが1つちょっと考える ヒントになってくるのかなとえサイトバル 古墳群の造影を考える上でヒントになって くるのかなという風に今回考えましたで ちょっとそれぞれの古墳群をちょっと簡単 に紹介しておきますとえこの丸で囲った 範囲の中の1番北ですねえっと大分県との 県境の辺ですけれどもそこに えっとえ船長が120mの前方公園墳が この辺にまず出てきますそれと小丸川流域 それから一川流域それからあのえ現在 の宮崎市の周辺ですけれどもの周辺にも 前方公園墳が登場してくるそしてえ もっとすいませんこれ がよいしょ うんすいませんえっとポイント出てますあ あのここの地域にも先方公演があるえそれ であのサトバのですねえまず立地をですね 確認したいという風に思いますえっと場所 は最都市にありますそそしてえこの図の ようにええっと一川流域の中流域にえ存在 するとで重要なのはその え同じ地域に氷河 国府などが分布しているつまりえっとヒガ 地域の古墳時代からその後の7時代まで ですねずっと中心地であったということが 重要だろうという風に思います えそれで えっとサイトバルのですね えっとそこに作られた あえ ええっと古墳のですね分布と軍構成 と現在 えその範囲内のどこがそのええっとえっと えっと席なのかという点をえ紹介したいと いう風に思いますけれども えっとえこの図を見てください えあのこの範囲内にですね前方公演墳や 塩分なんかがずっと作られてるんです けれども赤で えとこうええっと囲っている範囲があの えっとえっと席に え立っていますであのその中がですねえ どういう風な軍構成なのかというと大体 13程度の軍に分割されて前方公園墳や 塩分が構築をされているという風に現在 考えられていますでそれをですねえ整理 するとこういう形になりますあの古分数は ですねにはえ房参地の塚古墳 や塚古墳を加えた319期ということに なっていますけれどもまあのまその内容は 前方公園墳がその中に31期あるんですね 方墳が2期塩分があ 20086期なんですけれどもただしです ね えっと指定になってない古墳やあの噴気が 作平されてしまっている古墳なんかも存在 しますので320機を超えるだろうという 風に考えられていますでそれプラスう地下 式のヒアナボ等が あの存在をしているということですねで リチはですねえ第1上とですね この部分ですね第1とそのの中間大地と 言われる部分と中石地とあの3個のですね あのま平地とちょっと第一条と本当の第 一条という風にですねえ分布が3地域にえ 分割されているということですねで それぞれの地域にえ古墳がですねえ作られ ているでまずえ第1条ですけれどもえ こちらにはですねえ第1英子軍ととか第1 b子軍とかですねこういうようなものがえ 作られているで中間大地には あ動画島とかですねえそういうようなあ 範囲でですねえ前方公園風等が作られて いる そして中石地にはあの えっとえとえととええっとティコ群という ものがあの作られているでこの30020 機を 超えるものですけれどもそれがですねどう 考えられてるのかというと各市軍が それぞれ別個の古墳の古墳築造集団を形成 をしていたという風に考えられています つまりそれぞれが え別個の首長簿経由を形成をしていたと いう風に考えられていますえつまりどう いうことかと言うとあの各古墳を作る集団 があってそれが共同墓地をですねこの地域 に形成をしていたという風に考えられて いるということです ねでまずその大地ってどんな感じかって いうのをちょっと紹介したいなと思って この写真を準備しましたあのこれはあの 航空写真ですけれどもこの範囲が第1乗に なっていまして中間第1っていうのはこの ちょっと下に下がったところになりますで これをちょっと斜めからの図ですけもここ にですねえ大地の崖が見えるかなという風 に思いますでこれをですねちょっともう 少し紹介するとこんな感じですねこれがえ これぐらいの階段で登っていくような台地 になっていてこの上がですね公営に整備さ れているっていうことになりますえですの でえっとサイトバルにえもし観光にえ行っ たとしたら車でですね第1の上にずっと 登っていくんですねで第1に登ると前方 公園たがバっと見えてくるというような 経過になってい ますこんな感じです ねでそのサイトバル古墳群の各資軍の古墳 がですねどういう関係なのかっていうこと を考えるとこの図のようになります えまこの13の至軍のうちの赤丸のものに ついてですね前方公園墳の えと築造の順番をですね整理するとこの図 のようになってきますでこれを整理すると 前方公園墳の多くはですねこのえ前期から 中期前半の間にえっと作られているという ことが分かると思いますこの図を見ると ですね中期後半からそれほど前方公園が出 てこないんですよねでもう1つですねでえ えっとそれらの前期段階では第1A資軍と か第2えA軍とかB資軍とかですねそう いう各軍があそれぞれ経由を形成するよう な形で前方公園墳を作っているんですね つまり複数の主簿給付に分かれて前方公園 墳を継続するようにして作っているそれが ですね中期前半になると丸山軍って言うん ですけどもここの部分ですえっとこの大 前方公園ですねえそれが形成されてそこに 塚古墳とかメサ塚古墳が築造されると前期 段階の複数系列に並んでいたような前方 公園墳の築造がえ停止されるんですよ ねそして中期後半 おっとえ周期後半になってくると大きな 前方公園分はなくなってきますでえっと大 規模な横穴式石室を持つようなええっと 塩分なんかがですねあれがあのあったりあ あのしますけれどもあの中小規模の塩分や 地下式横穴なんかが中心になってくるん ですねで週末期え7世紀の前半段階になっ て えっと坂本の上という ええっとえっと穴母軍がですね形成されて そしてえサイトバはあの終焉 を迎えるということにえなっていますえで こういうような あのえっと経過なんですけれどもただです ねここだけのえ考えるんじゃないという ことをえ先ほど紹介をしましたえ九州島 東南部全体で考えた方がいいんじゃないか ということですねで えっとこれはですねえ先ほども提示した あの九州島の古墳の15番え15位ですえ 15位までなんですけれどもこの えっと1位からですね5位までが この平野からこのえひつ平野に分布してい ますそして え15位まで考えてもその中の旧機までが この範囲内にあるんですねそうすると急 九州島の南東部全体を見ると大きな前方 公園墳が築造されたのはサイトバ古墳群 だけではないということがよく分かると 思いますそうするとサイトバル古墳群に 非常に大きな前方公園が作られたとその 理由を考えるっていう点では九州等東南部 全体です ねここからこうこういう範囲をえ全体を 通してですねえ古墳の動向を考える方 がいいんじゃないかという風にえ考えるん ですねそれでその場所の前方公えの動向を ちょっと考えたいということでその次の図 になり ますこれが吸収と 東南部全体で前方公園府の同行を考えた図 になりますサイトバルはですねえこの ちょうど真ん中なんですけれど もまここを注目するとやっぱりあの今先き 紹介したように前期段階に前方公がずっと 作られていって中期の前半で非常に大きな 前方公分ができてその後に前方公園分の 築造はあのまあまりなくなるという状況な んですけれども 正し前期段階でこの九州南東部で最大の 前方公園墳を継続的に作ってる地域は サイトバルではないっていうことがよく わかり ます宮崎市に存在をするんですけど もえっとえっとえっとえっとえっといきめ 古墳軍というところに前期段階ではあの 有力な前方公演分がずと作られていると いうことがわかりますただしこれは中期に は継続しないんですねで中期の初頭になる とここではなくってえもう少し南部の えっとつ平野の方にえ当人大塚という非常 に大きな先方公園分が作られますそれと それと同時期に え先ほどの範囲の中でいくとえ 1番聞きえっと聞の方ですけれどもえその 範囲にえっとえっとすすえっと河原神社 古墳というのが あ作られますでその後中期前半になって えっとサイトバルにえメサ小塚と かサホがえ作られてでそのその後周期中央 になるとまたあのえっと月平屋の方に えっとえとよえとよ高成5 分が作られてそして中期後半になると初 元塚古墳というのが登場しそして後期に なると おどこが有力かていう感じで はえっとなんええっとなくなってくるん ですよねでこういう状況を捉えてですねえ 地域のえと九州東南部の各小地域の枠を 超えて大型前方公園分が宮崎平野からいや あのあの月平野に えっと ええっと つつくられているというような状況をです ねどう考えるのかということなんです けれども えこれはあの ええっと1つのええっとえっとなんです けれどもあの当地域のですね ええとえっと上層がえ連合してそしてその 地域内のの座を交代でええっとえっと えっとえっとえっとなっていたんではない かというように 考えるうん方が えへあって えっとそういうものをですねあのみえっと えっと南九州ええっとえっと長連合という 風にえという えとえ場合もあったりしますであのま えっとこういう状況なんですけれどもそう するとどうして九州東南部がこれだけえ 大きな前方公園分を作れるよう になったんだろうかということになってき ますでそれを考える上で重要なのは九州 東南部の方からの名ですねそして近畿中央 政権からの目その両者を総合して考えるの があの重要ではないかという風に考えます そして九州東南部側から考えるとこの地域 というのは近畿地方からですね近畿瀬戸内 ヒカナダ南西諸島と繋ぐですねこのルート のちょうど建設点にあるというのが1つ 重要な場所だということですねこれがまず 1点目それともう1つはそのえ古墳が作ら れる全段階をちょっと考えたいんです けれどもえ列島に水田稲作が電波してきて それを正業の中心とするようなそのそいう 文化のえ到達する南端なんですよねえそう いう場所であるという点が重要かなという 風に思いますで近畿中央政権の方から 考えるとどうなるのかというと近畿中庸 政権が政治的な中心となった背景としては えっとまあの鉄とかですねそういうものの 当時のえっとえっとえっとえっとえっと えっと物資の広域 流通のですねえ掌握に成功したということ はあの重要だろうという風に考えます けれどもそういう近畿中央政権にとっては 九州南東部っていうのはあえ近畿からです ね えとえっと瀬戸内とそれとヒガ7と南西 諸島をつぐ海上交通のちょうど建設点で あるという点で非常に重要な地域でいう風 に考えたんではないのかということですね でもう1つはあのえ水冷イ策というですね 生活様式を共通にするつまりえ精神的な 感じですよねえ精神的なあの共通性を 感じる地域の南端であったということが 非常に重要だったんではないのかなという 風に考えるわけですそうするとその両者を 総合するとレト中央部の政治的なですね あの筆体性の構築をえ図ろうとする近畿 中央政権はですね えその一体的な部分の外なる世界に対する その自分たちのですね地域 の一体性を象徴するという場所として そしてもう1つは男性諸島とのですね男性 諸島とのですねえルートのちょうどその ええ結節点としてえこの地域をですねえ 非常に重視したんではないのかなという風 に考えるわけですそうすると九州東南部側 からするとそういう近畿中央政権の考えを 十分あのとえ九州の方でもそうそのことは あの ええっと知ってたんだと思うんですよね そうするとそれをえ近畿中央政権のその 考えを十分知った上でそれをうまく利用し て勢力をえ慎重していったんではないのか なという風に考えるわけですであのこの辺 をですねちょっと紹介したいという風にえ 思うんですけれどもえまず九州東岸ルート という点で言ったらですねそのえ古墳時代 の前の段階ですけれども あの平い時代の中期段階からですね えっとこうあのこういうようなですねあの この え上の方はですねこれはあのえっとせ えっとうちの えもほのなんですけれどもあのそれと そっくりの時がですねこの 九州東南部で ええっとられていますえ ということはですねあのずっとそういう えこえこえとえっと交流関係があったと いうことをえ示しているという風にをえ 思いますえっともうもう1点はですねえ ここにえ出し ていくような え琉でさんのですねええっとえ異製品の 中継値となっているという点ですねえっと そういう点でえ九州東岸ルートのちょうど 中間地点であるっとい点でもあの えええっと10よだったんだろうという風 に ええ思ってい ます えそれと えっとえっとま先ほどえ紹介したえっと2 つ目の点ですけれどもあの えっとえっとえっとえっと 遺伝えっと避作をえ正業のえっとワとして いるという点で制動期の分布という点が あの重要という風に考えますその えっと同歩とかですねえ東京とかそういう ものの分布の難単域にあるという点ですね えそれともう1つはあのこのようなあの 集落の周囲をあの就高でえええっとえっと 運んでいるような ええっと看護集落の分布の何端でもあるっ という点です ねでそれであのもう1度ですけれどもあの 九州 え九州島の東岸ルートのちょうど結節点で あるっていう点を強調しておきたいという 思い ますそれとえもう1点は あの ええっとす遺伝作を制御の中心とするよう なそのえ文化の到達 の淡々地域であったという点があのこの 地域に前方公演墳があの え えっとどうですか あの九州党でもええっとえっとえっと非 規模な え先方公園墳がられたというえ理由だろう という風に えっと思ってい ますでこっからですねあの肝心のえっと サイトバル古墳群の様子をちょっと紹介し たいという風に思いますえ全部でえ7期 ぐらいの古墳を紹介したいという風に考え ていますけれどもこれはですねえっと第2 a子軍 の南端部にある第8075分という前方 公園分ですえっとこれは あの えっとえっとさえっとさイートバルでもえ 最古の前方公演墳ですねでえっとそれだけ ではなくって えっと宮崎県地域でもまええっとさええと さこの え 先方公園分だという風にあの えれていますであのこうやって調査をされ たんですけれどもこういうようなですね 前方公園墳の形態をしています前方部が あのえっとえっとえっと型にあのあの焼く ものですで現状はですねこんな感じなん ですけれども あのまこれが最高のものでえ出てるのは この手の時だけですけどけれどもこれでえ サイトバルの最古のものだという風に考え られてい ますえその次に紹介したいのが13号分 これ非常にあの有名な古墳でえ大正時代に 調査された古墳になりますこういうような 三角自新珠教を出していますこれは第1 英軍の1番南端にありますでここはですね あのサイトバ古墳群に観光に行くとですね え第1A軍と第2A群の真ん中ぐらいから 給料えっと上の方にえ行ってですねそして えこの135分はなかなか見学ルートには なってこないんですけれどもここは是非 行っていただきたいという風に考えてる ものでえ前方公園分でこうやって整備をさ れていまして埋葬施設を見学するようこと ができるようになっていますで えっと あの粘度角がですねこういうような状況で 見学があできるようにえなっていますえ次 に紹介したいのが第2b子群のですねえ えっと105分という古墳ですここはです ね現状ですねえこの下の写真のような感じ なんですけどもここにえこの古墳で重要な のは整備の過程が非常によく分かるという ことです あのちこれはあの前期の後半の前方公演墳 なんですけども調査前の状況がこれでここ は全面調査されましたで全面調査後にです ね調査で出てきた古墳時代のですねえ噴気 面そのままで整備したんですねつまり古墳 時代の不死をそのままの形で整備したわけ ですそれがこの状況ですでえこの間聞くと ですねかなり劣化したので整備を再整備を して上に土を持ってしまったということを 言ってましたつまりあの整備後の推移が 非常によく分かる古墳で現状ではですねえ この調査後のえ状況ではないんですけれど もあの整備をし調査をして整備をして そして公開して将来にえ伝達していくって いうことの困難差が非常によく分かる古墳 かなという風に思い ますそしてえ非常に重要なえメサホとえと えっと塚ですでこれは あの ちょうどサイトバル第地のちょうど中央に ありますでこれは現在両方とも両部参考地 になっていますので中に入ることはでき ませんでえ先ほども紹介したように九州 最大の前方公園分であったりヘット最大の 2買い型あののえっと分であるという点が あの重要ですそしてえ現地に行ったらです ねこの両子墳だけではなくってその周囲に あるえ169170171号分もちょっと 見学をしていただきたいという風に思い ますこれはこの両古墳の倍塚と考えられて いるものですで重要なのはそこからえ重要 文化財になっている 継承庭があ出ているということになるで その継承波がこれでえま非常に有名なもの でえっと今回の資料の表紙にも出ている ものになりますこれはあのでこういうもの もですね出ているということです ねそれからですねあのサイドバルコフグに 行ったらまここはまず訪問する場所になる かなと思いますが2065分ですちょうど この場所になりますまこういう風に綺麗に 整備をされていまして塩分ですでサイト バル古墳群の最後の主張簿という風に考え られているものでえもう後期の最後の方に なりますでえっと行ったらですねえこう いうようなあのですえっとえっとえっと えっと穴式石室を見学することができます でこれで重要なのはあの両袖型の炭質で あるということそして九州では珍しくて 機内型の石質を作っているということです あのなかなかこの手のタイプは九州では あまりないんですけどもこれは近畿の石質 の作り方を知ってる人がここに来て作っ てることは明白ですで えっと1995年の調査で えっと缶をえ作る時の鉄釘が出てるんです ねこれも近畿的です九州ではあの鉄釘は ほとんど出ないのでこれも本当に近畿的な ものになりますこういうようなえものが 存在しているとそして最後に紹介したいの はですねえええっとサイトバルコフ群の 最後になる えっと高物えほの上横穴群ですでえっと こういう写真のように調査をされてこう いうようにえっと え10期ですかね10期のひアボがあの 検出をされましたでここもですね整備の 仕方がですね非常に難しいということが 非常よく分かるものであのこの調査時の 状況をそのまま見学できるようにオヤを 作っていたそうですけれども大を木の屋根 で作ったんですねでえっと周囲の環境に 揃えるためにえ木の屋根の上に え土を持ったらしいんですけれどもそれで えっと 白に食われて現在はえ公開をしてないです ねであのちょっと聞くとですね整備の仕方 が非常に難しいということを言っておられ ましたがえですのでま現在行ったら見学は できないですけれどもその整備の苦労が ですね分かるということでここもちょっと 見学行っていただきたいなという風に思い ますそしてその辺のですねえことをえ整理 しました調査と保存活用 のえについてですでえこれは1番最初に 紹介したようにえ1912年あの大正元年 にですね調査がされるんですけれどもこれ は日本発の本格的組織的な古墳の調査に なりますでこれどうして古墳調査ができた のかという と平崎県っていうのは [音楽] あの天尊降臨の地ですよねそうすると控訴 発症の地として最古の古墳が出てくるん じゃないかということですねそういう考え のもに調査が許可されて調査されるんです ねでそういう経緯がありましたえただま あの交互学者はちゃんとしてますよねあの 最古の古墳ではないということも当時判明 するわけですけれどもそして1934年に えええっと席になりで1952年にえ 特別席になりますえそして 1966年に全国第1号の不のえ えかにええっとえ諾されますでまその後 ですねその整備が完了するのが 1968年でその後それほど調査が進展し ないそうですただ1995年にサイトバル 古墳軍 の保存整備 活用による関するえ基本計画というのが ええっと作られてそれから現在までずっと 継続的に調査をしていて整備をしていると えそしてそれに関連して え ええっとえっと0004年に え え博物館が あのえっときるというような経緯に えなってい ますそれでちょっと何個か紹介します けれどもまずあのサイトバに行ったらです ねえまずここを見学するかなていう風に 思いますでえっとサイトバ高博物館ですで えっと非常に面白いコンセプトのところで 定説展示とはは言ってなくて上展示という 考えをしていますつまり常に新しい展示が あるんですねあの展示がしちしてますね うんであのこのような感じでまず入って いくと地下に入っていくようなあスロープ があってそしてまこれ賛否両論あるそう ですけれども展示物にいちいち キャプションをつけていないですねこれ 非常に特徴的ですあの考古学研究者は時期 それぞれがどこから出たんだろ非常に気に なるのでなんでこんなことするんだという 風に思うんですけれどもそうじゃなくって 古墳時代の世界を感じてもらいたいという ことがコンセプトだそうですそしてえっと 展示は特別点を含めて全て無料で見学 できるようになっていますこれが非常に 特徴的かなと思いますそれでもう1つ重要 だなと思うのはあの地中レーラー探査を ずっと継続的にやっているということです この地図は あのね最初に紹介した ええっとえっと石指定のえ範囲なんです けれどもその範囲を中心に全面レーダー 炭素をしているつまりそれぞれの古墳だけ ではなくって古墳同士のえ空間値まで全部 レラ探査を干していってますこれはどう いうことかと言いますと噴気が壊されて 中行だけが残っている古墳とかがあったり しますのでそういうものの探査もしていて 本当のですね古墳分布を調べようとして いるわけですねでこのちょっと真ん中の図 がちょっと見にくいかもしれませんけども 現在これぐらいの範囲のレーダー探査が 住んでいてあの埋没している古墳なんかが 調査されたりしてい ますでこれが将来この古墳群をどう残して いくかっていう点にはあの重要な情報に なっているわけ ですそれからあのサト古墳祭りとしてえま これ11月にされるんですけれどもあの この発表の前に私も見学にちょっと行って きますけれども非常に多くの方が来て古墳 軍をえ見て楽しんでいますで面白いのは 11月の第1日曜日には両部の中に入れる ということをしていますこれはあのえっと ここの線を書いてるところですけどもこの 写真のようにえ見学者がどんどんと中に 入っていってでこの場所で最市の文化財 担当者が両部についての解説をして るってことしていますのでもしサイトバル にですねえ転学するんだったらこの時期が ちょうどいいかもしれませ んでこれが最後のスライドですけどもあの まこの今ちょっとあのど動画がずっとええ 回ってますけれどもサイトバルの第地に 立つと人工物がほとんどなくってですねえ 非常にあの古墳時代のちいうかあの古墳の 景観が保たれれてるとがえよくわかります でこの経緯を聞くとですね1973年に ここのえサイトバル古墳軍を守る会という ところとえこのサイトバ第一場で農業をし ている方たちがあのまえええヘドヘド書き を締結するんですねそしてその農地は農地 としてしか使わないということとビニール ハウス等は作らないということを決める らしいんですねそうするとそしてその地域 全体で古墳群を守ろうということがその 昭和48年段階でえそういうえことがあの 決定されているそうですそして電柱もない しあのの標識ですね標識も非常に低いです あのそしてあのこれはまちょっとえ失敗例 だそうですけども大いにもえええっと えっとえっと少国際をしたということ らしいですねそうして地域全体で そのま環境を保とうとしているでま私は よく言うんですけども現地に立つと古墳 しか見えないので古墳時代 にの世界に入ったような感じがするという のがあのまサイトバル古墳軍の現代的にま 非常にえ重要な点かなという風に思い ますえっとこれが最後のスライドになり ますあのこれが参考文献なんですけども あのちょっと私あのえ言葉が出にくいので ちょっとあの聞きづらかったかもあのしれ ないんですけどもこれでえ終わりたいと 思いますあの是非現地を言っててだければ なという風に思いますええっと えっとありがとうござい ます次様どうもありがとうございました今 一度どうぞ大きな拍手でお送りください ありがとうございまし [拍手] たえそれではこれよりおよそ10分間の 休憩を取らせていただきますロビーの展示 是非ご覧くださいまたアンケートへのご 記入もご協力よろしくお願いいたしますえ 再会は4時5分を予定しておりますが会場 の状況によっては少しずれる可能性も ございますのでご了承のほどよろしくお 願いいたしますそれでは休憩とさせて いただき ます皆様お待たせいたしましたただいま よりパネルディスカッション特別史跡の 古墳群を語る岩瀬千塚咲たサイトバの価値 と魅力を始めさせていただきますえそれで はパネリストをご紹介させていただき ます先ほどご講演いただきました大阪大学 人文学研究家教授福永深夜 様明治大学文学部教授若狭徹 様熊本大学文学部教授杉井た 様そしてコーディネーターは文化庁文化財 第2下埋蔵文化財部門主任文化財調査官大 俊です様 ですそれではここからの進行青美様 よろしくお願いいたし ます はいいよいよシンポジウムになってしまっ たんですが実はあのこのシンポジウムを 受けて私すごい後悔したんですっていうの がですね特別席の古分合を語る岩瀬千塚 さたサバの価値と魅力最後どこに話を 落とせばいいのかってわかんないですよね えでも今日聞いてたですねあのあることに 私気づいちゃいました今日あのえ福永先生 からは岩瀬千塚えまた若先生からは咲たえ 杉井先生からはあの埼トバってそれぞれ 古墳の話をいただいたんですがそれぞれの 先生方の古墳の話っていうのは例えば岩瀬 だったら岩瀬古墳軍の中から分かる話え それが1つありましたそれともう1つです ねえ岩瀬千塚からずっと離れて俯瞰して 近畿全体から見た岩瀬千塚さらに日本列島 全体の古墳時代から見た岩瀬千塚っていう 形でえ視点を変えてですねあのそれぞれの 古群のえ価値を語っていただいたように 思いますえそういった観点からですねまた ここでえ例えばあのまずえ福永先生から ですね岩瀬千塚現地に行ったらこういう とこを見てもらいたい専門家はこういう ところを見るぞということとそれを見 ながらえ古墳時代子を考える時にですね こういうあの問題に思いをはせていただき たいえそういうような話をですねちょっと していただいたら面白いかなと思うんです がお願いいてきかはいあのま実際現地に何 度か伺ったんですけどあまり深く考えて 回ってないんですよねあのはっきり言って え鳥のさえずりを聞いたりねあるいはあの 空風のなんかあの心地よいなっていうのを 感じたりわあ綺麗な花が咲いてるなって いうことをですね思いながら現実はそうな んですけれどもまそれではちょっと シンポジウムも始まりませんのでえっと 少しだけ現地でですねあの一応花粉研究者 として見た場合にこういうところが面白い なと思うのはですね岩瀬千塚の場合は やはりあのえっと遠路のあちこちにですね もうちっちゃな高まりが本当にたくさん あってですねあこれも古墳かこれも古墳 かっていうのをですねもうつぶさに見る ことができるそして1番上の両線の高い ところまで上がると大きな前方公園墳が あってその前方公園墳とちっちゃなもう 累々たる古墳軍っていうのがですねえ主に 6世紀古墳時代の広半期の有力な地域集団 の内部の関係をそれぞれが示してるんだ なっていうことですねこれを現地で実際に 見ることができるっていうのはねやっぱり これすごくてもちろんあの日本初期等も あの示唆的なんですけれどもそういうもの のですね描かれた実態が目の前に広が るっていうのは1つですね2つ目は岩線図 で重要なのはやっぱりあの積出のの立派さ ですねえ小さな薄い石をこれだけ本当に あの芸術的に積み上げて大きな構造物石室 特に横穴石室を作ってるというこの技術 あるいはデザインとかですねそういうま 衣装と言ったらいいんですかねこれは やっぱ現在の建築家が見ても素晴らしいと 思うんじゃないかっていう風にさらにそれ が朝鮮半島南部のですねえっとに作られた 古墳とも関連があるんじゃないかっていう 最近の研究から見るとそうした構造物が 国際的な視野から研究の対象になるという ことですねこれは新しい岩塚のこれからの 魅力の1つだと思います最後は両線から 見渡せる特にあの大日山とか将軍塚の間 からですあのあたりのですね両線から 見渡せる木川とですね泉山脈のあの雄大な 警官ですねまあそこに立ってみるといやあ 数百年前だったら私がここの主だったら この地をどう収めるだろうなっていうの ですね考えてみることができるっていうね あの現実はあのしがな一市民でございます けれどもですね一瞬でもそういう風なです ね非常にあの大きな雄大な景観の中でえ 古代に思いをはせることができ るっていうねその3つが現地に行った時の 魅力じゃないかという風に思います ちょっと真面目なお答えになりました けれども以上ですあいやあの真面目なお 答えを期待してましたんで期待取りで ございますありがとうございましたそれで あの若先生えさたの魅力お願いいたします はいあの埼玉古墳群は関東部屋のど真ん中 なんですねであのGoogleアース なんかで見ていただきますと関東兵は本当 広いんですよねでその広い関東部屋の中で え巨大な前方公園墳がですねま特に5墳 時代後期中心ですけども何百も気づかれ てるんですねであのその広さとあの経済 基盤の豊かさとあと人口もあの関東は 多かったわけですよねえそういうですね 古代の生産力がまこう間近にできるとで その広々とした関東部屋のど真ん中にです ねこう島のように巨大な前方公園墳が林立 してるっていう姿がですねまこ埼玉五フグ の警官なんですねで今日ご紹介されたその 岩瀬千塚はこの給料の上をですね歩く 楽しみがありますしえサイトバルは第地場 の広がりが感じられますけども咲田はその 広大な中石地のねど真ん中にある古墳群の 景観を楽しむとでそこをですねえ東京湾 からずっと来た水上交通がついでるそこに こう津があってですねえ古代の物資が生き かってるとえそういうですねあの古代の 交通物流体系なんかも考えながらえ古墳の 頂上からですね警官を楽しんでいただくっ ていうのがままず1つの楽しみ方だと思い ますえそれからあはですねあの博物館が ございましてえそこにですね国宝を中心と した異物が大量にあるんですけどもあの中 でもその名文鉄拳ですねそれを中心として 稲山古墳の指品はま全て国宝になってます のでえ国宝をですね間近で見られるとえ それを撮影してですねあの写メにできたり するんですけどもえそういう異物群え国方 のえ刀剣や近石え均衡品だけでなく羽も すごいんですよねえそういったものを えっと見て楽しめると子供と一緒にねそう いったものを見ていただくていうことが できる楽しみがありますそれともう1つは また後でお話することになるかもしれます せが今日もお話したようにそこからですね 日本初期の世界だとか万を州の世界だとか ですねそういった古代文献だとか古代火王 の世界にね遊べるというそういったあの 楽しみもあると思いますのでえその辺を 踏まえてあの是非訪れていただきたいと 思い ますはいありがとうございますでは杉先生 お願いしますはいえ私あの先ほど紹介した ことなんですけれどもあの第一場にですね 古墳がポコポコボコボコと本当によく残っ ているっていう点があのまず見ていただき たいっていう風に思うところですそれで まず行ったらですねあの車で回ってしまう んですねあまりに広いのでですねですがま あせめて半日ぐらい取って車を止めて散策 していただければなと思いますあの車で 走っても古墳がもうたくさん分布してるの は非常によく分かるんですけれども歩くと ですね古墳それぞれの特徴ですねま前期 から中期が多いんですけれども前方公平の 形も違ったりしますしあの今日ちょっと 紹介できませんでしたけれどもあの地下式 横と言ってあの南九州独特の形のですねえ 埋葬施設も見学可能になっていますので 是非そういうものも見ていただきたいなと そういう中に先ほど紹介したような近畿的 な横穴式積室もあるとどうしてこんな風に なってるんだろうということをえ考えて いただくのに非常にいい場所かなと思い ますそれからあの高古泊は是非見て いただきたいですねあの高古が高古学博物 館ですあのまコンパクトな展示をしてるん ですけれどもあの古墳時代だけではなくて 旧世時代からですねずっと展示をしてい ましてえ同線も結構バラあの決めていない ようなあの展示をしていますのであのどう 見ていくかという順番がですねそうすると ま非常に安心な展示なのでまそれを見 ながらですね あのうんこんな展示でいいんだろうかと 考えてもいいと思いますけれどもそういう ものもえ見ながら展示を見ていただきたい なと思いますもう1つはあのサイトバル 古墳群の川を挟んだ向かいにもニュータ バル古墳群があったりとかあの宮崎の古墳 群っていうのは非常によく残ってる古墳群 が非常に多いのでそういうものをですねえ ずっと回っていただくような形にすれば あの前方公園墳を作られる列島の1番 サナンタの地域になりますのでそういう 場所での古墳のあり方とかを考える上では 非常に重要な地域になってくるかなとそう いうところを考える上でも面白いのかなと いう風に思ってい ますありがとうございます行きたなりまし た皆さんね是非あのこれはね現地行って いただいて見るとまた違った感想が持てる んじゃないかなと思うんですがま現地に 行く前にもう1つあの先ほど若先生が ちらっとおっしゃいましたけど遺跡を通じ てですねま日本初期とか万葉州とか いろんな文献とかも合わせながらえ それぞれのあの歴史をですね歴史像を 組み立てていくっていうこともできるん じゃないかなと今日のお話の中でもえ 例えば福永先生と若先生の方ではですね 形態庁の話が出てまいりましたで形態代の 時代まあの大きな活気な時代でではあるん ですが東日本のえ先頭から見える形態庁で どちらかと言いますと形態庁って言った 中央の出来事でえそれを周りの地域が影響 その影響を受けたように見えるんですが 一方でですね若先生に言わせると形態を 応援してたのが実はあの東の勢力が応援し てたんじゃないかって話です全くあのえ 見方を変えるとですねいろんな歴史の見方 ができるんじゃないかな面白い見方が できるんじゃないかなとえそういうところ もありますのでまたあの加えてですね古墳 時代前期飛行機3区部がございますがえ 九州であっても近畿であっても東北であっ ても東北であってもですねその時代ごとに 何らかの画期があるんですねそれぞれの 意味付けというのも考えていくと大変 面白いんじゃないかなと思いますという ことも踏まえましてですね遺跡から歴史を 読み解く古墳から古墳軍からこうやって見 て文献資料とか様々な資料を組み合わせて いくとこのような歴史像が抱けるんじゃ ないかみたいなですねお話をちょっとと 乱暴の話で結構でございますので思い切っ た話で結構でございますここでしかでき ない話で結構でございますのでお願い いたします福永先生はいこれはなんかなり あの難しいご質問だと思いますそれはあの もう大学院入試の高等指紋並みのお話で ちょっとすぐには思い浮かばないかも わからないですけれどもあのまず今青美 先生おっしゃったこれ携帯長であのえっと 岩塚古宮の場合は今日あの提案しました ように中行機とそれぞれですね非常にあの 面白い歴史をの情報を持ってると思うん ですけれどもやはり1番最初に特別史跡に 指定された時は古墳時代の後半期の群衆分 の非常に大きな規模のものであるという ことですねこれはあの調査が住んでくると より明瞭になったんですけども主に6世紀 のことですねまさにあの形態長が始まる頃 から岩千塚の前方公演運そして群衆分の ですね築造が流星し始めるわけですねでで あの形態長のですね航空学的研究ってのは 本当にこの50年ぐらいの間に色々盛に なってきたところでそういう目からですね 岩千塚古墳軍を見た時にえちょっと面白い ことはですね岩千塚古墳軍6世紀の前半 からあいう群衆墳の形成が始まるわけです ねそしてえっと両線のとこにはえっと首長 のですね共同隊長の前方公演墳があってで その斜面のとこにはその首長のえっと参加 にいたえ有力家族の群衆墳ができてくる わけですねねで大和政権っていうのは最初 はそれぞれの地域のいわゆるあの共同体の 主張レベルをどういう風にこう把握するか ということでですね始まってるわけなん ですねですからそれぞれの地域の前方公演 墳とかですねあるいは大きな行本について まずあのえちゃんと分球の形と大きさで 把握しようというところで始まるんです けれどもその後大和政権っていうのはその 首長のあの参加にある有力家族にどういう 風にですねこの把握を及ぼしていくかって いうことがね大変大きなあのま政治課題 っていうかですね大和政権の課題になる わけですねでそう普通そういうですね共同 体主長の参加にいる有力家族にうんと大和 政権がこう把握を及ぼし始めるのは6世紀 後半のことっていうのはこれ通説なんです よねところが岩千塚の場合には6世紀前半 にそういうものが早くも始まるということ でですねこれはおそらくあの大和政権が 非常にあの有力な地域に対してはですね これまでの把握の仕方を少し変えてですね 共同体的共同体の首長も重視するけれども その参加にいる有力家族も重視するという 新しい政策を取り始めた1番最初のまいい 事例っていうのはですねこの岩千塚古墳群 の中にその情報として残されてるんじゃ ないかという風に思うんですねそういう 意味ではあの古代国家が出来上がっていく プロセスの1番戦闘走ってると言いますか ねそういう姿が岩千塚本軍にまさに残され てるっていう風に私は考えてましてえ今後 あのそれぞれの古墳のですねえ時期や大き さがですねあの900期全部は無理だと 思うんですけれども今後の調査ではっきり していくことによってこの国の成り立ちが どういうプロセスでどういう地域でえま あの進んでいったかっていうことがですね 非常によく分かってくるんじゃないかで その段階でもう一度日本初期等ですねええ 読み直すば非常に新しイメージが得られる んじゃないかという風に考えてますはい 以上 ですか和歌山県の文化財の担当者今日多い ですけど大変ですねすごい今重たい宿題 与えられましたあのこれから先も調査研究 進めてですね今の課題に答えていかなきゃ いけないよろしくお願いしますねえ今そこ にいますけどはいじゃああの続きまして あの若先生お願いいたしますはい今日もお 話したんですけど鉄拳をあの発注したオア ですねえこれがあ中央豪族なのか埼玉の 豪族なのかっていう議論があってであの 今日言った説にっていうのは要は大明その 譲渡人の帯人なんていうようなものをあの 東国の豪族がやってるわけないとあれは 安倍氏が刻んであげたんだとケにという説 がかつてはあの強かったんですけども最近 はそうではなくてですねま素直にそのえま 武蔵の豪族と考えようという意見が強く なってますけどもこういうところに現れ てると思うんですよねえ東国の豪族をま こう えある種ですねま下に見るというかですね そういう歴史観っていうのはかつてあった わけですけどもそういうのにあのえっと 最高迫ったのはやっぱりこの鉄拳なのかな という風に思うんですよねえで私の立場と するとそれはその西の豪族も東の豪族も 九州の豪族もですねおそらくある段階では 和王家の連合者として同盟者として王家の 一億になってるんだとえそういった立場で え代表してですね白木に行ったりとかくだ に行ったりしてるっていうそういったあの 像を結ぶ必要があるのかなという風に思い ますでえっとえ大明の少し前の段階になる とあの和の五王がですねえま層に兆候し てるんですけども三チ成工部ってにいるん ですけどもちっていうえ2番目と3番目の せの時にですねあのえっと和王だけでは なくてその部下もですねくいをもらってる んですね中国ので特に聖の時はえ軍23人 を与うって言ってえっと和王聖の配下23 人に え将軍号と軍大守号を送って るっていうことになりますでその頃のあの え和の中の古墳のラインナップを見ると それはもうあのえ東国関東の豪族もですね おそらく軍大中国の軍大守護なんかを持っ てると思うんですよねえそういう風なあの えっとま日本初期あるいは相場まで絡めた ような えなんて言うんですかねあのえ地方豪族の あのあり方をですね考えることができ るっていうそういうあの魅力をですねこの 埼玉古墳軍の鉄拳を景気にして考えること ができるんではないかとまそんな風に思い ますのでえっとまちょっと暴論かもしれ ませんけど申し上げておきたいと思います いえ大丈夫ですここだけ話ですから 思い切って話をしていただけたらと思い ますじゃ杉井先生あの杉井先生もおそらく 形態の話も少ししたかったんじゃないかな と思うんですがまあのえ先ほどの話の中 ですと南九州のあの地域の人たちも近畿の 状況をよくしてたんだとこちらが近畿の人 たちが何を望んでたかよくしてたんだて いうお話もありましたがその辺含めてです ねえあの近畿とその九州のあのエリアの 古墳の話とかですねそこから読み解ける 歴史像みたいなお話をお願いいたします はいあの九州の古墳ま特に九州南部の古墳 を考える上で重要なのはあの列島全体での 古墳の動向だていう風に思っていまして えっとまあの今日1番最初に紹介された 前方公園風の分布の図があったと思います けれども九州南部からま仙台平野え岩手県 南部ぐらいまでに前方公園墳が作らんです けれどもそういう範囲が1つのままとまり を作り出すのが古墳時代でおそらくそれが あの日本という国のですね原型になって いくわけですねそれがまずっと金星ぐらい までそのえ領域はま前後しますけれども 変わらずにずっと来るわけですそして明治 になってえ琉球を併合したり北海道に進出 していったりするわけですけどもそういう 現在の日本国家につながるうんま 領域の1番南端にあるっていうところが 非常に重要なポイントになってくるんです ねであのサイトバルではないんですけども 今日紹介した鹿児島の地域の木月平野の 古墳ですけれども私が九州に行った え熊本大学に不妊したのはまか25年ほど 前ですけどもその頃だとそんなに古い古墳 あんまり分かってなかったんですけどそれ から調査が進んでうん近畿で古墳が出 始める頃にももうその地域に前方公園墳が 作られ出してるっていうことが分かってき てます つまり古墳を作るっていう情報がもう直 入ってるですねでサイトバル古墳群周辺で もそういうことがあ見えてきています つまり え古墳を作るっていうのは単なる流行では なくってその政治的な関係を結んだところ にそういうものができ始めたということが 非常によく分かるようなものでそして サイドバルコ軍で言うとあのメサとかえ あの辺の時代はですね大阪平屋にえ近畿の え横領が作られる時代に並行しますので そしてえ横領系の遠投羽というものも出て いて近畿地方のえ羽と同じ技法でで作った エトハも出ているのでそういう情報も直に 入ってるそういう政治的な関係も繋がって いるっていうことが非常にえよく分かるの であの面白いかなと思いますで形体長の話 はですね今ちょっとあのあったんですけど もサイトバル古墳群の川を挟んだ対岸に ニュータバル古墳群っていうのがあって そこの古墳がですね携帯腸のにちょうど 並行するような古墳群になってきていてで そこから出てるハはが大阪 のえっとえっとえっと塚古墳から出ている 羽に非常によく似てるんですねつまり サイトバル古墳群も非常に重要なんです けどもその周辺全体の動向を考える とええ国家形成のですね えま原点が見えるというかそういうような ことを考えるヒントになるのかなと思い ますでこういう目で東北の古墳もえ見て いけばですねもっと面白くなるかもしない なと思い ますありがとうございますえっと私は実は あの東北の人間でございまして宮城県で 生まれ育ってですねえ関西の方での高空白 に憧れてやってきたんですねえですから あの西日本関西に来て古墳の勉強すれば 日本の古墳時代は何でも分かるんだという 風に思ってたんですが実はそうじゃなくて ですね今杉先生のお話またあの若先生のお 話にもあったように近畿で起こった出来事 であったとしてもやはり東北で起こってる こと九州で起こってることそういうのを 複合的に総合的に見ることによってえ 正しい歴史像が構築していけるんじゃない かなとえそのようにあの思いましたでそれ をあの調べていくにあたって注目するに あたってやはりあの今指跡特別指跡になっ てる古墳が持ってるですね情報量っての 非常に大きくて大事なんだなっていうこと がえ分かったわけでございますで実はあの えこういうシンポジウムにはですね必ず 台本があって台本通り進める予定だったん ですが台本通り質問したのは1問目だけな んです2問目から違うこと聞いてますと いうことで台本に全くない話をもう1つ 聞きたいと思うんですがあの岩瀬千塚昭和 27年特別席ですねえサイトバもそうです であの福永先生の話にもございましたがえ 特別席になった後にですねちょ長年の調査 研究によって様々な新たな成果が蓄積され て新しい歴史像がどんどん出来上がってき てるとえいうことでございますおらあの若 先生先生のところのえあの咲田もそうなん ですが実際これからですねまだ調査研究 進んでいくわけですよねこれから先えこれ らの古墳を調査して研究していくにあたっ てこういう問題にですね注目したらいいん じゃないかとこういう課題があるんじゃ ないかっていうことがあればですねえ少し お話しいただきたいなと思うんですがまず 福永先生の方からお願いいたしますはい えっと今日あの何を聞かれても答える 先ほどですね控回室で申し上げたもんです から随分も変換球がどんどん投げられてき てますけれども あの今日お話しましたように えっと岩瀬千塚古墳軍の特別指摘指定は 昭和27年1952年ですねでその時の 指定のえ理由はですねえっと昭和6年の ものをですねまちょっと言ったら悪い けれどもカンニングしてですねコピペで 作ってるようなものですからその段階では 評価はですねあのえ多くのの古墳が群衆 するということとえっと埋葬施設が多様で あるということと言わせ方っていう得意な 横話積室があってこれは珍しいというま ただそれだけだったんですねところがあの 指摘指定されえっと特別指摘指定された後 にも70年経ってましてさすがにあのこの 70年間考古学が全く進歩してないって いうことはなくてですね随分高古学の研究 を進歩してきましたそういう意味では新た な価値を岩千塚古墳軍があの持っていると いうこと十分に言えるようになってるん ですねであの今日私がお話したのは岩千塚 古墳軍は6世紀の巨大な群衆墳としてえ 価値が特別史跡指定の段階では認められて きたんだけれどもそこにいる前子前の歴史 ですねこれについてもあの岩瀬3階の中に 随分豊富な情報があるんじゃないかという ことをですね改めて認識してるわけですね でその情報っていうのは先ほどあの先生方 かお話になってるにまさには日本の国の 成り立ちがこういう風になってきたんだと いうそういう情報が1つのあの3階の中に ですね今いい状態で保たれてるんですねで ま私の生きてる間にこの研究が全部終わる とは全然思いませんしえ県の方々も地元の 方々もこれからこう大々ですね駅伝のこの え助けをつぐようにしてですねそういう 全体像を徐々に明らかにしていかれて やがてそこから日本の国の成り立ちの1つ のまえっとプランて言いますかですね道筋 が提案できるとでおそらくあのえ他の特別 跡の古墳群からも調査研究が進めばそう いうものが提案できるとでそういうものを もう1度合わせてですねこの国は日本初期 には乞食にはああいう風に書いてある けれども実際はどういう風にして成り立っ たのかっていうことをですね改めて考える ことができるっていうね非常にあの高い ポテンシャルっていうかですね可能性を 秘めた全ての3つのですね古分群だという 風に思いますのでま少しは私の生きてる うちにですねなんかもうえっと多くのこと が分かってですねいくつかの仮説と提案 できるようにしたいと思いますがもうそれ もこれもあの県の方の今後のご尽力とです ねで文化庁の方からしっかり予算をつけて いただくということですねあのもう全て その2つにかかってると思いますのでえ 岩瀬先祖古墳を代表してですねお願いを 申し上げておき ます痛いところ疲れましたけどもります はいじゃああの続きましてえ若先生埼玉古 文具の今後の調査研究に期待することと いうことではいま埼玉古墳軍のですねま これまでの研究プロセスを見ると昭和40 年代に鉄拳が出てですねその鉄拳に関する 研究と有楽長の研究が進んだんですねで ここ10年で1番大きい双子山の調査が 進んでその結果携帯調との絡みが出てきた という風に学問的にこう進化していってる わけなんですねで今後私があのえっと玉興 軍の研究で期待したいこと色々ありますが まもう1つ申し上げるとですねあのえ物流 関係ですねえっと先ほどもその川を抑え てる川の港があるっていう話をしました けども興奮時代の水運ってものすごく発達 してるんですえそれでえっと将軍山って いうですね1番最後にあのご紹介した古墳 えま外交担当者と申しましたけども朝鮮 半島のものたくさん出てるんですけども あの石室の石がですね千葉県から運ばれ てるんですね千葉県の暴走半島の先端で 取れる石を切って埼玉まであの運んでるん ですで一方ですね同じ時期の千葉県の木津 市に金冷塚っていうあの立派な古墳がある んですけどもその古墳の石室の石はあの 埼玉から運んでるんですね緑泥変がって いうの運んでるんですよねまたその羽も 埼玉からその辺まで運んでますからそう いう豪族艦ネットワーク大和からも来るし 半島からも物来るんだけども関東中でのも のやり取りもあるんですよねまどういう ものがあの移動移動してるのかとえそう いうですね物理ネットワークをあの探る 必要があるかなと思いますで最近はですね えその埼玉古墳宮のそばあの川の淵から ですねすごい最新遺跡が出てきて小また っていうですね大きな真玉がね何十個も出 たりとかえ怪獣武道橋っていうですね塔の 鏡が出たりってそういお祭りの場が出たり してるんですよねえだからその水に関する おを代々的にやってるのが分かってきまし たしそれからですね朝鮮半島の人がやって きた証拠の監視系時っていうのがあるん ですよねえっと朝鮮半島の技術で作られた 埼玉の時なんですけどもそういうのが出て きてるのでトラジも結構やってきてる だろうえそういうですねあの内外の交流 関係と物流ネットワークを先玉を返してえ 調べていくとですね非常に実り多いかなと いう風に思いますま他にもありますけども 私が今期待する研究はそれが1番ですね はいはいありがとうございますそれでは 杉井先生お願いいたしますうんサトバルは どうなんですかね私あんまりあの えっとこの発表依頼された時に私サイト バルの整備委員でも何でもないのでですね そっちの先生に頼んだどうかて言った ぐらいなんですよねただまあ様々勉強させ ていただいて私サイトバ古墳軍でちょっと まだよくわからないなと思うのは施設から 出てる異物の内容をもう少しちょっと整理 したらどうかなっていう風には思いました あの調査が古いので対象時代に調査されて いてそれをもう1度現在 の新しいですね目で整理をまずっとされ てるんですけどももうもう1度報告書を 作るぐらいの気でですねやったらどうなの かなっていう風な感じでは思いますあのま え最近ずっと調査されていて面白い成果も 出ていてで先ほど あのえっとメサとほのバズのですねえ 175分から出た継承ハ紹介しましたけど もあれかつて169号分から出たという ことになってたですねそれがあの平成現在 やってる調査で175分から出た羽と くっついたそうするとかつての記録が違っ ていて175分に本当はあったということ になって現在そういうに会釈が変わってる わけですよねそうするとかつてえ調査され て重要文化罪になってるような資料でも あのもう1度整理し直すと評価が変わって くることが十分あるのでその辺ですねあの 埋葬施設の様子もよく分からないのが多い のでその辺がもう少し分かればなという風 には思っています が調査できないですよねなかなか ね埋葬施設はねこっちはい はい なんかこういう時って文化庁って不利です よねちょっと予算と権限とりあえず握って るってことになるからここで運とは言い にくいですけどでもねやっぱりあのこれ から先ま新たな調査研究が必要なのと同時 にいせあの非常に長い調査研究の歴史が ありますのでそれをですね今日的な目でえ もう1回再整理するもう1回見直していく ことによってまた今まで気づかなかった ですね事実が浮かび上がってくることも あります でそういう取り組みに関してですねえ文庁 の山下監査官は応援してまいりたいという 風にここで申しておりますのでえとあの神 言っちゃったんでそういう話でまた月曜日 ご相談させていただきますはいあ怒怒ら れるかもしれないまそれはさきですね えっといよいよちょっとえあの本日与え られた時間ももうそろそろということに なってまりましたえということでこの シンポジウムの最後あの本来のテーマえ 特別席の古軍を語るというところで最後は ですねえ特別席というとこにもう1回 立ち返ってそれぞれコメントをいただき たいと思うんですがま今までの話の中でま 地域の歴史だけじゃなくてまあ日本の古墳 時代を考える上にですね非常に重要な情報 を持ってるんだということが1つですねえ それはあの古墳群そのものが持ってるもの もあればえ俯瞰していくことによって近畿 さらに日本っていう風に視点を変えること によって様々な物語がそこで展開してくる ということで長い歴史があるからそれを 紐解いていくといろんなことが見えてくる のとまだまだたくさんの情報が眠っている ので将来的にもですねえいろんなあの新た な歴史が分かってくる可能性を持ってるん だと特別席っていうのはそういうものだと いうことがえ言えると思いますで最後のご 質問でございますこれはあの台本に戻り ますちょっと変えるかもしれませんけども あの1つはですねえ特別席重要なものを これから先調査究していくにあたってはま 研究者が一生懸命頑張るといことも必要な んですが文化庁も予算となんかや るっていうのも大事なんですが1番大事な のはあのここにいる皆様方え今日あのこの お話を聞いていただいてる皆様方がですね え興味を持っていただくということえここ の遺跡に関してもっとこういうこと知り たい面白いなという風にですね思って いただくことがえ何よりも大事なんじゃ ないかなという風に思っておりますえそう いう点でですね先生方には1つこれから先 この特別跡の魅力をつえていくにあたって えどういったことをやっていくのがいいの かっていうところをですねえ1つお話 できればと思いますそれともう1 つあのできるだけですね分かりやすい言葉 でねあの発信する方が多くの人たちの心を 問えられるんじゃないかなって感じもする んですよねあの非常にですね歴史が深くて ですねあの亀ば噛むほど味が出るような 大量の情報を持ってる遺跡ですが例えば 短いキャッチコピー的な感じで一言ここは こうここういう遺跡でこれが面白いんだっ ていうのがですね1つあれば使えるかなっ てような気がするんで宣伝の時にそれも ですねアイデアがあればちょっとえお話し いただきたいなと思っておりますえ最後の 質問ということですのでえ今回主催した ですね岩瀬先の話は最後にやっていただく こととしてじゃあ若狭先生からはい先たに ついてお願いいたしますなんかすごい 難しいテーマですねあのえっとままずです ねえ整備手法ですよねあのえっと1回整備 されてですねま先玉古墳群の場合はあの え布農家構想に乗っとって最初はあのこう 水堀にして整備したんですけどもまその 整備手法を今直しながらですね新しい整備 に取り組んでいますえで復元的整備も行っ てますしそれからあのえっとバーチャル リアリティとかですねそういったあの デジタルコンテンツを利用したような整備 手法にも取り込もうとしてるんですよねま そういうのをえ活用しながらえ一般の方に ですねあの分かりやすいえ整備種を取っ てくというのがまず1点だと思いますで 学問的にはですね先ほど申し上げたような ことを突き詰めながらえっと今日は 申し上げませんでしたけどあの6世紀代 後半には三宅製だとかですねベミ制度と かっていうのが成り立ってくるんですけど も先た交分合を規定にしてあの関東に何々 べ何々べとかてたくさんできてくるんです よねそういう大和との繋がりがも別な事件 でできてきますからそういうですねあの6 世後半を玉古墳軍からあのより深めていく という必要があるかなという風に思って ますでえっとキャッチ フレーズえはい東からアジアが見えるとか ねそういうんでどうでしょうかね東国の地 からアジアを俯瞰するとかねいいですね 東国の地からアジアを俯瞰するアジアを 見るはいということであのちょっとじゃあ その言葉え埼玉県の方に責任持って私が 伝えておきますのでありがとうございます じゃあの続きましてあの杉先生今日もあの 公演お話の中でも活用に関して色々ご紹介 いただきましたけどえ今の活用の取り組み に加えて杉先生がこういうこともやった らっていうのがあれば加えてお願いいたし ますはいはいえっとあのまサイトバ私も よく言ってたんですけども今回この発表の 準備で行ってもう1度まてやっぱ面白い 古墳軍だなと私自身は思いましたでその それはちょうど11月のあの古墳祭りの時 だったんですけどすごい人なんですね たくさんの人が来てるんですけども古墳見 て ないお祭りが楽しくてあの出店がいっぱい 出てますしですねでそこは残念だなと思い ましたあの古墳にもっと誘導するような ですね何かサインがあればいいのかなと いう風に思いましたあの先ほど えサイトバルに行ってもあまり見に来る人 がいないて言った135分ありましたけど それ1人もいなかったですこないだも行っ た時にですねあんだけ人来てるのに誰も こっちには来ないのかと思ったんでなんか あの古墳の説明サインが低くていいんです けどちょっと見にくいところもあるので その辺もう少しえ古墳軍に来る人が古墳も 楽しめるようなですねなんか誘導の仕方が のかなっていうのはその時に感じたこと ですあとそのサイトバ高校博物館非常に いいんですけどもそこも人はあんまり行っ てないみたいで古墳軍自体への訪問者は一 時期は100万人超えてたらしいんです けどもあのそのうちの何人ぐらい来るのか なていうこともあってまその辺の工夫が いるのかなと私熊本の人間で宮崎になんか 言ってるような感じでちょっとあれです けどもちょっとそれは感じた次第ですで キャッチコビーですけどもうん難しいです ま古墳時代に紛れ込むとか ですそんな感じはし ますはいあまあのコスモスがあったりです ね3月になったら その他の花が上って真っ黄色になったり そういうことはされてるので古墳時代その ものではないとは思いますけども古墳しか 見えないというところでそういうかなと 思いますありがとうございますまさにね それこそ先生おっしゃってましたけどね 農家の皆さんとえ協議してビニールハウス 作んないとかその景観を守ってきたって いうのはまさにその古墳時代に紛れ込む ことを狙っての整備活用っていうことです からこれあの本当にあのサイトバのえ 目指してるものを表してんじゃないかなと いうような感じがいたしましたじゃあ宮崎 県の方にそのことも伝えときますとじゃあ 最後福永先生ですねはいよろしくお願いし ますうんちょっと難しいですさっきから ずっとキャッチコピーばっかり考えて先生 方の話を聞いてなかったんでですね ちょっとあのついていけてないかも分かり ませんがあの岩瀬先祖本宮について言えば 今日申し上げたようにえっとこれから前期 古墳時代前期中期のですね実態をあの3階 の中でですねまだあの指定されてない部分 特別席に指定されてない部分にえ主張古墳 が随分残ってますのでですねそれらの調査 研究保存保護活用を通じてですねえっと岩 千塚古墳部の全古墳時代史的な展開をです ねしっかりとあの研究調査研究して いただきたいここから見えてくるものは 大きいと思うんですねそれともう1つは えっと6世紀になりますと先ほど出てる 形態長と形態と非常にあの密接な関係を 持ってるのがクダラのブ王というですね王 ですねでおそらく最近ですねえっと韓国の 青南部でえっと岩瀬線図岩瀬方の横穴石室 となん関係になるんじゃないかと思われる ですね積出が見つかってきてますのでこれ からは岩瀬線図湖分部の評価を東アジア レベルでえ国際的な共同研究の中でえ極め ていくということも重要な視点になって くるんじゃないかと思いますねまそういう ことでですね岩千塚古墳群指定は1900 特別席が1952年ですけれども決して その価値はそそこで凍結されたものじゃ ないんですねこれから随分え時間をです けれども新しい価値がどんどん備わって いくそういうあの情報量を持ってる古墳だ と思いますのでえ期待しております キャッチコピーはねさっきからずっと考え てたんですけれどもあまりよくあの浮かば ないんですけども私が現地に行って非常に 印象的なのはですねえっと大日山35号分 のあたりから見るですねえっと木川のこの あのよよたる流れとですねその向こうに泉 山脈あその向こうには大和政権の中数が あるんだなっていうねあのこの俯瞰する 感じっていうのがですねま今も景観が残っ てるわけでですねものすごく印象的だった んですねえ大日山35号分からは日本唯一 のね飛鳥の羽が出てますねでまキャッチ コビするとですね飛ぶ鳥型ハから見るこの 国の成り立ちこれがあの21世紀22世紀 のですね岩瀬千塚古本軍のえ新しい価値に なるような気もするんですけどもですねで もあの私はあのはっきり言って塚で フィルドやったこともないあの戸山みたい なもんですからですねえ出身もあの関西で はございませんしですねまそれほどよく 岩瀬先のこと分かってるわけでないんです でね是非私はあのちょっと伺ってみたいと 思うのはやっぱ地元でえっとずっと継続的 に調査研究されたあの和歌山県のですね 地元の学芸の方とかえっとえっと教育委員 会で保護を担当されてる方とかね実は今日 随分ねいらっしゃってるんですよねでその 方にやっぱりここにに来てもらってこれ から岩千塚古墳どうするんやということを ですねちょっとあの決意表明をですねえし ていただけないかっていう風にどどうです かそういうことはいいですねえあとはあの じゃあコーディネーターにお任せしますの でですね無責任でございますけれども鳥鳥 方羽から見るこの国の成り立ちもう来年 行ったらそれがですね資料館の前にこう 看板で掲げてあるのなんか夢見ております 以上でございますじゃあ和歌山の皆さん今 賛成多数でございますので壇上に上がって きて ください おやっぱりね長年え岩瀬で調査研究を行い それはあの特別な思いもあるでしょうし またあのこの皆さんがですねはいあどうぞ どうぞじゃ最初お名前から あのどうぞあのお名前と肩書きからどうぞ えはいはい え恥ずかし気もなく壇上に上がらせて いただきました和歌山県の藤井と申します どうぞよろしくお願いします あの大学院の指紋よりも難しい無茶ぶりを 頂戴してまとまってはおりませんがま報し て25年ぐらい経ちますがま元々私羽が ただ好きな男でして羽のこと以外あまり何 も考えずに生きてきたんですけども今日の お話を伺いすると羽どころかあ地域どころ かあ近畿どころかハレットどころかあ東 アジレベルの膝でえこれから物事を考えて いけという知った激励を頂戴したなという 風に感じておりますあの先輩たちが調査 研究続けてきたんですけども私自身もそれ を引き継いでえ今日頂戴した新たな市座あ より高いところの市座での調査 に挑まなきゃいけないという風に感じて いる次第ですでその調査研究を進めつつ ですねあのこの3個分群いずれも古墳が よく残っているだからこそ特別指跡になっ てると思うんですけどもそれは1に地元の 方々ですとかあの皆様方のような方々が やっぱり大事だと思ってくれたことに禁 すると私自身考えてございますですので私 今あの職場が旧不機能か資料官という ところになります特別指跡の横にある資料 官なんですけどもお当え最初のご挨拶でえ 教育長があ新しい博物館作ろうとしてます という趣旨のこと申し上げました私その 担当させていただいておりますのでえその 調査研究をできるだけ分かりやすい形で 皆様方に還元できるようなあ日常あの 新しい博物館を作るために進してまりたい と考えてございますそのためにはですね 壇上の先生方文化庁だけじゃなくえ今日ご 参週の皆様ご視聴の皆様方のお力添いを 頂戴できればと考えておりますので 引き続きどうぞよろしくお願いいたします え藤井さん藤井さん藤井さんま真面目な話 はいいけど岩瀬は好きです かそもそもは羽が大好きですはいその羽を 大それも遠投羽をたくさん出してくれる 岩瀬千塚とてもとても大好きですはい好き ということが何より大事でございます ありがとうございましたじゃあ続いて田中 さんはいえキ不岡で学原因をしております 田中と申しますえ私の方からですねこのお 時間いたいてPRタイムをさせて いただこうかなと思っておりますえ岩瀬 千塚の魅力なんですけども何よりもですね やはり人とえ古墳の距離が非常にあの近い ということがありますあの全ての古墳え 全ての石室ですねあの基本的に入ったり上 に登ったりできますあの一切柵がないです ということでえ皆さん現地訪れていただく とですね石室の中に入っていただいてえ 古墳の上に立っていただいてえ先ほど先生 方が申し上げたような価値をですねえ体で 体感していただくことができるということ になってますなんで私もですねあの キャッチフレーズ考えたんですけどもどう あの岩瀬千塚古墳軍はですね会いに行ける 古墳軍あ会いに行けるアイドルみたいな 感じなんですけどもあのさらにですね石質 に入ってお触りもできますでさらにですね えセスの中1人で入ってですね独占もでき ますまそういった古墳群ということで是非 ですね皆さんあの訪れていらしていただけ たらなと思っておりますでさらにですねえ そこで書籍の方も販売しておりますあの その書籍を買って少し読んでいただくと ですねあの皆さんのこれからの新しい扉が 開かれると思いますので是非とも今日購入 していただいてですねお帰りいただければ 我々あの荷物が減りますんで大変 ありがたいなと思っております以上であり ますはいありがとうございますじゃあ 佐々木さんお願いします はいえ私あの和歌山県のえ県庁の方の教育 委員会にえいてえ埋蔵文化大の行政して おります佐々木と申しますえ皆さんなんか 名前だけって話だったの にもう思いきり決意表面みたいなところ まで行ってますけれどもえま私あの行政の 方からの立場からちょっとえ申し上げます とえま先ほどあのお話ありましたように 岩瀬千塚古分群っていうのは全体で900 機あるうちの今特別指摘に指定されてるの がまだ500機しかないんですねえ残りは まだあの指定されてませんで えこれも福永先生から先ほどありましたが あの岩瀬先学分あの前期からえ後期までえ 週末期まであの続く古分群なんですけれど もま今指定されてるのっていうのは6世紀 を中心とした範囲のみになってましてえ岩 千塚が始まるえ4世紀そして終わる7世紀 っていうのはまだあの主張簿も含めてです ねえ未指定のままなんですねえなんで今 あのまさにあのそこを特別席に追加しよう と いう気持ちでえ今動いておるところですの でえまあの指定ができましたらねあのそこ をまた活用して皆さんに知っていただいて えまさらにはこういうシンポジウムなんか でですね えまあの岩瀬先もっともっと知って いただいてですねあの次の世代へえつなげ ていけるようにえ頑張っていきたいという 風に思っておりますどうもありがとう ござい ますはいありがとうございましたまだ降り ないでねもうエンディングでございますの ではいあのこのようなおさ方いらっしゃい ますのでこれから先ますます岩瀬千塚の 保存活用調査研究がですねえどんどん進ん でいくんじゃないかなと将来が楽しみだ なって感じがしたと思いますじゃあ時間が そろそろやってまいりました最後にあの 皆様方に私から1つだけ質問させて いただきます国宝もすごいけど特別指跡も すごいなと思う方手がけて くださいありがとうございますじゃこれを 持ってあのシポを終了いたしますどうも ありがとうございました え福永様若狭様杉井様えコーディネーター の大様そして和歌山県のおさ方本当に ありがとうございました今一度大きな拍手 お願いいたし ますどうぞご講談 くださいえそれでは最後に和歌山県立岡長 行動より閉のご挨拶を申し上げ ますどうもあ付の官長の中村でございます え本日ご参加の皆様には本当に長い 間あのまご辛抱をいいたというかいたいて ありがとうございます えまこれを機会に え岩千塚えますますうんあの前進させて いただきいきたいと思っております よろしくお願いいたしますえま本日え年初 のお忙しい時期にえご挨拶をいただきまし た え監査官それから あにはあのま最後までご臨いただいて ありがとうございます えそれからえコーディネーターを務めて いただいたえ大様ありがとうございます それからあそれぞれえ岩塚それから あ うん え え玉ですね玉それからえトバのお話を いただいたえ各先生方どうもありがとう ございました えまあのお話の中にありましたように えまあのまこの特別席え1回見てみたいな と思う方も出てきたと思いますえまあの うん木付の家ではあの定例に古風見学を 催しておりますえいつやるかっていうのは あの毎月大体やっておりますけどもあの ホームページ等を見ていただければと思い ますま明日あの見学会に来られる方 あるいは抽選に漏れた方是非あのその ホームページで確かめていただければと 思いますえ最後になりましたけどもえこの 会が成功理にえ終わることができますのは 一にえ関係各位のえ ご努力によるところでございますどうも ありがとうございましたえ最後になりまし たけどもご参会の皆様のうんご多とご健康 を記念いたしまして私の拙い挨拶に開始さ せていただきますどうもありがとうござい まし たありがとうございましたえ最後に皆様に お願いがございますアンケートへのご協力 をよろしくお願いいたしますえの皆様は 出口で解消させていただきますまたオン ラインでご覧いただいてる皆様は画面の QRコードまたは概要欄からアクセス いただきご回答をお願いいたしますまた バスツアーにご当選されている皆様は明日 梅田のプラザモータープール茶屋町9時 10分受付開始9時30分出発となります のでお時間までにお集まりいただきます ようお願いいたしますなおにい際に汚れる 可能性がありますので汚れてもいい服装で また歩きやすい服装でお越しくださいまた 明日は雨の予報となっておりますので雨具 のご用意もお願いいたします以上を持ち ましてシンポジウム特別秘跡の古分群を 語る岩瀬千塚さたサイトバルの価値と魅力 を終了させていただきます本日はご参加 いただきまして誠にありがとうございまし た DET

和歌山県教育委員会主催「特別史跡の古墳群の魅力を語るー岩橋千塚・埼玉・西都原の価値と魅力ー」記録動画です。
開催日:2024年1月20日(土) 於:梅田クリスタルホール(大阪市北区)

★紀伊風土記の丘公式HPhttps://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/★

ーーーーーーーーーーー 内 容 ーーーーーーーーーーー
1:20 開会挨拶 宮﨑泉(和歌山県教育委員会教育長)
5:59 来賓挨拶 山下信一郎氏(文化庁文化財監査官)
11:06 趣旨説明 垣本和男(和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課長)
16:08  発表1「特別史跡指定ってなに?」近江俊秀氏(文化庁文化財第ニ課埋蔵文化財部門主任文化財調査官)
34:19 基調講演「古墳時代研究の進展と岩橋千塚古墳群」福永伸哉氏(大阪大学人文学研究科教授)
1:42:37 発表2「埼玉古墳群の魅力を探るー列島史を彩る東国豪族たちー」若狭徹氏(明治大学文学部教授)
2:23:14 発表3「西都原古墳群-その歴史的及び現代的意義-」杉井健氏(熊本大学文学部教授)
3:09:53 パネルディスカッション「特別史跡の古墳群の魅力を語る岩橋千塚・埼玉・西都原の価値と魅力ー」
4:01:26 閉会挨拶 中村浩道(和歌山県立紀伊風土記の丘館長)

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