【幻の札幌五輪】「ジャンプ台に向かう時とは違った緊張ぶり」1940年の開催決定も戦争で中止 有力候補の若きジャンパーは特攻へ出撃~母への遺書に綴った言葉 戦火に散った人生をたどる
日本勢のメダル獲得が続く、イタリアで開かれているミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック。戦前の札幌でも、そんな華々しい舞台に立とうとしていた選手がいました。幻と終わった1940年(昭和15)の札幌オリンピックをご存知でしょうか。
◆《幻と消えた札幌五輪…ジャンプ競技の有力候補》
札幌のマチを一望でき大倉山シャンツェ。長いアプローチが真っ直ぐに伸びている。1972年(昭和47)、冬のオリンピックが札幌で開かれた。しかし、その遥か以前の1940年(昭和15)、戦前の札幌でオリンピックが開かれるはずだった。
ジャンプ競技の有力候補だったのが、北海道・小樽市で生まれ育った久保登喜夫さんだ。
運河のマチ・小樽は、かつてスキー王国と知られていた。旧制小樽中学のスキー部には、多くの強豪選手が所属。久保登喜夫さんも、その一人だった。
1936年(昭和11)には、スキー部員の4人が、ドイツで開催されたガルミッシュ・パルテンキル冬季オリンピックに出場。部員の一人である伊黒正次選手が、ジャンプ競技で7位となる健闘を見せた。そして、次の冬季オリンピックの開催地が、札幌だった。
◆《開催中止で札幌五輪の有力候補は…特攻隊へ》
久保登喜夫さんは小柄ながら、身体能力に長け、国内のジャンプ競技で数々の好成績をあげ、札幌開催が決まっていた冬のオリンピックへの出場が確実視された。だが、久保登喜夫さんが、晴れの舞台に立つことはなかった。
2月初め、1人の男性が、小樽にある浄暁寺を訪ねた。この寺に、戦前のジャンプ選手、久保登喜夫さんが弔われている。寺の納骨堂を訪ねたのは、札幌のメディア・プロデューサー、久保俊哉さん(68)だ。父親が、登喜夫さんといとこ同士で、子供の頃から折に触れ、登喜夫さんの存在を聞かされていた。
久保俊哉さん(68)
「父が教えてくれなかったら、もちろん登喜夫さんを知ることもなかったし、父もスキーの選手だったから、登喜夫さんは自慢の“いとこ”という感じだったのではないか」
浄暁寺の納骨堂には、久保登喜夫さんの母、タマさん(享年91)の遺骨が安置されている。傍らには、寄り添うように親子の写真が並んでいた。ただ、ここには登喜夫さんの遺骨はない。
終戦の年、1945年(昭和20)4月28日、登喜夫さんは、鹿児島県にあった特攻隊の前線基地から沖縄へ出撃。故郷の小樽に戻ることはなかった。久保登喜夫さん、23歳の春だった。
◆《アジア圏初のオリンピック開催…テレビの実験構想も》
小樽で生まれ育ち、戦前の札幌オリンピックを控え、有力な候補選手と見られていた久保登喜夫さん。ジャンプ台から、大きく腕を広げ、登喜夫さんが空中に飛び出す瞬間の写真だ。
札幌オリンピックの開催期間は、1940年2月3日から12日まで。当時はまだ、夢の技術だったテレビ中継の実験構想もあった。
札幌都心にある中島公園に競技会場を新設して、アイススケートやアイスホッケーなどを実施。今も札幌市民の憩いの場である公園の菖蒲池は、練習場となるはずだった。
ほかにも中島公園には、フィギュアスケートの会場を設ける計画が…。そして、札幌のマチを見渡せる幌見峠には、日本初のボブスレー・コースも建設。
さらに、ジャンプ選手の晴れ舞台は、大倉山シャンツェに…。久保登喜夫さんも、札幌の空に飛び出すはずだった。
◆《日中戦争で国内外から異論が噴出…札幌と東京大会の開催権を返上》
だが、時代が開催を許されなかった。1937年(昭和12)に日中戦争が始まると、日本に対して国際社会から強い非難が集まり、国内では物資不足などが顕著になっていく。やがて、オリンピック開催について、軍部からも異論が噴出していく。
日本は結局、札幌と東京で決まっていた、1940年の冬と夏の大会について、IOCに開催権を返上。実現すれば、アジア圏初となるはずだった冬と夏のオリンピックは、戦争という時代に飲み込まれ、幻に終わった。
◆《がんを発病し〝生と死〟の際に…不条理に立たされた人生を辿って》
夢の舞台を失い、戦場に散った若きジャンパー、久保登喜夫さんは、その後、どんな思いを抱えて生きようとしたのか。父親が、登喜夫さんといとこ同士の、久保俊哉さんは今、その人生を辿ろうとしている。
久保俊哉さん(68)
「私にがんが見つかった。担当医の先生曰く、はっきり言うんだよね。治療しなかったら余命半年って…。久保登喜夫に限らずだけれど、不条理の中に、多くの人がいるのかなと思ったり…ちょっと(自分と)重なるところがあるんですよね」
久保俊哉さんに中咽頭がんが見つかったのは、3年前のことだ。生と死の際(きわ)に立つ自分と、生きる道を奪われた登喜夫さんが、重なって思えたと話す。
◆《幻の札幌五輪から特攻へ…若きジャンパーが母に宛てた遺書》
生きては戻らない、死ぬことを前提にした特攻。久保登喜夫さんは何を思い、出撃に臨んだのか。
心を知る唯一の手掛かりは、広島県江田島市にある海上自衛隊第一術科学校に保管されている、登喜夫さんの遺書の写しだ。
母親の久保タマさんに宛てた最後の言葉が綴られている。
【久保登喜男さんの遺書より(一部抜粋)】
「4月28日…本日、沖縄に飛んで、敵艦船に体当たりします。スキーの大会で、ジャンプ台に向かう時とは、また違った緊張ぶりです」
「御奉公できる喜びに胸は躍ります。私がスキーで家にいなかったので、母上はどんなに寂しかったかと思います。母上より先に、父上に会います」
「本当にこれが最後です。兎に角、立派に散る覚悟です。呉呉れも、御身体大切になさいますよう祈ります。登喜夫、母上様」
軍による検閲があった時代。もうこれ以上、生きることが許されない最期の日に、どこまで心の内を残すことが出来たのか。23歳の生涯を閉じた久保登喜夫さん。もはや本当の思いを知ること叶わない。
◆《久保登喜夫さんの出撃直前まで、行動を共にした札幌の元特攻隊員》
久保登喜夫さんは学徒出陣後、名古屋で編成された特攻隊『草薙隊』に所属していた。終戦までに『草薙隊』の隊員80人のうち、63人が戦死した。
元隊員の坂倉耕造さんが、札幌に暮らしていた。今から8年前に亡くなった坂倉さんは、2014年の取材で、久保登喜夫さんについて話している。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳・2014年取材)
(これに乗って行ったんですか?)
「そう…特攻にはね」
取材当時、かつて『草薙隊』の隊員が搭乗していた九十九式艦上爆撃機、通称「九九艦爆」の模型を大切に保存していた。
1945年(昭和20)4月28日、旧日本海軍が特攻隊の出撃拠点としていた『国分第二基地』(鹿児島県霧島市)で、坂倉耕造さんと久保登喜夫さんは、ほかの草薙隊の隊員とともに、出撃の命令を待っていた。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳・2014年取材)
「登喜夫さんは小柄で、あまりしゃべらない、本当に大人しい人だった」
「彼は二番機で、俺は三番機だったからね。姿を見てはいたけど、会話する暇なんてないわ。特に俺の飛行機は、エンジンがかからずもたついたから…だから自分は助かった」
◆《元特攻隊員「これが本当の戦争…」~戦火に散った若きジャンパー》
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳・2014年取材)
「特攻って言われても、ピンと来ないんだよ。(自分たちも)戦争を体験していないし、敵の飛行を見ていないし。それが前線基地に行ったら、敵の銃撃はあるし、爆撃はあるし、目の前で人は死ぬし…あー、これが本当の戦争だと思ったのは、九州へ行ってからだね」
草薙隊の中では、ジャンプ選手であることも、オリンピックの有力候補の一人だったことも、久保登喜夫さんは、決して語らなかったという。
元特攻隊員 坂倉耕造さん(当時87歳・2014年取材)
「運動神経もいいし、飛行時間も少ない中でも操縦で選ばれているんだからね。そうだねぇ…あの人だったら、立派なジャンパーになっただろうな」
◆《五輪出場の夢を戦争に奪われ、大空へ飛び立ったジャンパー》
札幌のメディア・プロデュサー、久保俊哉さんは20年前、『札幌国際短編映画祭』を立ち上げ、いまも中心メンバーとして活動を続ける人物だ。映像制作にも詳しく、特攻に散った悲劇のジャンパー、久保登喜夫さんの人生を映像化して、後世に残したいと考えている。
2025年12月には、鹿児島県霧島市にある旧日本海軍『国分第二基地』の跡地を訪ね、久保登喜夫さんの名前を見つけ、カメラに収めた。
久保俊哉さん(68)
「久保登喜夫っていう名前が出てきて、ここから飛んだんだなっていうのがわかったんです」
2月、久保俊哉さんの姿が、小樽市の天狗山にあった。かつてスキー王国と知られ、ここ天狗山にも大きなジャンプ競技場があった。
久保俊哉さん(68)
「天狗山から見る港を見ながら(登喜夫さんは)滑ったり、飛んだりしてたのかなとか。日本のジャンプ選手と特攻隊と重ねてしまうんですけれど、“日の丸飛行隊”とも言われているし、飛ぶっていう行為もまったく同じで、でも飛ぶ意味が違くて…」
「ジャンプ選手として、栄光つかむために努力してきたことが、戦争で全然違う方向で飛んでいくわけですから」
夢を掴むことさえ、許されなかった時代があった。札幌が、晴れの舞台となったのは、幻のオリンピックから32年後、1972年(昭和47)のことだった。
◆《名門スキー部のジャンプ選手の多くが、学徒出陣で特攻隊へ》
堀啓知キャスター)
1972年開催の札幌オリンピックは、地下鉄開通など、札幌のマチを大きく変える契機となりました。競技では“日の丸飛行隊”と呼ばれた日本ジャンプ陣の3人が、当時のジャンプ競技70メートル級(現在のノーマルヒル)で、金銀銅メダルを獲得して表彰台を独占するなど、歴史的な冬季オリンピック大会として、いまも語り継がれています。
世永聖奈キャスター)
久保登喜夫さんは、1940年開催の札幌オリンピック中止後、明治大学進学します。名門スキー部に所属し、多くの仲間たちとジャンプ競技で活躍していましたが、学徒出陣で、ジャンプ選手の多くが、空中での飛行姿勢の良さなどから特攻隊に送られ、ほとんどが戦死したとのことです。
堀啓知キャスター)
夢を掴むことが許されなかった時代、一人の選手の人生から、戦争が奪い去ったものの大きさを感じます。忘れてはいけないオリンピックの歴史です。
【2026年2月16日(月)『今日ドキッ!』特集より】
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