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『考古学×歴史学で古代吉備にせまる』オンライントークセッション2024.01.21 (岡山大学 映像制作・配信スタジオ「5D Lab.」制作)

[音楽] はいえ皆さんこんにちは岡山大学文名同 大学研究所の所長をしております松本直子 と申します本日はご視聴いただき ありがとうございますえ岡山大学文明同 大学研究所のえオンライントーク セッションえ歴史学とえ高古学で古代日美 に迫るを始めたいと思い ますはいえ岡山大学の文明堂大学研究所は えま人文社会科学のえ研究者とえ様々な 分野の研究者とえそれからま理系のえ研究 者が連携をしてえ長い歴史の中でえ人と 環境が絡み合いながらえどのように歴史が つがれてきたのかとえいうことを研究しえ ま現代社会が抱える様々な問題についても え役に立つ知識がえを得たいとえいう目的 でえ設置されたえものですでえまその様々 なえ研究者によって得られる知識をですね え活用してえ昨年え大学的岡山えガイド こだわりの歩き方を観行いたしましたえ この本はですねえ研究所に関わるえ先生方 を中心にえ第1部はえ自然と生物え第2部 が歴史と文化え第3部は生活と産業とえ いうことでええ非常にこう長期にわるえ 岡山の歴史をえ様々な専門分野から 読み解くものになっていましてえま岡山に あの旅行で来られる方にとってもまた岡山 にえおられて岡山のことはよく知っている とえ思われる地域の方にとってもあの 新しい発見がある本になったのではないか とえ自負をしているわけですけれどもま本 だけではえよくわからないあるいはえ もっと深く知りたいとえいう方のためにえ 今日はですねえまずはえ第2部の歴史と 文化の中から え日々の巨大古墳えについてえ書いて いただいた聖KAさんとえそれから日々の 古代使についてえ書いていただいた今津 さんのですねえトークセッションを企画し ましてえよりえその内容をえ深めるような ですねえディスカッションをしたいとえ いう風に思っておりますで本日はあの ZOOMウェビナーでの開催になりますの でえご視聴の方にはですねあの直接あの 発言をしていただく機会がないんです けれどもえ何かあのご質問コメントとあり ましたらえQ&Aえの機能を使ってえお 寄せいただければと思いますあの時間の 関係で全てを取り上げることはあのでき ないと思いますけれどもえ今日のあの セッション中に取り上げられ取り上げる ことができなかったえご質問等についてえ 回答可能なものについついてはえ後日えお 答えをですね文明堂対格研究所の ウェブサイトの方にえアップしようと思い

ますのでえ是非あの色々なえご質問ご意見 をお寄せいただければと思いますまたえ ウェビナーの最後にですねあの皆様が退出 される時にあのアンケートが上がってき ますえのであのお時間のある方は是非お 答えいただければと思いますまたあの今日 ご時間がない方はえ後日あの えアンケートをいただけるあのえサイトも ありますのでえフィードバックを いただければとえいう風に思いますえ今日 はえまずですね最初にえ今津さんと正家 さんの方からえ今日のトークのま各になる ようなえお話についてえ15分ぐらいのま 短いえプレゼンテーションをしていただい てでその後でえま私の方がえ司会を務めた あのトークセッションをえ行いたいと思い ますはいはいそれではえ今先生よろしくお 願いいたし [拍手] ますはいえこんにちはえ文明道大学研究所 の今津でございますあの私は日本古代使を え専門にしているものでしてま日本古代使 というのはあの文字資料を中心にしながら えま過去の歴史をま明らかにするのがし たる仕事ではあるんですけれどもお古い 時代のことですので えこれはまなかなか文字だけでは分から ないこともございますでまたあのえこの 地域はあキビと呼ばれるま地域だったん ですけれども日々はあの後で正家さんが ですねえお話になりますよようにま大きな 興奮がまたくさん作られるえところでも あってこれなかなかですね え文字のま古代子研究とそれからま高校学 とはですねま一緒になってえ考えることの できるまケなフィールドに今なっているか と思いますでまたあの後でも多分話題に 出ると思うんですけれども日本の歴史を 考えていく上でまこの日々の果たした役割 というのは大変え大きなものがえどうも あったらしいということがま分かってます のでまそういうところを深められたらなと いう風に思っておりますで日々のことは ですねそういう風に あのま ああのま関東地方のお住まいの方などは なかなかえご縁がないかもしれないんです けれども おえま西日本ですね えまこの日々のの問題を考えていくと なかなかあの多くの関心もですねま寄せ られておりましてえ昔からいくつかのです ね あのえま日々を巡る様々なあ言われみたい なものがですねえあったりしますでこれ

あの江戸時代ぐらいからですねえそういう ものっていうのはあの重ねられてきてるん ですけれどもとりわけですね日々を巡って はま皆さんあのえ岡山駅にですね来られた 方だったら1度は目にしたことあるかも しれませんけれども岡山駅の前にはえ 桃太郎の銅像がですね立っているというの がありましてまキ団子とですねま結びつけ られるえことも多くあろうかと思いますえ キビ団子 の生産まキビがですねえ在国のキビの生産 というのがですねえ大変 あのま卓越していてまそこからキビの名前 がついたんじゃないかえ岡山といえばま キビ団子桃太郎で桃えま確かにですね え桃も名産でもありますしえお土産物とし てのですねキビ団子もあるんですけれども どうもあのそういう属それはまあえどうも やっぱり直接だろうというのがですねえ 私たちま今の学問のですねまえ水準ではあ 言われるようになってきてますえそもそも あの奈良時代ですねま古い時期なんです けれども雑穀のキっていうのはどういう風 に えま表現されてたかっていうとこれどうも 気味え気味という風にですね言われ呼ばれ てたらしいていうのですねえ万葉州の歌と かえそれからまこれ上層員のま文字の中に 出てくる表現なんかを見てくるとえ見てる とですねえ分かりますでこれに対してえ 地名としての日々の方はですねこれは一貫 してずっと日々という風にですねえ呼ばれ てきましたで えまあの乞食だとかですねえそれから木 mustと呼ばれるあの土の中から出てき たえ木札にですねま書かれている表現 なんかを見るとま一貫してまBでしたで これあの現在のですね国語学のもうえ日本 文化市場のですね文化市研究場のもう本当 に画期的な真成果なんですけれどもえ列島 に住む人たちはですねえま日本語和語で ですねま話してるんですけれどもそこにま 漢字を後に当てていくんですけれどもその 漢字の音を使って表現していきますでその 音の表現の仕方にどうも法則があ るっていうのがですねまあまあ江戸時代 ぐらいから研究は重ねられてきましてえま 20世紀にですねまほぼ解明されてるわけ ですけれでどうもそのえ音に応じて使わ れる漢字に種類があるっていうののですで ま見ていくとえ雑穀の日々の方は気味え 地名の方はキっていう風になっててどうも 違うっていうということはこれは元々違う ものだっていうのがですねま今のえ学問の まえ水準になろうかと思いますでなんでキ

が君になる君がキビになるかって言うとM とBっていうのはすぐに交代するんですよ ねで寒い寒いとかですね 寂しいえ寂とですねえま交代してしまい ましたそれでま現在えキビっていうのがま 表現されるようにまなっていますじゃあ 岡山のキビのですね特徴にどういうものが あるかっていうとえ実はキビ団子のキビで はなくてですねえ古代でえこの地域のキビ をですねあの特徴づけるえものとしてある のはですね実は酒なんですねこれもあの 万葉州の歌の中に見えてますけれどもま古 人のたしメタルキビの酒えやめばすなし 抜きスらんとえまちょっと酔っ払って しまったから横になりたいわというですね ま女性の歌なんですけれどもえそういう歌 でですねまキビの酒というのがですね出て きますあと法令臭の中にもですねキビの酒 っていうのがですねいくつも表現とですね ま見えてましてえどうもあのこの漢字の 使われ方見るとですね濁り酒なのかなって いうのがですねま分かるんですけれどもえ キビを特徴づけるものっていうのはですね 実は奈良時代の時はお酒だったんですねえ キビ団子ではなくてこれからお酒でですね えこのキビの地域をま打っていってもいい んじゃないんだろうかっていう風にえ思い ますでえこの本の中でですね私があのえま 解説いたしましたのはあの1つにはですね えやはりあの大和とのまある意味一体性 みたいなところがえあろうかと思いますで これ実はあの日本の古典の神話をですねま 見ていくとま出雲はあのま皆さんもご承知 のように えよくま見えるところで出雲神話というの はえ日本のですねまあの根源を語る上で 欠かせないものとして認識されてるんです けれどもま実はそこに至るまでにですね 日々の姿というのもチラチラとですね見え てきたりもしますでそもそもあの山田の オロチがですね降り立ったところというの 鳥上山というところになるんですけれども えそこでですねえ蛇を切ったその剣という のはキビにもあ日々にありましたっていう ですね伝承もま残ってたりもしますそれ からあえ事務天皇というのが初代の天皇と されますけれどもま人部天皇なるものが ですねえヒム科を出発してえそれから 瀬戸内会を通ってですねえ大阪の方にま 行くわけですけど途中でですねえによって そこでえま兵隊を整えたえま兵隊をですね えま兵とか食料とか船をですね整えたって いうですねま伝承がま残ってたりしてい ますでこれはあのま出雲だけではなくて ですね日々も実はそういうあの日本のです

ね創生の神話にま関わってくるえものなん だろうと思いますでしかもえ注目しておき たいのはですねえ今示ししている図があり ますけれども出雲大社とですね 鬼え神社をですねま結んだ最短のですねえ ルートを計算してみたのがこの図になるん ですけれどもその真ん中にあるのがですね ちょうど山田のオチの舞台なるんですねで 出雲とキビっていうのは実はま表裏の関係 にあってえキビっていうのはですねま出雲 にやっぱり1番近いところであったという ことになりますそれからこれちょっと見 にくいかもしれないですけれどもててん ててんとですね点をま落としてるんです けれどもこれはあの鬼飛行っていうですね キビのま思そ心みたいなえ人がいるんです けれどもこれを祭ってる神社のですねえド で落としたものになりますでちょうどこの ルートにですねそういうような形でまあ 落ちてましてでしかも出雲のですねえ出雲 大社の近所ここにですね集中的に ポンポンポンポンポンとですねえ鬼飛行を 祀るえそういうま神社がありますでちなみ にここが出雲の国出雲軍出雲号であってザ イモっていうのはここになるんですねえま キビと出雲っていうのはですねま古くから まえ繋がりがあってえま表裏の関係にま あったといるんだろうと思い ますでえ一体性を考えてくでですね大事な ポイントとして えあの大和のですね大様とまお姫様との 婚姻っていうのがですねまあるんです けれども日々はですねえ谷え丹波とかです ねえ単子のま後になるとですねそういう 地域ま現在の兵庫県とま京都府になります けれどもその地域と並んでですねお姫様を 出すえそういうえ世界になってますこれ 一方出雲はですね一切お姫様出てこないん ですねでのですね豪族たていうのはま大和 の王様とですねえま並んで あのそばでですねえ使えるってことがある んですけど出雲の豪族はですねえ大和の 内定でですね田保の掃除え掃除というか 田保の工作ですとかえ電車のですね管理え それからえ氷室と呼ばれるですねまあの 冷蔵庫の管理なんかをましていてま内定に 従属しているのがあの出雲のま豪族なん ですけれどもまそこですねま日々と大変 対象的なえ構造にまっていますでそれから あの大和のですね王建にま関わる直接的な ですねえま様々な食料供給のま拠点みたい なのがあるんですけれどもそういうあのえ 王様のためのの身のここはあの岡山県のま 岡山市ですけどもあの美前の国箕軍にま 当たるんですけどまさにそういうとこなん

ですけれどもそういうあの身それからです ねま大和の王様の田であるあと呼ばれる ものがま多くありますこれはあの一貫して ですね実はあの続いてるようなところも ありましてえま古代でも確認できれば中世 でもですね同じようにまずっと使われてく えそういうものっていうのがま見られたり しますでそういうものを前提にあの実はえ 大和の険っていうのは支えられておりまし てえ毎年あの大和の様はですね秋になると ニメの祭りをしますけれどもその祭りの ですねえ米というのは両性下にはですね立 量成果にはま機内のまえ田んぼのやつ使う んですけどもあの即位して1回目に行う ですねニナの祭りの時はですね機外から ですねえその両もの稲をま持ってくるよう にするんですけどもえそれがですね えあのま出てくるところていうのは結局ま そういう元々の身とがですねあなんですね で大嘗祭のですねユ好にまあの設定される 国々っていうのは今ここに図ですね出し てるえもう狭い範囲としてまこれがあのま 大和王家のま言うならば核っていうか実態 みたいなところなんだろうという風に思い ますでそしてもう1つえキビをですねま 考えていく上でそういうあの日々の集団 っていうものはですねえまあの ま大和のですね大様にまま並ぶわけじゃ ないですけれどもかなりですね えま従属的な地位ではあるんですけれども 並んでましたでこれでまあのご承知かと 思いますけれども5世紀にはですねえ氾濫 伝というのがですねまよく見えてえ見え ますで日々にいるま宇族のまえ上道とか 下道という集団がですねえま中殺され るっていうなことがもあったりするんです けどこれ実はの5世紀のですね特に後半 っていうのはあの日々だけがま問題なわけ ではなくてですねえ日本列島全体をですね え巻き込むような北東アジアのま大変動の 中にですねありましたで実は王家そのもの はですねここであのえかなりガタガタに 潰れてしまうわけですねでこういうのの 復興をですねまえ6世紀以降まあえ模索し てえいくことになりまして世襲の王権を 作っていくそして えあま日本列島のですね集団と朝鮮半島の ですねまくだなんかま密接な関係ありまし たのでえ相互にですね関連させしながら ですねこの王家の復興を図ってくという ことをしてきますでその家庭でえま和の 集団は朝鮮半島にですねえ大量にまえ赴く ことになるんですけれどもこれあの いろんなものがですねま見えてくるんです がどうもその中心にいたのが日々のえ集団

であろうという風に思いますでまいわゆる あの朝鮮相徳府のようなですねえ植民地 統治機関のようなものてのはないんです けれどもお和の集団がですね朝鮮半島に ですね渡ってたことはもう確実でありまし てえ朝鮮半島の南部のですね落東校流域に もですねもう集中的にですねおそらくま 言ってただろうとでミマナの国士とかです ねアラにある和神とかて呼ばれるものて いうのはそういうものだったと思いますし ええ日本日本って書いてますけどま日本 っていう国語まだないんですけれどもそう いうま集団がいてその中心にいたのがま キビのおでありますでこれはあのミマナの ま復興を巡ってのくだら王とのですね接触 に参加したりするようなえそういうまえ 有力なま集団であってこれがまあのカヤ って呼ばれるところがまそこの地域になり ますけれどもまそこにいた日々のオがま カヤのオと呼ばれるものになってえきます でこのカのオっていうのはあの同族集団ま え上道の臣というのりました上道のオはま これあのえ5世紀の時にもミマナ国士に 任じられてるものですしその後にもですね えすぐにえ聖子木将軍なんかがま出てます けれどもおえええカヤに中流するま日々の 人たていうのがま6世紀のですねま5世紀 後半から6世紀にかけての朝鮮半島情勢の ま中心にいたっていうのはですですねま 確実にま言えるんだろうという風に思い ますでえそういう人たちがですねえま 手ぶらで帰ってくるわけでもないですし 関連がありましたんでえ当然 えあの人々もま移動してきますあの いわゆる文六慶長の駅の時にはですねえ 秀吉がま朝鮮半島に攻めていってま多くの 人を連れて帰ってきますけれどもそれと似 たようなことっていうのもおそらくえあっ ただろうと思いますでまたあの 6世紀にはですねヤの楽流域の諸集団と いうのは白木にどんどん平されていくわけ ですねで7世紀にくだが完全に滅亡する時 には亡命してくる王族からですね一般の人 たちまでがま亡日本レドにですね亡命して きますけれどもまおそらく6世紀の段階に もえカヤとですね関わりのあったところに は多くの人たちが来てた可能性がまえある だろうでそして朝鮮半島にですね関与する ためにえそれを支えるま平坦の開発って いうのはですねおそらく行われていてえ それがまあ日々のですね市来の三宅の開発 にまつがるだろうしえそれをですね支えて いくのがまおそらくトラミだったでえ トライしてきた人たというのはえ三まさ 美前立中にですね集中的にですねえいます

でここはもう白井の三宅がキビ五軍に置か れたっていう記述におそらく対応するもの でありましてえこういうような人たちが ですね日々の地域社会をま変えていく 大きな役割をま果たしていくんだろうと いう風に思いますまあの人口もですね多分 これで増えるでしょうしえ違う習慣え風習 を持った人たちがですね大量に来 るっていうことはえ日々のそれまでの地域 社会というのを根底から変えてったんじゃ ないんだろうかえというのがですねえ私の 今のところの見通しになりますえ私の話は ですね以上でありましてあとはま接さんの 方にお任せしたいとますじゃ続きまして あの関さんの方から ええっとえ正でございますえどうぞ よろしくお願いしますえっとまあの下の テロップの方には文明道大学研究場の えっとということでえ肩書があるんです けれどもえっと学部の方では文学部それ から大学院の方では社会文学研究家の方に ま属していていますまあの文学部のですね え航空学の研究室ま工学領域と今名乗って おるんですけどもまそこでえたくさんの 工学の先生とまセスタもしながらえ勉強し てるということですねあの高校生もねえ ご覧になってるっていうことなんでえ研究 室のまご紹介も少ししとこうかな思ってえ スライド1枚作っておりますあの先ほどえ 司会をしていただきました松本先生えそれ から私それからま博物館学のま先生なん ですけどもま光本先生それから文明同体学 研究場の特に準教授のライアン先生にそれ 鈴木慎太郎先生ですねえ一緒にま研究をし ていただいてまあ大変あの活気のある研究 室でえかつですね新種の寄付に溢れた研究 室いう風にタイトルをつけてるんですけど え最近はあライアン先生や三本先生なんか はえ左下にあるドローンをですねえ使って ええ増山古墳の測量作ったりですね私は そのえなんかみに引っ張られるようにえ 科学的なあ分析もしていて え右下の方になんかミオっていうですねえ 機械をま素粒子ですね観測する機械をま 置いたりしてえ古風の中をですねえ連投源 写真を取るようなま研究をえしていますえ それがまあ一番右下のやつでこれは いわゆる作山古墳ですね増山古墳のえ三音 観測の今え途中経過の写真なんですけどえ 増山古墳の中をですね投資しているという なこともえやってたりもしますま研究室は 白調査も大変盛にやっておりましてえ写真 は私えっとライアン先生があ発掘をして いるえ掃除師の古墳なんですけどもえ学生 と一緒にえ発掘調査もしてえ日々のですね

え歴史をえ解明しようとましてますとま いう自己紹介ですで内容でございますでえ 復習ですけれどもえ古墳時代でえいつです かという話ですね えっとキビの岡山県のですね大学的岡山 ガイドのですね中で私はまえの巨大古墳と いう書を担当していてじゃあその古墳時代 ってのはいつですかて言うとま大体これ ぐらいということですま高校生が いらっしゃるんでえ古墳時代の終わりが 710年にしてるんですけど私は普段 600年っていう風にえしていてええ少し 変えてるんですけどま高校の教科書に 合わせる形で710年ですねえにしてい ますま今時代大体3世紀の中頃からあま7 世紀までとえいうのがですねえ古墳時代の 時期になっていて えっと縄文時代とかはま資料採取をするま どっちかていうと平等な社会なんですけど 野時代になってきて稲作が入って生産経済 になって え階層さあるいは身分差っていうのが発生 していってその階層さ身分差っていうのが え大きくなってその身分の表示や地位の 表示っていうものが大きな古墳分球で表示 されるような社会まそれがが古墳時代と いう風に一般的に言われているわけですね でえ人によってはそれは日本で最初日本 列島で最初に国家段階にま入ったんじゃ ないかというま先生もいらっしゃって私も まえ票の中に初期国家はクエスションって いうにま書いているわけですでえ7時で なって本格的な国家段階を迎えるというの がま大体の流れということです ねで本の中ではま増山興奮作山古墳両山 古墳というですねえキ3大古墳え岡山3大 古墳を取り上げてえその内容をえ書いて いきました えこれはあの私のま同僚だったですねえ ニロ先生も天然で親になられましたが作ら れたえデジタルの3次元計測の増山古墳の ですねえ図ですえ近年その先ほども紹介し ました光本さんがですねえ作ら光本さんと えライアン先生がですね中心になってえ ライダーで作られた図がえこれですとえ いうことですねえ増山古墳はですねえま こうま後でまたまとめて話ましょうそれ からあキビの方にはさらにですね作山古墳 それから両群山古墳と大きな古墳がま それぞれあるということでえ全国でもです ね大変ケウな地という風に言われている わけですえどういう風にケかって言います とえ応募クラスの古墳がえこのキビにはあ 3つもあるということなんですね先ほどご 紹介した3つの古墳っていうのはま応募

クラスの古墳ということになりますで古墳 の全長ランキングで言いますとえ増山古墳 の方がま350m全長350mでえ第4位 にえ属していますし え作山個のはま280m前後ということで ま10位にランキングされてるということ です ねで高校である高校でですねあの増山興奮 はですね日本で4番目に大きいんですよっ ていう話をするとえ4番ですかっていう風 になんかがっかりされることがあるんです けど実はそうではないという話です ねでええそれでさらに言うとえっとこの えっとトップ10のですね古墳のうち 登れる古墳噴気の上に登れる古墳っていう のはえ増山古墳が1番大きくて えっとその次にですねえ作山古墳という ことになっています えっと6番目の五条の丸古墳は前方部には 登れるんですが公園部には登れないんです ねこれは天皇領あるいは両部参考地として 区内長が管理しててるために他の古墳は 登れないんですねですから大きな大古墳 ですね大古墳を応募クラスの大大古墳を ですね体感しようと思うと岡山に来ないと いけないですねえーそういう意味でえ大変 ほれる文化え遺産ということですで4番目 っていう風にま申し上げたわけですけれど もえっと時期を限ってみるとえ増山古墳は ですねえ上石未産財古墳とですねえ近田 小山古墳っていう2つの大房に挟まれた 時期にまあるんですけれどもえ5世紀の 前半段階ではナンバー2の存在ですえ日本 全国でもですねこんなえ応募クラスに匹敵 する古墳がですね応募のそのちょっとだけ 小さいという古墳がですねえあるっていう 地域はもここにしかないです ねま粉両山古墳もですね負けを取らず大 規模な古墳でえ時期を選べばですね それぞれえ応募になってもおかしくない ぐらいのですね希望を持ってるとえいう そういう位置付けになり ますまさらにえ申しますとえこの増山古墳 やはですねえや他のその作山古墳両山古墳 はですね えにあるですね大房と形が非常によく似て るっていうことが昔からよく指摘されてい ます増山古墳はこな小山古墳と形がよく似 ていますいうことをま先ほども出てきた 岡山大学の名誉教授のニロさんがま おっしゃっていますし他の先生方もそう いう風におっしゃる人がい ます設計図が基本的によく似て るっていうことなんですね2つの古墳 が

作山古墳は大線量あと上未産罪と似て るってことをニ先生がまよっておられます しえ両軍山古墳の方も大仙陵古墳や五山 古墳の形に似ていますということをえ岡山 県立博物館のま学さんがおっしゃったりも してい ますさらにハはも重要です古の周囲にはま が出てくるわですが増山古墳の羽は え近田小山古墳やえに代表されるような ですねえ機内の大房の古墳のえ羽とよく似 ていますしその技術がえすぐ移転されてき てい ます昨年でしたかねえもうちょっと前かな 3年ぐらい前にえ岡山さんが増山古墳の 噴気を発掘した時に出てきたま木坂はです ねここの写真のま右下の方にま出てきてる んですけどもちょっと見えますかねこの 絹笠ハはもですね え古一古墳群ですね機内の大王部分のハと よく似てるっていうことでえ報道がまされ たとこ です右側の今田小山古墳の羽の破片が出て ますけれどもその破片と見てみてもこの 公園部にとたがつくところ公園部にですね 帯のようなですね粘土の帯がこう払えてる ようなところははま大変よく似てたりする わけ ですま羽っていうのは重要でえ古墳がいつ 作られましたかという年代を決める手段に もまなっていてまえ岡山市の安川さんとか ですねそれから同じ文明土大学研究所の ですね え野崎さんや木村さんも研究をされてて ここではま最近出たばかりの木村さんのえ 論文の図を書いてますけどもま増山古墳 っていうのは時期的に言うと上沈山西って いう機内の大房とですねそれからコダゴブ 古墳のちょうど間ぐらいにありますよって いうようなま研究がなされていますし あるいは作山古墳は大線量古墳えいわゆる 2特天能量と近い時期の古墳ですよって いうことがま明らかになって ます えさらにキビのですねえ大古墳を特上 つつけるのはですねえ交流という点があり ます写真はですねえ増山古墳のですね前方 部にあるえ石間のえ関心 です石間ですけどもこの石はですね麻の石 で作られてます九州のマカ石という石でえ 作られているんです ねえ九州の石わざわざ数100kmもある ですねこうした石を運んできて管に使っ てるまただこの石間はえ増山古墳から出た という説と増山古墳の周辺から出た古墳の から出た古墳の石間を運んできたという2

節あるんで増山古墳の石間そのものでは ないかもわからないんですけどもえ少なく とも交流増山の周辺の方々は熊本の方々と ですねえ交流してたことが分かりますし あるいはえ増山交付のそばにある専属古墳 の石室はえ九州のですね熊本の方の肥後の 石室とよく似てるという風に言われてい ますえ一部の石材は天草の差がですね熊本 の天草の差がを使ってると言われています からここもですねやはりえひごとのですね え換気を示してい ますまた増山古墳のですね周辺にある柿山 古墳かもとえ言われているですねえ馬形 対抗とですね竜門すかし金というそうこの 金具はですねえカハとえ特に え金関カなんかのですね地域ですねプサの あたりですかねえの地域のえ影響があると いうことが国内町の土屋さんという研究さ がえ明らかにしてるところです 何が痛いかというとえ増山古墳 の周辺から出てきた資料を見ますと機内と 関連がえ肥後と関連がそして間半島とも 関連があってえ交流をですねえかなりです ねえ頻繁にしてるということがま 分かるで3つの古墳とも実は山陽道の古代 山陽道のそにありますからがまあ交流の ですねま中心を担ってたそういう場所に 作られてるということなんです ねで日々3大古墳の特徴をまとめますと 機内大応募に匹敵する規模を持つという ことがまず言えますえ古墳の形や羽を見 ますと大和政権とですねえ密接な関係を 持つということがわかりますえそれから 交流の拠点にあるとそして日護とカ半との 関係が非常に強そうだということが言えて えこれがえ日々3大古墳のえなぜ出現しか してきたかということのですねえ特謎の1 つのま鍵になるだろうという風なことを まあ大学的岡山ガイドでですねえ書いた わけ です最後に えっと自説をま紹介してま終わりたいと 思うんですけれども私は近年ですねえ 2018年に書いた本にですね え分仮説というまあまりかっこよくない 学説を出したんですけれども えま言い換えるとえ王族下察というものを ですね今考えていますでこれは後でえ先生 とですね今さんとえお話なうことがあるか もわかりませんけもえ古墳時代のですね 親族とかですね家族とかの関係を考えて いくとえこうしたですね王族下行とかです ねえ分化ということを積極的に考えるだ 考えるべきだっていう風に考えるように なりましたそれは当時の家族っていうのは

割と兄弟とかですね従子っていうのは割と えその格差があまり大きくなくてですねま ほとんど同格だというような研究です である時にはま兄弟の仲良くねえ地統治を してる時はまいいんですけれど えー親子兄弟が仲があ仲が悪くなるとです ねあちょアニメーションが切れてるんです けど えっと仲が悪くなった時にはえ兄弟はです ねえそれぞれ独立してって新しい え古墳を作る新しいええ統治者になると いうようなことをま考えていったわけです でこのイラストの中にも え女性と繋がってる人がいますけれどもえ ある時にはですねえ自分の気ですね自分の 奥さんと奥さんの実家の方が金持ちゃなと えそういう時にはですね奥さんの実家を 頼ってえ地方に下ってくね地方にするそう いう王族も頻繁にいたんじゃないかという 風にま思ったりするわけです ねあるいはその王族のですね義のお父さん え王族のですね妃のお父さんはですねそう した王族を石親戚に持つことで俺は王族の 親戚やでえいうことで地方で幅を聞かすえ そういうことがまあるんじゃないかという 風なことをま考えるようになっ ねまこれはまあ今さんがま日々の国がです ね気を出す地域だという風なこととま話を されていて え日々に3大興奮ができるえ1つのですね え解釈ですねえ心強いですね えま え指摘をですね先ほどましてくれたという こと ですまそういうまえ説を出しのでまたこの 方はですね後でもお話できればとえいう風 にえ思いますあはえトークセッションでま 司会の松本先生に松本さんにお願いして ですねえ面白い話ができればと思いますま 伝えない話でしたが私の発表はゴドあり ますお疲れ様 ですはいえっとさんさんせさんえご報告 どうもありがとうございましたえっと今日 はですねあのえま岡山大学ご存知の方は 一体ここはどこなんだと思っている方も いると思いますけれどもあの仕方 キャンパスにありますえジコ福日ホール からえお送りしていますまたあの配信に ついてはえ岡山大学のえ5dラボにあのご 協力をえいただいておりますでえま早速 ですけれどもえ今あのあの今さんとえ正木 さんからですねあのまコアとなるような ところについてお話をえいただいたんです けれどもあのま今さんの方はま歴史学と いうかま古代使ということでま主としては

そのあの顧問所ですよね文字で残されたえ 資料をえベースに研究されていてでえ正家 さんの方は専門が広告格とえいうことです のでえま物質資料ですよねあの移行だとか 遺跡だとかあの異物だとかまそういった ものからあの研究されているとえいうこと なんですよねであのこの え大学的岡山ガイドですけれどもあのこれ であのお2人の省はこう並んでね連続して 出てくるんですけれどもこれを読むとです ねあのかなりこう実機的には重なった ところの話をされていて特にま5世紀6 世紀とかはですねあのがっつり重なって いるんですがやはりその文字から見えて くるあのの日々のあり方とその古墳から 見えてくるあり方っていうのはも重なる ようでやっぱりその見え方がかなりこ違う ところもありますのででこれはちょっと そのえお互いにですねあのもう少しここは どうなっているのかというようなところ ですとかえそういうところをあの今日は あのまザックバランに深められればとえ いう風に思っておりますでえっと私たちは ま同じえところにいてですねま研究室も すごく近いんですけれどもま日常あの なかなか色々忙しくてですねこういう専門 的な話をゆっくりする機会っていうのは 案外ありませんのでで今日はえまそのえ見 てくださってる方にはですねま本だけでは ちょっとやっぱりこう分からないところを より分かっていただくということとまあの 私たちにとってもまあのお互いのですね あの知見を深めるまいい機会になればいい かなとえいう風にあの思っている次第です のでえよろしくお願いいたしますえま色々 と論点がああると思うんですけれどもえ まず最初にですねえま今の聖さんのお話で もあの日々はですねあの機内についでま 非常に大きな古本があるとでこれはまよく 知られたことなんですがえなぜそうなのか とえいうところについてですねちょっと そのえディスカッションができればと思う んですけれどもいかがでしょうかまきです ねあの難しいことを書かれて自分が欲しい わと思うようなことですよねでも まあキビにですねま3つの大きな興奮が できるまただそのその3つの大きな古墳に 焦点がま当てがち当てられがちなんです けどそれだけではなくてやい時代からま 大きないわゆる雰囲気久房があってそ前期 古墳をま前期初頭からですね140mそれ から150m60mというんですねえ相当 大規模なですねえっと古墳が日々にはま ところはま美前ところは変わりつつ もですねずっと作られてるっていうことは

ま1つ大きなあの事実かなとえ思ってい ますでそして えっとえ前方公演墳っていうものがえ機内 にま作られる時にですねキはかなり強力的 だという風に一般的には言われていてえ 例えば特殊機がはま日々でえクリエイトさ れたま祭祀の時ですけどもまそれが機内に ま持ち込まれて羽にま転嫁するとえいう風 になっていてで日々の最初の大型前方公園 墳である橋古墳にそれこそ特殊代特殊代型 ハはがま置かれるっていうのはですねえ キビと機内が仲が悪くてですねえっとそう いうことには多分ならないと思うんですね で日々はそういう大王権っていうものが きっと成立する時に相当協力をしているだ でその協力しているからこそ日々のそのえ 祭祀物がキナに問えられるだろうとえいう ことが1つ言えるわけですねでだからこそ 機内も日々の勢力っていうのをこう優遇 するあ支えてくれてありがとうねとまそう すると大きな古墳が作ることがまある意味 許されるということがま1つ言えるん だろうとえ思いますじゃそれがなぜその 協力的か協力的なったかというのはさらに ま深めていかないといけないとこではある けれどもまずはそれが言いますねそんで えっと実私とニロ先生は実は全く同じこと に全く違うことを書いていて その大学的岡山街を書いた時に えっと僕はそのガドの中でキビの平屋って そこそこ広いから生産力があるから やっぱりそういうとこは重要ですよねって いうことを書いてますねで実は同じ時期に ニロさんがえっと角川から出てるえっと 古代の日本の中で実はそんなに大きくない よねって平屋ってそんな大きくないよねて 書ても全く違うこと書いとるわと思って あの困惑したことがまあるんでですけど まあ大きい大きくないっていうのはまあ 今後いろんな地域と本当にそのえ高知面積 ってのをちゃんと導き出してまあの今私 どもの大学院生がそういう シミュレーションとかをしてますけど えっと他の地域と比較していかないと本当 はいけないことなんですけどただその増山 古墳みたいなですね古墳を作る時に人を 食べさせないとああいうものは作れない わけでまそういう生産力がやっぱりないと は絶対れないわけなのでそうした生産力が やっぱりああるといこと実は大きな興奮は 裏返しなんでそうした生産力っていうもの はやはり重視しとかないといけないまそう いう生産力があるからこそそのえ大きな 勢力も保てるし日々にも協力ができあキ じゃない山にも協力できるだろういう風に

思ったりますそこはまあのむしろ今の先生 今さんのえ戸籍定長とかですねご研究 なんかをですねあのギャギャ参考になる ところかなとりまししあとやっぱり流通の 拠点っていうのは大きいだろうと思うん ですね で先ほど出したのは中期のま事例です けれどえっとやはりその山陽道あるいは えっと上等遺跡からえっと八地代後期の その港の跡ですねが見つかったりする上等 遺跡なそれこそ1つ峠越えたら増山古墳が ある場所ですからええ交流の拠点になっ てるとその交流の結節はガっと抑え るっていうのはえっと自分の勢力をま維持 する1つのまシンガポールみたいなもの ですよね えあるいはそのえスズ運河みたいなもん ですよねそういうところを合そういう交流 の挙動を抑えるっていうのはその地位とか 勢力をまあ大きくできる1つの要素ではま あると思うのでまこの3点は外せない だろうという風に私は思ってるという ところですはいはいありがとうございます 飯さんあの文献の方からでょ古墳がなんで 大きくなるのてもあの僕たちには全然 答える材料もないしま資格もないんです けれども あのま例えば象山とか作山みたいな巨大な 古墳ができる時期のま日本列島全体見て みるとかなり高範囲の活動してることも あるだろうなっていうのがあってでまあ そういう時期に大きいものが出来上がって くるのかなというのはえ1つでまあとあの えま食べさせる生産力のやつの言うとあの 例えば奈良時代なんかの場合地方からあの 使えのよぼというのを都にあの差し出すん ですけれども仕送りをするんですよねで それがあの所用庁のようにま入ってきてて だからあの え多分増山なんかの労働力っての相当広い 範囲からま出してるんだろうとは思うん ですけれどでま増山古墳群な先ほど正紀 さんご説明になったようにあの九州の要素 が入ってたりとかいろんなあるんでま多分 相当とにかく大掛かりなえものが動くよう な仕組みにあのなってるんだろうなって いうのがそういうのがま実現してくるのが 多分古墳時代の中期なのかなていう風には 思いましたであとま上等遺跡のあのことも あのおっしゃりましたけれどもちょうど あそこて高橋川が東に分流して足森川と 合流してあの瀬戸内海に注ぐところにま 当たるんでちょうどま言うなら鬼なんです よねで鬼こそがもうまさに あの水上交通ともう先ほどちらっとお示し

たように出雲までのあの交通の高橋が遡っ ていくとその向こう側にあるのがあヒー カーであり日川であってでそれを下って いくとまに行くわけででそういうあの海と ま山のあのそういう交通のま建設点になる のがまきびなんだろうなという風に思い ますまあそこにま立つができるとかえ鬼 神社があるとかっていうのはやっぱり あそこの拠点性というかあのおっしゃった ようにま大事なポイントとしてまあってで そういうのを背景にあの列島の集団がもう 後輩に動くのがまやっぱり背景にあってま そういうのが実現するのかななんであれが 大きくなるのかああいう形になるかなって いうのはもうこれ高校学者じゃないとあの 全然解けない問題なんですけれどもあのま 文献の方から考えられるまその背景的説明 としてはまそのその程度なのかなと思い ますね文字資料でもう本当に直接コミット できるところはもう5世紀の後半以降 ぐらいしかもうないんでまあとはただ ひたすら学ばせていただいてます あの今さんがねその先を出す地だっていう 話をこうされていて その先を出すっていうのはやはり地域的に 限られです限られてますねであの木出す 集団いますかはいはいはいとかって言うん じゃなくてやっぱり特定のあのところから 出てきてるんだろうな政治的な関係ですよ ねそれがやっぱりあるんだろうと思います ねまあの圧倒的大部分は宮山の近所の集団 から出ててあとは王族の中での婚姻がも 中心なんですけれどもまそれ以外のところ ではあのキビとか谷派まひかが解けないん ですけれどもあのえまその辺ですねそう いうところとのま政治的な結合っていうの が前提にあるんだ思ですねその谷ハに草が 出てる時期っていうのが第いつぐらいの話 ですか谷まあのえそれこそバ姫とかうん あの結構キビと同じぐらい傾向機ぐらい から出てきますからねだからまあ本当兄弟 みたいな感じですよねキビと谷はねそれは でもなかなか面ずは面白い話であの要する に日本あの単語の3大古墳ですよね恵比寿 山とかですねあれが出てくるの4世紀紅葉 ぐらいからっていうことになっていて いわゆるそのえっとさ5分軍がま出現して くるえ前期のま中央から紅葉っていう時期 にいはその3大古墳が出てきてその時期に ちょうど合うなってってね意外とそういう のってありますよねあのあのなかなかね そういうことを論文に書くは難しいんだ けどですけどなんか共通点があるかなて いうことはちょっと思ったりもするんです よねうんでま増山

作山とま時期はあれですけど電装としては 大人とか人徳がキビにやってくるとかって いう話まお姫さん追いて くるいまあなんか関係しててもおかしくは ないなっていう気がしますけどねうんだ から大人の時には愛媛ですかねが変あ黒姫 ですかあえ人徳の時に黒姫えで愛媛がじの 時には帰ってきてでカのわけがそれを接待 するというそういうお話ですねうんうん それはなんか分球から見てるとま皆さん 大人で人って言ったら怒ら私人と思って わけないんでえ田墳とそれからま象山の形 が似てるっていうのはなかなか意味だなて いつも思うんですよまもうそこら辺は あのま変年であの高校学者に頑張って いただくしかなくても細かいところ知り たいんですけどね4世紀の後半から やっぱり5世紀の初めにかけてのところて いうのはもう文献ではなかなか手が出ない とてうんうんその期後半ぐらいまでにその きを出すのが日々で遡るとこはないいや あってもおかしくないと思うですけどね うんいや金倉山とかもずっと大きいじゃ ないです かでそれはもうえっとえ浦チウうんですよ ね初頭からずっと大きいままなんですよね 1450ってとこ割とずっと実はそれ ぐらいの規模を維持しているんですねま 場所は変わりますけど作る場所やっぱり 美前の方ですよねそう うん 上道世界ですよね後のはいはいまあんまり あの古代なんかの場合まもちろん大体ここ ら辺が中心っていうのはあるんですけども そこだけにいるわけではなくてまいろんな ところにまあの拠点があったりするんでで 上道の海なんかも実際鬼にもまいたりし ますんであそうですかうんまあのそこら辺 フレックあのちょっと柔軟に考えないと いけないと思いますけどま中心はやっぱり 美前のこっちの方ですようんうん うん怪しいですよねえそれがに釣る じゃないですか増山作山っていうのかねで それがそのまよく言われることですけど その美前のその浦チウさはま橋墓っていう 大和党なですとえええで金倉山は咲古墳軍 のその前方公有の形がまよく似てますよと で今日お話したようなま象山ま作山は どっちかいうと古い地のま古墳とま噴気が よく似てますよとハもよく似てますよて いう話がまあってそれ要するに地域が 変わるとその古墳の類似性っていうのです ね機内のどの地域の古と類似するかっての 一緒に変わるってとこねうんうんなんか なんか面白いところかなと思っててそれは

その時にやっぱりその派閥があっ ての方々の派閥っていうのはその大の方々 の派閥と多分仲が良くてでビチの方々 っっていうのはやっぱりその川古一の方と 仲がいいのかなというそんなま常ひし なんかがいうその簿系不のまとよく似た話 なんですけどそんなことを考えたりするん ですけどそんなことは文献では逆に問え ない文献なかなか難しくて あのまそれこそあの神戸台の古一さん なんかあの応急のあり方も一貫して やっぱりもう大和だっていう風に言ってて でま墓はま動くけれどもあのまえ一貫して 奈良の南の方にずっと応急あるんだって いうのはま言ってたりするんでま派閥の 中身がどうなのかってのはよくわからない ですけどまでも応急結構色々バラバラ ばらけてますからねでそこであのそれぞれ があの集団組んでても全然問題ないって いうかあのおかしくないんでうん あのとにかく万世行けようなもうもう動か ないラインみたいなものはだろいうのは あのあるんだろうなと思いますねはいま そんな一系って考えるような親族世界じゃ ないですかねですねそれはもなんか今さん と私のなんか共通するところでえ幻想です よねあれね うんバラバラのそのま有力なその親族が出 てきたらみんなそっちに集あまそうそう でしょね政治的に動きますからねうんあの 警のあの子孫の伝承自体はまたのな何々し たらもいくらでも変えられるんであのあの それが実際の続であるかどうかなんていう のはもう話はもうあのにはならないと思い ます ねはいあの話は予想通り盛り上がっていて 大変嬉しいですちょっと細かい話にはな ちゃってけどありますけどまあのお聞きし てるとやはりその高古学から見ても文献の 方からま見てもですねやはりその古墳時代 のま社会のあり方っていうのはそんなに こう1つの系列が安定してずっとあるわけ ではな地域の中でもいくつものこう派閥が あのまあの争っていてま有力なところが出 てくるとまそこに吸収されたりとかまそう いうダイナミックな関係があってでもその 国学的には古墳の形とかからまそういう その地域を超えたあの集団間の関係みたい なものがま見えてくるんじゃないかとで 特にあの正きさんのお話で日々とそのま 機内の関係っていうのはもうやい時代に 遡ってかなりこう密接などっちかとこう すごくサポートするような関係がかなりま 長期に渡ってこまこう続いてきたような あの風にも見えるとえいうお話だったん

ですけれどもその中であのえっとあの日々 の氾濫のお話あの今さんも書いてます けれども常にそんなにこうなんて言うん ですかね仲良くサポートするよな関係が 安定してたのかそこすらやはりその状況に 応じてですね様々なことがあったのかその 日々の氾濫的なその日々がこうもううちは 2番手でいいですって状態でずっとあった のかどうかということについてはいかが でしょうま あのこれも日々を巡ってのあのよく言わ れることでま日々に王国があったみたいな 話があってで日々の王国が巨大であるから 反乱ていうか罰されるんだっていうのが あるんですけれどもまあの大きいも巨大 古墳に示されるような大きなあのものが あったことはま間違いないんですけども 王国として独立してたことってのは多分 一切ないだろうなという風には思いますね でこれはもうみんな多分今のあの学問的に はあのみんなの共通意見なんだと思います でまあとあの え確かにあの日々と大和の王様有楽王と 日々のあの上道下道のところだけをま見 てくとあの氾濫の話っていうのは成立する んだろうと思いますけれどもあとま桂木も も当然そこで同じようなことも起きてます しでそもそもあのあの王自体が潰れてき ますんでここれでだからこれはやっぱり 広くあの広い目で見てかないといけなくて 様々なものが絡み合ってる中で起きてる あの現象の位局面の取り上げ方としてま 氾濫伝承っていうのがま出てきてるん だろうと思いますねだからま あのま実際王家取りに行ったことあるん だろうと思いますけど星川の巫女の時 なんていうのはまそれに失敗するっていう のはあるんですがまこれま氾濫と言える ようなものでもないだろうかなと思うん ですけどね上道の多なんていうのはもう まさに未国士に認られたっていう話であっ てでその時ま王様の隣にいてうちのあの妻 はすごい素敵だっていうのを自慢したと いうのがあってまそれでえ潰されたあので ま彼はあのミマナでま氾濫を起こすことに はまなるんですけれどもまそこだけが クローズアップされますけれども上道のが まミマナと関わるってうのはそれ以降も ずっと一貫してることででおそらくあのま 大和県のそれこそ朝鮮間半島へのま えま役割っていうのが課せられてたのが 上道の海だったんだろうなっていう風にま 思ってますであれくだらも潰れてきます もんね475年にでもう大混乱ですねもう ワもくだも両方とも5

世うんからそのその学の人もそのキビが 独立してるの王国だていうことを考えして も多分誰もいなくてうんあの増山古墳も 大きいですけどそのやっぱり噴気のの形と かはいや羽っていうのは基本的にその大和 のもの機内のものをですねえ使って るっていうのはえっとそれはもう交流の 現れなであってその参加にいるからその 大きくても同じようなものやっぱ作 るっていうそういうことだと思うしで技術 の移転っていうのもやはり機内から羽の 技術の移転っていうのも機内から来てるん でまそれはもうその独立してるという風に はま取れないだろうという風にはまま思っ ただえっと大和にとってその中央集権間を 図る時に目障りだったのは多分間違いま それそうでしょねうん私あの権力を集中し ないといけない局面だったんですよねあの 有力をうんでまその中でおそらくカとか キビとの関係がま変わってくんだろ思です けど うんな多どかそのま今さのご長者とかも 読んでてその日々の その上道がそのえカ半島へ行くてそうその カ半島方面のその えに派遣されるっていうのは一貫した役職 の1つだという風にまられて るっていうのは大変面白くてそれは先ほど 言ってた佐山とかあのああいうあの間半島 の資料が出てくるとかあるいはそのまニロ さんが後にあのまこれは下道の方になると 思うけどあのマビーのですねやっぱ古墳軍 掘ったらまトライ系の文物がいっぱい出る というようなことあるいはまあの今日もお 越しになってるかもしれないけども理大の カメダさんがま君のトラ人のことたくさん え論文本にされてますけどそういうものが やっぱりたくさん寝くっていうのはまそう いう日々のですね上道なんかのそのね役割 が反映してるのかなと思ったりしてもそれ は大変それは文献と工学ですけれどその やっぱり同じ方向がな別々にあって同じ ような結論に来るかなっていうとこかなて いう風に思いましたはいありがとうござい ますあの えっとえっと視聴者さんからですねあのま このまキビに大古墳がま作られたま理由と してま正紀さんま生産力っていうの上げ られてましたけれどもま農業生産だけでは なくってその鉄の関係っていうのはえま どういう風なに聞いてま当時の大和王家と の繋がりでま日々におけるその鉄生産って いうのがどういう風なえま意味があるのか ということについて聞きたいという質問が 来てるんですが鉄についてちょっと考古学

とその文献の方から 何か誤解といただければまあ日本は生鉄 する技術が入ってくるのはも6世紀になっ てからなのでえっと日々で鉄が行わるのは 6世紀以降なんでま5世紀の増山作山を 作るそのやっぱり生産基盤にはきっとそれ はなってないだろうという思うんですね 一貫してえっと鉄資源っていうのは やっぱり朝鮮間半島から持ってきている ものなのでまそれはそうなんでしょうそれ はあの鉄生産っていうとこではあのそうで はないと思うんですけどただそのえっと 火事以降ですよねでまこれはもう私なんか にもそれこ理科大のカメラ先生のま テリトリーだと思うんですけどそういう 神田先生の本中読でるとやはりいち早く その適生産っていうものをですね戦士の適 生産っていうのを5世紀にこう取り入れて いくってのはこう日々の地域であるわけな ので えそれはらかの力になってるかもしれない ですけれどそこそのどの程度それがえっと 日々の地位を高めたり生産力っていう点で え優位に立たせるかっていうのはまだ 分からないです ね文献のの方でも あのま古代で鉄生産確かにあの中国産地の 国々ま有力なんですけれども今あの聖KA さんおっしゃったようにキビで性鉄の鉄 鉄鉱石ですかね最初やっぱりあの鉄原料 から鉄そのものを作るっていうのは やっぱり6世紀からま7世紀にかけてでで それは あのやっぱり白井の三宅の開発とかにま 関わる ことなんじゃないかなという風に考えて ますだそれを遡って日々に大きい興奮でき てるんでえまそこの説明を手からするっ ていのはなかなかま厳しいんですけれども ただま5世紀あの先ほど正木さんも おっしゃったようにあの小さな小事だとか ま初期水行なんかも始まりますよね5世 なるとそうですねだからまそういうのは あのキビのやっぱりそれもやっぱりま朝鮮 間半島とのま関わりの中で出てくるものな んだろうなという風に思ってます ま一貫してあの平坦拠点のだろうっていう のがま僕の見通しなんですけれどもはい はいはいありがとうございますえっとま 色々とお話が出てきたんですけれども えっと次にですねちょっとあのま先の話が ま今のところでもあのかなり重要なあの ポイントとして出てきたんですがその婚姻 関係とかあるいはその家族のあり方という のがま今の私たちがこう社会で持ってる

ようなイメージとはですねやはりそのあの 古代のあり方っていうのはまだいぶ違うの だということでまこの点についてはあのえ 今さん正さんそれぞれですねあのご研究を されていますのであのこの古代の婚姻と 家族のあり方についてですねちょっとま この辺りが重要だよという風なところを あのあげていただければと思いますけれど もいやもうあの私の方からあのこの古墳 時代の家族について説明できることていう のは何もないようなものなんですけれども あのま野時代以来やっぱりあのえカチっと した男系の出集団が構成されるようなもの ではどうもないらしいっていうのあってで まかなり流動的なあの総方向的に流動的な ものなんだろうっていうのがま一般的な 理解でまそれでいいんだろうと思ってます でま庶民の生活のレベルとちょっとま妃様 のレベルでは全然違うのでうんでま今でも そうですけれどもあのま古代でもですね えま有力者支配層のま婚姻っていうのは あのかなり遠距離の婚姻があったりまする のに対してま一般庶民のレベルっていうの はそんなあの遠距離のものっていうのは やっぱりないのでも全然やっぱり違うもの なんだろうなっていう風にはあの思ってい ますま関さんはあの色々え今もDNAだと かいろんなものの研究をされてるんで そちらがあのおしいのでお任せしますんで 全て困ったなえっとまいや今さんのまご 上昇を読んでてま羽入戸籍なんかのその 通行機を見ると非常にこう狭いですね狭ね でそれはそうかなっていう風に思っていて でだから田中牛木さんが九州大学の田中 内木さんがまいわゆる観計測法を持ってえ 埋葬される人々の決関係をた時に起草って いう概念をま持ち出されて説明をしてて 要するにえっと1つのお墓には血煙者しか ホムらいませんっていうことでじゃあ向こ や嫁っていう購入者がどこにほめられる かってことを考えた時にそれは基礎ですと 自分のまその家制度はないですけど分かり やすく言うと実家に帰って埋葬されるんで すっていう基礎外にこう出されたいうのは 起草できる範囲から向こ取り嫁取りをし てるからえっと多分起草してるんじゃない かっていうことがま考えられるだと思うん ですねでそんな20kmも30kmもこう 離れたところからですねあ20km 30kmだら返せるけど100km 200km離れたようなところにですね 遺体をを開始するっていうことはまあ現実 的じゃないわけですねで私もそれはDNA の方からも言えるんじゃないかと思ってい てえっと最近出た論文なんですけど出した

出した論文なんですけどその和歌山の磯 岩影遺跡に1体だけ変なやつがいるんです よDNA的に一体的にD5っていう その見とんではDNA持ってる人がいて その人の埋葬施設だけやたらこうえっと立 域のですねも具体的に言うと東海とか関東 のこう埋葬属性がふだに入ってるんです そこの人だけがですねなぜか1人だけ DNA違うんですで和歌山のその親って いう席は和歌山県のあのもう南端の方に あってえま黒潮であの活を追っかけていっ たらま下手したらまあ小笠行っちゃうん ですけどあのうまいこと海流使って乗って いくとますぐ千葉とかに行っちゃうんです ね でそういうところからもし来た人だったら この人は多分遺体返されないですよねで それは逆に言うとその者ほれてるってのは その辺から多分埋葬されてその辺から向こ 取りを嫁取りをしてるいうことなんだろう とま思っていですねでそれでやっぱり王族 層が王族層が違うっていうのは奇々から あるいは谷から木をこう連れてくる あるいは伊賀からも連れてくるいうような ことがまあるっていうのはやっぱ王族の 違うこう通権かなと思って大変こう興味 深く持ってるところなんねただそこでも僕 はやっぱりあの基礎概念っっていうのは きっとあってその愛媛がもう実家がこしい からキビこしから帰りますって言なに帰っ てきてるっていうのはそれはもう1つは 基礎概念があるからで自分の実家っていう ものにものすごく実家がその人に対する 権利出事件っていうものを多分持ってるん じゃないかと思っててその豪族長ってのは それが反映されてるなとっって大変面白く てでそれは本にも書いたんですけどその岩 の姫がですねえっと人徳の先に岩の姫が えっと嫉妬してもうお前とやってられん わって言ってえっと奈良に帰ってしまうと それも奈良って言ったらそれ彼女は桂木 出身なのででしかも桂木のその山が見える とこに埋葬されるって七山にほられて るってのはこれは基礎概念じゃないかと 思ってるんですねでそういうその執事に関 するとっていうのはその割とその海層も 一般層も王族草もあんまり変わるところが なくてうんうんえだけどやっぱり王族草は こう通行権が違うっていうところがもう 階層さがあって面白いところかなとえ思っ ていてでさらにそれが先ほどその山あの キビに巨大古墳ができる1つの あの要因になってるんじゃないかっていう 風にま思ったりするわけなですねな今さん 何言っとんじゃと

是非まとめてくださいいやいやもその辺は 妄想ですけどえていう風に思ったりするん です ねはいあのなま女性がこうま婚姻によって えま実家を離れたとしてもその元々の実家 との関係っていうのはま切れないってこと ですよねずっとかなりそれ強く残るのでま それがあるからこそやっぱそういう遠隔地 でのその婚姻関係っていうのがあのま略的 には非常に重要になってくるとそうそう いうことでしょうねそれあれでしょ藤原市 もそうなんでしょその平安時代になって ちょっとそういうことですねうんま男でも そうなんですよねあのキのまきのところ なんかでももうあの自分のおばあちゃんの えものがあの実際コツが出てくるんです けれども まあ血縁関係がやっぱりそういう濃密なっ ていうかそう血縁原理があの まどういう風にあのどっち側で編成される のかって別としても血縁原理が有効なあの やっぱり社会であることはま間違いないん だろうと思いますけど ね父方母方フィクションも含めてだと思い ます うんそうですねあのまこの古墳時代の少し ま後期以降ですねその家族のあり方みたい なものがまかなりちょ不形的なものに 変わっていくという風なことも言われて ますけどその辺りのその時間的な変化に ついては今どんな感じでえっとお考えです かだんだん大学的岡山街とから外れていき ますけどあのそれはなんか我がが言うてる 話でまあのま不計過していくのはま古墳 時代通じて多分ずっと不経過をしていくん だけどそこにもやっぱ回想さがあってま 王族層は相当先に不潔化してるような気は しますねうんねそれが豪族層や市長層って いうのなのが多分5世紀段階になってで えっと階層にえ不景画がある程度浸透して いくのはまあ5世紀の公用あるいは6世紀 ぐらいからという風にはま考えていくけど まやっぱり不完徹するまだ完徹してないっ ていうのが私のま主張でまその後はま田中 義先生とかその九州大学の方々とまあのま 論点がずれるところなんですけどうんうん それはその今田さんから見たその戸籍の 研究から見たどういやいやあの完徹はして ないと思いますよもちろんそれも奈良時代 でも完徹はしてないと思うのでただまそう いう原理がま入ってきてることはま間違い ないんだろうなとまたあの日本全体でも あの一律でそういう現象が出現するわけで はおそらくなくてそういう現象が出現する ようなあの歴史的なあのやっぱり地域って

いうのはってまあるはずだろうなっていう のであの今正きさんがおっしゃったように あの大王のところとかっていうのもま かなりもう不敬になってくるわけででそれ からま豪族層もまなってくるやっぱり王と か豪族とかの社会的役割 にま規定されておそらく不形原理みたいな ものももうちょっと下の階層のところでも 出現するとするならばやっぱりえそういう 社会的な あのえま意味がですねあの強調されるよう な地域ま言うならば要するにここから兵隊 を王様の兵隊をたくさん取るとかえま多分 ジェンダーが明確なやつっていうのはあの 兵士はあの多分ま男性の役なのかなと思い ますんであのそういうま兵隊のそういう 組織挑発が先行したような地域とかって いうのはおそらくまそういう原理っていう のはあの早くに見られて来るんだろう思 ですねでまそういう意味それも結局大和 王健との関わりで成立するんで多分あの 関東とかの坂道なんてのはもうすごい遅れ た辺境の地域なんであそこが多分あの大和 県からのそういう動員に入ってくるんです 7世以降ぐらいなんですよね東北国士長が 出て云々だからまああいうところとはも 全然違うのがあの多分瀬戸内沿岸だとか 西日本なんかでは先行してるんだろうなと 思いんますけどうんさもう大変面白い時点 であのだから戸籍とかいうのはああいう その戸籍制度整えていくと要するにあれは 兵隊の態の徴収の範囲いうことそうですま あの戸籍一貫で1部隊の計算になるように なってるんでちょうどうんうんだから戸籍 が何巻あるかによって何部隊挑発できる何 人党員できるってのすぐにパッと分かる ようになです けどそういうような様々な要因があって 社会の編成原が少しずつ変わってくるん だろうなっていう風にはま見通しなんです けどね僕なんかあの核調性論者みたいに 言われがちですけれどもあのそういう ちゃんとモザイク的なものっていうのは あの考えているところんですけどうん私も そのあの2010年に変えた本にはその モザイク的なっていう表現をちょうど使っ たところでしかも5世紀公用以降のす るっていうのはやはり 軍事制度っていうものがやっぱり海まで 浸透してくるっていそこがその軍事制度が 非常にモザイク的なんで大の一部とかある 地域の1部というかかってくるんでそこ だけが不してくるうんそうだと思います 男子を兵として取るっていうとこかなと 思ってたんですねしかもま今日のあの話で

いくとまたあのトラジも入ってきますんで でトラジをあのYとかクの場合はあの同性 不幸の原則がどうもありそうだっていうの あるんでま不原結構優勢ですよね系の人 たちがやっぱり濃厚に入ってくるような ところていうのはあの社会の組織源変わっ てくる可能性あるだろうなと思いますねま ただあれですよねあの一般の方が多分聞に なってんで誤解したらあかんのは不形原理 って言ってもその一系原理じゃないですね 結局ね そう男性優位の原理っていうぐ うんはい今あのまそのま不原理への転換 それからままあの軍事編成まどこと戦うの かということもありますけれどもまそう いったことでこう社会があの動いていく中 でやぱその動きっていうのはあの日々だけ とかあるいは日本レッドの中だけにま完結 してはいないということもあの今さんと関 さんの両方のお話からこうあのチラチラと ですねあの出てきたわけですけれどもあの 次にちょっとそのあの海外交流と言います かまそういうその日々があのまだんだんと え社会が変わっていく中でえそういうその え他の海外のとのこう交流っていうのがま どのようなものであってそれがまどんな風 にこう影響を与えたかみたいなところに ついてちょっとお話を聞ければと思います けれど も学的な 物さからか断して たももはあの学じゃないとわからません いやそれは先ほどもでもあの世紀の話に ついては海外交流っていう点ではもうその 説明した通りでまえ増山古墳群の中で下 トライ系のものが見つかってるってのは 重要だであとままあ何回も出てきますけど ま理代のカメダ先生なんかがやはりその 初期水液の釜が入るあるいはその割と優秀 な小家家事のですねま遺跡が区役遺跡でし かねえなんかがもうえできてくるっていう のはですねこのキビっていうのはやっぱり そのえトラジがたくさん来てる地域だって いうのはま重要なことだと思っててで 先ほども申し上げたけどもそれがやっぱり キビ日々のですね厳しあの上道市ですかね のそのやっぱり役割の1つな1つのその 海外交流カヤとの交流っていうのが1つの 役割だっていうのはまあのが反映してそう いうことになってるんだと思うんですねで それとえっとま交流の起点になって るっていうま最初の話ですねえそういうと もま関わってえいるんだろうとえ思うん ですねでまあの自分のテリトリーにじゃあ ちょっとだけ持っていくとするとえっと

資料がもし出たらあのスライドで出して いただければえいいんですけえっと私の 資料の21枚目というのがもしあの モニターで出ればですね え出していただければいいんですけれども 出ます がえっと近年ですねえっと詳細版の方です ね近年DNA研究はですねえっともう日進 月報のですねえっと成果が出ていてま せっかくですのでですねその成果えっと それではゲノムそのもうちょっとえ前21 枚 目ま出なければすでもいいんですけど えっとDNAから見た興奮寺の1という ですねあそうですそうそうそうはいえっと いうものですでこれはですねえっと私もえ 研究に参画していたヤポネシアゲノムと いうですねえプロジェクトですでえっとの 中でですね えっと国立科学博物のですね田健一先生が ま作りになられたずでまえっとまだには ですね古人のですねえデータがプロットさ れていないんですけれども えっとこれはですね各DNAのですねえ 手性分分析をですねかけたものなんですが えっとえっとですね緑のまマークがですね ま中国の南部というかまえの方々あるいは 青がですねベトナムの方々ですねでそれ から えっと同じ青でも左下下の青がですねえ 中国の北京の方々がえあってその左下が モンゴルの方々でですねえ2ありますえの DNAの1になってですねこれあの中国の 南部からモンゴルまで えっと右右上に上がるような線が見えると 思うんですけどこれはま要するにえアジア のですねえ大陸のですね南北がですねの DNAがえそこに現れてるねで左上の一番 上の方がですねえ北海道の止まりこう 縄文人これ縄文人縄文人ってあの東安の中 でこう割と異質なところにこう いらっしゃるねで我々現代日本人はですね えっと点線で囲まれた範囲ですね赤の マーカーがたくさんあるところがですね実 は えなんですよあの年代え日本人で我々 っっていうのは要するに縄文人と大陸のま 中国の北部の方々のちょうどこう中間 あたりにいてえま混結して我々現代日本 列島人っていうの多くがですねまそこにま 所属をこしてるとえいうことなんですねで えっと実は野人もですね結構その中の現代 日本人の近くに入ることがえ多くてですね あの画面大きくて見れる方はま見れたら いいと思うんですけどもえ下山3号とかは

ですねえ佐賀の方のえトラジですね西北 九州の野人え西北九ごめんなさいとじって 言いました西北宮中の野人なんですねでえ 青や上口は鳥取のですね時人ということで まえ縄文人とえトラ系の人が混結してえ 我々日本島人がえまできているということ のまなんですけもただですねそのやい時代 に都人が来て混結してますっていうことは よく教科書にも書かれるし一般的に言わ れることなんですけどこのヤポネシア ゲノムでやって研究を進めていきますと どうもその後もずっと都人が来て えっとえ混結をしてるんじゃないかって いう予想がえ見えてきましたというのは ですねト系の人とですね縄文人がま混結し てまトラ系野人みたいな人が生まれるわけ ですけどもその 野人がですねえのその守生部分析をすると その現代日本人よりもちょっとですね右上 の方とかにずれてきたりするんですね でこのまではですねえ我々現代日本劣等人 生まれてきませんのでその後も継続的に やっぱりトラジがそれはあのえ連続的に ずっと来てるのかある時期にまとまってき てるのか別にしろえ継続的に えっとなんて言うんですかね都人が来ない とですね えっと我々日本列島人はこうできないです ねでええそういうお話ですで えっと22枚目ってさっきのスライドの 続きが出ますかねはいそれそうそれですね はいこれでございますでこれはですね えっと今年昨年の10月にですね田先生 広島県の府中市でえお話しした時にですね え公演一緒にする機会があってまその時に その府中市のえっと山上一号墳とこれ4 世紀代のですねえ人骨なんですけどもこの 人骨のえっと分析結果をその時に新野先生 が発表されてですねまだ論文が出てないん ですけどもその先生そこで公演で喋られて てYouTubeでも流れてたのでえお 話ししてもいいと思うんですけどえこの ここのその広島県の4世紀代のの古墳時代 前期のこの人骨のDNAってえっと現代 日本人ほとんど変わらないということは もう相当この人は他のその先き説明した トライ系野人なんかに比べてさらにですね トラ人との根拠が進んでるっていう風に こう言えるねでそれはねやっぱりどうして かって話をそのシンポジウムでもその新田 先生の話をしてたんですけどま広島県の 府中者それこそその国府ビゴ国府がところ ですから山陽道のすぐそにあるわけですよ ねでその山陽道を通ってやっぱ虎人とか いっぱい来てるとでそこにいつく人が多分

いっぱいいるんだと思うんですねそうし たらそその都人とそのえっとすでに えっと矢時代に混結してるようなトライ系 野人のこう光栄みたいな人がさらに混結を するそうすると現在日本人の人々なもが 生まれてくるわけでまそのなんて言うん ですかねえっと古墳時代になってもですね 結構トラ人って頻繁に来てですからこれ あの5世紀ではなくて4世紀なんで4世紀 うんで一般的にトラ系文物たくさん増えて きますよねっていうのは5世紀5分じゃ 中期っていう風に言われるわけですけど それそうでもなくて人っていうのは割と 連続的に来てるんじゃないかなっていうま 思えるようなまあ一例だけなんですけどね あの思えるようなま事例もあったりして あのえあの今さんがね先あのお話しされて たようにトラ人ってやっぱり結構ずっと来 ててで大和だけに行くんじゃなくて各地に ですねえっとまお住まいになるいうことが まあってそして地元の人々とえっとま混結 するあるいはま混ざっていくっていうこと がま頻繁にあったんじゃないかという風に ね今考えられつつだってま大変今あ興味 深いえ結果がですねDNAで出てるところ なんですねまそんなことがあま言えますっ ていうことですはい確か応ただただ流し まし たいやあの今のすごい大変興味深い話で 興奮時代の中期からあのまトの異物がもう ドンと増えるっていうのはもうそれこそ 亀田さんが色々とあの今節丁寧に明らかに されてきたことですけども今代前期に遡っ てそういうのがえ出てきてるっていうのは 大変面白いなという風に思いますあのこの 山の上の山の上でしたっけあ山の神ですあ 山の神えこれこれはあの府中のどどの辺に 当たるんですかえっとね府中のえっとどの 辺だといやもうあのど山陽道沿い山陽沿い ぞま山陽道の北からのちょっと山山山の上 ですはい北いやあのもうまさにあのま府中 になるとちょっと奥に入るけれどもあの キビの穴というのがあのおそらくえビンゴ の穴軍のあの手前のところの海がキビの穴 っていうやつなんだろうと思いますけれど もあのビチの場合だと先ほど来話に出てき てるキがもうまさにま都あの港として中心 的な機能を持っててま同じような機能を 多分 あの穴のところも持ってただろうしそこに ま道路がバーンとあのまえきびまであの 通ってくわけでま交通の余所であることは ま間違いないんでまそういうところなん だろうなっていうのは思いましたまそれが 4世紀っていうのが興味深ですねでどの

くらいあのトライしてきた人がいるのかま これも僕最近トライ民っていう風に言う ようにしてトラ人っていうとなんかあの ちょっと形質っぽくなったり国籍に近い ようなところがあったりするのでえ単なる 捉えしてきた人トライ民っていう風に言っ てますけどこれ あの鬼のところにトラミがあのたくさんい たっていうのはもう1980年代にあの 直木孝次郎さんが論文書いたのでま あのま古くからま知られてる現象なんです けれどもまこれかなりの数なんですよね パーセンではただま母数が少ないのでま あんまりあの直木先生もあのそれを強調し なかったんですけれどもこれまあの視聴率 の調査と同じようなものだっていう風に 考えるとま例えばスプーン1杯の味噌汁で もま1杯分のえ味噌汁のま味がなんとなく 分かるみたいなもで考えてくとこれ当時 あのビチの国の通軍っていうところがま津 の軍になるんですけれどもそこはあの4号 たったの4号ですねでま大体4000人 程度のま人口がま見込まれるところでで そこのあのそれでもまそこの40%とかだ と趣旨161600人になるしでま加軍だ とかま久屋軍のところはちょっとあの記事 がまなかったんですけれどもそれでもま そこもあのえカベりっていうのがま作られ てますんで大体あの日々の気比の中数部の ところでも お25%程度がトラ系の人に由来する可能 性があってこれはあのやっぱり相当なあの 数に現在の新宿区でも在外あのえ外交人に 登録してる人っての10%なんですけれど もひょっとしたら20%トラえでやるかも しれないもすっごいま宇族も混ざってるん ですけどねまそういうような混沌とした 状況っていうのは発生紀になると考え られるますねまたあのもう1つついでに 言うと日々の中枢部の人口っていうのは あの劣等全体の中でもすごい密度の高いと 思うんですねでもう里の数とあのえま国と か軍の領域のま広さでまあの相対的なあの 人口密度ってのは計算できるんですけれど もま大体西日本の方が瀬戸内海沿岸と機内 とかえがま密度高いんですけども中でも キビの中数部っていうのは人工密度高くて でまそういうのひょっとしたら支えてる ことになるのかなっていうのはですね古墳 時代の中期っての人口減るんですかあの それは松木たさんがね住居のその数を数え てあっ て府の頃が1番なんか少ない少ない状況が 少ないですっていう風に言いますねでそれ は実は全国的な傾向なんですよねう5世紀

全用になんか集落がみんなえてしまって数 があんまり5世紀全用の集落縦な住居が 見つかるていのは全国的に実は少なくなる 時期でまなんでかなっていう話ですよね うんも先ほどのあのスティーブン君のあの 集計のやつで行くとね平均人口増加率で 行くと0.8程度にあの住居数の変化でく と0.8っていうのはあのやいの初期の あの三国のところの人口増加が大体その くらいになるんですかねから1%ぐらい までなんかてましたねだから70年したら 人口倍になるそんな計算になっちゃうん ですよねなんかすごいやっぱり ドラスティックな変化がどこかにあるん だろう しこれはあの今さ今さんがその本で書い てる多のの社会でうまく行ってる時はいい んだけどなんかいきなりなんか例外とか 起きちゃって疫病とか入っちゃうと いきなり人口が減るっていうようなま そんな社会だからこそていう感じですかね そうそうですねあひどい時やっぱり半減し ちゃいますからね本当にうんうんそれま 一律で起きるわけじゃないですよねそう そうそれはそうです一律で起きるわけじゃ ないっていう点で言うとトライ人のその 居住っていうのも奇々はそれほど多いあの まな条先生のまご研究の中でもトラ人多 いっていう話ですけど他の地域ではきっと 違うんですね違うでしょうねもう全然来 ないところもあるでしょうしま関東なんか でもあの北関東にだけポーンと入ってくっ ていうのはまあるんでしょうけれどもそう ですまそういうのの背景になってるのはま 様々な繋がり政治的な関係とか色々あるん でしょうけどねそういうのは読み解いてか ないと地域に測して読み解いてかないと いけないですよねそうですねでそれは DNAの話も言えてそのお前はいつもそれ ばっかりと言わますけど和歌山の磯岩影は そのほとんどが縄文系の見とんでなDNA あ縄文系のNQBとM7AAっていうです ね縄文系のえミトコデラD持っててそれ から各DNAの分析がされているイゴ石室 の2人はですねその核DNAの分分析を かけてもかなり古墳時代としてはあ もちろんトラ系の遺伝子は入ってるんです けどえ古墳人としてはかなり縄文によるん ですよねまそうすると和山のその木の南部 っていうのはそんなにトラジは行ってない よねっていう感じですけどむしろ和山の 北部っていうのはトラジに住む地域なで 大変そういう意味では同じ木でもですね 南部と北部ではおそらくそのトラ系の入り 方が全然違うんだろう思うんですねやっぱ

そういうのきちんとあの地域足して 読み解いてくって大事な仕事ですよねそう ですねで岡山もですねあの山陽とそれから え三坂のま人骨はいたいてあのサンプルは いいてDNA分析かけてるんですけどあし ていただいてるんですけどまだその見とり ありDNA優先で書くまでが行ってないの でまそれは今後期待したいところでそう いう風に南部の方でそのトライ系の遺伝子 DNAがま先ほどご紹介したの山の神の ようなですねえ現代的な現代日本人的な ですねあのDNAをしてるとまそれ なかなか面白い話でそれこそこう文献の ですねその話方々とそれをま通じてまた話 ができるかなと思ったりすうんなんか 新しいそういう分析のねあの手法を通じて 色々連環が広がってくのが多分新しい学問 のあの吹きを感じさせますねそれまたあの いや正さんに伺いたいんだけれどもあの え半島とか朝鮮半島の方でのあのDNA 分析ののあり方なんか見てくと日本レッド の人たちもやっぱり行ってたりするのも まだ見つかってないあまだ分からないです ねうん間半島のその5世紀代4世紀代の DNAその人骨って実はそのそのものが 少ないのでなかなか難しい研究ですね丼の ところがま割とよく分かった でもあれもまだミトコンドリアしかやって ないんで今後書をやっていかないとどう いう位置付けかってのがわからないですね さとの44号のあの30何番でしたっけ あれがあの現代日本人のハプログループに 続スっていうのがあってますごい面白いな と思ったんですけどまあの純してる方です よねされてる方ですそうそうそうそうそう うんまあれは人によってはねあの連続し てる人だという風にま言うのでなかなか 評価が難しいとですけどねだだその難しい のはそのやい時代いやその以前におそらく そのえっと縄文系のDNAを持ってる人が カ半島に多分いるんだろうっていう話をま 首座さんがま最近おっしゃっておられてで そうしたもののとこに大陸のDNAが何回 も何回もカ半島に大陸系というかま大陸ま 半島ではなくて大陸の奥の方のDNAが たくさん入っていてでで間半島のま遺伝子 ができているのでその縄文系の遺伝子が 多少入ってるからと言ってその日本列島 から行った人と混結したっていうわけでは 決してない元々いた人かもわかんないって いうですねところが元々その日本列島には そんなたくさん人がいなかったわけで 縄文人の由来自体から元々大陸が来てたけ ですねそうすると大陸に同じ遺伝子を持っ てた人が多分いたんですよでそれは遺伝子

がある意味駆逐されていって今では ほとんど門系の遺伝子を持つ人は体力系に はいないし古墳時代にもおそらくその親戚 時代にもほとんどいないんだけどうん元々 はいた可能性があってそれが生き残ってて まその大陸の中国の方から来た人と根拠 するとそのトライ系野人と似た間半当人 っていうのが多分出てくるんですねそれを なんかこい藤あの藤身長先生があの歴白の 報告で分書いてたわけですけどもそういう 実はそのDをやればやるほ難しくなって その点の話は難しくなって交流っていう点 では難しくなるといとこです ね交流の話のやつでまさっきのコインとも 絡めて言うとあの日々のカコというのが いっぱい出てくるんですよねあの日々の 豪族たちがま朝鮮半島に行ってでま6世紀 にま重留してたりするんですけれども でま現地の女性との間に子供ができるん ですよねでその子供とかま様々なあの えま社会的処分をする時にあの誰がどう いう風にするのかていうのでま要するに 総称決め方しっていうのが出てくるんです ねでま当時のまあの社会の秩序をどういう 風に維持してこうかとかえ行く時に やっぱりま血縁の原理でまその族長なりが まあの処分するとかっていうのがあったり するんですけどカコの処分に関しては なかなか難しくなってきたりするんでそれ やっぱ社会を複雑化していく上であの すごくま人が移動すること子供が生まれる ことっていうのはあの社会のダイナミズム を考えていく上でやっぱり重要な問題なん だろうなていう風に思いますねうん子供が 生まれる点で言うとその先ほど20% ぐらいがそのえっとトラ系のま宇族の中に 含まれるっていうことでしたけどそれはだ から入ってきてその子供たちがたくさん 増えていってそその人たちがかなりその なんて言のかなあの人口の中でその自分の 先祖っていうかおじいさん非おじいさん ぐらいおばさんとかがトラ系ですっていう ことでそのトラ系を名乗る人きっといるん ですかねそうですねそこら辺ね あのよくわからないところもあるんです けどねただ古代の場合はあの自分が何者で あるかっていうのをやっぱり思そからあの あの警で語るっていうのがありますんで そのまの伝承としてま来の伝承を持ってる 人たちでそこにまアイデンティティを 見出してるような人たていうのはまそう いうことになるのかなと思いますけどねで まそういう人たちが実際にあの社会の中で どういう風に生活してたのかとかっていう のはこれは本当あのえ大問題でえ解明す

べき課題なんだろうなっていう風に思い ますねはいあのそのことに関してあの えっと視聴者の方からの質問でまあのま 豪族許可とかまその集落遺跡におけるそう いうこうトラ系の人たちの痕跡はどんなの がありますかっていうこととそれからま その日々の場合はかなりそのトラ系の人が 多いとえいうことでそれがやっぱこう日々 独特のその社会の変化に大きく関わったと いうお話だったんですけれどもいや そもそもなんで来るんですかっていう質問 が来ていてわざわざ遠くから日本に あるいはま木々にとそあの来るところとね 来ないところがあるという話もありました けどなぜそこに来るのですかとまリスクも あると思うんですけどとえいう質問が来 てるんですけれどもこちら 何か1つはやっぱりあの朝鮮半島間半島 っていうのはあの えコク白木くだまあとかやの所生力って いうのがあるんですけどこれみんなで しょっちゅうしてるんですよねでやっぱり もう あのくだが滅亡した後はもう大様からあの と一般庶民までもうこれ数千人単位であの 逃げてきたりすることがあるのでやっぱり そういうあの政治的不安定さとかダイナ ミズムっていうのがやっぱり直接的な原因 なんだろうと思いますまあとはあのもま 最近あの日本列島なんかの場合あの公海像 度の気候変動っていうのがあの分かるよう になってまきたんですけれどもま朝鮮半島 でどういう風になってるのかってのよく 分からないですけどそれがどう影響してる のかとかま色々要因は考えらると思いです ねで自発的に来てるかどうかっていうのも またね難しいところですよね連れて帰って くるやつもありますし ね痕跡自体学的にはま痕跡体はもうなんか 今日は何回も話が出るけどカメカメダ先生 に聞いててカさん連れてくれそうそう思う んだけどあのそれこそあの神さのまねま だけじゃないけどあのま高塚席なんかでは 古くにま古い時期からそのカ付きの住居 っていうのが出てま元々日本っていうは 縄文以来老がひどなわけですけどじゃなく てかを作り付けていくっていうそんなこと がある集落ってのがまあるしまそれは おそらくトラジが持ち込まないとそういう ものは多分できないのでで私は大阪出身な んですけどそのかどなんてなかなか定着し ないんですよねその都人多分大阪いっぱい 来てるんだけどだけど その中期でも早くにですねそういうなんか が入ってくるっていうのはそれはもう

トラジ来てるんでしょうねっってそれも 思うしあるいはその初期水なんかの政策 あるいはその初期液使ってますよえいう ようなことま先ほどもそれが言ってたその 家事遺跡ですよねえ久木役なんかの跡 なんかはやっぱりその技術はその向こう から来てるもんなのでま トラジね関係の遺跡としてま理解していい んじゃないかっていう風には思ってすると えいうところですねうんまそうそうそんな とこですかねうんでやっぱり戦争っって 大きいですよねて思いますねうんその都人 がなぜ来るかそリスクがあるのにてそれは 戦争危なくたらげ逃げないとしょうがない のでで国が滅んじゃいますからねカ半島の 場合はカも滅ぶしくだらも滅ぶしっていう うんそうですねそ戦乱をま避けて人が移動 するっていうのはまもちろん現代の いろんなところであの起こっていてで やはりその移動先でまいろんなこう文化的 な衝突圧力っていうのが色起きていたり するわけですけれどもこのあのま興奮時代 とかの場合はですねそういうそのこう人が まおそらくその時期によってはかなり入っ てくる時にそういうそのこう社会的な ストレスっていうのはあったんでしょう いや物から見るとそういうストレスとかま 結局その工学ってもののま今日のその トークセッションの1つのテーマですけど そのあの文献と工学どう違うのかっていう のはそうだけどその工学であにそのその年 のその人間関係とかですねストレスとか そんなことを考える多分1番苦手だという 風に思うんですけどうんあんまりでもその 見てる感じはそんな雰囲気はしないですよ ねむしろあの間半島の文化できるだけ自分 たちで摂取したいっていう方が強いような 気はするんですよねやっぱり鉄にしても時 にしてもやはり先進的なものは向こうの方 が持ってるわけなのでそれをやはり入手し てその技術を自分のものにしたいっていう のはおそらくあるのでもしろその積極的に 歓迎してる気は私はするんですけどそうだ と思いますウェルカムでしょう ねままそういうこうそういうよりこう ウェルカムするフードがあるところにより たくさん来るようなそういう関係もあるん でしょうかツっていうのがツてもあります よねああそうですよねツて大きいと思い ます あのそれこそのも向こうにいるわけいてで もそこと繋がっててで日本レと各地にカヤ っていう地名いっぱいありますよねで京都 府の単語のとこにも回ありますけれどもま あいう連中たち行ててそういうつてで来

るっていうのは大きいんだろうと思うです ねまあの日本列島基本辺境ですからね辺境 で宝の国っていう風に表現されてますんで 朝鮮半島なんていうのはだからやっぱり あのそういうものが欲しくて欲しくて しょうがないですねもう平安貴族たちも なんかもう空もなんていうのはもう喉喉 から手が出るほど欲しくてしょうがない そういう辺境の貧しいところの あのそういう集団ですね奈良時代のその なんか白木白木師があの来た時にをなんか 表面的にはお前なんか続SECじゃって 言ってなんか白木師と喧嘩するけど結構 なんか品物時代はみんなよく売れたという 物はもう欲しくて欲しくてしょがないです ねうん 平安貴族の光り物も好きですし ね金銀在みんなあのカヤにあったんでそれ はもう全然違いますよ ねはいあのなんかこう話は尽きないんです けれどもだんだん終わりの時間が近づいて きましたのでま最後ままとめということで ですねまこのえっと歴史学と考古学ま それぞれこう資料や方法論が違うわけです けれどもまそれでま見えてくることであの まお互いにこう補強し合うっていうかね あの双方から見てやはりこうなんじゃない かってえいう風なところも今日かなり出て きたと思うんですがま逆にこの辺はま今後 ちょっとあの要検討だなっていうなところ もあるかと思うんですけれどもそのま今後 のま課題この辺があの歴史学と考古学のえ ま接点としてですねあの面白いんじゃない かという風なところなどについてちょっと あのえお1人ずつお話しいただけます でしょうかいやあのそうですね えま昔はあの お歴史学と高校学は違う学問なんだって いうのが強調されてえま確かにそういう あの側面ももちろんあってでまあ日本 なんかの場合あの日本の高校学がま歴史学 の一部としてスタートしたようなところも まえあったりしたわけだけれどもま高校学 はやっぱり高古学としてま様々なあのえ 背景を持ちながら成立してる学問であ るっていうことはもう間違いなくてもう あの もうそれはそれであのあるんですけど やっぱり過去を扱う学問としてお互いに あのえ議論できるところていうのはあの たくさんあるしま現にこうやってえ今回 こういう機会がま得られたっていうのは あの大きくま岡山のあの高校学岡山の歴史 学にとってもま今回はすごいイベントだっ たと思うんですけれども

えまあのえ今後もですね色々あの様々な 学問があの今え出てきてますのでま分析 ですとか国機構復元だとかま地震学もそう ですけれどもまそういう学問媒介にし ながら新しいものってのはおそらくえ 作れるんじゃないかなっていうのをあの 期待しているところですでま私自身もあの 古代使をやろうか高古学をやろうかどっち にしようかなて決めたようなところもあっ て高校学はも大好きでましょうがないん ですけれどもあのま個人的にはやっぱりえ 4世紀の終わりから5世紀の始めにかけて のあのま象山のできる辺りのこの日々の ごしのやつをえあこうた日々のあの高校学 をお色々ともっともうちょっと微細に何年 単位ぐらいでっていうようなあの議論が できるようなあのことがあったらいいなと 思うけどまもちろん難しいのは難分かるん ですけどもねあの期待してますので高校学 に は はいあのえっとま今さんからお話があった 通り昔はその航空学は高学だけで歴史を 書くんだっていうようなま風潮もあって今 でもそれはあると思うしまそれは決して 悪いことじゃないで多分1番いけないのは なんか持たれかかっちゃっていうのは多分 良くなくてあのいいのは無視するんじゃ なくて互いに独一とこでやってあ結果的に 同じことができた同じ結果がでしたねって いうのが多分1番いいんだと思うんですね であるいは違うんだったら違うでお話をし てていうことだと話をするっていうのがま いいことだとえ思っていてまそういうこと ではもうあの今はそういう関係になってる んだていう風に私は理解あのしていますで あの航学とそのまいわゆる文献士っていう ところは文字資料と物質が違うということ でま対象が違ってま分かることもま違うん ですけどそういう風にまお話ができる段階 にもやっぱり来てるというあままずっと前 から来てると思うけどずっと前からされ てると思うけどまよりそれがやりやすく なってきてるという風に思っていますで えっと今さんもおっしゃっておられたん ですけれど今あの科学分析がやっぱりあの 歴あの文献士の方でも工学の方でも入って きて で第3の言葉というようなものが多分でき てるという風に思っていましてでDNAの 話をしましたけどえDNAの分析をして DNA分析のけをしたえ分析を見てですね 今さんの本と大変よく理解ができるんです よでこれはすに共通言語じゃないかって いう風に思ったりもするんですね古籍今

まであの家族のとか親族の研究まはえっと 分権士の人はま奈良のあ奈良時代以降の 戸籍経ちとかが主になってやれておられて 古墳時代の人はま分母と古墳時代の分母と かま5世紀4世紀分母のすが人骨とかを やってたで時期と資料に帰りがあったわけ ですねでそこをなんかつもうとしてDNA があったりしてでそれをそれをDNAやる とこう両方繋げてあなんか両方うまいこ 理解できるなっていうことができたりする しで今さんは えっと中塚武先生なんかと国機構研究もさ れていてで国交研究の中には当然工学学の 先生松さんとかえ他のえ工学学の人も入っ てえおられてえっと国機構の変動とじゃあ その高古現象あるいはその分権士における そのえっと疫病とかえそういう話とあの ミックスして話ができるようになっている のでよりですねこうしたその文献主と考古 学っていうところのですねそのえっと ミングルって言うんですかねわり合いって いうのがまやりやすくなってきたとと思う しやらないといけないていう風にまなって きたっていうもですねなんかね あのあのうちの同体研究所を評価自分で なんか持ち上げるわけじゃないけど明大学 文明動体研究所って学際的国際的な研究を するっていうところで立ち上がったわけだ けど本当にそれが実はできやすい環境が この研究所にあるなっていう風に思ってい てあのま岡山大学でこういう研究所作った 会が会があるし今タイムリーな研究所じゃ ないかなて別にこれ予定帳で売って最初 からこんな話しようと思ってたわけじゃ ないんですけど政権仕込みやがってと思う とあけませんよ今思いついたんですけど そうそう思うなっていう風にまあのあの 考えるっていうことですねはい夫ですはい ありがとうございますなんか綺麗にまとめ ていただいた大変嬉しいんですけれども あの確かにそのあの分離融合とかですね その分野横断的な研究あの白白と最近は なんかこうトップダウンで言われることも 多いんですけれどもあのやらなきゃいけ ないからやるんじゃなくてややっぱりその 新しい方法ができることでこうやっぱ分析 の制度が上がってそれでそのそれまでこう あの対応が難しかったところがやっぱこう お互いのねあのポイントがこうよく見えて くるようなところがありますあると今日は あのあの改めて実感をしましたのでまこう いったあの研究さらにあの続けていければ とえ思います今はどうもありがとうござい ましたはいでえっとまこの後ですねあの皆 さんウェビナーを退出される時にですね

おそらくZOOMで自動的にアンケートが 立ち上がってくると思いますのであの是非 あのよろしくお願いしますでまこのあのえ 大学的岡山ガドですねこれもあの皆さん 是非まだ買っていない人買っていただき たいというのもああるんですけれどもあの こうしたですねあのま今後例えばそのこの 中のまこの先生とこの先生の対談を聞き たいとかですねこのテーマについて 掘り下げてほしいとえいう風なとありまし たらまあの是非その点もですねアンケート に書いていただければと思いますま今回 ちょっと第1回でこういう形であのトーク セッション企画しましたけれどもまあの 今後も続けていきたいなと思っております のであの皆様からのご要望をいただけると 大変助かりますでえっとZOOM ウェビナー終了後にあのすぐアンケートを あの答える時間がない方はですねあの同体 験からあの送られたメールの中にあの えっとアンケートのあのURLが貼って ありますので後日そこから書いていただい てもえ結構ですのであのどうぞよろしくお 願いいたしますではあの今日はあの休日の ですねあの午後のお時間え視聴して いただきましてどうもありがとうござい ましたえ配信にえご協力いただいた5d ラボの皆様も大変ありがとうございました 失礼いたしますありがとうござい ます til

2024年1月21日(日)13:00~15:00オンライン開催(Zoomウェビナー) 

『大学的岡山ガイド-こだわりの歩き方』(岡山大学文明動態学研究所編 昭和堂)所収の「吉備の古代史(今津)」と「吉備の巨大古墳(清家)」を出発点に、歴史学と考古学から見えてくる古代吉備の実像について、最新の研究成果をふまえてトークセッションを行いました。

【講師】今津勝紀 岡山大学文明動態学研究所 副所長 日本古代史
    清家章  岡山大学文明動態学研究所 文化遺産マネジメント部門長 日本考古学
         <司会>松本直子 岡山大学文明動態学研究所 所長

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本映像は、岡山大学の映像制作・配信スタジオ「5D Lab.」に所属する岡山大学の教職員と学生スタッフにより制作されました。
「5DLab.」は岡山大学の教育・研究・文化・地域に関わる映像制作、配信スタジオです。

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