【植木等】コメディの巨匠・古澤憲吾の監督人生【ニッポン無責任時代】【若大将シリーズ】【クレージー大作戦】

[音楽] 前回お話しした東方の岡本健八監督は服装 にすごいこだわりがあって上から下まで 黒い色で統一していたそうなんですけども それに対抗してもう1人上から下まで 真っ白で統一していたえ監督がいますこれ は同じ東方の古沢憲吾監督です今回はえ 東方の白黒コンビの白のえ古健監督の話 ですでこの人はあの生涯で監督した映画が 36本そのうち29本がコメディだったの でまほぼコメディ専門の監督と言っていい と思いますその中でも有名なのが13作 監督したクレイジーキャッツの主演映画 ですねでクレイジーの主演映画っての他の 監督も撮ってるんですけれどもこの古沢 監督のクレイジー作品というのはもうえ とにかくパワーフというかエネルギッシュ でま他の監督の作品とは一味も2味も違っ てますそれとえもう1つ有名なのが香山 裕三の若大将シリーズですねこれは シリーズ17作中3本えこの海の若大将 アルプスの若大将南太平洋の若大将の3本 しか監督してないんですけどこの3本 いずれもシリーズ中の白部と言える出来 だったと思いますそしてまこの古沢憲吾 監督ほどですねみんなが思い出話をする時 に笑顔になる人っていませんねああの 何しろこの人の口癖がですねシュートする こまさあ取るぞ撮影するぞって意味なんだ そうですけどこの人はもうえキャメラとか ですね照明とかマイクとか全く セッティングができていない時からもう スタジオに入ってくる時にシーとするって 叫びながら入ってきていたあのえそうです でこれ谷Kさんから伺った話ではこの古沢 監督ってのは隠し取りということができ ない人でクレージ映画でちょ何の作品か 忘れちゃいましたけど銀座4丁目の交差点 もど真ん中ですねであのクレイジーの メンバーがこう交差点を渡るところを 隠し取りするっていうんでま前持って 段取りつけて女監督がこうえまエキストラ の人とかまでも勝ち限りがありますから他 の普通の通行にもたくさんいるんですけど もそこで段取りをつけてこういう風に歩く んだってこっそりリハーサルしてでいざ 本番っていう時にさあクレイジーの メンバーがそこ歩くぞっていう時にですね この直前で古沢監督がいつもの癖というか でシュートして叫んじゃったんでこ通行人 がみんなこっち見て結局ま撮影になら なかったとかですねそれからまこ今度 コントですよねこれあとテジナでシルク ハットの中から鳩が出てくるそのシルク ハットの中の鳩に向かってシュータしろっ てこうけなで鳩がビルっとこう出てこ なかったら出ろでろデろってこシカト叫ん でたそうですしそれから正常の住宅街で こう表札を取るだけのえ撮影で早朝まあの 人家に行って表札を取らせてもらうという 撮影の時はこの表に向かってシたすなって 叫んでたんでもうそこら辺の人がみんな なんだ何事だってえうるせえて起きてき ちゃったとかまあ傑作なあのエピソードが マキに糸がありませんでこの古沢憲剛監督 の演出法ってのはもうとにかく気合いの1 号だったそうでこれも谷さんから谷さん から伺った話なんですけれどもこう誰か からこう呼ばれて役者が振り向く時こう こっちから呼ばれた時にえばばさんとかっ て言われたらん何ってでこうんて感じで こう振り返るの普通じゃないですか自然 演技ってそういうもんだと思うんですけど それだとですね古沢監督は元気がないって 言ってこうNGCなんですってじゃあ古沢 監督の前どうしなきゃいけないかって言と えババさんってこ呼ばれたらですねむ何事 って感じです口なくてもむ何事て感じで 振りかんないとオッケーにならないんだ そうですよで上木仁はこう語っています 古沢監督は一切理屈抜きの人だから演技の 然性やら主人公の感情やらを考えながら体 を動かしていると全然OKを出してくれ ない会社から首を言い渡されたら普通は ちょっとでも動揺するもんだけどもう喜B 3で手を叩くわバカ踊りをするわで監督に こんな人間本当にいるんですかねって聞い たらいないいないからいいんだとこうです よが上とはこうも言っています古沢さんの あの不条理というかう岩さんの演出じゃ ないと無責任男のあのものすごい勢いは 生まれなかったでしょうねま古沢健監督は この現場で常に怒鳴りまくっていたんだ そうですけどももじゃあそのなんかパワ ハっぽくて雰囲気が悪いやな現場がだっ たかていうと全然そんなことがなくてです ねあのこれもタケさんがおっしゃってたん ですけどもうスタッフもあの出演者ももう なんかパワフルにこう怒鳴りまくってる 古沢憲剛のことをみんなクスクス笑い ながら見てたんでものすごい楽しい現場 だったんだそうですで脚本家の田野生さん によればえ時間がないまあのマジカ若なん で撮ろうとしてたんでしょうね時間がない え撮影でうえた俳優がとった時にですね そうの俳優に向かってこのさ監督が監督の 俺が慌ててるのにお前が慌ててどうするて こう一括したそうですしそれから クレイジー外若田障映画の大 プロデューサーの藤本実は古沢の現場は 撮影なんかじゃない運動会だと表してい ますそしてウ人はこうも言ってます俺たち を取るより監督を取った方が面白い映画が できる よこのえ古沢え憲吾監督は1919年え 佐賀県生まれ鍋島班の武士の家計でま武士 道とは死ぬことと見つけたりというハ精神 が色濃く残る土地yetで育ちま10代の 終わりには一度マルクス主義に被れちゃっ たそうですけれども考えてみれば自分は 日本古来の学問を全く知らなかったことに 気づいて鴨馬淵とか吉田商議を読みふける ようになりそして発行一中とかスメの道に 共鳴してバキバキの右翼になったそうです 21歳で海軍航空隊に入隊しパレンバン 空挺作戦の落下さん部隊に参加したこと から後に東方でパレさんという ニックネームでえ呼ばれていましたがこの パルさんを女監督として何度か起用してい たえ先輩監督の松林周監督によれば古沢が 航空部隊に入ったのはパレンバン作戦の後 なのであれはホラだと証言していますま 実際このさ相当ホラ吹きな人だったよう ですねでこのパレさんえ敗戦後に同世代の え自分と同世代の若者たちがもう手のひら を返したようにそれまでの日本が悪いと 言い出したことにもう激しい通りを覚えて ま戦争に負けたからと言って日本の美しい 伝統とか精神までを売り渡してはならない て考えて終戦直後の2年間右翼活動してい たんだそうですでこの右翼活動で全国を 回るうちにまあ大衆に自分の考えを伝える にはもう伝える方法は映画しかないと 思い詰めるようになってそれで東方の試験 を受けて合格します一途な人ですからこの 東方に受かってから日代の文学部芸術家で 映画を学んだそうですえ終戦中国の東方と いえば労働組が力を持ってストを繰り返し ていてGHQがえ戦車とか走行者から航空 機までを鬼撮影所のストに送り込んで法意 して来なかったのは軍艦だけと言われたま いわゆるいう東方葬儀で荒れに荒れていた 映画会社なんですがその中にあっとこの パレさんはですねえ組合側の電話交換誌を 電話線で縛ってえ電話ができないようにし たりして組合活動を妨害えし続けていた そうですからもう本当に過激な無欲だった んでしょうねでえこの人はその東方のこの 時代はがですね共産党から押された時に 備えて仕込みずを持って歩いていたという 話もありますで1956年え東方がですね え太陽の季節でアタ川賞を取った石原 慎太郎を女監督試験かなんか疑ったのかな で入社させて話題続くとまこの石原にため に監督させることになった時に前からいた 東方の女監督たちが抗議して鉄板所を作っ てま会社にま猛反発したんだそうですねで この時に東方は収集策として女監督たちに もこの立ち上がった女監督たちにも企画案 を出させてその中から何人かを監督に昇進 させでその中にこのパレさんの4年後輩の 岡本喜八監督もいたんだそうですけども 渡れべというか生き方が仏教なえパレさん は1番年長の女監督だったもんだからこの 会社との交渉の矢表に立って会社から危険 文章と見なされちゃってフジテレビに執行 しろって出行しろって言われちゃったんだ そうですよあまでもそれでもパレさんは この出行を断ってですねあの女監督として 東方にい続けますで東方の人気シリーズの え社長シリーズはま毎回女監督が変わって いたそうですけれどもえ1959年に作ら れたこの第6作の社長太兵器には松葉修 監督のチーフ女監督として古沢語の名前が クストされています社長太兵器は社長 シリーズの中でも屈しに店舗のいい爆笑 作品なんですけどそれはもしかしたらこの パルさんの功績なのかもしれませんこの 映画第2世界大戦中の海軍の戦闘シーから 始まって口だったかなこのえ館長がえ加藤 大輔でえ小本の上等並走が小林京中そして 1番下っ端のえ頼りない二等水平が森茂 久也なんですけども終戦後はその立場が3 人の立場が逆転して怒り正司という女性 下着メーカーで社長が森茂さやでこの小林 刑事が専務そして館長だったえ加藤大輔が 処務課長になってるというま愉快な設定の 上にこれギャグもハイテンションで シリーズの他の作品とは軽量が違った映画 でしたら面白かったですでこのパレさんは 自分の映画で後にですけれども必ず軍官 マチを入れること有名だったんですけど この映画軍艦マチから始まってますえ そしてえ同じ1959年に古沢憲吾の元に ですね頑張れご機嫌娘というコメディを 監督えしろという話がえ来てまチャンスだ と思ってふさ監督頑張ったんでしょうねで なかなか車内で好評だったのでえその後 アイラブユとか僕は独身社員とかって言っ たBQコメディをえ立て続けに監督し さらに1961年にはえ当時の人気 アイドルの坂本九主演の青森君売り出す 青森君乾杯青森君西江行くという3本の コメディを立て続けに監督し巨匠豊田史郎 監督が死者を見て東方にもこんないい監督 がいたのかっで褒めたんだそうですけどま これはパルさん本人の話なので審議のこと は定かではありませ んで1962年えパレさんはクレイジー キャッツの東方え第1回主映画のこの日本 無責任時代の監督に起用されますクレージ ケッツについて簡単ににおさいしとくとえ 1955年4月設立されたばかりの渡辺 プロダクションから花はめが30万円お金 を借りてえ花はめと9番キャッツという コミックバンドを結成しそしてこのバンド がクレイジーキャッツと名前を変ええ谷K え安田桜井千里上仁石橋太郎と言ったは もう一流ミュージシャンばかりのメンバー が固まったのが1957年で彼は1959 年に開局したフジテレビで青島幸予作の 大人の漫画というまコント番組に出演して 人気がしてでさらに1961年4月から NHKのドラマ若い季節に出演しさらに その2ヶ月後日本テレビのシャボン玉降り でえ2出演そしてさらにその2ヶ月後に 青島行を作し上仁が歌ったスダブがクレに かけて大ヒットしますでこのスーダラ節の ヒットに映画会が目をつけて1962年に なると3月にダエがスーダラ節分かっちゃ いるけどやめられねで4月に地区が クレージの花嫁と七の仲間えそしてえ5月 にもう1度がサラリーマンドント気楽な 家業と来たもんだとクレージ映画を 立て続けにとりますでこれ大Aの作品は 実質的な主役は川口浩司やえ川崎経蔵でえ 小竹の作品はま一応クレイジー終演という ことになってたんですけども人情劇だった んで上一市のキャラクターとは水と油の 作品でしたそんな中東方が上一市の キャラクターを100%生かした日本無 責任時代を作りますこの映画の企画は社長 シリーズの企画を担当させられていたえ 当時202歳の東社員の田泰夫ま前にお 話した通り僕のま恩人の方なんですけどが 温めていたものですえ当時サラリーマンも は東方のドルバでしたそしてそれらの作品 っていうのはえま会社に忠実な主人公の サラリーマンがずるがしこい敵役を倒して え最後は会社を守るという完全懲悪の話 ばかりでますっかり真塗り化していました えそこでこの田野生さんはあの渡のために は守を選ばないえ主役にごするわ簡単に 裏切るわ全くモラルのない主人公が会社に 入ってダシールハメットのあのハード ボールド小説の血の収穫の主人公のように 対立する2つの派閥をゆきするという話を 考えましたでえ当時東方には南 カリフォルニア大学の映画学科卒業という 触れ込みのポール中岡という怪しい日系人 が出入りしていてもう会議に勝手に参加し てえなんか口出ししたりしてすごいうさ 臭いほら話をしたりするんだけどこれが なかなかあの憎めない性格の愛嬌のある やつでで田上え泰さんはまこの男を 思い浮かべてプロットを作ったんだそう ですえちなみにこのポール中岡はえ10年 後の1972年に福岡行きの日光機を ハイジャックしてキューバに行けと要求し てま失敗して逮捕されています東方で サラリーマンのものを数多くてかけた プロデューサーの足立エザブロから クレイジーキャッツの歌が売れているので 主演の映画を作りたいんだがぴったりの 企画がないかとえ相談された時にえ田が プレゼしたのがこの企画ですこのアダチ ザブロティプロデューサーは1959年 から61年にかけて若い娘たちの精神を コミカルに描いたお姉ちゃんシリーズで 当てていたダ令子中島園美茂山のり子の3 人をキャスティングししかも日本建ての もう1本にえ当時八の勢いだった森茂災の 駅前シリーズの第4作駅前え温泉を持って きて工業的に2に保険をかけてでこの日本 無責任時代の客に豪出します上木ひしは 飲む買うを一切しない超真面目人間でこれ 台本読んだ時に自分の役があまりに破天候 でいい加減な人物だったために随分この 映画に出ていいもんかどうか悩んだそう ですねで何しろこれ映画の冒頭から無線 飲食えそれから潜り込んだ会社では社長師 のタバコをごっそり盗むわそれからビルの 屋になる横の階段でバレーボールをしてい た社員たちのボールが来たらもう手に取っ て躊躇なんかもうビルの外にこ9回ぐらい なんでここがポーンと投げちゃうとかです ね出勤初日からま遅刻してこれ上司の谷系 から怒られるとへとこう意味なく笑ってま そう難しいことおっしゃらずにとかえ部長 さん片こ抜きにしましょうとかもう言い たい放題なんですねこの役で特に上ひが 引っかかったのが関係者でもないのに葬式 の受付に座ってえ公電をちょろまかすと いうシーンでこれ上ひのお父さんは戦時中 に反戦活動で4年間も投獄されていた上 鉄条っていうえ上土の偉いお坊さんだった んでもう上司はこの公電泥棒のシーは自分 にはできませんって言ってなので映画は このま人気者だったまウ氏の言分に合わせ てですねもう取ってつけたような公電泥棒 が映ってますねで辻も合わせてましたで こういう話をするとこの上木ひという人は 面倒くさい人だったんじゃないかと誤解さ れるかもしれませんが真面目たっていう だけでも全然そんなめどくさい人じゃなく てこむしろ真逆でえ元々はこの人ジャズ ギタリストミュージシャンですからもう ノりが超良くてコトもジャズのアドリブの ように演じていてでえもうリアクションの タイミングとかが抜群の人でしたそれから 素の喋りもですねミュージシャンらしい 独特の間とかこう落ちの外し方とかが絶品 でまこれちょっと過去にも今にもあまり例 がないタイプのコメディアンなんですがま あえてその芸風が今似た人をあげるとし たらえもう本人がもう意図的に上を真似た と言っていると常時ですねでこの冒険的な この日本無責任時代の企画をえ任されたの が監督小心4年目のパレさんだったという わけですで僕らが今見ることができるパレ さんのえ最も古い監督作品がこの日本無 責任時代ですでこのパレさんの演出は さっき言ったパワフルエネルギーシって 以外にもかなり個性的でまずかわりが 細かいあの本人もカットの多さで自分は 東方で1番と言っていてで確かに1カ平均 12秒前後だったこの時代の映画の中に あってですね日本無責任時代は86分で 646カット1カット平均が7.9秒です からま普通の映画の12秒に対して7.9 秒ですからま普通の映画の1.5倍速なん ですけれどもしかし前回ご紹介した岡本日 監督の1958年のデビュー作結婚の全て は84分で755カット1カット平均が 6.66秒でえもっと早いですから東方で 俺が1番カットが細かいとは実はあの 間違えですねていうかほらですねちなみに ま当時の東方作品っていうのはえ同時代の 小竹東映大円日活に比べてえ掃除でカト数 が多くてまそれがあの東方映画がモダに 見えた秘密なんじゃないかと思いますそれ からですねあの古沢憲剛監督作品はセット も特徴的でまだこの日本無責任時代の時 予算がなかったのでそうでもないんです けれどももう後に行けば行くほどもう平面 的なカットが嫌いだというパレさんの趣味 に合わせてオフィスがすごい天井も高い大 空間になっててでえ中に階段があったり 中二階があったりするユニークな空間でし たそのえ階段を登場人物が行ったり来たり するんですねでしかもほとんどのシがまず 移動車により移動撮影で始まってるんです ねだからすごいはりやくて動きがあるん ですで当時はこのドリーえ移動車がですね 性能があんまり良くなかったせいかこれ さかの映画の移動撮影って結構ガタピシし てるのが多いんですけどもえパレさんは そんなことはあの気にせずえ使っていまし たねよであと画面が動いてなくてももう奥 でエキストラを動かしたりして常に動きな ある絵作りを意識していたのがよく分かり ますでもう1つ有名なのがですね両手のお 座敷のま隅に設けられたちっちゃな舞台で この上木たちが宴会劇かなんかしてると 舞台がいきなり古代妄想的なえ巨大なこの ホリゾントの空間になってここでま クレイジーの面々が歌って踊ってでが 切り返されるとお座敷でみんながそれを見 てるんですねでまた舞台向けになるともう 普通の元の狭い舞台に戻ってるっていう すごいシュールなえトピな空間移動カット がえふだにあるんですけどこれ他の監督で は見たことないですねで意外にこれ自然に 見れちゃいますま他にもですねえ冒頭が 大抵察から始まってるとか植木ひが来てる スーツがあの他の絵がちょっとないような 派手な色のスーツを着てるとかタイトルの 文字が奥から前にバーンと飛び出してくる 必ずそうなんですけど若大でもクレイジー でも奥からパーンと飛び出してくるしそれ からその文字が必ず赤い色なんですねこう いう風にあので古沢監督はこの自分の映画 のタイトルは日の丸の赤を求めていて東方 車内で古沢語が使うこの文字の色はパレア ってあの呼ばれていたそうですま プログラムピクチャーの監督でこれだけ こだわりだった人ってなかなか珍しいです よ ねあとクレイジーキッツの映画のもう1つ の大きな魅力は映画にふに挿入されている 青島行きを作詞え萩原テシ萩原弘明え作曲 の歌の数々ですねで前にあのクレイジー キャッツの歌の歌詞にはそれスれスれごま スれほいほいとかあるいはちょっくら ちょいとパーディはなりしねとかホイだの ちょいだのがやたら入ってるのでホイちょ いっていう名前がそっから取ったっていう ことをお話ししたと思いますでクレイジー Aが全編そうしたホダのジョイだのの歌に 彩られていてま例えばこの1作目の日本無 責任時代では会館で上たちが痩せかぶと いう歌を歌うんですけどこの歌がですね あー嫌だよ嫌だよ色男は辛い今夜はあの子 か明日はこの子デイトでとで寝る暇もない たまに1人で飲んでりゃまだ無に口説か れるもうすごい歌詞の歌をですね上木寿司 が夜の正常の住宅街を歩きながらもう イントロもなしにえ突然メジカル的に 踊り出しながらこれ歌うんですね大体なん でこんな内容の歌を住宅ぐで歌わなきゃ ならないんだろうって感じなんですけど これ古沢健康監督の演出だとなんかこう 引き込まれるようにえ見ちゃいますねそれ からえ日本無責任時代のこの主題化の無 責任一体男とかこの世は無責任コツコツ やるやつは極苦労さんコツコツやるやつは 極苦労さんっていうのがこの日本無責任 時代の全編を貫いていた思想でしたねで こうしたま超前向きというかまいい加減と いうかがポジティブな歌も去ることながら この青島行のあの歌詞の新骨長ってのは サラリーマンなら誰もがこう共感できるま 日常生活のあるあるをえ歌詞にした歌だっ たと思いますえ古崎援護監督のクレージー 映画の2作目日本無責任野郎のえ挿入家の これが男の生きる道って歌があるんです けど帰りにかった福神付けで1人寂しく 冷やし食えば古い虫歯がまたまたうくて このこんなこれなんかもうう繋がらない サラマンが聞いたらもう涙な聞けないいっ て感じの歌詞だったと思いますねそして なんと言っても数だら武ですねすごいのは あの競馬評論家の菅田高尾さんからこれ 伺った話なんですけども毎年年末に船橋の 中山競馬場で開催されてる有馬記念は グランプリレースですねこれは帰り大監州 が一度に西船橋の駅に殺して混乱すること がないように最終レースの後で帰る人を 少しでもばらけさせるためにコンサートが 毎年開かれているんだそうですそして競馬 人気がピークだった1992年のアミ記念 でこのコンサートに招かれていたのはその 2年前に紅白歌さんでスーダラ伝説を歌っ て瞬間最高視聴率を記録していてえ人気が 復活してきた上1でしたそして競馬ファン の方はご記憶でしょうけれども1992年 の有馬記念といえば15番人気のえ下から 2番目だったと思な15番人気のメジロ パーマが大逃げ打って1着に入ってで そして1番人気だった東海帝王が11着に 進んだっていうま史上屈しのパンクわせえ レースでみんなお金吸っちゃってですね 来場していた16万人のえ監修がもう凄ん だ気持ちで家地につこうとしていたんだ そうですねその時にそのコンサートのえ 上木のスーダラ節がまみんなの頭に流れ てきたんだそうですよでスーダラ節の2番 の歌詞ってあのご記憶ですか狙ったをあ 見事に外れ頭カット切って最終レス気がき ボーナスさスカラガンのカラカラってこれ 年末の有間記念ですからボーナスこう吸っ ちゃった人もいっぱいいたと思うんですが だからこの次の歌詞はそうした吸っちゃっ た人たちの大合唱になったそうです馬で かねもっけ知ったやつさないいよでま さらにこの後の歌詞これはもう16万人 全員が歌っていたそうですよわかっちゃ いるけとやめられねってまそしてえこの大 合唱でもうこの16万人は金を吸って沈ん でいた気持ちがスカッと晴れてま前向きな 気持ちで家人にすくことができたんだそう ですつまり青島宮の歌詞っていうのは30 年経っても人を前向きにする元気にする力 を持っていたってことですねそして日本無 責任時代では上司がえ前の方でこの2番の 歌詞を歌ってくれて ますでまこうした音楽の力もあって日本無 責任時代はもうお客が枯れると言われた8 月に公開されて590万人と大ヒットして さらに翌63年の小月映画となったえ さっきのこのえ日本無責任野郎は1作目を 上回る大ヒットこうしてクレイジー映画は 東方でシリーズ化されてきます法がを滅多 に褒めないえ小竹の映画監督だった大島 長沙がですねえ日本無責任時代と日本無責 に野郎の日本建てを見て作家小林信彦に どうしてあんなに面白いんだろうて言った そうですしその小林信彦は1962年のえ 雑誌映画評論のえ年間ベスト10で日本無 責任時代を5位にしていますその後 クレイジーキッツ全員が出演する映画は 東方の先輩特許になってクレイジー映画3 作目のえクレイジー作戦先手必勝は監督が 久聖治脚本が池田一郎これ池田一郎って後 のえ時代小説家の龍慶一郎えですけどねえ それから4作目の日本一の色男で監督は フサ護に戻りますが脚本が五楽映画の巨匠 の笠原良三これ田泰生さんの師匠ですけど も笠原良三になりこの後クレージ映画の 脚本は笠原良三がえもっぱら書くように なりますまたえ目のえクレイジー作戦 カバレ無責任以降は上木しの相手役が断れ 後から浜美に変わってましたねでそれと共 に上1のこの人を食ったような人を人とも 思わぬこの悪役キャラがえ一見無責任に 見えるけど自分の言ったことには必ずえ 責任を取る全人のスーパーマンに変わって いきましたでこの田康は映画が夢を語れた 時という本の中で厚海教師のえ黒虎次郎も え勝つ慎太郎の座一も第1作目の時はえ 悪人っぽかったのにシリーズ化されるに 従って前任になっていたという例をあげて でこの時点で上市を前任にしなかったら クレージ映画はあんなに長続きしなかった だろうと書いていますえそして田野と古沢 憲吾が再びクレージ映画でコンビを組むの はえクレージキャツ結成10周年と目を 打たれた1965年の連続活劇の大冒険 ですねでこのが藤本三が社会派の震動を兼 とに原案を依頼したことに娯楽の職人の 笠原両三がへそを負けてもクランクイン 直前までえ脚に手をつつけずで急遽田野生 が呼ばれて後半を書いたためにま前半と 後半がバラバラで話がつがっていなかった ために古沢憲吾監督とそしてギャグマとし て呼ばれていた小林信彦が2人の旅館に こって話をつなげたんだそうですで上木は この映画の後半でまだからえ田さんが書か れた方ですね偽札偽造団にこう誘拐された 恋人の断Discover子を助けるため に列車の屋根に乗ったりえ車の屋根に しがみついたり橋から飛び降りたりといっ たすごいアクションを体を張って演じてい てで映画全体はちょっとシ滅裂であまりお 勧めできないんですけれどもとにかく パワフルな作品でしたで小林の子は 1966年のこのクレイジー大作戦にも ギャグマンとして招かれていて古沢号と 仕事していますがこれもあのかなり パワフルでギャグの詰まったもう面白い企 がいっぱい詰まった作品だったと思います え古沢憲吾監督作品としてはま1番油が 乗っていた日本無責任地代と日本無責に 野郎のこの間にとった若い季節えさっき 言ったクレイジーキャツがえレギュラーし ていたNHKのえ日曜8時からのテレビ ドラマのこれ映画家なんですけれどもこれ がですねクレイジーキャツ全員が需要な役 で出ている上にま当時の東方の若手女優が 総出戦していて坂本9やジェリー藤男と いった歌詞と一緒に歌っとのミュージカル の場面がたっぷりあってまパレさんが進化 を発揮した楽しい映画だと思いますでこの 映画の中に坂本旧が上木市の前でふざけた ドントをまた上が坂本9の前で上へ向いて 歩こをしみじみ歌う場面があるんです けれどもこの上を向いてを聞くと上一と いう人がどんだけ歌がうかったんだって いうえことが分かりますねで古沢号の受 監督を務めたバンの義光という人がこのえ オーディオコメンタリーで話したんです けど上木が上を向いてアルコを歌ったら もうあまりにしみじみしたいい過小だった ので撮影現場がシーンとなったそうですえ 若大将シリーズの3房については若大将の え会に詳しくお話したのでここで触れませ ん他に古沢憲剛え監督作品は海軍航空兵 だったえ経験をれてか大空の野郎ども賃貸 要塞爆撃命令そしてこの今日もえ我大空に ありと3本の航空映画がありますこの中で 唯一votで見られる賃太要塞爆撃命令は え第1次世界大戦で日本軍が中国の賃太に あったドイツのえ要塞を攻略するために 初めて航空機を使った戦いを描いた香山三 主演の作品なんですけれどもこれ副用器が 活躍する珍しい第一次世界大戦ものえ戦争 画であの不時着した飛行機を牛で運んで くるとこなんかありましたすごい面白い シーンでしたけどこの映画の クライマックスがですねあの賃貸を爆撃 するシーンがこの特撮監督の潰れ児とふさ てすごいそりが合わなかっただそうです けどもそう言われてる割にはですねこのえ 特撮とのマッチングがすごいうまくいって いた面白い映画だったと思いますが古沢 憲吾監督作品のこの1本と言ったらま やっぱりさっき紹介した1作目の日本無 責任時代か若い季節あるいはもう1本浜美 とのコンビで言えば日本一のごま男がお すめ ですえ1968年え日本一のクレイジー 映画の日本一のヤザ男を最後にパロさんは 東方をやめてその時点で唐山に200つの 土地を持っていて銀行利子で十分食べて いけるだけの財産があったんだそうなん ですがまそんな時にえパレさんは東豊かが 設立した劇団東京キッドブラザースが南里 発見でをベースに神義霊地新中皇帝の8つ の特をキャラクター化したま8人の ヒッピーの若者がユートピアを求めて さらうという芝居を作って約4ヶ月間の ヨーロッパ公演を行うそしてその公演を 手伝って一緒にヨーロッパをえ回る若者を 50人募り一種のコミとしての実験を行う という新聞記事を読んでその記録映画を 取らせてくれと申し出ますでパレさんは 自分のえ土地と家を抵当に入れてえ資金を 作ってスタッフを引き連れてこの コミューンに同行してキャメラを回しまし た1971年のことですこのコミューンの メンバー全員の面倒を見る天井院の仕事を していたのが後に人気小説家になる長倉 万治さんですでこの長倉万治さんはかつて ビッグコミックスピリッツで僕が宮講座 なんか連載してたのと同じ時期に連載を 持たれていてで机を並べ缶詰なんかになっ てたのでもう非常にお世話になったもう僕 の文筆業の師匠の方ですね長倉さんはこの ツアで一緒になったあのパレさんのことを このアニバーサリーソングという中の短編 で書いていて初対面の古沢監督の印象を こう書いています一体どんな ドキュメンタリーができるのか開目検討も つかなかったが監督のたならない意気込み と気迫だけは初対面の僕にひしひしと 伝わってきたしかし白八巻姿で唸る シナリオライターの存在や日本の青年たち が人義霊といった古い道徳感をもう一度再 発見する時が必ず来る私はずっとそう信じ ていたと熱っぽく語る監督の僕らに対する 思い込みがどこかずれているんじゃないか という感じもしたでえこのツはまとんでも ないトラブル続きでもう長倉さん苦労の 連続だったそうなんですがこの一健康な パレさんは若い旅行大臣たちの間で だんだん日に日に人気が上がっていって もう最後はみんなパレさんの映画に協力を しまなかったそうですでこのできた映画 ユートピアと映画なんですけどこれパレ さんはあのフルスの東方系でこ上映して もらうつもりだったんだそうですけどま 東方にソポを向かれちゃってでで仕方なく 自主上映の形で全国をえ回りますで長倉 さんはえその時劇団をやめてもうやめて パルさんと問診がとてていたそうなんです がある時風の太よに監督が大変らしいと いう噂を聞きますえ名倉さんはその時の 思い出をういていますロックのリズムに 乗せて一見下向きで熱っぽくて夢見る順序 青年風に見せるのが劇団のドラマツルギー みたいなものだったからそれに過剰に反応 して資材まで投げ打ってしまった監督に 対してどこか愛すまないという感情が そこで長倉さんは仕事をやめてえこの ユートピアのフィルム感を持って全国を 回る自主上映会を手伝いますでもその収入 はいくらにもならずまパレさんは結局家や 土地を手放して長屋のアパートグラスに なりますそれでも愚直なパレさんは亜戦争 から戦後までの日本を描くアジアの嵐と いう壮大な企画を立ててで建設現場の交通 整理のアルバイトで食いつきながら 1997年77歳で亡くなるまでその実現 に生涯邁進し続けます長倉さんへの年賀上 には毎年今年秋にはクランクイン予定と 書かれていたそうです栄養出張になった時 もあったと言いますがアジアの嵐は結局 実現しませんでした映画ユートピアから 17年後にどこかの市民ホールで古沢監督 の映画の上映会がありまビッグコミック スピリッツで昭和30年代通信という連載 を持っていた長倉マさんがえ上映語の トークショの司会をたまれてでそこで70 歳になったパレさんと再開しますで長倉 さんはしばらく酒を飲んでいないという パレさんに池袋のレストランでご馳走して 急行を温めましたその時もパレさんはクソ 真面目にアジアの嵐の話をずっと話してい たそうですでその場の話を長倉さんはこ しめくっていますこれもうあの大好きな 文章なんで全部紹介してえ今回で結びにし たいと思います池袋のJRの改札口を抜け て監督は新宿方向にそして僕は巣鴨の方へ と別れることになった長倉今夜はとても 楽しかったとても嬉しかった僕もですよ 監督も頑張ってくださいっていうのは簡単 ですけどねいいよ嬉しいよまた会おう友達 っていうのはいもだと思ったよ友達ですか ああ友達だよ右翼じゃないですよバカ僕ら 握手をかわして別れた別れ際に僕は監督の こと勝手に書いていいですかと聞いた監督 は薄いサングラスの奥で笑いながらああ いいよと言って新宿方向の階段は登り始め たそこで彼はもう一度振り返った長倉書く のならうんと面白くおかしく書いてくれよ 僕は元々悲劇映画の監督なんだから [音楽] チャンネル登録高評価コメントよろしくお 願いします [音楽]

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今回は「無責任シリーズ」「若大将シリーズ」などを手掛けた映画監督・古澤憲吾について解説します。

▽動画内で紹介した過去動画はこちら
・https://youtu.be/h78wgz7pgxc
・https://youtu.be/EaA43viBskU
・https://youtu.be/2O7T9-97d9E

▽ワタナベエンターテインメント代表取締役社長・渡辺ミキさんとの対談はこちら
・https://youtu.be/e_xR5IVIU1k
・https://youtu.be/oCxy5d_b-Jw

▽クレージーキャッツがお好きならこちらもオススメ
・https://youtu.be/ebjJJShKLhQ

00:00:OP
00:37:古澤憲吾監督作品と言えば「クレージー映画」
01:04:古澤憲吾を語ると笑顔になる?数々のウラ話
05:21:古澤憲吾の生い立ち
08:28:古澤憲吾の助監督作品『社長太平記』
09:34:古澤憲吾の作品『ニッポン無責任時代』
13:59:『ニッポン無責任時代』出演に悩んだ植木等の人柄
16:04:古澤憲吾監督作品|こだわりの演出方法
19:25:古澤憲吾監督作品|「クレージー映画」の挿入歌
21:43:1992年の有馬記念|全員が歌った『スーダラ節』
23:50:「クレージー映画」人気を博しシリーズ化!
25:38:古澤憲吾監督作品『大冒険』
26:35:古澤憲吾監督作品のこの一本
29:05:古澤憲吾監督の晩年『ユートピア』に全力投球
31:59:古澤憲吾監督|愚直に映画作りをした生涯

▽紹介した作品はこちら
ニッポン無責任時代
ニッポン無責任野郎
青島要塞爆撃命令
日本一の色男
日本一のホラ吹き男
日本一のゴマすり男
大冒険
海の若大将
アルプスの若大将
南太平洋の若大将
クレージー大作戦

出演:馬場康夫(株式会社ホイチョイ・プロダクションズ)
制作・著作:ソニーマーケティング株式会社
制作・編集(OCPX):株式会社クリーク・アンド・リバー社

#古澤憲吾 #クレージーキャッツ #ニッポン無責任時代 #ニッポン無責任野郎 #若大将 #社長太平記 #大冒険 #ユートピア #青島要塞爆撃命令

26 Comments

  1. 最後に馬場さんが涙を堪えているのがぐっと来ます。古沢憲吾、天才と思います。

  2. 楽しく拝見しました。植木等が演じる「〇〇等」が普通じゃありえないリアクションをするのは、一つには監督のキャラクターがあったのでしょうね。

  3. 『若い季節』は『ニッポン無責任時代』と『〜野郎」の合間に撮られてるので、ノリがまんま同じで最高です。『続・若い季節』も古澤演出の集大成で楽しかった記憶が。『ユートピア』についてはなかなか語られないので、興味深かったです。
    東宝クレージー映画.ビートルズに例えると古澤憲吾🟰、坪島孝🟰ポールのような気がします。

  4. 植木等が昔、「題名のない音楽会」に出た時に、こういうジョークを披露した。

    ある時、昆虫村で村民会議が開かれた。
    議題はそろそろ俺達もリーダーが必要じゃなんじゃないか?という話で、誰かをこの村の村長にしようじゃないか?となった。
    ひとりが、
    「カブト虫がいいんじゃないか?何しろ強いし」
    というと別の誰かが、
    「バッタはどうだ?高く飛べるぜ?」
    もう一人が、
    「コオロギもいいぜ、いい音で鳴くぜ」
    なんて喧々諤々みんなが言ってたが、結局イモムシがいいんじゃないか?という結論になった。
    「イモムシはマジメだし信用出来る」
    って事で、そうだそうだ!みんなが賛同して決まりかけていたが、当のイモムシがあわてて断った。
    「皆の気持ちは嬉しいんだが、俺はどうしても村長にはなれないんだ。だって俺はそのうち蝶々(町長)にならないといけないんだ」

    っていう、まあ字面だけだと特に面白くもないんだが、あの植木の軽妙な喋り方で聞くと、むちゃくちゃ面白くて、実際に番組は公開収録だったが会場の客は大爆笑だった。
    会場にいたのはクラシック番組の観客で、植木にとってはアウェイだったはずだが、登場してすぐ爆笑をさらって観客の心を鷲掴みする鮮やかな手際、この時は植木の凄さを改めて実感したね。

  5. 『大冒険』では、名古屋駅の場面なのに東京駅の丸の内駅舎がしっかり写っているし、神戸の場面なのに赤坂プリンスホテルは出てくるは、横浜マリンタワーは写っていたりで、「細かい事はいいんだよ」とばかりにパワーで押し切っていましたね。
    東宝では、自分達の様な監督がプログラムピクチャーを撮って会社を儲けさせてるから、黒澤明監督は大作を撮れるんだという想いを込めて「向こうが“クロサワ”なら俺は“フルサワ”だ」と仰っていたそうですね。

  6. クレージー映画は何本か見てたのですが、なぜか監督誰? というのにまったく考えが至ってませんでした(^◇^;)

    クレージーはホンダラ行進曲が一番好き あれは哲学だ

  7. この頃の日本は、きっと現代の日本
    より、とっても余裕があり、
    とっても内面も豊かだったんでしょうね!
    この明るさが、このいい加減さが、
    令和の世の中へも必要なんだろうな
    ぁ〜!と感じました。馬場さんは、
    本当に映画やエンタメ全般を愛してる事が
    毎回伝わって来ます。
    こんなに教養があるのに、やんちゃ
    で思春期の無垢さを持ちづけている
    先輩がいてくれて嬉しいです🩵🎉

  8. 名前は知っていたが人物までは知らなかったのでいい勉強になった 
    残した作品群を見ていると笑いのツボが好みの監督です

  9. 今、植木等さんの『上を向いて歩こう』を聴きました。素晴らしいですね。

  10. 馬場さんの最後の締め、内容も素敵だが、やり方がえげつないほどかっこいいなと思いました。

  11. 毎回楽しく視聴させていただいております.後年の古澤憲吾は立体駐車場の誘導員もされていたようで,クレージーのどなたかだったと思うのですが,「とてもじゃないけど駐車できなかった」とおっしゃっていました.

  12. 田波さんの本、持ってますが、加山さんと植木さんのツーショット、感動的です。クレージー黄金作戦のワイキキロケで加山さんが二人だけの海を歌うシーンですが突然のスコールで途中で撮影が中止になりお呼びでない(笑)の加山さんのシーンは東宝のスタジオで後日撮影したそうです。映画をよく観ると女の子に囲まれて去って行く後ろ姿は代役みたいです。私は馬場さんより少し年下ですが古澤監督、喜八監督、植木さん、谷啓さん、加山さん、黒沢作品等、大の東宝ファンでこれからも楽しみにしてます。次は酒井和歌子さん、内藤洋子さん、浜美枝さんなど特集して欲しいです。

  13. この時代の映画監督はどなたも個性派揃いで、そのエピソードを聞くだけでもワクワクします。
    パレンバン落下傘部隊降下作戦に参加がホラ話なのは笑ってしまいましたが、80年代中頃まで戦争を体験されたスタッフの方が多くいらっしゃって、当時の砧撮影所でスタジオ管理をしていた「ソロモン」と呼ばれるおっちゃん(ソロモン海戦に参加したから)がクレイジー映画の常連でもあった広瀬正一さんだと知って驚いた記憶があります。
    東宝争議の話も出ていましたが、その影響なのか80年代に至っても各映画会社の社員監督は「50歳定年制」等と言われ、その後は独立するか会社に残っても良いが監督はさせてもらえなくなる、という話を以前伺ったことがあり、実際に全く映画と関係ない部署に異動させられたり、フリーになる方もおられました。実際に古澤監督も50歳で東宝を退社されておりますし、その後の苦労話を初めて知って驚きました。

    いつか映画各社の労働争議についても(なかなか公式の正史では語られないことでもあるので)馬場監督に語っていただけたら嬉しいです。

  14. この監督のエピソードは知りませんでしたがそりゃ「ニッポン無責任時代」みたいな映画出来ますよね(笑)。

  15. 昭和37年生まれの私にとって会社員、イコール有楽町の界隈を同期や先輩と横に並んて道を歩くのが夢でした。しかし、新卒時は川崎、その後転職して板橋勤務の私には儚い夢でした、
    令和の新人サラリーマン諸君!新人研修でクレージーの映画を観て感想文を書いて欲しい。こつこつやるやっあ、バカ(これは企画段階で没になったそう)

  16. 日本の映画評論の論壇の中では比較的評価される事の少ない映画人の、それでも映画に賭ける情熱は変わる事の無い人たちの事を取り上げてくれるこのチャンネルは本当に貴重です。ありがとうございました。

  17. 今回の動画を見ていて、「日本無責任者野郎」に出演していた、浦部粂子さんを思い出しました。
    日本の隠れた大女優、浦部粂子をぜひ取り上げてください‼️😀

  18. 昭和の末期に浅草東宝のオールナイト上映でクレージー映画の特集を何度か見ました
    当時はアバンタイトルに「古澤憲吾」と出ると拍手が起きるような雰囲気でしたね
    巨大なスクリーンで突き抜けた馬鹿馬鹿しさの映画を観る、今そんな場所が無いのが残念です
    個人的には「日本一のホラ吹き男」が一番好きかな
    古澤監督のその後については全く知りませんでした、貴重なお話ありがとうございます

  19. 植木等のマジメ逸話以外すべて初耳で面白かったです。(たしか)植木等のオールナイト5本立てを見たときは、日本一の色男だけ異質でした。それと植木等がおどけながらカメラに寄って来て必ず左側にフレームアウトする、とんでもない真俯瞰の画がインサートされる、のが古沢憲吾の共通点だったと思いますw

  20. 植木等が監督を評していっていたように、この古沢監督の人生を描いたものができればそれはそれは痛快で面白いものになるかもしれない。右翼活動もしたというと思想や政治にかかわることも避けられないかもしれないが、日本を愛していたという点で今の日本にこそ彼のような人がクローズアップされてほしいものだ。
    クレージー映画にあふれているパワフルさ、熱量が今の日本には必要だ。

  21. 古澤憲吾は、知る人ぞ知るだけど、原節子と結婚の噂があった。原節子もまんざらではなかったけれど、
    結局、藤本真澄からいわれて結婚をあきらめ、監督を継続することになったらしい。

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