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取材&文:西澤裕郎
写真:大橋祐希

J-POPという言葉が生まれる以前から、日本の音楽とその周縁を見続けてきた音楽評論家・田家秀樹。そして、ゆるめるモ!のプロデューサーとして音楽による「居場所」を作り続けてきた、株式会社「音楽で君を守る・代表取締役」の田家大知。本対談は、評論家とプロデューサーという立場の違いを超え、「サブカルチャーとは何か」「中心ではなく、周縁から世界を見るとはどういうことか」という問いを、父と息子が真正面から交わした記録である。

1950年代の戦後文化から、深夜ラジオ、フォーク、ニューウェーブ、J-POP、地下アイドル、そしてAIが音楽を生成する2025年現在まで、語られるのは、社会の中心からこぼれ落ちた感情や人が生き延びるために必要だった音楽のかたち、その継承のあり方。「記す者」と「つくる者」。異なる場所に立ちながらも、共通して周縁に目を向け続けてきた二人の対話は、音楽と文化の未来を考える上で確かな指針を与えてくれるものとなった。

田家秀樹(たけ ひでき)
1946年生まれ。日本で最初のタウン誌「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに文化放送「セイ!ヤング」など若者番組の放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、ラジオ番組パーソナリテイ。著書に「読むJ-POP・1946~2004」「陽のあたる場所・浜田省吾ストーリー」「小説吉田拓郎・いつも見ていた広島~ダウンタウンズ物語」「風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年」「ラブソングス・ユーミンとみゆきの愛のかたち」など多数。放送作家として「イムジン河2001」で民間放送連盟賞最優秀賞受賞。日本のポップ・ロックを創世記から見続けている。

田家大知(たけ たいち)
1974年生まれ。株式会社音楽で君を守る代表取締役。ニューウェーブアイドル・ゆるめるモ!のプロデューサー。近年はアジアを中心に、日本のアイドルを中心としたライブイベントを海外で積極的に展開。著書に『ゼロからでも始められるアイドル運営 楽曲制作からライヴ物販まで素人でもできる!』(コア新書:大坪ケムタ、田家大知著)、『10年続くアイドル運営術~ゼロから始めた“ゆるめるモ! “の2507日~』(コア新書:大坪ケムタ、田家大知著)がある。

3人の縁の着地点、ゆるめるモ!「弱者大宴会」

――個人的にお二人の対談は念願だったので、とても嬉しく思っています。大知さんとは、僕が以前在籍していたOTOTOY時代から、ゆるめるモ!の取材などで付き合いがあって。

大知:僕と西澤さんはもう12年くらいの付き合いで。ゆるめるモ!の取材や、メンバーのスカウトに同行してもらったり、「アイドル・グループのつくり方~超実践編~」という講座をさせてもらったり。西澤さんがStoryWriterを立ち上げてからも関係は続いていました。

――一方、秀樹さんとは、僕が編集で関わっているRolling Stone Japanをきっかけに、2019年からお仕事でご一緒させてもらうようになりました。

秀樹:もともとは僕がFM COCOLOでやっている番組「J-POP LEGEND CAFE」をRolling Stone Japanが文字起こししてくれるという企画から始まったんです。文字起こしのやり取りだけで4〜5年は経っていたけれど、実は一度も会ったことがなくて。「一度、顔を合わせましょう」と編集者やディレクターと集まったときに、「田家さんの息子さんって、アイドルのプロデューサーの田家さんですか?」って聞かれて。全員、ものすごく驚いていました。

左から、田家大知、田家秀樹

――そこで、秀樹さんと地下アイドルシーンの話をさせてもらい、ラジオ番組でサブカルとアイドルについて特集したらおもしろいですよね、という流れになったんですよね。

秀樹:そう。僕は60年代、70年代、80年代、90年代と音楽シーンを見てきたけれど、どちらかというとメインストリームよりもサブカルチャー寄りのものを追い続けてきた。だったら日本のサブカルチャーをまとめて振り返る特集をやろうと。結果的に2か月にわたるシリーズになって、後の月を「新アイドル伝説 それはももクロから始まった」という地下アイドルの特集にしました。

――ももいろクローバーZから始まり、BiS、BiSH、BELLRING少女ハート、ゆるめるモ!、BABYMETAL、新しい学校のリーダーズを紹介したんです。最終週、秀樹さんが締めの曲として、ゆるめるモ!の「弱者大宴会」を提案してくれて。歌詞の中に、「カウンターカルチャー」という言葉が出てくるのと、弱い立場に立つ人たちの歌でもある。50年代からのサブカルチャーを総括して、あの曲に着地させる感覚にものすごく感銘を受けたんです。

秀樹:ゆるめるモ!で終わらなきゃいけないと思っていたんですね。なぜこの特集をやったのか、その着地点はそこにあるはずだって。あのまま終わっちゃ意味がないよねと。

大知:この3人の縁があって、ですよね。

秀樹:うん。サブカルチャー特集をやるなら、あの終わり方しかないと思った。

――大知さんとしては、50年代からのサブカルチャーを総覧した流れの最後に、あの曲が選ばれたことを、どう受け止めましたか。

大知:ありがたかったですね。いろんな曲がある中で、最後に「弱者大宴会」を持ってきてくれたということ自体が、自分たちがやってきたことをちゃんと見てもらえていたんだなという感覚につながりました。あの曲って、MVがあるわけでもないし、こちらから「聴いてください」と言わない限り、なかなかたどり着かない曲だと思うんです。だから、ちゃんと探して、ちゃんと聴いてくれていたこと自体が、すごくうれしかった。

 

――普段、ゆるめるモ!の活動について、親子で話すことはあるんですか?

大知:父はこっそりライブを観に来ていたりはするみたいで、後から「あの日行ってたよ」って聞いたりすることはありますけど、実家に帰っても子どもたちがバーッと走り回って、バーッと帰る、みたいな感じで(笑)。改まって「今、こんなことやってて」って話す時間は、あまりないですね。秘密にしてるわけじゃないけど、あえて言う機会がない、というか。

秀樹:下手に話し始めると言いたいことがいっぱい出てきちゃう(笑)。この業界のことも、それなりに昔から見てきてるから。でも、言われたくないだろうな、とも思うし。

大知:実際、「今のゆるめるモ!、面白くないよ」とか言われたこともあります(笑)。

70年代を通過した人たちが、どうやって「今の大人」になっていったのか

――ここからは、大知さんの幼少期時代の話をお聞きさせてください。いわゆる「ヒッピーみたいな家」で常に音楽が鳴っていて、いろんな人が出入りしていたというエピソードが印象的で、それが今の大知さんの活動のルーツなのかなと勝手に想像していたんですが。

秀樹:それはもう本人の記憶だから。彼の中に残っているあの頃がどういうものだったのかは僕が触れようがないし、触っちゃいけない部分でもあると思っていて。ただ、大知のインタビューを読んでいて、「そんなふうに記憶されてるのか」と感じることは結構あります(笑)。

大知:子どもの頃の記憶ってどんどん膨らんでいくというか、物語みたいになっていくところもあって。本当にいろんな人が家に来ていたんです。振り返ると、社会からちょっとはみ出した人たちというか、居場所を見つけにくい人たちが集まっていたんだろうなって。でも、それが自分にとっては、すごく自然だった。いわゆるアーティストというより、編集者だったり、飲み友達だったり、本当に雑多な人たちが朝まで飲んでいて、夜中にトイレに行ったら「こっちに来い」と呼び出されたみたいなこともありました(笑)。

秀樹:それはもう仕事柄ですよね。僕は放送作家として文化放送でレギュラー番組を12本抱えていて、一方でタブロイド判8ページの「セイ!ヤング」の機関紙をほぼ一人でやっていた時期もある。デザインを担当してくれていたのは、新宿プレイマップのアートディレクター。彼は電通出身で、フリーになってから一緒に仕事をしていた。自分で企画を立てて一人で書いて。放送作家の仕事も並行していたから、家では一日中、音楽が流れていましたね。

大知:本当に子守歌みたいにずっと流れていて。テレビのヒットチャートとは違う音楽が流れているのが、自分にはすごく馴染みがあった。あの環境が僕には普通だったんです。

――幼少期の体験がアイデンティティを形作っている、という感覚はありますか?

大知:あります。しっちゃかめっちゃかというか、ごちゃ混ぜな感じが普通だった。それが今の自分の好みにかなり直結していると思います。きちんと整理されたものより、少し崩れているほうが居心地がいいというか。家も正直めちゃくちゃ散らかっていましたけど、それをストレスだと感じたことはなかったですね。

秀樹:70年代半ばって、実はすごく妙な時代だったんですよ。大知は74年生まれでしょ? 70年代的な価値観と、そのあとに来るものが、ぐちゃぐちゃに混ざり始めた時期のど真ん中にいた。だから、ああいう環境になったんだと思う。

――80年代に入る直前の境目を幼少期に体感していた世代なんですね。

秀樹:70年代に、「Don’t trust over 30(30歳以上を信じるな)」なんてスローガンがあったんです。もちろん一部の人たちの間ですし、今思えばどこまで分かっていたのかなと思うけど、上の世代のようにはならない、みたいな意識は確かにあった。それが知らず知らずのうちに家の中の空気として伝わってしまったんだろうなとは思いますね。

大知:その感覚は確実にあって。もともと「反体制側」というか、自然とそっち側に立つ感覚が出来上がっていた。音楽でも映画でも選ぶ基準はいつも同じで、「その立場に立っているかどうか」。そこに一番シンパシーを感じるんです。それで70年代のことにも異常に興味を持つようになって。浅間山荘事件とか、当時の文献を読み漁って、図書館にも通って、「あの時代の空気って、実際どうだったの?」って父にいろいろ質問していました。あの時代を通過した人たちが、そこからどうやって「今の大人」になっていったのか。それが、すごく気になっていたんです。

秀樹:だから、今日こうやって改まった形で話をしていること自体が本当に想像していなかったことなんですよ。親子としてもそうだし、自分の仕事の延長線としても。その頃は40歳になってこういう音楽に関わって生活できるなんて、まったく思えない時代だった。アーテイストも40歳になったら現役は終わって、レコード会社に入って裏方になって部長か何かになっている。そんな未来しか想像できなかったでしょう。30や40という年齢は、当時の若者にとって途方もない「壁」だったんです。

――ラジオでも、その話はよくされていますよね。

秀樹:そう。ロックには、そういう歌がたくさんある。「大人になる前に死んでやる」みたいな感覚。27歳で亡くなったミュージシャンたち――ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンのような人たちを見ていたから、30歳すぎて生きてることすら想定できなかった。自分はフリーランスで、髪も長くて、放送局の中では完全に浮いた存在だったんですけど、だからこそ仕事が来た。ロックやフォークは、それまで局にいた人たちには語れない音楽だったから、「お前、こういうの好きなんだろ?」と、半ば軽んじられながら仕事が増えていった。その一方で、「これ、いつまで続けられるんだろう」と思っていた時期もありました。

――半ば、蔑まれるような感覚もあったんですね。

秀樹:「お前の仲間だろ」という扱いでしたよね。文化放送でちょっとしたボヤ騒ぎがあったことがあるんですよ。小さな火事だけど。当時は担当している番組が朝9時の生放送から深夜の「セイ!ヤング」までありましたから、朝局に行って、昼は喫茶店で原稿を書いて、夜またスタジオ、という生活だった。ある日、部長に呼ばれて。「お前、何月何日の何時何分、どこで何やってた?」って聞かれて。「下の喫茶店で原稿書いてましたけど?」って答えたら、「誰か証人いるか」「マスターが見てました」「だったらいい」って。ボヤの犯人探しで、真っ先に名前が挙がったのが、僕だった。

――えええ。犯人だと疑われたんですか?!

秀樹:そう。理由は簡単で、フリーパスで局に出入りできたから。当時は今みたいに警備も厳しくなかったし、夜中でも自由に入れた。しかも、新宿のタウン誌出身ですから、フーテンみたいな連中と付き合いがあるに違いない。「あいつ、怪しい」っていう存在だったんでしょう、たぶん(笑)。

――今から考えると、かなり強い偏見ですよね。

秀樹:僕らの音楽自体がそう見られてましたからね。松本隆さんがよく言っていたけど、70年代には、はっきりした線が引かれていた。あっち側が「芸能界・歌謡曲」、こっち側が「シンガーソングライターやバンド」。向こうから見れば、こっちは「髪の長い、生意気な連中」だったんでしょう、たぶん(笑)。

――そこまで明確に、分断があったんですね。

秀樹:松本さんは、それを意識的に越えていった人なんですよ。「言葉で、この壁を壊すんだ」という明確な目的を持って芸能界側に入っていった。それが松田聖子の時代になって、ようやく境界が溶け始めた。でも70年代は壁が厳然としてあった。テレビには出られない。相手にもされない。文化放送でも制作フロアが分かれていて。2階が歌謡曲、3階がフォークやロック。出入りする人間も、まったく違う。交流は、ほぼなかった。

――まさに「こちら側/あちら側」だったんですね。

秀樹:そう。だから、29歳の時に「この仕事、やめよう」と思ったことがあるんです。

大知:やめて、何をしようと思っていたの?

秀樹:就職しようと思った。それで新聞の三行広告で求人募集をしていた小さな出版社に応募したの。「こんな先の見えない仕事で、子どもを育てられるのか」って不安になって。まともな就職試験は全部落ちていたけどそこは通った。試験が作文だったから(笑)。でも提示された給料が、その時の自分の年収の半分だった。しかも、社長に言われたよ。「君は、うちみたいな会社に入らない方がいい」って。結局踏みとどまったけど……あの時は、本気で迷ってました。

――その後、「こっちの道でやっていくんだ」と腹をくくった感覚はあったんですか。

秀樹:いや、ずっとぐしゃぐしゃで迷いっぱなしでしたよ(笑)。

大知:そもそも、僕は「ぐしゃぐしゃ」しか知らないんですよ。会社員として働いて、出世して毎日決まった時間に出勤してって、ライフスタイルを、身近で見たことがない。だから、それが「普通」だとも思わなかったし、こっちが当たり前の環境になっていた。

父子家庭での体験

――大知さんは、他の家庭と違うという違和感はなかったですか。

大知:小学校高学年とか中学生くらいの頃に、「あれ、ちょっと周りと違うのかな」と感じるようにはなりました。でも、「そっちに行きたい」とか、「これが嫌だ」とか、そういう発想にはならなかった。サラリーマン家庭が世の中の大多数だと言われても、自分はこっちしか知らないから、向こうの世界のほうが薄く見えた。現実味がなかったという感覚です。かといって、「反面教師にして、きちんとした暮らしをするぞ」という方向にも行かなかった。この感じのほうが、居心地がよかったんですよね。

――父子家庭での体験は、書籍『主父の意見―教えてほしいFather and Son』(主婦の友社/1988)にもまとめられていますよね。

大知:ちょうど僕が思春期で、かなりデリケートな時期に発刊されて。

秀樹:たまたま浜田省吾さんを描いた本が出た時と重なっていて。そっちは10万部単位で売れましたからその流れもあったのと、当時は父親が子育てをするということ自体が普通じゃなかった。「父と息子の二人暮らし」というだけで、話題になってしまったんです。

大知:僕、その連載があること自体、最初はよく知らなかったんですよ。内容も把握してなくて。今思えば気にしすぎなんですけど、小学生だったから、「これクラスでどう思われるんだろう」って不安でいっぱいになって。それでショックを受けて、「ここ直して」「ここも直して」って言い出して、結果的に初版が書店に並んだあとに回収することになったんです。

秀樹:学生時代のゼミの先生に頼んで学生の手を借りて回収したんですよ。

大知:家の中では、もう大事件でした。

秀樹:でもね、一度に大量回収すると、どうなるかっていうと……売れたことになるんですよ。結果的にベストセラーランキングに入っちゃった。オリコンのランキングに入れるためにサクラを雇ったのと、同じことになって。レコードを自分で買い占めるのと結果は一緒。再版決定(笑)。

大知:僕としては、もうこれ以上、騒ぎにしたくなかったんですよ。でも、その行動自体が、結果的に一番騒ぎになっちゃった。

秀樹:椎名誠さんも息子さんとのことを書いた「岳物語」というエッセイがあって。売れたあとに、やっぱり親子関係が難しくなったみたいな話を、どこかで書かれてました。

大知:誰かに言われましたよ。「あれより面白かった」って。

秀樹:面白かったかもしれない。状況自体が、特殊だから。

――具体的には、どんなことが書かれていたんですか?

秀樹:父親の子育て日記ですね。今はもうなくなってしまった求人雑誌で連載していて、毎週、「今週こんなことがありました」っていう本当に日常の記録。自分のために残しておきたかった、というのも大きかった。こんな生活をしてる人、他にいないだろうし、どこかに記録しておきたいなって。

大知:冷凍食品の話とかも書いてあって。「エビピラフが便利で、レンジでチンするだけで食べられる」みたいな。でも、当時の僕からすると、「それ、恥ずかしい話じゃない?」っていう感覚だったんです。ちゃんとした手料理を食べてないって知られたくない、みたいな気持ちがすごくあった。

秀樹:「我が家の食卓」なんて書いてね。

大知:エビピラフが得意料理、みたいな書かれ方で(笑)。いや、それは恥ずかしいよって。

――そこから時間が経って、今振り返ると当時の生活はどう見えますか。

大知:今は、単純に面白いなと思います。世間から見たら、かなり特殊だったと思うし。当時はシングルファーザー自体が珍しかった。しかも普通のサラリーマンじゃなくて、仕事で家にほとんど帰ってこない。祖父母が来てくれたり、遠出の仕事にはコンサートに連れて行かれたり。今、自分が父親になって、同じ立場で考えると、「あれは相当大変だったんだろうな」って、ようやく分かるようになりました。

――相当な仕事量の中で子育てを両立させていたのはすごいことだと思います。

秀樹:妙な言い方ですけど、諦めたというか。「ここで一回、人生を降りるんだ」と思った。みんなと同じようにバリバリ働いて走り続けるという場所からは抜ける感じですね。仕事を減らす、というより、「降りる」という感覚に近かった。後になって「番組の打ち合わせ中に子供の飯だからって帰っちゃうんだぜ」って言われて笑い話になったりもしましたけど、そのときは「なんなんだ、あいつ」って思った人も多かったでしょうね。でも、毎晩飲み歩くより健康的でしたよ(笑)。

――仕事を減らすことに、不安はなかったんですか。

秀樹:迷いは、そんなになかったですね。「やらなきゃいけないこと」でしたし。それにジョン・レノンもシングルファーザーだった時期があるでしょう。「ハウスハズバンド」という。だから悲壮感は、あまりなかった。みんながコンサートを見ている時間に、僕はスーパーで買い物しているみたいな状況がだんだん面白くなってきたりして。もちろん、祖父母の助けがあったから、地方公演の取材にも行けた。全く仕事をやめたわけじゃない。「人生をやり直そう」ということだったと思います。ジョン・レノンが支えだったことは確かです。

エクストリームな反抗期

――大知さんが中高生の頃、ほとんど口もきかない時期があったそうですね。

大知:かなりエクストリームな反抗期でした。僕、性格的に極端なんですよね。平和か、完全にシャットアウトするかみたいな。ある時、スイッチを入れたんです。「もう、何も話さない」「目も合わせない」って。部活で何のクラブに入ってるか、どこの高校を受けるかも聞かれても答えない。中高6年間くらい、ずっとそんな感じでした。テレビで見る反抗期って、「うるせえな!」みたいなのが多いじゃないですか? あれって、すごく甘えだなと思っていた。だから、もっと反抗してやろうと思って。怒鳴るんじゃなくて、「家庭内無」。存在を消す、みたいな反抗を選んだ。

――反抗期に入った、きっかけは何だったんですか。

大知:具体的に何かきつい出来事があったというより全然違う感覚でした。環境的には、世間と比べたらかなり特殊だったと思うんですけど、自分では「恵まれている家」だと思ってたんです。祖父母もいて手厚く育ててもらっていたし。でもある時から、それが「過保護なんじゃないか」と思うようになった。システム自体に反抗したくなった、という感じだったと思います。

――自分の力でやってみたい、という感覚に近い?

大知:そうですね。当時の日記か走り書きに「家庭との闘争」みたいなことを書いてた気がします。過保護な仕組みそのものに穴を開けたい、みたいな感覚があったんでしょうね。

秀樹:でも、一般論としても家庭に対してそういう感情を持つのは、特別なことでもなかったと思いますよ。寺山修司さんにも「書を捨てよ、町へ出よう」という本や「母を殺せ」という言葉もありました。家庭という枠組みから外へ出る、大人なるための通過儀礼みたいな。だから、そうなるかもしれないなという気持ちは、どこかにありました。

――6年間、ほとんど会話をしないというのは、父親として、寂しさはありませんでしたか。

秀樹:覚悟はしていました。極端な話、ナイフを持ったらどうしよう、何かあったら「俺を殺して出ていけ」と言うしかない……大げさに言うとそれくらいの精神的な覚悟はどこかでできていたと思います。学校で「尊敬する人」というアンケートを見ると、「父」と書く子も多かった。でも僕は、そうなってほしくなかった。世の中にはもっと立派な人がたくさんいる。父親を理想の男性像にしてしまったら、その先の視野が狭くなる。自分で見つけてほしい。だから、何を聞いても答えない、会話が成立しない時期があっても、それは仕方ないことだと思うようにしてました。

大知:たぶん父の考え方がちゃんと受け継がれていたんだと思います。「尊敬する人=父」って書く発想は最初からなかった。誰かにそう書けと言われたわけでもないけど、そうならないように育てられていたという感覚があります。

秀樹:フリーランスの世界って、打ちのめされることの連続だから。世の中にはこんなにできる人がいる、自分は何もできないじゃないか、って思わされる。その中で、自分なりのやり方や隙間を探しながら見つけていく。それを「理想」だなんて言われたら、言われた方にとってもしんどいでしょう。

――今お会いしているお二人からは、なかなか想像できない時代です。

秀樹:別人だと思ったほうがいいですよ(笑)。

大知:本当に家にも全然帰らなかったし、今とはまったく違います。そのあと一人暮らしを始めてから一気に変わりましたね。会う頻度も減るし、たまに帰ると、自然に話せるようになっていった。大学に入ってから反抗期は終わりましたね。

センチメンタリズムとは真逆の世界一周

秀樹:卒業する前に世界一周に行ったでしょ? あれは大きかったんじゃない。

――大知さんが世界一周に出ようと思ったきっかけは何だったんでしょう?

大知:あまり深く考えてなかったんですけど、大学4年の時、このまま就職活動に入るのは違うなと思って。だったらこの1年をちゃんと使いたい。そう思って休学しました。それまでにチュニジアとモロッコを一人で旅した経験があって、「もっと世界を見なきゃいけない」と自然に思っていた。だから休学して、お金を貯めて行こう、という感じでした。

――秀樹さんから、何か助言はありましたか。

秀樹:海外に出ること自体には、まったく違和感はなかったですね。ただ、彼が出ていく時に言った言葉は、よく覚えています。「これで何かが変わるとは思ってない。でも、今の自分にできるのは、これくらいしかないと思う」って。

大知:過度な期待はしたくなかったんです。いわゆる「自分探し」みたいなものもまったくなかった。インドで安宿に泊まった時、壁に日本語で「思えば遠くに来たもんだ」って書いてあって。その感覚に、すごく違和感を覚えたんですよ。自分に酔っている感じというか、センチメンタリズムが、どうしても嫌だった。僕は、そういうために旅しているわけじゃないって。むしろ、「世界一周してない自分が、ここに存在している」状態が気持ち悪くて。少しでも「やろうかな」と思っているなら、一度潰してから次の人生に行く。そんな感覚で、出ました。

秀樹:当時、沢木耕太郎さんの『深夜特急』は、読んでいたんだよね?

大知:読んでました。でも、「読め」って言われたわけじゃなくて。自分でみつけて読んでいた記憶があります。

秀樹:沢木耕太郎さんは、まだ単行本を書く前、TBSのPR誌で書いていた文章がとにかく素晴らしかった。後になってゴールデン街で会ったこともあるんだけど、そういう書き手に惹かれていく感覚は分かる気がします。当時は沢木さんもそうだし、編集者も含めて、たいていどこかでつながってましたね。

大知:僕の明治大学時代の同級生で、いま音楽ライターの土佐有明さんのお父さんはマガジンハウスの編集者で、うちの父とも仕事で一緒になったこともあったり。

――土佐さんも、カルチャーへの造形が深いですよね。今みたいにインターネットもなくて、カルチャーにアクセスするのが簡単じゃない時代、家に音楽や本が自然に集まってくる環境というのは、その後のカルチャーへの理解にかなり大きかったのではないですか。

大知:今振り返ると大きかったと思います。友達からも「すごく恵まれた環境だよね」って言われました。ただ、当時はそれがすごく嫌だった。「お前が音楽好きなのは、その環境のおかげだ」って言われてる気がして。関係ないよって思っていました。でも今は、やっぱり特殊で、恵まれていたんだなとは思います。

――そんな中、大知さんが最初に自分で買ったレコードは、安全地帯だったそうですね。

大知:テレビの『ザ・ベストテン』で、安全地帯の「悲しみにさよなら」を聴いて、「なんていい曲なんだ」って思ったんです。家にあるだろうと思って探したらなくて。レコード自体は山ほどあったんですよ。チェッカーズとかCCBみたいな当時流行っていたものも普通にあった。でも、「悲しみにさよなら」だけが見つからなくて、それで「これ、欲しい」って言って、買ってもらったんです。

秀樹:自分が書くとは思ってなかったのかもしれない(笑)。

 

――そのあたりの線引きは、すごく面白いですね。

大知:家には本当に尖った音楽も、超・歌謡曲も、メジャーもアングラも全部あったんです。その環境は、間違いなく自分の音楽の好みに影響していると思います。「どっちか一方」じゃなくて、分けて聴く両方好きという感覚が自然に身についた。家を出てから見つけた「自分の音楽」は、そういう下地の上にあった気がします。

――それから、大知さんはニューウェーブやオルタナティブに向かっていくわけですよね。

大知:それは完全に大学に入って家を出てからですね。中古CD屋を巡って洋楽のバンドを一気に掘り始めた。家には、ザ・ビートルズやローリング・ストーンズみたいな王道の洋楽はあったけど、ニューウェーブや当時の最新の洋楽はあまりなかった。だからこそ、自分で探すときに、どんどんニューウェーブやオルタナティブのほうに惹かれていったんだと思います。「音楽を“自分のものにしていく”体験」は、そこから始まった感じですね。

――カルチャーとの距離感がそこで一段階変わった。

大知:そうですね。家にあったものを受け取るだけじゃなくて、自分で潜っていく、という感覚。バンドをやっていた時期に、「ミュージシャン向けマンション」みたいな、防音設備が整った、めちゃくちゃ小さいマンションに住んだことがあって。

秀樹:「ミュージション」って名前だったよね?

大知:そう、ダジャレみたいな名前で(笑)。

秀樹:僕から見ても、仕事をやるにしてもサラリーマンにはならないだろうな、とは思ってたんです。ただ、音楽だけは行かないだろうし行ってほしくないなとは思ってました。

大知:それは、不安定だからですよね?

秀樹:そう。不安定だから。大変だということを身に染みて分かってた。それに嫌だろうなと思ったんですよ。僕の周りの人間関係とか業界の空気とか、そういうしがらみというか重荷というか。だから音楽の世界に行っても、ろくなことがないかもしれないって、正直思ってました。

後編に続く

■リリース情報

音楽評論家・田家秀樹がパーソナリティを務めるFM COCOLOのラジオ番組「J-POP LEGEND CAFE」が書籍化!

「J-POP LEGEND CAFE」 ARTIST selection Vol.1 中島みゆき
2025年12月発売予定
予価:2,200円(税込)
発売元:株式会社CEメディアハウス
Amazon URL https://www.amazon.co.jp/dp/4484221462

ゆるめるモ!イマーシブライブツアー「ろくろ首の泥棒逃走記-あなたの虚無をいただきます-」
2026年2月11日@大阪・STARBOX
2026年2月21日@仙台・SpaceZero
2026年2月22日@茨城・水戸SONIC
2026年2月28日@東京・渋谷Veats
2026年3月1日@兵庫・太陽と虎

ゆるめるモ! Official HP:https://youllmeltmore.fanpla.jp/
田家大知 X:https://x.com/TaichiTake

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