徹子の部屋 内容:「“着物愛好家”として活躍!66歳で逝った父の“最期の言葉”」出演:近藤サト

[音楽] 今日は素敵なおき物を色々お持ちいただき ました。現在着物の魅力を発信する着家と しても活躍なさっています。今日のお客様 はアナウンスの近藤佐藤さんです。子供の 頃からテレビに憧れ、大学新学では岐阜 から状況背中を押してくださったのはなき お父様です。色々お話伺していただきたい と思います。よろしくお願いいたします。 またフテレビのアナウンサーでいらっしゃいまして、ま、色々なレーターのお仕事やその他忙しく、ま、着物の魅力を発信するとか 公演などもしてらっしゃるということですが、 置き物は子供の時から好きでした。 はい。あの、子供の頃から好きで憧れていたんですが、私が子供時代っていうのは毎日のようにテレビで時代劇があったんです。 そうでした。 はい。 うん。ありましたよね。 可愛い。可愛い。こんなね。 はい。 ですので、あの、日常的に、え、着物を着たいとか、あの、着物を着たスターに憧れる、え、というところから自然にあの、着物が好きになっていたんですが、ただもう時代は高度経済成長期で母は一切着物を着なかったですし、ただ祖母はですね、あの、いわゆる趣味で、え、糸を、え、なんですか、結び糸っていう、ま、そういったものをしていたんですね。 [音楽] あの、切れ端の糸を木糸をあの木の糸をこう結んで 1 本にしてで、またそれを立て直すみたいな趣味でやってたんですね。で、自分でも塗ってましたし、ま、そんな環境があって、ま、あの、じて、あの、少しずつ集めるようになったっていう。 今日のお召になってしましょう。肝、どういう? はい。今日のはですね、え、沖縄の便型でございます。 あの、ヤさ子さんという、ま、現代の冥光ですよね。 あの、私大好きな女なんですが、いわゆるあの沖縄染物折り物ありますけど染物になります。 あのご覧なって分かるようになんて言うんでしょう?あのちょっと瓶型っていうと派手なイメージ形がうん。 赤とか黄色とかはい。 あの、なんですけども、え、ま、都会の人でも、東京の人でも、北海道の人でも切られるようになんとなく最近は色合いが、え、ちょっと落ち着いたものだったり、シックなものになってる感じですね。 ちょっと立ってみていただいてよろしいですか? はい、ありがとうございます。え、こんな感じで、これは一応顧問なんですけれども、あ、 綺麗ね。あの、 ありがとうございますね。近くに寄っていただくと これブービリアの花。 あ、そうなんですか。ブービリア。 そうです。はい。風原ビリアガ。 はい。 おお。 これはあの作者の方がま、沖縄の風物を移しとっていろんなものを皆さん海だったり、え、山だったりも映してるんですけど、 分細かいんですね。 細かいんです ね。すごいですね。そばで拝見すると。 そう、これはですね、あの、占ではなくて眼僚を使いますので、 あの、便型の攻防に行きますと、さ、あの、 日本画のアトリエ うん。に伺ったようなもさん。 そうです。もう乳バでもう本当にあの好物を吸って はい。みたいな感じでとってもすご物なんですか? 主にそういったものが入ってますのでなのでもちろん洗料はね、あのありますけれどもうん。 はい。 なんか沖縄県の島沖縄大使今年任命されてらっしゃる。 はい。そうなんです。 え、ま、あの、好きが講じて、あの、沖縄のものをこう本当にあの、素敵だなと思う中で、え、ただ着物が素敵だけではなくて、その着物が生まれた背景とか文化とかそういったものを、え、学ぶうちにこれは、え、すごく深いものが うん、 あるぞっていうことに気づいて、えっと、それをとこでお話ししてましたら、あの、沖縄県の方に、え、是非それを広めてもらえないかということで、白島沖縄大使というのに任命していただきまし ちょっと後ろの着物のご説明お願いいたします。 はい。はい。えっと、ま、このように着物が好きになる以前にどういった経緯をたってきたかと申しますと、あの後ろにあります。これあのまう つ麦なんですけども、これ牛首 うん。麦。 はい。 それも沖縄なんですか? いや、違います。 これはですね、あの、石川県の白産地方のもので、あの、私が初めて自分のお給料で買った置き物ですので、そうなの、 え、30年ほど前に でも高かった、やっぱり 高かったです。 40万ぐらいしましたね、当時。そんな そうなんです。 で、劇よりずっと高い。 激給より高かった。で、えっと、でももう 、あの、これ高橋おむさんって作家の方が いらっしゃって、その方が着物にままる 素晴らしい小説をたくさんおかきになって たんです。で、その中にも登場して非常に 感化されまして、で、え、このできたその 牛首の、ま、特徴のよく見ていただくと 横糸がちょっとこう節が出てるんですね。 でのは玉眉、眉子さんって普通1等で1つ の眉を作りますけども、2等で一緒の眉を 作ることがあるんです。うん。 ままでこんな大きくなるんですけど、そうすると 2 頭のあのわゆる糸が混ざってますから、ま、綺麗な 1 本の糸はできない。節がつく。でもそういったものは昔は捨てられていたんですが、ま、クズという風に言われたんですが、それを横糸に入れるとこんな素敵なのあるもので、 非常に丈夫です。 うん。 あの、光沢があって 丈夫です。私、あの、この着物は唯一すり切れるまで来ました。 あ、そうなの? はい。それで下面になったものなの?もうすでに。 そうです。 ええ、えっと、で、えっと、下手会をしたばかりです。 すごく新しいものに見えます。 はい。もうすり切れるまで来て替えをいたしました。うん。 はい。 で、あの、こちらのちょうどやっぱり着け物が好き好きって言ってますと、こちらを制作されたあの、メーカーさんにもお会いすることができて、わあ、懐かしい着物っていう風におっしゃっていただきました。 はい。 ちょっと近くに寄っていただいていいです。カメラでどのぐらいまで寄れますかね?今おっしゃったように。 横糸。あ、見えますね。 節が横にあの節が付いてるんです。 本当だ。あ、本当ですね。 はい。これがもう玉まゆというまあ 2 頭が、え、あの作った糸っていう証拠になるわけですね。はい。 向こうのはい。お着物はよろしいですか? こちらも元古くてですね。こちらは、え、 37年前でございます。 年私の着物が大好きだったので、あの成人式の時に、 え、母があの振り袖どうするって話になりまして、でも振り袖はしょちゅ切られないから、振り袖はもう借りたものでいいからあの訪問作ってほしいという風に頼みまして、振り袖の代わりに親に買ってもらったの。 はい。なん、なんていう種類の折り物ですか?それは。 はい。 これあの香が優でして、え、こちら成竹た友智さんていう方があの優先作家官の方が作られたものなんですが、あのこれもありがとうございます。 [音楽] いわゆる香川のあの今代表的な、え、綺麗 な葉っぱの中にも枯れた花がある、枯れた 派があるというものが入っていて代表的な ものなんですが、これも後にあの香に行き まして、え、香前の貝というようなところ に呼ばれて、え、年白になってから日目を またあのはい。これも仕立て替えをして おります。そう。あ、そうなのでも綺麗模 がね。え、そうですね。 色はピンクと言ってちょっとピンク ピンクそうですね。あのサーモンピンクと言いますか、ちょっと サーモンピンクの薄いのね。 はい。今のとなってはちょっと派手かなと思うんですが、ただ肝って不思議とあの何歳になっても切られますので そう思います。 はい。 へえ。素敵。 やっぱりなんかあのこういうの見てるとやっぱり輝然とか共有優然っていうのはサスペンスドラマになるわねと思で 本当にね。 なかなかあのつはサスペンスっぽくないですけど、優前はサスペンスっぽいなと思って。 なるほどね。もう綺麗ですね。 でもおになってから 30 年以上経つんだそうですけどね。随分になったそうですけど綺麗にね、残してらっしゃんで良かったですね。 そうですね。あの本当にこんな場にあの持ってこさもありがとうございます。喜んでおります。着物も 本当そしてもう 1つ是非ちょっと はい。1 枚見ていただきたいものがありまして、これあの今日私があの持ってきた着物の中で基女家の沖縄の馬勝負というものなんです。で名前はね、そうですよね。 そうなんです。で、えっと、勝府であのわゆる、え、冥光から人間国報になられた、え、平俊子さんのあの お作りになったものなんですね。 え、で、着物が好きだっていう中で、やっぱり最終的に、ま、 20 代ですけど、平俊子さんの名は轟いていましたから、 その方の工房を尋ねてみたい。その方のおったもの実際触れてみたいという思いで若い頃に基助までありたんですけど、 ちょっとあの、あんな、あんな格好しておりますけれども、え、伺いました。 で、まだあの人間校になられる前だったんですけれども、こりまして、で、是非さんのあの置き物が欲しいって言ったんです。ここは工房だから売ってないわよっていう風におっしゃられてで、那覇の三越まで戻って、 で、これ高かったんですけれどもうん。高かったりぐらいです。 買めました。当時で 50 万円ぐらいだったでしょうか。あ、そうですね。でもさっき触らせていただいたけどすごい硬いのね。 [音楽] うん。硬いんです。 うん。やっぱりざラザラすんで。 あ、すごいガサガサ言うんです。 ガサガサ言うんですね。あの、やっぱりですね、え、場所という意図から取っておりますので、これがもう糸が出ておりますので、もうこれの繊維が、 あ、すごい。これ、 そうなんです。これを1 本に追っていくっていうのがですね、あの、大変な技で。 あ、これすごい。皆さん、こんな風に、 これを、そうなんです。 これをもうわゆる旗で皆さんがこうもう平さんがおられたっていうのが私にとっても宝物でしばらく立てられなくて多物で取ってたんです。 そうなんですか。 でもこれ来てこその着物だと思いましてで うん。ま、勝負って書いてあります。 そうなんです。で、平さんのお名前もここにありましてね、 あのこれは宝物であのずっと大事にしております。 なので、あの、ただこれはもう帯も入れ てるんですけれども、え、1枚できると なると非常に風投資が良くて、で、これは もう人間国報が作られた素晴らしい折り物 なんですけれども、え、昔は戦前はなんて 言うんでしょう?もう家で自分たちで折っ て自分たちのいわゆる野良ぎのような形で 折ってたようなもので、それはとても 風通してく じゃう自分でお飯なるってそうですね。 の折り物っていうのはもう自分たちで切るもので、え、ま、検能をするもの。 あ、そうなの。 はい。 権能として、え、例えば古ルクは江戸、え、そして、ま、中国さ磨に、ま、検能していたという歴史はい。 ありますけども。 なるほどね。 はい。 面白いです。そういう歴史もね。 そうですね。 ま、今年は戦後80年ですけども、 沖縄の高原品の復興の歴史でもあるんですって。 そうなんです。あの、沖縄を尋ねて、沖縄 の工房を尋ねたり、沖縄の着物を学んで いると何でしょう?その 戦争の歴史と、え、切り離せないんですね 。やっぱりその復興の歴史というのは。 なので、あの、いろんなところを学わせていただいてるんですが、例えばその、え、この便型ですと、瓶型というのは、え、わゆる手場のあった、え、種類の、 ま、いわゆる浄化下町を中心に栄えたものでして、あの、種理にはいわゆるその日本軍の、え、わゆるその、なんて言うんでしょうね、司令部のがあったじゃないですか。はい。 [音楽] なので、えっと、結局観光射撃で、ま、徹底的にやられまして、え、当時その沖縄の方に言わせると土から上のものは全てなくなった。 そう。 はい。ておっしゃったんです。 で、ですからその便ももう型紙どころか 道具どころか家屋敷も全てなくなって しまった中でどうやって復興していこう かっていうのがあの大変なお話だった らしいんですけども例えばあのえ道具が ないということでえ型紙を掘るのに当時 新聞士ぐらいしかないえ素な紙しかないで もえ僚を染めるのにいわゆる破れてしまっ たらいけないということ で、いわゆるその、え、司令部の地下に入って日本軍が残していった海図なんかを持ってきまして、 え、軍事機密、極費資料みたいな風に書いてあるものに、え、壮大ないわゆる、ま、絵を掘って、え、それを肩髪の代わりにしたですとか、あとはもう地面にたくさん落ちている薬境とか弾頭ですね。 あ、薬境っていうのは玉の 玉のはい。 玉の入れ物ですよね。 そうです。入れ物ですよね。 で、その先についてた玉も落ちてるわけです。 うん。 もう山のように。そんで、その、その玉の先を削りますとですね、あの、いい感じの口金になるそうなんです。 へえ。 絞り出しの。で、それ、そうね、 こういう絞り出しのね、 絞り出しの、え、それにその要弾頭を使うと、あの、いい感じにそのノりを置くことができるで、それを使ったり、 あの、とにかく物のを拾ったりしながらあとはですね、え、折り物も盛でしたから、いわゆるその落下さ、 あの、 パラシュートがあちこちの そうなんです。 ロープ うん。あ、紐いっぱいついてましたかね。 そうなんです。そのロープを1 回全部ほいて糸にして ええ。 はい。 あ、そう。 それをかけて袋などを折り出して生活のために売っていたという。 ええ。 はい。なのでそ すごいですね。 そうなんです。で、やっぱりその宝っていう風におっしゃいますけれども命こそが宝であって生きることっていうとまず大切にしよう。 で、そこに、ま、自分たちの誇りであるとか魂であるというのを見い出していかれたんだと思うんですが、今のこう光継者たちに伺うとこの作業は大変な作業じゃないですか? うん。もうそんなのじゃっと機械でやっ たらと思うんですけれども、機械ではでき ない作業、手間のかかる作業をどうして やるかと言うと、ま、先人たちのやってき たこと、乗り越えてきたことを考えると うん、できないことはもう何もないという か自分たちはいかに恵まれてる環境の中で やってるかなので彼らが命をかけて 守たりく ことは難しいことではないと。うん 近所にコンビニあるし、え、寝る布団があるし、食べるものがあるし、こんなに幸せなんだから、今のこのことを苦労だとは思わないという風に皆さんおっしゃってますね。 [音楽] で、皆さんにつなげていこうてですかね。 はい。 あの、若い方がですね、本当にあの、え、地道な作業されているので、それは何ですかっていう風に言ったらやっぱりその内魂というか、あの、私岐阜県の出身なんですが、大和魂ってあまり感じたことってない。 ないですね。ちょっとね、戦争が中なあったけど。 そうなんです。あの、なんですけども、やっぱり未だにそういった魂というものを自分たちは信じているし、それが沖縄の誇りであるというはい。 [音楽] おっしゃるんですね。なので私は部害者としてあのそういった沖縄の人たちの思いを聞いて伝えるもっとアナウンサーですけど。 そうでしたね。 今もアナウンサーかなと。 そうですね。 はい。 ま、子供の頃からテレビに憧れて 日代にいらっしゃいまして はい。 岐阜から状況 はい。 背中を押してくださったのお父様。 はい。そうなんです。 あの、父は非常に勉強に憧れていて、あの、ま、家がそんなに当時福ではなかったということで大学に行かれなくて、 で、本当は行きたかったんだと。 で、え、それによっていわゆる就職先でも大卒の人たちとの差がついたみたいなことをね、 そうなんですね。 なので、あの、お前は頑張れとで、岐阜もいいけれども、え、東京に出ないと立出修出世はできないぞと。 なるほど。 で、母はあの、ま、専業主婦で比較的こう、なんて言うんでしょうね。あの、内光的なというかでしたのでやっぱり名古屋が近い名古屋あたりの例えばお嬢さん学校に行ってで、あの、いいね、おむ子さん見つけるのが幸せよって言ってたんですが、父が何を言ってるんだと。 これから女でもね、え、戦闘に立って歩く時代第だっていうことで すごいです。お父様ね。 [笑い] なんてちょっとね、こう、あの、夢を抱いていたというか、え、生きることや人生に対して、え、非常にこう前向きな人間でしたね。ので子供の頃からいろんな言葉を聞かされましたね。例えばなんて言うんでしょう?うん。 軽点愛人とか 軽点愛人を敬って人愛すというあの最後高森があの財の名としたま名言なんですけどそういったものをですねもう日々あの例えば私がいろんな言い訳をするとですね公原霊職少な主人だとかねそういうこと [音楽] 覚えちゃうね子供の時でもね そうですそういうことを常に言っているようなあの父でしてもう覚えちゃいましたけれども でお父様は若く本当に 66歳で お亡くなりになったんで はい。そうです。若いですよね。 そうですね。ただもう40代、30 代から秒弱でして入単位を繰り返してまして、 ある程度自分のなんて言うんでしょう?こう命の機源みたいなものはあの感じてたんじゃないかと思っております。 で、最終的には、え、ま、肝臓悪くしまし て、あの、え、感炎からあの、癌を 患くなったんですが、え、亡くなる直前の 手術の、え、非常に危険な手術だったん ですが、1%でも可能性があるんであれば ということで望んだんですが、結局うまく いかなくて はい。なってしまいましたが、え、 お父様の最後の言葉が今のあなたの生き方に繋がっているとかって疑がったんですけど、どんな言葉? はい。あの、ま、いろんな言葉を子供の頃から聞いてきましたから見構まえますよね。さあ、もう最後の言葉は父はなんだ、何を言うんだろうと思って、そしたら一言、人生は楽しいぞって うん。 言ったんですね。 うん。 え、それだけって思ったんですけれども、あの、楽しんでこの人生だし、辛いこともろんなことがあるけれども、でも総括として人生は楽しいものなんだっていうことを 素敵でもね、 死にゆく人が言う言葉っていう意味では非常にな心の そうですよね。 はい。 そうですか。 人生は楽しいぞ。 はい。 いいですよね。 そうですか。 なんて素敵な言葉でしょうね。 ありがとうございます。本当に 最後の最後に何の偏哲もない言葉を残したので、え、あれだけろんなね、その 難しい言葉、 難しい言葉をもう偉人名人のね、言葉を残してきたのにここかっていうところがなんかちゃんと彼の人生に大きな丸をつけたっていう感じがいたしました。 すごい。 そうですか。ちょっとこま行きますね。 現在この曲の番組プラチナファミリーでナレーションを担当していらっしゃる。 明日は3時間スペシャル はい。 それで石原さんなど 石原家の4 兄弟が必演なさるそうでちょっと VTRご覧ください。 スペシャルゲスト石原4兄弟の皆様です。 バラティ初石原4 兄弟がスタジオに大集合。 旧石原の非映像や父新太郎さんの貴重映像まで明日夜 7時 公園の仕事は楽しいです。 はい。楽しいです。あの特にプラチナファミリーはなんて言うんでしょう?あのお金持ちの立派な方の素晴らしい生活を見るっていうんではなくってなんかあれを見てると隣の芝もそうそう青くはないなと言いますか。 なるほど。 それぞれに皆さんご苦労されて、え、の後に色々なことを成し遂げてられっしゃるというんで、非常に勉強になっております。 なるほどね。面白いですね。そうですか。あの、イベントプロデューサーの方とご結婚になって 22年ですね。 はい。はい。 で、息子さんは21歳になりです。 なりました。 随分で息子さんは芸能の仕事に興味はどうですか? あ、芸能と言いますか、わゆるエンターテイメントの業界興味があるんですが、どうやらそちらのわゆるその経営に 経営 はい。興味が面白い。 そうですか。 はい。 近藤さんの、ま、今お着物のこととか色々やってらっしゃるんですけど、 なんか目標っていうのは終わりなの? はい。 あの、やはりですね、あの、私着物で YouTube、最近YouTuber って言われるんですけど、 あの、でも、え、そういうことをやりながら、え、島沖縄対象しながらでも最終的にはやっぱり声の表現を、あの、死ぬまで突き詰めていきたいなということは考えております。 そうですか。 はい。 今日本当にありがとうございました。色々置き物もお持ちいいただいて大変でしたけど、見せていただいてよかったです。知らないことが多かったので。 いらっしゃいます。ありがとうござい 本当にお飯でお飯でいらっしゃる着物も はい。 なんていうなんでさっき先 瓶型でございます。 瓶型ですよね。 ドミが はい。えっともこちらあの種類のティバ花火というあの手で刺繍のように手で折った折り物です。 あ、帯び折り物。 はい。 どうもありがとうございました。 哲の部屋は寺で過去の放送会を配信中。 無料見逃し配信は安間マティーバー [音楽]

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徹子の部屋 内容:「“着物愛好家”として活躍!66歳で逝った父の“最期の言葉”」

出演:近藤サト

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