鎮魂の海平和への祈り
[音楽] ラジオ番組ちコの海平和への祈り パーソナリティの春山です。今日は今から 81年前天草な田で起こった1つの悲劇と そこから生まれた感動的な物語をお届けし ます。 4年8月7日太平洋戦争の中旧日本海軍の 京純長良がここ天草市牛深町の置合いで 米戦水艦クローカーの魚来攻撃を受け沈没 しました。583名の乗り組員のうち、牛 の漁師たちの懸命な救助活動により235 名が助けられましたが、348名の方々が 長良と共に海の底に眠ることとなりました 。犠牲者の多くは遠く離れた北陸や京都の 出身でした。当時この事実は軍の秘密とさ れ、地元には固く口止めがされていました 。しかしこの悲劇を忘れずに1人で苦養を 続けた女性がいました。佐々木つさん88 歳です。 毎年8月7日は京順ながらが沈没した日で あると同時に佐々木つさんにとっては特別 な思いがありました。 戦後夫や娘さんをなくし、孤独で寂しい 日々を送っていたつさんにとって旬妖感 ながらはかつて娘さんが上戦して無邪気に お菓子をもらった幸せな思い出の象徴でし た。 つるさんは娘さんのおかげをながらに重ね ていたのかもしれません。というのも戦艦 ながらの主な役割は厳しくなる戦下の中 沖縄の人たちを九州本土に疎会させるため 長崎に行く途中牛の港に気候していました 。船員たちは牛の丘に上がるため地元の 漁師たちと親しく酒を組みか交わしてハや を踊り、無邪気な子供たちには沖縄や長崎 のおもちゃをお土産に渡していたのでした 。 店員たちのほとんどは北陸や近畿方面の 若者たちで彼らは命がけの任務を全倒する 中で唯一心安らぐ場所が牛深だったのでし た。 そのため戦艦ながらが置合いで沈没した時 には牛深の漁師たちが一斉に船をこぎ出し て危険も帰り見ず我先に海へ飛び込み多く の船員を救ったのでした。 戦中甘草には大きな戦下はありませんでし たが、唯一軽準妖感ながらが牛ぶ深きで 激沈したことだけが現地の人たちにとって 大きな出来事でしたが、軍から口止めをさ れていたため、あえてそのことに触れる人 たちはいませんでした。 戦争が終わり、つさんは物の飽き内をし ながら自分が暮らしていけるだけの失素な 生活をしていました。 しかし毎年8月7日がやってくるたびに準 ながらで亡くなった船員たちの見たが誰 からも慰められることなく牛深の海底で 眠っていることに耐えられませんでした。 それは長ら良に上戦した若き船員たち故郷 は遠く遺族は軍から戦死した場所を知らさ れていなかったため誰も慰例に来る遺族は いなかったのです。 [音楽] 年からつさんは資材を投じ、漁師に頼んで 漁選で沈没地点まで向かい、ただ1人で 慰例祭を行いました。 毎年毎年つさんは1人で小さな漁選で沈没 した長らの牛深きの海底に眠る船員たちに 花を捧げ慰例を続けました。 そして15年後の1970年には沈没地点 を見下ろす他に念願の慰例費を混流したの です。そのことが報道されてやがて大きな 波紋を広げることになりました。 [音楽] 鶴さんの活動が報じられると多くの人々が 動き出しました。 7年には全国から約150名の遺族が参加 し、初の合同異例祭が盛大に行われました 。そして鶴さんの死護もその思いは 受け継がれています。地元の有資や社会 福祉協議会によって慰例費は守られ、毎年 8月7日には慰例祭が開催されています。 さらにこの物語には続きがあります。 8年長を激沈した米戦水艦クローカーの元 館長ジョンイーリーさんから記念間に一通 の手紙が届きました。その手紙にはこう 記されていました。戦争は多くの若者たち の命を無駄にし、どこにも勝者は存在し ない。敵国の元館長が綴った心からの平和 へのメッセージです。手紙には直前の写真 や記念感のための寄付金も連られていまし た。 この言葉は戦争の虚しさと平和の大切さを 国境を超えて私たちに教えてくれます。つ さんの強い意思とリーさんの言葉は戦争と いう悲劇を乗り越え今を生きる私たちに 平和の尊さを改めて訴えかけているのです 。 鶴さんの思いは尼草市社会福祉協議会の 乗務理事福本総一さんによって今もなお 語り継がれています。彼はつさんの思い、 心は重く深く大切なものしっかりと 語り継いでいくと毒意を新たにしています 。 [音楽] 軽準羊ながら長が沈んだ牛ぶ深きの海は今 も静かに波打っています。しかしその海の 底には決して忘れてはいけない物語と平和 の願う人々の祈りが深く刻まれています。 明月9日は戦後80年を迎える京純の 慰例祭が牛で取り行われます。今日はち婚 の海平和への祈りの歌をお届けいたします 。 [音楽] 海が泣いている甘草の空 の下 時を超えて今に届く 祈り 1944 年8 なのか悲劇は静かな海で起きた と故郷離れ地 に散った若者たちの夢が波に消えた [音楽] 海の底に眠る 348 の魂。 今の母は今も ながらに重ねた娘の影を つさんは 1人 の 捧げた [音楽] あれ 小さな 船し 花をたけたの日から平和願い 思いは 立つ入れ 人なり 光 [音楽] 国長 へ届いた 手紙 [音楽] どこにも少者 は ない と味方悲しみの縁でかわし た心の 拍手 [音楽] の海は今も静かに売れ 語り継がれるさの思い私たちは忘れないわ。 [音楽] [音楽] の近を 胸に さ [音楽] [音楽] 軽準妖間ながらの戦没者のほとんどは天草 や熊本九州から遠く離れた地方の方たち でした。長良の戦没者慰例祭に際して ゆかりのある県知事から寄せられた追分を ご紹介させていただきます。 新潟県知事花秀夫 戦後80年の節めの年に軍艦ながら異祭の 開催にあたり関係者の尽力に経緯と感謝を 述べます。 軍艦ながらでは多くの命が失われ、その うち新潟県出身者は136名が犠牲となり ました。 今日の平和と繁栄はこうした多くの犠牲の 上に気づかれていることを決して忘れない と述べ愛藤の意を表し三たのご平安を祈り ます。 粘り強く互いを思いやる新潟県民の心をも に県民全てが安全に安心して暮らせる平和 で豊かな故郷作りに全力を尽くすことを 誓います。 に玉がに安らかであること遺族及び3列者 の皆様のご検証とごを記念します。 [音楽] 福井県知事杉本達人。 軍艦ながら異霊祭が原縮に取り行われるに あたり津信で追の言葉を述べています。 戦後80年という大きな節めの都に戦後 長きにわる平和に感謝し、この平和と繁栄 が先の対戦での多くの犠牲の上に気づかれ たものであることを忘れず、平和で安心し て暮らせる社会を次の世代に引き継ぐこと を固く誓います。選没者の見たのご平安と 3列者の皆様のご検証とごを心からお祈り します。 埼玉県知事大野本弘軍い祭が行されるにあたり、戦没者に対しで追を捧げます。 山形県知事吉村子。先の対戦で軍艦ながらに上感し、尊い命を捧げられた方々に中心より愛の誠を捧げます。 [音楽] 本件ゆかりの57名の方々が長らと運命を 共にし、故郷の土を踏むことなく産げ下げ されたことに深い悲しみと通の念を禁じ ないと述べています。 長い年月が過ぎても関係者の緑力により 慰例の式点が途切れることなく営まれて いることに深い経緯と感謝を表します。 世界で紛争が耐えない現状を前に戦争の 悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ必要性を 通感していると述べています。 戦後80年という節目に戦争の参加を2度 と繰り返さないよう歴史の教訓を未来の 世代へ継承していくことが現代を生きる 私たちの責務であると述べています。 原没者各意の見たがとしえに安らかであること。 3 列者の皆様のご検証とご多を心から記念します。 [音楽] 京都府事西脇高。 戦後80周年軍艦ながら幼情慰例祭が 取り行われるにあたり犠牲者の方々及び 戦下によりちを落とされた全ての護衛例に 対し慎しんで追の意を捧げます。 天草市社会福祉協議会を始め、現地の皆様 が犠牲者の慰例と高級平和を願い、長年に わり祭を続けてこられたことに経緯と感謝 を申し上げます。 2度と戦争が繰り返されないよう過去の 歴史に向き合い、戦争の悲惨さと平和の尊 さを次の世代に継承しなければならないと 改めて強く思います。 にたのご冥服と遺族及び [音楽] 関係者の皆様のご検証と他を心からお祈り します。 [音楽] 徳島県知事五田正月 戦後80年の節目にあたり軍艦ながら慰例 祭が取り行われるにあたり選没者の三たに 愛藤の誠を捧げます。 霊にされた遺族や関係者に経緯と感謝を 述べます。平和と豊かさは戦下で亡くなっ た方々の尊い犠牲の上に成り立っている ことを忘れず、2度と戦争の参加を 繰り返さないと誓い、高級平和の実現に 向け努力を重ね、平和な暮らしを次の世代 に引き継いでいくことを誓います。 選没者の三たの安らぎと遺族の皆様のご 平安を記念します。 香川県知事池田仁 戦後80周年軍艦ながら幼情慰例祭が おそかに取り行われるにあたり慎しんで 愛藤の誠を捧げます。今日の平和と繁栄は 戦争で亡くなった方々の尊い犠牲の上に 気づかれたものであることを心に刻み戦争 の32度と繰り返されないよう平和への誓 を貫くと述べます。三たが安らかに眠ら れること遺族の皆様のご検証と他を心から 記念します。 知県知事浜田正司 戦後80周年軍艦ながら幼情遺裁祭の開催 にあたり関係各意の人力に経緯を表し選没 者の三たに中心より愛藤の誠を捧げます。 世界高級平和を願うとともに選没者の三玉 のご平安を心からお祈りします。 ここからは実際に佐々木鶴さんと当時会草 市社会福祉協議会乗務理事の福本総一さん のお話をお届けいたします。 え、本日は、え、軍艦ながら、え、の 慰例祭をずっと続けておられる、ま、中心 になってずっと続けてくださっておられる 天草市社会福祉協議会、え、乗務理事の、 え、福本総一さんにですね、え、このイ霊 サ院そもそも携わられたことについて、 また、え、佐 秋さんについてのお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。 はい、よろしくお願いします。 はい。え、元々そのこの軍艦ながらの慰例祭のその最初のきっかけっていうのは当然ですが佐々木鶴さんとの出会いがあったと思うんですが、これは 1 番最初どのような形で出会われたんですか? はい。そうですね。 あの、私は社会福祉協議会に昭和 57年にはい。57 年はい。 あの、事務局に入局したんですね。 はい。 そしたら職場で はい。 あの、軍官ながらの慰例をされてる鶴さん [音楽] はい。 社教も協力してるから はい。 ご挨拶に行ったがいいよと言われて あ。はい。 え、それが6月でした。57年の6月に 57 年の6月。 はい。 部家のあの漁師さんがたくさんおられる浦の はい。 お風民館の近所にですね はい。 あのタ物と うん。 おや 八と さんをこうされてました。 はい。 で、あの木造の 2階建ての家ですね。 で、そこに初めてあの今度社会福祉協議会に入りました福本ですということで [音楽] はい。 ご挨拶行ったのが初めてです。 えああ、そうだったんですよね。 はい。 どういう、ま、風っていうのはちょうど漁子町そうですね。はい。番、どうい、どういう雰囲気のとこですか?うん。 [音楽] あ、瀬戸とかあるんですか? はい。ドアあります。あります。はい。 あ、鶴さんのお店は道路沿いにありまして、 ええ。ええ、 海がもうすぐ目の前に、 あ、目の前海だったんですね。 はい。あの、漁選が並んでる。 ああ。 はい。見えるとこですね。 そうですか。そうですか。 うん。 だから船とかはしょっちゅこから出てたんですね。 あ、そうです。そうです。もうあの店の前からですね。あのそこに泊して船がたくさんいますので [音楽] うん。 当時もですね。 うん。 うん。その時お話されたことはどういうことをお話しされたんですか? そうですね。あの当時はですね 8月7日じゃなくて7 月にされてたんです。 はい。お慰例祭を。 あ、慰例王ですね。 うん。 で、つさんはやはりあの、それが週刊だったんでしょうね。あの、 8月になると あの、お盆でしょ。 はい。 そしたら、あの、おさんたちも お坊さんがね、 こうやって周りも 皆さん家のこともあるし、 世なるから。 そうです。 だから一前に あの、慰例をしようかってことでずっとされたみたいです。 [音楽] で、当時私があの、ご挨拶行った時には もう膝がですね。 はい。 あの、ちょっと痛がっておられました。 ああ、そうだったんですよね。 はい。足を悪くされてましてね。 もうその時には慰例費は立ってたんです。 あ、もう立ってました。 ああ、じゃあ慰例費品は立ってるから、ま、そこの丘の上まで行ってお参りするような感じだったんですね。 そうです。あの、準備をしたりですね、ちょっと掃除をしたりするのをお手伝いをして 私たちがしてました。 それ慰霊は 1人で立てられたんですか? 1人です。うわ、 すっごい。 あの、その長が沈んでいる見えるとこですね。 ああ、 石のあの合、置き合いがね、見えるとこういう、大島とこありますね。 ありますね。 あの、そこはもう景色がいいところですけど、 その沈没地点が見えるところです。 はあ。 あ、そこが見えるところに立てられて、 自分がその土地を購入して、 あの、ま、協力者もですね、 ええ、 え、渋で魚正さん とかですね、 え、建設業者の社長さんとか なるほど。 何名かはですね、協力をされて、 協力をされたんですね。 はい。やはり鶴さんのそういうこう行いに やっぱりうん。 感動されたんでしょうね。 ずっとやってお、もうやはりこれは協力してやろうと思われたんでしょうね。 ま、当然のことながらうん。牛の人たちは良が沈んでることは知ってるわけですから、 [音楽] もう漁師さんたちはそこに行って、ま、救い出した漁師さんたちも語り継がれてて、 公けにはなかなかできなかったけど 語り継がれてた話ですよね。 はい。そうです。 うん。 当時、あの、その宮崎区ってあるんですけど、 その宮崎区の長さんもですね、 当時自分たちは19 歳だったと、ま、島さんっていう長さんだったんですけど、 助けに行ったんですということを話されていました。 ああ、やっぱり はい。 あの、漁選でもう続かれた人たちも結構おられたんですね。 はい。 だからああ、なるほど。その中で苦という形でやってらっしゃった。 はさんだけがつさんです。 毎年1人で はい。はい。そしてその、ま、あの表にこう出るのが鶴さんはあですね。 [音楽] うん。うん。 もう知らせずにきちんとこう自分で 1 人で黙ってされてました。おられたんですね。 はい。 船を、ま、頼んで、漁戦で頼んで、ま、多分その漁選のあの、ま、船長さんも知ってる方ですから、 親しいからならば出そうかって言って出して、 で、良が 沈んでいるってそこで はい。 やっぱツイートの祈り、え、ちんコの祈り。 [音楽] はい。 ま、花をたけてやってらっしゃったんでしょうね。 はい。そうです。 すごいですね。 1 人でいや、涙が出てきますね。もうずっと身よりがない。この人たちの誰もお参りしてくれないね。北陸の人たちでしょ。 ところがその遺族の方はうん。 うん。あ、合道入慰例祭があるまで うん。 また鶴さんがそんな慰例をされてるのも知らなに [音楽] うん。 その太平洋ですね。 はい。はい。 中部太平洋で亡くなったっていうなるほど。 数値が来て るほど。内容でねくなったっていうような話になってたわけですね。 [音楽] そうです。お墓にもそうんであるそうです。 ああ、 中部太平用で戦士と そうですか。 はい。 だからもうたまらなかったでしょうね。それは はい。それが分かって牛内にお見えになるじゃないですか。 はい。はい。 もうやはり鶴さんに感謝されて あ、 そしてもう涙を流してあのお祈りをされてますね。 うわあ。いや、 お父さん早く来たかったとかですね。 子供さんもおられたでしょしさんも親も兄弟もおられた人たちが誰からもうわれることなく 10何年も はい。 もうそのままされてたのをその間 1 人で鶴さんがみんなに変わってお祈りしてらっしゃいですね。 もう密にですね。 偉人ですね。 もう本当に本当にそういうのをできるも人の心っていうのはね、 それが81年間 うん。 昭和19年からですからね。 え、え、ええ。 昭和19年もう密かに うん。 もう本当 うん。うん。 知った時には金井さんと 2人で うん。うん。 もうお祈りしたって涙流してお祈りしたって言ってましたから。 うん。 言っておられましたから。 ま、先に亡くなられた娘さんですね。金さん。うん。 [音楽] その娘さんがおっさない頃にもう良の船員さんに可愛がられた思い出がね、 [音楽] ずっとあるもんだからな忘れられなかったんだからやっぱずっとお参りしてらっしゃったんですね。 ねえ。 いや、すっごいお話です。ま、こういうことはね、やっぱり語り継いでかなきゃならないと思います。 もうちょうどね、もう明日その慰例祭が行われます。 から、え、是非この、ま、リスナーの皆 さん、このお話聞かれてそういう人がいた んだ、そういうことがあったんだ。 戦争ってそういうもんだったんだって いう甘草のね、この歴史を、ま、胸に刻ん でいただけたらありがたい、切って いただくだけでもね、ありがたいと思い ます。記念も是非 はい。訪れていただいそう。 あの牛の開催のその中並びに中にですね、あの戦艦ながらの記念館っていうのが 2 階にあってそこに今のつさんとかあのまのご なんかが展示してあるからですね。 はい。 あの是非皆さん方牛渋行かれたら開催行かれてください。 そこにつるさんのこととかもうそクローカーのこととか良のことなんか資料がいっぱいあるんでえ、 もう是非足を運んでいただければありがたいですね。 ですね。ということでどうもありがとうございました。 ありがとうございました。 これで人婚の海平和への祈りを終わります。 [音楽]
この音声動画は、令和7年8月9日の戦後80周年戦艦長良慰霊祭のためのみつばちラジオ特番として前日の8月8日放送されたものです。
この番組で紹介している佐々木ツルさんは、誰一人慰霊する人のいない戦艦長良の戦没者を、たった一人で漁船で牛深沖の洋上から花を捧げて供養しつづけた方です。
決して目立つことなく、ひたすら戦没者に対して哀悼の誠を捧げて、一人暮らしの質素な生活の中で供養碑を建立されたことは、驚きです。
佐々木ツルさんは、まさに天草の偉人です。