先日、常田大希(King Gnu/MILLENNIUM PARADE)が、タレントのタモリとともにボッテガ・ヴェネタの日本オリジナルキャンペーンに起用され、そのビジュアルが公開された。同キャンペーンのために常田が書き下ろした、ソロ名義のオリジナル楽曲「SUNDANCE FOR BOTTEGA VENETA」も、8月18日にデジタルリリース。同日に公開された楽曲のイメージ映像とタモリとの撮影のメイキング映像のなかで、常田は自身について驚きのコメントを寄せている。
【写真】常田大希、King Gnu フリーライブでのド派手なオフショット
「(僕には)個性が本当にないんでね」
この言葉も含め、「SUNDANCE FOR BOTTEGA VENETA」は、公開当日から話題となった。
本作を軸にしながら、常田のこの発言について考察していきたい。「SUNDANCE FOR BOTTEGA VENETA」は、トライバルでプリミティブな要素を随所に散りばめながらフリージャズが展開していくアグレッシブな楽曲である。ピアノが打楽器として機能しているように思うが、音色や和音はあくまで優美でタイト。ジャズを前面に出したパートではビックバンドを彷彿させるアレンジを施し、楽曲にストーリー性とスケール感をもたらしている。これは筆者の想像だが、本曲にジャズの要素を入れたのは、日本屈指のジャズ愛好家で、奏者としての活動もあり、レコードコレクターでもあるタモリへのリスペクトがあったからではないかと思う。
この“リスペクト”が、常田が作り出す数々の楽曲の根源にはあると考えられるだろう。彼の作る楽曲は、バラードであれ、アップチューンであれ、どの曲も最初から最後までスリリングで、そして同じくエネルギーに溢れている。ジャンルを超えた音楽にリスペクトがあるからこそ、彼の曲はジャンルの表情を消さずにクロスオーバーするのだ。リスペクトの証拠に、常田が作る楽曲は、もともと存在するジャンルを“組み直している”というイメージがあまりない。たとえば、リミックス黎明期のバックトラックや歌は原型を残してないのが当たり前というスタンスだったクラブシーンのサウンドと比べると、常田の場合にはジャンルの要素を分解せずにそのまま残しているという印象が強い。ジャンルの要素をそのままに、どう他ジャンルと合わせ、楽曲に組み込んでいくかが、彼の曲作りに対する基本的な姿勢のように感じられる。そしてジャンルを横断した音像の解像度の高さこそ、常田の才気であり個性だと考察する。
たとえば、King Gnuの「ねっこ」(2024年)や「カメレオン」(2022年)は、メロディを追えばJ-POPらしい(特に「カメレオン」など、途中でフォークともとれるようなフレーズがある)2曲ともに言えると思うが、そのアレンジや構成に常田の根源にあるクラシックのエッセンスが入っているからこそ、ほかのバンドにはない気品とスケール感が生まれている。対して、MILLENNIUM PARADEは、常田のアウトプット能力が光る音楽集団だ。本プロジェクトで、常田はさまざまなジャンルのリズムと、別ジャンルのメロディの相性を試しているように思う。
リズムやタイトなフレーズのループで作るグルーヴは、昨今のMILLENNIUM PARADEの特徴のひとつ。つまり、彼はMILLENNIUM PARADEにおいて、これまでにないダンスミュージックを作ろうとしているのではなかろうか。「M4D LUV」(2024年)は、基本は4つ打ちのミニマルトラックに、ハウスとはまたちがった湿度を持つスパニッシュ(ラテンやサルサ)の音像を組み込もうとしている。「KIZAO」(2024年)は、しっかりトレンドもバックトラックで抑えながら、レゲトン、ラテンのリズムを取り入れた楽曲。バックトラックの低音をあまり強く出さず、軽やかに仕上げている。また浮遊感あるボーカル、ラップも楽曲を構成するファクターに感じさせるところは、メロディを曲の軸に据えることの多いKing Gnuとの大きな違いだろう。
幾多のジャンルのなかから、千手観音のようにファクターをチョイスする審美眼。どれだけ前衛的で実験的な楽曲でも、上品さを内包しているところも彼ならではの才能といえる。
あらためて冒頭の常田の言葉を振り返ってみよう。ここまで述べたことを踏まえてみると、全ての音楽へのリスペクトのもとで、0から1を作り出すのではなく、「あくまでもインプットしたものを組み合わせて発信している」という常田のアーティストとしての姿勢が見えてくる。J-POPからクラシック、ジャズに至るまで、ジャンルにとらわれない、音楽に対するリスペクト。それがマニアックさと大衆性という2つの相反するファクターを見事に両立させている理由なのではなかろうか。
伊藤亜希