佛通寺(ぶっつうじ) 臨済宗の禅刹 最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺 広島県三原市高坂町許山22 #広島 #三原市 #広島県 #佛通寺 #仏通寺 #臨済宗 #佛通寺派 #寺
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は仏通寺川沿いの「佳き山水の地」 を選んで建立された。
佛通寺(ぶっつうじ) 臨済宗の禅刹 最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺 広島県三原市高坂町許山22 #広島 #三原市 #広島県 #佛通寺 #仏通寺 #臨済宗 #佛通寺派 #寺 202504 @akibingo
そもそも佛通寺は,應永4年(1397年)小早川春平公が 愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。 佛通寺の名称は,愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし, 彼の諡号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。
小早川家一族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し,最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後に荒廃にむかい,小早川隆景の治世になって やや再興したものの,福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて, しだいに当時の面影を失ったのである。 しかし,明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年, 初代管長の寛量思休禅師のもと臨済宗佛通寺派として天龍寺から独立復旧し, 参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。
なお、詳細は下記の 年表に記載してあります。
愚中周及(佛徳大通禅師)
愚中周及は, 美濃(岐阜県)で生まれ, 13歳の時に 夢窓疎石(天龍寺の開山)の下で修行し, 後に春屋妙葩の下で修行した。
19歳の時に中国(元の時代)に渡り(1341年),最初、月江正行に参じ、ついで 金山寺(中国湘江省)の住職であった 即休契了(佛通禅師)の下で約10年間修行に励まれ、その法を嗣いだ。
中国から帰国後(1351), 京都の五山叢林を嫌い, 丹波(現在、京都府福知山)の天寧寺において多くの弟子の育成を 行った。春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)すると ともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺にて示寂し、佛徳大通禅師 と諡号された。
1397年 小早川春平公が愚中周及禅師を招いて佛通寺を創建する
1403年 瀬戸田に向上庵(現:向上寺)を建立する
1406年 春平の妻松岩尼が含暉院を興造する
1408年 覚隠眞知が住持となり,愚中周及禅師は将軍義持の懇請により京に行く
1409年 愚中周及禅師紫衣を賜る。8月示寂,佛徳大通禅師と諡号される
1411年 含暉院の佛殿が建立される
1416年 本寺の佛殿が建立され,本尊が安置される
1423年 佛通,天寧両寺の住持の交代要員が定められる
1436年 含暉院を除く諸堂宇が焼失する
1439年 本寺の佛殿が再建される
1441年 将軍家祈願所となる。住持の輪番規定が定められる
1508年 大通禅師百年忌
1511年 「佛通禅師住持記 法」が成立する
1550年 小早川隆景が沼田小早川家の養子となり,佛通寺の外護者となる
1600年 福島正則が寺領を没収する
1603年 福島氏から58人の扶持米と紙子代78石を給与される
1608年 大通禅師200年忌
1619年 浅野氏が領主となり,佛通寺の外護者となる
1708年 大通禅師300年忌
1808年 大通禅師400年忌
1874年 住持の輪番制が廃止され,養堂文拙が単独で住持となる
1876年 天龍寺派に属する
1903年 大通禅師500年忌
1905年 天龍寺から独立,佛通寺派となる
1997年 大通禅師600年忌
2001年 開基小早川春平公600遠年諱法要
2002年 佛通禅師修復開眼供養
仏殿
所在地 広島県三原市高坂町許山22
位置 北緯34度27分21.1秒 東経133度1分35.6秒座標: 北緯34度27分21.1秒 東経133度1分35.6秒
山号 御許山
宗派 臨済宗佛通寺派
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 1397年(応永4年)
開山 愚中周及、即休契了(勧請開山)
開基 小早川春平
札所等 中国三十三観音12番
安芸三十三観音25番
山陽花の寺21番
文化財 含暉院地蔵堂・絹本著色大通禅師像(国の重要文化財)
木造佛通禅師坐像・佛通寺文書ほか(県重要文化財)
法人番号 8240005011787
多宝塔
佛通寺(ぶっつうじ)は、広島県三原市にある寺院で、臨済宗佛通寺派の大本山。山号は御許山(おもとさん)。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十二番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十一番札所。
紅葉時期の景観はすばらしく、県内屈指の紅葉の名所として多くの参拝者や観光客が訪れている。
御詠歌:わがつみを お許しうけて 今日よりは 仏にかよう こころうれしき
歴史
佛通寺は、1397年(応永4年)小早川春平の開基、愚中周及の開山により創建された。春平は奉公衆として京都で足利将軍家に仕えており、同僚の那珂宗泰と親しかった。春平は宗泰から、那珂氏の所領にある天寧寺にいる愚中の名声を聞き及び、彼を招いて氏寺を建立することで、南北朝時代の動乱のさなか自立性を強めた一族内の結束を図ろうとした。佛通寺の名は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、その諡号「仏通禅師」から取られており、場所は佳き山水の地を選んで建立された。
1409年(応永16年)には後小松天皇から紫衣の着用が許されたが、同年愚中は示寂、以後弟子たちは愚中派として臨済宗の中で一派を形成した。1441年(嘉吉元年)足利将軍家の祈願所となり、小早川氏のほか毛利氏の保護も受けの帰依を受けて、最盛期には塔頭88、西日本に末寺約3000寺に上ったという。しかし、応仁の乱以降寺勢は衰え、小早川隆景の代でやや盛り返すも、その後の権力者の変転の中で取り残されていった。
明治維新後は、上地により寺領を失い、諸堂は荒廃していった。1876年(明治9年)に臨済宗各派が独立すると天龍寺派に属したが、浅野氏の外護により、同年に含暉院が再興されその後は地蔵堂が改修され三門が建てられた。そして1905年(明治38年)には天龍寺から独立して臨済宗佛通寺派を称し、その本山となった[1]。また、日中戦争前には、陸軍軍人・作家の杉本五郎が精神修養のために同寺へ足繁く訪れていた。
伽藍
法堂 仏殿を兼ねる。寛政8年(1796年)の火災の後、広島藩主浅野氏の外護によって文化文政年間(1804-1830)に建立された。本尊は宝冠釈迦坐像、脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩が祀られている。天井には菅南山筆の雲龍図が描かれている。
大方丈「降魔殿」 本尊は十一面観音像で、中国三十三観音霊場第十二番札所となっている。
庫裡
小方丈
禅堂
鐘楼
宝蔵
経蔵
開山堂 内部には佛通禅師と大通禅師の木像と石造宝きょう印塔が安置されている。
地蔵堂(重要文化財) 開山堂に並んで建っている。応永13年(1406年)建立で、開創当時のまま残る建物である。桁行き3間、梁間3間、一重宝形造り本瓦葺き。内部には地蔵菩薩坐像を安置する。
茶室
大書院
文化財
重要文化財(国指定)
佛通寺含暉院地蔵堂 附:須弥壇 – 応永13年(1406年)建立。含暉院の仏殿として建立。様式は折衷様で、桁行3間、梁行3間の一重宝形造、本瓦葺(元は茅葺)。
絹本著色大通禅師像 附:紙本墨書大通禅師墨蹟(1407年(応永14年))、紙本墨書大通禅師消息(1408年(応永15年)) – 大通禅師像は14-15世紀の作。愚中周及自身の賛によると、「前作州太守天心順公居士」こと小早川春平のために着算された。図様は、右手で自身の頭頂部を撫でるという、「頂相としては極めて特異な姿で描かれている。姿も黒衣に褐色の袈裟、節だらけの自然木の曲彔(椅子)に座し、像主の質素な暮らしぶりを思い起こさせる。墨跡は示寂する2年前に書かれ、同じ内容のものが他にもある。消息は寺の政所宛で、京都を離れたらそのうち佛通寺に帰ろうと思うのだが、足利義持の意を受けた小早川則平(春平の子)の策略で叶いそうもない、寺のことは覚隠真知に申し付けるので諸事相談するよう述べる。義持は愚中を極力京都近郊に留めようとしており、愚中はこの後佛通寺には帰れなかった。
広島県重要文化財
木造佛通禅師坐像
木造大通禅師坐像
紺紙金泥細字法華経 附:木製漆塗六角経幢
佛通寺文書
佛通寺正法院文書
金剛般若波羅蜜経版木
延命地蔵菩薩経版木
登録有形文化財
多宝塔 – 開山堂脇に立つ。昭和初期の建築で、軒周辺の材料に反りをもたせせ、整った塔姿が特徴の近代の多宝塔。
広島県天然記念物
仏通寺のイヌマキ(ぶっつうじのいぬまき)は広島県指定天然記念物(1961年11月1日指定)。参道正面左側、県道50号線と佛通寺川に架かる巨蟒橋の間にある。樹高約20m、胸高幹囲3.52mのイヌマキ(犬槇、学: Podocarpus macrophyllus)の巨木。雌株。仏通寺開山の愚中周及禅師のお手植と伝わる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
