神戸の中華街南京町の歴史
神戸の火境と南金町の動画です。神戸に 中華街があるというのは当たり前のこと すぎてこれまで何とも思っていなかったん ですが考えてみると実は何も知らないと いうことに気づいたので勉強がらこの動画 を作ってみました。 [音楽] ここは旧外国人地明治元年の神戸校の開交 後、欧米の人々が住んだところです。過去 海外で暮らす中国系の人々はこっちでは なく道を挟んだ向い側こっちに住みました 。これが南金町です。道いっぱいに はみ出しているたくさんの屋台軍は今や 南金町名物といった感じですが、昔は屋台 はそんなに多くなかったそうで、1995 年の阪神淡路大震災の時に無料の炊き出し を行ったり、店が復活するまでの間、多く の店が屋台で営業したのが人気になって そのまましたんだそうです。 元祖餃子園1951年マン州帰りの日本人 コロース吉夫さんが創業味噌だ発症のお店 だそうです。今でも神戸では餃子には 味噌れをつけるのが一般的なんですがその 監修はどうやらここから広まったものの ようです。コ末さんは戦前マン州で暮らし ていた頃から餃子に味噌をつけて食べてい てそれでこちらの店でも味噌汁を出したの が始まりだそうです。この焼餃子という 料理は戦後日本でできたようですが、その 発症点の1つとしても候補に挙げられて いるそうです。 この後ろの英語表記の店は当時乱立してい たという外人バーだと思われます。記事は 柴太郎さんのエッセです。連載第7回。 ここに神戸がある。この夏山中湖へ行った 戻り、横浜へ寄って南金町で夕飯を食べた 。これが南金町かと思うほどに豪華な街に なっていた。中華料理の大きな街がずらり と並び、店の設計が伴うほどにもだった。 安くてうまいというのが南金町の料理の 特徴だから家族連れの客が多く室内少も 日本化され味も思い切って日本的になって いる。しかし神戸の南金町は違う。この町 にはまだ証券やデパートや電気メーカーの ような大衆資本主義の波はやってきてい ない。まだまだ2の町なのだ。 横浜の南金町はこの頃にはもう中華街と いう呼び方が一般的になっていたはずです が、まだ南金町という故障も残っていた ようです。 この頃の中華街は治安が悪くてやばい雰囲気だったという話の方をよく聞く気がするんですが、し葉さんのエッセにはそういう話は全く出てきません。 当時はそんなのは当たり前のことだから触れなかったのか。 それとも柴さんの目にはそんな風に見えなかったということでしょうか。 当時は神戸の南金町でもよなよな米軍の 感染や外国商線などから不良外人がシコ玉 繰り出してきて毎晩のように騒ぎを起こし ていたという話なんですが南金町の中でも 午前の朝一中心の店の人は夜は寝ているの で治安の悪化は分からなかったという人も いたようなので主に昼間に訪れる観光客 目線では外人バーの英語の看板も異国上緒 溢れる港町みたいに見えていたのかもしれ ません。 とりあえずさんによるとこの頃の横浜の中華街はすでに観光地下しつつある様子が見えて神戸の南京町はまだ一部の 2 な人だけの町だったということです。多分神戸もこの後すぐに観光地化していったんだろうなと思いきや調べてみると結構激道の歴史があって驚きます。 [音楽] 実は神戸の南金町は予想に反してこの後 どんどん後輩していきます。60年代後半 から70年代前半頃です。不良外人が毎晩 喧嘩騒ぎを起こしているし、立ちんぼれば やがてヤザの事務所までできてといった 感じで中華料理の店が次々に逃げ出して いき、日本人が寄りつかないやばい街に なったそうです。 その後はさらに不良外人までいなくなって しまって、一時は完全にゴーストタウン化 していたとのことです。 復興したのは70年代末頃からとのことで 、かなり最近と言ってもいい時代でしょう 。 一旦復興すると加速度的にお客さんが休増 してあっという間に今のような状態になっ たんだそうです。ここが昔はゴースト タウンだったなんて想像もできません。 中華街というのはなんとなく爆末にの人が やってきて以来、多少の浮き沈みはあって もずっと変わらずそこにあったものだと 思っていましたが、流星を極めた時期から 絶滅寸前になるぐらいの衰を経てそこから また復活してと2点3点右曲接人間万事が 馬といった歴史があります。ということで 今回はその南金町と火境の歴史を ダイジェストで紹介します。まず明治元年 、神戸開校に伴って欧米の人と共に彼らに 雇われたの人々がやってきてその年の6月 には長崎からも数十人の火教が新天地を 求めて神戸に移住してきました。これが 歴史の始まりです。 その翌年にはもう500人を超える規模に なっていたそうです。 現代で中華街と言うと中華料理の店が 真っ先に思い浮かびますが、当初の彼らは 主に欧米人と日本人の仲会者として活躍し たようです。欧米人の言葉が話せて日本人 とは漢字で必断ができたからです。貿易や 他にも利用業、香港で洋服の仕てや家の 塗装を習得していた人々がそれらのお仕事 についていったそうです。 当時日本人は彼らを新国人、シ人、そして 庶民レベルでは南京人、南金さんと呼んで いました。南金町は南金さんの町という 意味で日本人による名です。深夜シナは 中国の当時の故障ですが、南京人、南金 さんというのは江戸時代長崎にいた新国人 に南金周辺の出身者が多かったことから そう呼ぶようになったんだそうです。 当時は彼らから伝わったっぽいものは南金 城、南金豆、南金袋みたいな感じで日本人 は何でもかんでも頭に南金とつけていまし た。神戸にやってきた南金さんですが、彼 らは外国人地を集めませんでした。日本は 浸透条約を結んでいないというのがその 理由ですが、幕府時代に開行した横浜では 南金さんも一内に住んでいたようなので、 明治政府の方が徳川幕府より外国人には 厳しかったようです。 もしくはより条約純種なだけだったのかも しれません。ということで南金さんは現在 の南金町周辺に住むようになりました。 神戸村内での日本人との雑居です。開光 当手は欧米の人もこの辺りの空いている 坂倉を借りて住んでいたようなので、今 から見るとよくこんな町のど真ん中に 外国人が住めたなという感じです。北側が 元町商店街、東は外国人巨流地、南にお つ中通り神戸港と続いていて、神戸の文化 的な中心部と言っても良さそうな場所です 。当時の人は外国人地や神戸校の発展など 予想もしていなくて、借手がいたらどこの 国の人だろうと喜んで土地や建物を貸して くれたのかもしれません。 ハロルドウィリアムズという人の記録によると需要がありそうだと分かると急に法害な賃療を要求し出す日本人も中にはいたようです。 ということで神戸村は急に申告人や欧米各国の人々が住む国際都市になってしまいました。 1870年明治3 年には教の人々の共同墓地中華偽装が解説されています。鑑定病の少し西藤川の近くにありました。 [音楽] 今は長田区の山川、丸山の近くに移設され ています。 ちなみに日本では京都、大阪、神戸を 合わせて京阪神という言い方をしますが、 中国語的には逆の並びになるようです。 新国人の住んだ場所には自然発生的に市場 ができていきました。南金町という故障も 明治10年頃にはすでにあったようです。 平成初期は7割ぐらいが新国人の店だった そうです。逆に言うと3割ほどが最初から 日本人の店だったということで、やはり 雑居らしく日本人と新国人の今で町ができ ていったようです。 そして欧米の人々が距離の雑魚地に住むの を好んだように南金さんも徐々に南金町は 働く場所。住むのは薬居地内の別の場所と いう傾向になっていきました。 作居地というのは今から見ると随分うまい 方法のように思えます。国家としては別の 思惑もあったのかもしれませんが外国人を 1箇所に集中させるよりも弱居地内に広く 拡散させたことで互いの理解や交流が促さ れたり外国文化の影響も未知で異質な脅威 という受け止め方にはなりにくかった でしょう。 ということで南金町や外国人地はその後も 拡大することなくほぼ当初の規模のままで 現代に残りました。 の人々は今も広く神戸中に分布していて、 完全に日本社会に受け入れられているよう です。 家の人が多く住んだのは南金町からは少し 離れた元町の山手川、北野官邸病がある 辺り、トアウエスト周辺などです。 北野の当天 中国急艇料理の店です。 坂を登り切ったところにある中国の偉偉人 館。 中華民国時代の両時間だそうです。公開さ れていて見学もできます。 神戸架境総会。こっちは非公開なので あまりじろじろ見ない方が良さそうです。 北のエリアは和イン道などの中に中国が 混じっていてなかなか面白い街鍋並になっ ています。 こちらが鑑定病を祭る同居のジ員です。 当時地元の人には南金寺ラと呼ばれていた そうです。観光地からは少し離れた普通の 住宅街の中にあって静かな雰囲気です。 就職さんでいいんでしょうか?こちらの 管理をされている方が色々と教えて くださったところによるとこの鑑定病は 1888年明治21年にできたそうで 東大阪村の長落寺という寺がめの配物釈 でハデラ同然になっていたのをこちらに 移転して鑑定病になってもらったんだそう です。中央からに来て 長落寺は復健省出身。因豆で有名な因お尚の満腹寺の末路尻であるということで中華寺ラになってもらうにはぴったりの出事でした。 はい。で、 このから自種は芯から持ってきたものだそうです。 命がけで海を渡る時代にこんなに大きくて重いものをわざわざ船に乗せて運んできたわけで本当に大切なものだったんでしょう。 こっちがお父さんでこっちがお母さん。 お父さんはお金を持っています。 主先度です。 ここはなんかあの というわけではなくて家族の生活費を稼ぐために頑張って働いている証です。普 通一般的に お母さんは子育て中のようです。 お母さんは子供のぐらいってい なるほど。 ちゃんとね、あの具体的に間違いなかったんじゃないからね。ちゃんと おなるほど。 こちらは台湾で作られた流門。下の方に竜になる前の恋が泳いでいます。 で、この恋が これらの河は呼吸資金城の河を作る工房が特別に焼いてくれたものだそうです。 同京では天国に行った人も向こうで普通に生活するということになっているので、ここでお金を焼いて生活費を天国の個人に送ってあげるんだそうです。 この中の真ん中にカウがられています。右には時代の 3 つの観音像。左は存命中は超能力者。死護は海の守り神となったマーソが祭祀られています。こちらは様々な時代の中古親高校のエピソードを絵にしたもの。 なるほど。同京は日本の新党にいた感じで 三国市の英雄に観音様、海の女神、引用ご 行、中の教えなど何でもありな宗教のよう です。 [音楽] こちらはすぐ近くの中華動文学校と家用地 。 [音楽] 明治33年に全身の神戸教同人学校ができ て、犬井強さんが名誉校長に就任したそう です。 過境も神戸で順調に発展して子供たちも 増えていったんでしょう。 ここはトアロードの西側トアウェストです 。今はおしゃれな店が集まっている感じの エリアですが、昔はここも家の人が多く俗 に関東村とも呼ばれていたそうです。 今も中華の名点が点在しています。 ちなみにここはガチの台湾料理店青葉。 メニューが読めません。改善係かりの人も 日本語が苦手な様子で本場台湾の雰囲気が 味わえます。 [音楽] こんな感じで順調に発展してきた過ですが 、1894年明治27年から翌年にかけて は日進戦争がありました。火境の貿易所の 多くが日本から逃げ出しましたが、神戸の マッチを真に輸出していたご近藤さんと いう人は日本に残って成功しました。 在日架で最も成功したと言われる人です。 欧米系の人はグラバー、キルビー、 ハンターなど一般にもそれなりに知られた 人がいますが、過去のご近藤さんももっと 知られていいんじゃないかという気がし ます。彼は金坊の無藤さんや中華民国の 村文さんと仲が良かったそうで、マ子にご 近藤さんの別荘と無藤さんの別荘が並んで 立っています。ご近藤さんの別荘異常。 こちらには村文さんがよく来ていたそうで 、現在は村文記念官としても知られてい ます。 その後1912年中華民国が成立して南金 さんは新国人、シ人ではなく中国人という ことになりました。 ついでに品料料理は中華料理、品そばは 中華そばということにもなりました。 シうどんもやがてチャンポンになりますが 、それはもう少し後のようです。 この頃の南京町はすでに多くの人で賑わう人気商店街になっていました。 1915年大正4 年には豚マンが誕生しました。老期豚マン発症のお店です。 [音楽] 中国から相さんが工事を持って日しパオ 2 という中国のまじを日本人の口に合うように改造手術を施して豚マンを生み出しました。 [音楽] 2代目の相王星さんは次のように語ってい ます。子供の目にも市場がごった返して 食材の売り替 でした。うちはそうやって町に来る人同士 が待ち合わせに使ったりちょっと集まっ たりする場になっていたようで、そういう 人に豚まじを出し始めたのが最初やった そうです。 基本的に関西では肉満という言い方はし ません。豚満です。多分明治初期に神戸牛 が一気に広がってすき焼きや牛という形で 庶യിにまで行き渡ったことで肉牛肉と いう常識ができて紅発の豚肉は肉ではなく 豚と呼んで区別していたんでしょう。 どうも神戸では長い間豚肉を食べる習慣 自体がなかったようでもあります。 南金町の市場はその後順調に発展して 1926年大正15年南金町市一市葉組合 が結成されました。日中今の天手たちでの 結成です。 戦前ではこの頃の終わりから昭和の初めに かけてが南金町の再世紀だそうです。神戸 の過境は6000人を超える規模になって いました。日本語の苦手な人も南金町なら 地元の言葉だけで生きていくことができた そうです。日本人の間でも南金町に行けば 何でも揃うと評判になり、南金町市一市場 は中国人、日本人問わず多くの人でにまし た。午前中は八屋や魚屋など日本人の店の 朝一が中心で外国線やデパート、ホテル からの大量注文があってものすごく活気が あったそうです。こちらのトリ商店は明治 32年創業の食材店日本人の辻さんのお店 です。以前南金町のホームページに乗って いた記事によると、朝4時から午前中まで が仕事の中心。土日は休みだったそうです 。今でも同じ感じの営業のようで近隣の店 の友人たちにはドンチンシャッターを閉め て町のイメージにはええことないでとよく 冗談を言われるそうです。戦前は朝一中心 の典型的な日本人の店という感じだったん でしょう。当時の南金町は朝一が終わると 比較的静かになってその後は中国人中心。 中国雑貨、漢方薬、中華の食材店や中華 料理店などが就日営業していたそうです。 神戸の中華料理は最初にカ東料理から 始まり、品そばや品うどんなどが人気に なる一方、豚肉を食べる習慣はあまり 広がらなかったようです。 とんかつは戦前日本の人気料理の1つだっ たはずですが、かつも神戸ではとんかつで はなく美ett不活でした。 最終になって港側深海市に紅用艇という 中華料理店ができ、昭和に入ると北京料理 の店や三宮には日本人への中華料理店が できたりして少しずつ中華料理が広まって いったようです。 [音楽] その後1931年に満州事、1937年に は日中戦争が起こりました。これらの時も 多くの過境が帰国しました。日本の火教は 満州で3万人兆から一気に1万8000人 ほどに急減したそうです。ただ大陸に行っ ても日本軍がいるし、神戸の街中では逆に 軍隊はいないということでこっちの方が まだマだと出戻ってくる人も結構いたそう です。大東亜戦争では欧米の人々はかなり 強引に日本から追い出されたり敵国人 欲流所に入れられたようですが過去の人々 は残ろうと思えば一応残ることはできた ようです。 しかし戦時中に敵国内で暮らすというのは やはり大変なことです。賃徳人さんという 方によると過境の人が神戸の外に出る時は その目的いつからいつまでと詳細な届け出 が必要でそれがないとスパイ容疑で逮捕さ れたそうです。空習時の10日関成でも 日本人が明りを外に漏らしたら失席。 中国人の場合はスパイ容疑で連行だそう です。 食べるものがなくてサンダやミキに食業 ガエルを取りに行って捕まってご問された 人もいたということです。 業商人の人々は職業上神戸街の町まちに出 ていかざるを得ないので最も被害をこもっ たようです。1944年ご腹服の業象をし ていた神戸教の人を13人がスパイ容疑で 捉えられうち6人が拷問によって亡くなっ たそうです。 近隣の日本人は親切で仲も良かったそう ですが、国家としての日本は全くそうでは ありませんでした。その後1945年の 神戸大空襲で南金町は壊滅しました。敵国 の日本には迫害されるし、味方の米国には 爆弾を落とされるしで踏んだり蹴ったり です。 空では南金町でも多くの人がなくなりまし た。豚マン屋の相産一家は空習の時阪神 元町駅にあった暴空号に逃げ込んでなんと か助かったそうです。 戦後は国鉄三宮駅から神戸駅まで続く長大 な闇市ができましたが、南京町も同様に バラック小屋の立ち並ぶ闇市として再出発 しました。やがて港に近い南金町は闇物資 の集席地のようになって戦前とはちょっと 違う意味で南金町に行けば何でもあると いう状況になりました。 仲華料理はこの頃から本格的に一般化して きたようです。多くの日本人が大陸に渡り 、中華料理に親しんで帰国してきたことが その理由だろうということです。 焼き餃子が一人気料理になり、台湾料理も 広まりました。この頃から神戸でも豚肉が 普通に食べられるようになっていったよう です。 県民の焼きビーフンで有名な高村民さんが 台湾からやってきたのがこの頃だそうです 。1950年からビーフンを売り始めて後 に最初から味のついたインスタント面の ビーフンを出して大ヒットします。考えて みるとチキンラーメンの安藤ムさんも台湾 の人ですしインスタント面は台湾の人の 得意技なんでしょうか。 こちらは県民の1階にあるレストラン。 1950年からは朝鮮戦争で景気が良く なり、南金町も戦前のおかげを取り戻して いきます。中国の雑貨や中華食材、西洋の 迫雷品のお店などがあり、中華料理店も 78件まで増えました。しかし外国人客の 外人バームを乱立していき、徐々に治安が 悪化していったようです。特にアメリカが ベトナム戦争に本格的に介入していった 60年代には神戸港からよなよな不良外人 がやってきて暴れるやばい感じになりまし た。南金町は行ったらあかん町ということ になっていきます。市では日本人が暴れて いるし、南金町では外国人が暴れているし で、当時の神戸は表の顔はおしゃれで 華やかな港町。裏の顔は行ったら赤町 だらけの正規町都市という感じです。61 年創業民性能5小一さんによると夜は 酔っ払いの外国人繊維や米兵勝負が溢れ 一般市民を寄せつけない雰囲気があったと のことです。外人 バーでは毎晩喧嘩騒ぎがあるし、ドルと円を交換する闇の両外省がいたり、そのうちヤザの事務所までできてと経済的には潤っても治安の方は滅方悪かったようです。 [音楽] 戦後すぐの頃の実際に日本軍と戦ったことのあるアメリカ軍人はまともな人が多く、子供にも親切だったそうですが、朝鮮やベトナム戦争頃の米兵はやばいのが多かったようです。 彼らとしてもベトナムではベトコンに ボコボコにやられて戻ってみると国内は 反線ムード。国の英雄どころか下手をし たら犯罪人扱いなので毎晩酒をかっくらっ て暴れ回ってないとやりきれないみたいな 感じもあったのかもしれません。老期の総 保さんは南金町は映画撮影の舞台になって も犯人が逃げ込むところに使われていまし た。片着の人が来たらじな感じだったん でしょうねと語っています。それらにさし て逃げ出していく店もあり、南金町は中華 街というよりはやばい陥落街といった感じ になっていきます。柴涼太郎さんが南金町 を訪れたのがこの時期のはずなんですが、 千葉さんの衛生にはそういう話は全然出て きません。まだギリギリ治安悪化前の 明るい復興機だったのかもしれません。 木村さんがまず中華料理の材料屋さんを見 に行ってみましょう。随分妙なものがあり ますぜ。 なるほど。店に入ってみると、見ただけでは正体の分からない食品が様々な容器に詰められて並んでいる。 いちいちの商品の名は忘れたが、その 1つ1 つが私のような気の弱い非必食通から見ればさやかなすごみを感じさせる個性を持っていた。中国人の偉さは事ごとくの地上にある全ての非毒性の同植物を見事な食品に立て上げるところにある。 すでに時代に恋の料理法だけで 100 種類以上もあったというから想像もつかない民族である。その後武田君に連れられて南金町の路ジから路ジへと歩きかぱ天国で餃子を食べたとあります。ここです。今はありません。当時の大人気点でこちらもそだれ餃子の店です。 天手の高一さん読み方が分からないので ここでは一応こさとします。こさは台湾 高尾族の貴族の出で祖国を追われてやっと の思いで日本にたどり着いたんだそうです 。1967年頃にはお店の切り盛りをし つつ台湾公開という組織を作り台湾独立 運動を指導していたそうです。店はこの後 南金町を離れました。民星のご主人が言っ ていたように当時の南金町の後輩に焼けが さしたのかもしれません。 店は長田区の神戸デパートの地下や神戸へ 六光道王子動ぶ公園前と場所をと変え ながらもどこへ行っても大人気だったそう です。その間もお弟子さんやお店のファン だった方がの連分けで店を出したりしてか 天国は一時は神戸、大阪京都、横浜などに 8号点まで増えたそうですが高さんは 2002年に引退台湾に帰国して2006 年12月92歳で亡くなったということ です。 分けしたお店の方も2022年大阪豊中に あった最後の1店舗天国夕日ヶ丘店が併業 して残念ながら絶滅してしまったそうです 。 話を戻すと61年通みの中華街だった神戸 南金町ですが異後は治安の悪化と共に衰退 していき65年中華街なのに中華料理の店 がついに1店舗だけになってしまいました 。その唯一の中華料理店がこの民星です。 他に南金町最古の店、豚マの老、中華食材 の店などが点在し、過労中華街のおかげを 残しているもののラビレーター不勢で観光 客が南金町のど真ん中で中華街はどこです かと尋ねる笑えない状況になってしまい ました。完全にバスへのさびれた路ジ裏 みたいな雰囲気だったんでしょう。 逆に言うとこの最も後輩した時期にも 踏ん張ったいくつかの店があったおかげで 現在もこの場所が南金町として存在できて いるということが言えるかもしれません。 70年代神戸の表の顔神戸校の方は貨物の 取り扱い個数が世界1になり絶好調でした 。その裏で南金町はさらに悲惨な状況に なっていきます。円高や貨物のコンテナが 進んだせいで外国人繊維がいなくなって 75年ベトナム戦争が終わるとやばい反面 金払いだけは良かったアメリカ兵までい なくなりました。もちろん一般のお客さん はもう特の昔に寄りつかなくなっています 。ということでついに町に来る人が誰もい なくなってしまったのでした と思ったら突然大きな天気がやってきまし た。 実はこの同時期に神戸市が町の区画整理事業を計画していて防災の観点からも古い木造建築が立ち並ぶ南金町周辺も対象になっていました。 そして1977 年南京町の天使たちが南京町復興組合を設立。この時も戦前同様日中今での設立です。地の区画整理に合わせて南金町を再び中華街として復興しようということになりました。 [音楽] 82年南金町の労門ができ、83年南金 町広場のあや、85年には超門と次々に 完成し、かつて外人バーが立ち並んでいた やばい雰囲気は一走され、本来の中華街で ある南金町が戻ってきました。 ただこの時はお客さんはそこまで戻ってこ なかったそうです。以前のやばいイメージ が残っていたんでしょう。その2年後、 1987年第1回瞬開開催。 これが多くの人に町の復興を知らせるきっかけになって完全復活を遂げたそうです。町の その後90 年代には阪神淡路大震災があり大きな被害が出ましたが南京町は再生美合だったので比較的警備な損傷で住んだそうです。無料の竹出しを行って大金を取る代わりに母金箱を置いたりして南金町と共に部全体の復興に取り組んだそうです。 この時の屋台が好評で今でも屋台が並んでいます。 震災以降の伝統文化という感じでしょうか。 いらっしゃいませ。 こうして南金町の今があります。 南金という呼び方が全国的にはネガティブなニュアンスをびた時期があったんだそうですが、神戸ではそういうことはなかったそうで逆に愛着も誇りもある南京町の故障を積極的に残したんだそうです。 [音楽] 明治の初め数人の家が暮らし始めたところから始まって、やがて日本人も大勢を訪れる大人気商店街になり、しかし戦争によって一旦壊滅に復興するも不良外人がこやばい街になって後輩していき、ついに誰もいなくなったと思ったらまた復活してと南金町は実に上な歴史を辿どった。 [音楽] [音楽] しかし今も昔も地図上には住所として南金町が存在した痕跡はありません。 ただ元町通りと酒境町通りがあるだけです。 かつて戦後を後輩した南京町で南京町を探す観光客がいたように多くの人がそこに中華街があって南京町と言うらしいとぼやり思っているから南町は存しているという感じです 認識が対象に従うのではなくが認識に従うのをで行っているような感じです ということで地図にない町の歴史でしたので山時代から時代にかけての衣 態に強にして進りました。 あ、穴もありますね。穴もありますね。穴もありますね。
神戸の華僑と南京町の歴史。明治元年から現在までのダイジェスト。
引用と参照
生田川附近ノ図_明治4年3月_神戸市立中央図書館
今昔マップ
Tales of the foreign settlements in Japan(居留地物語) H.S.ウィリアムス
月刊神戸っ子 1961年10月号
南京町と神戸華僑 呉宏明 高橋晋一
「神戸南京町」の形成と神戸華僑の関わり方に関する研究
神戸みなとみっくす みなと文化研究会 神戸華僑総会名誉会長 林 同春
関学2019年度・現代史4 2019年5月7日(火)「アジア・太平洋戦争期の神戸華僑」 飛田雄一
神戸華僑を語る 陳徳仁
神戸 南京町の形成と変容 高橋正明 干亜
村上しほり_占領期神戸における都市空間の変容過程に関する研究
※動画を作りながらネットから引っ張ってきた資料がほとんどなので、たぶん記載漏れがあります。気づいた人はよかったらコメントを。
音声
MusMus https://musmus.main.jp

13 Comments
肉まんとは言わずに豚まん、気づいていませんでしたが言われてみればたしかにそうですね!😮
南京町の夜閉店は早いようですが、個人的に新開地よりも「行ったらあかん街」心証。
95年、阪神震災時に「炊き出しと雀荘」で数回利用しました。普段は通勤時に付近を通り抜けるだけ。
メリケンロード西側は「栄町」で『雑居地』かと思うのですが、今も不思議に思うのは南京町西門の入り口沿いなのに、店名は「スターバックス神戸旧居留地」な店名。(2001年オープン)
スタバは景観上で居留地内に望まれてなかったのか、涙ぐましく思いつつ「ブルーボトルコーヒー」を利用しています
連休のはじめに嬉しいなー
しかもナレーション入りだ☺
小さい頃にすぐ近くに住んでいました。
乾かした梅干しを10円玉をもって買いに行ってました。
お使いで、老祥記の隣のパン屋に食パンを何枚切りと頼んでその場で切ってもらってました。
外人バーの店の前の盛り塩を踏みつけて、こらーっとお姉さんによく怒られてました。
洪水で家の前が川のようになって手漕ぎボートを見たこともあります。
味噌漬物屋、卵屋、八百屋、など、昼は市場、夜はお姉さんが商店街の路地に立ってました。
懐かしいです。
社会人1年生の時代、東京本社から神戸支店に転勤してきた。 支店は海岸通りの豪壮なビルでさすが神戸と思わせるお洒落な建物。
しかし、問題は最寄り駅と会社への通勤路。 怪しげな外人バーが立ち並び、先輩からは絶対行くなと言われた。
ある時、ランチにその怪しい界隈にあるパッとしない中華料理屋に先輩に連れられて行った、その時食べたビーフンの味が忘れられない。
記憶に残るカオスな街並みでした。
高校生の頃だから50年程前ですが、南京町は観光地じゃなくて中華系の市場みたいな雰囲気でした。
老祥記の前の道も傘をさすとすれ違えない位に狭く、学校帰りに老祥記で豚まん食べたなぁ~当時は1個30円位だったと思う。
ただそれより南側はドヤ街っぽい雰囲気で恐くて行けなかったし、現在のような観光地になるとは思ってもみなかった。
当時は恐い街、今は余りにも観光地化されてて、近くに住んでても行かないですね。
おかしい!1971年ワシが中学3年の頃すでに普通の中華街で、豚まんを良く買っていたし!
昭和30年代
南京町は絶対に言ったらダメと言うか怖いところ😢
親から行ったらダメと言われましたね😊
とても面白く興味深い動画でした。
このような内容なら、学生たちも歴史を理解しやすいですよね。
これからも宜しくお願いいたします🙏
戦後しばらく南京町は三宮や神戸駅周辺にあった米軍(駐留軍)キャンプの米兵相手のバー街だったと聞きますが、この動画に出てくる司馬遼太郎さんの本の画像にその頃の雰囲気が見られる様で、とても興味深かったです。ありがとうございます。
ワハハ、守銭奴です…というわけでもなくて…😂
28:35の、老祥記あたりにあった木造アーケード懐かしい。
たしかここに魚屋があり、子供の頃に何度かおつかいに行かされた記憶があります。
ナレーションが面白く、歴史を検証したコメントも秀逸です!