【落合陽一】江戸時代の『祭り』は遊びと信仰が「ない交ぜ状態」なぜ日本に生息しないゾウがブームに?東京から巨大山車が“消えた謎”「いつでも酒買える今は“刺激”が常態化」30年以上前に目撃した裸祭りの真相
わ私たちが現在息でいせでワシをばしてよ そりゃそいりゃっていう風なああいう なんかいかにも江戸の見越しのイメージっ ていうのは江戸時代の場合は決まった メンバーがししとシシと原宿に担いでわし わしそらそいらっていうのはごくわずかな えお祭りしか許されなかっ3能歳の像なん ですがなんで像なんですか質問が長崎から 江戸まで40数日かけてま東海道なり生き た像を運んできたんですか生きた道歩かせ ええその道中にブーム化したわけです祭り や日日場は日本人にとってなぜ大切だと思 れますか例えば竹はそれこそある限られた 時にしか飲めなかったつまりそれが近現代 の私たちにとっては別幕なし晴れの状態 ノビス幕なし晴れの状態昔の人の晴れとか 昔の人の非日常的なもの がはいこんばんはウィークリーオチのお 時間です今日は祭りについてガンガン語っ ていきたいと思うんですがえそんなことを 語るのにぴったりのゲストに来ていただき ました武蔵大学人文学部教授福原敏夫さん です どうぞ初めましてよろしくお願いします ですよろし願いよろし願いしますさて先生 のプロフィールから行ってまりますますで と福原年尾先生ですえ武蔵大学人文学部 教授専門家日本民族学え令文化市日本文化 市などがご前問ですさてちょっとお祭りに ついて振り返っていこうえとえ全国のお 祭りの数は年間30万回えっとあらゆる ところで行われてます30万って結構多い ですよねだって30万って言ったら1日 700回ぐらいサレが行われてるはずです でえっと2016年全国33のえっと山え 山えんだ保屋台のえっと行事がユスコ無形 文化遺産に登録されています神社本庁に よるとお祭りとは神様を喜ばせるための 儀式であると言われているところでござい ますとで例えばお祭りいくつか出してみ ましょうはいとえっと岩手県の欧州士欧州 士ですねえっと母国法条や無病即 problを祈るえ国籍時え済民祭という のがえと1000年以上の歴史に幕を落ち たりとかなかなか終わる祭りというのも 非常に増えておりましてえっと令和7年 以降あの国籍総民祭には実施しないことに なりましたとえその理由としては現在祭り の中心を担ってくださってる皆様の高齢化 と今後の担い手不足によって祭りを維持し ていくことが困難な状況になったためです と言われておりますと先生のあのご著書で あるとかあと色々調べられているものって いうの私も拝見さたことがあるんですけど もまそん中で江戸って言うとお祭りが 例えばあの戦争寺でもあるし三王神社でも あるしいろんなとこであると思うんですが 江戸でお祭りっていうのはどういう意味で 成立してきたのかっていうのを最初お話 聞いてみたいなと思うんですけどいかが でしょうか祭りもやっぱりま エンターテインメントって言いましょうか えっと近現代のま私たちの感覚でえ仕事 遊び趣味娯楽信仰そうやってはっきり やっぱり分けられてたわけではないま前 近代の人にとっては進行するっていうこと と遊ぶっていうことと仮想パレードをする なんていうことがもうないませんな なるほどその辺りからやっぱり エンターテイメント家っていうのは非常に ま現代人から見るとエンターテイメントが これが進行なのかえこれがまあキリスト教 的な経験な信仰なのかなんていうような 表現とはやっぱ日本の新物への進行の仕方 なんていうのはやっぱ全然違うななんて いうことでやっぱサレがをま例にとって 研究したら面白いんじゃないかっていう なるほどああいやおっしゃる通りで確かに そうだなと思いますしで江戸のお祭りと いえば江戸33大祭りについてもちょっと お聞きしたいんですがじゃあそん中で3大 祭りがこう生成していく形成されていくに はま江戸ができてしばらく多分多分幕府が 立ってで長が集まってきて参金交代とか 色々あってわーっと人がここに揃っていっ た後どうやってこの3大祭りっていうのが 形成されていくのかっていうのをちょっと 聞いてみたいんですがまそもそも江戸の 場合の3大祭りっていうのはま天下祭りの まいわゆる2トップみたいなあの今の 長田町の冷え神社えかつての三納合原の 三納祭そして外神田の神田明人の神田祭り もう1つえ赤坂の氷川神社これもかなりの 規模が多くてはいはい大きま大江戸 祭り研究者としてはえてるんですけも当時 の人が果たしてえ3大っていう認識があっ たかっていうのはちょっとよくわかりませ んなるほど今映像の方では赤坂川神社のお 祭りがあの出ているんですけれどもでも あのまなんて言っていいかなえっと三納 神社もえっとまえ神社も川神社もそして えと神田もま江戸のこっち側があのおから 見てなんて言ったらいいかなえっと上が北 だとすると下半分っていうかあの中央地域 にまたがっている神社でありますけれども 他にもま神社格自体は色々あるとおります があの辺ではやはり高に近いっていう ニュアンスが強いんですかね公共っていう か江戸城に近いっていうかそうですねま 神田の場合はどっちかって言とあの北の方 なんあままそうですね北北そうですねで あのため系のあの3のの方はやっぱり奇問 と裏奇問みたいなそういう守護守護的な ことはま言われます今あのお祭りの映像が 出た時にあの屋台の上に大和武尊か多分 神宮高校か多分何かが乗ってたんですけど もなんか僕はこのリサーチを始める前まで は江戸にそんな大きい屋台がうろちょろし てたなんていうことを全然イメージして なかったんですけどもあのそんな大きい ものがあのカポしてた時代があったんだ なっていうのはすごくびっくりしたんです けれどもなんかそういったものはいつ頃 から生成さ形成されてでいつ頃廃れていっ たっていうところをちょっとお伺いしたい んですがはいあの私たちが現在なんか生き でいなせでえーそういうまもしかしたら家 が入ってるようなお兄さんたちが わっしょいわっしょいそいりゃそいりゃっ ていう風なああいうなんかいかにも江戸の 見越のイメージっていうのははいま江戸 時代の場合 は神社美越宮美越っていうのははいあのか 町っていうもも決まったメンバーがえ しずしずとシシと原宿に担いでわしをわし そいらそいらっていうのはごくわずかなえ お祭りしか許されなかっなるほど今 ちょっとちょうどスライドが今出させて いただいててあのいろんな人が担いお みこしを担いてるような映が出てるんです けどもちなみに僕の方のスライドでと今 あの人口祭の方のあのなんだろうお見越し が引かれてる様子がスライド出てるんです けどあちょっと 銀座で撮ったんだねあの車があれでただ あの今だと1日中あれ引き回してるから ちょうどなんか代車みたいなものに乗せて 動かしてますよねはいででも当時はこれを 1日中担いでお祭りされてたってことです よねはい へえそれで先ほどの話なんですけれども 現在の私たちのわいわいそらそいらって いうのは宮越神社美越ではなくてはい町 美越市あるいは朝会美越市ああでこれはま 明治末年の深川え8万ま現在で言うと 富ヶ岡八幡のあのぐらいの東京からま 生まれてきたんですうんうんうんでえ どんどんどんどん増えていって えそうなりますともう祝しと担がなくて 良くてその町がお金を出して見越職人から 購入してえ担ぐてどんどんどんどん膨大 うんえっと今年もえっと6月のえ7日に例 の像のあこれはえっと長田町の比神社のお 祭りはえ3期の見越しと像の出しが出まし たけれどもその翌日の6月8日の土曜日は ぱ町内連合というかえ丸の内とかそういう 平神社の子の人たがえ競い合ってえ わいわいそそをたんですなるほどちょっと 江戸のなんだあのお持ちいただいた資料の 方をあの見ながら江戸から現代のお話 ちょっと振り返っていきたいんですけども なんどれから見てったらいいかはいじゃあ まずこれなんですけれどもまこれはあの 店舗11年1840年にあの三納祭りの 番付けてさっきちょっと申しましたけれど もはいまス大相撲の番付けを様々な芝居 番付けとか見物番付けとかこサレ番付はい っていうようなでこれをえま売ってるわけ なんですねで行列の近くでも売ってるん ですけれども事前に映像司屋さんみたいな 現在で言うと書店みたいなところでも販売 してましてえそれをま買うはいこれめくら せていただいてどううどうよいしょじゃあ ちょっと失礼しますあのここれが人間これ が人間サイズなんでえっと人間サイズより 1.5倍ぐらいあるものが上に乗っかっ てるんで高さがね6Mぐらいある屋台が こううろちょろしてたんですけどもまこの 電線のハされた東京だと今あんまり考え にくいんですがいやこれも非常に味わい 深いんだよねこれでちょっと付箋を貼っ てるところをちょっとめくっていただき ますとはいはいちょっと待ってくださいね えっとすごいああったはいはいはいこれが ですね はいあおすごい あの引き抜きていう早変わり演出なんです ねこれはま演劇から来てるんです 1の今でもなんで1本の糸を引き抜くと パッとわりをするそれをまおりのところで もですあお祭りのこでもやりながら発やり ながらですねあの途中でえ舞台引き抜くと このタコみたいなそういうものに早がある よこれは結局あのもう決まってる ルーティンの出しだけだったら別にこう いうのをあまり必要としなかったんです けれどもそのその年その年に祭り付属の負 とか言いてツ祭りっていうのははい1回 国旗のその年しか出ないものですから何が 出るかわからないのでえ江戸町人の人も えっと地方の小森さんのみならず江戸町人 も自分たちも何が出るかっていうのは当日 にならないと分からないっていう側面も あるのでこういうガイドブックをま必要と したんですねじゃこのガイドブックを 楽しみにみんなこれ見ながら何が出んのか な今年はって言って見てたとこですよね ええというわけでちょっとこの辺でお客 さんから質問を取っていきたいと思うん ですけどもちょっと待ってくださいね三納 祭の像なんですがなんで像なんですすかて いう質問が来て三納祭像がほら引かれる じゃないですかあのあま特に今年あ今年も 像がはい清水建設増がはいそうですねま あれはちょっと三納から頼まれた社標って いうのに書いてたんですけれどもやっぱり 八大将軍の吉宗の時代にはいはいあのまあ 1729年にま輸入したのはえっと ベトナムから非常にお高いお金でえ 買い付けたのはま1928年なあごめん なさい1728年なんですけどもそれが その翌年あの長崎から当時2tトラックも 4tトラックもないもんですから像に歩い てもらなくちゃ困んですねで江戸まで えっと40数日かけてえんえま東海道なり 生きた像を運んできたんですか生きた像を 歩かせてええ像像大変ですねええま増使も 一緒にはいいということなんですがまその 道中にブーム化したわけですああ像が歩い てきたらそりは江戸時代の人たみんななん だあれってなりますそうですねねあそその があの外来の動物ってあの楽田とか いろんなものも非常に人気は得たんです けれどもま像の場合東海道50日え40数 日歩いてきたなんてなりますとはい東海道 の人たちも全員熱狂するほどびっくりし ますよねだってええ話題になりますよねで 様々な刀の唾のま今で言うとキャラクター グズみたいのがたくさん出回ってはいそれ で吉宗と江戸城でま5対面になってそれ から今の浜球ですねそこでまあ12年間も はいああ生存されてじゃ像勝ってたんです ねそうですねなるほどなゾもなまさか こんな異国まで来ると思ってなかった でしょうねあしゃそれはそうだなでもほぼ ほぼ東京オリンピックの時の成華例状態 ってことですよねだってそうですねそう ですよね天国の人を換気しながらひ像が 歩いてたああそれは面白いあそうかいや それを三納祭にま取り込んだっていうか うん祭りや日日場は日本人にとってなぜ 大切だと思われますか うん あの前は前てかどうでしょうね例えば飲酒 なんていうのは酒はそれこそある限られた 時にしかあの飲めなかったうん例えば ドブロ祭りってお祭りにしか上々できない うんうんつまりそれが現代の金現代の 私たちにとっては別幕なし晴れの状態 ノビス幕なし晴れの状態コンビニに行けば いつでも酒が出てきてに都部はい都部に おいてなんか祭りの状態化じゃないんです けれどもそういう意味だと非日常のま祭り っていうのはちょっと合変があるんですが 晴れとか非日常のなんか状態化昔の人の 晴れとか昔の人の非日常的なものがなんと 言うんだか刺激とかなんとかいうことで 状態化しちゃったことによって刺激が なくなっちゃったんですなるほどなんで あとためも少ないってことですねあのなん かもってポンってやるっていうよりはま常 にその辺ずっと祭ってますからねうんで ある程度不便あの正直決済っていうのを 不便っっていう風に言い換えるとあれなん ですがちょっと我慢することによってあ 祭りで一挙に発散するっていもうその我慢 する局面が全部なくなっちゃっなるほど ああまそれうっすねでもなんかちょっと 我慢してるっていうのもあの適度な ストレスは意味があることだと思います けどねなるほどなえデとあこの辺いいなお 2人にご質問1番面白いまた狂ったような インパクトのある強い記憶のお祭りって何 でかて1番初め冒頭でご紹介いただいた あの岩田県大州市のはいあの国籍寺のあ 国籍祭これですねはい私が見た30数年前 かなこれはあのふんどしとかパンツもはい 入ってませんでした履いてませ全裸だった 裸祭りあそう多分ねあの記憶じゃなくて それはもうあのあ記憶じゃなくてて はっきり記憶してるので間違いではないと 思いますなるほど あの何年前30年前ておしゃいやもだから 30の時だとするともう30数年前なん ですけれどもはいやっぱり結局おばあ ちゃんしか女性はま暗黙で見ちゃダていう のかなああの若い女性は見てませんでした ははていうかそういう見られる状体でも ないよななんかすごいパワフルなやつだっ たってことですよねパワフルっていう側面 もあるし ええ東京ありなのかな遠隔地からナズだ はいこれはあの2007年にあの復元した んですね地震大国ってこともあって日立の 国の一宮の鹿島神宮にある金氏がえを抑え てるほだ祭りはどっちかっていうと日本部 の家元クラスみたいな人に来てもらった 稽古をするわ新曲新しい歌詞新しく作って 町娘の人たちがそこで踊ってそれこそ一晩 開けたらスターになってたじゃないです けどお金も練習時間も1日のために勝て るっていう感じ明治20年代っていうのは ほとんどの都部で伝がられ [音楽] はいうんいう風な道をたどったのかなと 思い気はそうでないところもあるわけです ねだからなんで東京の人はこういう出し 文化っていうのをま捨て去ったのかって いうかこれ [音楽] はDET
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夏といえば「祭り」という人は決して少なくないはずだ。祭りという言葉から、楽しさや美しさ、儚さを連想するのは、日常からひとときの間、離れられるという特別感があるからかもしれない。
祭りの語源は「祀る」とされ、その起源は古いと言われているが、一種のエンタテインメントとして大衆化したのは江戸時代以降だという。全国で行われる祭りの数は30万とされ、日本経済新聞によると、コロナ禍以前は年間約5300億円の経済効果を生み出していたという。しかし、近年危ぶまれているのが「消滅の危機」だ。今年2月、“日本三大奇祭”と呼ばれる岩手の「蘇民祭」は、担い手の高齢化や人手不足を理由に1000年以上の歴史に幕を閉じた。
祭りとは何か?非日常が意味するものは?守り伝える意義は?そして、江戸で起きた“象ブーム”、東京から巨大山車が消滅したワケとは?
落合陽一が、祭礼史に詳しい武蔵大学の福原敏男教授とともに、祭りが辿った数奇な運命に迫る。
ゲスト:福原敏男(武蔵大学人文学部 教授)
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20 Comments
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ケとハレの歴史観が変わる興味深い内容です。
この動画で語られているくらいの時間軸比較でその時代に生きている人にとっての当然のように感じられることが
後代の人間にとっては他愛のないものに思われるってことは個人の人生の時間の範囲でも感じられる
昔と比較して何の意味が有るかわからないと思いました。
現代や過去と比較して「縄文時代は不便でも石で肉を切ってました」と「江戸時代に包丁で肉を切ることができて幸せです」みたいな比較をして「現代に於いて人は我慢を失った」みたいなお話をして何の意味が有るのか、、、過去との比較で幸せの解釈をすることはとても難しいですね。。
お祭りは日本独特だと思う。無礼講、晴れの日。それによって、人間界が広がって、苦しみにも耐えていく事が可能になるのでしょ。夏は祭りが多い。花火もまた、非日常だと思う。
今の時代なんでも男女平等といってどの場所にも女性がいないといけない風になってて、そのせいで男達を盛り上げるために行なっていたものも出来なくなってきて現代の男性はみんな弱くなってきている気がする。そして男の居場所が無くなってきている。
何でもかんでも女性も参加しないといけないという今の風潮は本当に正しいんだろうかと疑問に思う。
ゾウを運ぶ為への
(祭りに向けてではない農民の)
非日常感が
ゾウの描写に繋がっているのでは?
例えると自家発電を我慢?
東洋哲学
面白いですねえ!ギリシャのオリンピックも素っ裸でしたよねえ?黒澤明の夢の映画で葬式が出てきました。お祭りとして?穢れを祓うことで晴にということなのでしょうか?
トマト🍅を投げつけ合ったり、牛🐂から逃げたり、チーズ🧀転がして追いかけたり世界も同じだけど、宗教と一体化したのは日本だけ。
あめがふらなかったら晴れにかんしゃをかんじなくなるからな、雨がふるから晴れにかんしゃと喜びがうまれる、晴れにあめがふるだけで寛容性が生まれるんだな、
祭りや儀式のしきたりを現代のぽっと出の価値観で変更してしまってよいものなのだろうか?とふと思いました
わっしょい
酒の常態化は独身男性が異常に多かった江戸の街と関係しているのではないでしょうかね。
独身で宵越しの金を持たない男性なら飲む打つ買うに走るのもわかります。
めちゃくちゃ面白いお話ありがとうございます‼️
昔の人がどんな風にお祭りを準備して楽しんでいたか想像すると楽しいですね!😊
財務省が日本の文化を破壊する。
じゃおうえんさつこくりゅうは
レイスにしか見えん
日本の神事というと、ぼくは古事記の天の岩戸の物語を思います。スサノオの悪行が原因となってアマテラスが岩戸に隠れてしまい世界が暗くなり困ったときに、アメノウズメが踊り、人々が喝采し、アマテラスが再び世の中に引き出されて世界に光が復活した、あの物語です。あれこそ原始の祭りじゃないかと。日本人の神事にはかなり昔からエンターテイメントと神への祈りの両方の要素が同時に含まれていたのではないかとおもわれます。