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「不自由な右手で自分の爪を…」宮﨑香蓮が知る被爆者の人生~前編~【被爆78年 NO MORE…#3】#戦争の記憶

長崎県島原市出身の女優・宮崎香蓮さんが昨年に続き、長崎で被爆者を取材しました。
今回は宮崎さんがかつて平和公園のそばにあった「被爆者の店」で働いていた一人の女性に話を聞きました。
※宮崎の「崎」の漢字 正しくは「大」が「立」宮崎 香蓮さん:
「わぁ、平和記念像。ことしも式典の準備がもう始まってるんですね」島原市出身で女優として活躍する宮崎 香蓮さん。宮崎 香蓮さん:
「象徴的な像があって。祈る方もいれば、(平和の)勉強する方もいれば、お散歩する方もいると思うんですけども、この場所が“長崎にある意味”みたいなのを、なんとなく私も来ると考えます」平和公園のそばに今年4月、新しい店がオープンしました。ブルー・ブロンズ・ストア“青銅” でできた平和記念像から名付けられました。店内には洋服や雑貨などが並び、カフェも備わっています。宮崎 香蓮さん:「これはブローチかな? かわいいー、キラキラ」かつて、この場所には、違う店がありました。宮崎 香蓮さん:
「被爆者の店…?昔、(ここは)おみやげ屋さんだったような記憶があって…。
でも“被爆者の店”っていうのは知らなかったです。どういうお店なんですか?
”被爆者の店”って?」

”被爆者の店”で 約40年 働いた松谷英子さん

観光客向けにみやげ物などを販売していた「被爆者の店」その名の通り、被爆者が働いていました。
どんな人が、どんな思いで仕事をしていたのか。かつて働いていた女性を訪ねました。宮崎 香蓮さん:
「こんにちは、すみません。失礼します。入ってもいいですか?お邪魔します」被爆者の店で、約40年、事務員として働いた松谷英子さん(81)国に「原爆症」と認めるよう求めて裁判を闘い、23年前、最高裁で勝訴。
原爆症認定を勝ち取った歴史的な「松谷訴訟」の原告で、その後の原爆症認定の門を広げた先駆的な被爆者です。松谷 英子さん:
「これがその時の傷だから。何十年経っても、暑い時と寒い時は痛むんです」生まれてすぐ母を亡くし、物心つく前に養父母に引き取られた松谷さん。
3歳の時、爆心地からおよそ2.5キロ離れた稲佐町一丁目の自宅の縁側で遊んでいる時に被爆しました。
当時の記憶はなく、両親から聞いた話です。

母は何度も「原爆でこういう体になったんだから いじめないでほしい」

松谷 英子さん:
「爆風によって飛んできた屋根瓦が私の頭に直撃したわけなんですね。
5センチ(傷の)深さだったらしいのね。(救護所の)先生が仰るには『この子は生きてるのか?』って。
私がもう死んだようにしてるもんだから。
先生は『もし傷が浅かったら承知しないよ』って。やっぱり、もうたくさんの患者さんで先生も気が立ってたと思うんですよね。
それで、ちょっと離れたところにハサミを取りに行って、私の傷の周りの髪の毛を切って、中を覗かれたらしいんです。そうしたところ、傷が深かったもんだから『申し訳ありませんでした。手遅れです』って言われたらしいんです」頭蓋骨は陥没。
傷口から膿が流れ続け、塞がるのに2年半もかかったそうです。脳を損傷し、右半身に麻痺が残りましたが、懸命に練習して何とか歩けるようになり、一年遅れて小学校に入学しました。宮崎 香蓮さん:「少女時代っていうのは、どういったものでしたか?」松谷 英子さん:
「いいことなかったね。いじめにあいました。
歩く姿を後ろから真似するんですよ、男の子なんかは。
誰でもまっすぐ歩きたいけど。
私がしゅんとして学校から帰ると、母が『今日は学校で何かあったやろ?』って言うんですよね。気づいてね。
そいで学校でいじめられたことを話すと、次の日に(学校に)行って、この子は原爆で怪我してこういう体になったんだから、いじめないでやってほしいということをお願いしてくれました。
母は学校の門をどれだけくぐったかわかりませんね」

不自由な右手で自分の爪を切れるように

母親が心の支えだった松谷さんにとって、転機となったのは被爆者の仲間たちとの出会いです。被爆者団体の草分け的存在「長崎原爆青年乙女の会」に、中学生ごろから参加するようになりました。原爆で傷ついた者同士、辛い思いを共有するだけでなく、自立することの大切さも学びました。松谷 英子さん:
「ものすごくよくしてくれる友達がいて、その人に甘えて『ごめん、爪ば切って』ってお願いしよったんですよね。
そしたら、もう一人の友達が『自分のことは自分でせんばね』って」宮崎 香蓮さん:
「あ、え、厳しい…結構。私は、厳しい言葉だなっていう風に感じるんですけど」それは、原爆で家族全員を亡くした友達の言葉でした。松谷 英子さん:「できんとやっけん、切ってもろうて当たり前ぐらい、やっぱ思うじゃないですか。悔しくてたまらんやったけど、ずっと生活していく上で、あぁ、やっぱりね、自分のことは自分でせんばいかんね、と思いました」不自由な右手で持ったカミソリで左手の爪をきれいに切れるようになるまで、何度、指を怪我したか数え切れません。

養父母は「引き取ったばっかりに被爆させて申し訳ない」

母を亡くしてから、もう30年以上、このアパートに一人で暮らしている松谷さん。両親は、最期まで「自分たちが引き取ったばかりに被爆して、こんな体にさせてしまい申し訳ない」と言い続けていたそうです。“宮崎香蓮が知る被爆者の人生”
後編は、宮崎さんが松谷さんとともに被爆者の店があった場所を訪ね、被爆者の横山照子さんも交え、当時の思い出や被爆者運動の歴史に残る『松谷訴訟』を振り返ります。後編
「ハイヒールを履いて歩いてみたい」宮﨑香蓮が知る被爆者の人生~後編~【被爆78年 NO MORE…#4】(2023年8月4日 配信)

詳細は NEWS DIG でも!↓
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/nbc/642318

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