「あのときの私と、あなたを救ってあげたい」──そう語るのは、歌手の和田彩花。15歳から24歳まで、女性アイドルグループのメンバーとして活動していた。

本連載では、和田彩花が毎月異なるテーマでエッセイを執筆。自身がアイドルとして活動するなかで、日常生活で気になった些細なことから、大きな違和感を覚えたことまで、“アイドル”ならではの問題意識をあぶり出す。

今回のテーマは「友達」。学生時代から自分自身の中にあった「友達」の概念と、それが変化したきっかけとは?

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グループの人間関係で押しつぶされそうなときに

「友達がいない」

同性の友達とのシェアハウスで展開される韓国ドラマを観ていたときに、ふと思った。

「あれ、私には、こんなふうに過ごせる友達はいない」
「時々友達とご飯を食べに行くのに、なんでも話せるわけではないんだよな」

私の中の「友達」の概念と、そうではない「友達」の関係が、この世にはあることを知った瞬間だった。

和田彩花和田彩花

高校1年生で芸能界デビューした私にとって、心の支えは、地元・群馬の中学の“いつメン”(いつものメンバー)の存在だった。

もちろん都合が合うときしか集まれなかったけど、時々集まっては大笑いした。みんなで撮った写真を何度も見返して、仕事でのつらい時間を乗り越えた。

グループの人間関係のストレスに押しつぶされそうな状況で、中学のいつメンに会ったことがある。

友達はすぐさま「あやちゃん、何かあったの?」と聞いてくれた。

なのに、私は自分の気持ちを吐き出す前に「グループがうまくいってないことがバレちゃうな」ってことを心配した。そして、「ちょっと大変なことがあって」と当たり障りのない返事をしたのを覚えている。

自分の気持ちよりも、グループがどう見えるかを、友達の前でも優先した。

「SNSに書かれないような言動」を優先していた

大学で出会った友達に対しては、もう少し慎重になった。

スマホを持ち始めて、SNSでの投稿が当たり前になり始めた時期。

仕事のことがバレるのは、時間の問題だと思った。私は、あることないことをSNSに書かれないような言動を取ることに徹した。

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仕事のことを聞かれても、いつも曖昧に返事をした。仕事の話をしなければいいだけではあるけど、そうやって築く友情はあまりにも不格好だった。

そんな状況では、私の本当の気持ちは、後回しにして当然だった。

どれくらい友達の前で偽りすぎない自分でいられたかはわからないのに、中学の友達も、大学の友達も、いつも私の近くにいてくれた。

今さらだけど、「あのとき、本当の気持ちを話したかったな」って思い出す瞬間がたびたびある。

フランス留学中に支えてくれた「友達」の存在

そんな私が友達との時間を心から楽しめるようになったのは、フランス留学時のことだった。

第7回の記事で、フランスでできたアジア出身の友達のことを話した。実は、フランスでは、日本人の友達にも恵まれた。

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あるとき、とても楽しい時間を過ごせる友達に、アイドルだったことを話してみようと思った。なんでかはわからないけど、なんかこの人なら話せる気がする、いや話してみたいかもって気持ちになった。

「実は……」なんて言い出して、人生で初めて自分から、アイドルをやってきたことを話してみた。

友達は「えええ!」と言いながら、私の目の前でネット検索し、情報を見ていた。

そして、しばらくして彼女はこうつけ加えた。

「ごめんね。私ばかり彩花ちゃんの情報を見ていて、自分のこと話してないね」

そう言ってもらえた瞬間に、本当の自分を見てもらえてよかったと心から思った。

そのあとは、彼女がどんな人生を歩んできたか話を聞いた。

私たちは、心の中で思っている本当のことを、少しずつ話すようになった。

そんな彼女は、「私、彩花ちゃんの写真集をパリで撮る妄想をしていて」とか言いながら、その架空の計画をつらつら聞かせてくれたりした。

仕事のことも、そうじゃないことも普通に話してくれる友達を目の前に、こんな友達の在り方もあるのかと感激した。

もちろん、アイドルという職業に偏見は必ずついて回るので、「この人はアイドルという職業を下に見ているな」「あ、距離置かれた」なんて感じる瞬間もあったけど、そんな出来事がちっぽけに思えてしまえるような素敵な友達との時間に支えられた。

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私のフランス滞在経験には、素敵な日本人のお友達の存在が欠かせなかった。彼ら・彼女らと笑った思い出は、「友達」を前向きな存在として捉え直させてくれた。

そんなこともあって、帰国後、学校で出会って仲よくしてくれている友達たちに、本当に思うことを少しずつ話している。あのとき話せなかったけれど、今なら話せることを大切に。

“人に合わせる習慣”を手放す努力をしたい

今では、新しい友達作りにも積極的な私ではあるが、いろんな人と話をしたいがために? それとも、まだその人とは心理的な安心感を得ていないために? 時々、人に合わせすぎてしまう、疲れる、ときがある。

なので、なるべく人に合わせる習慣を手放そうと努力する。心理的な安心を得られなくても、ちょっと勇気を持って「まあ私はこう思うけど」ってひと言、言ってみるのだ。

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会話の中で居場所が見つからないと、大変つらいものがある。めんどくさいし、早く終わってほしいし、ストレスが溜まる一方だ。

しかし、そんな状況に陥っているなんていうのを気づいてほしい、察しろなんていうのは、他人任せすぎやしないか?

だから、自分の気持ちを口に出して、自分の居場所を無理やりにでも作ってしまったりする。

そして気づく。こんなことまでして友達でいる必要はないと。そんなことまで試みて、いきなりさっと身を引いてしまうのも私だった。

不器用なりにも、こうして友達でいる必要はあるのかどうかを見極める。

家族や仕事と交差しながら「友達」が存在している

年齢が若いときほど、「友達」との関係がこの世界を形作るすべてのように感じることもあった。なんとなく「友達」との時間を大切にする、みたいな感覚のまま大人になった。

今の私が「友達」とは何かを考えてみる。

おそらく家族・仕事以外の居場所を作ってくれる人なのではない。

音楽や美術、仕事と、好きなこと、興味のあることが交差する場所にいる私だからこその考えになるが、もはや「友達」というカテゴリ単独で存在するものではなくなった気がする。

家族や仕事の領域と交差しながら「友達」が存在している私にとっては、すべてがなだらかにつながっている。

そして、どのエリアが一番大切という考えもない。いろんなエリアでいろんな人と会話をしていくことが、私にとっての大切な時間だ。

なんとなく、人生におけるもっともらしい大切な存在って家族だと勘違いしてしまうけど、そうではないし、そうしたくないと私は思う。

もちろん一緒にいる時間が長くなるのは家族やパートナーであるけれど、それはなんか物理的に長くなってしまうだけであって、誰と過ごす時間も欠かせない。

当たり前だけど、互いに優劣をつけたり、特定の属性や立場の人に対して、ナチュラルに見下したり謙(へりくだ)ったりせず、お互いに話し合えて、聞き合える人との関係を大切にしていきたい。

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この前、友達と話しているときに「死ぬときにどんな瞬間を思い出すか?」という話題になった。

私は「猫と過ごす時間」と答えたのだけど、その瞬間に「これじゃダメだな」と思った。

幸せな瞬間がたくさんあって、いろんな人のことを思い出して、選べない、となるのが私の理想だった。

そういう場面で猫しか出てこない私は、まだまだ人との関係を楽しめるはず。

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