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【ゆっくり解説】1945年の騎兵戦!300kmを突破し敵飛行場を制圧した老河口作戦で日本陸軍最後の騎兵旅団の活躍

こんにちはゆっくり霊夢ですこんにちは ゆっくり魔理沙だぜ今回は日中戦争の廊下 光作戦における日本軍騎兵部隊の活躍を 紹介していくぜ廊下光作戦が実施されたの は1945年3月のこと中国大陸の廊下校 にある連合軍飛行場の制圧を狙った作戦 だったこの戦いは正規軍同士の戦闘に おける最後の騎兵突撃による勝利と言われ ているぜ第2次対戦も終盤じゃない日本軍 ではこんな時期まで騎兵部隊が前線で戦っ ていたのね確かに戦車や自動車が当たり前 に使われるようになった第2次対戦で騎兵 部隊というと時代遅れの象徴みたいに思う かもしれないなだけどこの戦いで日本陸軍 の騎兵第4旅団が見せた活躍は日本陸軍 騎兵にとってだけでなく騎兵という陛下に とっても最後の栄光と呼べるものだったん だ ぜ対戦後半の中国戦線と大陸打通作戦廊下 光作戦を紹介していく前にまずは1945 年の中国戦線がどうなっていたかを見て いこうアメリカとの回線前から中国大陸で 日中戦争を戦っていた日本だが太平洋戦争 が起きるとその影は薄くなっていく歴史の 需要でも太平洋戦争回線後の中国大陸は ほとんど扱われなくなるわね日中戦争初期 には占領地を拡大していた日本軍だが太平 洋戦争勃発後は大規模な構成は控えられ 現状維持に努めるようになっていくその 日本軍が久々となる大行成を起こしたのが 1944年4月から実施された兵力50万 人作戦距離2400kmという日本陸軍 市場最大の構成大陸脱2作戦1号作戦だっ たぜ大陸脱2作戦は中国大陸にあった アメリカ軍航空部隊の飛行上制圧と南方へ の陸上交通路確保を目指した作戦ね戦争 後半になると中国大陸の基地を飛び立つ 米軍機による空襲が激しくなり南方から 日本本土への海上輸送ルートが脅かされる ようになるまた米軍が中国大陸に展開させ たB29による日本本土への空襲も懸念さ れた今後連合軍の航空機潜水艦による通称 破壊が激化し海上輸送路が壊滅した時の ため中国大陸の日本軍占領地域から東南 アジアへの陸上交通路を確保しておきたい という目敵もあったぜ敵航空戦力の脅威を 排除するのに航空戦ではなく地上部隊に よる非行上占領をしたいとしているのが 特徴的な作戦ね大陸脱2作戦は成功を納め 日本軍は各地の敵飛行場を制圧するととも に下北とカナを結ぶ重要な鉄道戦の確保に 成功する戦争後期における数少ない日本軍 の大勝利となったわねだが1944年6月 に裁判が陥落してマリアナ諸島が米軍の手 に落ちたため太平洋方面からのB29に

よる日本本土空襲が可能になってしまう 勝利はしたものの全体的に見るとあまり 意味のない作戦になってしまったのね さらに中国大陸でも連合軍はより奥の飛行 場へと移動し日本軍が確保した鉄道への 空襲を行うようになったこのためせっかく 手に入れた鉄道線も機能不全を起こすよう になってしまうこれを放っておくわけには いかないわねそこで日本軍では翌1945 年にもう1度大陸脱2作戦の焼き直しと 言える非行上制圧作戦を計画する今度の 目標は湖北省北部の廊下校及びコナ省西武 の思考だこの頃中国における航空戦力は 連合軍約戦機に対して日本は約150機の 劣勢だから今度の作戦も地上部隊が進撃し て的の非行場を制圧していく形になった このうち廊下高飛行場の占領を目的にした のが1945年3月から実施された廊下工 作戦だったぜ思考飛行場については 1945年4月から思考作戦が行われて いるわねこの廊下校作戦に投入されたのが 日本陸軍最後の騎兵旅団である騎兵第4 旅団だっ た日本陸軍最後の騎兵旅団騎兵第4旅団 騎兵第4余談は日路戦争後の1909年 明治42年4月に創設された余談で愛知県 豊橋市に平を置いていた歴史と伝統ある 部隊なのね有人となったのは1932年 からの満州事変への派兵で熱火作戦では 毛布武器の中を進撃し余談単独での熱火賞 の幼少石豊場の迅速な制圧を実現する先行 を挙げ賞賛を受けた1933年に騎兵集団 が設立されると騎兵第1旅団と共に主力と なりさらにその後兵第4連隊や機関獣中 速射法中隊戦車中隊などが加わっていく 騎兵を中心とした処平下連合部隊へと発展 していったのね1938年からは下北安立 作戦上等作戦中原回線などで戦歴を重ね 中国戦線で戦い続けてきた部隊だったただ この頃になると戦車党の発達によって陸軍 の機械化気候化が世界的な潮流となって いく騎兵は時代に合わない陛下として アメリカイギリスフランスソ連などでも 廃止されていく流れにあったこの動きは 日本でも変わらなかったわね1942年に は騎兵集団が廃止され代わりに戦車第3士 団が創設されているしかし騎兵第4旅団は 一部の連帯や戦車中隊を戦車手段へ移管し たものの予断自体は純粋な上馬部隊として 存続これには当時日本陸軍が展開していた 中国戦線という地形の特殊性も影響してい た特殊性と言うと土地が広いのと整備され た道路がほとんどないところだな騎兵第4 旅団は大陸脱2作戦にも参加しているが第 3戦車手段の戦車が中国のアロで長距離

神軍中の故障車両に悩まされたのに対し 騎兵第4旅団は落葉からロシまで 150kmに及ぶ追撃を成功させたアロの 多い中国大陸だと騎兵部隊が気候部隊と 同じかそれ以上の機動力を発揮する場面も あったのね騎兵というと県時代遅れにも 思えるけど日本軍が騎兵第4余談を残した のは中国戦線だと一定の価値を持っていた からってこか廊下校作戦時の騎兵第4余談 は騎兵第25連隊騎兵第26連隊兵第4 連隊を保有し日本陸軍唯一の騎兵余談に なっていたぜだが当時連隊の軍馬は平均 年齢15歳多くの馬たちが人間なら老人と 言われる年齢だ平治なら軍の規定で廃除と なっているところだけれど騎兵部隊は廃止 の流れにあったため新しい馬の補充はなく 恒例の馬でも使われ続けていたさらに小平 の方も騎兵の新規採用はなくなっており ベテランではあるものの平均年齢の高い 兵士が多数を占めているそんなスれ行く 運命にあった騎兵部隊にとって最後の花道 となったのが廊下光作戦だったんだ ぜ敵飛行場を制圧せよ廊下光作戦初めに 廊下高作戦の簡単な流れについて説明する ぜ廊下高作戦に投入されたのは内山栄太郎 中上引き第12軍そして作戦の最終目標だ がこれはもちろん廊下公費工場の占領だ しかし日本軍が動けば中国軍は正安方面 から増援を送ってくることが予想された そこで第110士段と第117士団の一部 が敵の増援ルートを遮断することになって いたさらに第3戦車手段及び第110士団 主力が敵第5野線軍の根拠地である内容を 攻略するそして最も重要な廊下光飛行場を 任されていたのが藤田茂少々引き騎兵第4 旅団だった作戦の主役である飛行上占領を 任されるんだからそれだけ大陸脱2作戦や 中国戦線でのこれまでの活躍が評価されて いたってことね騎兵第4余談は第115士 団の一部と南から北上してくる第34軍の 第39士団から援護を受けられることに なっていたぜまた非行場の確保には迅速な 神軍が求められており騎兵余談では神軍中 なるべく敵との戦闘を避けることにしてい たがそれでも大部隊が敵地の内容まで進行 して非行場を占領するのは簡単ではないと 見られていたそのため日本軍では50から 100人からなる小人数の定信小部隊を 多数編成これを浸透させて飛行上攻撃を 行う計画を持っていたぜ万一余談の進撃が うまくいかなかった場合は停止部隊の出番 というわけね敵の妨害で飛行上の占領が 難しい場合には少数の停止切り込み隊を 派遣して破壊工作だけでも行うつもりだっ たぜ実際には連帯規模での進撃がうまく

いったため非行上攻撃で停止部隊による 切り込みは行われていないただ後に中国軍 司令部への攻撃のため騎兵第26連帯の桜 元彦隊を中心とする桜井停止隊が編成され ているこれについては後で説明するわね 夜間皇軍30000km騎兵旅団廊下公営 作戦開始に先立ち女男へ集結していた騎兵 第4旅団は1945年3月20日約 300km先にある廊下校を目指し精神を 開始青空権は敵の手にあったため基本的に 余談が皇軍するのは夜間のみ昼は集落など に身を隠し日が落ちると皇軍を開始する 行動が大きく制限されたな中での進撃だっ たのね行手には多くの中国軍部隊も存在し ており敵の警戒線に遭遇した場合は迂回を 泳ぎなくされる場面もあった敵が青空権を 握っているためいつ空からの攻撃を受ける かも分からない昼間も敵の空襲を警戒して 安眠できず睡眠不足のため舞台からはぐれ たり迷ったりするものも出ていたという さらに廊下校までの進路場には東が白がと いう日本の河川が行手を阻んでいるこらも 川幅は100から200mで水深は1から 2mほど両眼の多くが段階になっていて 渡りにくい上雨が降るとすぐに氾濫を 起こしたり水深が増したりすることがあっ た他の場所でも雨によって丁寧や氾濫が 起きていたりするなど余談には様々な問題 が降りかかっていたぜ決して楽な皇軍では なかったのねただ中国軍とは小規模な戦闘 があったのみでほとんど抵抗は受けなかっ たこれには訳があってこの時旅団は神軍中 も日勝期などを掲げておらず現地住民や敵 の保証に対しては我々は製造騎兵第7市で あると名乗っていたぜ製造というのは チベットのことね追加された場合も製造 騎兵第7市を名乗ればすぐに通ってよしと の答えが返ってきたという皇軍中は中国軍 部隊の振りをしていたのねでも軍服とかは 日本軍だしバレたりしなかったのこの地域 の人々はこれまで日本軍を見たがなかった ので怪しまれなかったそうだだから妙な なりの中国語を話しているのかと返って 納得されたりもしたらしい集落に入った際 には保安隊から経営を受けたり宿営して いると中国兵や保安隊員が遊びに来ること もあったという全く疑われていなかったの ねまた日本軍では敵の保証や現地住民への 対応に当たらせるため中国軍捕虜から優秀 な症候貸観を選抜した和雲部隊と呼ばれる 部隊を編成していたさらに敵の電話線を 盗聴していて会話も筒抜けだったというぜ うまく敵を欺けたのもスムーズに皇軍が 進んだ理由の1つみたいね新軍中の日本軍 を最も苦しめたのは敵よりも自然の方だ

特に出発から5日後の3月25日余談が 到達した 関水スポーツ のために増水していたがなんとか騎兵の 渡れそうな浅瀬を見つけ午前3時頃から とかが開始された白がの流れは早く雪どけ 水を多く含んだ川の水は冷たい闇の中戦機 を超える騎兵たちが2列渋滞を形成し 水しぶきと共に進んでいく完全武装の大 部隊が敵の勢力喧嘩で大がを溶かするのは 大きな緊張が伴ったもしどこかに敵が潜ん でいて川を渡っている途中で攻撃されれば 大損害を受けるものね幸い大きな問題が 起きることもなく約30分でとかは完了 この時兵部隊のとかには時間がかかると 判断した旅団司令部は先に騎兵のみで廊下 校を目指す決定を下したなお後から白がを 渡った騎兵連隊では遅れを取り戻すため 白柱とかを観光したところとか準備中に 敵機の攻撃を受け連隊長が重傷を多い福間 以下多数の支障者を出す被害を出している 騎兵部隊が無事だったのは夜中に川を渡っ たのも大きかったのねまた戦車第3士団は 川岸の崖のためにとかが南光歩兵第115 士団も神軍が遅れていたためこの先は騎兵 第4旅団のみ廊下校へ先行することとなっ たぜそして26日午後6時廊下校へ向けて 最後の新軍が始まる小平ははか東の公共 廃止調理に別れを告げると恩師の酒を組み かわした前進め騎兵特有の長長子の号令が 周囲にこだまし余談前期が一眼ととなって 廊下校への道を失踪する中には全員が白 八巻をつけた中隊もあった本来廊下校飛行 場への攻撃は28日未明が予定されており あらかじめ目標付近に潜入し給養と情報 収集を行った上で27日の夜から行動を 起こすことになっていたしかし出発前に 中国軍は早朝よりすでに廊下校から撤退を 始めておりさらに飛行場にはまだ重数機の 敵機が中期しているとの情報がが入ってき たそのため余談では今夜中に廊下光飛行場 へ到達し攻撃をかけることを決定する うまくいけば敵機も路角できるかもしれ ないわでも休んでいる余裕もなくなった から兵士にとっては大変ねほを伸ばせ馬上 で握り飯を食えこの道は1本道まっすぐ西 が廊下高だ遅れたものは銃声のする方向へ 追従せよ鞭を上げ掛にかけるその様子は まさに陣馬一体長生平成中こんなに馬を 酷使した突進は初めてであったとの階層も あるほどだ演習に流す汗は戦場に流す地に 反ピレするの言葉のも猛訓練に開けくれた その本領を遺憾なく発揮する隊列の後方 からは歩道を縮めろの声も聞こえてくるが 舞台は決してスピードを緩めようとはし

なかった中には途中で倒れる馬も出たが 帰り見る余裕はない全身ただ全身あるのみ もう1時間も立てば陣馬ともに倒れる運命 だ遅かれ早かれの運命かわいそうだが護者 には目をくれるな小平はまるで1つの日の 玉になったようにひたすら駆にかけた そして27日夜明け前ついに廊下光飛行場 へと到達 する廊下高飛行場の戦い廊下光飛行場は 廊下高市街の東側に南北に広がる飛行場で 北は高架県城東は津山に面している余談は 第25連隊と第26連体にわか北と南の2 方向から進撃東の山方面から飛行場を攻撃 することになったのが第26連帯だった はか遠方では火の手が上がり銃声法制が 聞こえてくるどうやら効果権上に向かった 第25連隊は敵と戦闘に突入している らしい敵は逃げたという話だったけれど どうやら情報が間違っていたらしい中国軍 は山に陣地を築き連帯に攻撃をかけてくる これを排除しなければ飛行場の占領はでき ない前線へと駆けつけた旅団長の藤田茂 少々が26マ山と大音声で命令を出し連隊 長山下彦兵大佐が承知と答える山下大佐は 後ろを振り返ると第2中隊長桜井元彦隊に 向け2中隊幕山と告げる騎兵の伝統精神に 乗っ取った短い命令伝達の後26連隊は第 2中隊を先方に津山攻略を開始したここで 翔平ラは馬を降り徒歩線へと移行するあら 騎兵なのに馬に乗ったままでは戦わないの ね日本陸軍の騎兵は戦闘では下馬して徒歩 で戦うのが基本だったぜだから一般的な イメージの騎兵よりも機動力の高い歩兵と いった方がいいかもしれないなもちろん 騎兵突撃の訓練もしていたし敵と不に遭遇 した時や相手の異見をつきたい時なんかは 馬に乗ったまま戦闘に入る場合もあた しかもこの時は場所も山だから地形的にも 歩兵線の方が適してたわけだな騎兵が馬を 降りた場合戦闘する兵士と馬を連れて後方 へ下がる兵士に分かれる通常は4人中3人 が下馬戦闘兵で残り1人が馬をまとめるん だがこの時は8人中7人が戦闘兵になり 残り1人が馬をまとめるという異例の 7/8での戦闘になったぜ少しでも多くの 戦闘兵を出そうということかそれだけ本気 の戦いだったってことね夜明けと共に攻撃 が開始され6時10分頃には第1戦陣地を 占領敵は日本軍がこれほど早く来るとは 思っていなかったのか奇襲により混乱して いる様子だしかし夜明けと共に徐々に攻撃 が激しくなってくる日本軍は中国軍が津山 の至るところに豪を掘り銃座を設置して 作り上げた陣地を1つずつ攻略していく 戦闘中廊下光飛行場から脱出する最後の敵

の姿が見えたという午前8時頃には上空に 敵機が姿を見せ飛行場に着陸しようとする が地上の戦闘を察知し旋回して去っていく さらに午前9時頃には他の2が従来して 日本軍に爆撃を加えてきただが飛行場方面 からは敵が弾薬庫や軍需品の倉庫軍を爆破 する音が聞こえており日本軍は返って勢を づいていた午前10時頃先方の第2中隊は 津山の南西隊へと到達この時飛行場方面 から百戦の敵が逆襲をかけてきたが撃退し ている残るは津山の山頂陣地のみねだが 頂上へと続く道は一部くぼ地になっていて 中国軍が山頂から気重で攻撃してくるため なかなか全身できない普通に進んだのでは 期間銃の餌食になってしまうわねとそこへ どこから迷い込んだのか1匹の白犬がやっ てきた犬は山頂の方へと歩いていく中国軍 は相変わらず激しい重射を行っているが 弾丸は犬の頭上をかめていくのみで一発も 当たらないよしあれだそれを見た桜井対位 はすぐさま捕全身を開始する犬と同じ くらいまで姿勢を低くすれば四角に入って 上からの銃弾は当たらなくなるってわけか 俺に続けそのまま歩で山頂を目指すよし 突撃だ桜井大を戦闘に手榴弾を投げ込み つつ山頂陣地へ突入津山山頂を占領したの は3月27日午前11時のことだった眼科 には廊下光飛行場が広がっており延滞の中 にはP51戦闘機を死体として敵機約20 数機が点在している11時30分には北の ラマコチも占領真津山が落ちたことで飛行 場方面における敵の組織的戦闘は終わり約 4000の中国兵が飛行場を横切り廊下校 へと撤退していくのが見えたという生後 連帯が飛行場へ突入した時にはすでに敵の 姿ははなく路角した飛行機から車輪を外し 飛べないようにする廊下光飛行場近辺には 燃料や爆弾弾薬資材などがのみで大量の 物資が残されていたという中国軍も全てを 処分して逃げる余裕がなかったのねけれど これを見ると改めて相手の物量を 思い知らされるわこうして騎兵第26連隊 は廊下光作戦の第一目標だった廊下光飛行 場占領を達成した桜対は階層の中で廊下校 飛行場の占領日を我が騎兵第26連帯市場 裁量の日と述べているぜ午後1時には廊下 光市街の北門を攻撃中だった騎兵第25 連隊との連絡にも成功しかしこの後25 連隊に協力して攻撃に当たった廊下工場で は思いもかけない苦戦が待ち構えていた 騎兵第25連隊廊下工場の首頭今度はもう 1つの騎兵連隊である第25連隊の戦いを 見て行くぜ時間は少し戻って第26連隊の 廊下光飛行場占領前騎兵第26連隊が南 から幕山を占領したのに対して騎兵第25

連隊は北から廊下港の町へ向けて進撃して いたさらに3月26日の夜には避難してき た中国住民の証言により廊下校の敵は寒水 を渡って退却しつつあるとの情報が入る これが本当なら廊下校を一気に占領する チャンスなんだけどまさかか廊下校を 素通りすることになるとはと片し送った 25連帯だったが廊下校まで行けば久し ぶりの休息が取れると新軍和が全行をいい たしかし3月27日午前4時過ぎ高架県場 に差し掛かったところ突如白から発行信号 を打ち上げるのが見えた高架権上は廊下 高飛工場の北端に接する町で隣接する廊下 光とは1つの上司と見なされていた事前 情報によると中国軍は逃げているはずだ から敵はゲリラや自警団だろう連帯は城壁 の約300m手前で下馬し戦闘準備に入っ た手羽兵が素早く馬をまとめて後方に 下がる付近の麦畑に身を隠しながら効果 権上へ接近200m150m敵はまだ動か ないやがて50mまで近づいた時場内から 射撃が開始された突撃の命令ととに小平は ドベを登って場内へ突入周囲20性が 飛び交う中敵との白兵線に入る実際に戦っ てみるとゲリラや民兵だと思っていた相手 は中国軍の正規兵だこっちでも中国軍が 逃げ出したという話は間違いだったのね 一時は舞台の凶悪も困難な乱戦となった ものの北門から突入した連隊は正門へと 達しやがて効果権上を占領した25連隊は そのまま逃走する中国軍を追って廊下工場 へと進撃北門から場内への突入を図った しかし廊下工場内には約1個市販に及ぶ 中国軍が立てこもっており容易に突破を 許さない高さ107mの城壁に設けられた 銃眼や家の屋上などから銃火や迫撃法を 打ってくる白の守りは剣で連帯は日没まで 攻撃を行い野州まで血行したもののついに 場内へ突入することはできなかった無血 占領できると思っていたのに予想外の苦戦 を強いられることになったのねそこで26 連帯と遅れていた兵連隊を加え3月30日 午前6時に最攻撃を実施北からは兵の支援 を受けた25連体南からは26連体が攻撃 をかけるしかしここでも敵の定行は頑強で 26連隊は城壁に到達することさえでき ない中国軍は寒水の正眼にも加法を配置し 盛んな攻撃を加えてきた一方の25連体は 北門を突破し場内へ突入できたものの内部 には多数の中国兵がいたためそれ以上の 全身は困難だった場内では白兵線となり 部下の掌握も難しい乱戦状態で多数の戦士 者を出しているなんとか北門付近の状態に 共闘補を築いて体制を整え突撃を繰り返す が支障者は国国と増加午後4時頃城壁に

陣取った中国軍が大規模な反撃に出る迫撃 法に加え省油団を落としてくるため日本軍 は民家を占領ししても焼けだされ敵だけで なく炎にも追われることになった小隊長中 隊長クラスの戦士も継ぎ貸館からも多くの 戦士者を出している午後時旅団から退却 命令が出された時連隊長吉澤末と佐は機密 暗号書類を償却し舞台の戦闘に立って突撃 するための準備中だった味方の戦士者が あまりにも多かったため全てを回収する ことができず第25連隊では遺体の小指を 切り取り指名をて持ち帰るよう命じられた これがこの日廊下工場内で出された最後の 命令だったというぜ結局騎兵旅団による 攻撃では中国軍が立てこもる廊下工場を 落とすことはできなかった城壁に囲まれた 中国の町って一種の要塞だから本格的に 抵抗されると実質的には歩兵である騎兵 旅団のみで占領するのは難しいわね敵司令 部を襲撃せよ桜井天神隊の戦いここからは 津山攻略戦でも活躍した騎兵第26連帯の 桜井元彦対引きい停止切り込み隊の戦いを 見ていくぜ廊下工場への攻撃が行われる 前日の3月29日余談は金手から準備して いた小人数の停神体を派遣し関水の西約 160kmに位置する総点へと交代してい た中国軍第5戦区軍の総司令部に奇襲攻撃 をかけるよう命令を出した廊下光飛行場 攻撃では騎兵旅団の軍が成功したために 出番がなかった低神体をここで使おうと いうわけねこの時まだ廊下工場は落ちて おらず場合によっては敵が寒水を超えて 逆襲をかけてくる恐れもあったそこで万一 に備えて敵司令部を混乱させ味方部隊が 到着するまでの時間を稼ごうというのが この作戦の目的だったぜ停止切り込み隊の 体調を務めるのはマ山の戦いで先兵中隊の 指揮官としても活躍した騎兵第26連隊第 2中隊長の桜井元彦た桜井タは日路戦争の 花形秋山騎兵集団で活躍した長沼天神隊の 第2中隊長麻野太郎査を母方の王子に持っ ている出発に先立ち旅団町の藤田少々から は王子の名誉を引き継げと激励されたと いう停身切り込み隊は道案内県通訳の 中国人4人を含む22名から構成され全員 が中国軍の軍服を着用武器も路角した中国 軍の超獣や手榴団モーゼル拳銃などを装備 し馬は現地で捕獲した馬を使用しており 群島も青流党風に外装外見を完全に中国軍 に偽装していた桜井大は廊下校守備隊の 参謀利行領勝作と名乗り部隊全員が事前に 中国風の名前を用意していたところで敵の 軍服を切るってこれ大丈夫なの国際法上 問題になる可能性があるなただ中国戦線で は日両軍とも敵の軍服で行動するのは日常

左半時だったという話もあるぜ撤退する 中国兵に偽装した桜井部隊は3月30日 午後8時30分連隊長山下彦兵大佐から 軍事を受け別れの逆月を交わした後出発し た高架県場の東を北に向かい都下点となる 西炭鉱を目指し [音楽] 関水金属の集団と出会う彼らは桜井タイを 中国軍と信じ切っている様子で妥当日本人 と言って焼き鳥や焼き持ちなどたくさんの 食べ物を分けてくれた避難している人々の 中には効果権上の県庁もいたというその後 行く先々で避難民から妥と日本人の声を かけられながら明け方久地にある小さな村 へとたどり着くしかしこの村は今までと 様子が違い桜井タイがついた途端に警戒し ていた村人が空に向かって信号銃を打った かと思うと急に当たりが騒がしくなるなん だか不気味な雰囲気ねさらに金を払うから 馬と食料を分けてくれと言ってもなかなか 応じず逆に武器と馬をよせと言ってくる 交渉は南光しだだと彼らの様子が険悪に なるついには数を頼みに桜井タイから武器 を奪おうとしてきたどうやらここは卑属の 村のようだ村からの脱出を図ろうとする桜 部隊を武器を持った卑属たちが取り囲む3 月30日午前7時頃約2000人の卑属 たちとわずか22人の桜部隊との間で首頭 が開始される敵が2000人って大ピンチ じゃないどうやら近くにも同じような卑属 の村があって増援が集まってきたらしい馬 を離せ切り込み桜井大は下馬歩線による 切り込みで活路を開くよう命じるがこの時 中国人通訳の1人が命令を無視1人馬に 乗って逃走しようとして集中射撃を浴び 戦死しているおじ気づいてしまったの かしら馬に乗った状態だと姿勢も高くなる からいい的になるだけなのに桜部隊は武器 を持ち敵中に切り込む卑属たちは近くの ものが切られて支障すると立ちまち パニックになりわめきながら逃げ出して いく初戦はただの盗賊だから大した敵では ないのねだが相手は約90倍の人数 どんどん次がやってくるからキがない桜井 部隊は貴族たちと戦闘しながら 関水金属を追った3名の兵士が味方の突破 を援護するため手榴弾で自爆さらに2名が 戦士桜井大も愛東関の孫が折れるまで戦っ ているなおも卑属集団から逃走を続ける桜 部隊は 関水金属すぐに中国人通訳を派遣して救援 を要請中国軍から迫撃法を打ち込まれた 卑属たちはついに撤退していったその後桜 部隊の兵士は通訳が連れてきた中国軍に傷 の手当てを受けたというまさか敵である

中国軍に助けてもらうことになるなんて 思いがけないところで偽中国軍になってい た効果が現れたのねさらに中国人通訳の 聞き込みにより桜大は敵司令部がすでに 争点を離れ中継北東の航空基地安行へと 撤退したことを知る残念攻撃目標の司令部 はいなくなってしまったのねとはいえ桜井 部隊もさっきまでの戦闘で弾薬をほとんど 打ち尽くしてしまった上に負傷者まで出て いてとても作戦を継続できる状態じゃ なかったぜとにかくこれでもう停止作戦の 意味はなくなったわけね3月30日午後2 時頃中国軍と別れた桜井部隊は西へ向かう 彼らと逆方向へ進み有国方の戦線へと帰還 日本軍でも桜井部隊が出発した翌日敵の 司令部が交代したという情報を掴んでおり 停身隊を無地にさせてしまったと思ってい たところで桜井大は藤田団長からよく帰っ たと涙を流して迎えられたというこうして 桜井部隊による停止作戦は失敗に終わり 廊下工場も騎兵旅団による攻撃だけで陥落 させることはできなかった4月1日に歩兵 115師団が到着し旅団ととに攻撃を実施 するがそれでも廊下工場は落ちない ようやく陥落したのは4月8日に戦車第3 士団の支援を受けてからだったぜまた廊下 光作戦は成功したもののもう1つの思考 飛行場を目標にした思考作戦は失敗に 終わっている連合軍は思考飛行場から空襲 を続けられたから廊下校作戦の勝利が持つ 価値も限定的になってしまったわねただ これは日本軍全体の作戦や戦略に関わる話 だだから余談だけでどうにかできる問題 じゃないな騎兵第4旅団はこの後中国大陸 で終戦を迎える終戦後は中国軍によって 武装解除されているんだがここで面白い 偶然があった騎兵第4旅団の武装解除に 当たった部隊があの製造騎兵第7市だった んだぜさらに騎兵第4旅団はこの部隊の 訓練も担当することになり桜井大も製造 騎兵第7四カブラの馬術や戦闘の指導を 行ったという廊下工作戦の時名前を名乗っ ていた部隊の訓練をすることになるなんて 不思議な偶然 ね世界最後の騎兵の戦いこうして廊下高 作戦における騎兵第4余談は作戦の主目標 であった非行上占領を単独で成し遂げた その功績を評価され後日大12に軍司令官 より感情も授与されているぜ軍事評論家 伊藤正典氏はその著作帝国陸軍の最後決戦 編の中で廊下工作戦における騎兵第4旅団 を世界騎兵戦の最後の戦闘を見事に演出し て世界戦士にその名をとめることになった と絶賛しているけれど余談だけで廊下光 市街の占領はできなかったし全てがうまく

いったわけではなかったわねそれにこれ まで話してきたように実際の戦闘では ほとんど馬から降り歩兵として戦っている 世界最後の騎兵突撃と呼ばれることもある 廊下光作戦だが戦闘の大部分では上場突撃 は行っていないなので騎兵突撃という呼び 方は少し違うかもしれないなほとんど馬 から降りて戦っているしこれが世界最後の 騎兵の戦いと言ってもいまいピンと来ない かもしれないわねけれどそれでも廊下光 作戦は紛れもなく世界最後の騎兵の戦いと 呼べるものだったと思うぜこの戦いで騎兵 第4旅団は騎兵が持つ最大の強みを生かし て作戦を成功させている最大の強みそれは 騎兵の持つ機動力だ廊下光作戦で騎兵第4 旅団は7日で敵中300kmを破し第1の 目標であった廊下光飛行場への攻撃を成功 させているんだぜ1日平均40km以上の 進撃速度かしかも敵性空権化で夜間のみの 皇軍だったことを考えるとさらにすごい 回心撃ね馬を使った高い機動力は古来より 騎兵という兵種の大きな持ち味となって いる能力だこの点におい騎兵第4旅団は 中国大陸の特殊性を考慮して戦争終盤の この時期まで騎兵部隊を残していた日本 陸軍の期待にしっかり答えたと言える だろう騎兵第25連隊の吉澤連隊長も廊下 校作戦を表して騎兵戦闘の溶血とも言う べき軌道と吸収とは達成せられたと記して いる他の部隊の到着した時期を考えると3 月27日のタイミングで廊下光飛行場を 占領できたのは騎兵第4旅団だだけだった ものね騎兵第4旅団は騎兵の進化を発揮し 見事本作戦をやり遂げたと言えるだろう 帝国陸軍の最後では廊下校作戦について さらにこれが世界戦士における騎兵の最終 の戦闘であって藤田団は幸いに優等なる 成績を持って世界騎兵の終わりを全頭した ということができるもちろん軍から感情が 需要されたがそれよりも全世界から騎兵の 最高感情をもって叱るべき廊下校の記念の 一戦であったと記されている現代でも上場 部隊を保有している国はあるし地形的に 乗り物での移動が難しい山岳地帯なんかで 馬が使われるケースもあるだからこの先も 軍用動物としての馬が消滅することはない かもしれないけれどそれらは他の移動手段 の代替として馬を使っている場合が ほとんどだこの先騎兵が主役となって 300kmを突破し敵地を攻撃するような 大規模な作戦が実施されることはは おそらくないだろう現代なら馬以外にも 色々な手段があるものね騎兵がその進化で ある機動力を遺憾なく発揮し勝利した最後 の戦いである廊下光作戦は日本軍は

もちろん世界の騎兵の歴史にも最後の花道 を飾った世界最後の騎兵の戦いだったと 言えるだろう ぜ最後までご視聴いただきありがとう ございましたこのチャンネルでは第2次 対戦の戦士や兵器について解説していき ます今日のある方はぜひチャンネル登録を お願いしますこの動画がいいと思った方は 高評価もお願いするんだぜそれではまた次 の動画でお会いしましょう

今回は、世界最後の騎兵突撃と呼ばれる日中戦争の老河口作戦での騎兵第四旅団の戦いを紹介します。
1945年3月、日本陸軍は、中国大陸にある連合軍飛行場の空襲を防止するため、老河口飛行場制圧を目的とした老河口作戦を発動しました。
老河口作戦は、前年に実施された大陸打通作戦と同様、地上部隊の進撃により敵飛行場の占領を目指した作戦です。ここで、老河口飛行場の制圧を任されたのが騎兵第四旅団でした。
1945年という時期を考えると時代遅れにも見える騎兵部隊ですが、日本陸軍では、中国大陸の戦場の特殊性から戦争末期になるまで騎兵旅団を残していたのです。しかし、騎兵部隊は全般的に廃止の流れに進んでおり、この頃、騎兵第四旅団は、日本陸軍唯一の騎兵旅団になっていました。
老河口作戦で第四騎兵旅団は、長躯300キロを進撃して老河口飛行場の制圧を目指します。
日本陸軍最後の騎兵旅団が活躍した老河口作戦とは、どのような戦いだったのでしょうか。

●注意事項
・動画作成者は東方に詳しくないため、魔理沙と霊夢の口調がおかしい場合があります。
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・使用している画像等はキャプションがないものについては、時期や所属部隊、兵器の型式などを考慮しておらず、動画内容と無関係のものやイメージ画像・映像などが含まれます。
・当チャンネルの動画には、特定の国や組織、個人を貶める意図はありません。

●主要参考文献
「老河口の戦い 長躯300km!日本騎兵最後の突撃」青木基行 歴史群像2001年8月
「日本騎兵史」佐久間亮三 平井卯輔編 原書房 1970年
「騎兵第二十六聯隊史」足立清一編 騎兵第二十六聯隊会 1969年
「騎兵第二十五聯隊史碑」25K会
「騎兵第四旅団 老河口作戦に完勝す」桜井元彦 丸別冊第12号『不敗の戦場(中国大陸戦記)』潮書房 1989年
「栄光なき敗者の栄光第59回 騎兵の掉尾を飾る老河口作戦」松田孝宏 ミリタリークラシックスVol.62
「帝国陸軍の最後2 決戦編」伊藤正徳 光人社NF文庫 1998年
「戦史叢書第042巻 昭和二十年の支那派遣軍<1>二月まで」
「山下彦平大佐回想」

●音楽
魔王魂様、甘茶の音楽工房様

#ゆっくり解説#第二次大戦#太平洋戦争#日中戦争#日本陸軍#騎兵

18 Comments

  1. もぅ二度と出来ない作戦
    大日本帝国陸軍の最後の誇りとも言えるのでは?部隊としての騎兵の運用
    世界中の陸軍の教範に載せられても
    おかしくないのでは?

  2. 戦国時代の武田騎馬軍団も、実際は乗馬歩兵だったと言われますね。
    低インフラ地帯の機動には現在でも威力を・・・さすがに無理か。

  3. 20年くらい前に古本で買った雑誌「丸」に、この作戦の行軍記が載っていて面白く読んだ記憶があります。

    この動画で忘れかけてた記憶が蘇りました😅
    この部隊の行軍譚はなんとなくワクワクするんですよね。

    終戦後、偽装するために名乗ってた部隊の訓練を担当する事なんか、本当に戦場での奇妙な縁みたいなものを感じます。

    なにかしら「持って」いた部隊だったんでしょうね。

    動画ありがとうございました。

  4. 日露戦争の 秋山がコサック騎兵に勝ったと言うが、騎兵の戦いでは無かったと思います。

  5. 17:00頃に解説されている、騎兵隊の戦闘の方法ですが、戦国時代も実は、同じような戦い方だったようです。宣教師のルイスフロイスが伝えています。武将は馬から下りて戦った。それは、日本の習わしだったとの旨を記しています。騎兵の戦い方は、後年の私たちのイメージが偏りすぎているのではないかと思います。馬に乗っているから騎兵。徒歩で戦っているから歩兵。後世まで残された絵や写真という画像のその部分だけを見たものを頼りに理解しています。しかし、その連続性を見る必要があり、馬から下りて戦っている事の方が実は多いのであって、乗馬しながらの戦いは、状況による一つの方法という事ではないでしょうか。

  6. この戦いはウィキペディアで知ったのですが、詳しい経過を知りたいと思っていました。偶然、この動画に出会い、視聴したところ、感動しました。私の祖父は騎兵の下士官でしたし、思い入れもあって、思わず落涙しました。

  7. 騎兵は下馬して戦う、というのは新知識でした。目からウロコ。
    ところで、大陸打通作戦のような事がこの時期に出来るなら、対米開戦などせずに対中一正面に注力すれば良かったのではないかなあ???

  8. 敵の軍服を着て、偽の軍を名乗って敵を欺くというのは近代の戦時国際法では許されない行為に思えますが、軍閥時代から抗日戦争期の中国史においては「春秋」や「三国志」に描かれる軍師の計略のように思えてかえって味わい深いですね。我が帝国陸軍も中国史におけるこの群雄相争う時代の一勢力であったと考えると更に。

  9. 中国史好きに言わせると、騎兵は中国大陸のような地形が厳しい場所では軽いし生き物だから足の踏み場は馬が考えて踏むし、車両よりも山岳地やクリーク、寒冷地では有効だと確信しています。そもそも馬の出身地はモンゴルなどさっむい地域ですし、日本馬は山岳地帯が生息地なんですよ。日本軍のことを語る時、中国大陸の地形や中国大陸の地勢地史、気候を無視しているようにも感じます。全てのゆっくりミリタリー動画においてです。当時の機械は現代よりも貧弱でした。だからこの動画は珍しいかなって。

  10. 大陸で戦車の故障が多かったのは、エアフィルターが金網で用をなさなかったため。整備兵は航空エンジンのエアフィルターを戦車に転用していた。

  11. てっきり騎乗で敵飛行場に突撃して占領したのかと思っていたら全然違った。
    下馬戦闘を専らとする騎兵を竜騎兵とも呼ぶので、実質的に日本の騎兵は竜騎兵だったと。
    もっとも明治の建軍時には騎兵そのものの斜陽化が始まっていたわけですね。それでも派手で格好良くて目立つ(女性にモテる)華形兵科だったので士官学校の一番人気だったそうですが😊
    戦前はオリンピックの馬術競技の選手は殆どが騎兵将校だったし、戦後もオリンピック大会の最終種目は閉会式の前にメインスタジアムで行われる馬術の大章典障害飛越だったんですけど、今はマラソンですしね。
    騎馬そのものが時代遅れになっていってるんでしょうね。

  12. 大戦中でも米軍だと、部隊名だけは騎兵科部隊と言う名の戦車部隊が暫く存在したって聞いた事がある様な。
    後は、モンゴルの様な中小国では騎兵は暫く現役だったはず。

  13. インパール作戦を押し進めた愚将が
    この作戦を利用したのは間違いない
    馬鹿は己の実力を吟味するのが下手
    上司も同類なら最悪ですネェ!
    若手の有能な佐官・尉官クラスが大戦初期から戦死していたのが痛恨の極み
    絶対彼らが生存していたら多くの日本兵士は大量戦死は無くなっていますよ

  14. 7:35 内山英太郎…どっかで聞いたことあるなと思ったら日露戦争の鴨緑江軍参謀長、内山小二郎(砲兵少将)の長男だね(内山家は色々と家庭事情が…竹げふんげふん…小二郎の兄、定悟の養子になってる)
    日露のときも騎兵の運用が上手く出来なかった(日本が貧乏だったからなぁ…)ことが昭和にも影響していたのかなぁ。

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