(99)「奈良観光時代の幕開け:大仏開眼供養から仏像写真家の誕生まで」(歴史学)第488回
[音楽] えそれではお時間となりましたのでえ第 488回市民大学講座を始めさせていた ますえ本日司会のサレンジと申します よろしくお願いし ますえ本日の市民大学講座はえ現在開催し ております博物館実習正による企画展示の 関連講座としましてえ本学のえ全額教育 開発センターの教授のえ祝浩先生にえ奈良 観光時代の幕開け大仏会元用から仏道写 進化の誕生までという内容でご講演 いただきますえまず岩井先生のご紹介をさ せていただきますえ祝先生は奈良県のご 出身で常智大学のご卒業後同大学のえ大学 院にご進学されますえ1994年には関西 女子え関西女学院短期大学でご強弁を取ら れまして1997年には国際日本文化研究 センターのえ客員助教授になられますえ その2009年からはえ手塚山大学に着任 されましてえ副学長を経てえ2012年に はえ手塚山大学の学長にご就任されますえ 現在は手塚山大学全学教育開発センター 教授としてえ奈良の観光文化や文化発信に 関する講義をご担当されてい ますえご専門は宗教社会学やえ経営人類学 でしてえ最近のごご著書ですとええ 2020年に大学論の5解と幻想えを公文 道から出版されましたえ他にもえ論文やえ ご著書を出版されてますのでご確認 ください えそれではご講演に移りたいと思いますえ 祝い先生で奈良観光時代の幕開け大仏会見 苦から仏道写真家の誕生までですえ よろしくお願いいたし ますえ皆様こんにちはえご紹介いただき ましたあ手塚山大学の祝いと申しますそれ ではよろしくお願いいたしますえ本日はえ 奈良観光地代の幕大仏会見供養から仏道車 進化の登場までということでお話をいたし ます えまず本日の内容でございますけれども はいえこういう5つの流れに沿ってお話を したいと思っておりますええま17世紀の 初め頃から20世紀の初めにかけてですね え約300年間を圧縮した形でお話をする ということなんですけれどもでまあの奈良 と言いますとですねどうしてもえ古代と いうのがものすごく注目されるわけですえ 古代のロマンもございますしえならという とことということですからえ古代という ことなんですけども実は私 もこ研究しております金星っていうのが 非常に面白い内容を持っているんですが あまりならの金星っていうのはえ注目さ れることがありませんでま金星の面白さ
みたいなものも少しお伝えできればなと いう風に思っておりますで全体の流れに つきましてですけれどもえま簡単に少し 結論先取りしておきますとえ奈良の地馬 産業が衰退していってそしてその後え大物 改善供用をま1つのターニングポイント 景気としてえ奈良が観光時代に突入して いくとそしてえ近現代へと繋がっていくと いうお話になりますでえ今ご覧いただい てるような話の流れでえお話をしていき たいと思いますえ下ましてちょっと最初に ですねえ金星のお話を少し長めにする必要 があるんですけどもえこれもま現代の奈良 の観光を考える時に実はよな背景になり ますので 少し我慢してお聞きいただければという風 に思い ますえ最初に奈良 のそのカチしのお話をするんですけどもえ 最初この観光時代前子としましてえつまり は大仏加減供養の前の歴史ですねえ甲 そして鳴らさ茶会というま3大話をお話を したいとと思っておりますでその1番目が 奈良のカチ士というお話なんですけれども え奈良とカチがどういう関係があるのかと いうのは実はあまり知られていません え確かあの奈良マホロバ検定ですか奈良 検定の問題の中にはえ出てきたと記憶して おりますけれどもえ実は奈良は鎧兜と活 ですねの一来生産地であったということが 歴史学的に分かっておりますえ皆様のえ レジメのところにも示しましたけれども えっと最盛期にはですねえ慶長19年には 推定440人の不足士がいたという風に 言われております具足師というのはえ鎧を 作る人という風に簡単に考えていただけれ ばと思いますえならでなぜこのような活と いうのが産業として発達したのかという ことにつきましてはままず見解があるかと 思いますけれども例えばえ幸福寺の僧侶 たちがですねえ武装化したということも1 つあるのでないかと思われ ますでえま奈良がカチの一大生産地であっ たということですねえそしてその江戸で 活躍した祝与左衛門という人がおりますえ ま残念ながら私とは直接の関係はござい ませんけれどもえ江戸幕府に非常に徴用さ れたえ活がおりますで今ご覧いただいてる 絵でございますけどもこれは図書国が所蔵 しておりますえ志田不と呼ばれているもの ですえ伊ZE黒井年童まぐというのが正式 名称でございますけどもえ通称で志田不足 っていう風に言われていますえこの志田と いうのが非常に重要なわけですけどもで今 左右にこの別々の写真をえ提示させて
いただいておりますけれどもちょうどこの シの形をしたのがこの鎧のカブのま飾りに なっているわけですねでカブトの飾りと いうのはあのよくよく見てみますと戦国 部将たちのえこの飾りというのは非常に 面白いものがいっぱいございますえなぜ こういうまあ面白いものをいっぱい作ら なきゃいけないのかということなんですが もちろん自分のアイデンティティと言い ますかえ自分が何者であるかっていうこと を示すということももちろん なんですけれどもえ非常にこうおしいよう な鎧の飾りを作っているえ武将もおります これはま戦場で威嚇するというようなま 機能もあったんだろうという風に考えられ ますけどもさてこのシ不足でございます けどもシの形をかっているものがカブの頭 のところにつくという様子になっています でシというのは実はえ和名でいきますとえ 勝ち草ということになってますつまりかつ 草っていうことですねでそこから要因に 想像できますようにえ戦国部将にとって 勝つということが非常に重要であったわけ ですからこの勝ち草と呼ばれている志を かったまデザインした飾りをですねま好ん で徳川系ま徳がイアが使ったということの ようでありますでえこのえシ不足と呼ば れるものは大々え徳川系に伝わったもので ございますけれどもえ徳川県の記録により ますとですね代々の武将たちがま少なく とも半分ぐらいまではですね時を見てま折 に触れてですねこの不足を出してま儀式的 なことやってたんだろうということが言わ れていますでこの岩左門というのは徳川に 徴用されて働くわけでで奈良から出てくる んですけど江戸に攻防を持ってえ活躍した 不足師でございますで当時はですね例えば ばこれあのヨーロッパの絵画なんかもそう ですけどもえっとダヴィンチだとか ミケランジェロだとかいろんな画おります けどもこれ本人が全部書いたというわけで はなくってですね工房がえ共同政策として 書いて最後はえ師匠の名前がつくという ことなんですけどもえこの鎧の場合も おそらくは祝い左衛門の策とされていると いうのは工房の中でまあ種の総合芸術とし てですねえいろんな部分を組み立てていっ て最後は師匠の名前でされているという ことだという風に理解していますでこの岩 左門作の鎧兜カチっていうのが多く残され ておりまして日本で国宝級のものの中に かなりのものが岩門策として残っており ますえもちろんこの祝以外にもえ明VAだ とかですね他にも色々えっと容量兜で有名 な
あえ家計がございます例えば神経っていう のはえ現在も残っておりますけれども えっと兵庫県でですねえ明順ひばという ひばを作っているところがあります え後に申しますけども鎧兜の産業もですね え戦いがなくなりますと当然衰退していき ますねえその後どういう風にして食べて いくのかっていうのが重要な課題になって いくわけですけどもえその時に例えば明 チケなどはですねまあの存亡の危機がいく つもあったわけですけれども えこの鉄というものの技術を使ってですね ひばを作ってでそのひばをま素のようにし てえ吊してですねそのひば同士がえーこう 絡み合ったというかえすれ合った時になる 非常に綺麗な音をを楽しむというようなま そういった工芸品も作っておりますえ 例えばそれはあのアメリカのソウルシガー のスティービーワンダがですね非常にその 明神ひしの音をですねに感激したという ことが言われていますけれどもえまそう いう総合芸術としてえま活というのが出て きたということでございますさてそれで あの皆様のところにもえベルサ級での発注 というお話が載っておりますけどこれ何か と言うとえこういうものでございますえ私 もベルサ宮殿は何度か言ったことござい ますけれどもちょうど2000年以降です か新しい回収工事のためにその回収工事 やってる際にですね実はこの活の壁画が 見つかったということが言われています私 2000年以降にあ以前に行ったのでえ これ現物を見たことがございませんけども もし皆様えベルサ宮殿に行かれる機会が ございましたらあ是非見ていただきたいと 思うんですけどもえベルサ宮殿っていうの をまずイメージしていただくとですねあの 西洋龍のそのフランスの宮邸の絵画が施さ れているような宮殿の中にぽつりと準日本 風のですねえカチの壁画が現れてくると いう少し違和感があることでございます けどもこれもどうもえモデルはですね岩 左衛門の発注がモデルであったという風に 言われておりますえではなぜえこの フランスルベルサイ宮殿に日本の甲虫が夜 によってあるのかということなんですけど もえおそらく オランダ等の攻撃を通じてえ日本のカチが ヨーロッパに流れ着いてそしてえフランス とえオランダ様々な国国の戦いの中でえ 戦理品としてフランスにカッチが持ち替え られたんであろうという風に考えられてい ますですからまこういう形で残っていると いうことなんですねえそれでもう1つです ねえっと皆様のレジュメにも書いてます
けどもえ奈良原市の陰番権という文字を 書きましたけれどもこれ実は次にお話しし ます奈良のお話にもつがっていくんです けどもえこの祝門とというま家計がですね え奈良さしの円盤権を持っていたという ことなんですけど円盤権っていうのはです ねえさしのま織り物をまえっと端物があっ たらですねその端物を出荷する際に実際に 規定通りの長さで作られているかどうかと いうことを確かめて えきっちりその通りですよというまえその 反抗を押す権利を持ってるわけですねま 現在でいう巨人科県ですけどねこの巨人科 県を幕府からもていたということなんです ねでここで見えてきますのはえ当時のジバ 産業の中で甲虫を作る人々とさらしの人々 との間の関係性っていうのが見えてくる ことになりますえそこで次の奈のところに お話を進めたいと思い ますはいえ鳴らさというのは朝の織り物 上質の朝の物なんですけれどもえっと現在 ではほとんどもう衰退しているんですけど もも皆様奈良のえお土産物なんかを見て いただくとですねさらしで作った付近など がよく売られておりますえ現在はま新しい デザインとして工芸品としてえさらしが 復活しているわけですけどもえワカンササ ずというまあ金星の百貨時点の記述により ますと布の上品なり聖地なること木のごと して書かれてるわけでありましてえま物に よってはですね木よりも効果であったりと かえ素晴らしい織り物であるということが 言われており ますでえ開栄14年には360年ありの さし職人がいたと言われておりますこれ 奈良にいたということなんですけどもえ これからお話しすることはま奈良で一産業 としてえさらし奈良さらしというものがえ 登場してやがてそれが衰退していくという ところのお話をしようと思っておりますま なぜ衰退したのかというのははいろんな 理由がありますけどもえここに書きました ように材料の高頭と更新の布の対等でえ 衰退したという風に言われていますま更新 の布って今言いますのは例えばですね現在 風に言いますと新素材がいっぱい出てきて ですねえそれまでの素材が衰退していくと いうようなイメージを捉えていただければ いいと思いますけども具体的にはイチゴ 縮みだとかですねの縮みだとかそれからえ オミマフマフっていうのは朝の布っていう ことですねえそういったものが出てきたり とかあるいはそのえ材料が高騰するという ことなんですねえ奈良のさらしはですね朝 の中でもチマって呼ばれる種類を使ってい
てまいろんなものがございますえタイマと いうのもありタイっていうのは大きい朝 って書きますけどもえお差しの通りえっと その麻薬取り締まり法で取締れるタイマも 根は全く同じタイマですねそして伊勢神宮 のお札としてつかれる神宮タイというのも 同じところから派生してるわけですけども 朝にも色々な種類がございますけど奈良の 場合チマと呼ばれるものがよく使われたと いうことですえそしてえ皆様のえお手投入 もありますように今方年間まで年間大体 30から40万機を生産したと言われてい ますえどういうことかと言うと1匹がです ね2タに当たります1タは大体成人1の 材料ということですからえ少しま計算で 想像していただくと相当数のものがえ生産 されていたということがあ理解できますで えところがですねまこのナサっていうのは 僧侶のえ着物であったり物資の着物として 徴用されたわけなんですけれどもまこう いった材料の高等更新の布の対等衰退して いくと同時にえ明治になりますと武士と いうもの自体がいなくなりますのでえこれ がま奈良原市の自爆産業としての衰退にお 打をかけることになりますまこのようにし て衰退していくということなんですねま もちろんですねこれはあのま奈良市のえ 産業を継いでいらっしゃる方は怒られるか 分かりませんけどもえ更新の布が対当して きてえ材料がことしてきてですねえそこで 新しいその状況に適用してえ生き残って いく道もあったのではないかと思われます けども実際今のようにですねえ奈良のお 土産物として奈良さ市が復活していること 考えますとえ武士やソルだけじゃない別の マーケットの開拓といういうものもえ可能 性としては皆無ではなかったと思われるん ですがそこはまうまく適用できなかったと いう評価も一部にはございますえさてえ それから皆様とこにも書いてあります ペルシャから代連絡したとされる大和バの お話に少し移りたいと思うんですけれども えこれが大和端と呼ばれるものでです けれども上原和夫先生というま手塚山大学 でもえ丁寧退職されましたけれどもえ 織り物の研究をされてた先生がですねえ 世界中の織り物をご覧になってフィルド ワクされてこのナサ市を追っていた大和は って呼ばれるものがですねえ一体どこから 来たのかっていうのがずっと謎であったと そしてえ世界中フィルドワークされた結果 どうもペルシャから来ているということを ま突き止められたわけですねでここにある 絵というのがそれを復元したあ絵でござい ますけれどもえ実はあの手塚山大学の
キャンパスの中にも50代50期近くのえ 旗機をま所蔵しているんですがそのうちの 1つが大を再建したものが一期ございます えそれからえっと大和郡山市のえ民族博物 館にもこの現物がございますもしご興味が わりの方はご覧いただきたいと思います けどもこの羽織りの形をご覧いただくと 少し傾斜していることが分かりますま傾斜 端という風に言われていますけどもこれを 使って追っていたということが分かります ところがえ非常にこうミステリアスなこと にですねこの山端っていうのはえペルシャ から伝来してすぐにまた消えてしまうん ですねえなぜ消えてしまったかと言うと このえ傾斜バをで旗を折るのは非常にこう 技術が必要なんですねでそこでえもっと 簡易な折りやすいものに変化していったん だろうという風に言われますでまここに 書きましたようにペルシャからなぜ前代し たのかこれ現在もペルシャで使ってるよう なんですけどもえペルシアというかイラン 周辺ですねえっと南海攻撃を通じてどうも 日本日本に伝わったという風にされてい ますえそれからえっと皆様のところにも 書きましたけど大場裁の新えも同じ正法か ということを書きましたけれどもと即位の 例の際にですねその天皇陛下がお召しに なられる新たという麻の織り物着物が ございますただし職位の例っていうのは 未だにえ神秘的なもので中で何が行われる かよく分かりませんええ新党学者は いろんなこと言っておりますけれどもで その際にまおこりをされる際に新たという 朝の織り物をま枕元に置かれているそれ 実際にお召しになるかどうかはよくわかり ませんで実はこの新たへはえその即位の例 があるごとにですねえ実は徳島県の吉野川 市の三市という三という家庭が代々 この織り物を追っておられたでまアインベ と呼ばれるま役職ですね古代の役職を ずっと継れていてえ今日はあの写真をお 持ちしませんでしたがえ山崎イベ神社と いう徳島の神社の中にですねえこの全く 同じ大和はと全く同じもののえっと旗機の レプリカがございますでそれを考えると どうもえその新たを負ってる製法と大和は の製法は同じであるとあ大和田と言います が奈良原の制法は同じであるとえどこで そうなったのかっていうのは未だもって謎 でございます私もこれをま上村先生に 申し上げてえ一緒にちょっと少し謎を解き たいですねといったままえこのコナに入っ てですねえそれ以降進んでませんけれども さてこの奈良さらしっていうのがどのよう に描かれてるのかというちょっと図をご覧
いただきたいと思いますえ皆様の元にあり ますのは大和名所ずの中のものでござい ますけれども全く同じ構図を取っています 構図は同じですけどもこれはあ実はですね 佐川のさしの絵でございますちょうど半 にじ付近にあったとされているさしですね であの皆さんあの奈良さらしということの さらしって何なのかということをまず持っ てえ疑問思われに思われると思うんです けどもえさらすというのはですね草を焼い て作ったキバですね灰にお湯を入れてで その中にこう生地を入れてですね1度煮る んですねえ煮た生地を叩きましてえそれを え綺麗な水で洗うそしてまた干すという ことをえ繰り返していくと非常に綺麗なま 漂白された布が出来上がるということなん ですねえその絵を この大和名所党があサシの図として描いて いるということになりますえサラスという 言葉ですけど私もあの奈良の出身でござい ますけど私の祖母などはですねえ漂白罪の ことをさらしさらしという風に言っており ましたけども実はこの漂白することを さらしというのがまおそらく金星え実は さしはもっと前からあるんですけどもえ 金星以降そういった言葉が伝てるんじゃ ないかなという風に思いますえちなみに ですねこのサシの図でございますけれども 現在のGoogleマップで上空から見て みますとこういうことになりますえ ちょうどこのピンが立っている赤いところ があ半屋地付近でここにサホ側が流れてい て左方側にサシがあったとされているわけ ですねそこからちょうど南東に向けて見た 絵が先ほどの絵でございますですから背景 にある山は東大寺あるいは春賀大社の背景 にある三笠山ということになりますこの絵 ですね向こうに背景にある図があそういう ことになりますまこういう図になっている ということなんですねえ大和名所ずに描か れてるというぐらいでございますからえ さしは金星においてはやはり名所の1つと して数えられるぐらいに1重要な え産業の1つだったということが見て取れ ますとそれでですね少しさらしに関わる 工程等についてえっとお見せしたいと思う んですけれどもえこれはま皆様のところに はございませんけれどもま皇帝自体はあの どだこだと細かいこと言う必要はないと 思うんですけれどもさしの工程が非常に 複雑になっておりますそしてえ右にご覧 いただいている 9枚の写真は現在つが村でやって いらっしゃるナサの絵でございます ちょうど真ん中の段のですねえ真ん中の列
と言ったらいんですけど一番下にえ糸の上 にですねあきがございますけれどもどうし てあきが置いてあるのかっていうことなん ですがえこれはあのちょうどいいおしに なってですね糸をこう抜き出す時に絡ま ないようなま生活の工夫だということが 言われていますま様々なかの工程がえある わけなんですねさて少し歴史的に振り返っ てみて江戸時代はどうだったのかという ことなんですけれどもえこれもですね別に 細かいことはまどうでも良くてですねえ 流れをご覧いただきたいと思うんですけど もえ慶長から海栄えそしてずっと完成から 爆発まで矢のごとく うんその長原市のま産業組織 を書いているわけですけどもこれは木村 先生の論文からの引用でございますけども え慶長開栄の時はですね非常に単純な さらし商人がいてサラシアがいてっていう 形でですね単純な構造になっていますえ それがですね繁栄遠方になってきてえ海子 だとかですねえオルとかえ様々な分業体制 が出来上がってまいりますそして原論から 教法に至ってまた複雑化していってえ爆発 までもま若干単純化されてる部分もござい ますけどもえ何が言いたいかと言いますと ですねえこういった図つまり分業体制の 複雑化ということを見ていきますと複雑な 分業体制が複雑さしているということはえ それだけ様々な多くの人がこの産業に 関わっいたっていうことの勝作ですからえ それだけ多くの人を産業が抱えてるという ことはえさしというのが一大産業であった ということの証しであるということになり ますえところがですねこの7もえ衰退して いくえこれも実はカチと同じ原理でござい ますけどもえカチの場合もですねえ もちろんあの爆発にはですね戦争が起こり ますけれども えこの太平のよにですね戦争がもう そもそもなくなりますから戦国からえそう しますと活時代がいらなくなってえカチの 技術は他のところに転用されていくという ことになりますえ奈良さしの場合も先ほど 申したようなえ一大産業でもあったにも 関わらずですね えそのうまく新しい環境の変化に適用でき なくたビジネス自体が適用できなかったと いうこととそれからあま重要なお得意さで あった武士自体が明人明治になってもう 招集してしまうということもあってですね え大きく衰退していくということになり ますさてもう1つご紹介しておきたいのが え茶会についてなんですねでお茶と言い ますとどうしてもえ我々は京都のお茶会の
ことを戦の理を始めとしてですね京都の ことをイメージしがちなんですが実はそれ よりも 奈良では茶会が催されていてえむしろ奈良 のま小家ですねあの詫びチとかですね小家 じゃわびチですねわびチについてはですね 奈良の方が古かったのじゃないかという ことが言われていますねで原村する最古の 茶会の記録がですねえ天文2年の東大寺 師匠防で行われたものであるということが 分かっておりますえ師匠っっていうのは ですねえ商務店のロベ行器ボダ仙なえこの 4人のことを 師匠と言ってますえロベっていうのは 東大寺のカ所でございますねそして行器は ご存知のように近鉄奈良駅のところに像が ございますようにまあ一大公共事業をやっ たま僧侶であるわけですねでロベスって いうのはちょうど東大臣にございます写真 に今出しておりますそれから大仙というの はですね奈良時代のトラ層でですね東大寺 の会用をするの同士を務めたとこのま商務 天皇はUにを呼ばずですけどもえ皆様ご 存知の小村員放物っていうのはえ商務天皇 と公明工合負債の財宝っていうか放物です ねえを中心にしてるもんですねまその4人 ということで師匠という風に言われており ますこの師匠防以外にも茶室がありまして 師匠本にはえお記録って呼ばれる茶室が あったようですえ東京に一されてえ消失し てしまいますけれどもええ死消防っていう もの自体が東大寺の立中つまり東大寺と いう大きい柄の中のえ寺院だったわけです けどそそこにえオ記録と呼ばれているえ 茶室がございましたでこの置記録を含めて え3つの茶室が大三家室あるいは南と3 家室と呼ばれてるものがございますえ発想 案と呼ばれてる現在のえ奈良国立博物館の 中庭にありますえ茶室とでこれは元々え 幸福寺の大上位にあった茶室ということの ようですそれからえっと幸福寺の次原のに あったものを東京の国立博物館に移築した 六総案というのがありますえ発送案は8つ の窓のいりえ六ソ案は6つの窓のいりと いうことですえこれと師匠防のえお記録を 含めて大和山家室と言われてるようです えさて皆様のところにも書きましたように うんと原村する最古の茶会機は松屋駅って 言われていますえ東大寺の手も近くに住ん でいましたえ主っていう風に読ませており ますけどえ塗り物ですねの松屋が3台に わって書きだえ茶会の記録というのが ござい えお茶のことをま調べる研究する人はです ね必ずこの松屋会期っというのを読まない
といけないえま超必須文献なわけなんです けどもえその中にこの師匠防の記録が出て まいりますえそしてこの茶会を催した中で ですね例えば次にお見せいたしますけれど もえヨの花火病部というのは非常に有名で ございますけどもえ吉野に花見に出かけた 図がございますけれどもこれあのえまもし 現物レプリカとご覧になったらよく目を 凝らして見ていただきたいと思うんです けども見越に乗せられた人物が描かれてい ますこれおそらく 秀吉であるという風に言われてますけども 秀吉がですねケラを連れてですねえ吉野に 参拝に行ってえ茶会を催したということな ですが実はこれはえ松屋会にも記載されて いるものでございますえそしてこの茶会を 燃すという時にですねえ先ほどの えっとカチ士とそれからえ奈良さしの職人 の関係性も出てまいりますおそらく茶会と いうものを通して奈良の文化人たちの サロンが出来上がっていたのではないかと いう風に考えられますえ既に申しました ように祝衛門は奈良の円盤権つまり巨人科 県を持っていましたしでそこでサラシとの 関係が出てまいりますそしてえサラシ職人 商人の中でえま非常に財を築いたえ清同性 という人物がですね え1670年代に現在も残っております遺 園という え庭園をきましたでその中に3周艇という え茶室がございますえ義木川の傍に3終艇 というのを作りましたえ現在皆さんもご覧 いただけるこういったものでございます けどもえ多分茶会というものを通してです ねえ当時の文化人まあるいは大名党がです ね証人が1つのサロンとしてうん楽しんだ じゃないかとそこでま産業を中心としたま 1つのサロンがあったのではないかという 風に考えられますましかしながらえ先ほど から申してるようにうんこれが衰退して いくということになりますまそこでえ次に ですねえ今日の2番目の内容でございます けども大仏復興と観光時代というところに 話を進めたいという風に思い ますえ1枚の図でえ示してみましたけれど も17世18ての大きな図でございます けどもえ1番ま冗談の部分がですね えカチ士の流れでございますえと440人 のカチ士を用したあ一大産業であった時代 からだんだんとカチ士の数が衰退してい まいりますえ160人になって70人に なってえ18席になりますと不足士が46 人ということになっていきますそしてえ 繰り返しですけども祝財満が奈良さしの イバ権を持ってえさし商人との関わりが
あるとえそしてサシの中段でございます けどピンクの部分ですねえ360人余りの さし商人がいたという時期そしてえマチ 元年には32万のえさらしを作って端物を 作っていたという時期がございますえ そしてえその曲線で描いている矢印で ございますけどもま今方年間あたりを1つ の再世としてえま社用産業になっていく わけですねえそしてえ下段の部分ですけど もお茶会の話等が載っておりますで このま磁場産業が衰退したのとにとって 変わられるのがえ観光産業だということに なりますけどもその1つの重要な ターニングポイントというのがえ原65年 の大仏会元供養そしてそれに続く大物の楽 法であろうという風に考えておりますえご 存知のように8世紀に東大寺の大仏電が 完成いたしますけれどもえ東大寺の歴史を ひいてみますと何度も焼き打ちにあったり とかしておりますえ1181年にはなんと 焼打で消失いたしますえ大大の茂平が焼打 をかけるわけですけどもえその後また12 世紀の終わり頃にですねえ復興してえラキ 放映をするわけですねえところがあ皆様の ところにもうん書きましたけどもえ16 世紀に入りますと今度はあえ松永久秀です ね松永男女の手によってえ東大寺大仏での 戦いで大仏電が消失しますまこの辺につい ては実は移設がありまして松田が男女自身 が焼いたのでないとかえいろんなことが あって本人は茶人であったのでうん茶の ものをですね手にあった室のものをえ すでに別に特に移してとかですねいろんな ことが言われていますけれどもまいずれし ましてもこの戦いの中で大仏壇が消失して しまいますえその後もえ仮の仏壇があ防風 で投壊したりとかいうことが起こってで 結果的にはですねいろんなま肝心つまりは ま現在風に言うとですねえクラウド ファンディングだとかですねファンド レイジングだとかっていう資金集めを通し てえ大仏の海原供養まで行きつくわけです ね原6の5年になりますねそしてえ法6年 の大仏年落包容ということになり ますでこの頃の記憶あの記録によりますと ですねえこの大仏の海原供用だとか大仏の 楽matter包容を1目見たいと各地 からえ観光客が来てですねえっと現在の 若草山の頂上のところまでですねえ長打の 列ができたなどという記述も一部あります でこの辺りから当時の 奈良町宿包容あるいは大仏会 以降ま17世紀18世紀頭ぐらいになると 明らかに町の産業の中でですねえさらしだ とかそういったものから観光業つまり宿泊
業にその うんま あ産業を変えていく稼業を変えていく件数 が増えていくということが分かっています えつまりここが1つの奈良のターニング ポイント観光業へのターニングポイント だったと見てまず間違いないという風に 思いますえこういった金星の奈良の観光の 中で出てくる言葉がですねま明確にいつ出 てきたかよくわからないんですけれどもえ 大仏商法っていうことがございますねえ 大仏商法ですねえま文献等紐解きますと おそらく金星にはうんそれほど悪い言葉で は使っていたようではないですえ奈良のま 大和の商人がですね非常に痕たくましくえ その詳細があったというようなことをま 褒めるような言葉として大仏商法という 言葉が使われていたようなんですけどもえ 時代が下ってきますともう近代以降になっ てきますとですね明らかに奈良の商人と いうのはですねえ大仏電に訪れるお客さん を目当てにしてえ全く消極的で自分から 仕掛けることもなくえただ町の姿勢で商売 をしてるというまそういったえネガティブ な意味で大物商法ということが使われる ようになりましたでこの言葉をですね1つ シンボリックな象徴的な意味として捉える 必要があると思うんですけれどもえこの 金星のこのターニングポイント以降近現代 の我々に至るまでえ奈良の観光は何をやっ てきたんだろうかっていうことを考える1 つ重要な手がかりになるんじゃないかと いう風に私は考えていますのでえこれに つきましてまた後ほどえ触れたいと思い さて観光時代っということをま近世全般で ひどい文脈の中で考えていきますとと木版 印刷技術の発達とガイドブックの登場と いうことについて触れざるを得ませんえ どういうことかと言いますと皆様よくご 存知のジペ社区の東海道中日という作品が ございますけれどもえご覧のような江戸 からですね京都までの道のりが矢さん北 さんの新道中として描かれているわけです ねでその新道中が描かれている木板がある わけですねでこの木版があったおかげでま 多量のま班がすられてそしてそれが一種の ガイドブックのようにして当時の人々にえ 重要されたんだろうということなんです けどもこのことが実はメディア論的に考え た時非常に重要な要素を持ってるという風 に考えられますえここの冗談の写し絵に ございますように色々なヤシ北さんの道地 と共にえ様々な宿場の様子が描かれること によってえこの東海道省膝自身がですね1 つのガイドブックの機能を果たしたという
ことが言えると思いますえ時代はあの前後 しますけれどもえその東海長日が出る少し 前の18世紀のもう後半終わりぐらいには ですね様々な名所図とえ目打ったッが多く 出版されることになりますえ皆様の資料に も書きました者と離島の宮名所ずだとか 大和名所杖斎藤月心の江戸名所ずえなどが その1つですけれどもでえま少し打SAM ながら木板刷技術について触れておきたい と思いますけれど もえこういったものですねえ木板にま言っ てみれば彫刻島で掘ったもにま色を重ねて いくそれが皆さんよくご存知の浮になって いくわけですねそれをま和地にしたものが こういう本になっていくということでただ このハギというのがなかなか現在残り づらいんですねえ例えば桜のようなあ非常 にいいハギを使ってるものというのは えー再利用されたりとか竹木に使われたり とかあるいは白あり被害にあったりして なかなか減損しないものがありますでこう いったものが日本のまメディア市という ことで考えた時非常に重要になってきます ねえ少し横道に逸れますけどもえっと 例えばジャポニズムですね日本趣味という ものがフランスでえ登場しますこれは合法 をはめとして様々なえ人がですねえ西洋 海外の中に日本的なものを取り入れて書く ことになりますけどもえその源がどこに あったのかというとこの浮ですよねでえ これはま直接だと言われてるって諸説ある んですけども例えばあ日本の焼き物が 例えば有田焼き等がですねえヨーロッパの 前線だとかの受注を受けてですね焼き物を え海外に輸出することになりますその際に ラッピングペーパーとして使われたのがあ 浮だという説もありますけどもどう もそうでなくってですねこの今ご覧いたい てる右側にある和の本がですねちょうどえ 当期 をま輸送する時のお干渉剤としてこの本を 何冊かこうえ重ねて入れると座りが良かっ たということではないかという説もあり ますけどもま一般にリフしているのはこの え当期を包んでいた神があ浮でえそれを見 たえっとヨーロッパの人々がですねこれは なんだということでえそれがジャポニズム に展開していくんだというお話がござい ますまいずれしましてもえこの目配印刷 技術というあるいは多色釣りですね えがあってそれから目配印刷によってえ 大量の印刷をすることができるようになっ たということがま観光にとっても非常に 重要な要素であったという風に考えても 間違いありませんでえ先ほど申しました
秋里党のの都名所図というようなものも ございますそれからえこのこれ以外にも 先ほど申した斎藤月心の江戸名所ズなどは ですねえ2年間にかけて7巻20冊発行し ているタイムに渡るものでございますねま ガイドブックの非常にあのえなんて言うん ですか走りの中でも有名なものでした そしてこれが皆様のお手元にもございます 大和名所ずのさの大図でございますそれ から うんこういった和州ならの図というのも ございますねえ少し時代は下がってまいり ますけどもえこういったものもま ガイドブックの延長戦上として現在でいう ところのガイドマップとしてえ重要な役割 を果たすことになりますえそれからえ次に ですねその奈良の観光地ということにおい てえ南と発見というものが再発見されたと いうことをお話をしたいと思いますえ皆様 のお手元でありますように室町試合の飲料 権日録というところに初見初めてそれが 登場いたします飲料権日録って難しい名前 でございますけれどもえ室町時代に京都の 相国寺のえ中にですねある寺院でその飲料 研修っていうのがですね3台にわたって 記録したえっと用記録雇用日記ですね日記 の中に登場するんですけどもえ1456年 にこれも難しい時で皆様のとこにはえっと 書かなかったかと思いますけども義兄神髄 という人がですねえ足吉正に追行して春賀 大社に産経した際にこの南と発見というの が出てまいります今ご覧いただいている ような8つの風景でございますえ東大寺の 金え春の鹿南円堂の富士 え猿の月佐川のホタえ久坂の雨轟木はの 旅人三笠山の雪ということなんですけども え佐川のホタルが現在見られるかどうかは 分かりませんけれどもそれから久坂の雨と いうのもわずかに石碑が残っているある だけでま久坂に雨が降る様子が素晴らしい 趣きがあるということそれからトバの旅人 の絵がまあ1つのいい風景として描かれて いるというのがナト八景ということなん ですねえ室町以外南と八景というものが すでに文献の中に登場しているにも関わら ずえ長らくそのことが忘れられていました もちろんえ日記の中に登場したものです から一般にルフしていたとはどうも考え られないわけですけどもえそれが江戸時代 になってですねえ先ほど申している名所ず えガイドブックの登場えこれによってえ再 発見されることになりますえそしてえま なんと発見というま趣きがあるようなもの があなたに再発見されていくということに なりますまこれもえ言ってみればあ奈良の
観光事代に突入してガイドブックが出てき たということとま無縁ではないだろうと いう風に考えることができますはいえ次に ですね廃物希釈とならということについて お話をしたいと思いますえまず廃物希釈と いう言葉を考える際にですねえ新物分離例 新物全例について考えておく必要がござい ますえこれは何かというと慶4年にから 明治元年にかけて出されたえ一連の布告と か通達類による宗教政策ということで ございますこれについてご理解いただく ためににはまご存知の方も多いかと思い ますけれども少し近代のですねえ国家感 みたいなものについて触れざる得ませんえ この通達の内容というのは仏教的なものと 浸透的なものを明確に分けなさいというの が基本的な姿勢でございますでそれ以前は どうだったかと言いますとえ新物集合と いうことまがございますけどもえ分かり やすい例でいきますとお寺の中に鳥居が あってえ神社祠がある逆に神社の中にお寺 があってというようなことですねこれ日本 人は何とも思わないわけですよねでしかも ま宗教学的あるいは宗教師的に言うとえ 仏教が新党をうまく利用して信者を 集めようとした時期もございますし逆に 新党が仏教をうまく使ってえま信者さん 集めようとした時期もございますですから 相互に持ちもたれのの形を取ってきたし 一般の人々にとってはえ仏さんと神様が似 たようなものであってどちらがどうか なんていうことを分別する明確に区別する ことはあまりえ民衆の感覚からしては そんなことはなかったんだろうということ になりますねですから現在我々もですねえ 外国の観光客からですね えっとどうしてお寺に鳥があるんですかと か逆に神社の中にどうしてお寺があるん ですかなどと聞かれてもえ日本人は なかなか理解そのうまく説明できないなる ということもございますでそのようにま 応用なというかえ非常に柔軟な宗教的な 姿勢を日本人は伝統的に持ってきたわけ ですよねえところが明治になって何が 起こったかというとえ天皇を1番の頂点と してえ国家を作っていこうという天皇的な 国家官ですね天皇国家官っていうのを構築 しようと思ったわけですつまり近代国家を 作る際にはうん天皇を頂点としてえまその ピラミッドを作っていこうと考えたわけ ですねえその際に日本の政府がえ1つのま 道具建てとして考えたのがえどっちに国家 新党って呼ばれている新党のあり方です つまり え新党の頂点ま言ってみれば新色え神主
さんの1番頂点にいるのがえ天皇陛下で あられてえその下にえ新党というものが あってですねえ日本は神の国であってえ 新党を中心とした国家作ろうとえ天皇自体 をですね神として崇めよというようなこと があ近代的な国家官として無理やり作ら れるわけですねでその文脈の中でですね今 までごっちゃにされていた浸透的なものと 仏教的なものをとりあえず分けようとする わけですねこれはあの神様仏様の名前の中 でも浸透的な要素と仏教的な要素を変えて いこう建物の上でもそうしようということ がえ一連の政策でそれがま新物分離で神物 犯罪でという風に言われるわけですね ところが厄介なことはですね えその政策をま曲解した人々が出てくる わけですねえま神のものそれから仏のもの を分けてということが本質だったものが ですねいや物に関するものはいかんのだと 言ってえ仏教的な施設を壊そうといういう 人が出てくるわけですねこれは実はあ地域 自治体によってもかなりノタがございます 非常に過激に行われた地域もあればそれ ほど問題なかった地域もありますえならも 例に漏れずえ人員が後輩していくわけです ねでその新物無理でを拡大解釈した廃物 希釈という言葉でございますけどもま仏を 配して釈迦の教えを壊すというところから 来ているわけですねでこの結果え仏教施設 があ破壊されて人員が後輩していくという ことになりますえそして仏像だとか放物等 が海外に流出していくことになりますよく あのえっと海外のコレクターあるいは海外 の博物館がですね日本の国報級のものを よく所蔵しているっていうのがありますね であれはもちろん えっとコレクターがですね買っていっ たっていうこともございますけれどもえ この明治のこの新物分離で以降ですね えま後輩した寺院から持ち出されたものが 海外にかなり流出しているということが 言えるわけですまそういった意味では後に お話します文化財の保護という観点からし てもですねえこの廃物希釈っていう動きま これは民衆それからえ自治体療法の総合 作用の中から生まれたんでしょうけどもえ これがまいかに日本の文化財にとって悲劇 的なことだったのかということが分かる わけですで奈良の中でもですねえ非常に 大きな被害を受けたというところもいくつ かございますえま例えばあの幸福寺の五十 の党がえっと2速3門で売却されるという 噂が流れたと結局はあの売却されません でしたがっていうようなことも当時出て まいりましたで後輩された中でですねえ
幸福寺のま経済に当たるところの現在の 奈良公園などがですね人々の手によって 守られて現在の奈良公園にまで発達して いくわけですけどもまそれについては今日 のえ話題ではございませんので割愛いたし ますけれどもえそれでですねま極った例と してえ天理市にあったと言われてます内山 野球時の例を上げたいと思います永久2年 に見されたとされますけどもえ幸福寺大事 員の松で磯上神宮の神宮寺ということなん ですけどこの神宮寺っていうのは先ほど 申したえ神社の中にお寺があるということ なんですねつまりそれぞれが相互に守り あっているという形ですね例えばですねえ 春大社と幸福寺の関係をご覧いただければ と思いますけどもいずれも藤原市に関係し ていますねでえ春賀大社を幸福寺が守ると いう形になっていますけどもそそのような 関係のものと考えいただければいいと思い ますで西の日光とも呼ばれた非常に壮大な ガラを持っていたえ寺院でございますけど もこれも実は廃物帰着で破壊されて放物も 国内外に留出したとされていますえまこう いうことになるわけですよねえそれでです ねうんとこれも非常に残念な例でで廃除 って呼ばれてるものがですねま自然に駆た ものもも当然あるんですけどもえ破壊され たというようなものも奈良の各地にござい ます非常に残念な例でございますけどもえ そこでですね文化税保護の動きについてえ 一言触れておきたいと思いますえこのよう なあま明治に入って廃物希釈によって後輩 していた寺院というのがえ日本各地にえ あられるわけですけどもえっとそれに対し てですねま保護というかですね熱い視線を ま向けた人がいましたそれがまアーネスト フェノロサでありますけどもえフェノロサ ていうのはあま雇い外国人とよく言われる 歴史の教科書にも出てまいりますけどもえ その1人なんですけれども えま東京帝国大学現在東京大学でま様々な 学問ま現在考えられないんですけども実は 明治の学問っというのは別にあのボーダー 教会性がなくてですねえ経済学を教えてる 人がえ哲学を教えたり心理学を教えた りっていうことは平気であったわけでえ フェノンさも例に漏れず様々な学問を東京 帝国大学でえ教えておりましたで岡倉天使 も重要なビリの人物でございますけどもで まフェノロサの研究によるとですねあの フェノロサ自身はそんなあの奈良の仏に 当初期待を持っていたわけではどうも なかったようなんですけどもえま明治11 年に来日してですねえ奈良にま行くことが あってですねえ放流寺当初大臣薬事などの
仏像にま痛く感動するわけですねでえその 後明治21年にですね1888年にえ 常教寺という奈良のお寺ですね え奈良の職に継ぐという有名な講演を いたしますでこの講演の意味なんですけど も奈良県民にとって非常に重要な意味を 持ったと思ってるでもちろん当時の奈良 県民がそのようなこと意識してたかどうか 別なんですけどもま一種の歴史今思想的と 言うと言いすぎですけども重要なものだっ たと思いますえ1888年6月5日です けども500人余りを集めた公園で岡倉 天心が あ通訳を務めましたでそのちょっと背景を 申しておきますと実は1900あ1876 年にえこの現在の奈良県はえ大阪の堺県に 一時編入された時期がありますそしてえ 1881年には大阪府に合併して合併され て大阪府の大和地域という1地域に過ぎ ないつまり大阪府の1地域に過ぎないと いうことが一時期あったんですねでこれ あの古代まで遡れば分かることでもあるん ですけど実はこの大和の平屋の中心をです ねえっと大阪湾からあずっとこううんと海 ま大阪湾に流れつく大和川だとか非常にま 当時は幅の広かった川が流れたってこと ますからえ大阪と奈良の関係っていうのは 非常に深かったと思われるんですけども この近代に至ってもですね大阪に奈良が 編入されて奈良というアイデンティティが なかった時代がしばらくありますえところ が1887年つまりこの公演の前年にです ねえ最初淳という知事がですねえ第2次の まあ奈良県初代知事としてえ就任してです ですね彼がフェノロサを消するわけですね でここでま奈良県が再びま復活することに なりますでえまフェノロサにえま託した 思いというのは奈良県がですねまま長らく その大阪に編入されてきてこれだけえ日本 で1番古い都であったにも関わらず大阪に 編入されてきたということでえその本来の アイデンティティをですね失っているとそ ここで奈良県民を古部するような講演をし てほしいということでノルサに白の矢が 立ったわけなんですねで彼がフェロンサが 何を言ったのかということなんですけども えこの簡単に言うと奈良のこの奈良にある いろんな文化財というのは奈良の宝でだけ ではなく日本の宝であるともっと言えば 世界の宝であるとでそれを守るのが日本 県民のあ奈良県民の義務であるということ をま彼は言うわけですねでそこでま奈良 県民のアイデンティティをまコブしようと 思ったわけですでさらにはえ日本における 奈良はイタリアのローマに匹敵するんだと
いうことを言うわけですねでこれはですね えっと法竜寺を初めとしたえ仏像を フェルノサが見た時にですねその仏祖の 顔立ちがえヨーロッパの古代の その彫刻に もま見するものだということとしてま感動 したわけなんですねでもちろんあの法寺で 実はえ今日は詳しく申しませんけどもえ 長らく この被物とされていた仏をのまとばりを 開いて見た時の感動っていうのがまペネ さんにとって非常に大きかったことのよう なんですけどもまこういう風にしてえ実は 後輩したあ廃物希釈で後輩した奈良にまあ 一条の光が刺すことになりますえつまり 奈良の文化財をえ大事にしなきゃいけない とでこれは実は奈良のことだけじゃなくっ てえフェノロサや岡倉天心の動きもあり ましてえ文化 財の保護ということが叫ばれるようになり ますえっと皆様あのレジュメにも書きまし たけどもえっとこれ先って実は明治の5年 1872年にえ人身検査っていうものが 行われていますこれは何かと言うと東京の えっと湯島聖堂でえ文部省がですね博覧会 を開くということがあってその時に出品 する日本の宝物をま選定するためにえま 日本各地をの宝物を調査させたわけですね でその時にこの人身検査って呼ばれるもの でえ小院本物を調査したわけですでその時 にはあ後ほど 出てまいりますけど横山松三郎なんていう 人がですね写真家としてえ同行するわけ ですけどもそういったものがま全段階とし てあってで文化財に対する目も少しこう 開けてくるわけですねそこでフェノロサが え日本の文化財っていうものを非常に大事 にしなきゃいけないということなんですね それともう1つ重要なポイントはですね あの仏像っていうものの位置付けが変わっ てくるんですフェノロサ以降ね え仏像は拝む対象進行の対象であることは 言うまでもないんですけどもペルノ以降 美術としての位置付けがえ高まってくる ことになりますえこれあの例えば博物館業 界でも面白いエピソードが色々あるんです けどもあの仏像をですね展示している博物 館資料館に行きますとま地方に行くとです ねえ仏像の前にお賽銭を置いていく人がい たりするんですねでこれを認めている美術 館博物館とお断りしているところがあり ますでまこれはそれぞれの立場なんです けどもじゃいつから仏像というのが美術 つまり え楽しむ干渉するものに変わったのかと
いうとやはりこの明治のこの辺りが重要な タイニングポイントであったんだろうと いう風に考えることができますまそういっ た意味でもこの仏像という歴史を考える時 にもこのフェノロサ岡倉天使の え奈良訪問あるいはその奈良での講演と いうのは重要な意味を持ったんじゃないか という風に考えることができますさてあと 今日のお話の中での残っているのは2つの トピックでございますけれどもまずですね 孤児巡礼とならということについてお話し をしたいと思います先ほどからずっと申し てますようにその後輩した奈良の寺院をま 文化財を救うという意味でフェノロサと 岡倉天神の働きがあってそしてまた今度は 対象以降になってきますと奈良の孤児と そしてそこに祀られている仏の素晴らしさ をえ宣伝するメディアとしてま古事巡礼と いう本が登場することになり ます えワ哲郎という哲学者がですね古巡礼を 観光したのが1919年 ですえこれは大正7年の5月に奈良建物を した時の印象期なんですけども奈良の孤児 巡礼についてまとまったものとしては最初 という風にされてい ますこのワ哲郎という人はですね え東京帝国大学の席の正しという建築士 建築学の教授に学んだわけですけども仏 学んだんですけどもこの関の正しという人 もですね実はえ奈良県にとっては非常に 重要なんですねえっと関の太し自身はあの タのキゴという人に習うんですけどこの人 また奈良にとって重要な人物なんですけど 建築家ですけどもえ関のたしは1889年 に平常今のあのえっと最大寺新の間にあり ます平常宮跡を発見するんですねえ発見 すると言っても実は彼自身が発見したと いうよりかはどうもこの辺りに平常教の跡 があるということは以前よりま知られてい たわけなんですけども1番中心になる辺り をですね関の大使がこの辺りだということ で発見することになりますえそれ以降え柳 とかいろんな人が出てきてですねそれを 保護すると動きになっていきますけども 現在あの近鉄で分断されてるところをです ねえ移設してですねこの平常級の後を綺麗 にこう一期痛感でですねまとまった形に しようというようなあご計画を持ちのよう なんですけれども実はあの近鉄があそこに つきましたのもいろんな経緯があるような んですけどもえ当時ま最初にもう不折が 決まっていたということもあるようです けどもえどうも平常教の平常9ですね都の 跡がですねそれほど大きくないと当時は
思われたでなんですけども実はうんそれが かなりもっと南方まで行ってたということ が後になって分かってくるわけですねで 結果的にはそのうんとま都の後ですねまえ 球場の後の中心をえ近鉄が遮るということ になっていますえまよく最近あのSNS等 でですね あの読むのが非常に難しい感じ地名のが出 てきたりなんかしますけども今日の終わり って書いて京って呼びますね京和というの はまさに奈良の都の果てなんですよねで そういう風に考えるとえー非常に広い範囲 でえこの今日のあな奈良の都があった兵長 の都があったということが分かりますさて え古事巡礼に戻りますとこの孤児巡礼あ それからもう1つその関のたしですけども 関のたしっていうのはえ奈良の建築で重要 だということを申しましたけどもえ現在 奈良国立博物館のえ隣ですかね仏像美術 資料研究センターっていうのはございます けども えこの建物を設計した人ですでこの建物 自身は えっと平土院の法道に非常によく似た建物 なんですけどもえそれというのも大学時代 の卒業論文でえ宇平土院 のその 報道について彼関のたしが書いております のでそういったところとも関係があって現 あのえっと旧奈良県物産陳列所が現在のえ 仏教美術資料研究センターになっているん ですけどもえ最近はですねあのよくあの アニメの聖地巡礼ってのが若若者の間で 流行ってますけどもえっとガールズア パンツというアニメのですね聖地純礼の お場所の1つにもこのえ国立博物館のです ね横の研究センターがなっているようなん ですけどもねはいえ打席は抜きにしまして それでうんとこういう古事巡礼って今その 岩波文庫だとかえシ学芸文庫でお読みに なることができますので是非ご覧いただく と同時にえ現在の姿とどう違うのかって いうことも退避してみると非常に面白いと 思われ ますさてそれからえっとこのえわの孤児 巡礼にですね影響を受けた著書がですね あの多く観光されます亀克一郎の大和小 風物とか土門県ま写真家ですけども孤児 巡礼それから白正子のえ私の孤児巡礼など がそうなんですいずれもそのえま和辻の 古事順で に非常に影響を受けたということですね それからこの1番下に書きましたけれども え出世を出生を控えたですねごめんなさい あの誤字ですね出世を控えた若者たちが
孤児順を携えて奈良旅行したとえ言われて います えーま先日中のことに思いをはせて いただければと思いますけれど も出世すればですね間違いなく死ぬと死ぬ ことを 前提に出するわけですからえ彼らがですね その国の宝である奈良の孤児そしてそこに 祀られている仏像をですね一目見て え死を迎えたいと思ったわけですねそう いった時にわの孤児巡礼というのが非常に 重要なガイドブックとしての役割を果たす と果たしたという風に言われております はいえさてのようにですねうんと孤児巡礼 があってそれからえ奈良の孤児に対する 注目が集まってきてえそしてそれを受けた いろんな人々の個人巡礼まここでは3名の 孤児巡礼に関わる本を出しましたけれども これ以外にもいっぱい出ていますでこう いったものが出てくるわけですねそして 最後のテーマでございますけれどもえ物上 写進化とならということについてのお話 ですこれはですね仏道写真家というのは ですね仏道写真を主な仕事とした写真家の 登場ということなんですけどもえ皆様の ところにも書きました久藤三郎とか小川 西洋だとかえ長野多蔵だとかいう人がです ねま他にも入れた基地佐山業界井上白道 少し時代がれますけれどもうんこういった 方々もおられますけども仏道写真化という 時にですね非常に重要なポイントはえらが それぞれ写真館ま現在で言うとですねうん フォトスタジオを持っていたということな んですねつまりえっと写真化をなりわいと しつつもえ仏道写真を取ってそれをえ仏道 の絵書きとして販売したということが仏道 写真化というものの登場だということ ですでここに書きましたように工藤はえ 工藤生下炎え小川はえ春日園そして長野多 は6瞑想というそれぞれの写真館を営んで おりましたでここで考えておかなければ いけないことの1つはですね実は江はきと いうもののメディアの重要性なんですね えっと目配印刷とそのガイドブックのとこ でもお話しましたけどもメディア論として 見た時にですねそのそういった東海道り 始めとしてそのガイドブックが出てそれが 大量に印刷されるというえことがですね うんと観光に及ぼした影響まそのメディア の意味ということについてお話ししました けどもここでも重要なのはエガなんですね えっとエガの研究者は あま何人かいらっしゃいますけども絵書き の研究を見てみますとですね様々な絵書き が
えま保存されて現在まで伝わっております けども例えば先中から中にかけてはですね え国民の船員を雇用させるようなそういっ た書きが多くすられていますで書きの意味 っていうこと考えるとですね現在でいくと SNSのInstagramの おま当時の姿だという風に考えて いただければいいと思いますえ インターネットがなかった時代においては えいながらにしこうここにいながらにして ですねうん世界中の情報をえ映像を知 るっていうことができませんのでえその せめてもいろんな地域の情報を知るという 重要なメディアっていうのは手がきだった わけですねでそのお土産物として現地に いった人が江はきを買い求めてえ現地から 知り合いに手紙を送るそしてその手紙を 受け取った方がその江はきを見てまた行き たいなと思うということですねえまた 土産物だけではなくてですねそういったき を1つのメディアとしてうん ま あの観光というものが盛り上がっていくと いうことになりますはいえまそういった メディアとして考えていただくと非常に重 ですねえっと例えばですねちょっとよ見れ ますけどもあの日本の有名なえ民族学者の 1人に柳木男という人がいますけど柳木と いう人はですねもちろん日本国上を フィールドワーク調査したわけですけども もう1つはですねまあの官僚としてですね うんうんと中央から東京にいてえ各地の 弟子たちにですねえ通信をらしたわけです ねお前のところの珍しいえ行事はないかと いうことをえはがき屋そしてえ手紙にしめ てですね送ってこいというわけですね つまりえ官僚として中央でま各地にいる 弟子たちをうまく操作してえその民族資料 のデータベースを作っていったわけですね えっと彼がですねインターネットの時代に 生きていたら何をしたかというようなこと もえつい想像したくなりますけどもその時 に重要な役果したのもやっぱり江はきなん ですねでま江はきに現地の状況を示すと ともに様々な民族資料に関する事柄をま 中央の柳北に送っていったとまそれが日本 民族学の騎士を作ったということにも 繋がっていくわけなんですけどもさてえ 最後のスライドになりますけどもまもう1 枚前ですかえっと写真から長野多蔵につい ても少し触れておきたいと思いますこれは まあのある意味手大学のこの博物館の宣伝 にもえ繋がっていくんですけどもえ90年 亡くなられた長野太三さんていう方が いらっしゃいますけどもえこの写真の下に
ありますのがガラスのえケースに入ってる のがガラスカパですでえ下の段の右側にっ っていうのがまさにその現物なんですけど もえガラスカンパンていうのは何かと言い ますとですねうん現在のようにデジタル化 されたものでいきますと例えば iPhoneだとかえスマホで撮ったもの はそのままデジタル情報として保存され ますけどもえその前はフィルムだったわけ ですねでフィルムの前と言いますかま同時 平行なんですけどもえーフィルムに 焼きつけるのではなくってえっとガラスに 焼きつけてそれをそっから現像していくっ ていうタイプの うんま写真の撮り方があったわけですね そのガラスカパを何千枚とまえ長野田蔵 さんが保存しておられたんですねえその うちの確か7000枚だったと思います けれども手塚山大学に気いただきましてえ 手塚山大学があ所蔵しておりますでずっと ですねその手塚山大学でそのうん中野田 さんのえガラスカパの分析を進めているん ですけどもえそこにどういう資料的な価値 があるかと言いますと実はですねえこの 長野田さんが取った時の奈良の寺院それ から仏像と現在のものがかなり変わってる ものがあったりとかえ逆に消失してしまっ たりものしたものがあったりしますしそれ から仏道の場合も修復したりすることが ありますねえそうしますと前の姿と現在の 姿がどう違ったのかということを区別する ま重要な資料としてもこの長野田さんのえ ガラスカパというのは非常に重要な意味を 持ってるわけですえ冗談の絵に書きました ように写真で巡るなら大和山代のシジ彫刻 というような展示もえ本博物館でえやり ましたしそれからえ長野多蔵店というのも 巡回で東京の方にも参りましたまこういた こともやっておりますので引き続きまあ 宣伝ですけども博物館のうん活動にご注目 いただければという風に思いますけれども さてえ最後でございます今日のままとめ みたいなことなんですけどもねえっと本日 はですねま5つのテーマにはわってお話を いたしましたえ特に観光時代の到来という ことにフォーカスを当てますとこの江戸 時代のえっと大仏の会元供養とそれから 大仏での楽家包容というのが非常に重要な 役果たしたということをお話しましたで そのことを理解するためにはえ観光次代の 前子を理解する必要があるということでえ カチと奈良さしと茶会という3大話を いたしましたえつまりはえジバ産業が1大 自産業があったにも関わらずですねそれが 時代の変化と共に衰退していってえその中
でえま大仏会見供用大仏落球法を迎える ことによってえま時代ジバ産業の衰退と 観光地雷という入れ替わりが起こったので あるとえそしてえ奈良の町もえ観光産業に どんどんシフトしていくということになり ますところがえ明治になってですねえっと 新物分離例をま拡大解釈した廃物希釈の 運動が起こってならも例外なくその被害を 受けてですねえ重要な文化財が破壊されて いった えしかしフェノロサとか岡倉天神がえ 改めてその奈良の文化財の素晴らしさに 着目することによってえま奈良を中心とし てえ文化財の素晴らしさを全国に広める ことができたえそして対象とこう時代を 食らってまいりますとワジの孤児巡礼に よってえまた奈良の孤児というものが注目 されるようになってえさらにはその戦地に 赴く若者たちがですねえ死ぬ前に一目日本 の宝である奈良の孤児を見たいということ で孤児巡礼を携えてえ奈良を旅行したとえ さらにその孤児巡礼の本に刺激されてです ね多くの作家たちがあるいは写真家たちが 孤児巡礼というようなルイの本を出すこと によってこれがさらに奈良の孤児の 素晴らしさを ま宣伝することになったえさらに時代が 下がってくると今度は仏像写真化という ものが登場してくるとで仏道写真家はええ 写真館を営みつつも仏道写真を取ってそれ を書きにますってえそれがま現在でいう Instagramのような役割をしてえ 各地にま宣伝効果を持ったというようなま そういったお話をしてまいりましたで今日 はですねま17世紀の頭から20世紀の 頭のですね300年間を圧縮してお話を いたしましたけどもえ 是非ま本博物館で今企画展示をしており ますものをご覧いただきたいなと思うのは え実はこの後の話につがっていくんですね 駒三条遊園地ができてそしてアの遊園地が できてということなんですがえその前に実 は うんま明治に明治まで少し遡ってあと本当 に数分で話を終わりますけど近代以降鉄道 の発達によってですね えっと 観光がま鉄道鉄道と観光っていうのは重要 なま役割を果たすわけですねで明治30年 代からえ修学旅行が鉄道を利用するように なりますで修学旅行自体が実は途中でお 話ししましたえ天皇国家間と非常に関係が ありますねえどうして修学旅行行くのかと 言うとですねただ遊びに行くわけではない んですね実は伊勢神宮に行ったりとかです
ね明治神宮に行ったりするわけですよね これは何かっていうと天皇家ゆのところに え生徒たちを赴かせるっていうことが非常 に重要な要素だったわけですねそしてえ 奈良に関係していくと大正3年にえ大阪 電気機動現在の近鉄ですねが最初の路線が 上本町と奈奈良に開通してイコマも開通 いたしますでこのこととえ駒三条遊園地の 発展とはままた関わりが出てくるわけです ねえ大7年にはえケーブルカーができてえ 鳥とその法山寺の間に開通しますで駒三条 遊園地がえ開業しますねで えっとこのようにして大阪と奈良の間 のこする名が非常に良くなりますで今日ま から紐解いてお話しましたけどもえ現在 からこの未来の奈良の観光を考える時に このことも重要だと思うのは鉄道ができた ことは非常にいいことであるんですけども もうこの鉄道は開通した以降ですね慣れが どうなっていったかというと大阪のベド タウンに変化していくわけですね皆さん よくご存知の奈良不眠なんて呼ばれる人々 がどんどん増えていくわけですねでこの 鉄道によって便利になったんだけども奈良 から流出していく人も多くなっていくと でこのことは奈良の観光を考える時に非常 に重要だということを思いますそして えっと鉄道もの発達っていうのはえ奈良に とってもそのま特に中南部重要なことなん ですけどあまり北部にとってはですね あまり注目されないんですけども中南部を 見ていきますと南海電鉄それから国鉄近鉄 東京は当時はまあのえ大気大阪電気機動 って言いましたけどもえこれとのま路線 争いがですね あのま中南部の路線の複雑さを反映してる わけですねまこれについてはまたベッドえ また考える必要があると思うんですけども ま大体時間が参りましたけども今日のお話 はですねえま奈良の観光事代の前子という ものからま特に金星から紐解いていくこと によって今後どう奈良の観光を考えていく のかということの1つのま手がかりして いただきたいなということでえ雑ながらお 話をいたしましたま大体これであのお時間 になったかと思いますのでえここれで 終わりにしたいと思いますえ皆様ご清聴 どうもありがとうございまし たえ祝先生ありがとうございましたえ祝 先生にはえ観光の前子からお話しいただき ましてえ大仏会をえ景ととしまして観光が 始まりえ各時代ごとに様々なえ観光が 栄えるポイントがあったということそして それによって現在の奈良の観光があると いうことをお話しいただきました
え次回のえ市民大学講座は2月4日土曜日 でえ奈良県柏原高古学研究所調査家のえ 総括研究員の山田高さんによりますえ都市 と山越の万葉考古学というタイトルでご 講演い えそれではえ488回市民大学講座を終了 したいと思いますありがとうございまし た
演題:「奈良観光時代の幕開け:大仏開眼供養から仏像写真家の誕生まで」
講師:岩井 洋 氏
(帝塚山大学全学教育開発センター教授)
収録日:2023年2月14日 帝塚山大学 東生駒キャンパ
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帝塚山大学考古学研究所
ホームページ
http://www.tezukayama-u.ac.jp/social/institute/arch
#講演会 #歴史学
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【おすすめ動画】
*bunkachannel
・解説!「発掘された日本列島2020」vol.1 新発見考古速報【文化庁】
https://www.youtube.com/watch?v=Kt2PYNUKJoc&list=PL_ndIdJX38cCpje2L8FCXHDYSP7ADriwy
・解説!「発掘された日本列島2020」vol.2 特集1 日本の自然が育んだ多様な地域文化【文化庁】
https://www.youtube.com/watch?v=LS05wUb9jPw&list=PL_ndIdJX38cCpje2L8FCXHDYSP7ADriwy&index=2
*橿原市公式チャンネル「カシイロ」
・藤原京プロモーションビデオ(日本語)
https://www.youtube.com/watch?v=c6FUmmes2_c&t=16s
*京都国立博物館トラりん
・【京博 トラりん公式】「トラりんチャンネル展覧会14」特別展「聖地をたずねて」を見に行くリン♪
https://www.youtube.com/watch?v=hAJj9ssCiro
*役場明日香村
・飛鳥宮 ~国のはじまり~ 《明日香村》
https://www.youtube.com/watch?v=mE0Oi_NBXnA
*斑鳩町観光協会法隆寺iセンター
・ウォーナー塔【ウマヤドくんの教えたるで斑鳩】
https://www.youtube.com/watch?v=uyDjEhniFIU
*TokyoNationalMuseum
・【オンラインギャラリーツアー】猪熊研究員が語る、特集「朝鮮王朝の宮廷文化」
https://www.youtube.com/watch?v=oMjZBP-etXM&list=PLneMG2nfDCsGPw6ZzItudpwY5se3gFOE3&index=6
・【オンラインギャラリーツアー】沖松研究員が語る、仏涅槃図の世界
https://www.youtube.com/watch?v=NihjbDrsBho&list=PLneMG2nfDCsGPw6ZzItudpwY5se3gFOE3&index=5
*奈良県立図書情報館
・「語りかけ 天平の嵐」①序
https://www.youtube.com/watch?v=WN-9PIzfdmI
*kyuhakuchannel
・九州国立博物館紹介
https://www.youtube.com/watch?v=cLB2aGulm00
*両槻会事務局
・私が好きな飛鳥
https://www.youtube.com/watch?v=df5Sx6fc4jM
*umemaeSakiko
・飛鳥古寺手帖
https://www.youtube.com/playlist?list=PLGhoeUWZeiMxv908eM_vyY2bA06Pt3acc
