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【ゆっくり解説】明治29年 三陸地震津波 ー襲い掛かった巨大津波ー

皆さんこんにちはゆっくり霊夢です皆さん こんにちはゆっくり魔理沙だぜ災害史解説 シリーズ今回のテーマは こちら東日本大震災の時に注目された三陸 津波かここより先に家を作るなという碑文 の手前で実際に津波が止まったという話が 報道されたりしていたよ な地方を襲って津波としては明治29年の 明治三陸地震昭和8年の昭和三陸地震昭和 35年の地理地震津波があり中でも明治 三陸地震での犠牲者は多く死者行方不明者 は 2195人と東日本大震災の2万2312 人に匹敵する規模の大災害だったよ当時の 日本の人口は4000万人ほどなので人工 費で考えるとそれ以上のインパクトがあっ たんだな な三陸地方には何回トラフと同じく何度も 津波に襲われてきた歴史がある 東日本大震災の時は1000年前の城岩 地震の再来と言われていたよな城岩自身の 津波の痕跡が発見され従来の想定を超える 巨大自身の存在が見つかった矢先の震災 だったよ ねそれ以降も三陸地方での津波は発生して いたと思われるけどきりした資料が残って いるのは江戸時代になってからになる よ慶長16年に発生した慶長三陸地震では 伊達政宗の仙台反領内にて死者1783人 都子南部津軽などでも大きな被害となった ことが記録されている大阪冬の陣の3年前 かそれから66年後の遠方5年にも地震が 発生し沿岸各地に津波が押し寄せたただ家 船舶の留出が記録にあるが人的被害を 伝える資料はなく比較的被害の程度は 軽かったと見られている続いて116年 たった関西5年にも地震が発生仙台で戦後 が壊し沿岸部には最大で45mの津波が 押し寄せた昼間の地震だったので避難する 余裕があり比較的死者が抑えられたと言わ れて いるそれから63年後の安静3年安静の 置き地震によって三陸地方は津波に襲われ ているこの地震から40年後に発生したの が明治29年の明治三陸地震になる よ昭和三陸津波は昭和8年だからそれから 37年後かそしてさらに78年後に東北 地方太平洋置き地震が起こったんだ なこうしてみると地震の発生感覚は50 から100年程度で100から150年と 言われ何トラフより発生頻度が多いんだ な津波電子という言葉が残っているように 津波の記憶が風化しにくい地域でもある わけ かではここから明治三陸地震について見て

いこう明治29年6月15日この日の天気 は穏やかだったが夕方から雲が出て雨が 降り始めていた19時32分岩手県沖を 震源とするマグニチュード 2から8.5の巨大地震が発生した震源液 は南北に110km東西に50kmとなっ ている怪光型地震はマグニチュード8 クラスだったな相当の規模の巨大地震だ 地震発生は夜の7時半だから夕食が終わっ て1段落という時間帯だ なこちらは各地の震度分布になるようん 随分低いような気がするんだけどこのの 震度は最大で4多くの場所で2から3程度 であると言われているよ全然揺れていない じゃないかこの程度で津波が起きるなんて 信じられない な通常地震は断層が一気にずれることに よって発生するんだけどゆっくりと時間を かけて動くパターンも存在するんだ明治 三陸自身ではこの破壊が一瞬ではなく 100秒程度とかなり緩やかに進行したと いうことが分かっているそれが各地の揺れ の弱さにつがっているんだなその一方で 断層のずれの大きさは巨大自身と変わら ないから津波が大きくなるわけ か小さい揺れでは津波は起らないと考えて いる人は多いと思うからこの事実を広く 知ってもらうことは大切だと思うぜちなみ に断層のズレが数年をかけて動く現象を スロースリップと呼ぶよこの場合は自身も 津波も起こらないこのスロースリップが 巨大地震の前ぶれになる可能性が指摘され ており現在研究が進められている よ解消に若にいたり狂乱点をつき怒涛地を 巻き高校として地をしせきたり市街となく 村落となく全て狂乱反乱のぼするところと なり宴会一体70よりわずかに一瞬間にし て人畜家船舶その他あげてほとんど一掃し されすなわち まで家失費の市街も今や変じて兵車業と なり死は類つなし家は誘拐し満目一として 量ならざるなしその3実に戦慄に耐え ざらしこの地震によって三陸各地には第一 波からほぼ6分間隔で3から6回に渡り3 から10mの津波が押し寄せ人な被害を 発生させ た宮城県の静川町では6mありの津波が 押し寄せたこの津波に遭遇した少年の証言 を見て みよう突然怒涛の吠えるような恐ろしい 響きが起こると同時に体がいつの間にか床 から押し上げられ屋根裏まで圧迫されて 身動きが取れなくなりましたあっという間 のことでした身体ここに極まりましたが 必死になって屋根を破り上に出ることが

できまし た静川警察では員たちが水した町の顔第2 波第3波と押し寄せる津波の中で救助活動 を行ったが周辺の集落から次々と救援要請 が舞い込み手に負えない状態となり警察部 への応援要請を行っているここでは370 人あまりの住民が歴史し た小月には刑務所があって195人の囚人 が収容されていた突然の津波に襲われた 刑務所では監守が必死になって官房の扉を 破り中の囚人を解放したが生き残ったのは わずかに31人だったと言われている突然 の出来事の中逃げることなく職務に忠実 だった監守は立派だなでも生き残れた囚人 はほんの一握りだったの か現在の気仙沼にあった空く村では人口 3945人中945人が死亡した村民の 1/4がなくなったのか恐ろしい被害だな ここでは足が逆さの状態で砂に埋まった人 を書いた絵が残されて いる現在の陸前高市にあった広田村では 82人が死亡し懐中の死体を引き上げる ため地引き網を下ろしたところ1度に54 人も入ったので重くて引けず2階に分けて 引き上げたと言われている遺体収容に 地引き網を使うとは事体の深刻さを感じ させる話だ な現在のオフな年にあった料理村では 410個の民家のうち319個が流出し 2251人の村民のうち1269人が死亡 して人口の56.4が失われたこちらは 被災した石の証言だよ津波だという声を 聞いてから席を立つ暇もなくもう水が家に 充満しましたやっと気づいて頭を上げて みると当たりは真っ暗でした手を出して 当たりを探ると目と死体があって私の体の 半分は泥の中でしたホボで泣き叫びながら 助けを求める声が聞こえ初めて自分が生き ているのだと気づきました料理湾における 津波上口は当時最大である38.2Mを 記録しているなお東日本大震災によって この記録は40.1Mに更新されているよ 改めて東日本大震災での津波の威力を実さ せる なか石町では652人中3765人 40年前の安静8の置き地震でこの家は 無事だったためそれを頼んで逃げてきてい た560人の人々も巻き込まれて助から なかったと言われている後に合併して構し ないとなる東村では村民2525人中 1684人と住民の 66.5%が死亡しておりこの地域での 被害の大きさを物語っているいずれも住民 の半分以上が死亡というのは恐ろしい な大津では前年の日進戦争勝利を記念した

縮小花火大会の最中だった自信を感じた人 は多かったものの大した揺れでもないので 気に止めず賑やかに花火が打ち上げられて いたその時凄まじい合音と共に浜辺に 集まっていた人々を津波が飲み込み600 名もの死者を出す3時となった花火大会は 海岸でやるからタイミングが悪すぎるな 山田町では456個が失われ815人が 死亡ただ津波の勢いが他と比べて緩慢で あったため家の多数は元の位にとまってい た被災後弾を取るために木材に火をつけた のが火災となって土蔵に避難していた人 たちが消費した東日本大震災の時もあった けど現代では車のガソリンやガスボンベ など加物が多くなっていて津波後の火災 リスクはむしろ高くなっている ぞ思え村では1506人中733人が死亡 マグロ涼に出ていた漁師4人は合いにいて 無事だったが漂流していた人の救助を 求める声を船幽霊と思い込み言い伝えに 従ってその声を無視したその中で村の女役 が俺は女役のままだと叫で助けあげられ 漁師たちは船幽霊の言い伝えがなかったら もっと多くの人たちを助けたと語った今と 違って無線もラジオもない時代だからな 自身に気づかなかったら幽霊と勘違いする のは分かる気がする ぜ最大の被害を受けたのは岩手県の太郎村 で人口2248人のうち生き残ったのは わずかに381人村民の 83.1mhzかじて生き残ったに過ぎ なかった記者はこれまでかし北の被害地を 巡視してきたがこの太郎村の三条を見るに 及んで激浪の凄まじさも三上もこの血が 最も甚だしいことを知った手の家は言う までもなく高いところに立つ家も物々見事 に破壊されているのみならず段階の大償の 呪目などもことごとく枝を折られ川を 剥がされており太郎の前村今全く空爆たる 荒野とかして いる田は村の裏川V系ワオで津波の高い 場所の1つとして知られているこの地には 開発20mの高地にこの時の津波によって 運ばれたと言われる津波石が残されており ラガの津波石として見ることができるラガ 地区における東日本大震災の津波素上口は 27.8Mであり津波で運ばれた話は本当 だったのかという驚きを伝える記事が掲載 されていたよあの津波を見るまではとても 信じられなかったんだろう な田端の北方にある不村では大不で住民 309人中95人が死亡するなどここでも 津波はもいを振ってい たさらに北に行ったく町では頑丈な土蔵に 避難した家族が津波による土蔵東海により

全員斬死した40年前の安静8の置き自身 では津波の勢いが緩やかで家の2階に避難 して無事な霊が多かったが明治三陸地震で は津波の勢いが激しく家を押し流して倒壊 させており津波経験者が帰って油断して なくなった例も多かった以前に大丈夫だっ たからという思い込みの怖さだ なこの地震による死者は宮城県で 被害総額は当時の国家予算の約1割になる 700万円から800万円と見積もられて いる江戸時代にもスドに渡って津波に襲わ れてきた三陸地方だがこれほどの被害の 大きさは285年前の軽重三陸地震以来の ものだった揺れが小さく誰も津波を予想し なかったこと発生が夜中で海の様子が 分からなかったことが被害を大きくしたん だろう な三陸大津波の一方は翌16日の午前6時 に青森宮城両知事からの伝法により伝え られたそれに対し最大の被災地である岩手 県知事からの一方は午後6時と遅れていた 半日遅れになったのはなぜなんだ県庁の ある森岡と三陸沿岸の拡町村との間の道路 事情は劣悪で沿岸の交通も麻痺していた ことが原因だよ地震後に花巻からかに 向かったある新聞記者は人を雇って沿岸に 向かったが途中の剣道が工事中のため馬に 乗り換えさらに交代の馬の調達ができなく なって道案内を雇って徒歩で険しい峠を 越え途中眠ることなく約26時間後に ようやく構いに到着している今なら車や 減りがあるだろうけど明治の交通事情は 大変という言葉では言い尽くせないなこの ため岩手県庁が大津波発生を知ったのは 青森県からの第一方を受け取ってからと なった よ剣では被災各地に職員を派遣して事態の 把握に務めると共に食料配布の準備を整え た宮城県内は記者の弁も良く救援隊の活動 が比較的容易だったが岩手県沿岸の道路は 元々人力者も通行できず津波によって通行 不能になっている箇所も少なくなかった 盛岡からの支援物資は北上川加工の石巻 から戦に積み替え送られるなど極めて時間 のかかるものとなってしまっ た会場はただよう瓦礫で水面が見えない ようなあり様で波止場の破損橋梁留出など もあって物資輸送は困難を極めた被災地で は東海した家や死体の片付けに周辺の無 被害町村住民の援助を頼んだがこの地域は 海辺の家が多く無被害の町村事体が極めて 少なかった内陸部で妊婦を募集しても 日帰りであれ実動時間は数時間に満たず 県庁で妊婦を募集して被災地に派遣したの の地震でも話題になっていたけど自己完結

型の軍隊の重要性を感じる ぜ仙台第2士団長乃木真助中上は被災地へ の憲兵衛生兵公平隊の派遣を決定し災害 派遣を実施した日本軍の災害出動について は以前の動画で紹介しているけどノビ自身 の洗礼があったとはいえ この時期は軍隊による災害派遣は明確に 任務として定められていなかったんだよな その状況化で部隊派遣を決定した野木将軍 の式と決断は重いものだぜこの輸送のため に海軍は防護巡洋官泉を会場の遺体捜索の ために水来法官立田を派遣した海軍も軍艦 を派遣して活動したんだなその他民間の ボランティアや赤十字も駆けつけて活動し ているが全体の作業を統制するものが不在 のため効率的な作業の実施に苦労した記録 が残っているまた被災地では応援の妊婦が 物取りをしているという噂が広まりこれに 起こって妊婦が帰ってしまうといった 出来事も起こったと言われている地方では よそ者への警戒感も強いから な三陸地方を襲った綱は全国に報道され 全国から集まった義援金は63万にもなっ た 国の尾行貯蓄金や予備金皇室の音子金など からの支出は約57万円なのでその大きさ が分かるなバダ産噴火やノビ地震でも全国 から義援金が集まっていたしこの時代の 雰囲気が察せられるぜまた一連の災害の 報道を通してこの地域を三陸という呼び方 が定着したとも言われている よ被災後の復興に際しては現代のように 防波膨張艇を整備することはできなかった が東日本大震災後の津波対策で行われた 高台への移転が実施された青森から宮城 までの51地区で高台移転が確認されて いるがそのうち半数にあたる25地区では 元の場所に復帰してしまったあれだけの 被害を受けたのになんで元に戻ってしまっ たん だ魚良者が海の近くに借たを設け高台の本 と使い分けていたがそのうち借たが本た化 してしまったケース壊滅した集落の後地に 津波を経験していない移住者が入って再建 されたケース移転先の高台では飲料水の 確保が難しく結局元の場所に戻ったケース などがあるよこれらの地域は37年後の 昭和三陸地震による津波で大きな被害を 受けることになり再度の高台移転を行った ところも少なくないしかして一部への集落 の拡大や魚良との関係により再度復帰した 例もあり東日本大震災によりさらなる被害 を受けたところも多いなかなか難しい問題 なんだよな明治三陸地震で高台移転に成功 した集落ではその後の国道整備により町の

中心が国道に移動し定一部への集落拡大が 抑止された地域もある高台での住民の声量 をいかに確保していくかがポイントになる という指摘もされている よなお高台移転したにも関わらず 東日本大震災で被災した地域もあり想定 以上の津波が来た場合移転していたとして も被害を出す可能性が0になるわけでは ない よということで明治三陸地震について解説 してきたよ被災各地の死者率の高さが 凄まじい災害だったな津波の危をほとんど の人たちが認識していなかったのが印象的 だったぜ現代では津波警報の仕組みが整っ ているから小さな揺れでも油断せず津波の 海を確認するようにしてほしいな明治三陸 地震については吉村明のノンフィクション 小説三陸海岸大津波に描かれているので 興味のある方はご一読ください 東日本大震災の時に注目を集めた作品だよ な概要欄にURLを貼っておき ます今回の動画はいかがでしたでしょうか チャンネル登録高評価をいただけますと 幸いです今後の動画作りの参考にしますの でコメントなどもいただけると嬉しいです ではまた次回の動画でお会いしましょうご 視聴ありがとうございまし たDET

明治29年(1896)、三陸沖で発生した地震は大津波となって沿岸各地に襲い掛かりました。
揺れが小さかったために事前に避難できた人はほとんどなく、沿岸各町村は信じられない犠牲者を出します。
これによって発生した死者数は東日本大震災に匹敵するものでした。

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<目次>
00:00 オープニング
01:01 三陸地震について
05:07 明治三陸地震の発生
14:26 救援活動の実施
18:24 集落の高台移転
20:11 エンディング

<参考文献>
内閣府『明治三陸地震津波報告書』2005
山奈宗真『三陸大海嘯岩手県沿岸被害調査表』1896
山下文男『写真記録近代日本津波誌』青磁社 1984
山下文男『哀史三陸大津波』青磁社 1982
宮城県『宮城県海嘯誌』1903
横内憲久 西野拓人 岡田智秀「東日本大震災を契機とした「高台移転」における高台部居住の 維持に関する研究 -石巻市雄勝町を事例として—」『沿岸域学会誌 Vol.28 No.3』2015
牧紀男「明治・昭和三陸津波後の高台移転集落における東日本大震災の被害」『地域安全学会梗概集No30』2012
防災科学研究所:地震の基礎知識とその観測 5.3津波と津波地震・ゆっくり地震
 https://www.hinet.bosai.go.jp/about_earthquake/sec5.3.html

記載のない画像についてはWikipediaより引用

#災害史 #津波 #三陸

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