#10カンニング竹山・神田愛花100年ラヂオ商会 ゲスト:澤穂希さん
カンニング竹山です。 神田愛花です。この番組は創業 100 周年を迎えた田村政作所提供のも毎回多彩なゲストを招きし、これまでの人生の中で忘れられない出来事についてお話を伺っていこうという番組です。田村政作書に 100 年の歴史があるように人に歴史あり、物に歴史ありそれぞれドラマがあります。さらにゲストの方に関わりが深いテーマを取り上げてその歴史にも迫ってまいります。 竹山さん、本日のゲストは日本女子サッカー会のレジェンド。 はい。も 当然現役の時のご活躍はそうですよね。 もちろんそうですしね。 興奮しましたよね。 興奮しましたしね。引退してからもちょこっと喋ったことあるって。 ああ、本ん当ですか。 というわけで本日のゲストは元サッカー女子日本代表のサほまれさんです。 はい。もうなんと言ってもね、日のまれを背負って世界と戦ってこられた方ですからね。もう世界ナンバーワンにもなった方ですから。 そうですね。 はい。 もん、そう、そう。お聞きしてまいりましょう。 CMM の後は本日のゲストサほまれさんの人生の歴史、そしてサさんに関わりの深いテーマの歴史にも迫ってまいります。お楽しみに。田村製政作書プレゼンツカンニング竹山神田愛花 100 年ラジオ紹介。ここからはゲストの登場です。今回のゲストは元サッカー女子代表の佐ほまれさんです。 よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 え、さん、ラジオはもう慣れてらっしゃる? 慣れてはいないですけれど、何回かはい。あの、はい、経験はあります。 も、今日お聞きしてまります。よろしくお願いします。よろしくお願いいします。 まずはサさんのプロフィール簡単ですがご紹介させていただきます。沢ほまれさんは 1978年東京都のご出身です。 15 歳の若さでサッカー女子代表に選ばれ、その後オリンピック 4大会、ワールドカップ6大会に出場。 2011年に行われましたFIFA 女子ワールドカップドイツ大会では キャプテンとしてなシコジャパンの優勝に 貢献し大会MVPと得点をにも輝きます。 日本代表では通算205試合に出場して 83得典と日本子代表市場出場数ゴール 数もに歴代1位を獲得。2015年に現役 を引退され現在は1時の母として子育てを されながらスポーツの普及のために様々な 活動を行ってらっしゃいます。というわけ で色々よろしくお願いします。ささん よろしくお願いします。 もう本当に輝かしい 経歴 そうですよね。そうです。そうなんです。 でもさあさ今子育てやられててで、まか前にね、ちょっとディ話したらな子供たちのためにこう作及活動とかうん。 はい。 そういうのやられてるんですけども はい。 第1 戦でってのあんま考えてないらしいですよね、前。 うん。全くもうサッカー人生やりきったので、もうあの本当に普段サッカーしたくないです。 ええ、 でもやっぱサさんほどの 1人になると はい。 なんかサッカーの偉い人とか その辺からもあんたしかいないと いや、言われますね。 あ、やってくれみたいな声はあるのはあったんですか?やっぱこ 色々指導者とかにとかやっぱこう言われたりとかはあったんですけど、私指導者全くできないタイプなので 感覚派なので教えることができないので 指導者はできないですって断ってます。でもまた違う形で女子サッカーに携わる仕事はやりたいですっていうの言ってます。 そんな感覚派さんの歴史をちょっと起こしてまいりましょう。まずサッカーを始められたきっかけなんですけども。 なんだけど何 小学2 年生の時に始められたとお聞きしていますがきっかけは何だったんでしょうか? あのサッカー本当に始めた小学校1 年生の時なんです。1年生、1 年生で、あの、1 つ上の兄がサッカーを先にやっていて、で、たまたまそこのあの兄の練習を見に行った時に妹さんも蹴ってみないかって誘っていただいて、で、たまたま蹴ったボールがゴールに入って それが嬉しくて自分もサッカーやりたいって母親にうやったってことですか? PK というかゴールがあってもよく覚えてるんですけどバレーボールのゴムボールだった。 それを右足のトキックで蹴ったのを覚えてるんです。 で、それがま、ちっちゃいゴールだったんですけど、入って 嬉しくて サッカー始めたい。 その時ってでもサーさんの子供の時の時代ってまだそんな言うても 10 サッカーって当たり前じゃない時代ですよね。 女の子がサッカーやってなかったです。 え、じゃ、どういう環境でサッカーされていくんですか? あの、その当時は大阪であの父親の転勤で大阪にいたので、で、小学校 2年生の時に東京にまた戻ってきて、 あのスポーツ少年団、 男の子の中のチームに入って、あの、スタートするんですけど、 最初はあの、女の子は入れません。 言われたんですよ。 入れません。少年なので少年 はい。言われたんですけれど、私の母親がだったら娘でほまれでその歴史を変えてくださいって言ってうん。 あの女の子も入団許可が出てそこからもずっと小学校の 6年間は女の子1人で男の子の中でやっ それお母様はその才能を見つけてらっしゃったっていうことです。 あの、幼少期から私とか兄のやっぱりやりたいことをダメっていう母親ではなくて、やりたいって思ったことをすごい背中をしてくれた母親だったので、 やっぱり自分もサッカーやりたいっていう思いを多分母親が あのサポートしてくれたっていう形ですね。うん。 ええ、でも実際でも入って、ま、一緒にプレイするの男の子たちじゃないですか、なんか色言われたりしな。 ありました。ありました。 高学年になるにつれてやっぱり男の子女の子を意識するんで 2 人組でこうストレッチする時手をついでとかあるじゃないですか。ほそれみんなお前がやれよ。お前がやれよみたいな感じ。 恥かしたね。照れちゃってね。 なるほど。 嫌な思いをしたりとかしてましたし、あと相手のチームでお前てめ女がサッカーやってんじゃねえよって言われたことがあって、 で、それにむかついて私その子追いかけて試合が中段になっちゃったんですけど。 試合中、 中もそう試合 もうね、とっくにその子も忘れてると思うけど、今どんな気持ちですか? で、自分が文句言った子が沢ほまれですよ。 そうですよね。 え、でもその作ですけども、もうスタメンとして入れる実力がもうあったということですか? その当時やっぱり女の子のちょっと成長が大きいんで身長も高かったので、あのはい。 試合にもう出場させていただいてました。じゃ、スタートがやっぱりその男子と共にやってたっていう基本がちょっと逆に良かったつも すごい良かったです。はい。もう技術もそうですしメンタルもそうです。 もう ぶつかりもそうだし、そうやって女がなんサッカーやってるとか女が女がって言われる感じで言ってたので、逆にそれがもうあの自分のその後のサッカー人生の言動力になったっていうか絶対男には負けたくないっていう思いもあったんで続いてる思いがあったわけですね。 [音楽] そして中学校に入学されますよね。 で、この時に今度教合チームに入られるんですね。 はい。はい。女子のはい。チームに入りました。 日本女子サッカーリーグ、当時はアマチアリーグの読売りベレーザの株チームに入されると。 はあ。 これはもう女子女子だけですね。で、株組織のチームにいたんですけれど、入団して 2ヶ月後に上野女子のチームに あの入ることができて、もうここの上のチームは日本女子代表の先輩たちがいるところにもう本当 14個とか1 以上上の先輩がいるチームにはい。はい。 大人のチームにあの小学校上がり立ての中学校 1年生の自分が 入ったので体も小さいしできることも全然なくて最年勝ってことです。最 年勝です。はい。 うわ、 それはサさんでももう小学校のその少年というかそのクラブチームの時にもう目つけられたってことですか?あのあの女の子すげえぞみたいな。 テテスト入ったんですけれ 6 年生の終わりにあのそのチームベレーザっていうチームにあの練習生で参加させていただいてたんですね。だからま なんとなくですけど私のなんか特徴だったり選手の特徴だったりっていうのはま監督が うん。 スカウトですか? スカウトというかチャレンジしてみたらっていうお声がけをしてもらって最終的には入団テストもちゃんと受けて はい。 あれでも神田さん相当やっぱり小学生からとかレベル高いと思うの同じチームにサーさんもいれば小学生とクラブチームね。 中村健選手いたのよ。 はい。 ええ、 もう日本代表ですよ。 この2人が少年少女でやってる 子供のチーム。 うわあ。それはもう、 それはもうよ、そこで女子 1人でそこで戦ってために出てる選手。 それはもうそうそうなりますよね。はい。でもその大人に混じってそのベレーザに昇格でこの時にちょっとこうやっぱ体格の差とかも色感じることはあるわけです。 ですか? ありました。もう全然体付きが違うし、筋トレもやっても全然できなかったですし、あの、走りこうフィジカルのやつも全然できなくて走れなくて毎日悔しい思いして泣いて、 あの、ボール壁当てとかして練習もみんなが来るより先に来て練習してとか終わっても練習して、もうとにかくずっとサッカー付けの大人だからできてるけど私は子供だからできなくていいんだよとは思わなかったんです。 思わなかったですね。なんか悔し、 それはそのレベルと思わないでしょ。 いや、でも14歳も上の方いるんですよ。 でもそのプライドもあるし、自分もそこにも入ってるし。 あ、そうか。 負けたくないですよね。関係なくね。 はい。 へえ。は、でもこれすごいですよ。 15 歳の時日本代表に集されたわけですよ。 代表デビューできなり特定を決める活躍なさったそうなんですけども。 その時の女子の日本代表ってどんなレベルだったんですか? いや、あの、世界ではまだまだ全然その、あの、レベルは低くって、第 [音楽] 1 回のワールドカップの時も多分全部勝てなかったと思います。 さん、この時得典なさってるけど、 15歳でこれはこれですごいことだけど、 やっぱり外国とかと戦ったりするとレベルの違いを感じてました。 うん。 いや、もう本当にデビュー戦はあのアジアのフィリピンのチームだったので自分たちは隠しだったので結構たくさん 4 点ぐらいあのデビュー戦で撮ったんですよ。 でもワールドカップに出場した時、初めて出た時にはやっぱりもうレベルが高すぎて 全然何もできなかったっていう感じです。 技ですか?何のレベルが? もう技も全然ですし、チーム力もそうですし、フィジカルもそうですし、サッカーの内容も全く 違うんです。 うん。全然です。 となると女子サッカーが相当日本遅れてたとか。 もう遅れてましたし、あのアメリカ代表と練習試合とか試合しても相手のコートでサッカーしたことなかったんですよ。 あ あ、もうハーフだけだけ。もうずっと守備ずっと守備です。だから本当に 12対0とか もうそんなんで負けてました。 ええ。あ、そうだったんだ。 そうなんでそれ日本代表で、ま、日の丸せ負うわけじゃないですか。 この15 歳の時のそういう感覚っていうのはもう終わりだったんですか? 15 歳の時に日の丸を背負うてもう必死だったので であの試合にどうしても出たくてあの すごいアピールしてなかなか最近はみんなそういうことはしないって言うんですけど試合に出たかったんで今いつもこう先輩の後ろをこうゆっくりあのウォーミングアップとかしてたんですけどその試合の 前はもう1 番前に先頭走ってすごい監督にアピールして 元気です もうあの出たいですっていうアピールをすごくして、もう 1 人先輩がたんですけど、その人は試合前もベンチの前、監督の前めっちゃウォーミングアップ始めちゃったかいなかいいすごいアピールしたが、やっぱこれ大事だなと思ってやっぱり自分の存在をアピールするすごい出たいっていうのを [音楽] はい。 なんか言うことって決して悪いことじゃないなって思いました。 出たい、出たいって口でなんか言いそうですけど、バラエティの世界だってなんかそうじゃないですか?バラエティだね。 口じゃなくてやっぱ動きです。 そう、そう。動きではい。 もうここいるよって自分のなんかアピールしてます。 はい。でもヨーロッパに行ったサッカー選手とかにあのお話聞くと同じこと言ってますよね。 やっぱアピール日本人が足りないのアピールだからもっと俺だ俺だっていう [音楽] これが必要なんだと世界はと。うん。はあ。そうだったんですか。 で、その海外が全く全然違うっていう思いが後に 1999 年読売りベレーザからアメリカのクラブチームに移籍されましたけども、これどういうきっかけだったんですか? この時はあの、あの、アメリカの選手があの、日本のこのチームに来てたんですけど、何年後かにあの、アメリカもプロリーグできるよっていうのをその選手から聞いてアメリカでプロもでやりたいなっていう思いがあったので、私この当時大学も言ってたんですけど大学もやめて [音楽] 急にお金もなうん。 やめます。 人生そこに捧げる。 もう うん。 で、親もびっくりしてえってなるじゃないですか。 で、ま、もう申し訳ないなと思っ、入学金も払ってもらったし、高い事業も払ってもらってるのにってなったんですけど、ま、父親もあの 1 年間勉強したものだと思えば肌じゃないから行ってきていいよって言ってくれてアメリカ行きを決めたんですけど、全くお金がなかったんで 本当に生活できなくて、 たまたまチームメイトのところに ホストファミリーというかしてもらったので生活できましたけど、 もう向こうで働けるビザでもないんで、 ちょっと親にお お金を借りて行きました。でもその 2年間セミロっていうか、ま、あの 2 年間コロラド州でやったんですけどありがたいことその 2年間があったからこそこの監督が あのプロになった時のアトランタのチームの監督になったんですよ。 それで私をドラフトしてくれて騒が欲しいって言ってくれて すごい。 アトランタのプロのチームにそうドラフトされていったっていう 繋がりですね。 そうなんですよ。はい。 だからこのコロラのセミプロの 2 年間がなかったらプロのアトランタがなかったのかなと思うので 大変な2 年間でしたけど言葉もお金もないし その当時ネットもなかったので うん。 日本人と話せるとか情報も何もなかったので うんうんうんはあていう 何が1 番違ったんですか?そのアメリカに行ってみたらサッカーの内容というのは うん。 もう、あの、パワーも全然違いますし、スピードも全然違うしでコロド州はやっぱりちょっとコチなので、 あの、ボールの起動の変化も全く違うし、それ、 ゴルフ、ゴルフもそうですもんね。軽井沢行くと急に飛びません? あ、いや、だからそういうのあるんじゃないの?行くとどうかどうか知りませんけど。はい。 10ドぐらい伸びるんですよ。飛距離。 あ、そうですか。コロナはでも野球とかでもね、三ソ追いからホームランボールがどうありますからね。 サッカーもそうなんだ。こうして世界に羽いていったわけですね。 ではここからは佐ほまれさんに関わりの深いテーマについて迫ってまいりましょう。 さあ、どんなテーマ染めっていくんでしょうか。 今回は日本女子サッカーリーグです。 は、 中学生の時に沢さんは読売りベレーザ 2 チームに入しまして、本格的にサッカー選手としてのキャリアをスタートされますが、この当時まだ日本にプロリーグというのはなかったんですよね。 なかったですね。はい。 うん。 結構プロリーグがですね、最できるんですけど、そこまでちょっとご紹介します。 1989年日本女子サッカーリーグ JLSが設され、第1 回のリーグが開幕します。参加チームは 6 チームでした。さんが後に加入する読売りベレーザもこの時参加していたんですね。で、 91年新たに4チームが参加して全部で 10 チームになります。で、これまだ全然アマチュアです。 うん。 これが1991 年ご紹介したんですけども、 2021 年に日本初の女子プロサッカーリーグ、 V リーグが発足するんです。ようやくが発足します。で、 W リーグ発足後もナデスコリーグはアマチャのトップリーグとして存続されています。ナデシコリーグというのはアテネオリンピック開催してサッカー女子日本代表の相性がナデシコジャパンに決定した 2004 年ですね。この時に日本女子サッカーリーグが相性ナデシコリーグに変更されたということなんですけども うん。もう2021 年にウリーグができるまで日本には女子のプロリーグがなかったということになるんですか? そうですね。で、ま、もちろんそのチームに何人かプロ選手としてはいるんですけれどもリーグ自体がそのプロリーグっていうのは国家 2021年が初めてですね。 この間どういう思いでいらっしゃったんですか? あの、ありがたく私はプロの選手として契約させていただいてたんですけど、 何人か他の選手たちはやっぱりあの朝からその練習の夕方まで、 あの、お仕事をして、ま、スーパーでレジする人もいれば企業のチームにこう就職してっていう人もいれば学生もいたりとか 本当にあの練習して 次の日朝からもう仕事してっていう感じでしたね。うん。 うん。 なんかその頃偶然僕仕事で神戸によく取材に行かしてもらってて、 それで現役のサさんとか見てたんですけど、ちょっとインタビューさせてもらったりとかしたんですけど。 はい。 本当に開きありましたもんね。 ありました。 選手同士のあんま口にできない選手同士の開きもあるし 相手チームと神戸のチームの あ、同じリーグなのにこんな差があるっていうぐらいなん。 それはモチベーションの差やっぱ生活もあるし 働かなきゃいけない人もいるじゃん。プロじゃない。プロゲームしない人も。 だからそういろんな様々な人がいてでもお客さんは入ったら入ってなかったらま、神戸入ってた方だけど うん。 神戸はそうですね。神戸はもうプロ選手みたいなほぼプロ選手だったので朝から練習ができて、ま、 2 部練習ができ本当にサッカーだけに集中できる環境がもう神戸だった。それ以外のチームは何人かプロの選手はいますけど、みんな働いて学生さんとかうん。 その頃の世界を見るとそのプロの女子のサッカーリーグっていうのはもう結構どこもヨーロッパもあったりとかそうやっぱ給料がやっぱ男性みたいにね全然良くないですしあと期間も 1年間とかじゃなくて何月から 3月ぐらいから8 月までとかアメリカのリーグはそうだったのでその後はじゃどうしようかて自分プレイした時は半年だからこう日本に帰ってきてプレイするとか うんよくあんまり良くはなかったですね。 金銭も結構苦労されたりとかもするんですか? そうです。今はもう本当にみんなあのお金も生活もいいですけど、もうその当時は全然結構ギリギリでやってたと思います。その中でも、ま、 [音楽] A 契約とか契約とかあるんですけどはい。うん。 [音楽] リーグも結構増えましたよね。だから昔に考えるとね。 はい。 上位のリーグから下のリーグまで女子サッカーってね。 はい。はい。そうなんですね。 でも日本ではその女子サッカー取り巻く環境これまで色々変わってきたと思うんですけど。 もこれから先どのようになってほしいなってさの立場で見ていて感じますか? やはりそのウリーグとか日本のリーグのやっぱり観客数もね、そこまでやっぱり男性に比べたらもちろん少ないですし、あの、 みんなもうほぼ海外にこう行っちゃうので、やっぱり日本のリーグがあまり盛り上がらないっていうのもありますし、あとナデシコジャパンの結果がやっぱりそれにすごい明するから なデシコジャパンが結果を出せば こう、またリーグ戦リーグも盛り上がる。 うん。乾杯が増えるっていう。 そうですね。だから2011 年のワールドカップ優勝した後のリーグ戦はもう本当にすごい感覚でしたし。 [音楽] あまりにも我々はちょっと、ま、大変失礼だけど知らなすぎたんで、 やっぱサーさんたちが世界一になるまで女子サッカーっていうのがこんな強いってこと知らなかったんですよ。ませんでした。 で、あの時に、え、ワールドカップで世界一になるの日本ってなぜでしってと思ってて うん。はい。 で、それからたまに女子リーグ見ると今ちょっと負けちゃったりするじゃないですか。 うん。 それ見る時ちょっと、え、なんで負けんのって思っちゃうって。ま、それも素人だからダメなんだけど、 あのワールドカップの時の記憶でも止まっちゃってたりしますよね。その後追ってたりしないんで試合とか。 そうなんですよね。それ日本のそのプロの女性たち、サッカー選手たちが海外に行ってしまうとやっぱ環境がいいから行ってしまうんですか? 環境が良かったりするっていうのもありますし、やっぱりそのヨーロッパだったりアメリカだったりレベルが高いので海外のチームやっぱそこで揉まれた。 とかやっぱうくなりたいとかって思ってる選手もたくさんいるとは思いますね。 ふーん。アメリカなんで強いんですか?あれ歴史ですか? もうでもあのですか? 対格ももちろんそうですけど、元々のサッカー人口が違うからやっぱりあんだけのすごい人口にいたらやっぱ選ばれる選手もやっぱり はあ。 だから私たち島国でよく頑張ってるなって思う。 なるほど。 そりそうですね。ああ、なるほどね。 へえ。 強いのアメリカってちょっと そうなんです。 だってみんなっていうかほぼ 170 もう正が高い。 ほぼ180 先生選手がいっぱいいるので。あ あ、それはもうパワーも違いますね。 全然違います。前見えないですもん。だからマークしててもはい。う わあ、壁になっちゃう。 はい。だから本当にあの当時ワンバック選手とかあの 2枚ついてましす。 2 枚ついてました。前と後ろで。 ああ。やっぱりこう1 人でセも勝てないからやっぱ挟む形でなんとしてもそのワンバックがいい体勢でヘディングしないようにっていう感じで はあ。それだけでもきついすよね。 2 枚でプレかけて追っかけていくっていうのは もうそうですよね。そうすると 1人やっぱり余るからそのうん 1人 で2 人を見なきゃいけない状況は絶対出てくるしってな。え え、なんか当時あのスポーツニュースとかでそのワンバック選手やこしかったじゃないですか。 なんかツ2 バックワンバックだみたいなんかそういうのってま名前とね名前と実すごいやこしかったんですけど選手感でそれなかったです。 あ、ないですか? そうか。その時さんバリバリの 2000そうですよね。はい。 なんかそういうのを言う時にじゃやこしかった。やこしかったんですよ。先輩とかと話しててやこしいなと思ってたんですけど 考えたことなかったです。 考えたことないんですね。なるほどなるほど。 そうだったんですね。さあ、田村製作 100 年ラジオ紹介。この後は田村製政作の歴史にも掘り起こしてまいりましょう。人に歴史あり、物に歴史あり、会社に歴史あり。 2024年5月11日に創業100 周年を迎えた田村作。その歴史は未来への挑戦の連続でした。今に繋がる田村作の戦の席を紹介していきたいと思います。 第10回となる今回は時計の針を2010 年頃に巻き戻してみましょう。スマートで 行きましょう。 2010年代に入ると世の中でスマート フォンやタブレットPCなどが急速に普及 し始めモバイル機器の多様化が進みます。 そんな時代背景の中で田村政作署は電子 科学材料の分野においてターゲットを 見据えた新製品を次々と投入していきます 。 スマートフォンやタブレットPCの フレキシブル基盤用として開発された ソルダーレジストもその1つです。 現在ではスマートフォンの最大手である 企業からフレキシブル基盤の製造会社に 対して黒色のレジストという指定での施策 以来がありました。 さらにハロゲンフリーでありながら燃え にくくフレキシブル基盤の配線を見えなく することなどの技術的に高度な条件が課せ られ時間的にも制約がありました。 これらを克服して2ヶ月間の開発期間で 2010年4月に完成させたのが フレキシブル基盤向け吸収剤APB300 の111でした。 厳しい条件をクリアしたAPB300 の11は大手企業の認定材料として採用さ れました。これまでに培ってきた技術を 活用し、時代の変化はもちろんのこと、 市場や顧客のニーズの変化にも柔軟に高し ていくことで田村政作署はさらなる成長を 遂げていくのでした。 そして田村政作所の未来への挑戦は まだまだ続きます。次回をお楽しみに。 さあ、そろそろエンディングのお時間ですけども、沢さん何かお知らせお願いいたします。 はい。あの、私、あの、JF の日本作協会と、あの、ディズニーさんで、あの、マジカルフィールドアードバイディズニーという、あの、サッカー教室というか、女の子たちに一歩踏み出す勇気を持ってもらいたいなというあの、イベント、ま、サッカー教室というのを あの、やっているので、是非、あの、作家協会のサイトからあの、是ひ参加してほしいなと、たくさんの方々にしてほしいなと思います。 女子サッカーやってる人めちゃくちゃ多いですよね。 まあ、なんか10 作って当たり前になってきてるじゃないですか。 意外とね、学校とかでもね。 だからもう本当に当たり前のように女子サッカーやるって時代にはなってますよね。 そうですね。 その1 つの意思ではサさん絶対あると思いますけどね。 うん。本ん当そうですね。 さあ、ゲストのサほまネさんと共にお送りしてまいりました。今回の 100年ラジオ紹介さんいかがでしたか? いや、あの、いろんな話もね、聞けますけど、まだまだ足りないですよね。そうなんですよね。 で、今現在じゃあサさんがどういうことを考えてるのとかね。 はい。将来のね、 女子サッカーとかサッカーに対することとか聞きたいですよね。 そう来ると思いましたので、サさんなんと次回をゲストにお越しくださいます。りました。 今回はアメリカのクラブチームへ移籍されたところまでしかお聞きできませんでしたから、その後も、え、次回お聞きしてまいりますので、さ、優勝した時の話とかね。 そう、そう。まだまだありますから、次回もどうぞよろしくお願いいたします。 お願いします。 それではまた来週お耳にかかりましょう。さよなら。 さよなら。あ。
7月スタートのこの番組は、
ゲストのこれまでの人生を振り返り、これまでの忘れられない出来事についてお話を伺う番組です。
10回目のゲストは、澤穂希さんです澤穂希#100年ラヂオ商会 #カンニング竹山 #神田愛花 #澤穂希