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2024.12.22 魏志倭人伝の「卑奴母離」とは?

と思いますがえっと携帯電話の方あの よかったらあのもう一度確認いただいて マナーモードの方にしていただければと 思い ますえっと第2部の方はえ三高の福永先生 にお願いしております時間もありませんの で長お願いいたします はいはい皆さんこんにちはえ今年最後のえ 小コーナーでございますえ1番最初にあの 題名で義姉和年のではひと読ませますねと はですはいえ今日また私あの山国イコ田川 説ではこれがもう扉のこれが日子の墓で ございますね赤村内田の横にございます 今日あのいつもお世話になってるあの広瀬 さんもおいりなっていらっしゃいますはい で去年の5月までGoogleでの墓です けどねまた抵抗勢力によって消されました いつもこうなっております はいさあ今年え仲間にですねやはりこの 古代子講座で古代九州と南太平洋と えま私の今までの講座の中でも特別に スペシャルな本当にスペシャルなえ展開に え変わっていかざるを得ないというえ私に とっても大きなキに立たされるような発表 してしまいましたしてしまいました未だに 後悔してますいや本当にこれからさ大変な ことなんですよ今までの万葉師の会釈もえ この方針に沿ってえまた改めて変えていか なきゃいけないというそういう攻めが今私 に襲いかかっとんです ねその原因になった先生がですね今日京都 からいらっしゃってますねこ当ですはい こちらの列の1番後ろにいらっしゃいます はいはいくださいましたはいえ先生のこの 説なんですよ古代日本語の船舶の名称に おける異文化の要素について天を中心に もちろん漢字はてティエて発音ですよね ところは我が国の訓読みではアとなります ねでこれについてえ高寺先生が小論では天 はポリネシア語のアを漢字で書き記した ものであり前哨全ての名前を天の 鳥船遺跡 で2点目に鳥を白菜するアウトリガー フロート付き外洋公開線を意味すること などを解明することができたそしてこのア という言葉が我が国の古典には非常によく 出てきますよと今もアの岩フれ出てました よねでキーワードとしてえさらにえ天の岩 と 天の原 天坂 天鳥なという言葉が万陽州小食日本少期に 多く見られるわけでございますねこのアが なんとポリネシア後の雨から来てますよと この概念なくして日本の古典は本当は解け ないのじゃないかとまこういう風に高等 先生おっしゃったわけなんでございますよ え本当に大変なことなんでございますこれ 今ですよねディズニーでやってるんですよ えモアナとなんですかはいえこれの今 パート2ですかが今上映されてますねこれ 見てください上段抜きにアウトリガー アウトリガーの月の概要線船です よこれどんな大きな波が来ても転覆しない という工学上も非常に優れた船なんで ございますこれで南太平洋からこの九州 まで 人々が往来しよったうんですねこれがこ 先生の発想でございますで面白いことに鳥 がちょっと違いますが鳥ちゃんと乗っかっ ておりますねこれねうんディズニーにも ちゃんと描かれてあるんですよポリネシア 文明がはいそういうことを皆さんにお話し したいだけでございますさあそれから今日 のあの通説の義姉ワチの日森というのが どう繋がるんだとえ思われた方は懸命な方 ですね繋がるんですよでさらにはですね えまり子で若とかまた若とかありますね ポリやっぱタウ は日本語でタルタルミのタルですねあのえ 樽のところにえやはりポリネシア語が反映 してましてでこれは4世紀後半の鳥取のえ 佐山古墳に描かれた戦国ここに相動線が やっぱ本当描いてあるんですね相動線描い てあんですよまこれもあの前回のところで 皆さんにお話しした通りなんでございます 騒動線 でしょねはいこういうことなんですねさ こうやって和人はもう簡単に言和人ですね 本当正しく異人なんですけどね和人は南 太平を往来してたなんて話をこの前もした わけですねでこれがえ今度はえ弁慶が穴 古墳で山え熊町のえやっぱり壁画なんです がねここに船に棺が乗せてありましてねで その上にまた鳥が乗っかっとのでござい ますよえでこ下の船には馬が乗っかったり してますねで私は前回にそのエジプトの この太陽の船ホルスシが乗っていて頭が はやぶさですねでやっぱり鳥が乗ってます よ とそうもう前回エジプト中東から南太平洋 からでさらには南米エクアドルの バルディビア席までいや縄文人がひょっと したら生き生きしてましたよってやっぱ とんでもないこと言うたでしょとんでも ないこと言うたんですよだほぼ全世界から 海を通ってこのアウトリガー付きの雨に 乗って人々はやってきてそして私も皆さん もその多民族が集まった国の子孫なんです よだから我々日本人は世界にタ ハイブリッド民族なわけであり ますどっかの政党が言ってるように単一の 対日の種類の日本人なんていません純粋な 日本人いるわけがありません世界中から 人々が集まってきたん ですだから我が国はさっきのあの感染症に も耐抜いたわけですね世界に比べるとし 少なかったでしょはいそういうことを考え てみてください多民族国家だから ハイブリッドだから強かったんですねイカ 帝国は純粋一種に掛かったから滅んだん ですよスペイン人がもたらしたウイルスで ねさあえそのその本当におかしですよもう 縄文時ができる以前からえその縄文人も 含めてもう生きしよったんですからね全 世界中をですよひょっとする とさあこれがその先ほど のえ瀬山先生の話もありましたけどねこれ 私が言うところの天満 和国天王寺雨がありますねだ私はこれが 万葉州だ空道和国空道大和の国ってまあ 書本ひの歌に読まれてるんですがねこの 表記でねいやもうこれも訂正していきます これやっぱり正しくは 天山の国なんですよじゃどういうことかと いうとアウトリガー付きの船がゆきしてる 海があるんですよその天船が道満大和の国 じゃあ大和の国には海があるんですよ 古代そして事務天皇期の31年のところに え伊の命が自分の国を名付けて大和は浦安 の国ってちゃんとこれ日本酒に書いてある んですよ大和は浦安の国って浦安って どんなところですか 入り江でしょ大きな入り江でしょだから 概要と違って波立ちませんはねだから浦安 の国なんですよいや日本初期ちゃんと書い てありますよ伊がそう自分の国を名付けた とヤは浦安の国くしぼの血だる国もうそう いう風にちゃんと表現してありますね私何 1つ作り上げませんからね書いてある通り 言ってるだけですじゃあもうこのの時点で 既に山大国近畿節なんてもうこの段階でも 吹っ飛んでるんですよ海があったんです よ万葉師に天水山の国って表現があるん ですよと皆さんご存知のあの大財の天満軍 の天満と同じ字ですよあれも甘みですよ あみ宮なんですよでそれが先ほど言われた ようにこれは犬国なんですあの金に掘られ た鹿の島まで発見されたとされたあれも デマですけどね鹿島から出たりしてません え元々は河原三竹天野神山のえ麓のどっか のえ宮殿にえあったと思われますがねそれ がイコ行員ですねこれ私もイコールにして あるんです犬国の成立紀元前14年賑は 天照大御神豊足原みずほの国の葛山に降臨 とこの建屋敷石望町のこの国ですねここに やっぱり私意図してませんけどこれ他の 通説の先生ですけどここにやっぱりこう音 というこうラインがこうもずっとこう見え とるんですわ ね はいこれいつも言えるわけですねそして この和人異人の最も古い記録は中国側の 文行にありましてまその和人がえ上層を 健助してきましたよとそれで感受チ士の中 には遠いの転生はえ従順だ とで三方の外に異なりえゆに皇子がえ道の 行われざるをえ田を海に浮かべてえ9位に オランと干すとなんとあの真中時代の講師 様はえ我が国日本列島に来たかったんだっ ていうことがロングにも書いてありますね でそれは患者チリ士を書いた人物が編集者 がまわけのあることだなとそしてあの有名 な落Earth海中和人あり別れて欲なす 祭事を持ってきたりでけすというもちろん ア鳥が月の青が月のフれで行ったわけで ございますね和人がです中国人が来たと私 言ってません和人が出かけていったんです はいでまた会計海外党人あり別れて2重国 をなすということもえその漢女中士に書い てありますねさあその犬国ですもうこう いう風に読んでますね私ねずっとね犬 あるいはの井国 ですじゃあ最初の扉にあったあの森って いうのはの先生の読み方ですけどもう おかしいでしょうあれ正しかなんと読むん でしょうね私に言忘るとやっぱこっちで 読まなきゃいけないわけです後で出てき ます落老軍の利定とありましてねでこれは 甘塩という書物にえ書かれた和国ですで山 に寄りて海を追い真鯛に静まり持って都を 立つというまこういう文句で始まるええ 関元という書物があるんですねそこにご 関所に枠とあり ますでそこにまたその大和王山大2ス大に ス落Earth軍教その国を去ること万 2000里というのがあります ねこれ3国室が関わりますね義姉は神殿と ねはい義子人間とで汎用五感上なんかに これ出てますが大川な引くと境取出という 意味がありましてね落Earth軍っての はひょっとしたら楽浪軍現在のぴょで ございますそのぴょんヤンからえそのご 患者に描いた犬国ですね和国ですね多分ね ここへ行くまでが1万2000リという ことでその出発点ですねこれが次の義姉 和人殿では大砲軍になっちゃいます大砲軍 から1万2000里ということになって しまいますがこれ今日の新しいえ前半の ハイライトですねえ昔ここに間の部がえ 朝鮮軍を置いたとの朝鮮県の地図なんです がね同じく海塩のクデに出てきますこの 朝鮮というところこれが今の ピンヤに当たるわけですが大体この辺り ですねラロ軍ですねこれ落Earth軍事 ですねところがこの間の部の頃の大砲って こんな近さにあるんです よでここにあの大道港えテド校ががあり ましてねそれでねこの距離がですね ちょうど義子和神殿で言うところの 1300里という距離なん ですこれえ意外と大派遣なんですなぜかと 言いますとえ大砲軍からえ7000里で区 韓国でしょでク韓国から千里で津島でしょ 津島から千里で生の国でしょそれから生の 国から松国までまた千里 でしょもうこれでちょうど1万いっちゃい ましたねそれで松国上陸しました上陸して 陸行まず500里ですよねそれからまた 100里でぬ国100里で え不国そしたらもう上告だってゅうんです ねうん何体かお分かりになりまし た1万と 711ぐらいしか言ってません ねはいその通りですえ1万7000人枚 しかないんですねとこ1万2000人って 言ってますでしょで算数すると引算すると 13002余っちゃいます ねも不国が上の国の玄関だとすると長国 すぐ ですじゃその1300人どこ行ったのか ここにあったんですはいこれ1300人 だから人獣が三国士義姉和人でを書いた時 にはこの1300理がもうほとんど脳感と になってしまっていたとこれだけのこと ですねだから私もちょっともうえ楽浪軍え それから大砲軍え後の学者さんたちは大砲 軍こんなソウルに近い方までこう持ってき ちゃってますけどいやこれ元の文献に戻す とぴょヤんと大砲は1番最初のとこはこの 辺りにもあったとでここにですね面白い ことにこのえインターネットから持ってき ましたのがここなんすよ大砲軍地下の港え 港がここにあったってんですこの距離です よこれが 1300じゃこれでまた私義姉和神殿の 工程ほとんど解いちゃったんですえここに なってでこれになっていきます ねでま一応今までにあのいろんな協力者の 方がいだいてこんな地図をこうこえてきた んですがね私の場合には末路国ってもう 宗方ですからね生国からこう来るんです これで戦利ですカに行ったんじゃありませ んこれはもう何度も言ってきましたねさあ その犬国印これですかの犬国おい博多の 鹿島から出たとされるやつですねで問題は ここのえそのご関所に書いてあります県務 中が2年西暦57年犬国方向長がす詩人 自ら大育と称すこの台風という職名がこれ があの紀元前1100年から始まると ところの集王庁の役職名で五官の時代には もこんな役職名ありませんそんな古い古い 1000年も前の役職を和人が名乗った から中国側は変テコな奴らだなてこれ記録 したんですね問題次です今までは通世では 和国の極な会なりって読まれてたんです よで犬国家ですよところ私もこれこうやっ ちゃったんですね和国の何回を極や看聞の 工法ご法の問題です和国が南の世界を極め たから神部が多に隠を持ってしましたよと じゃあその南回って何ですかってこれこ 先生の後を受け継ぎましてここ ですこの海域まで極めたからおおわすごい のとそれでの部がえこれをあの金を和国の これ犬国の王に渡したというのが私の考え 方でありますだいぶ見方変わる でしょうでこの色分かり ますこれは現代中国中華人民共和国がもう この辺りをほとんど え関係を結んだ南太平洋の国々ですで台湾 を指示してるのはこの青の国ですねだから 2000年前の中国はこんな何回まで来れ なかったんですよ彼には彼らには公開技術 なかった和人だけが持って ただから今中国は一生懸命に海洋進出やっ てますけどいや我が国は縄文時代やい時代 今何回極めてますよとまこういう考え方に 変わっていくんですよこ先生の後を受け ますと ねさ義姉和人年先ほど強先生も出されまし たよえその国元また男子を持ってオート なすこれが五官大の記録ですこれが事務 天皇の即位から80年後200年に日子が 共有されたということもずっと言うてきた んです ね事務さんは121年親友の年に柏原ぐえ 私言わせると河原の鶴が岡八番宮で即 遊ばしましたよと言っとるわけですここに 先ほどの関連の間という和国対談あります ね菅山先生の言う第一次和国対談ですね はい日子協立ですね200年ですねこれ 算数したらちょうど80年 でしょさあそれではその肝心の義姉和人殿 のじゃ冒頭に戻りましょう冒頭にねはいえ もうこれ後でゆっくりお読みになっても いいと思いますが和人はえ異人は大砲の 東南大会のにあり党によりて国有をなす元 百予告間の時長見するものあり今主役 通ずるところ3じこなり軍よりこれは大砲 軍のことですね軍より和に至るには海岸に 従いて遂行し韓国を経て立町南市立町東す その北岸ク韓国に至るには七線よりなり七 線よりですね初めて1回を渡る戦より大会 国と今のえ三国士には書いてありますね 実際津島国つ国ですね水馬国に至るその 体感をひこと言い服をここです通説日森と いうですねえおるところは絶島法400 よりばかり土地は山けしく森林多く道路は 金六の小道のごと000横あり両年なく 怪物をくいて自活す船に乗り南北に指摘す また南1回を渡る線より名付けて艦外と いうさあ2番がついてます1大国に至る 正しくはやっぱり生国ですねえ視点の死と いうてます生国に至るえ間をまたえ彦と いい服をひりという2番目ですねほ300 人ばかり地目総理多く3千ばかりの家あり やや電池あり他を耕すもなお苦労にたらず また南北に指すまた1回を渡る線より松国 に至る私は村方説です4千横あり3階に 添いておる相木半もあもえもせし行に全人 を見ず魚服をとうを好み吸水え新鮮とな皆 沈没してこれを取る東南立500こっから 立 です大砲軍から松国までは遂行でしたり5 国に至る間を2期といい服をせこへという 専横ありよよ大あるもみ定国に盗賊す軍 往来するに常にとまるところなり盗難して えこれがぬ国もしくはの国ですね私は義姉 は人年の場合の国ってでおりますねに至る まで百里間お島子といいこれ浦島湖の島子 ですね多分ねといい服を日森という3番目 ですなぜか知らんけど服服が日森日森と いうのがこれで3つ目ですね2万横あり 投稿して4番目富国に至るまで100里間 を田とい服を日森という千よけあり南の方 山一国と原文書いてありますが多分これも 山大国と書いてヤ国ですねに至るえ女王の 都子するところにして水行え等価陸行1月 間に息まあり次を見ましょうといい次をえ 見舞うわけですかねこれねといいえ次を 抜かてという七万横ばかり南の方妻国にる で私これ質感が乱れたと思うんで南の方南 の方え今の義姉和人天と順番ここだけ 入れ替えましたでも入れ替えたらですね あとは非常に分かりやすいんですよ水行発 日間を耳とい服を耳なりという5万横 ばかり国より異国はその個数通り得て略解 すべきもその世の母国は演説にして得て つまびらかにすべかららずつまり妻国も もうすでに 演説の王国なですねだから水行20日なん ですただ上国までは水行等日陸行1月なん ですこすると非常に義子和人殿がたった この一業を入れ替えるだけですんなりと 利定と日程とで分かれていくんですよで 最後にもう1回利定がまとめてあってえ軍 より上大砲軍より定国に至るまで万 2000より実はご関所に書かれた犬国の 都子までの1万2000里と実は300差 があったということを最初に紹介したわけ ですこれも今度の本に書いてるところです ねでこの端っこにですねちょっとえ ちっちゃく乗っけてますけどえーこれから やりますところのその日森の本当になで いいのかというこれマガですでここに赤字 で奴隷の戸という字書いてありますがね私 はもういつも言ってますこの字から ひらがな ぬカタカナぬが生まれてますよ だから国語の性格から行けば当然合音読み のぬと読むのがまず1番ですねところこれ がやっぱり同じくですね日本初期なんかで はこういう風にノという形で出てくるん ですよそしてまだこれも日本初期の奥一部 に等という形が出てくるんですがねだから え乞食万葉集なんかとの関係を考えていく とこれやっぱりヌとのという読みがあって まどという読みはこれは感音と言って後音 ですのでまこれはいつも私外しており ますって私どには国語学の検地から行けば 先ほどの金員にしても間の和のなの 国語それからあの南の上国の南く国あれは やっぱりあの高学の先生たちはく国く国 って言いますねどこになという発音がある んだとうん私が調べる限りここ東西中国に も日本にもこの奴隷のどという時になと いう発音はないんですよ全くないこんな 間違った弓をえ通説の歴史学の先生と高学 の先生が平気で続けてきてるわけですね NHKまでやらかしますもんねはいこれも 私の初期のはい村方の上陸の後です ねはいえ末路国5国ぬ国文国上国です大和 国ですねだから大和国田川説というの ずっと唱い続けており ますさこれをえこれもね初期の段階ですが ね松国えタグ石畑遺跡あたりですよとはい えこんなのが出ておりますこれ全部やい 時代の遺跡ですね推定船場の後も宗方教育 1会が出しておりますねはい次が一国です この頃は最初は宮町本条から小竹町亀山 八幡なんて書いてますねこれが私が初詣に 通ったえ旧宮町磯光の天生宮でございます ねはい次は国ですね飯塚作陽から茅の森 付近かなとま一応それであの1番の国と いう音に会いそうな脳八幡ってまこれこの これは簡単に考えよりましたけどねそして 富国これはこの当時にはあんまり分から なかったんですけどま多分糸田町の三山 遺跡の辺りだろうということは今空いて おりますそしてそこがもう上国の入り口な のでえ大和国はここに河原町から大東町 付近と書いてますけど河原町赤村大東町ま この辺りのどっかに都があったんだろうと いうことで今1つ大きな候補は赤村の オーバルでございます赤村のオーバルです えーとんでもない吉野以上の 大きな看護集落で全面やい時が出ます全面 やい時が出ます大変な遺跡ですただ赤村お 金がありませんので一切ほとんど ちょこっととしか掘ってありませんはい こんなことも言いよりますさあ5刻へ行き ますねこの5刻へ行く時にここにやはり私 こうオガンというのいつもこう描いており ます ねこれが 最初の国天道大和の国ですこの海がなかっ たらだめでしょ大は浦安の国 でしょどうしても海県の奈良県というのは 私の頭には絶対ないわけです混 Consider罪ないわけです おかしいでえここにあとえこの一国という 国ですがねここに逸大卒がいましてねで 国中を観察してますよとそして2回目以降 の義の使い大砲軍の使いはえ和国に使い する時このみ津5国の津にやってきました よこれが私の言うあの万葉州の8番かの 新たですよとここですよとここに大砲軍の 使い来てここに止まりましたよとそして城 の都子との間で え大和の大和の国の官僚ですね役人がえ この間の生きをしてええ使のえ伝達と女の 伝達とこうやってこうえ物と手紙をえこう やり取りしたということがこれ義姉人年に 書いてあるんですよねえここに文書えCの ものを伝送して上にいらしねさするをS なんて書い てこの海なくしては考えられないん ですですよね義姉人年に書いてんですよや 7件どうやって運ぶんですか どこですかい国の通 ちゃだって距離から行ったってとてもなけ に行かないでしょ生の島から行ったとして も唐津に行ったとしても私の説で宗方に 行ったとしてもその次がもう5刻なんです から陸行500人なんですからそこから どうやって奈良県のその女王の都と船で 生きするんですか何ヶ月かかるんですか はいでこれは今度は時代がずっと飛びまし て今度は通所は国で7世紀始め ですでそこにですねえこれはずの使いハ 生生という人物が来るんですがね中国の 使いが来たのはこれ2度目なんですよここ がそのずの排生生が来るのがでその工程が くだに渡りえ行にえ行に土にいり南の炭国 を望み津島国を経てはか大会のうちにあり えありですかね向こうですかねでまた東 生国にいたりまた地士国にいたるとこう 書いてあるんですよで石田さんという人が まこういう風に渡るとまソル人選イジ あたりだよとでこうやって南に下りますね でここが地道って場所ですあの今問題の この竹島とは違うんですねはいここです ちってこれちゃんと漢字で残ってます朝鮮 の古い地図にそれで南の方南の方炭国を 望み青州とチェジュドですを 望み津島に至ると書てで和国はその大会の 中にありますよって言ってるんですねで また東東東ですね生国にいたりまた地国に だこの時の終点一旦地士なんです よずの時代ですよでこの随所の1番最初に 和国というのは大和の国っていうの は義姉のいわゆる山大山となるものな りって随所書いてあるんですよだからひこ さんの大和国からずの陽大の時代ずの陽大 の時代ですよまで大和の国は地士も含めて 福岡県だったって中国の人には書いてある んですだから通説の先生NHK 大新聞ねそれが九州王朝論全部含めて おかしいんじゃないですかて奈良家には 何にもないですよ とでまあのひこさんが地にた豊にいたから あもう福長説は山国田川説から絶対豊にた よ ねはいこれも関係しますさあこれが通説の 日森 ですでよくこの字が当たりますねでここに やっぱこうひ森ってこんな万葉穴が当たっ てますねそかこんな日森日森ひ森とやっぱ なって読んでありますねこれウィキペデ アってえインターネットから撮ってきまし た3世紀から4世紀頃の日本の大和国これ は山太国とであるんでしょうね山健の国境 を守備する軍事的長の名称なて書いてあり ますね後に地名駅名神社名と残ると書いて ありますカとしても使われましたよとで 義姉和人年にはさっき述べましたようにえ 津島国生国野国文国の福間に日森がいたと 書いてありました ねでこれらの国々は大和国のえ外国公益 ルートに自子外的や族に対する守りを 固めるために置かれた男子の軍事的長の 称号と考えられるこれは当たってなくは ないですねで野国が一致した筑前の国には これは筑前と国になってます ねはいそれでえ春屋軍に日森駅明所があり 現在はひ神社が立っており日森が日森が 駐在したところと考えられるはいこれが その地図ですね飯塚教室のえとある方から いだきましたここに日森駅があります古代 ですよ でここにひも神社があります ねここ です結構遺跡ありますよ ねで問題これ土財布に割と近くですねここ 福岡空港ですこの位置関係覚えといて くださいね福岡空港近く春郡日森駅 とさそしたらまた和国でに戻りましてこれ も私ここで発表してるんですよ最初にです ね天野谷彦という王様がこのずの生線を 迎えた場所なんですねそれがどうもですね 航路間のこの近くで私これこれここにもう あげとるんですよねえ今のその笹線え今は えっと何でしたっけえ福北豊線の長者バ駅 付近にですねどうもこの時の打風の出張所 みたいなところがの近くにあったみたい ですここですね長者丸駅ねこの近くに遺跡 あるんですよ関外石みたいなものがはい これが福岡空港ですじゃああの日森と同じ ような場所ですねはいまこういうのもあの 一応いつも考えてきており ますそあと通説ではま演技評式というと からヒガの国に諸方軍それから蛍光天皇機 に森音日森が所在した場所っていうのって 宮崎県小林市細の 日森というのをあげてありますねそれから 霧島峰神社これも日森神社と称されたとで 熊覇に対する守隊が駐屯したところと考え られるそれから越後の国区軍ですかねえ 日森号を日森と君をつけているとそれから 新潟県明光市日森ちょっと音が変わります ねそれから美野の国厚軍に日森ですかま こういうとことがウィキペディアには取ら れており ますそしてこれは青線版日本国語大時点と いうまかなり大きな時点ですがそこに やっぱ日森が書いてありますやっぱ古代に おいて辺境の地を守ること都子から遠く 離れた防備の上で重要な土地を守ること またそのバスやそれを守る人でここに義姉 東伝和人が書いてありますねで日森の補助 中期にやっぱりあの地士の国に蛍光天皇が 行かれた時に日森に至ったというのは書い てありますねえ日本初期傾向18年3月 ですそれ和賞に先ほどの新潟県の区軍の 日森が出ておりますねでこれが小林市のえ 世界大百貨時点に取られた日森の地名の 説明 ですこれが通説です日森ですさあ今日は私 の説に入っていき ますもう前半の頂点 ですもうこの字が問題です ね 日森もしくは日森ですで言葉の途中にある 場合には脳が出てくるケースが多いので やっぱ日森と読んできましょうでその時に 私はあのよくあの本出しますが若が 解き明かす古代というシリーズを書いて おり ますでこの時にもやっぱり若がヒントに なったんですねこれ割と有名な歌です 読み人知らず春野 の飛ぶののいでてみよ今いくかありてわか な つてご金和州の18番かです ね神字じり戻しますとこんな意味ですね の飛ぶののりいでてみよ今行くかありて わかな つて飛ぶ日野 の飛ぶ日の飛ぶ日は春が代謝付近え飛ぶ日 はこれ飛ぶ日ののは野原のので解釈して ありますねで飛ぶ日はこの字です ほかのし台 ですで古代にしを打ち上げるがあった返事 が発生した場合にのしをあげて遠方の人 たちに知らせたのはその万人で歌の意味は 春の飛ぶ日ののを外に出て見てきてほしい あと何日待てば若名が詰めるのかおまこう いう歌なんですよとここれ赤字で私書いて ますよ飛ぶ日ののり縮めたら日の森って 書いてあるでしょ これあのし台の役になんだとあそれが義士 和人でに書いてあったんだともう1回どの 国にありました4カ国の副長官4カ国です よあのルートの中で4カ国の副長官が みんな日森だったんですよで私が行ってる 大和国田川説から行けばこう御河という 海もう分かりますでしょ津島にも飛ぶ日が あった息にも飛ぶ日があったそれから野国 に飛ぶ日があってそしてえ文国に上国の 入り口に飛ぶ日があってそこに副長官 日野森が全部いたえらいリーズナブルじゃ ないです かもうこの段階でもまた山大国奈良 建設とんでもなく無駄 でしょどこら辺に東大があるんですか次代 が距離的に無理でしょさあ次ですよこれも ずっとやってきた中でもねちゃんと出てた んですよまずこれ天地ですここにこの都 津島島津島って読むんですかね生島地士の 国2ですあだ2ですねえこれ某と書いて先 盛って呼ばせますねそれから法と書いて これを飛ぶって日本書読ませますね先と 飛ぶ日と大いって書いてあんですよでまた 地士に大包を築きてミを 蓄え蓄えとで名付けて水と言って書いて あるんですよで通説では日本初期の改ざん に基づいて664年白村光線の翌年に水が 作られた森と飛ぶ日が置かれたというまあ これまたとんでもない解釈するんですね 負けた後に水着つって何になるんじゃと 大体負けた後に敗戦国がこんな大工事 できるんかいなとねそれは第2世界大戦で ね日本が破れた時大日本抵抗破れた時 に今更射法作ってどうするんですかって話 と同じですねあれ武装解除されたできませ んでしたよね当時まだ大日本帝国の残り どこに東京の首都の周辺 に放課台なんか作ります校舎法 なんかでこ私にあの小を詳しく調べたら いやこれ意外と657年にできてますよと つまり白村光線の前ですよといやもっと 言いましょう660年のくだの 駅えここであの東白木の連合軍に攻められ たくだの疑似王が幸福した年が660年 ですねそのまた3年前でしょ3年前に水が 作られそれからえ先と飛ぶ日が置かれてる んですよリズナムでしょつまりこの時の打 府側の私が言う和国本庁地士側の王朝は もう等々ず等々ずっと校断絶してきたんで も敵対関係でもう戦争必死という状態だっ たんですよ だからまず自分の都を守ることから始め てるんですよ守りを固めてから出撃してる んですよとこはその660年のくだの駅で 日本初期に書いてある地士の君幸山が東軍 の捕虜になってるんですでその地士の君 幸山を取り返すために和国本庁打府川の 王朝はえ軍備を蓄えてそれで663年 いよいよ大決戦に望んで和国のえ船一戦層 をえ引き連れて白村皇に戦ったわけなん ですよだけどやっぱり400層が焼かれて 破れてしまったとこの事実と全部合います でしょうだ水は最初から作られてるんです よ ねくだの駅の前にねそれから白村光線です もんねはいこれその打布の周りを囲む ラジオという設備です全長 52kmこれ大野城ですこれ金城ですです ね水がここと南の千市のこの辺りに実は水 ありましただけど千市の市長がこの南の水 壊してしまいましたねもうこれが福岡県の 高古学の実態 です本当に悲しい限ですね水ですよ南にも 水があったんです よでこれラジと言いますあの田川竜之助の 小説で有名なラシ門のラシ ですで皆さんがよくご存知の奈良県の平常 教それは京都の平安教羅文はあります ラジオはありませんラジオがあるのは日本 全国打府のみでございますだ元々ラジオ門 はこのダフの昔の1番日本で最も古い女房 性の都子にラジオ門があったわけです この宮殿を解体して向こうの近畿に運んだ から近畿の平常教平安鏡にもラシオ問が あるわけです私が言ってそれだけですね この時に天地天皇がいらっしゃった和国 東長ではえ水巧みをして味噌ほらしむと今 たれここの味そを掘ったりそれからえ柿を 作ったりそれから吉野の宮を作ったりと いうことをなさってますねさあもう1回 戻りましょうはい天地天皇のところに書い てありますがこれダフ側の ダフ川の飛ぶ日でございますこれ が中間点の観葉点ですこれ天地っていうの はさえたんじゃありませんこれは打あの 和国本庁打府側の王朝がもっとはっきり 言います地の君幸山が作ったわけでござい ますねこの千の君幸山が後の天天皇ですよ て私言よるん ですじゃ天ていうのは本当に東何にも作ら れなかったのか はいやそこは大事ですよねそうしないと このすぐ前が随所和国での時代でしょ そして日子がいた時の義姉和神殿でしょ そこに日森がいたん でしょじゃあ天地天皇は豊国側で何にも 豆腐し作られなかったのかということに なってまいりますわねはいこれもよく出し ますねえこれブラ森に出たラジオですね はいでこれタレ水ですね河原町の宮治盆地 の地下を流れておりますね石組の地下水路 でございますこれも日本全国にただ1つ ですこれだけの天皇さ土木工場相当なさっ た天皇さんがじゃ豊国側 にと国側の和国において大和の国で何にも 飛ぶ日とにかく大外的にえ飛ぶ日を作ら なかったのかという疑問を抱えながらえ またこれこのでやりましたけど実は柿本の 人が残した万葉家の中から天地天皇がどう も瀬戸内会を巡行なさっているということ が見えてきたんですねでその時にえこの歌 を掲げてありますねこれひまの歌ですで それよりも大事なのはこの横に書いたえ この城ですねこれ神裂城でしたっけねえ これ西国の山治なんて書いてありまして 今原上浦町神崎ですかねで東条の地上機が 天地天皇10年671年ちょっと年代は アフィアですとされているのは当時にある え神崎え公人者のご書調査書き所からえ 紹介された医落ち市によるもので水軍上と しては最も古いものとされているそうです 天地天皇が瀬戸内会を巡行されて島々に 島々に飛ぶ日を作られたという記録がこの 後に出てききますねここですもう1つです 今度は えかのと人の歌があるんですがね え地図をちょっと拡大しておきましょう ここですねここに引田城ちゅうのがあるん ですよ東香川市です引田城もちろん瀬戸 長いの面してますねはいここにですね 引田城後がありましてね白の期限は遠く 天地天皇の6年667年これも怪しいです 11月八島地上野島ってのはご存知ですね あの原平の争いのところに矢島の戦いが あって吉がこれ滅ぼしましたねあの八島の 城ってのは天地天皇が最初に作られてん ですよ八島地上の時安倍のひふ引きいる 引田市によって築上したものであると言わ れまた八島城八島の木との連絡のために できたのし台として作られたのが白の 始まりになったとも言われているこれ瀬戸 会の伝承 ですなぜか和国本庁打府側がくだの救援に 向かって当白木の連合軍と戦ってる頃天地 天皇さん豊の天地天皇さんは瀬戸内会を 巡行されてあちこちの島々に城とのし台を 作られたというそういう伝承は瀬戸内会の え各県に残されているわけですねこれをま 浮き出してしまったわけですねこれがその 八島の木実際に発されましたこんな立派な 城です八島の木 ですで同じく書いてあります古代3条で 地上機は天字天皇6年やっぱり667年 って書いてありますねで地上車は大和町 とって書いてありますが私に言わすると これはえ豊国大和町でございますねの中野 大江の王子実は天天皇が作られたという ことでこの瀬戸内会の島々のこそ後に中世 戦国時代に活躍した村上水軍の城と全部 一緒ですだ村上水軍 はこれもちょっとちょっとねあんま はっきり言うとあれですけど天地天皇は 気づかれた島島を守っていた天治天皇の 水軍 海軍の残された人たち でしょこの人たちは戦国時代まで活躍し てるんですよ和国の水軍ですよ これもっとわいましょう大和王朝の水軍 です よやなんてことも考えるんですだからあの どの時代もですね本当は分断してないん ですよずっと何かが続いてるんですまそれ をあの歴史的にえ見ていただければ ありがたいなと思いますさあもう1つです ね農限の世界で というのをですねこの友田深夜さんという のは農学師が出していらっしゃるんですね ここに先ほどのコキはと似たような歌が出 てきて春野の飛ぶ日ののりいでてみれば今 行くほどぞわかな積むとで歌になりますが これにいでたる老人はこの春に年を経て山 にも通い里に行くのの沖にて相老なり ありがたや慈悲万病の春の色三笠の山に のどかにえごゆのえ秋の風春の里に訪れて 誠に誓いもすぐなるや神の宮に生き返り 運ぶ歩みもつもるおいのえさく御影頼む なりとそして次ですねモコまでも聞こえ あるこの宮寺の謎高き昔中ろが昔中ろが 我が日の本を思いやり天の原ふりさけ見る と嫁けえ三笠の山影の月間それは明中の月 なれやここは奈良の宮の春日の景色か春日 のど景色かなとま農教限の世界でさっきの さっきの春の飛日ののと安の中村の天の原 ふさ見れば春の三笠の山伊月かが一食体に なって歌われてるんですが ねこれもこの前そのこ先生の後を受けて あの発表した中でだその安倍の仲間が日本 に帰ってくる時に中国側の大飯と詩人がま 差別の死を読んでくれたというこれ一説の 歌なんですね五言廃立という詩でござい ますさあ一応ここえこれが多分安倍の中で こっちが大いですかねはい一応月眺めて おりますねで問題は天の原振り見ればの 天の原というのがこ先生が言われた ポリネシア後の天が生きてますよ とこれなんですよでこれ最後に土日記の木 のつというのがありますましてねでこの時 にあの昔中村が中国の土地で別れを惜しん ででこの天原の歌を読んだということが 説明してありましてねまその月は海から出 てきたそうだと問題この赤字の部分ですね これを見てぞ仲まの主我が国にこのような 歌を神をより神もみになり今は人々のえ神 の身分中の身分下の身分の人もこのように 別れを惜しみ喜びも悪い空しもある時には 読むとて読めける歌ということで小金若州 では天の原の歌は安倍の中間の歌になっ てるんですがそれを編集した木行は土佐 日記でいや違うよとこの歌は神よ我が国の 神よの時代から神もみになった歌だよって ちゃんと解説してるんですそして天の原と いうのはもうこの平安時代にもかなり古い 言葉で意味が薄れていったのかつはこう 読み替えたんですね 青原振り見れば春がなる三笠の山にいつき かもと呼んだそうだつまりもう平安の人々 も天の腹ってやっぱりひょっとしたら今の 皆さんが高校でだれたにぞをって思っ てらっしゃるこれはこ先生が言われた通り アウトリガー付きのの船があるところだ海 ですむしろ天の原って海 ですという解釈になるんですよねだから やっぱ古典読み替えなきゃいけないでしょ 木のつそれよく知ってるんですよ事情だ からワウ原ってわざわざ食読み替えてるん です よで優位を持ってどんどん入ってくこれ のし放火台え遠見台というえもう小さくて もう皆さんそれ見見えませんね はいえ拡大しましてもねあのここにこう のし台とかこういろんな書いてあってです ねでそれで作られた年が書いてあってこれ が重要なんですがほとんどねもう戦国機な んですよ戦国機江戸機うんこういう風に こう出ていくんですねで場所がですねここ に書いてあて山梨長野三重とかですね山口 香川とかえ書いてあって徳島徳島高知とま ここまで来ますねはいでみんなのし台とか いっぱい書いてありますはいえこれ はでこのページです ねこのページが1番大事でしてねここで 今度は 福岡福岡県佐賀県長崎県長崎県とこう ずっと続きますねで作られた年代がえここ にえ繁栄文化えとありますがここに1つ だけ天地3年640年以降っちゅうのが あるんですよお大野岳放課城後佐賀県今市 とあります大野岳山頂ってありますね私が 調べのてたったこの1つだけなんですよ 天地天皇の時代に作られたものとしてはで これが写真出てますこれです ねここにさもの峰とか書い書いてあります かねはい先物の峰ですえこれがその放火台 のし台の後立ちです でもう1つこうやってえ最後沖縄方面まで あるんですが ねところが意外と古代の のし台まだやっぱり高古学の先生が見つけ 切ってないみたいなんですよでそんな時に ですねこれがあの私がですねえっと逃たず に船乗り線とつきまてばもかに今は小でな でさっき高温川のところの新しい北と書く 右田のつあれがえ義姉和人年に書かれた5 国の津ですよってこと再出しましたねそれ についてですねえこれ連載故郷散歩道恩賀 川編でいずれも西野新聞地方版に掲載と あって2007年に出されてますでここに 法飛ぶ日ですね旧を告げる軍事通信とあっ てここにですねえ見事にです ねカラスを峠のすぐ北に火ノ山があり日の オの山とも書きます九州の火や頬がつく山 には古代の放火のし伝説が多く伝説多いん ですよ氷山の山頂にも放火台が再現されて いますこの放火はどこからどこへ何を 伝えるのでしょう古代の和国には国防の 緊急事態がありましたで663年の白村区 を上げてありますねで滅亡したくだを最高 すべく山政権がというここあたりはもう 全部通説で申し訳ありませんがカットさせ てもらいます先ほど入色上げましたねで あれば放課は水月大野城まで敵が攻めてき た時に長城や大和に通じる瀬戸内まで急を 告げる軍事通信ですとあってこれも通説側 によってますね瀬戸うの飛ぶ日は天地天皇 が作られてますその伝達ルートは正解権を 失った限界なを避けなければなりませんと か書いてありますねで御河川上流域の中心 に位置する費用山が非常に重要だとまこの 方おっしゃるわけですねそれで御河川周辺 の地形で放火通信のルートを最短距離で 設計すれば費用山を経由することになると でまこの方は西野三郡山から20km東の 大阪山からおよそ12kmで双方への 見通しをよく聞きますこうして費用山を 使うことでルートが完成するのです水 大野城三軍山氷山大阪山高白山ですかね 高木山ですかね神田町それが瀬戸内海 さらにえ常山え日野山長城へと達しますと で古代の放火台は残っていませんが発見し てないだけですそれぞれの山には朝鮮式 山白と言われる古代の交々跡がありますと でこれ書いてくださったのなんと国土交通 省恩賀川河川事務所長松木広太さんですね でこの方が私の立は船のりにえあ立船のり 先との歌の新たは倉手まの右田でいいんだ ということを恩が河川局の国土交通省の方 おっしゃってくれたんですよで私の説を 全面的に指してくださったんです全然分野 の異なる方がおっしゃってくれたんで私も いよいよ自信を持ったわけですがね この方がなんと火山にのし台があった と日日の湯は今もあります ねはいこ多分この方の関係の地図じゃない ですかねこれ ねはい光の道と馬の道今の通いですはい 水希大野城三軍さひさ大阪山これ高白山 高木山こ五所型にこしはいそして戸神山 木山長城 とまこういう風にちゃんとインターネット 引くとあるんですねでそれ西新聞の当時の これ写真だと思いますこの記事のとこです ね費用さに再現された放課 台 うんで今もあるみたいなんですねここです ねここにあの説明が説明書きがえ非さんの ところにありましてですねはい非神社上陸 自席で慶光天皇の頃云々なんて宗方三女神 なんて話がありましてねここに間違いなく ですねひ日野オデという法条のえ追跡でし たっちゃ石の遺跡残ってるんですよ相当 古いですよねこれねもう神代の時代ですよ ね神代の時代にひょっとしてのし台があっ たという可能性がここに見えとるんですね で次に商務の飲みをえこの辺りもまた出て きますはいでえ書いてあってえここにあっ た宮さんが下に移って架け間に移った ところが伊島神社だというような声とが 書いてあります はいそしてこれが今も山頂に残されてる東 これが放火台の跡らしいんですね私も 確かめてないんで覇気としたことは言え ないんですがいや確かに古代にここに飛ぶ 日があったんでしょうもうすでにえ先ほど の説明版によれば相当古い時代ですからね じゃあ日子さんがいた義姉和神殿のその副 長官の日森がいた場所としてここ1つ適切 な場所なんですこれ今日の私の後半の重要 点ですこれ大候補ですひこの時代の飛ぶ日 のし台がひょっとしてここにあったんじゃ ないかとはいそういうことを考えており ますねでこの場所についてですねこれは 現地伝承の雨降り八生神社飯塚市昔の海田 村ですねでそこのとこにやっぱり天地天皇 の統制まこの辺りでえ先ほどの津山先生と 重なっていくわけですが ねここなんですよここにここにですよ駒主 慎みてそうして索事務天皇に申し上げてん ですねでえ5日昨の新城地木にありと申す ここにもちゃんと5日の神の城って書いて ありますねでかつその東南にえ心霊あり 日野さというってここに書いてあんですよ で太古三女心ってこう書い てるこれじゃあ日野さんのいかの心情と いうものが事務天皇統制の時にもあっ たっていうん です大和国誕生直前にあったわけですで 宇島より表山を経て云々と色々書いてあり ますがこれは私が言うといでよろしく費用 のいだきに抽出しとで事務店のここまで 行かれたんですねそして駒主のに習って ここでちゃんとお祭りをなさったとまその 神々祀られたんでしょうねそしたら霊霊長 が切なに小より前おりでえ故障の小に とまりなきて曰わくいさいさあの例のいざ いざっていう文句ですね そして天皇がえこれを望んでえおっしゃる ことには神の使いだと美行すしと おっしゃったとゆによりて時の人名付けて これをカラスをと言うとカラスを峠て事務 天皇があのカラスの後えって言ったから カラスをとって助けられたて ですこれも一大証拠でしょだって事務天皇 の第あはひこさんですもんね私の説ではね じゃあもう事務天皇さん時にもいかきの 心情があるわけですよ先ほどご覧に入れた 日神社の後ですよあの石ですよもジムさん の時にもあるんですよということはジム さんが倒したのは犬国ですからあの金を もらって帰ってきた犬国王もやっぱり同じ このルートのこの日王さんのところにも やっぱりこの時代もすでに音川の沿岸に のし台があったってことですよねはいはい それを分かっていただければ結構ですま これ私が事務天皇統制で出した絵ですけど 先ほどの看板とえこのえ足立銀行さんの絵 を組み合わせただけです実 はヤタガラスというのはヤタガラス一族で ありましてね本当は人間でございますはい 本当本当のガラスじゃない ですさあそれではまた私のもう1つの得意 の方に行きましてええ万葉州ですねこれ 奈良の故郷を悲して作る歌一種というの ありますねでここに大和の国もう日本国 ですから天地天皇のずっと後ですこれ商務 天皇の時代の頃ですねここに平常警視と 書いてありますこれ奈良の宮と言っていき ますここに先ほどの小錦集のも通じます 春山三笠の延べ 安倍の仲間の歌とも繋がりますね 三笠ですねカスガですねそれからここが 今日重要ですい山飛ぶひがたにここに飛ぶ ひがたって万葉州にたった1か所飛ぶ日が 出てくるんです よこれ前から見つけてたんですで奈良の都 だていうん です奈良の宮の外れかどっかにちょっと 高いところにやっぱり飛ぶ日のし台がある んですよ平常教にのし台 ありこの歌がそれを証明するわけですこれ 書出し分ですね休シ大きの高か日本の国は えスの神の身をよりとあってえさっきの とこですねえ奈良の都子はかいの春なれば 春三笠の延べに三笠の脳って出てくる でしょ延べに桜 学え顔はまくしばなくえつ明さくれば山 飛ぶがたにですよね萩の絵をしがらみ 散らしそしてえこの奈良の宮を新たよこと にしあれば大身の引きの間にまり大身の 思いの通りに春原のうい変わりということ でここでこの歌はですねえシ天皇が平常教 から国教に移られたに作られたという歌な ん ですでその国教に移られたというのがこの 後すぐ分かってくるんですがね一応これが ま役なんですけどももしプリント見える ようだったら後でゆっくりお読みになって くださいはいとにかく先頭の時え平常教 から国教に移ったんで平常教が荒れている ということを嘆いた歌なんですそこにえ 平常教のえすぐ近くの駒山もちろん皆さん はもう奈良県と大阪府の間の山て連想され ますよね私はこれも福岡県のどっかにあっ たんですよて言いたいわけですでこれが 繁華ですね2種立古木宮子と塗れば道の しばさ長く追いにけり奈良の都は売って 変わって古い都になってしまい道のしばさ も棒に伸び放題になってしまったよとで脱 に奈良のも行けばえいで立つごとに嘆き まさるすっかり慣れ親しんだ奈良の都も日 事に荒れはて表に出てみるために嘆が募る とまこの年からえ5年後にまた平常教に 戻ってこられますけどね小天 のさあこれもこの講座でなんとか出しまし たけどもお仲間の桜井高子さんという方と 一緒にやりましたえ明鳥奈良時代の宮 と受上という地図でございます奈良時代に は平常況をはめとする全ての都子が地法に あった当時は日本国は大和の国は内国筑豊 と外法に分けられ同盟の国名や地名がある と内国と外法のどちらにあるか否定が 難しいさここに平常 教保軍仙町のところにつけてあります私 たちはここが平常教つまり奈良時代の中心 の平常教は福岡県河本軍京成町にありまし たよて言ってるん ですもこれも時代もとんでもない想でしょ であの今は奈良県の東大寺の大仏ですけど あの大仏もこのすぐ近くの薄井という ところに東大寺があってそこに置かれて ましたよっていうのもこれもえ桜井さんと 私の説でございますねでその大仏使われ てる銅はえ河原の街道書の銅ですね450 Tから使われてますね はいさあこれがその桜井さんの説明書です がねこれ原名天皇はねおかしい方なんです よその送りがですねその国その北の氷の 三門に雨の下シレススメラみこってご自身 でですね送りつけられとるんですよで鎌は 福岡県鎌ですね鎌市がありますね鎌はその 北の郡の地ですよ とで山上の奥が鎌三部作というやっぱり 万葉酒に歌読んでましてねでその中1番 有名な歌が白金もクも玉も何せにまされる 宝子にしかめ山もという歌があるんですね でこれも普通の高校の教科書ではマイホ パパの歌になっちゃうんですよところが ですねこれはここにちょっと書いてあるん ですがね実に怖いお話でしてこれです3択 に亡命し軍旗を共同する民 は慶運4年の命のりが指すその国の民とは 書いてありますがね古山中心に古山首元道 にこの原名天皇の時代に抵抗する軍団がい たんでござます非山脈にそれを山江が三択 に亡命する民と呼びかけてますけど同じく 原名天皇の正直の中にもえ3択に亡命し 軍旗を共同して え100日出世ずばその罪はめのごとすと いうま結局死刑だっていう象徴がですね山 の中に逃げ込んで抵抗してえ近所共したり 軍を共同したり兵器を共同して100日間 自主してこなかったら死刑にするぞという 天皇の正直は3回も出てるんですよその民 に向かって山の上の奥が白白金もくも玉も 何せに増される宝子にしかめ持って歌い かけてるんです歌一変します ね白金もクも玉も何になろうか 増される宝である子供に及ぶだろうかいや このみやしないと子供可愛いだろうと里の 子供と一緒に暮らすために無駄な抵抗は やめてさっさと幸福してきなさいって山上 の奥は三択に亡命するためも資材になら ないようにもう幸福してきなさいと里の子 と一緒にお暮らしなさんなさいって直前の 神の長官そう言ったんですよ山上のお 万葉酒ってここまで書いてあるんですよ とってもマホパパの歌じゃないん ですこれに関係するんですよ ねだから平常どこにあったんですか川に あったんです よでこれがすごいんですよ打布と平常教 これ食日本機っていうあの立国士の2番目 の本ですがね歴書ですが ね聖子ですよ そこにこれ書いてあんですよダフと平常教 は約1日の皇帝でこれ職日本議で藤の博す のランっていうのがありましてねこれ打 財布で起こったんですよねこれ読んだ読ま れたことあり ます高校の教科書出てくるかな藤和の博2 の乱てそれ追っかけますとね8月29日 原法とキビのきみの段階上層でしょ8月 30日平常教より打府へ帰る で9月1日打府で氾濫の準備9月2日調定 の患者が察知平常共報告9月3日頂Day で広継ぐ討伐の大将軍の決定従って平状況 打布は約1日の皇帝歩きです よダフ皆さんご存知の通りあそこから動き ませ んこんにちまでじゃ平常況歩いて1日どこ です かでしょい本当に食日本期書いてあるん ですよ私たち何にも解散してないんです から書いてある通り言ってるだけですから これを通正する学生さんはなんで奈良けに 平常教があると言うんですかねいや私に とって財布から歩いて1日は京成町ぐらい がやっとだと思ってんですけどねそして これは平安時代にできた存否文脈と非常に マイナーな本ですねそこのひつの中央が こんなこと書いてんですよひつのことダフ より奈良に至る1 日え今の記事 ですでこの平安時代のこのソフを書いた人 はやっぱり今の皆さんと同じで洗脳されて もう平安鏡の 南今の奈良県大和の平常教だと思ってん ですよえその平常教と九州の打法1日で 言ったおかしいとこの人の解決策ひつは 異能者 だエスパーだこう言っちゃったですい こっちの人のはよっぽど頭いいですよもう 日本の通説の学者さぽと頭いいですいや 不思議だ不思議だと行けるわけないやん 奈良県から福岡県までて1日でいやだから もう藤原博はいしこっちの人はよっぽど 理性的ですよいや私たちはこれをまた現代 に戻していやそうよと平状況は本当は財布 から歩いて1日のとこにあったんよ もう1回言いますよ立国士の2番目ですよ 我が国の精子ですよに書いてあるんですよ おかしい でしょはいということで従って平常の地は 大まかに現在の飯塚昔はかほ軍内あたりと 推定できるってこと言ってるわけですね そしてここに菅原地区これはあの今京成町 に八区があるんですけどね八のことですね そこの人たちの休日ありにどいてもらって 平常教を作ったっていうやっぱ職人本義 書いてあるんですよで恥市はえ公認天皇期 にえ巨地の名を取って菅原という生を 名乗りたいとえ要請して許可されたという こと蘇の道は八市出身なんですねという ことは経線町に先祖がいらっしゃったん ですねその人の名はのみのスネさんですね はいこれも分かっておりますはい平常教は 恥師の巨地である菅川の地に建造した飯塚 ありで恥のつく地名が経線に多数存在する がそのいずれかが候補地である可能性が 高いそしてえこの平常教は資金図に叶う現 え青龍主客ビコ見部のこの指針がこういう 風になえ東西南北にこうねえ東南西北にえ 配置されるわけですねこの間に平常況置か れましたよっちゅうんですそしたらえ東泉 高川西旧崎街道南た地北大人 山ということで諸日本議に書いてある地理 的にも平常教ってやっぱ京成町だろうなと 私たちずっと思い続けたわけですねもう1 つ散々賃をなすというこれも平常教の条件 というか不事項ですねそ平常教ここにあり ますで南のその3つの山何だろうと思って みよった故山平山馬山なんですで奈良県の 平常橋にはその南にこの散々が見えない ですどれでかいなっていう くらいだからどう考えても打布と1日の 工程それらを全部総合するとここにあった んだろうなとでこの83区のところに大国 点があったんでしょうとそれからこれが 主因寺ですねこれも京成町にありますね この個図見てください今の主時ってのは もうこの辺りにちょこっととしかないん ですがね50のとも立ってますよそこから 一段降りた先にこうやって門前町と言い ますかね描いてありますねこれ寺に行っ たらこの小もらえますいやかつて奈良時代 こんな大ガラがあったんですよ京成町 東大寺も薄にあったんです よあの織田あれ何でしたっけ美術館とそれ か 超さんねうんとあのテの大あのテラスです あのテラスに東大寺が立っててあそこに 大仏がデーンて育ってたんですねはいで これが大国で後とわる長いおじさんです ねさあこれで私が何を言いたいかと言っ たらやっぱりこれです天平12年740年 え先ほどのあの万葉師の歌がえ平常教から 国教に移って荒れていくのを歌った歌でし たねその写ったのが実は票12年の12月 なんですよでその票12年のこれは8月 ですね8月9月ですねここで実は先ほどの 藤のひつのランが起きてるんです よはい藤のひつのランです ねでそうしますとねこれであの大事なとこ だけもちょっとやっていきますけど ね うんとえはとは言っ たまずここですかねえ9月え12日ひつ ついに戦を起こして 背くでこの時の軍の中にこう林とはたちが いるんですねこれも重要な点ですね覇が まだ北九州京成町にいたんですねはい そんなことが書いてありますこれが1枚目 です ねだ立花のス諸江とかですよえみんなこの え京成町からダフにかけてみんないたん ですねさあそこでえここの当たりが非常に 重要になってきますこの食日本議において もこのひつの欄は全部書いてありますけど ねもうこの辺り地名見てくださいほら豊国 宮子軍でしょ菊軍室 でしょハの国トヨ軍ですよみんなここ でしょこれ書いてあるのねそしてここは 問題ですはい広は丘の軍丘出ましたよ恩丘 です音川です丘の軍に軍用を作り兵動 もく玉を大きく見してご覧くださいしかし て飛ぶをあげ て奈良時代です よ丘の土地ですよ飛ぶ日をあげたんですよ 藤原 ひつそろそろ皆さん頭柔らかくなりまし た福永が最後に何を言いたいかもうすす 見えてきまし た見えてきたら めでたいことでござい ますねそれでくの戦をはりえせりというと 申すとこれ使いでしょでその次に今度はえ ここにもまたえ無前独の都軍大量とかです ねこれみんなこれ無前の土地のこと書いて ありますよね私何も作ってないことこれで お分かりでしょさあその次にえ今度は地 市内とか色々出てきますけどねもう色々出 てきますとなか戦がずっと起こるんですよ そしてえここに矢幡の神なと出てきます けどねこれほとんど無前の国の八幡神です からね言っときますけどさあそれでえその 中でえこの4枚目あたりの大事なのがえ このいよいよ終盤線のとこここですその ひつが通った道のことが書いてあるんです がねここには無前文語なんて書いてあるん ですよ直前逐語とかねで5000人を引い てここですクテジより ゆかこれ本当ショック書いてあるんですよ クテジってどこです かはいここ3行 目 田路より ゆけねちょっとちっこいですけどまたあの お家でちょっと虫命令使ってみてください さあ藤和の博の部隊が福岡県だってことは これ皆さん色のないでしょこんな具体的な 地名書いてあるんですよしかし多分教科書 には飛ぶ日なんて出てきませんね丘の飛ぶ 日 ね何度言ババ丘の飛ね商務天皇の時代です よ商務天皇の時代ねでもう1つねこの藤原 のラで面白いのがですねもうほとんどこの 後 えー負けましてねで彼ね西の海に逃げて いくんですよでそれでえ行くんですけどね ま風に遮られて結局戻ってきて捉えられる んですがその時彼が西海で見かけたのが これ田村の島なりなんです よもうお忘れでしょあの随所和国殿に出て きたあの炭羅国ですよ 最終とチェジュドですよあそこまでひつ 逃げてるんですよ破れ てつまり平常教無事だったんですよあれ だけ周り攻められてんの に商務店のこの時ちょっとねどっかに一 時期見よか隠しになるんですがねで乱を 沈めた後もう数平状況戻ってらるんですよ その後12月にいきなりこ国教に移られる という先ほどの歌になっていくわけですだ から私は状況はいやどう考えてやっぱ打と 1日の距離形成待ちですよってこと言い 続けるわけですねここにまた玉のも出まし たね随所和国電でした ねここまで共通行出てくるとは思わなかっ たでしょさこれがその打布無前艦の交通路 でございます ねはいえいろんな人の説があります クテですかねそれから これかけまなんて字見えてますねでこれ 田川字ですね田川字ですねここに伏見が ありますねほがありますね田川があります ね鏡山がありますね御所ヶ谷がありますね ほらこれ全部これ藤原ひつのランですよ これ関係図ですよはい綱手の軍の進路とか 色ここダフがありますねでここには書いて ありませんが平常教がここら辺になった わけですね打ここですねはい打布1日です はいという関係図が見えるわけです よで飛ぶ日について今度は飯塚市歴史資料 官の館長の島田光一先生がですねこれは でしたか2019年17年でしたかねこれ でその恩 が恩が川の感動となんととかとかいうあの 公園をなさったんですねそのうちのところ に飛ぶ日についてちうのがあったんですよ でこれまとめてあるんですよ非常にいい まとめなんです飛日立礼国家のって書いて ありますけどもう私は今卑の時代事務天皇 の時代坂の冒頭してますね立礼国家の通信 制度昼は煙夜は日つまり夜は東大なんです で日本主義天地天皇これはもさっきあげ ました ねでえそれでえ飛ぶ日の感覚っていうのは 40里えこの時は約21kmということだ そうですで管理2人の包丁が飛の町が3つ の峰を担当するこれ実量時代ですよで奉子 ちゅうんですかね飛の子が4人2人ずつの 中夜交代で24時間体制そして煙は1刻 30分間え火は1個1速のえこれなん でしょうね過去ですかねが燃える間の間に もし伝達先の次のえ方のしが反応しなかっ た場合は人が走って連絡するとかまそう いうことがえ色々と書いてありますでそれ から演技式の兵部書というのも書いてあり ますねこの時はえいろんなことは書いて ありますが軍防例にやっぱり細かい定めが え実量国家の時代にあったということが 書いてありますそしてここですね旧ほ鎌軍 の飛ぶ日についてとでその島田先生がうん 職日本木でですねえを通しながらやっぱ おかきになってるんですがねこの東原ひつ のら出てくんですよで岡の国に人用設置で さっき読みましたでしょでその時に打不動 え打富士沿いに飛ぶ日の設置と書いてある けどうーん島田先生なんで王っていうの ここまで書いといてなんで丘の飛ぶ日を あげなかったんですかねなんか打ふざけに しってるんですね打不沿いにま一応田川道 も入ってきますけどねでま無前寺のえ飛ぶ 日の設置場所それ米山峠関山峠でその両峠 の距離が18kmということでえちょうど 飛ぶ日の標準距離ですよとでここにえっと 竹の山とかいう私もちょっと知らないです けどね兵庫540m関の山峠それから 80m小さな独立級がありますよと現在 展望症になってますよというところあるん だそうですで飯塚白楽1え京成町どえそれ から吉熊瀬戸の小日熊はえ飛ぶ日の場所か とで独立給料の大正人山さっき私どもが あげた平常教の北に位置するのは大正人山 です ね標高 112.4Mの周囲にあるとまこういう ことをえ島田先生もお出しになっておられ たわけです はいでこれが先生がえ出されたええ鎌群の 地図ですねやっぱり田川のこですねでここ これが竹のだそう ですはいザフですねそれがほ群家があって これが日です ねでここら辺に大正寺山ありますねでここ がえ関の山ですねで至る田川駅と馬市とま こういう地図をになっていらっしゃいます そしてこれが先ほど私共が出した京成町の 平常橋の後です北現のいるところこれ大正 人山これがあの万葉州に書かれた飛ぶ日が たではなかろうかと私は思いよるわけ ですでこれに戻りますがね松国一国ぬ国文 国大和国 日子さんの時代その前の任務天皇が日山に 行かれて いるでそのまた前の犬国が五間の時代に 神部亭のところに使いを出して金をもらっ て帰ってきているそして1番最初に戻って こ先生の雨の岩船のアにはポリネシア語の 雨が響いてますよと いうあの古さから考え てこの丘の海に世界のあちこちから人が 集まってきてたとすると丘の海には当然の ことながら特にあのポリネシアの人たちは 星座を見ながら後悔したって記録が残って おりますハワイアンもねだ夜にも移動する んです船ででそれで私があの抜き出したえ 逃たずに船乗り線とつまてば塩もかないに 今こでないやっぱやかに高校してます でしょ 何を見ていくんですか大きな入江とは言っ て星空だけじゃ危ないでしょどっかの騎士 に当たって岩に当たったらだからその危険 を知らせるために昼は煙夜は火東大 まさしく飛ぶ日があるん でしょそれを守るのがもう1回義姉は人年 に帰ってください津島の国 の副長官日の森 飛ぶ日のの森ですよね小若衆に生国の 日森ですよ ねそして今度はえぬ国の国の 日森そして富国の日野森なんと4カ国に 日森がいて福間に日野森がいてそれが やっぱり丘の海の沿岸だったとするともう 大和国は上国は事務が最初に立てた大和国 は私の言う田川説で動かないですよね奈良 県の駒山のとこに古代ののし台があるん ですかあれだけ国の予算かけて掘ってる 奈良県の周囲に飛ぶ日の跡があるんですか ありませんこっちあります ありますその気になって探せば大商人山の 上にだって乗第の後あるかもしれませんそ したらあの万葉酒に呼ばれた奈良の古木 都子故郷はやっぱり京成町平常教になり ます姫子の時もそうです ねだからもうポリネシアこの天から始まっ て私の説はもうここまでまた一期火星に 進んだんですよあれを日森と呼んできた 通説がいかに間違いだったかもお若かり でしょ地方の長官なんかじゃない です義の使いを和人の船が連れてきますず の時代の生性も和人が連れてきましたこの 公開時には夜やります東大がないと無理な ん です騎士に近づけば近づくほど ねだからやっぱり大和国は大昔から少なく とも私が言う天皇の 894年までやっぱり経線町 に平常況があったように大和の国は古代 から紀元前から幹部天皇の身までギリギリ 全部福岡県に都子がありましたこれが大和 王朝の始まりですそして894あごめん なさい 784年でしたねはいにえ長岡に戦とし ますね九州の天皇家九州の宮子が初めて 近畿に移動した時でござい ますだから今日の後半はその日子義姉神殿 に書かれた日森を通してもうこれでえ山 対抗近畿節というあの考白の先生たちは もう国民に嘘ばっかり言ってる人たちで あれでお金儲けしている悪徳非道の人たち だということを強調して今日は終わりにし たいと思 はい はい先生ありがとうございましたえ質問が ある方いらっしゃいます かよろしいですか ああのすいませんえと大変あの納得が できるというかいいあのお話をいただいて 非常にありがたかったと思いますけれども あの時間もあろうかと思いますので一点 のみその自主は人前の予定の件なんです けれどもえこのまこのページ1枚目2枚目 の裏側にま予定も書いてありますがあの 増田国とか伊戸国なりま山国こにあったと した場合その御河というか音川が並行して 走っていてでま船でこれ来たのであれば これそのまま船でそのまま音川に入って 伊国南国富国の方に水路できた方が スムーズに移動ができそうなのにどうして わざわざこの松国とあのまかかれてる ところに上陸して陸路で移動をしたのかな というのがすいません質問ですはいえこれ はもう前から少しずつ申し上げてるんです があのここに書いてあるこの5国の2です ねでこれはですね第2回目以降の義士大砲 軍士なんですよで第1回目の時はですね まだ日子と同盟結んでないんですでそれで なおかつ日子さんはその和国が結局義と いう中国のあの北側の帝国と同盟を結ぶと いうことでこれをですねえ私があのいつも 言っておりますよ津島も息もそれから松も いつもえぬこも不国もそうなんですがここ でですね義の使いをのレセプションをやっ たんだと思うんですよでそれが多分実行1 月だろうなとだ歩き通したわけじゃないと 思うんですえそれでこの日子さんが やっぱりその三国のうちの主要国の人たち にいやこれから義の国と同盟しますよとで そのレセプションをあこでやって1月かけ てここに行くとでここで初めてえ審議和員 を頂戴してこれでやると同盟関係になり たきますよねだから第1回目の義の使いの 役目というのは非常にそういた点で和国に とっても義のにとっても重要だっったと思 ありますだからわざわざここの松国から 上陸してまこういう風にえ陸行1月かけて えここでえ同盟結んでそして帰っていった んだと思うんですね第1回目はそ第2回目 はもう同盟が整理しましたんでおっしゃっ たように5国の津に入るわけですで上国と の間でえ和国の役人がこの間を取り継ぐと いうこの文章ですねでここに文章えCの ものを伝送してえ上にいらしめというこの 文句が生きてくるわけですだから第1回目 と第2回目以降の使いの順路が違いますよ その通りなんですいや本当に最初から同盟 結んですっと入ってくるのは本願はすっと 入ってくるの1番楽なんですそれをし なかったということは私もあの悩んだ立 一月やっぱこれが その和国とあの義の国が同盟を結ぶ上での やっぱり重要な儀式だったろうなと思っ てるんですねそれが以上私の今の推察です どありがとうございまし た他にございませんか あないようでしたらえっと今回はえっと 終わりたいと思います先生ありがとう ございますはい [音楽]

黄當時先生の【「天アマ」は、ポリネシア語の「ama」を漢字で書き記したものであり、全称を「天鳥船、天鴿船、天磐船」という船舶の略称であること、「鳥を舶載する、アウトリガー・フロート付き外洋航海船」を意味すること】という説を演繹し、「天満倭國(あまみつやまとのくに)=倭奴國(いのこく)」を解説。対馬國・一支國・奴國・不彌國の副官の「卑奴母離」は「火の守」であり、「烽火台を司る役人」だったと解明できた。神武から聖武天皇の御世まで「烽火」は遠賀の海の沿岸とその周辺に設営されていた。邪馬臺國の玄関である不彌國(糸田町)の「卑奴母離」は、福智町「日王山」頂上にいたようである。
 邪馬台国田川説を補い、邪馬台国近畿説の崩壊を知らせる烽火を田川の地で上げた。

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