江戸時代の三木 藩札と切手会所から見た在郷町の歴史 【三木市の歴史】
このパワーポイントは先日三市で公演を 頼まれてその時に作ったものです実私 ミキシにですね 1985年から住んでいるからもう40年 近く住んでるんですがミキのことはね あまり知らないですね でもこう日本酒オンライン講座やってます とそれをですね見ている人が歴史にもいて あれって松本先生って三市に住んでる人 じゃないですかあゆのことばっかり喋っ てるけどミキ市に住んでるんです ねじゃあ1回えミキでです ね簡単な講演をしてくださいよと言われ て引き受けましょうとその係りの人ね私の 今住んでいる緑かという街の中の人でね 聞けましょうで引き受けたんですがさて ミキ士についてですね何を話せばいいもの かと思ってまとりあえずですねミキの町を 見に行きましょうとミキの町を見に行き まし たでミキの町にはね玉家住宅という明治 時代の消化ですかねそれ をCがね綺麗に直してえ登録文化財にして で 観光ガイドさんなんかもいて活動している というねうんそういうおオタクがあるそれ 見に行ったらですねここに玉住宅って書い てますがその横にですねなんと建林市販 松田だけ三神や一定会て書いてありまし た書と言うとあの殺をね扱う役所じゃない です かあそれだったら私がね今一緒懸保存運動 をやっている旗本麻若の神夜に残る殺座と 同じ種類の建物じゃないですかでこれね インターネットで調べたら ね殺だという建物は日本でこの若狭の人屋 に残る殺しないんです切って会所という ですね建物もです ね三神也の切って会所しかないんです インターネットで調べる限りはねで決定 関所は姫路班にもあったんです けど千治中の空襲で焼けてしまって現存し ているのはこのミキジの切手解消だけやと なんと私はです ね日本でたった2つだけ残って いる観察を扱う建物殺と切手解除のある町 愛市に生まれて合いで殺の保存運動をして いて住んでいるのがミキなんやということ が分かってですねこれも何かの縁や から殺反発切手解消これをですねテーマに してそう私ミキに住んでるけどミキって ですねどういう風にして出来上がった町な んかなと三城ってねおあるんです けど別所長春が橋秀吉ひ織田君とね人を 繰り返したあの三合戦の三城ですでも三城 はね江戸時代廃城になってしまって三は 城下町ではなくなってしまったからじゃ この町はどういう風にしてて町にやったん や私ミキに住んでますけど住んでるのはね 緑川というね進行住宅街で私が大学時代か なよく ね我が松本商店の取引き先がね緑川にあっ てねこれきよったんですその頃ねなんか ブルドーザーが走り回ってね新しい団地が こにできるんやて言ってましたでたまたま なやってねそこに住んでです が40年住んでいてもねあんまりミキの 歴史については知らない うんどっちかというとあゆのことばっかり やってますからねでもまこれも何かの縁な んでミキのことをね勉強しましょうってミ キってどうやってミキという街になったん だというねうんという話での殺を中心にの 町はどうやっでできていったのかという話 をし ますあのミキのね 人屋ミキの陣屋はね高校にありましたこれ ちょっと前までね市役所があったんです けど今ひい道がついてますがこれ先住に 広い道がついたんでそれまではです ねこの向こう側が三神夜だったそうです でこれはとね明治の終わりぐらいから対象 の初めぐらいのね予後県の地図 です街の大きさがね赤く表示されてます ねでこれ王がねあの愛用師がね大村となっ ているところ から 1913年か10年 大臣世界大戦のちょっと前 に大村は大町になったのでこれ大村と書い てあるところからね明治の終わりか大正の 始めやということが分かるん ですでこれ見ますと大きい町ってま神戸が あって姫路があってあとね 明 立野 赤子そして三木ですねで神戸はこれは明治 になって発達した町なんで張間の方で見 ますと姫路を中心に明 美木赤 立野山崎平福そしてここに西脇があるのか なこういう街ってどういう経過を辿って町 になっていったんかということをね調べて みるとこれは池田が姫城を築いた時に姫城 を守るため にお城をね張間の周辺にぐるっと作ったん ですその池田テマが姫城を守るために作っ たお 城そこがですね待になっているんです ね池田 が戦いが終わった後 か大体大阪の人の前ぐらいまで池田が春馬 を支配していました本上は姫路上ですで姫 城を守るためのお城が明石高砂美木タの 平福赤にありまし たで基本的にこの池田マのお城をを作った 町が昭和 20 年代前半ぐらいまでのCになったですね 例外は1つだけありますそれは我が愛用師 です愛用師だけはですね張線一発で攻撃年 になったからそれは例外にしてですねそれ 以外の張間にある昭和20年代までに死に なった町の大半は池田のお城があった町な ん ですあと ねこのラインにね西脇福崎山崎平福と街が 並んでるんですこの町はどういう街かと 言うと博士が ね海の港から船で上がっていくんですね 江戸時代ってのはあの船のね交通が盛やっ た時代でで高宗がですね上がれるところで ここ でこれターミナルになっていて で荷物をこの線まで運んできてあと高宗 で港へ運ぶんですで西脇福崎山崎平服 と加工 側市川 居川千川とで川が海に出るところに港町が あるんですね高砂鹿間 阿星さという風にあそういう風 に兵庫県の張間の町 は発達していたんですねあと西国海道が あるいは旧山陽道が走ってますが山陽道と 川の皇典に 神郡立の加川という風に街が発達してい ますでこれが池田テルマが最極将軍姫路 100万国と言われた頃の池だ ですでも池たってね大きく分けるとね2つ に別れるんで池田テルマのえこれ最初の妻 中川清秀の娘との間にてきたのが池田とし た かでその後徳川イアスの娘を妻にもらうん ですねこれが徳姫でで徳姫とテルマの間に 生まれた子供が岡山になるんですか姫路と 岡山ってテルマの子供たちなんですけども 母親が違うんですそれからこの徳姫 さんテルマに嫁いで来る時に徳川から化粧 量10万国をもらってきましたこれは徳姫 さんの財産です徳姫さんのですね財産を 次男とか三男に分けてやりましたでこうし て3万ごぐらいの班が3つできたんですね 山崎と赤と平服です でこれをですね全部足しますと大体 100万国になるということで池田 100万国最極将軍と言われていたんです ねで1616 年姫路城を池田照正から受け継いだ池田 俊孝がなくなりまし たで姫路はねあそこは非常になお城 で西国と大阪の境目にあるんです ねで大阪に豊富秀吉がいた頃 は大阪城を周りから睨むということで姫路 城とそれから彦根城とから和歌山城かなが こう大阪を睨んでいたわけですが豊秀が 滅んだ後は今度 は彦根と姫路は大阪を守る町になったん ですで特にね姫路はね西国の方にいる戸山 大名たちが大阪に来るのを姫路で防ぐと いう大事な役割があったんでまそこはです ね戸沢の池田ではなくて不で抑えたいと いうこともあってでさらに池田俊孝が 亡くなった後後継だ池田三がまだ子供やっ たんでいや三君子供では姫路は無理やろう いうことで鳥取に動かしてで姫路を開けて ですねそこ に本田ただが桑名から移ってき ますで張間の東の方は本田と小笠原本田 小笠原と言うと徳川のね最も信頼の熱い不 大名 ですただこれ西の方ねここに池田系の班が お城が残りまし たこの山崎平福 赤これがなぜ残ったかというとこの3人が 持っている平と山崎と この10万国 は徳姫の化粧量 から来てるん です池田の中では姫路系のお城ではなくて 岡山系のお城なんですねで姫路の池田孝は 鳥取に移りました が徳姫の化粧量からスタートした山崎平福 赤は残ってる ですさてその後なんです が山崎と平福と赤のです ね3つの池田系の大名はえ次々 になくなっていき ます赤4 万国池田摩擦なこれは色々て池田照るに 引き継がれたんですが池田照る沖ね 1645年に性質の黒田長正の娘を切り こすというとんでもない事件を起こして ですね解役されまし たでその池田摩擦なあ池田照か池田照が ですね解役された赤城を受け取りに来たの が麻の長名でで朝の長名をそのまま赤に 折れということで赤は朝の5万国に変わり ますで朝の長名は赤工場をですね拡張して 現在の万国にしては巨大な工場を作りまし たでこの時に平服は背反になってこういう 経過をたどってね山崎も小さな班になり ますで次にです ね東の方なんです が大阪城が落した 後一国1条例というのが出ます一国1条例 とはどういうものかというとですね1つの 半にお城は1つに 白もう1個ルールがあっ て1つの大名が国を2つ持っている場合 あれ3つ持っている場合例えばね蚊が前 だけ100万国あそこはカとのとエチ持っ てるんかなでこの場合は国にごとに1個 ずつ持ってよろしい と1つの半の中には基本的に押は1つです よということになりまし たでとこで張間にあったお城のうちです ね東の方のお城なんですがこのうち2つの お城が整理されることになりますでなぜか と言うとです ね姫路 班これ本だけなんですけども姫条と高さ5 畳と2つ持ってましたでこれ一刻1条例で 半に1つですので高さ5畳を廃止されます この後ですね 高砂城はあ高砂の町は商業都市港町として 生きていくことになりますというの は高砂はここにあるんですがこれ過去川が ですねこう流れてきてましてね加川がです ね姫路というか春馬平で一番大きな川なん ですで一番大きな赤加川が海に出るところ にある港ということでで姫路班のね米倉も こ高砂にあったんですで高砂は姫路班の米 を扱うあるいは加川流域の物資が集まって くる港町として発達していきますこれは 商業年に変わり ますもう1つ はミキと明石 ですでこれ小笠原という1つの班になた ですねでミキにするか明にするかという ことでそれまでお城としてはミキの方が 大きかっ た別所長原以来別所って赤松の遺族ですの で赤松はですね西川初の 東川三日本居地があってこの赤松の東の方 の本拠地が別所なんですで別所長春が秀吉 と戦って負けてですね一旦三木の町は ぐちゃぐちゃになるんですがその後ですね 橋秀吉が三城ですね再建してで三城の方が 大きかったんです がこれミと明石とお2つあるのでどちらか 制せなあかんわけですよ ね徳幕府からこれからは明の方が大事や から明に新しいお城を作れということに なったんですで今明石に行きますとね明石 駅からね目の前に赤城がドーンとあります けどあのあの赤城は戦国時代のもんでは なく て 大阪が落城してから徳川県の命令で小笠原 がちょっと西の方にね船城というお城が あったんですがそのお城を潰して現在の ところに赤城を新しく作ったん ですでこうして新しい証城とですね三城と 2つあるので三城の方は廃しやということ になりまし たでは右はどうやって生きていくのかお城 がなくなりますと武士たちは全部明へ移っ てしまい ますで商売人たちも証へ移ってしまいます じゃあミキの町はされてしまうのかでこう いう町はですねその子どうやって発達して いくのかっていうのがですね今日のテーマ というかねミキのですねえ町の歴史という ことになり ますこれまでの話をまとめます ね張間 の基本的な町の位置は 池田テルマが気づいた姫路城及び姫路城を 守るため のお城及び高瀬船の交通そして最極 街道以上のことからです ね昭和20年代までにあった達市とか赤師 とかねそういう町がそこになぜできたかと いうことは説明されるんです ねでその中 でお城がなくなってしまった町が2つある 高砂と三木このうち高砂は姫路班の米倉が あって商業都市に変わったとではミキは 三城がなくなってしまった後どういう風に して町を維持していったの かミキの漁師をですねずっと移り変わりを 書いていきますとこういう になり ます戦国時代は別所の三城がある城下町 でしたその後三線で別所がびてで中川秀正 が入っていき ますそれから太鼓倉一人になって池田 テルマがですねカロの息たつを送り込んで き ますで阪が落した後一刻一条例で三城と船 城は廃止されて明城にまとめられて小笠原 が明石上に移りますこの時点でミキ から武たちは明へ移ってしまいました ちなみに今明に魚棚魚の棚と いう魚を扱っている商店街がありますが あれ元々右にあったんですねミにうたなと いうのがあってそれがですね三城の侍たち が明へ移る時に商売人たちも証移って しまって今の明の魚のタになったとあそう やったんかでで明はそれで明石町小笠原班 の城下町として発展していくわけですがミ はどうなるんかということですよ ねでその後ミキはですね幕府量になったり それ から幕府から関東系のね大名たちにね 飛び地として与えられるんですよね黒田 前橋班 酒では山方班掘ったで比較的長かったのが 上州建林班の 松田なんですが の町がですね滅びてしまうかどうかという 危機は2回ありました1回は三活線で別所 長春 が老上海秀吉と戦って負けた時です ねで橋秀吉ね初め三城を再建してで三を 拠点に張間を支配しようとしたんですが 黒田官兵がイメジの方がいいすよて官兵 姫路の方に本拠ありましたからね黒田官兵 が姫路に橋の本拠地を誘致したわけですで 浮城はです ね本拠地ではなくなったんですがただ元々 東張までば一番大きい町やったんでこの町 をですねさびれさせてしまうのはもったい ないということで秀吉が三木の町をですね 再建することにしましたその時に秀吉がね 警察を出してい ますで町をですね再建するため に税金はかけないと秀吉が言ったという ことになっているん ですで池田ルマスの時代は姫路城の史上の 人としてカロの行きたく正しいおってま そこそこの町だったんですが 一刻1条例の 結果未記場はなくなることになりましたで この時が2回目の危機です ねで小笠原ただとしても明城の方に武士 動かすんですが三の町がですね廃れて しまっては困るので小笠原たがですね知子 免許この町からは税を取らないとだから お前らね頑張って待ち再建生というですね 免許を出したん ですでこうしてミキの町はですね小笠たに よって税金がかからない町になっ た実私がですね 1985年さ な右に引っ越しできた時ね 自治会のね役員なんかしてたことあるん ですよその時にねミキのね前から住んでる 人で話してるとねミキの町はね松本さん なかなかね新しいことをねしないんですよ てなんでですかてこの街 は自分から新しいことをしないで周りの街 が新しいものをね作ったらねそれをね見学 に行ってねふんふんふんこういうのを作っ てるんか他の街はと言いてねでよく言及し てねいいのをねこれ作ろうか言てねで ちょっと遅れるんだけどいいのができるん ですよとでなかなか ね他の街にないものをこんなん作り ましょうて言ってもねそんなんなかなか やんない街なんですよてね言われてねそう かなんでそんなマになったんですかて言っ たいやこの町はな江戸時代税金がななかっ たんやだからねあんまりね無茶線でもね 生きていけるということになってというか あまり無茶せんとこていうことになって ね別所長春なんてなちょっと無茶したから なほもたやろとま無茶せとゆっくりやって いこうというねこれがね我が美の町なん ですよ言われてうんて思っててねそれが もうかこ30数年前な話うんで三の町がね 江戸時代税金安かったってのは知ってたん ですけどねなんでかなというねそういう ことはね私ミキの歴史に興味なかったから 知らんかったんですけど今回ですね初めて 勉強しまし たでこの小笠原田実の知子免許これで三の 町は税金が安なったあ三木の町と言っても ね三木の町には旧三城の周りにあった町方 というのと周りにこう村がある村方いてね 村の方 は普通に年かかるんですけど町の方ね こっち は税金が免除されとんですというかね城下 町大体ね税金免除されるらしいですで三の 町も城下町ではないんだ けど城下町と同じ扱いで税金が免除された と 小町ね 在京町とかね在方町が言うらしいですけど ね うんで さてその後小笠原から 水谷市に変わりますがその時も知子免許を もらいまし たキクが来たのはですね1642年天領に なった時です1677 ね徳川幕府 が三の町にも税金をかけようと言い出し ましたで検地をするえ検地というのはです ね税金大腸ですねあんたのとこはこれ だけ生産があるはずやからじゃそれに 見合った税を取りましょうというねでこれ 偉いこっちゃということでメキから2人の 人が江戸にジソに行きました 命がけだったのかでも江戸時代ね結構ね こういうね時そって案外ね認められてたと が分かってきてね うん勝一期なんかもルールがあってねそれ からかごそい てお田様てごか様とか言ってね籠で 通りかかるえいさんに ねすあれもできるん です時代劇なんかでは ね直訴するとはフラシなやつだと書いてね 言われてますけどあれ嘘でねちゃんとね 直訴する権利はあるんでえだから命がけで あったかどうかはちょっと微妙ですがでも ね認められるかどうか分からへんし身の 安全も保証されへんしねでも2人の人が 出かけていってねでね ついに知事免許をね認めてもらったんです で見地長にねこの町 は事情があるの で年税は免除するということを幕府が認め て書いたんですでその時にです ね おさんが知子免除してくれましたという ことの他ににねそもそもねあの大高秀吉が ね税金負けてくれたんですよおてですね 認めてもらった らしいでこのうち小笠原田実 が税を下げましょうと言ったのはこれは 本当なんだけど秀吉がです ね太行秀吉が税金をただにしたかっていう ところはね 大学の先生方が研究した方読むとねそれは 怪しいでね秀吉が買出したね生産が残っ てるんだけどね字がね薄くなっていてね これ何書いてやったんやていうことなん ですけどとにかく言い立てたんです秀吉様 も小笠原様もね税金無料にしてくれてます よてわあ言ってですね通ったん ですでこうして秀吉が認め小笠原がそれを 確認し幕府がそれを認めたということで 我が町 は税金はないということでですね三木の町 のえ税金はないんやとあれ安いんやという ことが確定しまし たでねウの町ですけどね税金が安くなった だけではま町発展できませんよねでは侍 たちがね明石行ってしまった後ねこれ三木 はどういう町になったんかと言うとま とりあえず ね三木活線で秀吉と戦ってミキの町ねもう 思えてもとうからねそれを再建しようと いう方でま大工さんが集まってきたですね 大工さんの町になったで大工さんたちは メキの町が再建し終わったらね各地へ 出稼ぎに行くんですけどその時 に席が三にあるからってことはつまり税金 はないわけ出稼ぎに行ってるけどね税金は 免除されてる わけでさらにダさんは道具を持っていき ますよねの切りとかのみとかねカラとかね それをねミキのを持って行きよったらしい んですでやがてですねそミの大工さんが 持って くる金物 工具横切りとか切りとかカとかのみとか それなかなかええやんということになって です ねそれが江戸屋大阪で売れるようになっ たこうして18世紀の真ん中編でミカナ もこれがですねミキの特産品になったソバ もね特産品だったらしいですけどね特産品 はあソバはその後斧に移りますあとね染物 の ね答えていってあの染め物の柄を ねあの書いた絵これも特産だったらしい ですけど ねでねこのミカなものにね目つけた松平が ね これ反の000倍にしよう かそれから商売にはども金いっぱい持っ といよや から反発発行して商売人が持っているあの 金貨銀貨を取り上げたろうかってな話が あって今日のメインはそこの話なんです反 THAとそれ から反の売性上林班 が暗殺発をするととも に金物の売性をやろうとした時にミキの人 たちはどのように対応したかそれをね今日 は見ていき ますさっき喋りましたねミキの町は税金が 安いそれは秀吉の察によって秀吉が無勢と 認めてくれたんやところがです ねその文章がね千年の通り知子とりまき ことと書いてあるらしいんだがほんまかと いうなことが ね日本金星都市の文書と記憶という本がて ねこれに書いてありましたねこれほんまに こう書いてあったんか とか改ざんちゃうん かまでもとにかく ひよさんの察があるんやとメの町人たちは 主張したそれから三城が亡くなって明城に 統合される時に小笠原から知子免許特権を もらったこれ在高町って言うんですねで 幕府の検地があった時に秀吉と小笠原の この1と2をですねっと主張して ねで無勢であということを認めてもらった でこうして橋秀吉太子秀吉が税金を負けて くれたんやということになってそれ忘れ ないようにしような とでしかもね江戸幕府が検地で税金 かけようとした時に義民2人の人がね江戸 に行って ね命がけ で税のを守ったんやこの2人の義民偉いな ということでこれ忘れんようにしようなと いうので ね大子というお寺 にクを立ててこの中 に秀吉が書いたという書いたわけではない か秀吉が出したという察をこにしまった しまっておこうとそれそれから小笠原さん がね書いた知免許これもしまっておこうと こ法造って言うんですっ てでその横にねこう義民の日というのが あってこれが江戸幕府が税金書とした時に 江戸まで命がけ で訴えて無勢を認めてもらったというです ねこ義民の記念費ですで毎年 この構造倉の中に入ってる文章を出してね みんなで確認してねうんこういうことが あって我が三の町は税金が免除されてるん やここをちゃんと覚えておこうねていう ことでやってるんですってあそうやったん やて私見に行ってみたらねちゃんとこう 綺麗にね花がいけてあってね 今でもミのたち は2人の義民及び橋秀義及び岡沢たにです ね感謝してるわけです ねさてその後のミキの町の話ですけど も初めはね大さんやったんですミキの町を 再建するために大さんが集まってきた ところがその後ですね大工さんが出稼ぎに 行った時にっていく金物こっちの方がよく 売れるようになってです ねで家事職人の町及び家事職人家事屋さん からいっぱいそれをこてね 売りさばくト屋さん 商人が増えてきたで金物業とそれからね もめのしおりこもめがね加川周辺でね 結構栽培されてましてねでもめ産業も盛 やったみたいですナタネ油とかねそういう ものを扱う商人が集まってき たで新しい商人もやってきてですねこの町 は在高町商売人の町として発達していき ますでそういう中で新しい商売人が移って くるそれから産業も移り変わっていくま その結果ですね江戸時代の前半に力のあっ た商売にこれそって言うんですかねえこう いったところのね系が苦しくなってで逆に ですね黒だとかこういう金物を扱うト屋 さんの力が伸びてきた とでそういうこともあって町のですね メンバーが変わっていく時にこのは なぜ税金免除というねそう いう特権を勝ち取っているのかということ を ね忘れたあかんということで毎年さっき 見せ たクの中にあるですね文書とか義民の日と かこういうところをですねみんなで集まっ て彼らの異業を確認してで街の アイデンティティわせたあかんなとことに してさらにですねご違反衣装も作ったそう です秀吉と家康のご杯があるそうですレギ シも書きました私たち街はこうなっている んだていう風に ねで金物がね街の商業の中心になってくる とですね商業のあり方が変わっきますそれ まで は三神夜を中心にその周りの村とのですね え商売が中心やったんですが金物になると ねこれはもう日本住 特に髪型江戸というですね大消費地に売り に行くわけですそうすると大阪市場と三木 の間のね 通信か輸送こいともが大事になってきます よね でそこで通信手段輸送手段をですね整備 することになりまし たでこの頃 に天領 から上州館林市販落松田だけの飛地に 変わり ます叔父松田ラはですね6万国持ってるん ですけどそのうち4万国が関東にあって 2万国が張間にありましたま結構ね大きな 領土を張間に持ってたんです ねなのでミに人野を構えてね2万国ある 書類を統治しとったん ですでこの松平けなんです けど落松田って言うんですけどもこの落 松田というはねなかなかの家でして ねこれ徳川家の系図 です家光の次の将軍イツ4台ですねところ がイツって後継がいなかったの でで弟つげなんですがつげなくなってるの でその次の弟つよ五大将軍ですつよを将軍 にしました ところが綱吉にもね熱水がいなかったので 6台7台と今度はつげの子孫が将軍を継ぎ ますで家すぐに後継がなくてこの次に 和歌山からあの有名な徳川義宗が八大将軍 で乗り込んでくるんですが実 は血統だけで言いますと吉宗よりも もっと将軍というかあの家康秀た家光と いうね この徳川将軍系着系ここに近い人がおった んですそれはこの松田清たという人ですつ の息子 です本来この人が将軍になっても良かった たんですただこの人 ねお兄ちゃんいますので若い時に落ち家に ね容子に行ってましただからこの松田を 落ち松田って言うんです ねでお兄ちゃん将軍になったんでま館林班 に え阪州に取り立てられてです ねで5万国ぐらいまで来たんです が清たさん ね将軍になるチャンスがないわけでは なかったんだけど足もしA年やしもういい わ言ったらしいですこれでねあの八大将軍 吉宗になったんですねということなので この落松代だけっ て徳川将軍家 の着に極めて近いというね特別な ポジションを閉めてる家なんですここだが 小さいけどねステータス高いんです ねでこの京竹さんの系統で武地さんという 時 にミキが建林半量になってですね30人 ほどが未に不妊してきますこの武地 さん老樹すにもなってで6万国に稼働され てで張間にね2万 ほど書を持っとったんですでそこをね三神 夜にいる建林反の阪たちが納めていたん です ね 1820年代松代だこれなやというですか ねこの人の時にミで反発を発行しようとか 金物の売をやろうという計画が持ち上がり ます0年代と言うとあちこちでね反THA が発行されてるんですねえ姫路班もこの頃 にかい寸のという偉い過労さんが出てきて ね反発発行及び姫路もめの江戸直売で 大儲けするというねえことをやってい ますま各班でね優秀な人材がいるところで は 産業を起こして反発も利用して経済を発展 させてていうことをねやりだした時期なん です ねさてその頃のミキの町です が1742 年ミキの町の記録による と商売人の中で1番多い商売人はというか 職人はですね大工さんやったんだ ですところが19世紀になるとこれがです ね金物業中心に変わっていきますちなみに 人口はですね3800人江戸時代のね判定 なは割と単純 で1万国の領地があると人口は1万人で そのうちの1 割1000人が城下町に住んでいる で人口が3800人ということは大体4万 国の中心ということになりますよね例市販 の所要が2万国あってでその方がね関東の 方のね飛びが結構あってでそういった人 たちもみんなねミキに人夜構えていてね なんだかなんだかんだ で 人口4万国だけと4万国ぐらいの所領が ミキの近にあったんですかね でそのうちの1割約3800人がですね ミキの町に住んでいまし たでその町は花物の町になっていてですね 大阪との取引が多かったんで大阪に金物を 運び出す手段とか大阪からお金を送る手段 とかこういう通信輸送にね力を入れていき ます で まず三木の金業が盛になってきますと大阪 との通信が必要になってきてでミキと大阪 の間で三木飛脚というのが生きするように なりまし た大阪とね江戸の間はねサド美脚というの があっ て最初月3回やったんですけどももうこの 頃ともっと頻繁にね江戸大阪の間を客さん が生きしています江戸と館林の間もですね 飛脚が一してい ますで大阪と三木の間にですね飛脚を作り ますと三木大阪江戸建林の連絡がスムーズ に行くではないかというわけで 1814年には月8 回ミキと大阪の間を被虐が生きしていた ようです次にミキのね さを高砂後に 運ぶ船を作ろということになってで高砂 から西脇これ加側でね加川には高瀬舟が 走っていまし たこの高瀬舟を三へ引っ張ってきましょう ということで右側通線というのが1770 年にでき ます三の町ですね三城はこれでですで こちらがねこ過去側ですね高砂からずっと 上がってきて西脇まで行きます高瀬舟が こう走っていき ますで街道はね湯山街道という道がね有間 から右通ってこう切てこなんで国金という ところで渡ってで姫路へ行くんですえ 姫路三木有馬という湯山街道と三木から 明石へ向かう明石街道とが走っていますで このミキからねこの辺りから船に荷物積ん で右側を見側ですねこくってねここ から加川に乗り入れて高砂まで運んでで 高砂から大阪へ運ぶという ルートができまし たで大阪市場をですねミキ の金物ドヤが開拓してですね利益が上がっ てきているということを見てですね落松田 市 がこの商売人たちが設けてる利益をですね 吸い上げだろうと考えるんですねこうして 林市による反発発行と金の専売性がですね 見られることになり ますで反THAなんですが姫路班は 1820年 に愛のの旗本麻若狭の人野は1822年 にこの殺を立てて反発を発行しています ミは 1823年ですこれ切て会所はねこれは 1823年のものではなくて別のとこで ね観察のジムを取っていて後でなんかこれ 元々商売2の家だったらしいですけどね うん豪商の家を買ってねこっちここを切っ て会所にしたらしいです がでミキ切って会所と 若のジニの殺は残っていますで姫路の ね切手解消これ はわの先輩で設けて大きな切手会所だった らしいんですがで渡町というところにあっ たんですが昭和20年の姫路空襲で燃えて しまって今広島銀行の敷地になっていて ここにね切手会し後という石碑が残ってい ますで反THAの話してきましたけどね反 THAって一体どんなもんなんて意外とね 反発のこと知らないでしょううん私もね殺 座の保存運動してましたけど反THAって あ これ赤軍若野の若狭の人野が発行し た観察なんですけどね これは私持ってるんですけどもせやけど この反発をていたどんなもんなんやという ことはね今回調べてやっと分かりました 右側のこれは晩州ミ預かり切てって書いて ます がこれはミキの反発ですこっち若さの反発 ですどちらもね銀1問目って書いてあり ます ねじゃあ銀1問目の反発ってどれぐらいの 価値があるんかって言うとです ね銀60問目が金一量で銭に6000問 から5000問ぐらいの価値があるんです でこれね今の ね通貨で言うといくらなでねこう計算方法 色々あるんですが私が1番だとやと思うの はね大工の日島で計算するやり方ですねで 大工の日島をね江戸時代1日5問目4部 だったんだそう です5400問ですねでこれ5問目4部今 とした技術のある人を一し働いてもらうと お給料はいくらでしょうでま2万7000 ということにしましょう最低賃金やと 8000円ですけどもま大育さんはね ちょっとした技術のある人ですから ねちょっとした技術のある人に働いて もらうといくらぐらいかかる か私もま一応ちょっとした技術ありそうな んかなそしたら私以でですね1日働いたら いくらになるかなって考えたら ねそうする といろんなもんが出てきますよね うん公演料とかねガイド量とかねうん大学 さの場2万7000 ですでこれを基準にしてね計算します と大体え60問目というのはですねね約 30万円になりますちなみに1問っていう のは50円になり ますで金一量が30万円 とこの銀1問目とかね書いてあるのは今で 言うとです ね 5000円か なうんそうですねはい銀1問目は 5000円 これ5000円札なんです今で言う ね銀5問目1問目5部3部2部といろんな ものが発行されてい ますで発行する時なんですけどこれ銀と 引き替えてくれると言ってるんですけどお さんなんか信用できへんわということなっ て困るのでこれ大阪の天王寺がね引き受け ていますでこのなんですがどこで作るんか という話なんですけど ねこの反の作り方を説明しておくとまず これ神に印刷するんですねで神は ね西宮のナオというところ でこの反発に使われるえ神が作られてい ましたあもちろんね自前で作る場合もあり ます姫路の場合はコデラにですねワシの 製造書があったらしいですけどま普通は 西宮のラジオで作ったワシを買ってくる そうですで色をつけてますねこれねあの土 混ぜるんだそうですで土混ぜておきますと ま赤い土混ぜもね赤くなるわけで分かり やすい でしょだから日札も作りにくいですよね からネズミがじりにくいとかね虫がかじり にくいとかねまねこれ土ねちょっと混ぜて ね色ねつけてるんだそう ですそれからこ印刷するんですけど も印刷するあの反目板ですがこれ は大阪とか京都に専門の職人がいてそこで 作ってもらい ますで大阪屋京都でこの木を作ってで神を ナオで作って で切手会所とか殺座に持ってきて印刷して で反抗を押しますというにしてこの反発を 作るんです ねこの反THAなんですがじゃいつ始まっ たんかと言うとですねこれはね江戸時代の 初めに 伊勢神宮の周りの旅館街あそこはあの宇と 山田というね内 が宇か月空が山田そういう あの宿泊の町がありますよねえそこで ねこ兵が作られ始めますなぜそうなったか というとね日本ね室町時代自分とこでねあ バでお札作らへんかったんです火も作ら へんかったんですねであの通貨はね中国 から持ってきよったんです日本校長 12000円って平安時代に作ってました けどもやめちゃって中倉室町とね総生とか 民選とかね中国から持ってきて使ったん ですよ ねでね江戸時代の初めですけど ね通貨が足らんかったんです特にね小銭が 足らんかったらしいですで江戸バグも ね家光の頃かな簡易通報を作るまではです ね金貨銀貨は作ったんですけども同線作ら なかったんで小銭が足れへんかったんです そこで ね伊勢の宿泊業者が ねチケットを作ったんです神のねでそれで ま伊勢の町ではこれで通しします からでやがてそれがですね伊勢参りの宿泊 権になって ねでや山田押というこ宿泊業者がですね 地方に行って伊勢参りしませんかとか言い てね勧誘するんですでその時にねクーポン 券宿泊権を渡しとったんですで神のお金で あ神のね神でまお金代わりになった でそれを見てね地方の大名たちが考えるん ですねというのは地方の大名たちもね通貨 不足に悩んどったんですところで地方の 大名ってどうやってお金をね手に入れるか ということなんです が自分で作ったあかんからね小番 は銀座でまたぎの中は銀座で作るんかな 何しろね通貨作るのは幕府が独占してまし たから ね大名たちは自分で通貨を作ることはでき ないではどうやっ て半の中に通貨を持ってくるかという とハの年を大阪に持っていって大阪で売れ ば貨幣が手に入るんです ってことはです ね大阪に物をたくさん出荷できる半は金貨 銀かコバなんかが入ってくるんだけど大阪 に売るものがない班はあんまりお金が入っ てこないんですよねそうするとね貨幣が 足りなくなってしまうん ですでしかも ね大阪江戸にね屋敷を構えてますよねで 大阪や江戸 で働いている反の人たち阪たち彼らは江戸 大阪で は金貨銀貨じゃないとあかんかねそれ回し たらのあかんでしょ優先的にねそうすると 地元はどうするんやということになって ですねじゃ地元は神のお金で行こうやと いうことで1661年越前の副違反が幕府 のの許可を取って反発を発行しまし た公式にはこの越前副違反の反発が最初の ものだということになっていますでこれね 反THA作りますとね領民たちにわ配るん ですで後でね回収するんですけど回収する 時にね反発じゃなくて金貨銀貨で払えと いうらしですそうやってね民たちが持って いる銀貨銀貨を吸い上げるんですよねで その銀貨銀貨は江戸屋敷なんかに送る らしいですから江戸時代って ねほとんどの日本のほとんどの地域は神の 金観察を使ってたんですね特にね江戸時代 後半は ねで越前の副違反のね本に書いてある らしいです けど初めてね江戸とめになった武士がね阪 がね江戸に出発しますたら江戸ではなお金 はこれやでって ね金貨銀か渡されてえこれがお金なんです か今まで使ってたあの反発神の金あれは あれは 何一前波の中だけで通用するんで江戸大阪 行ったらあも通用せへんでと江戸大阪では この金銀なこれで生活するんやでってあ どうだったんですかというわけで時代劇 なんかで ね小番とかあるいは2主とか出てきます けどああいうのは江戸大阪の話日本の ほとんどの地域はです ね反発図通ったん ですでね初めの頃の反THAでねえっとね 1670年に ね麻野巧の神が平高月の助にね人形に及ん でで朝の赤飯が断絶した時朝の 赤飯の ね暗殺回収っていう話が出てきますよねて こと は1700年頃には赤では反発が出回って いたということになりますよねであの反 THAをいくらで回収するかいうことでね おしくらすか6割で行けとか言ってです です ね6割で交換したらしいですけどか反発 って領民たちから見ると何かの時にですね 価値を失う可能性があるわけですよねま半 が潰れてしまえばチラになる可能性もある まそん中でね赤朝は6割とは いえ金貨銀河に変えてあげたから商売員 たちはま助かったわけですがけでやっぱり ね神のお金よりはね金銀同の方が確実は 確実なんですよねそうなる と 反発は ね反の力によっ て通用する反発と通用しない反発が出てき ますよ ねでもう1個反発で幕府がね察ってのはあ かんてだからさっきのみな銀1やった でしょで銀の方を発行されてたみたいです ねでその銀何問目って書いた反THAなん ですがその反THAが通用するかどうか は反の経済力が強い場合と弱い場合で強い 場合はいやうちの反THAなんて な誰でも信用して使ってくれるしっ てうちの歯の中では別に銀貨銀貨星がる わけでもないからっていうの は反射すのが軽いしね便利でしょ金属のお 金よりねだから力が強いねハデはね重たい 銀河銀行より軽い紙幣の方がいいやって いうことで流通するんですけど力の弱い反 ねこんなこんな半作大丈夫かっていうとこ ではね もう無理やりこれ使えて言わなね通用し なかったしまたそんなとこはね反発安安 なんが下がりやすいんだよね うんでこれが江戸時代 の実際の通貨制度です ね右側これが幕府が決めているえ皇帝の 通過制度です金1両を4つに切って1部金 それを2つに切って2出勤4種が1部4部 が1両で今風のお金に直すと一両が 30万円1金が 7万50001手金はその4でちゃ 2万円ぐらいなるのか なであと銀貨もありますで銀河の場合 は長銀と か銀の塊りがあってねそれを測って使です ねでこの金貨で江戸が動いていてで銀で 大阪が動いてい てで姫路班の江戸大阪屋敷などはこの金銀 の世界です が姫路の諸量あるいは赤光の書類これ地方 はですね反発でいき ますでこの反THAはですね基本的には反 の中だけで通用するもんです から他の班に行く時は両替をし ます あるいは金銀と反発を交換することもあり ますよねその時に殺や解消でそういう事務 を行うんです反発発行とともに反発の交換 反発と金貨銀貨の交換そういったものを 行うそれが殺座解除 ですでですねの金貨銀貨は作るのは江戸バ 府だけですから金貨銀をたくさんに 入れようと思いますと江戸大阪に行って物 を売ってで金貨銀貨出たらいいんですねま まず金貨銀貨の こ出回りが江戸幕府が金貨銀貨作ります それを江戸幕府が何か購入した時に金貨 銀貨で払います江戸幕府はね反発とか爆殺 作らないんです爆発の最後にねちょっと 作ったらしいですけど江戸幕府は紙幣は 作りませんだから江戸幕府に物を売ります と金貨銀貨で支払われますねえ小番とかね そういうともで支払われますで江戸大阪は 江戸爆風の銀貨銀貨が流通してますから 江戸大阪に半から何か持っていって売り ますと銀貨銀貨が手に入るとでたくさん 銀貨銀貨を持っている班は反発に信用が あるということになってるんです でこの反発のね使い方にね革命が起きるん ですねさっき1820年頃にね姫路班から 館林班三神夜小さいとこでは旗本朝若狭の 神夜でね反発が次々発行された とこれほとんど1820年代なんですじゃ なんで1820年代にそういう反発がです ねあちこちで大量に発行されるようになっ たかというとです ね各地の反で財政改革というか反省改革が 行われたから です結局反の財政がね赤字になってきてね これは1かってわけですねなんとかして反 の財政を立て直さないいかん立て直す たってですね 農業から年取るのはね限界に来てるんで ね江戸時代を通じて経済が発展して貨幣 経済が発達してますからねそちらの方で 何かものを売ってですねね儲けたろうと いうことになるんですよねで ね各班は国産品を作ろうとしましたたミキ の金物とかね姫路のもめとかね各自にそう いう徳島の愛とかね江戸時代って ものすごく特産品が発達した時代なんです よね地方の個性が痛くな時代であったで その地方の独裁品をね江戸大阪に持ってっ て売るんですけどその時 にお金がいるでしょま今でいう資本金が いるんですよねこの資本金をどうやって 調達するかということで ね反THAずこうたらええやんという考え 方が出てきたんです まずね反発を発行しちゃいますでこれで 製造業者から物を買いますでこれを半が 江戸大阪に持って行って売りますと金貨 銀貨が手に入りますでくるっと回るわけ ですねこの1番最初の 反発これをどうするかということなんです お金をねでこの初めのお金がないとね どういう風になるかと言うとこのお金を ですね製造業者はどっかから借りてこな あけませんよねそうすると金利払わなあか んでしょうそれ から販売する場合にもね仕入れてから売る までの間に時間かかりますよねでこの間も このお金を借りて回そうと思うと金利が かかるんですでそれをね接せと反発印刷し てね自前のお金でやりますと金利かから へんのですあこれはいいはということに なって ね観察を発行してでこれで物を買って売っ て金銀を手に入れると いうこれで自分との特産品をですね代替的 に江戸大阪に売ろうということが始まり ましたでこういう風に商売に使います から金額大きくなるんですだから中にはね 100目札100問目札というのもあり ますこれ1問目札5000円って言った でしょこれ100問目札とね1枚50万円 っていうのもあるん です500500問目札というのもあり ますそれやと250万円になります1枚が ねだからね殺ね札もね出てくるんで もちろん反さの偽札なんか作ったやつは系 です今でもね通貨偽造剤って重いですよね 偽札作りは罪重いんですが江の反もね偽札 なんか作ったら偉いことですが作ろうとす たやつがおるんですよ ねそこ で必殺が使われないようにねこう反発の 技術も発達していきますで一方大きさ なんかもね初めバラバラやったんですけど ねだんだん こう1つのまパターンができて反発って これの大きさやていうそういうねえ共通の ものになっていきますね全国的にね観察が 出回っていけばまあまあ 1つの形式が ま決まっていくというかうんというところ があります ねで姫路班なんです が姫路班ね姫路のメをね大阪に持って行っ てじゃ江戸に持って行ってやむっちゃ 儲かったんですけど ね姫路班がめっちゃ儲けたということ は誰かが儲けそ寝てるんだよねそれは 大阪の商売人が損ねてるそれから姫路班が 江戸にねモメを 売りさばくそれに対して姫路だけが儲けて えかとかねそういう意見が出そうでしょう そこをねイジ犯はねうまくやるんですなん でうまくできたかと言うと姫路班ね幕府と 特別な関係というかまぶっちゃけて言えば ね将軍のお姫様 を読にもろたん ですこの頃は ね徳川家なりの頃でね徳川家なりでね子供 めちゃめちゃに作ってるんですね男が 27女が20じゃ26な27所53人子供 がいてでそのうちね約半分の人たちが成長 しても半分ぐらい子供の時なくなるん でしょうけどねそういうのもね30人ほど 子供がいるわけですよこれねどっかに持っ てかなあかん でしょで各犯にま押し付けるということか もしれんけど各班の側としても ね将軍の息子や娘を受け入れれば幕府との 骨が強くなるちなもんで ねでとはいなりもです ね若かった頃はね松田サノがね老女やって てね松はねケチケチ派やったんですでも家 なりとね喧嘩になってねで3なんかお前 やめろとか言てでね家なりは水のに交代さ せます水野ただ明君はですねこの人は あのコとバロの人でその代り景気良くなっ て松田サムみたいに筋は通すかケチケチ派 ではないからねうんいい加減やけどね何で もやれですからね金回りすごく良くなった んですこの時代ねで文化文正火星文化がね えますけどねその水のた明ですよ日本市の 方ではいまいち評判良くないですがただ 経済や文化に関しては栄えたでそん中でね 将軍の市場を受け入れたら家柄が上がると かねだから特に娘を読にもらったら化粧量 がついてくるとかねそういうことがあって その中でです ね姫路は古代大名の沖 大名館林のあの沖松平落松平あれもね徳川 将軍家と密接な関係があるええやて言った でしょうで ね落ち松田だけ はこの 二男この人を容子にあ娘向こにもらったん ですで姫路班はねこ清姫この人を嫁に もらったんですちなみに明班も27弾を 用紙にもらっています今私が話しているね ミ明 姫路全部不大名ですのでね徳川将軍家から 陽子とかから娘を迎え入れたんですで幕府 とのね骨が強くなってるんですこれを利用 してね商売ちゅわけ です姫路班 ですかい寸のです姫路班ねその頃ね莫大な ね借金を抱えてましてねこれどないもなら んわという時にねこの可い寸のという人物 が出てき ますでひさの財政をね立て直したんです おかげで今ね神様になっています姫路城に 寸の神社というかい寸のを神様と祭る神社 があり ますどして儲けたかと言うと ねイジもめ産業が坂やったんですこれを ね大阪の商人に売って大阪商が江戸に持っ て行って売りよったんですが大阪商人を 通さない で直に江戸に持って行って売って大阪商人 が吸い上げていた利益を姫路班がとった ってわけですねでね江戸の町でね姫路もめ を売るルートを作っていくんですがその時 にですね姫路班だけがええことしとうやん て苦情が出るでしょでそこでねこれは清姫 様の将軍家なりの娘清姫様が姫路に嫁に来 たんやとその化粧量やって言ってですね 江戸バフも そうやねていうことでですね町業から許可 を取ってで反発を発行してそれを資本にし てもめを集めてきてで江戸に売ってボルし たんですこでね姫路班 ね膨大な借金があったのを全部消して財政 黒転換させまし たさてこれを見てですねあれ姫路やってる やんけミキもやろうということでミキ の建林反の神夜もですね反発発行及び金物 の先売制を試み ますまず反発の方から行きます ね文正6年初めて反発を発行しまし たで文正7年 これ商売人に誘おうということで商売人を 読んでですねお前らこれから切って方を やれ ということにしたんですけど ねその時ね商売人の方は ね大丈夫かとこんなもんひき受けたらね反 のこがねこの反THAをね流用してね なんちゃんかとて引き受けた時にね帳簿 調べたらねもうすでにね345 巻計算が合わへんかったんですこれ領主が 抜いたんちゃうんて怪しいなあてでもまあ ねやれって言われたらましゃあないからね やりましょうかっていうことでね反さね 作るんですけどねそれでもね 武士たちにごまかされないようにねこの 反発の印刷ですけどこれ は人野で印刷するんですけど最後にこの 反抗す ね侍たちに印刷させたらいっぱい作りよる から ねなとされたら溜まったもんじゃない から最後にこれ反抗すんですけどこの反抗 だけはね切って解しで 町方と侍 と立ち会いの上で反抗しましょうねとで ちなみにこのハコですけどこの ハコ侍に預けといたらペタペタペタペタ 押しまるからねうんこれは待ち方が預かり ますか侍って信用されてなかったんだね あいつら怪しいわ てでねそれでうまくスタートしたんですが やがてです ね運営が軌道に乗ってくる とハの方はですね え商売人じゃなくて自分たちでやりたいな とかなんとかいうことをねやりだして ねで切手会社の方 もベニアベニコ屋総合のや書いて移転した これが今きって会社なんですかね年に移転 したというのかねで文正10年にですね 人屋の役人が借金へのために2000両の 反殺を作りたいって言い出してねでここで 商売人切れましたもうら知らんあんたやっ たらええがない で侍たちはです ね王城やとかそういった人たち を集めてで導で反発行するんですけど当然 ですが失敗しましたなしてへんもんねえ 再び商売人に頭下げて咲夜さん作り屋さん て読むんかな福田屋さん山田屋さんに頼む わ言ってで近くのですね近道家という豪商 に豪のかも加えてですねこういう有力商人 とか有力農民というかまの資金を吸収し て反射を回すようにしたんですでこれが その切手解消ですね移転した切手解消です で中入りますとね入ったところ にここに上がりがま座るとこあって ねここで取するんですけどこれ普通のお客 さんですですで乗客様はですねもう少し奥 に入りますとここから上がってでここにね 座敷があるそこでお取引をするんですここ が入口ですね入口から入って一般のお客様 はここで取引をします乗客はもう1個入っ てこっから上がって奥座敷で取引をし ますで今度は先輩製の方ですけどね姫路班 なてもめの先輩でめっちゃもけいんかうち もやろうって言ってですね例えば班 はミキのこれ職人さんですね金物作る人 たちから集めてき てトヤが集めてきたもの をミキのあっと建林市販が引き受けて江戸 の伊勢屋とというところに流してで江戸で 売ろ とここで儲かるはずやったんですがこの 場合ね儲け損ねるのは誰かということなん ですけどねミキの商売人ですよね姫路の 場合は大阪の商売人をパスして江戸へ送る わけだから損するのは儲けそれるのは姫 大阪の商売人なんですところがねミのねの 仕組みやとね儲けそ出るのはミキの商売人 なんですよねねなんやねんことなんてね右 の商売にはです ね建林市犯の侍たちが自分たちが集めてき たもの を江戸に送って売るって言ってるでまそれ 好きに差しときとで私ら大阪の方にはね 我々が売ろうとこれまで通り どうも侍たちは江戸のことばっかり考と みたいやからうん大阪の方は今まで 通りミキのトヤと大阪の商売人で話をし ましょうとでね大阪にね大阪向けってね 荷物を送るんですでこれが大阪に着いたら ねそれピュッと剥してねでこれ が大阪から江戸視点に運ばれてで江戸で 売ってしまうというねことをやってねで 結局うまいことでけへんかって ね建林市販のミキ神夜の先輩 はで ねこのもねお前ら何しとんやでね商売人と 対決するかと思いきやなん と伊林班はですねこれ000 倍やりかけたですけど ね実行しないでやめちゃい ますで建場も気がついたね多分自分たちが 江戸 に金物を運ぼうとしてもあいつら大阪経由 で運びよるぞとだうまくていけへんかも しれんなということの他にねそもそも建林 はねあんまり真剣でなかったで林はね もっとねちゃこと考えとったんです何考え とったか言ったら ね例犯 って 元々徳川将軍家と特別な血縁関係ある でしょしかも 今回将軍の子供を容姿に迎えましたよ ねということもあってです ね伊林阪松田あるやつの娘向こに成長さん を変えた よしこのコを使ってコツコツ儲けるんでは なくてもっといい場所に変えてくれて運動 しようって ね岩見の組浜田に変えてもらうに成功した んですね群馬県の館林関東地方から島根県 の浜田にね軽いたらね今の感覚ではえって 思うでしょでもねこれは今の私たちがあの 今の東京の繁栄とかがあの山陰地方が人口 減ってっていうこと見てるからねそう思う だけで実は浜だっていいとこやったんです とか江戸時代ってねこ日本海側の方がええ んです北前船なんかもあってね日本海側の 方が豊かでで 関東から 日本海側に移るというのはやったねてこれ でうちも財政が好転するわていや浜田に 転勤やて良かったよかったてねでも喜んで 浜田に移りまし たで例班が浜田に行っちゃったもんだから です ねミキーのね経営はねさらにこう手抜きが 進んで でつにね明班ですけど明班もね将軍の息子 容子にもろたんですで将軍の 息子向こう容子もらいましたから 当然いいことありますよねてわに言って しゃあないな明班増やしてあげるわで ちょうどミ から例はが浜田に映っちゃったことやし もう両地外でねもうミキ元々明と近いとこ にあるんやからもうミ浜田班から切り離し て明班にしましょうていうことなんでね美 明の方に行っちゃったんですまという風に ですねこれ建前班がね先輩やろうとした もんの姫路班ほど真剣みかなくて ねま先輩はま計画しただけでやめちゃった みたいですでさらにねミキから出ていく ことになりましたよねほな反どうなったん かというとね実はこれね すっっごい観察の発行長介になってた らしくて ねあこれですね1842年落松田てはです ねえミキの所領を切り離してでミは明半量 に変わりますで出ていくわけですからね じゃあ生産しましょういうことになってね そしたらねこの市場村の近藤期から 6000量三神夜の人たちが借りてた らしくて ねこれどうすんですかでな払えんし超 消しその代わりね200国ずつ6枚払い ますて ねでま1両1刻とする と30年ローンかなうん6000両な借り て払えへんから1年間に200両打つ30 年かけて払うわてあもね大名かしってね 商売人がねよくやってました大阪大名かし って案外こげつかないんですってこげつか ないのはね払えなくなったらどうするか言 たらねローンをね伸ばすのねこですよ 6000料一括で払えへんから200個 ぐつ30年でと いうだか大名橋って そうやって元金は帰ってくるんで踏み倒す わけではないんです ねということもね今回勉強して分かりまし たでところ で建林から岩見浜田に先方してね良かった なあと思ったのもつのま最後どうなったか ですけど ね岩浜田に行ったわよかってけどその 後この松田家ってまた容姿もらうんです 松田た明田この人ね徳川吉信の弟なんです 僕将軍券近いから ね将軍に近い人を容子にもらったんですよ ねやったなところがあ戦争なったでしょ 長州と幕府が長州発あん時ね長州案がねえ 浜ダって吉信の弟がおらしいなてわーと 攻め込んできてねで洗浄されてしまってで 三坂のハっていうところに飛び地があって そっちに移ってねでこの落ち松田だけて 最後岡山の三坂で終わるんですね うんこんなことなら建林におったら良かっ たか な江戸時代らしい話ですね ということでミの町とはこのようにして です ね江戸時代を生き抜いてお城はなくなった けどま侍たちの ね要求を適当に足っ て長人の町としてね生き延びてきたんやと いうことが分かってお 我が三の町も我がなんかなま40でもすか も我がですね我がミキのマの人たちも なかなかやるじゃないのという風に思い ましたということで今日の話は終わりたい と思います
別所長治と羽柴秀吉の三木合戦で灰燼に帰し、一国一城令で三木城が無くなった後、三木は在郷町として発展します。金物の町三木の歴史を藩札と切手会所を通して見ていきます。
#三木市 #藩札 #切手会所 #三木の歴史 #金物の町
若狭野陣屋 https://youtu.be/oBPi3_TbOoE?si=7r3tOSsyaoJgK7_h
