狛江教会6月9日主日礼拝
[前奏] [招きの言葉] 詩編51:17-19 わが主よ、私の唇を開いてください。 この口はあなたの誉れを告げ知らせます。 あなたはいけにえを好まれません。 焼き尽くすいけにえを献げても あなたは喜ばれません。 神の求めるいけにえは砕かれた霊。 神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。 [讃美]讃美歌58番 [お祈り] [聖書] イザヤ書44章21-22節 旧約聖書1118ページ ヤコブよ、これらのことを思い起こせ。 イスラエルよ、まことにあなたは私の僕。 私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。 イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。 私はあなたの背きの罪を雲のように 罪を霧のようにかき消した。 私に立ち帰れ。私があなたを贖ったからだ。 ルカによる福音書15章11-24節 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟のほうが父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。 それで、父親は二人に身代を分けてやった。 何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』 そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、 走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、 手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 [讃美]讃美歌296番 [説教]『赦しの愛に生かされて』五十嵐成見牧師 本日この狛江教会にまた お招きいただきまして皆様とご一緒に礼拝を することできる幸いを心より感謝 いたします。昨年もお招きいただいたんですけれども、今日も こういう風に皆様とお会いできることを 本当に嬉しく思います。玄関で 受付の方が声かけてくださったんですけれども この西東京教区の教師研修会で 私がはつらつと青年のように動き回ってるのを見て、随分ご立派になられましたね いうようなことをおっしゃって くださったんです。もう考えてみると 10年ぐらい経っておりまして、 私も立派なおっさんに なりまして(笑) 一応西東京教区にわたし 戻ってくる形になったんです。東京 女子大学というところは西東京教区 にありますので、 久しぶりに皆様と教区を交えて 皆様とお付き合いできること感謝しております。 さて、今日は、 主イエスが語られた中でも 非常に有名である、分かりやすいとともに 非常に私たちの心に訴えかける 例え話を聖書として聞いております。 オランダの画家え17世紀を代表する キリスト画家に、レンブラント・フォン・レイン という人が います。 このレンブラントは皆様の中でも非常に親しみのある作品を知ってる方はいらっしゃるんではないかなと思うんですけれども、数多くの キリスト教絵画を描いたのであります。その中でもレンブラントは 今日読んだこの聖書の箇所である いなくなった息子の例えを愛して 何枚か描いているわけであります 少しだけレンブラントの生涯を 振り返りさせていただきたいと思うんです 1606年オランダ改革派の 信仰を持つ製粉業の父親と カトリックの信仰をもつお母さん この人はパン屋さんでありましたけれども その8番目の息子として ライデンに生まれました。非常に 語学に秀でていた才能を持っておりまして 家族の中で1人だけラテン語学校で 聖書教育を受けることができました そういう形でですね語学、教養にも優れたもの であるわけですけど、19歳で それまで描いていた絵画を 独立して自分の工房を持つ ようになるわけです その結果 若くして非常に成功を おさめた画家となりました 20代で すでに名の知られた画家となり 非常に 財産も裕福となっていきました そのため首都アムステルダムに 居を移しまして非常に大きな家を建てたり したのであります また1634年には サスキアという女性と結婚をいたします その意味で非常に順風満帆と 言える前半期の生涯だったということが できます 実はこの時ですね レンブラントは1枚の いなくなった息子の例えを モチーフとした絵画を描いております そこに は女性と 楽しくお酒を飲みかわしている まるで放蕩息子のような人物を 描いているのですけれども これはおそらく レンブラントがま自分自身と 喜びを重ね合わせて描いた作品だと 思われています 非常にユニークな 作品であります しかしながらレンブラントは この中半期から後半世にかけて 非常に不遇だと言わなければならない人生を歩みました まずサスキアとの間に 子供が生まれるわけですけども相次いで夭折してしまう わけです それだけではなく 裕福になったことはいいわけですけれども 浪費癖が非常に 強かったと言われております 芸術家 というのは自分自身の芸術を高める ためにいろんな学びをするわけですけれども そのためにですね全くお金を 惜しまなかった その使い方が 破滅的とも言えるものでありまして ついに彼は経済的困難を極め 破綻をしてしまうのであります またそれだけではなく 愛妻で あった妻であったサスキアを なくしてしまったりいたします またその後 サンドリッケという女性と 付き合うわけですけれも 最終的には このサンドリッケにも先立たれて しまいます その意味で彼は レンブラントは非常に前半期としては 恵まれていたということはできるけれども 自分の浪費癖また度重なる不幸によって 非常に不幸な後半期だと 言わなければならなかったのであります しかしその中にあって彼がずっと 描き続けていたのはキリスト教絵画でありました それは確かにレンブラントにとっては 生活を支えるための手段であった かもしれません しかしそこにはそのような ところだけではない むしろ彼のある種の 精神を支えるために自分自身で描いていた と思えるようなところがあるのであります いわばその代表作と言えるのが 後半期に描かれた この放蕩息子の例えの絵画であります 現在 この絵画はサンクトペテルブルグ ロシアのサンクトペテルブルグの エルミタージュ美術館の中に展示をされて あります この作品は先ほど青年期の 時に描いたような画風とは 全く異なる 非常に深みに満ちた 作品ということができます 弟息子 そして兄息子 そして 父親が出てくるわけですけれども この弟 はまさにもうボロボロの表現を しております着ている服はボロボロで 靴は履いておらず 足は 泥だらけになっている そして後ろ姿で あるわけですけれども髪の毛がほとんど 抜けている状態 これは彼の心と体 の疲労の極限を表しているわけであります しかしその弟息子を必死と抱きしめている 父親が描かれております そして このレンブラントは「光の画家」と呼ばれる わけですけど その光が一番強く当たっている のが弟息子を抱きしめる 背中と父親の手であります このレンブラントの作品を見ると やはり前半期自分自身が 贅沢に豪奢な生活をしていたこの 弟息子と自分を重ね合わせていたようです けれども この例えを持ったこの作品の なかで 自分が本当にボロボロになった 疲労と困憊の中で困窮を極めている 自分自身を必死と掴んでいる 抱きしめて 離さない父親も 中に抱かれている 弟息子と自分自身を重ね合わせて 描いてるという風に思われてならないのであります それほど実はレンブラントは この主イエスが語られた 例え話を愛していた それだけはなく 非常にボロボロの 後半生の生涯を送りながらも なおその中に 神様の恵みと憐みが自分を生かしてると いう信仰がそこに現れてると言えるのであります 弟息子が父親に 「お父さん、私に財産の 分け前をください」と言ったとされている この弟息子にとりまして すでに父親 はお金にかえるぐらいの存在でしかなかった ということがあらわれております 生前分与をしてもらって それをもらえば 自分にとっても父親は無用な存在だと 言わんばかりに父に生前分与の 要求をし しかしその要求をこの父親は 受け入れるのであります おそらく土地と か馬とかいわゆる不動産だったと 思いますけれども それを価値の交換できる お金にかえて 彼はすぐさま自分の 故郷を出ていくのであります 何をしたか ということですけれども 遠い国に旅立った そして身を持ち崩して財産を無駄遣いして しまったというのであります このお金を手に入れた時 自分がやりたいことができたときっと思ったと思うんです 今までずっと父親のもとで 我慢してきて 与えられたお金だけでなんとかやりくりしていて やりたいことさせてくれなかった ついにその束縛から逃れて自分がやりたいことやろう という思いでおそらく歓楽街に出ていって お酒を飲みかわし 楽しく過ごし 後半にはおそらく娼婦たちと一緒に と書いておりますけど そういう娼婦とも一夜を楽しく過ごす そういう堕落した生活を 送っていたのであります しかし こういうところを読んでいる中で どうしても私たちはこの彼が本当に やりたいことをやってるとは見えないので あります 自分というものの 輪郭線が非常にぼやけているように見える それはやはり遠い国に旅にでてみたり 身を持ち崩してみたり そして 財産を無駄使いするというところによく 現れているわけです なぜ私たちが 財産を蓄えるかというと これは私たちに にとって結構大事なところでもあると思います けども 将来に対する備えとか計画の ためであります 例えば子どもが将来の学費の ためにと言って 私たちはそれを蓄えといて 来る日のためにそれを使う それはいわば将来のことを建設するための 1つの手段なのであります しかしこの 弟息子はそういうことが馬鹿らしく思えた 計画をして何かを立てていく ということに対して 全く価値を 見出さなかった でもじゃあ何をやりたいか と言うと結局何も見つからない だから持ってるものを使うことによって 自分の欲求を満たす でもその欲求を 満たせば満たすほど 彼の中にどんどんどんどん深まっていった ものがありました それが何かというと 虚しさであります この虚しさがこの弟息子を1番 苦しめていたもとだと思うんです この虚しさが実はどこから起こっていた かと言いますと 父親から離れた時であります 本来自分がやりたいと思っていたんだけれども しかしその生活をしている中で どんどんどんどん自分の中に 大きな穴がどんどんどんどんできていた そのもとというのは何かと言うと 父親 から離れたところから起こっていたと 言っていいのではないでしょうか さて ここにいらっしゃる皆様は この放蕩息子のような生活を なさったことがおありでしょうか こう見てみますと なんていうか そんなに財産を無駄遣いして どこかほっつき歩いて飲んでですね 非常に家庭を苦しませるみたいな 方はあんまりいらっしゃらないような 気がいたします もちろんいていいわけですけども いていいというか 教会の中でそういう風なことを経験なさって 戻ってこられる方もいっぱいいらっしゃる のでそれいいんですけれども その意味では そういう文字通りの行為、 物質的なことをしたことのない方にとっては もしかしたらこの放蕩息子と 心の距離があると思われる かもしれませんけれども 決定的に似ている ことはなにかというと 私どももまた 虚しさを抱えるということであります いろんな私たちは虚しさを多くの場面の 中で抱えながら生きている それを私たちは ごまかしながら生きてるところが あるわけですよね 虚しさを何とか 埋めようとしながら どこか自分たちも 同じようにちょっと遊んでみたりとか するわけですけど しかし根本的な ところで実はこの弟息子と同じように この虚しさを抱えながら生きるというところは 変わらないのではないか その虚しさの 原因って何かっていうと 本来あるべき 関係から離れたり そのようなあるべき関係 の中の破綻が自分の中で起こった時に そういうものを抱えてしまう その意味において私たちと弟息子 は実は変わるところはないのではないかと 言えるのです その虚しさの極致の中に置かれた 弟息子でありました そこで彼は もう困窮を極めてしまった そこで仕方なく豚の世話をする バイトに出かけるわけです 豚というのは ユダヤ教の中の忌み嫌われる 動物ですので 豚の世話をするということは 奴隷の身分のものが行う仕事であります しかし彼はそれを 受け入れなければもうどうしても生きる ことはでけなかった そこまで行ったところで 彼は我に返ったというのであります ここに1つの転換が起こります 父のところにはあんなに大勢の雇人がいて ありあまるほどのパンがあるのに私はここで 飢え死にしそうだ ここをたち父のところに行って 言おう お父さん私は天に対してもまた お父さんに対しても罪を犯しました もう息子と呼ばれる資格はありません 雇い人のひとりにしてください 悔い改めの表現であります どん底まで行って物質的にもう いくところまで行ってようやく気づく なんていうのは何事かと思われるかもしれません けれどもここで明白なのは お父さん私は天に対してもお父さんに対しても 罪を犯した と言ったことであります どんなプロセス であっても彼はここで悔い改めたのであります 我に返ってという 書き方がありますけれども これ昔の 口語訳聖書という聖書がありましたけれども その口語訳聖書では 「本心に返る」という表現をしています この言葉の方が実は正確なある 訳し方だと思います 何の本心かという ことですけど これは神に愛されてるものと しての本心ということであります 彼自身が父親から愛されていたことを 思い起こす 幼い時でも中高の時でも なんか色んなことがあったけれどもでも 反抗していたけどもあの時父は私のことを 愛してくれていたというその愛に気づかされる これは神の愛のことであります 神が いろんなことあったけど結局私のことを 生かしてくれていたじゃないかというその 事実にこの弟息子は困窮極めた時 ではありましたけれども 末にではあるけれども 気づかされた そしてその悔い改めを もう息子と 呼ばれる資格はない 雇人の1人にして ください もう自分がもう帰っても 同じ身分で生きることは願わなかった そういう同じ裕福な服を着てやるような ことはもう願わなかった でももう生き られればそれでいい奴隷でもいいと彼は 決意したのであります これは非常に大事な ところだということができます しかしその足取りは大変重かったに違いない とぼとぼとぼとぼと長い道のりを歩いていく しかしここからまた物語が変わりはじめると ともに実はこの物語の本当の 主演が誰であるかということが見えてくる 「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を 見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」 皆さんがこんなバカ息子愚か息子が やってきたらどうでしょうか あんな息子もう家に入れてやるもんか もう願ってきたってもう絶交だから もう家の戸口にも入れてやるもんか って思うのが 思うところがあるのが ある1つの人間の姿でもあるかもしれません その思いはきっとこの後半に出てくる 兄息子の思いと重なっているのであります けれどもこの父はそうではなかったと いうのであります つまり家のまだ遠く 離れていたのに ということはいつもいつも 毎日毎日 家の戸口に立って今日帰ってくるか明日 帰ってくるかと待ち詫びていたということ であります いつ帰ってくるかも分からない けれども毎日玄関に立ち続けてあの息子の帰り はまだかと立ち続けていた そして遠く離れている ところに見つけた時 どちらがかけよったか 弟息子ではなくて父親であります 走り寄るほどの熱い気持ちを持って彼は父親は走りよった つまり神の愛が走ったのであります ボロボロになった息子を見つけた時思わず 神の愛が走らずにはおられなかった ここからこの物語の本当の主演が父なる 神様であられることを主イエスは語られた その接吻の中で 涙を流しながら言ったに違いない 弟は 言うのであります 『お父さん私は天に対しても またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 先ほどの息子の悔い改めの言葉と1つ抜けている ものがあります 雇い人の一人にしてください いう言葉であります 彼はこれを言うのを躊躇 したのでしょうか そうではないと思います 父親の接吻がそれを止めたのであります そこまで言うな もういい そして父親は『急いで、いちばん良い衣を持って来て、 この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。』 1番良い衣を着る これはこの家族の 回復 自分自身を元の身分として 戻すということの1つの印であるけれども またもう1つ大事なことはこの指輪であります 指輪というのは契約の 印として使われていたものであります つまり指輪にかたどってありまして 契約書にそれでつけるわけですね これは父親と息子の関係の 回復を表しております 考えてみるとこの父親は息子を 勘当した覚えはないんですね 破ったのは弟息子であります でもその 弟息子が悔い改めて帰った時 改めて 関係を結び直した この罪深いと 思われる弟息子を一方的な愛をとおして赦し その愛の抱擁をもってこの指輪を通して この父親と弟息子はもう一度再び同じ 屋根の下で過ごす そればかりではなく 父親のですねえ庇護のもとで暮らすことが できるようになった この弟息子は父親のもとを離れた時から 父親の存在をずっと否定していたのであります つまりこれは父なる神の存在ずっと 否定していたということでもありましょう 自分は自分で生きられると思って いたのであります 金があれば自分で なんとかできると思っていたのであります けれども弟息子は自分の無力さの中で自分を 滅ぼしていた そしてその虚しさの中で彼は ほぼもう生けるしかばねだった しかし彼が思い出すことができたのは 父なる神が自分のまことの神様であられるという ことだったということでありましょう 彼はそのまま行けばもしかしたら そのままのたれ死んでいたかもしれない あるいはもしかしたらそのまま 自死していたかもしれません 虚しさの中に自分が置かれている時に 自分を救う手段は自分にはないのであります しかし彼が思い起こすからできたのは神様 でありますこの神様 が自分を支えてくださる どんなボロボロに なっても支えていてくださって いる そのことにどん底に なりながらもそこで知ることができた 主イエス・キリストがこの物語を 私たちに語り続けてくださっている ってことは本当に救いだと思うんですね 私たちも本当にこの人生の中で この弟息子のような苦しい経験に出会う ことがあると思います 多くの場合その ことを私たちは明らかにすることが できないで自分の罪や自分の弱さや自分の 欠けの中で自分の人生を壊してしまうんです ね でも私たち教会が語り伝えてやまない ことはあなたは戻ってくる場所があ るっていうことであります あなたがボロボロになっても弱くても 罪を抱えていても戻ってくる場所がある それが教会であります それが礼拝であります それが信仰を 持つということであります その1点に おいて 私たち皆さん何ら変わることの ない存在であります 兄息子も弟息子もその一点によって 何ら変わることのない存在なのであります 時間がありませんけれどもここで 少しだけ言わなきゃいけないことは兄息子は この弟息子を否定し続けようとすることで あります これは私たち人間の深い罪を表して いる どこかで許せない思いを抱えながら あの人とこの人は違うと言いながら そこで否定しまう でも私たちは本来の場所 に立ち返りたい 教会は罪人の交わりの場で あります 罪ゆるされたものが集う場所であります 自分の罪を抱えその罪の中で神様に救いを 求めるしかない そのところの中で通う私どもが集っているのは この教会で あるこの弟息子は私のようなものでさえも 救われるということを確かに証し をしている主イエス・キリストの福音であります それは例外のないことであります どなたでも この神様のもとに戻ってこれる どなたでもこの神様のもとでやり直すことが できる どなたでもこの主イエス・キリストの 福音に生かされることができる私たちは その御言葉を今日も誰かに述べ伝えたい 今日も誰かのそういう風に同じような思いを 抱えてる方に語っていきたい 出会っていきたい と思うのであります そのようにして 2000年間教会は伝道しつづけてまいりました 私たちはそのように同じように救わ れたのですから私たちも同じようにして 伝えていきたいと思います。 [お祈り]
日本基督教団信仰告白 https://uccj.org/faith
を大切にしているプロテスタント教会の主日礼拝です。毎週日曜日に礼拝していますので、どなたでもお越しください。
今日は五十嵐成見牧師に説教奉仕をご担当頂きました。下の字幕ボタンで字幕を表示することができます。
日本キリスト教団狛江教会HP http://www.komae-church.sakura.ne.jp/
LP https://peraichi.com/landing_pages/view/chkomae
#日曜日は教会へ
前奏
招きの言葉 詩編51:17-19
讃美 Ⅰ-58
祈祷
聖書 イザヤ書44:21-22、ルカ15:11-24
讃美 Ⅰ-296
説教 『赦し(ゆるし)の愛に生かされて』
祈り 五十嵐 成見 牧師
信仰告白 日本基督教団信仰告白
讃美 Ⅰ-324
祈祷
献金
讃美 Ⅰ-548
主の祈り
報告
頌栄 Ⅰ-545
祝福
後奏
◆聖書: 2024年4月より「聖書協会共同訳」を当教会では使用しております。
◆讃美歌:讃美歌・讃美歌第二編・讃美歌21を当教会では使用しております。
https://bp-uccj.jp/book/b551649.html
https://bp-uccj.jp/book/b551663.html
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五十嵐 成見(いからし なるみ)牧師
青山学院大学、東京神学大学大学院、聖学院大学大学院修了。安藤記念教会、阿佐ヶ谷教会、花小金井教会での牧師、聖学院大学准教授・同学部チャプレンを経て、現在、東京女子大学准教授、聖ヶ丘協会協力牧師。