音楽や映画などジャンルを問わず、英語圏のレビューなどで目にする表現に“インスタントクラシック”という言葉がある。時の試練や後世の評価を待たずして、リリース(公開)されたと同時に、歴史的な傑作になることが約束されていると称賛する言葉だ。発売日に藤井 風の3rdアルバム『Prema』を最初に聴いた時、まさにその“インスタントクラシック”という言葉が脳裏に浮かんだ。そして、その思いはリリースから1カ月近くが経過して、毎日のように自宅のステレオ、カーオーディオ、移動中のヘッドホンなど様々なシチュエーションで聴いてきて、さらに強まっている。アルバムを通して聴く度に、自分にとってのファイバリット曲が変わっていく、その懐の深さにも驚かされるばかりだ。本稿では、どうしてこの作品を“インスタントクラシック”であると評するか、その理由を3つのポイントから論じていきたい。
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■過去を手放した先の“9曲”のフレッシュさ
振り返れば、3年前から藤井 風はずっとサインを送っていた。〈明日になればさよなら/ああ儚い世界だ〉と現世に別れを告げた「grace」。 棺桶の中に入った過去の自分を自ら葬送した「花」のミュージックビデオ。そのビデオの中にも小道具として出てきた自身の遺影をピアノの上に飾って弾き語った、『MUSIC AWARDS JAPAN 2025』での「満ちてゆく」のパフォーマンス。2ndアルバム『LOVE ALL SERVE ALL』(2022年)リリース以降に発表されたそれらの曲は、次のアルバム、つまり『Prema』に結局収められることはなかった。
『Prema』の初回盤CDには、その「grace」「花」「満ちてゆく」に加えて、「Woking’ Hard」「Feelin’ Go(o)d」「真っ白」という、音楽のレンジ的にも世の中での広がり方的にもJ-POPアーティストとしてのピークを極めてきた名曲の数々、そして『Prema』がリリースされた今となっては習作の色合いが濃いことがわかる、トラップの3連ビートに祭囃子のような旋律をミックスした実験的楽曲「It’s Alright」を収録した全7曲の『Pre: Prema』(プレマ以前)と名付けられたディスクが同梱されていた。藤井は「満ちてゆく」で〈手を放す、軽くなる〉と歌い、「真っ白」で〈離れなくちゃ 置いてかなきゃ〉と歌う。そして「Prema」というワードが初めて登場するのは、「It’s Alright」の最後のラインだ。〈Bring It On, Prema〉(こっちにきなさい、プレマ)。
(先行曲「Hachikō」「Love Like This」を含め)全曲新曲、タイアップなし全9曲の『Prema』の新しい世界は、そんなこれ以上ないほど親切にピリオドが打たれた先に広がっていた。先ほど“J-POPアーティスト”という呼称を使ったが、一つ前のアルバム以降にリリースしてきたシングル曲、それもほとんどすべてにタイアップがついた(つまり外注の)曲を次のアルバムに詰め込んでみせることが、これまでの“J-POPの大物アーティスト”の流儀だった。その点では、国外にもたくさんのリスナーがいる宇多田ヒカルや米津玄師も例外ではない。近視眼的なビジネスとしてはそうした期間を区切ったグレイテストヒッツ的なアルバムが正解であることは間違いなく、もし今回の藤井のニューアルバムに「grace」や「花」や「満ちてゆく」などのヒット曲が丸ごと収められていたら、それを歓迎したライト層のリスナーも多かっただろう。しかし、藤井はそんな“J-POP”の流儀を手放し、軽くなり、離れて、置いていき、『Prema』をーー英語圏の音楽シーンでは当たり前のスタイルであるーー全曲新曲のアルバムとしてリスナーに届けることを選んだ。念入りなことに、そのフレッシュさを守るため、各国のフェス出演を軸としたワールドツアー中の藤井は、『Prema』がリリースされるまで先行曲2曲以外はステージ上で披露することもなかった。『Prema』を最初に聴いた時の興奮は、このような道筋によってもたらされたのだ。
■英語詞であることの内在的必然
もっとも、それは郷に入りては郷に従えで“国外ポップアーティストの流儀”に単純に迎合したものではなく、藤井にとっては、これまでリスナーとして多くの驚きや喜びを与えてくれた“海の向こうのポップミュージック”に対するリスペクトとある種の礼儀として、ごく自然な帰結だったに違いない。外注された案件と、自分のアーティストとしてのこれまでのストーリーをすり合わせ、案件先の新規リスナーの期待と自分のファンの期待を二つの目で見据えながら、誰もが納得するような曲を提出する。これは皮肉ではなく、改めてJ-POPアーティストのルーティンワークの複雑さについて想像するだけで感心してしまうが、今回、藤井はどこかから発注されたものではなく、ヒット曲満載のアルバムを待っていたファンに向けてでもなく、まさにサードアイで見つめた自分の内側から湧き出るメロディとビートと言葉だけでアルバムを作ることを必要としていた。リリースタイミングでの複数のインタビューで、アルバムの制作に入る前の段階で「もうやり尽くした」と感じていたと語っていたのも、きっとそういうことなのだろう。
そう考えると、(2024年に米リパブリック・レコードとの契約というトピックはあったものの)“本格的な海外進出”みたいなわかりやすいフレーズとセットで語られがちな『Prema』の全英語詞についても、別の角度から光を当てる必要があることがわかる。そもそも、“海外進出=英語で歌うこと”という言説自体、スペイン語や韓国語の曲がすっかりチャート上位の常連となっていて、日本から生まれるグローバルヒットも近年はそのほとんどが日本語で歌われている、現在のシーンを正確にとらえてない。他でもない、藤井自身が「死ぬのがいいわ」のグローバルヒットでそれを証明してきたわけで、そんなことは百も承知。その上で、自分がこれまで生活してきた中で最も近くにあった、そして少年時代からYouTubeを通してカバーを披露してきた、英語圏、特に北米の新旧ポップミュージックと同じ言語で歌うということは、「真っ白」で〈先に進まなければゴールできぬゲームなのよ〉と歌っていたように、アーティストとしてのゲームの次の段階に進むための必然的な過程であったのだろう。CMやテレビドラマのタイアップが全盛の時代を経て、一大輸出産業にもなったアニメーション作品を中心に、今なおタイアップを中心に成り立っているJ-POPシステムからの解放が、その“次の一歩”への道を開いたことは言うまでもない。