【ブギウギ】吉本せいの生涯 なぜ息子とシヅ子の交際を認めなかった?

[音楽] こんにちは歴ショックです今回は夫と共に 吉本工業を立ち上げ女で1つで発展させた 吉本せいの生涯について紹介します吉本 せいは芸事にうつを抜かす夫に引きずり こまれる形で寄せ経営に携わり夫が 亡くなった後は弟たちを従え漫才をそれ まで主流の落後に変わって主力とすること で吉本工業を発展させました しかし私生活では夫に悩まされ続けただけ でなく子供たちも次々と若くして亡くなっ ていくなど不幸が多くその中で最愛の後 息子英介が無断で重し子と恋愛関係になる と2人が子供を作りながらも反対し続け ますせいは弟の活躍すら妬むなど嫉妬心が 強い女性で夫の功績を自分の手柄として 語ることもあり愛する息子が自分の手の 届かないところで恋愛すること自体が許せ なかったとも考えられています今回は幸せ とは呼べない人生を歩みながらも今日の 吉本工業の繁栄を築き上げた女工業師吉本 誠の生涯について紹介し ます酸っぱしる夫のお城で堅実に寄せを 経営する吉本せの 執事吉本せは1889年米国省の林豊次郎 とその妻チアの間に12人兄弟の産女とし て生まれ大阪で育ちました後にせの元で 吉本工業を切り盛りする林正之助は10歳 年下林博隆は18歳年下に当たりますせの 実家は決して不合ではなくせは学校の成績 は優秀だったものの義務教育4年を終えた 後は千場で女中暴行に出ましたしかしこの 方向先がひどい険悪家で使用人の職が進ま ないよう漬け物だを雨にさらし悪習を漂わ せるほどでせは大変な苦労をしますがこの 時の経験が生きた金は惜しみなく使い 無駄金は一切使わないという大阪の商売の 基本をせいに叩き込むこととなります やがて1907年18歳の時に同じ大阪の 上町にある死者とや橋の息子吉本吉兵衛と 結婚しますしかし橋は日戦争後の不興の 煽りを受け経営は厳しくせは借金取りの 対応に追われた上米のママ母に当たる姑の いびりもひどく女中暴時代と変わらず 苦しい生活を送っていました夫の吉兵衛は せいを助けるでもなく家を開けて芸人遊び にうつを抜かす法息子でそれだけにとまら ず自身も剣部を披露し有業一座の多元の株 を買い自ら工業種になる始末でした吉兵衛 は家業をおろかにするだけでなく家業の金 も工業につぎ込んでしまい1909年に 自然開通に伴う立ち退きをきに橋は廃業し てしまいます結果せはといでからわずか2 年で実家に戻り七兵衛は有効業から帰ると 林家にきまた旅に出るという生活を

繰り返しせいは実家の居の悪さに耐え ながら内食で家計を支える日々を送ってい ましたこの間の1910年に長女の清を 出産し生涯で2難6条を設けますが長女は 10歳で亡くなったのを始め1916年に 生まれた長男など半数が幼くしてなくなっ ています生自身も敗結核を病とするなど体 はあまり丈夫ではなかったようで生まれた 子も次々と幼くしてなくす中1923年に 生まれたのが末子の英介で残った唯一の 男子として聖は英介をあとりとし全ての 希望を込めて大事に育てていくこととなり ますそんな中1912年に吉兵衛政夫妻は 突如天満天人裏の寄せ第2文芸座を買収し 寄せ経営に乗り出しました一般的には芸人 道楽の止まらなかった基米に対し生が一層 寄せを経営することを進めたとされますが ただでさえ生活の苦しいせが道楽の助長と なる寄せ経営を主導する可能性は低く芸人 界隈で第2文芸座売り出しの情報を得た 吉兵衛が生を口説いたと見られています その後寄せの経営はせ表向きのことは米が に担うこととなりますが後年聖は吉兵衛の 働きすら自分の手柄として語りせが女で1 つで吉本工業を築き上げたイメージが 出来上がっており実際は長年業界に使って いた基兵も大きな役割を果たしていました 買収には現在価値で400万円とも 1000万円ともされる費用がかかったと されせが実家含めホボに借金して回り翌 1913年に吉本工業部の看板を掲げ寄せ 経営がが始まります当時の大阪の演芸会は 落後が中心で桂派山友派が利行する中伝統 的な古典落後にこだわらず多くのジャンル の芸人を揃えた第3勢力の何は反対派が 勢力を伸ばしつつあり吉本工業部はここと 手を組み芸人を集め寄せの中では最下層の 羽からスタートしました羽は一般の寄せの 1/3の料金しか取れず芸人も2流3流 しか集まりませんでしたが様々な策を こらし回転率を上げせは人件費を抑える ため自ら売り子も務めるとともに出演した 芸人の世話も親切に行い芸人たちの心も 掴んでいました翌1914年には吉兵衛が 顔の広さを発揮し4箇所もの寄せを買収 するなど反対派の急速な拡大に乗っかり 1915年には衰退したカラ派の本拠で所 正しい寄せである法然寺の金沢店を買収 するまでになりました本工業部は金沢亭を 何知ヶ月と解消し他の寄せも次々とヶ月を 関した名前に解消していき一流の落語家 芸人を呼び寄せまた琢に大阪の演芸会の 王者になり下がっていくの です落後に変わり漫才を主力として吉本 工業を演芸会の王に吉本工業の発展と吉本

せ吉本工業部は手を緩めることなく寄せ 買収お進め勢力を拡大して 1920年に反対派の送水岡田誠太郎が 休止すると反対派そのものを吸収するまで になりました元は反対派にくっつく小さな 寄せの1つだったのが1922年には山友 派まで吸収し関西最大の工業主に成長東京 の寄せも買収し東京進出も進めていきます せは弟の林正之助を呼び寄せ吉本工業部の 内部の経営に不審していましたが工業部の 数年での薬新は教会に長年身を置いていた 吉兵衛の人脈と再turによるものでした この頃聖は有名な落語家に高額な月給を 提示し専属契約を結び多くの落語家を集め 金遣いの荒い彼らに金を貸し付け借金で 縛るというやり方も駆使し工業で最も重要 な芸人の確保を進めていますその代表が 当時大阪1の落語家であった桂春ダ寺で サラリーマンの月球が40円の時代に月給 700円を提示さらに春断寺の借金の 肩代わりとなる前が資金2万円の条件で 専属契約を結んでおり明日ともに大阪の 演芸会を主中に納めていましたですがせは 当時主流の落後だけにとまらず新たな演芸 を模索し続けておりこの時期には島根の 民用安木節を弟の正之助中心にプログラム に取り入れさせ芸を深く知らない一般客に 受けさせるなど新規会にも力を入れてい ます吉本が躍進を続ける中の1923年に 聖の末っ子英介は生まれましたが翌 1924年に夫の吉兵衛は愛人宅でという 噂もあったものの37歳の若さで農一決で 休止し聖は34歳で未亡人となってしまい ます聖は悲しみにくれる間もなく夫が国大 の末に残した大阪東京名古屋の計28か所 の寄せの経に1人で取り組むこととなり ました結果的にせいは夫の死の8年後吉本 工業部が吉本工業合名会社に解除された時 には寄せを19件増やし47件に拡大して いますがこの時のせは自分を悩ませ続けた 吉兵衛のおかげの吉本と言われないよう 寄せを一件も減らさないことを第一に保守 的な経営方針を取っています聖は吉兵衛の ような地的拡大戦略は取らず慎重に手を 打っていましたがそれでも大当たりして いき薬新の中心になったのがそれまで演芸 界の中心だった落語を駆逐するほどの勢い を持つこととなる漫才でした元々は法式 芸能で漫才と呼ばれ落後の下に位置付け られていた漫才はこの頃神戸を中心に 流行っており張戦で頭を叩く殴り漫才の ような現代の漫才につがる原型もでき始め ていましたこの漫才を正之助が中心となっ て節と共に売り出し徐々に人気を白し やがて落後の席にも出演するようになり

1927年には正之助が全国漫才座長大会 を開催し長満員になる成功を納めやがて 法式芸能の漫才は法式要素をなくした漫才 として生まれ変わっていきます人気を白し ていた漫才でしたが客層は今までの落後の 寄せと変わっておらず食い合いとなってい た状況を変えたのが1930年に結成され た円立アチコのコンビで彼らによって漫才 は一気に人気に火がつきました当時の日本 は大正から昭和に入り町にはセビを着た サラリーマンが溢れるようになっていたの に対し円立あチコは背を着てじネタを店舗 の良いしくりでちゃかす芸を披露しそれ まで寄せに来ていなかった新しい階層の客 の心を掴んだのですまた1925年に 始まったラジオ放送も吉本の薬新に つながりせいは当初は所属芸人の出演を 制限していたのががその威力を無視でき なくなり1934年に何知ヶ月からの実況 中継を行っていこう吉本芸人が次々と ラジオに出演しラジオを聞いた客が劇場に 押し寄せ漫才の流行りと共に吉本の勢いも 加速度的に増していきました一方落語は 漫才の薬新に押され衰退していき味方に よっては吉本の漫才重視の方針が落後を 殺したようにも取られていますがせいは 落後が吉本を大きくしてくれたことに感謝 し落語家には出番がなくとも金は払うなど 遭遇するも世の流れを優先し落語とは決別 しています1932年に吉本工業部は吉本 工業合名会社に控訴しせは社長に漫才を 発展させた正之助が総子犯人当時25歳の 弟林博隆は東京市社長と自分の身内で組織 を固めましたせは漫才の力で日本の工業界 のトップに君臨する中寺院や赤十字などへ の寄付災害支援満州事編以降大陸に展開 する軍部の異文なども積極的に行い自らを 愛国者とブランディングしていき低かった 工業界の地位向上を図り1934年には 吉本の発展も合わさり支持放送を受賞する までになっています1938年には大阪の シンゴル通天閣も買収し吉本の地位向上を 図っていますが絶頂期にあった1930年 にせは突如逮捕される事態に見舞われて おり聖の時代の崩壊が始まることとなり ます息子も演芸も全て失いながら亡くなる 吉本聖の 最後せいは夫と共に寄せ経営を始めた頃 からこの業界には付物のバトなどとの大体 も担っており警察退職者を多く採用する など自衛手段も講じていた一方範社会勢力 ともつかず離れずの関係を維持しています 彼らとの繋がりの隠れミノを求めたせは いつからか大阪富会議長まで登る辻沢 慎次郎とつながり辻坂を顧問閣に迎え政治

活動支援の見返りに様々な便宜を図って もらう関係を築いていますしかし1935 年に税務官が富豪の税金徴収で便宜を図り 見返りをもらう組織的な義国事件が発覚し 辻坂は関係者として逮捕されせにも捜査の 手が伸び習慣されに至りました辻坂は税額 査にも大きな権限を持っており事件の中心 的存在と目されていましたが翌1936年 に週刊中に実施してしまい事件はうむの うちに処理され生もほとんど無傷で釈放さ れますただしこの事件を気にかせは徐々に それまでの覇気を失っていき1938年に 株式会社化した際は引き続き社長職にあっ たものの第1戦を引きの正之助が采配に 当たる体制となっています翌年には映画会 を中心に東方と小竹が歯を競うな正之助が 以前から提携していた東方の取り締まり役 の検認したことが小竹を刺激し小竹資本の 進行キネマが演芸部を設立し吉本芸人の 引き抜きにかかる事件が起きました進行 キネマは円アチコに継ぐ人気を誇っていた 水若玉松一郎を吉本の10倍もの月球で 引き抜き他にも多くの芸人が引き抜かれ 警察の仲裁もあって騒動は収まるも金で 芸人を縛っていたせいのやり方が金の力で 崩された象徴的な出来事となります 1940年には吉本工業が映画出演事務を 担当していた広沢虎蔵の映画無断出演を きっかけに吉本工業と繋がりのあった 山口組とオファーを仕掛けたカトラ一家が 浅草で切り合いとなり双方に死者を出す 事件が起こりせは争いを止めことができ ないまま今まで気づいてきたイメージは 一気に崩れていきましたこの間も吉本工業 は兼ねてから軍部に門として芸人を派遣し ていたのを大規模な門団笑わしたとして 戦地に派遣するなど自局が厳しくなり笑い 自体が不謹慎とされる国内で活動の場が なくなる中でも活動を展開していました しかし1943年には達の象徴であった 通天閣が家事で焼け落ち19404年には ついに南地ヶ月など劇場が当局から休業を 命じられ建物も一部取り壊されるなどせが 築き上げてきた吉本王国はほとんど崩壊し てしまいますそんなせいの唯一の希望が夫 の死後加を継がせていた息子の英介で東京 市社長の弟林博隆の世話の元早稲田大学に 通う英介が自分の後を継ぎ吉本工業の社長 となることだけがせの楽しみでしたところ が介は二になった1943年にスイングの 女王として名をはせていた当時29歳の笠 静子と恋に落ちてしまいますやがて英介と 静子は弘隆が世話した荻久保の家で同性 生活を送るまでになりますがせいは2人の 恋愛を認めようとはしませんでした理由に

ついてせは多くを語っていませんが一般的 にはあと息子の英介が踊り子不のしず子と 一緒になるのは教会の水も甘いも知りした せいにとってはは最も避けたく業界と関係 ないところから妻を迎えてほしいと願って いたからとされますまた日本有数の大企業 となった吉本工業に静子はふさわしくない からとする説もありますが静子は有名な 神学者を祖父に持ち父は東大早朝を務める 南原しの同級生と決して悪い家柄ではなく いずれも決定的な理由にはならなかったと 見られています2人の交際への反対はせの 個人的なによるところも大きかったとされ 亡くなった夫の鉱石を自分のものとし自分 を悲劇のヒロインとするせいにとっては 自分の意思の返さないところで愛する息子 とつがったしず子が何者であれ許せなかっ たとするもので英介の恋愛そのものが許せ なかったのだと考えられます実際1948 年頃のインタビューでは静子と英介の恋愛 について何も知らないと一切を語っておら ずついにせいが息子の恋愛を認めることは ありますませんでしたしかし介は母親の 反対にあっても静子と離れる選択はせず 1946年には早稲田大学を中退し叔父の 林博隆の元で吉本工業東京自社社員として 働き始め静子との間にこものしました英介 は敗結核を患っており戦後次第に悪化して いき1947年1月には東京を離れ西宮の 自宅で両用することとなりましたが5月に 来月に出産を控えたしず子を残してせの 愛する息子英介は23歳で亡くなり翌月に しず子は英介の忘れがみ英子を出産してい ます静子はその3ヶ月後生後間もい英子を 連れて初めて生徒対面していますがこの頃 のせは病床にありました終戦後吉本工業は 正之助を中心に焼け跡で芸人たちによる 講演を再開していましたがやがて1947 年には花火アチを除く全芸人と契約を解除 し新たな娯楽の中心と睨んだ映画館の経営 に注力するようになり正が戦前に気づいた 演芸王国吉本工業は全く別物となります正 の最後の希望が映画官経営の会社となった 吉本工業を英介に継がせることで経営には 口出ししないながら社長職だけは片に守り 続けていたせでしたがエースをなくし生き 承interestしてしまい1948年 には社長職を弟の正之助に譲り会長となり ました1台で吉本工業を演芸会の王に 押し上げたせいは愛する後と息子育て上げ てきた芸人苦労して守り増やしてきた劇場 を次々と失いながら1950年に60歳で 亡くなります聖の死後映画産業は次第に 社用となっていき吉本工業は再び演芸路線 を復活させますが戦後すぐに小竹新劇を

立ち上げ連日超満員になっていた竹に対し 芸人を全員解雇していた吉本工業は東方 などから芸人を借りて1959年に後の 吉本新劇を立ち上げるも出遅れは明らか でしたそんな吉本を支えたのが唯一吉本に 残りせいも可愛がっていた花アチコで アチコが未熟な新人芸人をまとめ部隊を 支えやがて吉本新規劇がテレビ放送される に至り次々と専属芸人の中からスターが 生まれ始めます 1963年には1000人を収容する難波 ヶ月がオープンし吉本工業はかつてせが 気づいた演芸王国へと復活を果たしていき 日本を代表する演芸会の王へと帰りざく こととなったの です最後まで動画をご覧いただき ありがとうございました参考文献は概要欄 に記載しておりますこの動画をいいなと 思っていただけたら高評価チャンネル登録 をお願いします こちらのアイコンをタップしていただける とチャンネル登録できますTwitter ウェブサイトでもたくさんの日本紙情報を 発信していますのでよかったらチェックし てみてくださいね

参考文献
矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい: 浪花演藝史譚』
https://amzn.to/47gvqI1
青山誠『吉本せい お笑い帝国を築いた女』
https://amzn.to/41Fzmkw
三才ブックス『朝ドラ「わろてんか」のヒロインモデル・吉本せい 吉本興業創業物語~NHK連続テレビ小説非公式ガイド』
https://amzn.to/3tEKUYM
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吉本頴右(村山愛助)の母である吉本せい(村山トミ)は芸事にうつつを抜かす夫 吉本吉兵衛に引きずり込まれ寄席経営に携わり、夫が亡くなった後は漫才をそれまで主流の落語に代わって主力とすることで吉本興業を発展させました。
しかし、子どもたちも次々と若くして亡くなっていくなど不幸が多く、その中で最愛の跡取り息子 頴右が無断で笠置シヅ子と恋愛関係になると、2人が子供を作りながらも反対し続けます。
せいは夫の功績を自分の手柄として語ることもあり、愛する息子が自分の手の届かないところで恋愛すること自体が許せなかったとも考えられています。
今回は、幸せとは呼べない人生を歩みながらも今日の吉本興業の繁栄を築き上げた女興行師 吉本せいの生涯について紹介します!

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#ブギウギ #朝ドラ #歴史

4 Comments

  1. 朝ドラの笠置シズ子さんの恋人が、吉本興業の息子さんだったとは、初めて知りました。

  2. 19:26 その中には岡八朗さん、花紀京さん、昨年(2023年)に亡くなった桑原和男さんや財津一郎さん等がいる。

  3. ドラマでは随分美化されていましたが、朝ドラ「わろてんか」のヒロインのモデルの方ですか。

  4. 今は全盛、吉本興業の足跡を知ることが出来ました。面白かったです。今となっては老舗、歴史あるお笑い界のトップ企業。

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