秀吉の正室・北政所の見どころ+北政所と淀殿の関係に纏わる怖すぎる逸話とは?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第37回)
[音楽] 皆さん [音楽] こんにちは中西百です今回も偉人敗北から の教訓の収録の後に放送の中でご紹介でき なかったこぼれ話を紹介していきます 引き続き歴史作家の伊藤じ先生とお送りし ていきますよろしくお願いしますよろしく お願いしますさあ今回のテーマは こちら北の満所編でしたま の妻でとかねとかまねそういう呼び名でも 親しまれている人ですけれどもま私は正直 あのねね派だったんですよねねねていう 呼び方をに親しんでいたんですけれども これあのどっちかが完全な間違いとかでは ないんですよねまあそうですねもうただ今 どちらかというとおという呼び方がですね え正しいんじゃないかって言われてますよ ねそうですかえま元々この北の満所という この名前は名ではなくて家の質の呼び名な んですねえですからまずここがえオの本当 の名前じゃないっていうとこですよねえで これあの秀吉が転生13年え1585年に 内大臣に任命されてからですねえそれまで のオという名前から北の満所という風に 名前を呼び名が変わったわけですよねうん だから他の時代にも北の満所様はいたって いうことになるですうんそういうことに なりますねでま実際の名前はえオがえ 正しいんじゃないかっていうのは最近の 通説になってますよねはいでこれどういう ことかって言うと秀吉の手紙におどのって いう風に書いてあるのがあるわけですおっ てつけてんですねえで下のその根っていう 部分はちょっと難しい感じなんですけどね でねねっていう呼び方では文章はないわけ ですねですからオではないかっていうのが 8割から9割ぐらい定説になりつあるん ですねそうですかただあのこういった 呼び名ですからねねにはなんか可愛い イメージってありましたよねあそうです ええただあのオとなってくると逆に大人の 女性のイメージがついてくるっていことで まそういったこともえ微妙にですねあの 彼女のイメージということからですね彼女 の役割とか性格人間性にまでですねあの 影響があるんでないかなという風に思って ますねああ本編でもあの少し取り上げたん ですけどオと秀吉ってなんか恋愛結婚だっ た可能性もあると言いますか結構こうあの ね戦国時代に自由に結婚相手を選んだじゃ ないはい いうよう話もありましたけれもこれやっぱ 身分が低かったからこそできたことなん でしょうかねま言うなればそういうこと
ですよねある程度の身分の家でやはりあ 結婚っていうのは家同士な話し合いなん ですよオの方は木の出身でまこの木主って いうのは小竹の弓州ということでまあある 意味各級家臣の家柄だったんですねとこが 一方の秀吉というのは苗字もないわけです よあじゃあもうさらにそうです身分として はがないそうですよねでその時にちょっと 記録として残ってるのが木つまりまあオネ さんの実母が反対したんじゃないかって いう説がありましてねあ2人の結婚にです かえそのためにオはですね結婚前に朝野家 に幼女で入りえそしてそれから秀吉の元に 嫁いでったという経緯があるわけですね ああこの朝野家というのはうん朝野家って いうのはこの朝野家の投手である長勝と いう人の妻はオの実母の妹なんですねあと いうことはメイに当たるということですか いうことになりますよねはいそれで おそらくま実家の反対を押し切ってえ結婚 したかったんでもうしょうがないから 朝野家が引き取ったというそれでえ秀吉と えオは結ばれたんですねもしそれが本当だ としたら結構なんかパッション情熱的です よねすごいですねですからあの結婚式がえ どに2人が座って3列車もどに座って行わ れたっていうですはいああそうですかで ここで初めて秀吉はええま木下というせを の実家からもらったんですねそれで木下東 になです郎それまで苗字なしそっかその 木下はだからオの実家の苗字なんですね そういうことですねあそうですかという ことはま秀吉からしたらそんなま火九家臣 とはいえま武家のお嬢さんをお嫁さんに もらったということになりますよねえいや もうほんとすごいですよね過分な結婚だと 思うんですよね秀にとってはねうんそう ですよねでもこれもし2人が恋愛結婚だっ たんだとしたら なんかねどういうところを惹かれあったの かなというのもね気になりますけどこれは ちょっと本編でも少しお話してるので是非 見ていただければと思いますであのおは あの前田年えの奥さんなの松とも仲が 良かったっていう話を結構聞くんです けれどもこれ本当だっったんですかねええ 結構これは信憑性のある話でまあの当時 信長もまだ終わり一刻収めるか収めないか という頃だったんですけどね終わり浄化で え両家は家が近くてですね年齢も近いと いうことはいとでえ付き合いがあってです ねえまこれ伝承ですけどえ味噌や塩の かかりもしていたというぐらい仲良かった んですねなんか一昔前のご近所さんみたい ななんか感じですねえそうですねただ対象
的なことが1つだけありましてねはい秀吉 とオの間には子供ができなかったんです けど都家と都家の奥さんの松の間にはです ね2ナ5条できてるんですねああ2ナ5条 だか7人の子人もはう はねの女にも最終的にはなしたということ で非常に小に恵まれた人だったんです なるほどそれによって有効な婚姻政策が できたということで加が100万国はなっ たんじゃないかという風にも言われてるん ですねうんなるほどですから当時はやはり こうなすことが非常に大切だったんです じゃあちょっとオとしてはま少しこう複雑 なところもあったかもしれないですねそれ あのもし仲が良かったんだとしたらはい うんそういった複雑な心境があってもま 友情というかですね最後までずっと仲良く たって言われてますからあのそういった ものを乗り越えてったっていうのはやっぱ オの人間性でしょうねそうですねま実の子 には恵まれなかったオですけどもたくさん の容姿がいてはいましかもその容子たち から本当にお母さんのように慕われていた というエピソードがありますけれどもあの そもそもこの戦国時代の武の母っていうの は子供にどんな関り方してたうんちょっと 気になりまして基本的にはですねある程度 の身分以上のえ海の母というのはその子供 を育てる時にですねウバに預けてたんです あそうですよねウバが育てるというはいで 当然ウバですからね名前からしても父が出 ないと困るということでウバにも子供が別 にいたんですよねああなるほどそれが 男の子同士だとその父兄弟ということで 同じ父を飲んだということで実の兄弟以上 の絆ができたというああ血の繋がり以上に もうすごい絆ができてたんですねその色々 あるんですけど代表的なとこではですねあ 織田信長と池田常という人がいますよね はいでこの2人は知兄弟つまり織田信長の えま羽に池田池田常置のお母さんがついて たという形になるんですけどまただその 結束はどうかというと織田信長が生前には 非常に池田常というのは仲良かったんです けどその子供の台なんとねそれほど中絶 しってないっていうとか味そなんですけど まいろんな複雑な事情があるんですけどね ただそれだけやはりあの今の時代と違って 戦国時代の子育てえは全く違ってたという ことですねあそうですかじゃ実母と実の 子供のま関係性というのはなんか今とは 多分全然違う感じがするんですけどはい今 今よりはもう気迫でしたよねなんか距離を 感じますただ全くそのねやっぱ愛情が なかったとは言いにくいんでやっぱ多少の
ものはあったと思うし一さんみたいにね3 人の娘すごく可愛かった人もいますから やっぱ実母っていうのは人それぞれとは言 もんのやはり子供可愛かったと思いますよ ねですねどうでしょうオネさんの場合は その容姿がたくさんいたということです けれども彼らになんかどれぐらいのその近 さで接していたのかなと気になりますいや かなり近かったみたいですねまこれはもう 伝承ですけど本当にあの水場で手塚あの おにぎりよに握って加藤清松が福島正野に あげてたというらええあだからま最初その みんな偉くないんですよねだ本当にあの 庶民の家庭みたいな感じでから始まってる んではいあそっか色々そういう スキンシップであるとかですね真近感って いうのは格別のものがあったと思いますよ ねあまそれは確かにもう本当のお母さんの ように慕う気持ちも分かりますよねはいま 本編では子供同然に育ててきた豊美診断が バラバラになってしまったというところに 敗北の焦点は出ているんですけれども1番 どこに注目してみたらいいでしょうかはい 自分が輝ってきた若者たちが成長してえま え関ヶ原の戦いでですね武断派と分地派に 分かれて戦うわけですよねえ非常にそう いった意味で言えばオにとってその胸は いかばかりかということでえその苦カット っていうのは想像できないほどですねはい その辺りを是非本編で見ていただきたい ですねはいさ皆さんは北の満所オにどんな 印象お持ちでしょうか是非コメントもお 寄せいただければと思いますここで予告 VTRをご覧 くださいのを支え続けた北の所はが同然 にて家たの突をなぜ防げなかったの か多くの子の武将たち全部やとしてっ自分 の身を切られるような辛さがあったんでは ないでしょうかね歴史的失敗に学ぶ偉人 敗北からの教訓北の満所は2月10日 土曜日夜8時放送 です土曜夜8時放送です是非ご覧 くださいさて今回ここからは新コーナーを お届けしていきます題して本編を見る前に 偉人の節ですまこの番組では度々歴史の 新設を紹介していますが歴史初心者の方に とっては以前の定説も初めて聞いたという 場合もあるかと思います私も結構そういう パターンが多いんですけどもそこで新設が 出る以前の定説まつまり説をこぼれ話で 振り返って本編をより楽しむための備をし ていくというコーナーですそして今回伊藤 先生に語っていただく節が こちらオヨの舟が関ヶ原の原因説という ものですけれどもこれはどんな説なん
でしょうかはいこれ元は元々はですねま いわゆるあのオの出身地の尾張とヨドの 出身地の大美つまり尾張バと大江バの戦い だったという風に言われてるんですよねま 必ずしも大名たちが綺麗にそうい新地で 色分けできたわけではないんですけど大体 それぞれえ求心力のあるですねおふ様をえ 2人いるわけですからそれぞれの下にこう 集まってえそれがあまりにもひどくですね 分裂が進んでしまったがゆえにえ関ヶ原の 戦いが起こったというつまりまトヨ県の 分裂を刑罰争いに求めた説だったんですね うんなるほどこの説はどういう理由から出 てきたと思われますかはいまず女性の嫉妬 や刑罰争いというとですね分かりやすい ですよねうん多分そういったところから出 てきたんだと思うんですよねでそれを 裏付けるようなですね逸も作られていまし たね花って呼ばれる逸があるんですけどご 存知ですかあはいあちょっと知ってます あの黒ゆり のですねはいで当時ま越中の国を納めてい たさっさ成正という武将がいてえこの人が ですねまオの方のま競だったわけですけど あの立山という山ありますよね館山に自生 する黒ってのはい非常に珍しいのでそれを オに1人送ったんですよでこれ見て びっくりしてですねオはあこんなに珍しい もんだからえみんなに見せてあげようと いうことで即したちに見せてあげたんです ねでそれで驚くかと思ったらヨののは驚か なかったとふんていう感じでそして今度 ですねヨドが何日か後にですね花クという のを行行うんで皆さん集まってくださいと いう風に言ってですねえま北の満所もま鼻 よっていうことだったんで行ってみたん ですねそしたヨの行ったらですねえ手おき に無増さに何本ものえその黒が刺してあっ たんですそれ見てですねえおま北のマド から面目を失いえヨに恨みを抱いたという まそういう逸話なんですねえもし本当だと したら怖すぎますねちょっとええちょっと 怖いですよね黒ゆりというねちょっとそう いうえものもえそういった象徴ですしね なんかお互いのねええなんかちょっと ドロドロした感じがしますけどただこれは もう出展も定かでない逸話ですしあの全く 根拠のない話だと思いますうんなるほどま 確かにあのヨ殿のって多分オよりかなり 年下ですよね多分子供でもおかしくない ぐらいだからなんかま嫉妬とかそういうの じゃなくってもなんかなんなら娘でも おかしくないからうんむしろこうなんか 可愛がる対象だったのかななんていう風に 私思ってしまうんですけどうんそれこそヨ
殿にとってもちょっとお母さんみたいな 存在でもあったのかなていう気もするん ですけどねそうですねまそれほど気があっ たかどうかってのは分からないですけど やはりト県の存続という一点で両者は一致 していましたからえ最後まで連携してった わけですねうんなるほどちなみにこの説の 神憑性っていうのはどれくらいあると思わ れますかうんまこの黒いの逸はは全くない と思いますねえというのもその後実であの ひよが放送になった時にですね北の満所は ですね名を送ったりしてるですよああまた 双方ですね年始の挨拶や同等品は欠かさ なかったということで決定的なのはえ夏の 寺が始まってですねもうかなりえ大阪型 いわゆるトヨ県が追い詰められてきた時に 北の満所がですね京都から大阪にやってき て大阪城に入ろうとしてるんですねはい ああええつまりもう入ってしまえばあ一緒 に死ぬっということを意味するわけですよ ねその覚悟をしてたわけですねそうです うんですから最後まで2人は連携して向を 守ろうとしてたわけですね本編もオとヨの 関係性について伊藤先生にお話しいただき ますそちらも是非ご覧 ください偉人敗北からの教訓こぼれ話では 視聴者の皆様から伊藤先生の質問そして 番組へのメッセージも受け付けています どんなことでも大丈夫ですご覧の動画の コメント欄またはBS11の番組ホーム ページにて皆様のご意見ご質問お待ちして い ますそして偉人敗北からのの教訓は毎週 土曜夜8時全国無料テレビのPS11で 放送となります是非ご覧 くださいそしてYouTubeでお楽しみ いただける偉人敗北からの教訓こぼれ話も 合わせてご覧ください毎週火曜日配信です では是非高評価とチャンネル登録も よろしくお願いしますでは伊藤先生また 次回お会いし [音楽] ましょう til
BS11で放送中の歴史番組「偉人・敗北からの教訓」
番組収録後に、番組内でご紹介できなかったエピソードなどを歴史作家の伊東潤先生に語っていただく「偉人・敗北からの教訓・こぼれ噺」第37回目です。
今回は
2024年2月10日(土)夜8時放送、「北政所 編」の見どころと、
収録で話しきれなかったエピソードをご紹介。
秀吉の正室・北政所。
本当の呼び方は「おね」か「ねね」どちらだったのか?
この時代には珍しく秀吉と北政所は恋愛結婚だった!?
戦国時代の乳兄弟の絆とは?
新コーナー「本編を見る前に!偉人の旧説」では、
北政所と淀殿の関係に纏わる旧説や印象的な逸話を伊東先生に解説していただきます。
■出演
進行:中西悠理(キャスター)
解説:伊東潤(歴史作家)
▼TikTokでショートムービー公開中!
@bs11plus
▼BS11公式「歴史」関連動画をチェック!
■番組情報
全国無料放送BS11「偉人・敗北からの教訓」
📺毎週土曜日 よる8時00分~8時55分放送
【番組公式HP】https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/
【BS11 イレブン じゅういっちゃん公式X(旧Twitter)】https://twitter.com/jyuittyan_bs11?la
<番組詳細>
「敗北」「失敗」から、偉人の人物像に迫る!
毎回、偉人たちがおかした「歴史的な大失敗」から、その背景、要因、影響などを読み解き、
偉人の人物像を浮き彫りにするとともに、今を生きる私たちの教訓としていく新しい歴史バイオグラフィー。
【BS11+ 公式Instagram】
https://www.instagram.com/bs11plus
【BS11+ 公式X(旧Twitter)】
Tweets by bs11plus
#北政所 #豊臣秀吉 #淀殿 #織田信長 #鎌倉時代 #南北朝時代 #室町時代 #江戸時代 #安土桃山時代 #平安時代 #戦国時代 #戦国武将 #歴史 #日本史 #偉人 #英雄 #伊東潤 #中西悠理 #こぼれ噺 #BS11
23 Comments
おねさんの敗北は、秀吉の子供を産めなかったことかな?こればかりは現代医学でも難しいかもしれない。勝利をあげるならば加藤清正や福島正則、黒田長政など。様々な武将を育てあげたことかな?
早く平治の乱で平清盛に敗れた源義朝やれよ!!
藤吉郎と寧々にお子様が出来てたらまた違った世に!秀吉の最期おねの最期も変わってただろう🙂
おねの聖母のような魅力は、悠里ちゃんに通じるものがある❤
お寧が自身の子供を持っていたら、他の武将を育てたように立派に慈しんで育てただろうから、同じように慕われる母親になったと思います。
新コーナーの旧説を探る、は面白い試みですね。黒百合の話、いかにもドロドロした女の情念めいていて、昔の大奥系の時代劇にありそうな話ですね~😅よく出来すぎていて、かえって嘘と感じます。
おねさんは秀頼を徳川家の千姫と結婚させ、出家した後の院号「高台院」としても有名ですね。
秀吉の菩提寺「高台寺」の寺号由来となってますから
今年は北政所没後400年に当たりますね。高台寺の霊屋には北政所と秀吉の像が菩薩像の左右に並べて置かれていたのが今でも印象に残っています。
豊臣家のお家騒動ばっかりで、お腹いっぱいです。
何か特殊な事情でもあるのでしょうか?
同じ内容ばかりでイライラします。
他の話もみたいです。
他の家や人物や時代にも敗北からの教訓は、ありますので。
秀吉に、原因があり、北政所に、子供が出来なかった。秀頼は、秀吉の子供ではない。北政所は、全てを、理解して、家康に、天下を、任せる為に動いた。私は、そう思います。
おねさんと秀吉の関係が楽しみなので本編に期待してます
乳兄弟、こりゃ「ちきょうだい」と訓むんでっせ。ちょっと残念。
乳兄弟、ち「きょうだい」と訓じたかどうか、ちょっと自信ないけど。
またこの人は…。「おね」説が優勢とかそんな状況にはないですよ。
「お」をつけるのは敬称とかそういうルールによるもので、それでいくと名前は「ね」という事になってしまう。
この時代にひらがな一文字から成る女性名の事例はありません。
一方、鎌倉時代から「ねね」という名前は存在しており、その観点で行くと本名は「ねね」。
現代語的に言うと「ねねさん」というニュアンスで「おね」と文面では記載されていたと考える。
この建付けになっている「ねね」派があるけですが、これが少数派か?というとそんなことはありません。
藤吉郎とおねに子供が一人生まれたけど、すぐに死んじゃったとかの話もある
なんか、なるほど、確かにの頻度が多すぎる。
ねねと淀の仲が不仲であったという説はもう過去のものだと言っていいだろう。
ただ豊臣は一代限りとねねが思っていたのだとは思う。
中西悠里さん美人だなぁ。
今の今まで、大坂の陣で、おね様が大坂城に入ろうとしていたのを知りませんでした!
もし入城していたなら、もっと違う歴史になったかもしれないと、興味が尽きません。
淀殿は側室、かつ北政所より遥かに年下。
淀殿が自分の立場や年齢を弁えて北政所を尊敬し、素直だったら、関係性は異なっていたし、豊臣家の将来ももしかしたら違っていたのかもしれません。
でも淀殿の側は、どう考えても北政所に対して対抗意識を丸出しにしていて、敵対的だったようにしか見えない。
淀殿にしてみれば、秀康は伯父の臣下であり、両親の敵、わざと秀吉にこびて淀殿との間に溝を生じさせ、豊臣家を滅ぼすつもりだったのでは? 都すら思えてくる。
そう思うと、秀頼が秀吉の子ではなかった説も信憑性を帯びてくる。
また、大阪城落城、豊臣氏滅亡も、淀殿が北政所のみならず、家康らに対しても従順だったら、避けられたとも思える。
結構仲の良い夫婦が多い戦国武将たち。気質が合わないと厳しい戦国の世を全う
出来ない。
秀吉の行動気質変化で寧々さんとの関係も変化する。
はじめは一目惚れで結婚する。戦略脳をもち能力を見せつける秀吉に惚れた。
羽柴となり大出世のときは夫婦型で秀吉を支え大活躍した。
だが太閤となり光秀・義元型専制君主へと変貌で、寧々さんは注意人物に変わる。
代る茶々は変貌した秀吉と夫婦型。秀頼も生まれ権勢を振るうことになる。
寧々さんは立場を失う。
ただし寧々さんと秀頼・茶々との関係は一目惚れ型で権力を争う関係ではない。
二人のことを気にかけている。
寧々さんは戦国に生きてきた経験から、家康に臣従しなければ豊臣の存続は難しいと思っ
ているが、戦略脳の欠ける秀頼・茶々親子にその選択が出来ず、自ら滅亡の道を歩む。
寧々さんと同質の武将たち浅野長政・石田三成・福島正則・小早川秀秋・京極高次など。
三成を除き徳川へ。
その三成も関ヶ原で豊臣滅亡へのスイッチを押した。
寧々さんは「仕方がないわねー」と達観していたのでは。
おねは子供をうんだ淀殿に嫉妬していたのかもしれませんね。面白くない存在だったかもしれませんね。
後、、おねは石田三成と親密でした。
私も、キュウちゃんと同じで、「ねね」派で、覚えてました。
今回の新企画の「旧説」の解説のコーナーは、受験勉強だけに日本史を勉強した私にとっては、興味深いですので継続してくれるとありがたいです。
初耳のことばかりでした!!
いつもありがとうございます。本編が益々もって楽しみです。
しかし。相変わらずと言いますか、中西さん、もの知りですね。
黒百合事件?知らんかったです。