広島発祥のエスキーテニス 「子どもたちに楽しみを…」平和願い考案【ワイド!スクランブル】(2025年5月28日)
今年、戦後80年を迎えるが、平和を願って広島で生まれた「エスキーテニス」というスポーツをご存じだろうか。スポーツを通して平和を学ぶその姿を取材した。
■エスキーテニス ルールは卓球とほぼ同じ
東広島市立龍王小学校では今、あるスポーツの体験授業が行われている。それは、77年前に広島で生まれたエスキーテニスというスポーツだ。何やらラケットでボールを打ち合っている。その道具を持ってみた。
久保田直子アナウンサー
「(ラケットは)そんなに重くなくて軽いですね、持ちやすい。ボールは、バドミントンにもちょっと似ているが、大きいのでちゃんとラケットに当てて楽しんでいます」
子どもたち
「(Q.エスキーテニスやってみてどうでした?)楽しかった!」
「(Q.どんなところが楽しかった?)ボールを当てられた時の音が気持ちよくて楽しかったです」
そのエスキーテニス、ルールは卓球とほぼ同じ。
そして、今回子どもたちと一緒に久保田アナを指導するのは、日本エスキーテニス連盟の東城瑞穂さん。
「今年80歳になります」
そんな東城さんの指導はシンプル。例えば、アタックのコツは「上げておろすだけ」。
東城さんの分かりやすい指導のもと、子どもたちはメキメキ上達。そして、久保田アナもアタックが華麗に決まった。
しかし、久保田アナはエスキーテニスの“ある落とし穴”にはまっていた。
エスキーテニスには同じプレーヤーが2回連続ノーバウンドでボールを打ってはならないというルールがある。久保田アナはついつい体が反応してしまい、この反則を繰り返していたのだ。
エスキーテニスの考案者のひ孫・宇野本翼さんはこのルールについて…。
「やっぱりコートが4×8メートル。狭いコートなので、ネットの前に立って何回も同じ人が打っていたらゲームとして面白くない。なのでパチンと打って返ってきた球をよけることでラリーが続く。ラリーが続くのが面白いし、このルールを使っていろんな戦術が生まれる」
■「子どもたちに楽しみを…」平和願い考案
エスキーテニスは単なるスポーツではない。
広島県有数のマンモス校・龍王小学校。午後になり、5年生全員193人の前で翼さんが話を始めた。
翼さん
「いきなりなんですけれども、広島市に原爆が投下されたのが何月何日か知っている人」
子ども
「8月6日です」
翼さん
「はい正解、そうなんよね。原爆が広島に投下されたのは1945年8月6日」
エスキーテニスの授業は体験学習だけでなく平和学習とセットで行われる。
「一番左に立っているのが信さんで、僕のひいおじいさんになります」
翼さんの曽祖父・信さんは、広島で靴の製造・販売店を営むなど実業家として活躍する一方で、120以上の特許権を持つ発明家としても知られていた。
そんな信さんの13歳だった娘・武子さんが原爆投下のおよそ1カ月後に亡くなった。
平和学習では信さんがしたためていた手記が小学校の先生たちによって朗読された。
エスキーテニス考案者 宇野本信さんの手記
「口からは毒物であろう青黒いものを吐き、歯茎が溶け、目・耳・鼻からは血うみが出てくるのです。腸が溶けてゆくのでしょうか。激しい下痢が始まり、もがき苦しむ様子はそばにいる者には耐えられないものでした。そんな状態でも意識ははっきりしていて、自分は何でこんな目に遭うのかと訴えてきます。『一体、私はどうしたらいいの?』『武子、世界平和のために犠牲になるんだよ』」
失意の信さんは武子さんの死からほどなくして、県から「原爆で廃虚になった広島の子どもたちに楽しみを与えるスポーツを作ってほしい」との依頼を受けた。
そして、1948年、武子さんの分まで子どもたちが楽しめるようにとエスキーテニスが考案された。
誕生から1年後の1949年には当時、皇太子だった上皇さまが広島を訪れた際、エスキーテニスを体験された。
広島市のシンボル、平和大通りに専用コートが設置され、広島に本社を置く自動車メーカー、マツダにも工場内に100面以上のコートがあり、昼休みは職員たちで大にぎわいだったという。
そして今、信さんの代から数えて4代目の翼さんは自分の使命を“原点回帰”だと話す。
「(エスキーテニスの)原点は『子どもたちに楽しんでもらうスポーツ』。子どもたちにどんどん広めていきたいという活動を頑張っています」
■杉村太蔵が体験「生涯スポーツとしてすごくいい」
久保田アナ
「広島の子どもたちのために生まれたエスキーテニス。きょうはセットをお借りしてきました。広さの関係でちょっとコートは狭めですが、斎藤康貴アナウンサーそして国体優勝経験者、テニスの杉村太蔵さんが体験します」
杉村さん
「本当にどこでもできそうな。ちょっとしたスペースで」
久保田アナ
「コートはテープも張れてすぐできます」
「宇野本さんは、テニスと卓球とバドミントンを足して3で割ったようなスポーツと話していました」
杉村さん
「確かに同じ人が2回打っちゃいけないというのは戦略性が生まれますね。面白い、面白い!」
大下容子アナウンサー
「斎藤さん、どうですかやってみて」
斎藤アナ
「ラリーを続けるためには勝ち負けも大事ですが、思いやりが大事で。続ける喜びがあるじゃないですか。そういうのも育まれてすごいいなと思いました」
大下アナ
「やってみたいって思いますね」
杉村さん
「球に工夫があるなと思ったのは、恐らく原爆が落ちた時は建物がなかったと思うんですよ。体育館もなかったので、屋外である程度風が吹いても影響がないような重みのあるボールなんじゃないかなって打った感じはしました。当時の工夫を感じますね」
久保田アナ
「だからこそ羽根がつけられて、その羽根も工夫を重ねてこの状態になったようです」
大下アナ
「ラリーが続くようにというルールもいいですよね」
萩谷麻衣子さん
「平和で幸せな感じがしますよね。私もさっきやったんですけど、子どもだけじゃなくて結構、年いった人でも全然…」
杉村さん
「生涯スポーツとしてすごくいいと思う」
久保田アナ
「ぴったりです」
■競技人口減少も…普及への切り札登場
ただ、エスキーテニスは深刻な課題に直面している。
日本エスキーテニス連盟によると、かつてエスキーテニスの競技人口は広島県内だけで30万人いたそうだが、現在では全国でおよそ3000人に減少してしまっている。
そこで連盟を中心に、小学校などで授業でも平和学習とともに普及しようという取り組みが進められているが、実はここに来て現状打破の切り札が登場した。
エスキーテニスの普及に尽力する考案者のひ孫・翼さん。その隣には同じく小学生を指導する若者の姿があった。エスキーテニス考案者・宇野本信さんの玄孫・宇野本愛生さん(16)だ。
「僕は5歳の時からエスキーテニスをしていて、エスキーテニスと一緒に育ってきました」
26日、158回の歴史あるエスキーテニスの大会で史上最年少優勝を成し遂げるなど、その実力は折り紙付き。それだけではない。
「1万3000人を超える応募者の中から(男性月刊誌のモデルコンテストで)ジュノンボーイとして15人のファイナリストに選ばれました」
期待の王子様が今は普及のために力を入れているが、それまでの経緯を伺った。
現在、日本エスキーテニス連盟の理事を務める翼さん。考案者の信さんのひ孫にあたり4代目だが、エスキーテニスをPRするにあたって、どうしても芸能人など有名人が体験してくれると広まりやすいが、なかなか来てくれないというのが悩みだったそうだ。
それが、ある時ふと息子さんを見てなかなか顔が整っているなと感じ、息子を芸能人にしてしまおうと思いついたそうだ。
そこで、長男の愛生さんをジュノン・スーパーボーイ・コンテストに勝手に応募した。当初、愛生さんは「えっ!そんなの知らないよ!」とちょっと怒ったそうだが、コンテストではファイナルまで残り、結果、芸能事務所からスカウトされ芸能界デビューした。
現在、芸能事務所に所属しながらエスキーテニスで最年少優勝を果たすなど、エスキーテニスの王子様としても活躍中だ。
愛生さんは「ひいひいおじいちゃんが作ったエスキーテニスが僕の誇り。エスキーテニスを広めることが宇野本家の使命だと思っています。平和を願うとともに世界中に広がって、オリンピックの種目になればうれしいです」と話した。
(「大下容子ワイド!スクランブル」2025年5月28日放送分より)
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